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海賊列伝　下巻　目次





15　ジョン・エヴァンズ船長と乗組員

16　ジョン・フィリップス船長と乗組員

17　スプリッグス船長と乗組員

18　ジョン・スミス船長と乗組員

19　フィリップ・ロシュ他の海賊行為、殺人その他の犯罪

20　ミッソン船長と乗組員

21　ジョン・ボーウェン船長

22　ウィリアム・キッド船長と乗組員

23　テュー船長と乗組員

24　ハルゼー船長と乗組員

25　トマス・ホワイト船長と乗組員

26　コンデント船長と乗組員

27　マガドクサ漂流記

28　ベラミー船長

29　ウィリアム・フライ船長と乗組員

30　トマス・ハワード船長と乗組員

31　ルイス船長と乗組員

32　コーネリアス船長と乗組員

33　デヴィッド・ウィリアムズ船長と乗組員

34　サミュエル・バージェス船長と乗組員

35　ナサニエル・ノース船長と乗組員

36　オーガー船長の海賊行為

37　プロヴィデンスにおける海賊裁判





海賊関係法律要旨

訳者あとがき





西インド諸島主要海賊出没海域略図





海賊列伝　下巻





（　）内の註は著者ジョンソン自身によるもの、〔　〕内は訳註もしくは翻訳に使用したテキストの編者アーサー・ヘイワードによるものである。それ以外の註は＊で示し、各章末に記した。





15　ジョン・エヴァンズ船長と乗組員





　ジョン・エヴァンズはウェールズ生まれの男で、以前はネヴィス島に所属するスループ船の船長だった。この職を失ってからしばらく航海士としてジャマイカ航路の船に乗り組んでいたが、給料は前より安く、港には失職した多くの船員があふれていた。このようなとき、たまたま三、四人の仲間と意気投合し、自分たちで冒険に乗り出そうということになった。一七二二年九月末、彼らは一隻のカヌーに乗り組んで、ジャマイカのポートロイヤルを漕ぎ出した。島の北端に到着すると、夜を待って上陸し、一、二軒の家に押し込んで、現金のほか、手に持てるものはすべて奪ってカヌーに戻った。

　最初の冒険としては大成功であったが、このような剽盗は彼らの楽しむところではなかった。彼らは海へ出たかった。しかし持っている船がカヌーでは、この壮大な計画も実行に移せなかった。それでも彼らは前途に希望を持ち、神が獲物の船を恵み給うことを期待して島を回った。二、三日してこの望みは達せられた。ダンズホールで、バーミューダの小型スループ船が投錨しているのを見つけると一味は大胆にも船に乗り込んだ。エヴァンズは船の乗組員に「俺がこの船の船長だ」と言った。乗組員らにとってこれは青天の霹へき靂れきだった。一味は船をうまく手中に収めると、気晴らしにある小さな村に上陸した。その日、彼らは旅篭はたご屋で愉快に過ごし、代金三ピストルを払って立ち去った。旅篭の人びとはこの陽気な客人に感服し、再度訪れてほしいと願った。この願いはすぐかなえられた。一味は夜中に全員上陸して旅篭を漁り、持てる物をすべて持ってスループ船に戻ったのである。

　翌日、一味は錨を揚げた。スループ船は四門の砲を備え、「スコアラー」号と命名された。船はヒスパニオラ島へ向かった。この島の北部で、一味はスペインのスループ船を獲物にした。この船は大金を積んでいた。一味は小人数だったから、分け前は一人百五十ポンド以上にもなった。

　さらに獲物を求めて、一味はウィンドワード諸島へ進出した。ポルトリコ沖で、ニューイングランドからジャマイカへ向かうダイヤモンド船長の「ドーヴ」号（百二十トン）に遭遇すると、これを掠奪し、また航海士のほか二、三人の乗員を仲間に加えて勢力の増強を計った。一味はこの船を釈放した後、水その他必需品を補給するため島のひとつに入港した。一味はこの島にしばらく逗留した。

　次に一味の餌食になったのは、二百トンの荷を積んだミルズ船長の「ルクレチア・アンド・キャサリン」号だった。一月十一日、デシーダ島付近で海賊船は獲物に接近した。船を捕らえると、一味は海賊の習慣に従い、捕虜の裁判を始めた。そして乗員に船長の人使いについて尋ねた。しかしこれを耳にしたエヴァンズは、「おまえらは改革者になろうってのか。俺たちが欲しいのはかねだけだ」と言ってこれを止めさせ、掠奪を開始した。彼は捕虜に、「おまえたちは十分に食わせてもらってるのか」と聞いた。皆満足していると答えると、「じゃ、船長はおまえたちをもっと働かせなきゃいかん」と言った。

　掠奪の後、一味は獲物の船を伴ってエイヴィス島という小島へ向かった。この島で「ルクレチア」号を使って「スコアラー」号を傾船修理するつもりだった。しかし、そこで一隻のスループ船を見つけた海賊は直ちに追跡に移った。夕刻、獲物を射程内に追いつめたが、船足の重い「ルクレチア」号と離れてしまうことを恐れ追跡を断念した。この追跡で一味は目的の港からはるか風下にきてしまった。そこでやむを得ず、別の退避場所を捜すことにした。一味はルビー〔アルバ〕島に向かい、この島に投錨した。翌日、まるで一味の口へ飛び込んできたかのようにオランダのスループ船が一隻入港してきた。海賊がこれを見逃がすはずもなく、たちまち捕捉した。そして戦利品を山分けすると、一人当り五十ポンドになった。

　このスループ船は甲板が低く、「ルクレチア」号より傾船修理の目的に適していた。そこで海賊は「ルクレチア」号を釈放し、代りにこのオランダ船を使って自分たちの船を修理することにした。しかしここで繋船しては発見される恐れもあると思いなおし、一味はジャマイカへ針路を向けた。ジャマイカ沖で砂糖運搬船を捕らえた後、船の修理をすべく、三十リーグ風下のグランドケイマン島へ向かった。だが、これまで順風満帆だった海賊一味に不運なできごとが起こった。そして彼らの海賊稼業に終止符が打たれたのである。

　海賊の甲板長は騒々しく不機嫌な男だった。エヴァンズは折につけ彼の行動を戒めたが、彼はこれを悪意にとり、口汚い言葉を返したばかりか、次に上陸したら海賊の習慣に従ってピストルと剣で結着をつけようと決闘を挑んだ。海賊船がグランドケイマン島へ到着すると、エヴァンズ船長は甲板長に決闘を申し入れた。しかしこの卑怯な男は、もともと自分で申し込んだことでありながら戦うことも上陸することも拒否した。こいつはどうしようもないと見たエヴァンズは、手にした棒で彼を激しく打った。しかし、甲板長はこの侮辱に我慢できず、やにわにピストルを引き抜き、船長の頭を撃ち抜いた。エヴァンズは即死した。甲板長は船べりから身を躍らせ、岸に向かって泳いだ。しかし数人の仲間がボートで彼を追い、船に連れ戻した。

　船長の横死に乗組員全員が憤慨した。彼らは、船長を殺した犯人を最も残酷な拷問で死刑にすることに決めた。しかし皆がその刑罰を考えている間に、興奮した砲手が甲板長の腹にピストルの弾を撃ち込んだ。彼はすぐには死ななかった。そして、自分の罪を悔いるため、あと一週間生き延びたいと、哀れっぽく言った。だが別の乗組員が彼に近づき、「懴悔して地獄に行きやがれ」と言いざま、止めの一発を発射した。

　一味は「ルクレチア・アンド・キャサリン」号を釈放した。彼らはこの船の航海士を引き留めていたが、今では航海術を知っているのはこの男だけになってしまったから、この男に死んだエヴァンズ船長に代って船の指揮をとるよう頼んだ。しかし彼はこの名誉を辞退した。結局、一味は仲間を解散し、船はこの航海士に譲ることにした。こうして三十人の海賊は九千ポンドのかねを持って、ケイマン島に上陸した。一方、航海士と一人の少年は、天候に恵まれて、ジャマイカのポートロイヤルへ到着したのである。





16　ジョン・フィリップス船長と乗組員





　ジョン・フィリップスは大工として育てられた。ウェストカントリーの船に乗り組んでニューファンドランドへ向かう途中、ブリガンティーン船「グッド・フォーチュン」号を指揮する海賊アンスティスに捕まった。アンスティスがロバーツ船長のもとを去った翌日のことであった。フィリップスはたちまち海賊の生活が気に入った。そして、生来敏捷だったからすぐ海賊船の大工に任ぜられた。このとき、彼自身まだそれほど大きな野心を抱いてはいなかった。彼は、トバゴで一味が解散するまで大工として働いた。その後、仲間とともに帰国したが、このとき使った船が、アンティス船長の章でも述べた、ブリストル海峡で沈めたスループ船だった。

　彼はイギリスに帰国したものの、長くは滞在しなかった。というのも、デヴォンシャーの友人を訪ねたところ、仲間の幾人かはすでに捕まり、ブリストルの監獄に送られたと聞いたからである。自分も同じ目に遭う危険は十分あったから、近くの港町トプシャムへ行き、そこからワドハム船長の指揮するニューファンドランド航路の船に乗った。彼は再び故国を目にすることを考えなかった。船がニューファンドランドのピーター〔ペティー〕港に到着すると、彼は脱走し、季節漁師の口を見つけた。しかしこれも、もともと企んでいた悪事を始めるまでの短い間だった。彼は数人の漁師仲間を誘い、港に碇泊している船を一隻盗んで海賊稼業に乗り出すことにした。一味は、一七二三年八月二十九日の真夜中に計画を実行に移すことに示し合わせた。しかし、最初仲間は十六人だったのが、約束の時刻に集まったのは五人しかいなかった。残りの連中は良心に咎めを感じたのか恐れをなしたのか、私にはわからない。にもかかわらず、フィリップスは、集まった少人数の仲間に、いずれ仲間の人数も増えるからと安心させ、計画を実行することにした。こうして船を一隻奪うと、一味は港を後にした。

　何はともあれ、一味は士官を選び、掟を起草し、仲間割れや喧嘩を防ぐため共同体を結成する必要があった。ジョン・フィリップスが船長、ジョン・ナットが航海長、ジェームズ・スパークスが砲手、そしてトマス・ファーンが大工にそれぞれ選ばれた。ウィリアム・ホワイトは平水夫のままだった。それぞれの役割が決まると、次のような掟（一字一句そのままである）を起草した。そして聖書がなかったため、全員が斧の上に手を乗せて、これを守ることを誓った。





「リヴェンジ」号乗組員の掟



　一、乗組員は全員、命令には従わねばならない。船長は一・五人分の獲物の分け前を受けるものとする。航海長、大工、甲板長および砲手は各々一・二五人分の分け前を受けるものとする。

　二、脱走を企てたり、仲間に秘密を持ったりしたものはすべて、弾薬一瓶、水一瓶、小火器一丁および弾丸を与えて孤島に置き去りにするものとする。

　三、仲間のものを盗んだり、あるいは一ピース・オヴ・エイト以上の金額の賭け事をしたものは、孤島に置き去りにするかまたは銃殺刑に処する。

　四、われらが他の海賊に出合った場合、われらの乗組員が仲間の同意なく当該海賊の掟に署名したときは、船長および仲間が適切と考える処罰を当該人に科すものとする。

　五、本掟が効力ある間に仲間を殴ったものは、裸の背にモーゼの律法（三十九回の鞭打ち）を科すものとする。

　六、船倉で銃器の撃鉄を上げたり、パイプに覆いをかけずに煙草を吸ったり、または火を付けたままの蝋燭をカンテラに入れずに持ち歩いたものには、前条と同じ処罰を科すものとする。

　七、常に戦闘に使えるよう武器の手入れをすることを怠ったり任務を怠ったものは、分け前を減じ、また船長および仲間が適切と考える処罰を科すものとする。

　八、戦闘で関節を失った乗組員には四百ピース・オヴ・エイトを与える。四肢の一つを失ったものには八百ピース・オヴ・エイトを与える。

　九、思慮分別ある女と会った場合、当該人の同意なしに手出しをしようとしたものは即刻死刑に処すものとする。



　こうして準備が整うと、命知らずの一味は海に乗り出した。そして砂州を離れる前に数隻の小型漁船を獲物にし、フランス人とイギリス人の漁師を数名仲間に加えた。一味は西インド諸島に針路をとった。一味が仲間に加えたものの中に、有名な海賊黒髭の下で働いていたジョン・ローズ・アーチャーという男がいた。彼はたちまち他の乗組員を飛び越して操舵手にとり立てられた。この新入りの突然の登用に、もとからの乗組員の幾人かはひどく感情を害した。特に大工ファーンの立腹は甚だしく、これが、これからみてゆくように、後々の禍根となるのである。

　十月初めバルバドスに到着した海賊はこの島や付近の島々を三か月間ほど巡航したが、一隻の獲物にも出合わなかった。そして、ついに十人の乗組員に一日一ポンドの肉の割り当てしかなくなり、餓死寸前の状態になった。やっと備砲十二門、乗員三十五人のマルティニク籍の船に遭遇した。この船は一味よりはるかに優勢だったから、普通ならこれを襲うなどということは考えなかっただろう。しかし飢えは石壁をもうち砕くという。一味はこのフランス船に海賊旗を見せて威嚇することにした。そしてこれが失敗したら、別の獲物を捜そうということになった。彼らは海賊旗を揚げてスループ船と並行し、直ちに降伏しなければ容赦しないと脅した。フランス船は震え上がり、一発も砲を発射しなかった。これはまことに恰好の獲物だった。一味はこの船から食糧を奪い、乗員四人を仲間に加えた後、釈放した。その後まもなく、一味はニューヨーク籍のスループ船と、ハッファム船長のヴァージニア船を捕らえた。



１６９５年ごろのバルバドス、ブリッジタウンの港風景





* * *





　船の清掃をする時期になったので、フィリップスはトバゴへ行くことを提案した。ここは以前彼がアンスティスの一味だったとき、アンスティスとフェンが離ればなれになった場所である。仲間を説得するため、彼は、自分が島を去ったときイギリスに帰りたがらなかった仲間が六乃至八人と、黒人三人が島に残っているはずだと話した。一味は島に向かった。島に到着すると、彼らは残っているはずの海賊を捜したが、黒人が一人見付かっただけだった。ペドロという名のこの男は、自分以外のものは全員軍艦の乗組員に捕らえられ、アンティグアで絞首刑になったが、その中にはフェンも入っていたと、フィリップスに話した。

　一味はペドロを仲間に加え、傾船作業にかかった。ちょうど仕事が終ったとき、たまたま島の風下を遊弋していた軍艦のボートが港へ入ってきた。軍艦が何の目的で派遣されたのか明らかだった。一味はボートが去ると時を移さず舫もやいを解いて風上へ退避した。しかし、マルティニク船から仲間に引き入れた四人のフランス人は島に残した。

　数日後、一味は乗組員数人のスノー船を捕らえ、大工ファーン、ウィリアム・フィリップス、ウッドおよびテイラーが乗り込んで乗っ取った。ファーンは、アーチャーに先んじられた屈辱を忘れず、この船を乗り逃げするつもりで残りの連中をこの計画に誘い込んだ。しかし、見張りを厳重にしていたフィリップス船長はファーンらの陰謀を見抜き、彼らの船を追跡した。スノー船を追い詰めると二隻の船の間に小ぜり合いが続き、ウッドは死に、フィリップスは足に傷を負った。このため、残った二人は降伏した。海賊船には船医がいなかった。相談の結果、フィリップスの足を切断してしまうことになった。だれがこれを行なうかでひともめした。結局、大工が適任者ということになった。彼は一番大きな鋸を持ち出し、負傷者の足を腕で押えると、樅板を二枚にするように無造作に胴体から切り離してしまった。こうしてから、彼は斧を火で赤くなるまで熱し、切り口に押しつけた。しかしこれは切断したときのように手際よく行かず、切り口からそれた肉を焼いてしまった。それでも自然はよくしたもので、結局、他に何の治療もせず傷は癒えた。

　一味はトバゴから北へ船を進めた。この航海でブラジルへ向かっていたポルトガル船とジャマイカを出港した二、三隻のスループ船を獲物にした。これらのうちの一隻で再び脱走を図ったファーンは、一味の掟に従ってフィリップス船長に殺された。数日後、別の仲間もこれと同様の罰で処刑された。この仮借ない処罰のため、脱走を密謀したり企てたりするのはだれにとっても危険だった。処罰の恐怖から、幾人かは掟に署名し、柔順にしていた。そしてひたすら救出を待った。しかしこれはあまり見込みのないことだった。後に彼らは自分たちの潔癖を行動で示した。もしその前に逮捕されていたら、彼らは海事裁判にかけられ命を絶たれていただろう。なぜなら、明らかに海賊行為を働いている船に乗り組み一味の仕事を手伝っているという事実を清算するためには、彼らに有利となる余程有力な証拠が必要となるからである。

　このように、フィリップスがよく冒涜的な言葉で自分自身を語ったような、神も悪魔も恐れない一握りの筋金入りの悪党どもの非道のために絶望的な事態に陥った正直者は数知れないのである。

　三月二十五日、一味はヴァージニアからロンドンへ向かう二隻の船を捕らえた。一隻の船長は海賊船長と同姓のジョン・フィリップスと言い、もう一隻の船長はロバート・モーティマーと言って、小気味よい青年だった。海賊に遭遇したりするよりもっとよい運に恵まれてしかるべき男だった。海賊フィリップスは、手下が捕虜の乗組員を海賊船に移している間、モーティマー船長の船の甲板にいた。ボートが戻ってきて船に横付けになると、それに乗り込んでいた海賊の一人がフィリップスに声をかけ、自分たちの船で謀叛があったと告げた。モーティマーは二人の部下と船に残っていたが、海賊船長も手下を二人従えていた。モーティマーは船を取り返す絶好の機会だと考え、いきなり棍棒をつかむとフィリップスに頭から殴りかかった。フィリップスはひどい傷を負ったが、倒れなかった。そしてすぐ構えなおすと、剣をとってモーティマーに斬りつけた。甲板にいた二人の海賊も助太刀に駆け付けた。モーティマー船長はたちまちめった斬りにされて息絶えた。この間、彼の二人の部下は何もせず、ただ事態を見守るだけだった。

　これはモーティマーが船長になって最初の航海だった。夫に先立たれた妻はやるせなく惨めだった。それは、彼ら夫婦と子供たちにとって何不自由なかったはずの生活の糧を失ったということ以上に、彼らが愛情と信頼で結ばれて生活していたからであった。私は残された家族に社会的な救済措置が講ぜられるべきだと思う。なぜなら、モーティマーは社会に奉仕しようとして斃れたからである。もし彼の企てが成功していたら、彼は自分の船を取り返しただけでなく、必ずや敵を打ち負かし壊滅させたに違いないのである。後にわかったことであるが、きっかけさえあればそのような企てに与くみする仲間が幾人かいたのである。

　事件はこれ以上のこともなく終った。海賊は、乗船していたモーティマー船長の弟を処刑するため船中をくまなく捜し回ったが、幸いなことに一味の中に彼と同郷の男がいて、二十四日間彼をステースルの陰にかくまってくれた。そしてそのころには海賊の怒りも収まった。こうして彼は命拾いをしたのだった。

　海賊はもう一隻のヴァージニア船から、大工のエドワード・チーズマンという男を仲間に引き込み、死んだファーンの後任にした。彼は控え目で真面目な、しかも勇気に富んだ若者だった。彼は一味の無法をひどく憎んだ。一味の中に、以前彼らに捕らえられたイプスウィッチ出身のジョン・フィルモアという男がいた。彼は、チーズマンを海賊が奪ったモーティマーの船にボートで移乗させるよう命ぜられたが、チーズマンの不快そうな様子を見て、海賊の指導者たちをやっつけるつもりなら、自分も力を貸そうと言った。そして自分たちが現在置かれている状況や、フィリップスが一味をまとめるのに苦労していること、さらに自分の意志で海賊になったものはいかに少数かなどということを話した。フィルモアの言葉はいかにももっともらしく聞こえたが、チーズマンは用心深くいったんこの申し出を断った。そして二、三日経って、彼の誠意が納得できてからはよく相談するようになった。しかし古参の海賊らは新入りの仲間に対して常に疑い深く、二人の行動を監視していた。だから二人が会って相談するときは最大限の注意を払わねばならなかった。多くの場合、寝るふりをして二人で船倉に降りていったり、あるいはカルタをするのを装ったりして相談の機会を作った。

　海賊一味は大小数隻の船を捕らえ掠奪しながらニューファンドランドへ向かった。その地で仲間を増強し、沿岸や港を荒らし回る算段だった。

　ニューファンドランドは北アメリカ大陸沿岸の、北緯四十六度から五十三度にまたがる島で、一四九七年、セバスチャン・キャボットが最初に発見した。しかし、一六一〇年、ブリストル出身のギー氏が島に渡り、許可を得て自ら総督になるまでは、ここに居住する人はだれもいなかった。島は荒凉として深い森林に覆われていたから、原住民も見棄て、われわれも無視したのだった。そして鱈漁の便のためにだけ港が設けられており、そのためにのみ人びとは居住したのである。沿岸には深い入江や港が非常に多数あって、便利である。そして、敵の姿を発見し危険を感じたら、一つの港から別の港（主要港のセントジョンズ港とプラセンティア）に、陸路直ちに情報を伝えるのも容易である。

　住民は年間十万クイントル（一万トン）の魚を燻製にし輸出している。この見返りが、現金やあるいはポルトガル、スペインそしてイタリア製の日用必需品となってイギリスへ入ってくるのである。こうして大量のラム酒、糖蜜、砂糖等のわが西インド諸島植民地の産物が消費され、漁期には本国から多数の漁師が雇われ、彼らの勤勉と労働によって鱈が漁獲されるのであるから、漁業は非常に有利な産業といってよいだろう。

　しかし、本題からそれてこのようなことを述べるのは、この土地や漁業のことを正確に説明しようとするためではない。私は、この地の漁業が海賊の起こる原因となったり、あるいは彼らを維持するのに役立ったりしていることを以下に説明しようと思うのである。

　第一に、イングランドの南西部地方、すなわちトプシャム、バーンステイブルおよびブリストルの漁船の船主らは毎年夏の漁期になると大勢の貧しい男たちを安い賃金で雇って漁場へ運び、彼らの言葉を借りれば、イングランドへ帰国させる船賃も払ってやるのである。一七二〇年、ニューファンドランドで操業していた船団が冬に向かってこの地を離れるとき、このような労働者は千百人を数えた。繁忙期には（労働の過酷さと夜の寒気は過酷を極めた）、彼らのほとんどが好んでブラックストラップ（ラム酒、糖蜜およびビールを混ぜた強い酒）を嗜たしなんだ。こうして彼らはかねを使い果たしたうえに借金までこしらえ、冬までも働かなければならないはめになるのである。土地の不毛を考えれば、これは尋常なことではないし、通常千七、八百人を数える越冬者たちのために蓄えてある食糧も不足しがちである。雇い主らは、これを不当に利用することを思いついた。つまり、彼らを翌年の夏にも働かせるか、あるいは食糧を法外な値段で売り付けようというのであった。自ら食って行くこともできず、雇い主の勘定を清算することもできない人びとは、フィリップスや彼の仲間がしたように、小型船やボートを奪って脱出し、海賊業に乗り出すことになるのである。

　第二に（彼らにとって好都合なことに）、夏になると幾組かの海賊がこの地を訪れ、水や食糧などの必需品を漁船から調達するのである。

　フィリップス一味はこの島に船を進めた。途中、前述した船以外にも、サーベル島沖でソルター船長の船を奪い、代りにモーティマー船長の船を与えた。同じ日、すなわち四月四日、チャドウェル船長のスクーナー船を捕らえ、船底に穴を開けた。この船を沈めてしまうつもりであった。しかしこれが、一味が最初に海賊としてニューファンドランドから乗り出したとき失敬した船の持主マイナー氏のものだとわかると、フィリップス船長は良心の痛みを感じ、仲間に「こいつにはもう十分酷い目に遭わせた」と言って、直ちに船を修復し船長に返すように命じた。

　この日の午後、一味は別の船を追い、夜になってこれに追い付いた。船長はニューイングランドのディペンデンス・エラリーという名だった。一味があまりしつこく追ってくるので海賊だと思ったとこの男がフィリップスに語ったところ、誇り高い男たちはひどく憤慨した。そして可哀想にディペンデンスをくたくたになるまで甲板中踊り回らせた。

　さらに二、三日の間に、ジョシュア・エルウェル、サミュエル・エルウェル、コムズ、ランスビー、ジェームズ・バブストン、エドワード・フリーマン、スタート、オバディア・ビール、エリック・エリックソンおよびベンジャミン・ウィーラー船長らの船が一味の餌食になった。

　四月十四日、一味はアン岬籍のアンドリュー・ハラディン船長のスループ船を獲物にした。この船は海賊船として恰好だったから、一味はこれに乗り移り、ハラディン一人を捕虜にして残りの乗組員は全員それまで連行していたソルターの船に移した。大工のチーズマンはハラディンに自分の腹を打ち開け、彼を海賊一味の撲滅計画の仲間に入れた。計画は四日後に決行することになった。

　ハラディンその他の仲間は、奇襲が成功しやすい夜に事を起こすことを主張した。一味の航海長ナットが非常な腕力の持主で、胆力にも優れていたから、火器を持たずに彼を襲うのは危険と判断したのである。しかしチーズマンは、混乱が小さくてすむ白昼に決行する決意だった。そして、航海長は自分が始末すると言った。決行時刻は正午十二時と決まった。チーズマンは自分の大工道具を甲板に置いたままにして、後でそれを使うように見せかけ、船尾の方へ歩いていった。ハラディンが少々臆したような様子を見せた。チーズマンはブランデーの瓶を持ってきて、彼と仲間に一口ずつ飲ませ、次いで甲板長バーリルと航海長に、「次の楽しい集いのために」と言って乾杯した。それからナットに向かって天候のことなどを話しかけた。この間、フィルモアは斧を持ち、遊んでいるようにしてそれを振り回していた。ハラディンとフィルモアはチーズマンにウィンクをした。これが用意よしの合図だった。チーズマンはすかさずナットの襟を掴み、一方の手を彼の足の間に入れて高く持ち上げると船べりから海へ投げ込もうとした。しかし彼はチーズマンの袖を掴んで「助けてくれ。何をするんだ、大工」と言った。チーズマンは、「問答無用だぜ、航海長。お前は死人なんだからな」と言うと、彼の手を強したたかに打った。手掛かりを失ったナットは海にころげ落ち、再び声を発することはなかった。

　甲板長はすでに殺されていた。チーズマンが航海長を掴えたとみるや、フィルモアは手にした斧をふり上げ、自分の相手の頭を真っ二つに打ち割った。この騒ぎで甲板に上ってきた船長にチーズマンは槌の一撃を見舞った。この一撃は船長の顎の骨を砕いたが、彼を倒すには到らなかった。ハラディンが手斧を持って駆け付けたが、砲手のスパークスが彼とフィリップス船長の間に割って入った。チーズマンは踵を返してスパークスを仲間のチャールズ・アイヴィメイの方に投げ飛ばした。瞬間、アイヴィメイは敵を海につき落した。これと同時に、ハラディンは船長のかたをつけた。チーズマンは時を移さず船倉に飛び込み、操舵手アーチャーの脳天めがけて槌をふるった。彼は海賊を殺してしまうつもりだったが、後から続いて入ってきたハリージャイルという若者が、この男は殺さずに、自分たちの潔白の証人にしたいと言った。証人が一人もいなければ、掠奪品を自分たちで横領しようともくろんでこの惨劇を計画したのではないかと疑われるかも知れないと言うのである。この賢明な助言が入れられ、アーチャーほか三人の海賊を捕虜にして拘禁した。

　すべてが終り、彼らはニューファンドランドからボストンへ針路を変更した。五月三日、無事港に到着すると、市民の熱狂的な喜びの声に迎えられた。

　一七二四年五月十二日、これら海賊を裁く特別海事法廷が開かれた。そして、結束して海賊をやっつけたジョン・フィルモア、エドワード・チーズマン、ジョン・コムズ、ヘンリー・チャイルズ、チャールズ・アイヴィメイ、ジョン・ブートマンおよびヘンリー・ペインの七人は名誉ある無罪となった。また三人のフランス人ジョン・バプティス、ピーター・タファリーそしてアイザック・ラッセン、および三人の黒人ペドロ、フランチェスコそしてピエロも無罪になった。操舵手ジョン・ローズ・アーチャー、ウィリアム・ホワイト、ウィリアム・タイラーそしてウィリアム・フィリップスには有罪の判決が下った。最後の二人は、国王陛下の恩赦に推挙するため、一年と一日の執行猶予となった。（どういう理由なのか私は知らない。）最初の二人は六月二日処刑された。彼らは深く罪を悔い、刑場で二人の教誨師に助けられて、以下の声明を読み上げてから死についた。





一七二四年六月二日、海賊の罪によりボストンで処刑される当日の、ジョン・ローズ・アーチャーおよびウィリアム・ホワイトの、死に際しての声明



アーチャーの声明



私は、私が犯した冒涜と、両親に対する不孝を心から後悔しています。

また、光栄ある神の御名を呪い、悪しざまに言ったことを後悔します。

さらに、私は不敬の罪を重ねました。私はついには神の怒りにふれ、海賊と盗取の罪を犯し、さらには殺人の罪まで犯してしまいました。

しかしながら、私にこのような罪を犯せしめた元凶は、私のひどい飲酒でありました。私は大酒を飲むと激昂し、空勇気が出て罪悪を犯し、それが今私を死よりも苦しめているのです。

私は、船の船長らに、船乗りたちをあまり酷使しないでいただきたいと願います。これが彼らをおとしいれる原因ともなっているからです。





ホワイトの声明



私は今、悲しみの心で、私に聖書と教義問答を教えてくれた両親に背いた結果を刈り取っています。

また、神を敬わず、汚した結果を刈り取っています。

さらに、神の御名を冒涜した結果を刈り取っているのです。

しかし、私の大酒が、身の破滅を招いた最大の原因でした。海賊船に誘われたとき、私は泥酔していました。

私が海賊船で犯した一切の悪事に対し、私は今、神と人びとの裁きを受けます。





両者共同の声明



私たちは、私たちの犯した罪を深く深く悔いています。

私たちは、世の人びと、特に若い人びとが、このような罪を犯さないよう警告します。どうかすべての人びとに、私たちの警告を聞いていただきたいと思います。

私たちは、我が救世主キリストの許しを乞います。キリストの血によってのみ、私たちの大罪は清められるのです。

私たちは、自らの邪な心を知っています。そして、神が私たちを更生して下さることを願います。

神が私たちに懴悔の機会を御与え下さったことに感謝します。そして神が、私たちの悪事の最中にも私たちを御見棄てにならなかったことを感謝します。

私たちは、神が私たちの魂とともにましますことを希望します。

私たちはいま、キリストの正義を本当に必要としています。それによって、私たちは神の御前に立つことができるでありましょう。私たちは、自らを一切無にいたします。

私たちは、私たちの為に労をとられた牧師のかたがたに、謹しんで感謝します。神が皆様の親切に報われんことを祈ります。

私たちは、キリストをつうじて神の慈悲があらんことを、絶望せず希望しています。私たちが死んだら、神の慈悲により、神の国に受け入れられますことを祈ります。

私たちは、世の人びと特に船乗りたちが、私たちの運命を他山の石とされることを望みます。



Ｊ・Ｗ・Ｄ・Ｍの面前にて





17　スプリッグス船長と乗組員





　スプリッグスはかなりの期間ロウとともに航海していた。彼はロウとともにロウザーから別れたのである。彼はロウ一味の操舵手だったから、一味の悪事に大いに加担していた。一七二三年のクリスマスごろ、ロウはギニア沖でハント船長が指揮する備砲二十二門の「デライト」号（もと軍艦「スクイレル」号）を捕らえた。スプリッグスは仲間十八人とともにこの船を奪い、夜中にロウを残して西インド諸島へ向かった。この仲間割れは、二人のちょっとしたいさかいが原因だった。乗員の一人が冷然と人殺しをしたというので、スプリッグスはその男を絞首刑にすべきだと主張したのに、ロウはそれに反対したのである。

　二人が別れて一、二日後、スプリッグスは一味の船長に選ばれた。一味は、ジョリー・ロジャーと称する海賊旗をこしらえた。これはロウ船長の旗と同じもので、黒地の真中に白く、一方の手に槍を持って血の流れる心臓を突き刺し、他方の手に遠眼鏡を持った骸骨を染め抜いたものであった。旗ができると一味はそれを掲げ、船長と乗組員全員のためにすべての大砲を轟かせて祝福した。それから獲物を求めて航海に乗り出した。

　西インド諸島へ向かう航海で海賊一味はポルトガル船を捕らえ多額の戦利品を得たが、それに飽き足らず、捕虜の乗員たちとゲームをしようということになった。そして、彼らに甲板を走れと命じた。捕虜らの健康のためではなく、獣のような連中自身の慰みのためだった。このゲームは次のようなものだった。海賊どもは前後甲板の間のミズンマストの回りに火の付いた蝋燭を輪のように並べ、その中へ、一回に一人ずつ捕虜が入る。蝋燭の輪の外側には海賊らがナイフ、剣、コンパス等の得物をもって立つ。そして、捕虜が蝋燭の内側を走るのに合わせて鳴り物を奏し、得物で彼を突くのである。これが普通十分乃至十二分続き、ついにこの哀れな男は自分の身体を支えることができなくなってしまうのである。このゲームが終ると一味はポルトガル人乗員にボートと僅かな食糧を与え、船には火を放った。

　セントルシア島の近くで、バルバドス島所属のスループ船を捕らえると、掠奪した後火を放った。一味はこの船の乗組員の幾人かに海賊の掟に署名するよう強い、これを拒否した者には殴る斬るの残虐行為を加えた。その後一味は捕虜をボートに乗せて放免したが、彼らは無事バルバドス島に着いた。

　翌日、マルティニク島の船が一味の手に落ち酷い目に遭ったが火を付けられはしなかった。数日後、一味は、風下に向け航行中、ロッグウッドを積んでジャマイカから来たホーキンズ船長の船を捕らえた。そして食糧、武器、弾薬その他、必要と思われるものを掠奪したばかりか不要なものは海に投げ棄てたり壊したりした。海賊どもは錨索をずたずたに切り、船室を壊し、窓という窓を破り、悪行の限りを尽した。そして航海士バリッジとスティーヴンス、その他幾人かの乗員を無理やり仲間に引き入れた。一味はこの船を三月二十二日から二十九日まで連行した後放免した。三月二十七日、パイク船長が指揮するロードアイランド籍のスループ船を捕らえると、乗組員全員海賊船へ移乗するよう命令した。しかしこの船の航海士は落ち着いた真面目な男で、海賊になる気はなかった。一味は彼に、すぐ貴様の背中に赦免状を書いてやる、と言った。そして海賊一人ひとりが、彼の背中を十回ずつ鞭で打った。

　翌日、ホーキンズ船長の航海士バリッジが海賊の掟に署名した。一味は大いに気をよくして喝采し、船の大砲を一斉に発射して彼を航海長に選んだ。（彼は腕のよい船乗りだった。）この日、一味はうかれ騒ぎ、人びとの健康を祝って乾杯した。どうしたはずみか、これらの中にジョージ二世陛下の名前が入っていた。こういう輩はときに、恩赦法の公布を期待して気紛れな忠誠心を起こしたりするのである。パイク船長がジャマイカで、国王が崩御されたと聞いたらしく、それで海賊どもはすぐ半旗を掲げて国王陛下の名を口にしたのである。彼らは、「一年以内に恩赦があるに違えねえ。そのときにゃ、すぐそいつのお陰をこうむらせてもらうぜ。でもそいつから俺たちが外されたら、捕らえたイングランド野郎は片端から殺してやるさ」と言った。

　四月二日、はるか沖に船影を認めた。一味は、これをスペインの船と思い真夜中まで追跡した。獲物に接近すると一味は大小の砲弾をたて続けに発射した。しかし相手が哀れな声で命乞いをしてきたので砲撃を止め、船長に、海賊船に乗り移るよう命じた。ところが、やってきた船長をみて、海賊どもは失望した。三日前一味が一文の値打ちなしとして放逐したホーキンズ船長だったのである。一味はこの失敗にひどく腹を立て、彼が自分たちの邪魔をしたのだと勝手に決めてしまった。これはまったくホーキンズの意図したことではなかった。こうして、十五人ばかりの海賊が可哀想なホーキンズを取り囲み、鋭いカトラスで打ちのめした。彼はたちまち甲板に倒れてしまった。このとき、バリッジが一味の輪の中に飛び込んで、船長の命を助けてやってくれと、必死で頼んだ。海賊どもはバリッジに免じて彼を許した。夜中のことだったから、海賊どもはいつものように飲んだくれていた。そしてホーキンズの船を炬たい火まつにしようということになった。これは直ちに実行に移され、半時もすると船はすっかり炎につつまれてしまった。

　一味はまだもの足りなかった。そこでホーキンズ船長を船室に呼び、食事をするよう命じた。皿には蝋燭が何本も盛られていた。海賊どもは抜身の剣とピストルを彼の胸につきつけ、皿をたいらげろと言った。食事が済むと海賊どもはホーキンズを殴り、それから他の捕虜の中へ戻した。捕虜らも船長と同じもてなしを受けた。

　二日後、一味はホンジュラス湾に近いロータン島という小さな無人島に立ち寄り、ホーキンズ船長ほか数人を降ろした。（捕虜の一人はホーキンズ船長の船客だった。彼は海賊から受けた虐待がもとでこの島で死んだ。）そして彼らに弾薬とマスケット銃を一丁与えると、翌日、次の冒険を求めて出帆した。

　ホーキンズ船長たちはこの島に十九日間滞在し、その間魚や野鳥を獲って命を繋いでいた。十九日目に、二人の男がカヌーに乗ってこの島にやってきた。彼らはボナカ島近くの別の島に置き去りにされたのだった。彼らはホーキンズ船長たちを、数回に分けて自分たちの島に運んだ。この島の方が水や魚が豊富だったから生活し易かったのである。十二日後、沖にスループ船を発見した。大きな狼煙のろしをあげて合図すると、船は島へやってきて、一行を救出した。船は「メリアム」号と言い、ジョーンズ船長が指揮していたが、ホンジュラス湾でスペイン人に掴まりそうになり、逃げてきたのだった。

　海賊は西に向かって進んだ。そしてある島で船底の清掃をした後、ムーア船長を待ち伏せるため、セントクリストファー島に向かった。この船長はスループ船「イーグル」号を指揮して、ブランキラ島で傾船修理していた海賊ロウザー一味を捕らえた男だった。スプリッグスは、盟友を襲ったこの男を捕らえ次第殺してやろうと心に決めていたのである。しかしムーアは発見できず、代りにマルティニク島から航行してきたフランスの軍艦に遭遇した。とても敵わぬ相手とみたスプリッグスは、全速で逃げ出した。フランス軍艦は海賊船を声が届くほどの距離まで追い詰めたところで運悪くメインマストが折れてしまい、追跡を諦めなくてはならなかった。

　スプリッグスはバーミューダ諸島へ向け北上した。途中、ボストン籍のスクーナー船を捕らえると乗員全員を海賊船に移してから、船を沈めてしまった。彼はこの船の船長に、ニューファンドランドで仲間を増強してから、チャールズ・ハリスが指揮する僚船を襲い拿捕したソルガード船長を追って、ニューイングランドへ船を進めるのだと言った。当時スプリッグスはロウの船に乗り組んでいて、危ういところを脱出したのである。スプリッグスは船長に、ソルガード船長を知っているかと訊ねた。船長は、知らないと答えた。スプリッグスは別の男にも同じ質問をした。三番目の男が、自分はよくソルガード船長を知っていると答えた。これを聞くとスプリッグスは彼に「走れ」と命じた。そして、前に話したやり方でこの男は甲板を走らされたのである。

　海賊はニューファンドランドへは行かず、セントクリストファー島の風上へ向かった。六月四日、一味はニコラス・トロット船長が指揮するセントユースタシア島籍のスループ船を捕らえた。そして気晴らしに、この船の乗組員らを檣と前檣のてっぺんに吊し上げ、そこから甲板につき落した。こうして彼らの骨をばらばらに砕いてしまった。これでも足りず、海賊どもは鞭を持って他の捕虜を甲板じゅう追い回したのである。気晴らしがすむと、一味は積荷を奪い、乗員二人だけを仲間に引き込んでからトロット船長に船を返し放免した。

　二、三日後、食糧と数頭の馬を積んでロード島からセントクリストファー島へ航海していた船が一味の手に落ちた。海賊らはこの馬に跨がり、ニューマーケットの競馬狂よろしく、罵り、叫び、わめきながら甲板を所狭しと走り回った。馬は荒れ狂い、二、三人の海賊は振り落されてしまった。振り落された連中は、乗馬靴や拍車が無いおかげで紳士のように乗れなかったと言い、腹いせにこの船の乗員を鞭やカトラスで痛めつけた。

　その後、不敵にもスプリッグスはジャマイカのポートロイヤル沖に現われ、港から見えるところでスループ船を襲い掠奪した。港に碇泊中の二隻の軍艦「ダイヤモンド」号と「スペンス」号は直ちに海賊船を追ったが、島の近海で敵を見失ってしまった。一隻の軍艦は港へ帰投し、もう一隻が、海賊船が向かったと思われるホンジュラス湾に追跡を続行した。軍艦の思わくは当たった。これより少し前、スプリッグスはスループ船を捕らえ、それに手下のシップトンと四十人の仲間を乗り組ませた。そしてこの船とともにホンジュラス湾に向かい、ここでロッグウッドその他を積んだイギリス船を十隻乃至十二隻獲物にした。海賊がこれらの船を掠奪している最中に軍艦が到着し、一味に斉射を浴びせたのである。一味は一瞬胆をつぶしたが、すぐ数発応射した。しかし、戦って勝てる相手ではないと知ると力漕し（風はほとんどなかった）、浅瀬を回って遁走した。

　この、時を得た救援のおかげで、一味に拿捕された船は無事船主らの手に戻った。しかし被害が無かったわけではない。海賊はいくらかの積荷や現金を掠奪し、幾人かの乗員を仲間に加えたのである。一味はホンジュラス湾からメキシコ湾を通ってバハマ海峡を抜け、北アメリカ大陸へ向かった。この航海で食糧は底をつき、一味は餓死寸前の状態になっていた。こうしたとき、黒人を積んでジャマイカからハヴァナへ向かっていた南海会社のスループ船に遭遇した。一味は黒人を海賊船に移し、食糧を奪った。一両日後、新しい年が開けてすぐ、一味はジャマイカからニューイングランドへ向かっていた船を捕らえ、掠奪した。そして、前に捕らえた船から奪った黒人たちをこの船に乗せようとした。船長は、船には食糧が十分でなく、黒人を引き受けたら全員餓死してしまう危険があると訴えた。そこで十人だけを彼の船に移すことにした。船長はサウスカロライナまで航海し、そこで食糧を捕給しなければならなかった。

　その後、スプリッグスはロードアイランド沖でダーフィー船長の船を捕らえた。海賊は例のごとく船を掠奪すると、残りの黒人を全部この船に移すことにした。そして二十五人の黒人を海賊船からダーフィー船長の船に移し、一方、彼の航海士以下乗員全員を海賊船に乗せた。ダーフィー船長はたった一人でこの黒人の集団を統べていかねばならなかった。

　捕らえた船から食糧その他必要物資を仕入れたスプリッグスは当初の航路を変更した。寒気と強風を避けて南下したのである。小さな島で船の補修をし、休養した後、一味は再びホンジュラス湾を訪れることにした。そこで十六隻の船を獲物にしたが、それらのうちケルゼイ船長の船には火を放った。船長と乗組員には代りに、船に積んでいた大型ボートを与えた。天候の良いのが幸いして、彼らは無事、ボナカ諸島の一無人島に漂着した。そしてたまたまこの島に立ち寄ったスループ船に救出されたのである。

　その夜、スプリッグスとシップトンはホンジュラス湾を離れバハマ諸島に向かった。しかしキューバの西で、再び先の軍艦に遭遇した。軍艦は一味をフロリダの海岸まで追い詰めた。シップトンの船は座礁してばらばらになってしまった。海賊らは陸に逃れたが、そこでインディアンに掴まった。インディアンは、一味のうち十六人を殺して喰ってしまった。残った四十九人はハヴァナへ連れて行かれた。シップトン船長以下十二人はカヌーで逃れたが、再び軍艦のボートに追われ陸に逃れた。カヌーは残った黒人四人と海賊一人、そして二千ポンド相当の金ともども「ダイヤモンド」号の戦利品となった。

　一方、スプリッグスは難を脱してアメリカ本土へ向かい、数隻の船を獲物にした。ロータン島で「スペンス」号に追われ、船に火を放たれたが、一味は森の中に逃げ込んだ。





18　ジョン・スミス船長と乗組員





　ジョン・スミス（別名ゴウ）はオークニーのカリストンに生まれた。長年海員生活をし、あるときは軍艦に、またあるときは商船に乗り組んだ。一七二四年六月、彼はフェルノー船長の指揮する備砲二十門のギャレー船「ジョージ」号（二百トン）に二等航海士兼砲手として乗り組み、ロッテルダムから出航した。彼は、この船を乗っ取り、自ら船長になって海賊稼業に乗り出すつもりだった。このため、彼は軍艦「サフォーク」号時代から知っていたスワンという男を抱き込んだ。スワンはスミスの陰謀に共鳴し、スミスが船長になったときは甲板長になる約束をした。しかし、他の乗組員を陰謀に誘い込む工作をしているとき、ジェームズ・ベルヴィンという男に秘密が知れ、船長に通報された。フェルノー船長はこの話を信じなかったが、安全を期してスワンのほか一、二名の乗員を下船させた。しかしスミスを疑うことはせず、部署もそのままとし、スワンの部署にはジェームズ・ベルヴィンを置いた。

　八月一日、船は大金を積んでテクセルを出帆した。バーバリーのサンタクルツで荷を買い付け、そこから地中海を北上してマルセイユへ行く予定だった。スミスはこの航海に出たらすぐさま船を乗っ取り、航路を変更するつもりだった。しかし相棒のスワンがいなくなってしまい、計画どおり事を起こすことができなくなったので、もっとよい機会が訪れるのを待つことにした。

　フェルノー船長は片意地で強欲な老人だった。乗組員の食事に対してもけちくさく、わずかな割り当てしか出さなかった。そのため、乗組員の中に不満が昂じた。スミスはこれを利用して乗組員を煽った。乗組員らは復讐心からどんな悪事でも働く気になっていた。スミスは彼らと船長の間の溝を深めるように画策した。しかし老フェルノーは手きびしいやり方をいささかも弛めようとはせず、かえって、謀叛を企む者は容赦なく罰すると言って脅した。

　威しと脅迫の応酬は収まったかに見え、乗組員は平穏になった。しかしスミスは、一刻の無駄もせず自分の計画を進め、ついにウェールズ出身のジェームズ・ウィリアムズ、アイルランド出身のダニエル・マッコーレイ、スコットランド出身ウィリアム・メルヴィン、スウェーデン人ピーター・ローリンソンとジョン・ウィンター、そしてデンマーク人ジョーン・ピーターソンの六人を仲間にした。一味は、士官を全員殺して船を乗っ取る密謀をした。行く手を阻む一切の障害が取り除かれたとわかれば、もっと多くの乗組員がこの計画に加わることは疑いなかった。

　十一月三日、サンタクルスで蜜蝋その他を積み終ると、ギャレー船「ジョージ」号は錨を揚げた。一味はその夜十時に血なまぐさい計画を実行に移すことにしていた。一味が殺そうとしていた乗組員は、甲板で見張りに立っていた船長フェルノーを除いて全員眠り込んでいた。一味のウィリアムソンは船医トマス・ガイ、ピーターソンは一等航海士ボナドヴェンチャー・ジェルフス、そしてダニエル・マッコーレイはシュリヴァンのところへそれぞれ忍び込み、一瞬のうちに彼らの喉首を掻き切った。一方メルヴィンとローリンソンは船長を掴まえて海に投げ込もうとした。船長は抵抗し、二人の手を振り払って逃げ出した。ウィンターが血に染まったナイフを手にして待ち構え、船長の喉めがけて突き出した。しかしこの一撃は船長の喉もとをかすめただけだった。前の二人が再び船長を取り押さえ、海に投げ込もうと懸命になった。船長がなおも争っているところへ、スミスがピストルを手にしてつかつかと近づき、彼の腹を撃ち抜いた。喉を切られた三人の乗員はすぐには死なず、甲板に這い上がってきたところをウィリアムズのピストルで止めを刺された。そして全員海に投げ込まれた。シュリヴァンは、死ぬ前に祈りを捧げさせてほしいと懇願したが、悪党どもは耳を貸さず、「うるせえ、今は祈りなんか捧げる時じゃねえ」と言いざま、彼を射殺してしまった。

　この凶行が行なわれている間、甲板長ベルヴィン、大工マーフィ、そして見張りについていたフィニスとブースが大船室で捕らわれの身になった。残りの乗組員は、ハンモックから降りようとしたら命は無いものと思え、と脅された。こうして、一味はまったく抵抗を受けずにすんだ。すべてが終ると、全員が甲板に集められた。そこで船長に選ばれたスミスは、「今後、貴様らのだれでも、一緒になって何か相談しているのを見つけたら、死んだ奴らと同じ目に遭うと思え」と言った。

　こうして一味は冒険航海に乗り出した。船を新しく「リヴェンジ」号と命名し、獲物を求めて針路を北西に向けた。

　十一月十八日、一味はセントヴィンセント岬沖で最初の獲物を捕らえた。これは、魚を積んでニューファンドランドからカディツへ向かっていた、トマス・ワイズ船長が指揮するプール籍の船だった。積荷の魚は一味にとって何の価値もなかった。一味は乗組員を海賊船に移し、錨、綱、帆その他役立ちそうなものを奪うと、この船を沈めてしまった。

　さらに北上して数日後、鰊にしんと鮭を積んでジェノアに向かっていたスコットランドのスノー船に遭遇した。船長の名はジョン・ソマーヴィルといった。この船の積荷も一味にとって価値のないものだったから、前と同じように、必要と思われる物を奪い、乗組員全員を海賊船に移した後、船を沈めた。自分たちの情報がどこかの港にもたらされるのを未然に防ごうとしたのである。

　一味は航海を続けた。八日乃至十日しても一隻の船にも出遭わなかった。そこでゴーリシア沿岸をさらに北上することにした。一味が切らしていたワインを積んだ船を見つけるつもりだった。ほどなく、沖に帆影を発見した。ちょうど一味の船と同じ位の大きさに見えた。一味は直ちに追跡した。相手はこれに気付くと、フランス国旗を揚げながら全速で南へ向かって逃げ出した。

　フランス船は快速だった。三日間にわたる海賊船の追跡を振り切り、ついに深い霧の中に見えなくなってしまった。もし一味がこの船を捕らえていたら、腹癒せに乗組員を一人残らず殺していたに違いない。この追跡で一味は沿岸からはるか沖に出てしまった。そしてワインばかりか水も不足してきたため、マデイラへ行くことにした。二日後この島に到着した一味は島の近海を三、四日遊弋したが、港からは一隻の船も出てこなかった。痺れをきらした一味は泊地に入って投錨した。そして、入港している船のどれかに乗り込んでそれを連行しようと計画し、武装した仲間を乗り組ませたボートを岸に向かわせた。だが一味の挙動が不審に思われ、目的を達成することはできなかった。

　こうして一味は数日を無為に過ごしたが、食糧がひどく欠乏してきて、ひと働きする必要に迫られた。そこで錨を揚げ、マデイラから十リーグほど風上にある、ポルトガル領ポルトサントへ向かった。海賊はイギリス国旗をなびかせて、ソマーヴィル船長の健康証明証、島の総督へ贈る鮭三樽と鰊六樽、そして水の捕給と生鮮食糧品の購入を要請する手紙を携えたボートを使いに出した。一味は西インド諸島への航海の途中であるかのように見せかけた。

　総督はこの表敬訪問を快く受け、一味の要請を聞き入れたばかりか、数人の部下を伴って自らこのイギリス船の船長を答礼訪問した。スミスは一行を手厚くもてなし、できる限りの歓待をしたから、些かも疑われたりはしなかった。総督が暇を告げたとき、要求した食糧その他はまだ到着していなかった。スミスは、ここで正体を見せなければなるまい、と考えた。命令一下、たちまち武器を手にした男たちが一行をとり囲んだ。スミスは、「約束の水と食糧が船に届けられるまで諸君を人質にしておく」と言った。

　翌朝、牝牛と仔牛それぞれ一頭、鶏多数、そして水七樽を積んだ大型ボートがやってきた。双方は大いに満足した。海賊は代価として蜜蝋を提供し、人質を全員釈放した。海賊船が出港するとき、総督は五発の礼砲を轟かせた。

　この航海で大した成功を収めることができなかった一味は、再びスペインとポルトガルの沿岸を目差すことにした。長い間よいワインを絶っているのは、彼らにとって非常な苦痛であった。翌日、一味は帆を揚げた。十二月十八日、陸から二十八リーグの海上で、ニューイングランドからリスボンへ向かっていたベンジャミン・クロス船長の「バチェラー」号を捕らえた。しかし、これは一味が望んだような獲物ではなかった。海賊たちの落胆は大きかった。彼らはクロス船長と乗組員を海賊船に移し「バチェラー」号をワイズ船長に与えた。そしてこのプール出身の船長と彼の乗組員には損害の代償としてもともとオランダ商人のものだった蜜蝋三十二梱を与えた。

　それから八、九日後、北の岬から二十リーグほど沖でワイン、油、果実を積んだフランス船に遭遇した。カディツからきた「ルイス・アンド・ジョゼフ」号で、船長の名はヘンリー・メンズといった。これは一味の望みどおりの獲物だった。海賊は幾人かの仲間をこの船に送り込んで沖に出た。ここは岸に近すぎたから、もっと安全な場所へ行って掠奪をほしいままにしようと考えたのである。一味はフランス船の船長と乗組員全員十二人を海賊船に移し、積荷の大部分、大砲五門、弾薬全部、小火器、食糧品の大部分、その他を掠奪した後、この船をソマーヴィル船長とクロス船長らに与えた。同時に、蜜蝋十六梱を分け与えた。

　翌日、これらがすべて片付いたとき、風上に大型船が見えた。こちらへ向かってくる様子だった。一味は最初これをポルトガルの軍艦と思い、動顛した。しかし、船が独自の航路をとっているのを認めると、一味はいったん停船し、相手の近づくのを待った。この船はフランスの商船で、西インド諸島から帰国の途についているらしかった。しかし海賊船よりずっと有力だったから、スミスは攻撃を断念した。そして、仲間にこう言った。「俺たちはまだ人手が十分じゃねえし、仕事を任せられねえ奴もいる。そればかりか船には大勢の捕虜を抱えている。どう見ても、いまは、是が非でもこんなやばい仕事に手を出さなきゃならねえって時じゃねえだろう」。

　乗組員はほとんど全員、スミスと同じ考えだった。そして、獲物を見逃がすことに賛成した。しかし、副官ウィリアムズはこれに頑固に抵抗した。彼は船長の臆病を詰り、先ず捕虜全員の首を斬ってしまってから、相手の船に戦いを挑もうと提案し、スミスに命令を出すように迫った。それでもなおスミスが攻撃しようとしないのを見ると船長の頭を狙ってピストルの引金を引いた。しかし、これは不発に終った。近くにいたウィンターとピーターソンは、ウィリアムズが猛り狂うのを見て、すぐ彼に飛びかかり、ピストルを発射した。一発は彼の腕を撃ち抜き、もう一発は腹に命中した。彼は崩れ落ちた。二人は彼が死んだと思い、身体を掴んで海に投げ込もうとした。しかし二人がウィリアムズの身体を持ち上げたとき、彼は猛烈な勢いで二人の手を振り払い、船倉に飛び込んだ。そして弾を込めたピストルを手に、死に物狂いで火薬庫に走り寄った。船を爆破してしまうつもりだった。しかし彼が火薬庫の戸を開けた瞬間、運よく取り押えることができたのである。

　この狂気の男を取り押えると、一味は彼に首枷をし、捕虜と一緒に船倉にぶち込んだ。二日後、すなわち一月六日、一味は魚を積んでニューファンドランドからオポルトに向かっていたブリストル籍の船と遭遇した。この船は「トライアンヴィレート」号といい、ジョウエル・デイヴィス船長が指揮していた。一味は魚に用はなかった。そこで積荷には手を付けず、食糧、弾薬、帆その他必需品の大部分を奪い、二人の乗組員を無理やりこの極悪非道の仲間に引き入れた。そして、乗組員のうち十人をこの船に移した。別れ際に、一味は野蛮な副官ウィリアムズの処置を相談した結果、彼もこの船に乗せることにした。こうして一味は、枷をかけたままのウィリアムズをデイヴィス船長に引き渡した。そして船長に、この男が服従を誓い、どんなに哀願しても耳を貸さず、海賊の罪で縛り首にするために、最初に出合った軍艦に引き渡すよう命令した。

「トライアンヴィレート」号はリスボンに到着次第、一味のことを知らせるだろうし、そうすれば追手が派遣されると考えるのが自然である。いまやポルトガルの沿岸から離脱する時期だった。一味は協議した。ギニア海岸へ行くことを主張するものもいれば、西インド諸島へ行くことを提案するものもいた。しかし、スミスには、自分だけの、現状とはひどく矛盾した個人的な考えがあった。それはこうである。スミスは、故郷オークニーの紳士Ｇ氏の令嬢に長いこと思いを寄せていた。Ｇ氏の家での受けも悪くなかった。しかし、当時の彼の生活状態は大したものではなかったから、娘の父親は、彼が船長になったらすぐ結婚を許そうと約束した。スミスは、すぐにでも船長になれるようなことをよく口にしていたのである。実際、彼は以前甲板長としてリスボンからロンドンへ向かうイギリス商船に乗り組んでいたとき、ギャレー船「ジョージ」号に乗り組んで現在の船長の地位を手に入れたのと同じやり方で、その船の船長にのし上がろうとしたという。しかしこのときは十分な仲間が集まらず、計画は断念した。後に、船がロンドンに着いたとき、この計画が発覚し、船長は彼を逮捕しようとした。こういう事情があって、彼はオランダに逃れたのである。

　話を戻そう。スミスは何が何でも故郷へ戻り、娘の父親に約束の履行を求めようと思った。しかし、自分の冒険のことは秘密にしておくつもりだった。彼は、だれにも話さなければうまくやれると考えていた。万一自分の海賊行為がばれたとしても、街の連中には、自分に刃向かうだけの力はないだろうと思った。彼は仲間に次のように言った。

「みんな、よく聞いてくれ。俺たちはポルトガル沿岸を警戒させちまったから、ここに長居は無用だ。だが食糧や水が足りなくなっているから、長い航海は危険だ。しかも船は傷んでいるから、敵に遭遇しても、海がしけても難儀するだろう。そこで提案だが、スコットランドの北部へ行こうと思うがどうだ。そこは俺が生まれ育った土地でよく知っているし、俺たちも疑われたりすることはねえと思う。俺たちは、バルト海へ向かっている途中天候が悪くて北へ漂流した商船として通せば、船を補修して、水や食糧を捕給することもできる。そのうちにグリーンランドの船隊でも通りかかれば、そいつらを獲物にできようってもんだ。海上で獲物に出合わなかったとしても、上陸して何の危険もなく稼げるってわけだ。土地の連中が警戒しても、軍艦が俺たちのところへ派遣されてくるまでに十分仕事をして、好きな場所へずらかれるだろう」。

　船長の演説に一味は大いに動かされ、この提案に賛成した。あとはすらすらと事が運んで、一味はアイルランドの北を回り、一月末オークニーに到着した。そしてカリストンから少し離れた小島の風下側に投錨した。

　スミスはここに上陸した。一味の幾人かは土地の人びとと仲よくなり、彼らの品物を買ったりして、自分たちがまっとうな人間であるように印象づけた。スミスはＧ氏の娘との結婚を求めた。彼はうわべは船長になっていて、求婚の障害はすべて除かれていたから、Ｇ氏は二人の婚姻に同意した。しかし、結婚式の前日、仲間の一人が皆の目をくらませて脱走し、丘の麓にある人目につかない農家に身を潜めた。そして馬を一頭借りると海賊船が碇泊している場所から十二マイルほど離れたオークニー第一の街カークウォールへ逃亡した。彼は、一味が海賊で、出港する前にこの土地を掠奪するつもりでいることを、町長に明かしてしまった。

　その直後、一味にとってさらに致命的な事件が持ち上った。乗組員のうち八乃至十人の、無理やり海賊一味に引き込まれた男たちが大型ボートに乗ってスコットランド本土に脱出を図ったのである。しかしペントランド海峡を南下している最中、潮流に流されて警備艇に発見された。彼らは降伏し、一味のことを洗いざらい申し立てた。彼らは陸に連行され、取り調べを受けた後投獄された。

　スミスは、自分の正体が見破られ、土地が警戒態勢に入ったのを知って、出港する前にもくろみを実行に移してしまおうと決心した。成り行きなどかまわず、土地の紳士たちの屋敷を掠奪してしまおうというのである。その夜、スミスは甲板長と十人の手下に武装させ、土地の保安官を務めているグラムゼイのハニーマン氏の家へ向かわせた。このとき、ハニーマン氏はたまたま家を留守にしていた。一味は保安官の家に到着すると、ドアをノックした。家人が一味を家に入れた。彼らは、一味が来ることを知らされておらず、連中が何者であるかわからなかった。しかし門のところにいた一味の見張りに、「お前たちは何者か」と尋ねると男はすぐ、「俺たちは海賊で、この家を掠奪しに来たのさ」と言った。一味は食器その他金目のものを奪い、この家に雇われていたバクパイプ奏者を連れ去った。しかし現金と書類は、ハニーマン夫人と娘が急ぎ家の外へ持ち出して無事だった。

　翌日、一味は片舷の清掃を終っただけの船で出港した。そして東へ向かったが、風がなく、潮に流されて浅瀬に乗り上げてしまった。そこで一味は錨を投じた。カーフ島という小さな島だった。甲板長は再び上陸してみたが、めぼしい獲物がなかったので若い娘を二人さらってきた。彼女らの母親は泣いて、娘たちを連れて行かないでと訴えたが、悪党はピストルで彼女を殴りつけた。これが原因で彼女は翌日死んだという。可哀想な娘らはせきたてられるようにして海賊船に乗せられた。そして、非道この上ない扱いを受けたのである。

　翌日、スミスは再び錨を揚げ、前と同じ航路を東へ向かい、エダ島に到着した。この島に、スミスがよく知っているフィー氏という裕福な紳士が住んでいた。海賊は彼の家を襲うつもりだった。カリストンに警戒態勢が敷かれたから、人手がそちらに駆り集められ、この島では予定の悪事を容易に行なえると踏んだのである。しかし二つの島が作る海峡の潮流は激しく、一味の船はカーフ島の岬のすぐ近くまで押し流されてしまった。一味は、船が州すに乗り上げるのを防ぐため、錨を下ろさなくてはならなかった。

　錨を投げ船を停めたものの、一味はなおひどく難渋していた。陸に近すぎて風はまともに吹きつけ、また錨を引き揚げて船を海峡に移動させるためのボートもなかったから、一味は、自分たちが襲おうと考えていたフィー氏に助けを求めるほかなかった。そこで彼に使いを出し、ボートその他を貸してくれたら、スミス船長は相当の礼をするつもりだ、と伝えた。しかし、フィー氏は自分の任務をよく心得ていたから、盗賊どもに救援を出したりはしなかった。それどころか、部下に命じて岸に繋いであった大型ボートの底に穴を開け、オールも取り外して、使えなくしておいた。

　そうこうしている間に、フィー氏は、スミスの小艇に乗った五人の海賊が上陸してくるのを見付けた。フィー氏は一瞬驚いたが、ともかく連中と穏やかに話し合おうと決めた。そして、長患いで臥せっている妻を怯えさせたくないから、自宅へは来ないでほしいと一味に頼んだ。一味はこれを聞き入れ、自分たちはボートを必要としているだけだが、それは是が非でも手に入れなくてはならない、と言った。フィー氏は、ボートの件を約束し、島の居酒屋でビールを一杯やろうと一味を誘った。海賊どもはフィー氏が一人なのを見て、この招待を受けた。しかしフィー氏は、部下に、一味のボートのオールを取り去っておき自分が居酒屋に入って三十分後に、何か用事があるようにして彼を呼びにくるよう、密かに命じておいた。すべては手はずどおり行なわれた。

　居酒屋から出ると、フィー氏は召集できた総勢六人の男たちに、十分な武装をして、居酒屋と彼の自宅の間の適当な垣のところで待ち伏せし、自分が五人の海賊を連れてその道を通りかかったら、連中に一斉射撃を浴びせるよう命じた。そして彼自身は、危険を避けて、連中の前か後についているようにする、と言った。しかし、連中の頭である甲板長が一人で来たら、一斉にこの男に飛びかかって生け捕りにするよう指示した。

　このような命令を与えると彼は一味のところに戻り「できる限りのもてなしをしたい」と言った。そして、「家族が怯えないように、穏やかに自宅へ御越しいただければ、できるだけの援助をします」と言った。一味は大いに喜んだ。しかし、相談の結果、全員では行かず、甲板長だけが代表して行くことになった。これはフィー氏の最も望むところだった。こうして、甲板長は簡単に罠にはまった。

　甲板長を生け捕りにすると、フィー氏と部下は直ちに居酒屋に引き返し、気付かれる前に残りの海賊を武器もろとも一網打尽にした。そして、島の中央にある村に護送し、一人ひとり別々に監禁した。

　翌二月十四日、西北西に変じた風が吹きすさんでいた。救援のボートも仲間も現われなかった。スミスは何かが起こったと察した。そこでこれ以上待つのはやめ、残った乗員とともに強風を利して船を沖に出すことにした。しかし錨綱を切ると（錨を巻き揚げるには具合が悪かった）、船は逆の方向に流され、海峡の方へは行かずに、まっすぐカーフ島の岸に乗り上げてしまった。一味の命運が尽きたのは明らかだった。スミスは胆をつぶして、「俺たちはもうおしまいだ」と仲間に叫んだ。

　翌朝、もはや望みない状態と悟ったスミスは、白い休戦旗を掲げてフィー氏に手紙を送り、積荷を降ろして船を軽くし、浅瀬から浮くようにするための人手とボートを援助してほしいと頼んだ。そして、彼自身はその人びとが無事帰るための人質となり、フィー氏にもその援助に対して一千ポンド支払うと書き送った。さらに、もしこの救援要請が拒絶されたら、だれにも自分の災難につけいらせはしないし、捕まるぐらいなら船に火を放って仲間といっしょに死ぬつもりだ、と書いた。そしてこれが無理なら、大型ボートにマスト、帆とオール、そして食糧少々を提供してもらえれば、自分たちの力で海峡を漕ぎ渡ってこの土地を離れるつもりだし、船と積荷はフィー氏に残してゆくと提案した。

　しかし何の答も返ってこなかったので、スミス自らカーフ島へ上陸して交渉することにした。彼はたった一人で、剣以外の武器を帯びずに上陸した。彼からずっと離れて、手下が一人、休戦の合図に白旗を持って立った。しかし、フィー氏は、自分には法的な権限がないと言って交渉を拒否し、スミスの逮捕を命じた。

　捕らわれの身となった海賊船長は、主だった乗組員を陸に呼ぶよう説き伏せられた。こうして、岸に繋いだボートを出す手伝いに来るようにと、大工と幾人かの助手が呼ばれ、上陸したところを逮捕された。

　船には砲手と幾人かの乗組員が残った。そして二、三日間、脱出の見込みもなく過ごした。今や、まったくの絶望状態だった。しかし、船にはワインとブランデーが大量に残っていたから、彼らは昼も夜も飲み続け、酒樽を空け、泥のように酔いつぶれたところを捕らえられた。

　こうして、この海賊一味の短い権勢は終った。自ら破滅を招くような油断をしていなかったら、一味はなお多くの悪事を重ねていただろう。公海上で多くの悪事を働き尽した後に、この王国の港に保護を求めて入港するほど大胆な海賊はかつていなかった。このような場所では、スミスの場合のように、何かの失敗や事件がたちまち一味の破滅につながるからである。門出を血で染めようと決意し、それを実行した尋常ならざる悪党どもに、天罰が下ったのである。

　一味はスコットランドから、軍艦「グレイハウンド」号でイングランドへ護送され、マーシャルシー監獄につながれた。一、二日後、一味の副官だったウィリアムズがリスボンからここへ送られてきた。神が、彼らは一緒になって罪を犯したのだから罰もともに受けるべきであると配慮されたかのようであった。一七二五年五月二十六日水曜日、以下の罪人が有罪と確定し、死刑の宣告を受けた。すなわち、船長ジョン・スミス（彼は航海中、ゴウと名乗っていた）、副官ジェームズ・ウィリアムズ、ダニエル・マッコーレイ、ピーター・ローリンソン、ジョン・ピーターソン、ウィリアム・メルヴィン、ジョン・ウィンター、ジェームズ・ベルヴィンおよびアレキサンダー・ロブである。ウィリアム・ハーヴェイ、ロバート・ティーグおよびロバート・リードは無罪となった。また、大型ボートで脱走した乗員らは、裁判にかけられることはなかった。

　ジョン・ゴウは弁論を拒否した。このため、法廷は彼の両手の親指を皮紐で縛るよう命じた。刑吏その他の役人が何回かにわたってこれを行ない、遂に皮紐が切れてしまった。それでも彼が頑強に拒否し続けたので、法廷は、「被告の死刑を強制執行する」と宣した。このような場合、これが法の命ずるところであった。獄吏は、彼をニューゲートに連行し、翌朝刑の執行を見届けるよう命ぜられた。こうして法廷は他の囚人の裁判に進んだ。

　しかし、強制執行がどのようなものか、それがどれほど苦しいものかを知るとゴウの決意は萎え、もう一度法廷に立たせてほしいと願い出た。彼は改めてギャレー船「ジョージ」号船長オリヴァー・フェルノーの殺害その他公海上での重罪海賊行為に関する起訴状の認否を問われた。これらすべてについて彼は無罪を主張した。しかし事実は明白に証明され、彼は弁論の余地もなかった。ただ、フュルノーを撃ったピストルは暴発したのだ、と主張したのみだった。有罪は確定した。

　六月十一日、船長ゴウ、副官ウィリアムズ、砲手ローリンソン、甲板長ベルヴィン、ダニエル・マッコーレイ、ジョン・ピーターソン、ジョン・ウィンター、およびウィリアム・メルヴィンは、ワッピングの海賊処刑場で処刑された。数日後、アレキサンダー・ロブの刑が執行された。彼は、一味に捕らえられた船の乗員だったが、海賊の仲間になったのである。最初の二人は、後に鎖に吊されて晒しものになった。





19　フィリップ・ロシュ他の海賊行為、殺人その他の犯罪





　フィリップ・ロシュはアイルランドに生まれ、少年のころから船乗りとして育った。死んだときは三十歳、快活で上品なものごしの青年だった。彼の端正な顔立ちは、およそ、その腹悪く野蛮な性格に似合わなかった。これから話す恐ろしい殺人を犯す以前から、彼はずっと悪事を続けていたのである。

　この鬼畜のような男は、仲間と共謀して、幾隻もの船に多額の保険を掛けてからそれらを破壊したり、さまざまな悪事を重ねて、かなりのかねを蓄えた。それからある船の航海士になり、さらに独立してアイルランドとフランスの間の貿易に精を出した。こうして安楽な暮しへの道を進んでいた。しかし、彼はかねもちになりたいと思っていたが、堅気の商売ではかねは遅々としてたまらないと悟り、他の手段を考えたのだった。彼は、その憎むべき計画を遂行しながら、幾人かの無辜の人々を殺したに違いない。しかし、私はこれらに関する委細を忘れてしまったから、ここでは、死刑の判決を受けた犯罪についてだけ話そうと思う。

　ロシュは、コークで漁師のニールという男と知り合った。悪い事なら何でもしそうな男だとわかったから、彼は自分の企みをニールに打ち明けた。ニールはその計画に大喜びし、仲間のビアース・カレンと自分の弟、そしてもう一人、ワイズという男を陰謀に誘い込んだ。最初ワイズは一味の仲間になることをひどく嫌がった。実際、この男はこれから話す一味の犯罪にほとんど加担しなかったのである。

　一味は、その非道な目的を実行するために、港に碇泊していたフランス人ピーター・タルトゥー船長の船に目を付けた。この船は小型で、乗組員も多くはなかったから、あとで海賊稼業にもっと適した船と取り換えるのに便利だと考えたのである。彼らは、この船の目的地であるナントまで乗船させてほしいと船長に頼んだ。こうして一味は船に乗り組んだ。一七二一年十一月初めのことであった。フィリップ・ロシュは経験豊かな船乗りだったから、航海中船長の信任を得、時に船を任された。そのような時には、船長と航海士は休息するのだった。

　一味は、十一月十五日を決行の日とした。しかし、フランシス・ワイズは船の人びとが気の毒になり、一味の血なまぐさい計画を変更させたい様子だった。ロシュ（彼は時に船長と呼ばれていた）は、ワイズに向かって言った。「カレンと俺は海で大損害を被った。フランス野郎を皆殺しにして船を奪い、俺たちの損害を取り戻すのを手伝わねえなら、アイルランド人はだれでもフランス人と同じ目に遭うことになるぜ。もし手伝うなら、獲物の分け前だってやろうじゃねえか」。この言葉で一味の決意は固まり、ロシュ船長は三人のフランス人乗員と一人の少年に、トプスルを降ろすよう命じた。船長と航海士は船室で寝ていた。最初の二人がマストから降りてきたところを、一味は頭を殴りつけ、海に投げ込んだ。これを見ていた残りの二人はトップマストの上まで昇って逃げた。カレンが二人を追いつめ、少年を腕に抱えると、海に投げ込んだ。それから残った一人を甲板へ追い落した。下で待ちかまえていた仲間が彼の頭を打ちのめし、やはり海に投げ込んでしまった。

　寝ていた船長と航海士は、殺される人びとの恐ろしい叫びとうめき声で目を覚ました。そしてこの異常な声は何事かと、慌てて甲板へ上った。しかしそこには殺された人びとと同じ運命が待ちかまえていたのである。

　後にロシュが自白した言葉によれば、これで一味の仕事はすっかり片づいた。一味は、水にどっぷり漬かったか雨にずぶ濡れになったように血を浴びたが、気にもしなかった。このときタルトゥ船長は言葉を尽して慈悲を請い、自分は彼らに親切にしたではないかと言い、君たちも同じキリスト教徒ではないのかと問うた、と後にロシュは語った。しかし一味は船長の言葉には耳も貸さず、彼と航海士を背中合せに縛り上げた。二人は最後の数分間を、神に祈りを捧げさせてほしいと誠心誠意願った。だがこれも一味の心を動かすことはなく、二人は直ちに海へ投げ込まれてしまったのである。

　殺戮は終った。一味は手についていた血を洗い落すと、船中の衣装箱や戸棚を漁った。それがすむと船長室へ集まり、そこにあったラム酒を飲んでくつろいだ。ロシュの自白によれば、一味にとって生涯これほど楽しいことはなかったという。一味はロシュに指揮を委ね、彼を船長と呼んだ。そして仲間を増やし、もっとよい船を手に入れたら、直ちにブレトン岬やセーブル島やニューファンドランドに航海して、すばらしい冒険をしようではないかと、グラスを傾けながら、語り合った。

　ロシュは船の指揮をとり、アンドリュー・カレンは商人になりすました。しかし、船ふな積づみ書類から正体がばれるのを恐れてそれらの書類からフランス人船長の名前を消し、代りにロシュの名前を書き入れた。こうして、船長はピーター・ロシュである、ということにした。また、乗員の数が少なすぎたから、別の船に遭遇したら、嵐で乗組員の幾人かが波に攫われてしまったのだと説明して一味が悪事を働いたことを疑われないようにしようということになった。また、別の船に出合ったら、乗員を幾人か融通してほしいと頼むことにした。

　カディスへ向かう途中、一味は悪天候に見舞われた。そしてリスボンの近くで遭遇した船に援助を求めたが断られた。一味はやむなくイングランドへ戻り、ダートマスへ入港した。しかしここで正体が露見するのを恐れ、船を改造することにした。職人に頼んでミズンマストを取り去って上甲板を作った。また乗員保護用の手摺りも作った。（これで乗員が波に攫われたように偽装したのである。）さらに、ペテロの船首像を外し、代りにライオンの像を取り付けた。また船全体を赤く塗り「メアリー」号と名付けた。このように船を改造すると、一味はよもや正体がわかることはあるまいと思い、安心した。しかし船の改造費を支払わねばならず、船長ロシュと商人アンドリュー・カレンは、積荷の一部を売り捌きたいと税関の役人に願い出た。申し出が認められ、一味は牛の肉五十八樽を売った。そして三人の水夫を雇い入れるとオステンドへ向け出港した。この土地でさらに牛の肉数樽を売って、一味はロッテルダムへ針路をとった。ここで残りの荷を処分した。そして、アネスリーという人のイギリス向けの荷物を引き受けて船に積み込んだ。しかし航海の途中、ある嵐の夜、一味は荷主として乗船していたアネスリー氏を捕らえ、海に投げ込んでしまったのである。彼は、助けを求めながら、かなり長い時間泳いだ。そして、船に引き上げてくれたら、自分の商品は全部やると叫んだ。しかし、すべては無駄であった。

　その後、幾つかの港へ帰港したが、逆風に流されてフランスの沿岸まできてしまった。そこでロシュは船の捜索が行なわれていると聞き、アーヴル・ド・グラースで下船した。船はカレンその他の残った乗組員に任せた。彼らは乗員を幾人か雇い、スコットランドへ向かい、そこで船を手放した。船は後に拿捕され、テームズ河に回航された。

　これよりしばらくして、フィリップ・ロシュはロンドンへ向かった。そして以前、ジョン・ユースタスという名前で申し込んであった保険金を請求した。しかし係員はこれが詐欺だと見破った。ロシュは逮捕され投獄された。彼はそこから妻に手紙を出した。妻がそれを友人に見せたところ、友人は、ロシュがピーター・タルトゥー船長とその乗組員を破滅させた張本人だと見抜いた。直ちに、ジョン・ユースタスの名を騙っているのは、フィリップ・ロシュであると当局に通報された。こうしてロシュに対する令状が出されたが、彼は頑なに犯行を否認した。彼のポケットから発見された手紙の宛名にロシュの名が使ってあったのを見せられても、なお否認を続けた。しかし、彼をよく知っている船長に対面させられて、ついに犯行を自白した。それでもなお幾つかの事実については言い逃れした。彼は海賊の嫌疑でニューゲートに送られた。翌日、彼は自ら願い出て再び取り調べを受け、すべてを自白した。そして証言を希望し、自分よりもっと悪い奴が三人いると言った。このうち二人が発見されたが、彼らはマーシャルシーの監獄で惨めな死にかたをした。ロシュ自身は後に裁判に付され、海賊行為で有罪となり処刑された。





　ローリー船長が指揮するブリストル籍のブリガンティーン船は、アフリカのガンビアで貿易に従事していた。そしてマウント岬まで南下して仕事を終了しようとした。しかし、この沿岸ではよく起こることであるが、上陸した航海士、船医その他二人の乗員が原住民に連れ去られてしまったのである。残った五、六人の乗員はこの機に乗じて船を奪い、船長を捕虜にした。

　読者は、こんな小人数の、しかも航海に長けていないような連中が海賊稼業に乗り出す等ということは、身の程知らずも甚だしいと思われるであろう。しかし連中は、仲間の航海士らを野蛮な原住民の手に委ねたまま、海賊業に乗り出した。そして海賊の旗をこしらえて、こいつは五十人分位の力があると言ってうれしがった。この旗を見れば相手は脅えてしまうだろうというのである。すぐに仲間も増え、大きな仕事ができるようになることを疑わなかった。しかし彼らの計画は間もなく挫折した。

　捕虜になったローリー船長は（恐らく一味は自分たちの未熟な航海術を補うだけの目的で彼を生かしておいたのだろう）、一味の期待に反してマウント岬とカラバーの間で一隻の獲物にも遭遇しなかったから、セントトマス島まで航海し、そこで乗員を募り食糧と水を補給し、また一味の計画にとって無用な荷物でしかない奴隷を売り捌いたらどうかと提案した。一七二一年八月、一味はセントトマス島に到着した。ある夜、幾人かの乗組員が島の総督のところへ援助を申請するために上陸し、残った連中が不注意にも甲板から離れているのを見て、ローリー船長は船のボートに忍び込み、突然船から離脱した。一味はこの物音を聞きつけてすぐ甲板に上がったが、ほかにボートはなく、すぐ発砲できる銃もなかった。船長は無事上陸し、総督のところへ直行して事情を訴えた。総督は直ちにそこにいた海賊を逮捕し、またランチを派遣して残りの一味も捕らえたのである。

　十月初旬、この島に「スワロー」号が到着した。そして、ローリー船長の要請に基づき、島の牢に監禁されていた五人のイギリス人の引き渡しを総督に申請した。しかし総督は、ポルトガルの宮廷から命令を受けていないから自分には囚人を引き渡す権限がないと言って拒絶した。そればかりか、これらのイギリス人は、船長から酷い待遇をされて逃げ出してきたというようなことさえほのめかしたのである。私はポルトガル人の拒絶的で欲の皮の張った性格を以前に聞かされたことがあるが、総督は私腹を肥やそうとしていたのではないかと十分に疑われるのである。乗員のぎこちなく不審な態度には、総督ならずとも疑いを抱いたに違いないが、もしローリー船長が総督のところへ逃げてこなかったら、一味に対する疑いの口止料として、船の奴隷は徒らに総督のものになっていたと思われるのである。しかしこの話はこれだけにしておこう。このような手合いを相手に利益を貪っている植民地総督は、恐らく彼だけではないのだろう。





20　ミッソン船長と乗組員





　この海賊紳士については、少々詳しい話をすることができる。というのも、まったくの偶然から、私は彼が自分の冒険を綴ったフランス語の手記を入手することができたからである。彼はプロヴァンスの旧家に生まれた。父親（彼は父の名前を伏せている）は財産家だったが、子だくさんだったため、彼は自ら剣をもって自分の運命を切り拓くほかなかった。両親は、彼に家柄にふさわしい教育を受けさせた。彼は古典語と論理学を修め、数学にも並々ならぬ才能をみせたが、十五歳になるとアンジェ〔フランス革命前まで有名な大学があった〕へ行き、さらに一年間修学した。家に帰ったとき、父親は彼を銃士隊に入れるつもりだった。しかし、彼は放浪を好み、数々の旅行記を読んで多くの影響を受けていたこともあって、船乗りの仕事を選んだ。そのほうが銃士隊の生活より変化に富み、またさまざまな国を訪れて好奇心を満足させることもできると考えたのである。彼が自分の道を決めると、父親は親戚のフルバンという人に紹介状を書き、その人の指揮している「ヴィクトワール」号に息子を見習い水夫として乗り組ませてほしいと頼んだ。そして息子に必要な身仕度をしてやると、この紹介状を持たせて送り出した。「ヴィクトワール」号はマルセイユに碇泊していた。船長はミッソンを心から歓迎した。そして彼が船に乗るとすぐ出港を命じた。この航海ほど彼の心に適ったものはなかった。彼は地中海の有名な港のほとんど全部を知り、航海術も身につけた。彼はますますこの生活が気に入り、一人前の船乗りになる決意を固めた。彼はいつもまっさきに帆桁に登り、帆を取り扱った。そしてさまざまな操船方法を熱心に学んだ。彼は船以外のことは一切話題にしなかった。そして甲板長と大工を自分の部屋に招き、船の構造や艤装の方法を教えてもらい、彼らには相応な礼をした。こうして、かなりの時間をこの二人と過ごしたが、言動には十分気を使ったから、彼らはミッソンに慣れ慣れしくし過ぎることは決してなく、常に彼の家柄に敬意を払った。船がナポリに着くと彼は船長から休暇をもらい、かねてから訪れたいと思っていたローマへ向かった。彼の不幸はこの地で始まったといってよいだろう。

　このキリスト教教会の首都で聖職者たちの放縦な生活ぶり（フランスの僧たちの規律あるそれとはまったく違っていた）、教皇庁の驕奢、そして形骸だけの宗教をみて、彼は、一切の宗教は弱い人びとの心の桎しつ梏こく以外のなにものでもなく、利口な連中はうわべだけそれに恭順しているにすぎないのではないか、と考えるようになった。このような考えは、宗教にとっても彼自身にとっても非常に危険だったが、偶然知り合った破戒僧によってさらに強められる結果となった。この僧は、ミッソンが到着したとき、まったくの偶然から、彼の聴罪司祭となったが、後に彼の終生の友となった。ある日、彼はミッソンに、やまけがあって幾人かの友人がいれば、宗教はなかなかいい商売だと話した。彼の言うところによれば、そのような男なら、自ら僧門に入った分別ある連中の目当てとなっている教会のしかるべき地位に出世するのも早いのである。また、教会の内部は世俗の国家と同じ権謀術数が支配している。つまり、価値や徳ではなく、利益になることが重んぜられているのである。もはや、教皇領内には、他のいかなる政体にもまして、敬虔で学問ある人間の希望は存在しないのである。これが現実であり、宗教と政治は決して両立しないというのが格言であるから、良心などという有害なものを持った男は、役立たずの夢想家として拒絶されるのである。僧侶らは、紫の法衣を纒まとっているからといって俗物根性が薄れるわけではなく、どんな世俗の人間にもまして、良心の痛みを感ぜずに私利を追求しているのである。また、術策が必要な場合はあくまで狡猾であり、権力をふるえる場合はあくまで厚顔破廉恥に人びとを威圧し、自分たち一族の権勢を拡大しようとするのである。彼らの品行は彼らの日々の行ないを見ればわかる。また多くのものはさほど愚かではないけれど、彼らの心は、ある枢機卿の言った Quantum Lucrum exista fabula Christi（キリストに関するたとえ話からどれほどの儲けがあることか） という言葉からもわかろうというものだ。

「私はもうこんな茶番がすっかり嫌になった。それに私はまだ若いから、役得のある地位につくまでには何年間も下積み生活をしなくてはならないだろうし、贅沢を楽しむころには老人になってしまっているのではないかと思う。私は自制のきかない男だから、教会のしかるべき地位につくまで、偽善でとりつくろいながら大人しくしていられるとも思えない。だからすぐにでもこんな仮面劇みたいな生活とはおさらばしたいと思っている。両親は、私の才能をよく見極めてくれなかったらしい。そうでなければ、数珠なんかではなく、ひと振りの剣を私に与えてくれたはずだ」。

　ミッソンは一緒に見習い船乗りになるよう彼を誘い、身仕度する金を用立てようといった。僧はこれに小躍りして喜んだ。船長からミッソンに手紙が届いた。船はレグホーンに向かうから、ナポリで乗船するか、陸路レグホーンへ行くかどちらかにするよう指示していた。ミッソンは後の方を選んだ。ドミニコ修道士はミッソンからもらったかねで服装を整えると、それまでの生活にきっぱり見切りをつけて、ピサへ向かった。二日後、そこで待っていたミッソンと合流すると「ヴィクトワール」号の碇泊するレグホーンへ向かった。こうして、ミッソンの紹介により、シニョール・カラチオーリは乗組員として乗船を許された。二日後、船は出港した。一週間後、二隻のサリーの船に遭遇した。一隻は二十門、他の一隻は二十四門の砲を備えていた。「ヴィクトワール」号には四十の砲門があったが、実際に装備していた砲は三十門しかなかった。交戦は長時間にわたり凄惨を極めた。サリー船は「ヴィクトワール」号を生け捕りにしようとした。しかしフルバン船長は敵の手に落ちることなど毛頭考えず、逆に敵船を捕らえることができなければ、自沈する決意でいた。サリー船の一隻はスペインのイスラム改宗者が指揮していた。彼は大尉でしかなかったが、船長が年少で海事の知識がほとんどなかったため、船を任せられていたのである。

　この船は「リヨン」号といった。指揮官は何度も「ヴィクトワール」号に接舷しようとした。しかし、吃水線に命中弾を受け、離脱せざるを得なくなった。「リヨン」号は大砲その他の重量物を片舷に移して船を傾け、浸水を防ごうとしたが、船体が大きく傾きすぎて転覆してしまった。乗組員は一人残らず海に呑まれてしまった。この惨劇をみた敵の僚船は、すべての帆を張って全速で逃げ出そうとした。しかし「ヴィクトワール」号はその退路を断ち、決戦を迫った。敵船の抵抗は頑強だった。フルバン船長は、斬り込みを決行しなければ敵を捕らえるのは不可能だと判断し、直ちに準備にかかった。命令が下されると、カラチオーリとミッソンは真っ先に甲板にとび出した。しかし彼らとそれに続く乗員たちは、死にもの狂いの敵に撃退された。カラチオーリは大腿部に敵弾を受け、船医のところへ運ばれた。「ヴィクトワール」号は再び斬り込みを試みた。敵は決死の覚悟で応戦した。敵船の甲板はたちまち敵味方の死体で埋まった。ミッソンは、敵の一人が火の付いた導火線を手に主昇降口に飛び込むのを目にして、その意図を察し、まなじりを決してあとを追った。そしてサーベルの届くところまで迫ると、まさに火薬に火が付けられようとする瞬間、この敵を斬り倒した。「ヴィクトワール」号はさらに多くの乗員を送り込んだ。もはや抵抗しても無駄とみたイスラム教徒たちは、厨房や操舵室に逃げ込み、また甲板の間に逃げ込んだものもいた。フルバン船長は生き残った敵を捕虜にして「ヴィクトワール」号に監禁した。そして敵の奴隷になっていたおよそ十五人のキリスト教徒を自由の身にした。

　それ以外には、めぼしい獲物は何もなかった。敵船は捕虜ともどもレグホーンで売却された。トルコ人は多数の犠牲者を出した。一方フランス側は、斬り込みで三十五人の死者を出したに過ぎなかった。これは、サリー船がフランス船を生け捕りにするつもりで、主にマストや索具を狙って射撃したため、大砲の砲弾による犠牲者がほとんどいなかったからである。航海の日数もなくなり、「ヴィクトワール」号はマルセイユへ帰港した。ミッソンは友人を伴って両親の家へ行った。船長は、勇敢な行為を称賛した両親宛の手紙を持たせた。彼はひと月ほど両親の家に滞在した。船長から、船がラロシェルへ行き、さらにそこから数隻の商船とともに西インド諸島へ向かうことになったと手紙で知らせを受けた。これはミッソンとカラチオーリにとって願ってもないことであり、二人は直ちにマルセイユへ向け出発した。マルセイユは要塞堅固な街で、四つの教会を持ち、人口はおよそ十二万であった。その港は地中海で最も安全とされ、フランスのギャレー艦隊の基地になっていた。

　マルセイユを離れ、一行はラロシェルへ針路をとった。ここで、商船の用意がまだ整っていなかったので「ヴィクトワール」号は入渠した。ミッソンは無為に日を送るのが嫌だったから、イギリス海峡へ向け出港しようとしていた「トライアンフ」号で航海しようとカラチオーリを誘った。イタリア人の友は、一も二もなくこれに応じた。

　ガンジー島とスタート岬の間でバラディーン船長が指揮する砲十八門を備えた商船「メイフラワー」号に遭遇した。この船は荷を満載してジャマイカからの帰途だった。イギリス船の船長は勇ましく抗戦し、長時間持ちこたえた。フランス船はこれを捕らえ、港に連行することができなかった。しかしイギリス船の浸水が激しく、ポンプの排水では間に合わなくなったため、四時間後、船長以下乗組員は船を見棄てた。フランス船のルブラン船長は、バラディーン船長を丁重に迎え、彼や乗組員の衣服を剥ぎ取るようなことはしなかった。そして、「そのような扱いは卑怯者に対してすることです。勇敢な人びとに対しては、たとえ敵であっても、兄弟と同じように処遇すべきです。自分の任務を果した勇者を虐待するのは、小胆者の復讐でしかありません」と言った。船長は、捕虜に衣服箱を与えるよう命じた。これに不満そうな部下にはフランス王国の威光を思い起こさせ、自分たちは海賊でも私掠船の乗組員でもなく、武人として敵の見本となるようふるまい、また自分たちが遇してもらいたいように敵を遇すべきであると言った。

　一行はイギリス海峡をビーシィ岬まで航海した。その帰路、五十門の砲を備えた三隻の船に遭遇し追跡されたが「トライアンフ」号の船足は速く、三時間半もすると追手は視界から遠ざかってしまった。こうして船は全速でランズエンド岬を目差した。八日後、一行はコーンウォール半島を回ってブリストル海峡に入り、ナッシュポイントまで近づいた。そこでバルバドスからきた小型船を捕らえ、さらに北へ向かった。夕刻、一隻の船を発見し追跡したが、夜になり見失った。「トライアンフ」号はミルフォードまで足をのばした。そこで船影を認めた。この船の退路を絶とうとしたが、相手が退避港に逃げ込んでしまい、不可能だった。しかし「トライアンフ」号は非常な快速でこの船に近づいていたから、もう少し長く追跡を続けていたら、確実に捕捉していたに違いない。バラディーン船長は遠眼鏡をとると、あれは自分の船と「チャールズ」号とともにジャマイカを出港したブリストル籍の「ポート・ロイヤル」号だ、と言った。

　こうして一行は帰国し、ブレストで獲物を売却した。そしてバラディーン船長の希望を入れて、彼をそこで自由にした。ルブラン船長は生活資金として彼に金貨四十枚を送った。彼の乗組員もここで別れた。

　この港の入口で「トライアンフ」号は岩礁に乗り上げてしまったが、損害はなかった。港口はゴンレットと呼ばれ、両側に多くの岩があって非常に危険な場所だった。しかし、港そのものは、フランスでも最良の港であった。港口は強力な要塞で防禦されていた。街も要害堅固であり、さらに強力な砦で固めていた。一六九四年、イギリス人が来襲してきたが、指揮官以下、多数の兵を失って、散々に蹴散らされた。「トライアンフ」号はここからラロシェルへ戻った。ひと月後、ミッソンとカラチオーリは「ヴィクトワール」号の人となり、マルティニークおよびグアダループへ向かった。この航海では特にとりたてて述べるほどのことは無かった。

　ここでカラチオーリのことを少し話しておこう。彼は野心的である反面、信仰心がなかった。このころには、彼はミッソンを完全な理神論者にしてしまった。そして、すべての宗教は人間の政治にほかならないと悟らせた。モーゼの律法は人民を治めると同時に保護するためのものに過ぎないと説いた。彼に言わせれば、例えばアフリカの黒人は、神とその民の契約のしるしとされている割礼のことをだれから聞いたわけでもないのに、子供に割礼を施しているが、これは南の土地に住んでいるユダヤ人やその他の民族がするのと同じ理由からで、包皮に分泌物がたまると命にかかわることになるからである。とどのつまり、彼はユダヤ教、キリスト教、イスラム教のあらゆる儀式を爼上にのせ、多くの愚劣なことからもわかるようにこれらは啓示を受けた人間の掟とはおよそ懸け離れたものだ、とミッソンに説いた。モーゼの創造の話は世よ迷まい言ごとであり、新約聖書や旧約聖書に書いてある奇跡などは理性と矛盾すると言った。神は、われわれに現在そして将来の幸福を授け給うたのであり、これに反することはすべて間違っている。理性は、われわれに、森羅万象の最初の原因があることを教えるが、それを神と呼ぶのだ。そしてまたわれわれの理性が、神は永遠でなければならず、一切の完全なものの創造主として限りなく完全でなければならないと教える。そうであるなら、神は愛であれ憎しみであれ、一切の感情を超絶し、常に変ることなく、今日の行ないを明日悔いるなどということはあり得ない。神は完全に幸福であり、従って永遠の平安な状態につけ加えるものは何もなく、われわれは神を崇めるけれども、われわれの崇拝がこの幸福を増すのでもなければ、われわれの罪がそれを減じるわけでもない、と論じた。

　しかしこのことに関する彼の議論はあまりに長くまた危険であって、ここに訳出するわけにはゆかない。彼の議論は精妙を極め、そのまやかしを見破ることのできない弱い人びとにとっては非常に有害となろう。また、感情をいら立たせ束縛する堅苦しいキリスト教の教義を捨てたがっているものにとっては、彼の議論は好みに合って、それを深く吟味しようともせず、気に入った部分に心酔し、良心の言い訳を見つけて喜ぶことになるだろう。しかし、将来の国家に関する彼の意見は何らキリスト教を排撃するものではないから、以下に簡単に紹介しておこう。

　彼はこう言うのである。「われわれが自分の内部に知覚する理性は精神とも呼ぶけれども、その精神が何たるかはわれわれにとって未知である。それは肉体とともに死滅するかもしれないし、生き延びるのかもしれない。私は、それは不滅だと思う。しかし、こう考えることが理性の命ずるところなのか、あるいは教育による偏見なのかは、私にはわからない。それが不滅だとすれば、神霊から生じたものでなくてはならず、従って、それが肉体から離れたら、第一原理に戻ってゆくはずだ。ここで私は理性に従って考えるのだが、もし精神がその第一原理、すなわち神霊から疎外されたとすれば、人間が考え出すどんな拷問も、この放逐に匹敵することはないだろう」。

　彼は乗組員にこのような談話をし、幾人かの帰依者を得た。彼らは、カラチオーリを、宗教の悪弊を改革するために立ち上がった新たな予言者だと思った。彼らの大多数はラロシェルの出身でカルヴィニズムに染まっていたから、彼の教義はいっそうよく受け入れられたのである。自分の宗教論議の効果を知った彼は、次に政治を論じ、すべての人間は自由なものとして生まれ、自分の命を維持するものに対しては、呼吸する空気に対すると同様の権利を持っている、と説いた。神の無慈悲と不公平を責めるのとは逆であった。なぜなら、神は貧困の生活を送らせるために人間をこの世にもたらされたのではないのであり、奢った生活をするものがいる一方で赤貧にあえぐものもいるという人びとの間の途方もない差は、単に、一方に強欲と野心があり、他方に無気力な服従があることによるのである。最初は自然状態しかなかった。つまり、父権である。どの父親も家族の長であり、君主であり、王であった。そして父親に従うことが正しくもあり、楽でもあった。父親は子供たちに対して深い慈しみの心を持っていたからである。しかし、次第に人びとの心に野心が忍び込み、強い家族が弱い家族を攻め、奴隷にした。こうして次々と他の家族を征服して大きな力を蓄えたものが、最初の国家になったのである。力とともに自惚れが昂じ、人間は、神がその創造物に対して持つ特権をも侵すようになった。創造物の命を奪うことである。これは、人間が自分自身に対しても持っていなかった特権である。なぜなら、人間は自分の意志でこの世に生まれたのではないから、造物主が定めた期間生きるべきなのである。たしかに、戦争による死は、われわれの生命を維持するためのものであるから、自然法によって許される。しかし、われわれが生存してゆくために必要な、この世の取り分であるところの自然権を守る以外は、いかなる犯罪も罰せられるべきであり、またいかなる戦争も起こすべきではない。

　彼は以上のようなことを熱っぽく語った。そして、ミッソンに、自分たちの政府をつくろうと相談を持ちかけた。ミッソンも、カラチオーリと同じく野心に富み、確固たる意志を持っていた。そして二人とも、敏腕の船乗りに成長し、船の運営にも長けていた。カラチオーリは、このことについて乗組員の意志を打診した。彼らは皆、非常に乗り気だった。

　カラチオーリがその計画を実行に移すのに好都合な事件が起こった。彼はその機会を逃さなかった。一行がマルティニク島沖を航海しているとき、ジョーンズ艦長が指揮する備砲四十門のイギリス軍艦「ウィンチェルシー」号に遭遇した。両船は接近し、激しい戦闘になった。最初の斉射で「ヴィクトワール」号の艦長、副艦長、そして三人の副官が死んだ。一人残った士官は降伏しようとした。しかしミッソンは剣を手にして、カラチオーリに副官を務めるよう命じ、士官を激励してなお三時間戦いを続けた。突然「ウィンチェルシー」号に爆発が起こり、副官フランクリン以外は乗員全員が海の藻屑となった。フランクリンは「ヴィクトワール」号のボートに救出されたが、二日後に死んだ。この手記が私の手に入るまでは「ウィンチェルシー」号遭難の原因はだれも知らなかった。この船の船首がアンティグア島に漂着し、その二、三日前に大きな嵐があったから、船はこの嵐に遭って沈没したのだろうと言われていたのである。戦いが終るとカラチオーリがミッソンのところへやってきて、「船長」と呼んで敬礼した。そして「君はこれからずっと指揮をとるつもりかどうか聞かせてほしい」と言った。「君はそれをいま決断しなければいけない。マルティニク島へ戻ってからでは遅すぎる。君が戦いで救った船は人手に渡ってしまうだろうし、マルティニク島の連中は、君を副官にとり立てるぐらいで十分と考えるだろうが、それは公正とは思えない。君はいま運を手中にしている。それをしっかり掴えるか逃がしてしまうかは君次第だ。しかし、もし逃がしてしまったら、再び運が向いてくるようなことはないだろう。君は、自分の境遇をしっかり見つめなくてはいけない。良家に生まれたけれども、兄が大勢いて自分を助けてくれるものはない。そして世に出るためには何年も血が滲むような努力をしなければならない。それに、命令する立場と命令される立場の隔りの大きさを考えてみたまえ。君は船を手中にし、勇敢な乗員を指揮し、ヨーロッパの列強に挑み、ほしいものはすべて手に入れ、南の海に君臨し、自然法により与えられた自由という権利を奪う全世界に対して合法的に宣戦布告できるではないか。いずれはペルシャのアレキサンダー大王のようにだってなれるかも知れない。次第に力を増強して、日々、自分の主義の正当性を強固なものにしてゆける。なぜなら、権力を持つものは常に正しいからだ。ヘンリー四世やヘンリー七世がイギリスの王位に就いたときの勢力は今の君のそれに及ばない。モハメッドは数人の駱駝馭者とともにオットマン帝国を築いた。ダリウスは、六、七人の仲間とペルシャを手中にしたではないか」。

　カラチオーリの熱心な言葉で、ミッソンはこの勧めに従う気になった。そして、乗組員全員を集めてこう言った。「諸君の大多数が私とともに自由に生きる決意を示し、私を指揮官に選んでくれたことを光栄に思う。私はだれも強制するつもりはないし、他人の不当を責める以上自分もそれで責められるべきだと考える。だから、私は、自分の運命は諸君と一体であると約束するけれども、私に従いたくないものはだれでもそう言ってほしい。帰国に都合のよい土地で上陸できるように取り計らうつもりだ」。彼の演説が終ると、全員一斉に叫んだ。「ミッソン船長万歳。カラチオーリ先生万歳」。ミッソンは、皆から与えられた栄誉を感謝し、自分の権力を全体のために役立てると約束した。そして、「諸君は自由を擁護する勇気を持っているのだから、全員一体となってそれを守り、全体のために必要な場合は私を助けてほしい」と言った。「私は諸君の友であり仲間だ。権力を濫用するようなことは決してしない。しかし、必要なときには私に従ってほしい」。

　乗組員は再び「船長万歳」を叫んだ。ミッソンは皆に副官を選び、共通の問題を相談し決定する権限を与え、副官と船長が決定したことには従うと宣誓してほしい、と言った。彼らは直ちにこれに応じ、二等副官、三等副官、甲板長、操舵手、そして砲手を選んだ。

　こうして選ばれた代表が承認され、すべての手続きは滞りなくすんだ。全員の承諾があって、代表は大船室に集まり、今後の針路を討議した。船長は、スペイン沿岸が最も獲物がありそうだから、そこへ行こうと提案した。全員がこれに賛成した。次いで甲板長が、われわれはどんな旗の下に戦うのかと尋ね、敵を最も脅えさせる黒旗はどうか、と言った。しかしカラチオリーはこれに反対し、「われわれは海賊ではなく、神と自然法が与えてくれた自由を擁護することを決意した仲間であり、だれにも服従せず、全体の利益のために奉仕するのだ」と言った。

「政府がその役割を知り、人民の権利と自由を守る夜警として機能し、正義が平等に行なわれているかどうか注意し、富んで力あるものが弱者を抑圧しようとするときは彼らに対する障壁となり、また自分自身や父祖が他人に対して行なった侵害の結果不当に多くの富を蓄えたり、あるいは悪人や冷酷な債権者の手にかかったりその他の不幸によってひどく貧乏するような人のないようにするのであれば、そのような政府に服従することもたしかに必要だろう。為政者が公平な眼をもって、人びとの利益となること以外は許さず、人民の上にあぐらをかいて贅沢な暮らしをするのではないなら、彼は人民に対する心づかいと保護によって、真の父親といえる。しかし人民の統治者たる為政者が、その地位を立身と考え、日々虚飾と奢りの生活に耽り、人民を自分の使役と楽しみのための奴隷と見み做なして、自分の気に入った側近の限りない欲望と専制にまかせるなら、そのような政治は暴虐、貧困、その他人生のあらゆる難儀以外の何ものももたらさない。このような君主は自分の野心を満たすため、あるいは隣国の君主を援助するために人民の生命と財産を惜しみなく使う。人民が生来の権利を守ろうとすれば、自らの支配を強めようとするであろうし、軽卒で無思慮な側近の意見に左右されて無用な戦争を始め、敵に対抗できなければ講和を買って人民を枯らすのだ。君主の私利のために民間の貿易が蔑ろにされ、軍艦が徒いたずらに港に繋留されるならば、商船は敵に拿捕されるままになる。敵は貿易を妨げるばかりか、味方の沿岸を荒らすようにもなる。不当な権利侵害を正すことができず、弱いものが甘受している惨めな境遇をともにすることを拒否し、暴政に屈服することを潔しとしないなら、それは、くびきを振り払おうとする高潔で偉大な精神の現れなのだ。そして、われわれこそ、そのような人間である。いずれそうなるに違いないが、世界がわれわれに戦いを挑んでくるなら、守るにも攻めるにも、自然法がわれわれの根拠になる。だから、われわれは命知らずで無原則な海賊とはちがうのだ。海賊の旗を使うのはやめよう。われわれの主義は雄々しく公正で、汚れなく高貴である。われわれは自由を主義とする。だから、私は白地に『自由』の字を染めてわれわれの旗とすることを提案する。さらに標語がほしいなら、われわれの正しさと決意を表明して、A Deo a Libertate（神と自由のために）とするのがよいと思う」。

　船室の戸は開けたままになっていた。隣室との間にある帆布製の間仕切りも巻き上げてあった。次室には乗組員が立錐の余地もないほど入り、聞き耳を立てていた。彼らはいっせいに叫んだ。「自由、自由だ。俺たちは自由人だ。勇敢なミッソン船長万歳。高潔なカラチオーリ副長万歳」。こうして、会議は短時間で終了した。死んだ船長、士官そして乗組員の持ち物が甲板に運ばれ、調べられた。現金は一個の箱にまとめることになった。ミッソンは箱に鍵をかけ、合鍵を代表の一人ひとりに渡すよう大工に命じた。そして、すべては共有されるべきであり、特定の個人の欲望は公衆を欺くものだ、と言った。

　フルバン船長が愛用していた食器を箱につめようとすると、乗組員は口をそろえて、「待って下さい。それは船長が使って下さい。乗組員一同からの贈り物です」と言った。ミッソンはこの申し出を感謝して受けた。食器は船長室に戻され、箱は命令どおり保管された。ミッソンは副官らに命じ、乗組員のうち衣服を必要としているものを調べさせ、死んだ乗員の着ていたものを公平に分配した。これには一同賛成し、拍手喝采した。ミッソンは負傷者を除く全乗組員を甲板に集め、次のように話した。「われわれは全員、権力欲にかたまった連中に侵害された自由を守り、取り戻そうと決意した。これは公正に判断して、正しく勇気ある決意だと思う。そこで諸君全員は一人ひとり兄弟愛を持ってもらいたい。個人的な敵意や遺恨は一切棄ててほしい。そして、全員の確固とした一致と調和を築いてもらいたい。語るも忌まわしい圧制のくびきを振り払うのであるから、だれも専制君主のひそみに倣って正義に背を向けることのないよう希望する。公正が踏ふみ躙にじられたら、困窮、混乱、そして相互不信がはこびるのは目に見えているからだ」。

　彼はまた皆に神のいますことを心にとめるよう忠告し、神に対する畏敬の念は理性と感謝の気持からくるものであり、神と調和すれば最も安心で来世も許されるだろうから、われわれ自身の利益にもなる、と言った。「隷属のなかに生まれ育って、精神が破壊され、高潔な考えがもてなくなった人びとが生来の権利や自由の美しさを知らず、支配者の言うなりになり――それが世の大部分の人びとの姿だろうが――われわれ高貴な乗組員に海賊などという不快な名称を与え、その壊滅に尽力するのがよいことだと考えたとしても、私はいっこうかまわない。従って、野蛮な考えからではなく、自己保存のために、われわれの入港を拒絶するもの、そして必需品を要求しても直ちに応じないすべてのものに対し、私は宣戦を布告する。特に、ヨーロッパ諸国の船はすべて、容赦なく敵とみなす」。さらに言葉を継いで、こう言った。「ここに私は宣戦を布告するが、同時に、捕虜に対しては人道的に寛大に対処することを、同志である諸君にお願いする。これは、高貴な精神を示すということももちろんだが、不幸にもわれわれが仲間割れや気後れなどが原因して、敵に命乞いをしなければならなくなったような場合にも酷い仕打ちを受けないですむと思うからだ」。

　ミッソンは乗員の点呼を命じた。健康な乗員二百名、病人と負傷者三十五名だった。こうしてミッソンと乗組員はスペイン領西インド諸島に船を向けた。一週間乃至十日間、ジャマイカの風上を遊弋することにした。快速を誇る商船のほとんどは軍艦の護衛を待たず、イギリスへの最短航路をとるからであった。

　セントクリストファー島沖で彼らはイギリス人のスループ船を発見するとボートを数隻出してこれを捕らえ、ラム酒二樽と砂糖六樽を奪った。そして乗員には何の危害も加えず釈放した。この船はニューイングランドの船でボストンへ向け航海中だった。船長はトマス・バトラーといったが、後日、セントクリストファー島を出帆した日に自分の船を捕らえたフランス軍艦のように誠意ある敵に出合ったことはなかった、と証言した。それから一味は一隻の獲物にも遭遇しなかった。三日後、大胆にも彼らを追跡してくるスループ船を認めた。ミッソン船長は、一体あのスループ船はどういうつもりでわれわれを追跡してくるのだ、と乗員に聞いた。西インド諸島の事情に詳しい一人の乗組員が答えて言った。「あれはジャマイカの私掠船です。奴らなら、われわれの船に斬り込むぐらいの真似をしても不思議はありません。私は奴らのやり方をよく知っています。まず、めんどうなことになると思ってよいでしょう。そろそろ日が暮れます。奴らはわれわれの戦力をうかがいながら夜中の十二時に見張りが交替するまで、われわれの射程外を追尾し、それから急戦に出てこちらに乗り込んでくる作戦だと思います。ですから、私の提案ですが、乗員全員が小火器を持って、十二時になったら普段のように鐘を鳴らし、いつもより大きな物音をたてて、大急ぎで見張りが交替するかに見せかけ、その間に奴らを交戦に誘い込んだらどうでしょう」。

　提案は入れられた。案の定、スループ船はこの乗員が言ったように行動し、「ヴィクトワール」号の戦力がはっきり分かる距離にまで接近した。「ヴィクトワール」号がフランス国旗を掲げるのを見て、スループ船は風上へ向かった。「ヴィクトワール」号は追跡したが追い付く見込みはなかった。スループ船は巧みな帆さばきで風上に進んだ。「ヴィクトワール」号は夕闇のなかに敵の姿を見失った。しかし夜十一時ごろ、敵船が風上から向かってくるのを認めた。敵がこちらの船に接舷してくるだろうという乗員の予想は当たった。「ヴィクトワール」号は見張りの交替に見せかけて鐘を鳴らした。風はほとんど無かった。敵船は「ヴィクトワール」号のボウスプリットに突っ込んだ。敵が乗り移ってきた。しかし彼らが前部ハッチになだれ込んできたとき、待ちかまえていた「ヴィクトワール」号の乗員に全員捕らえられてしまった。私掠船の乗組員に死者は一人も出なかった。負傷者もほとんどいなかった。ただフランス人が一人負傷しただけだった。「ヴィクトワール」号は敵船の乗員の大多数を捕虜にしたから、乗員の一隊を逆に敵船に乗り移らせた。そして船の索具をずたずたに切ってしまった。イギリス船としては手に負えない相手を敵にしてしまったわけである。捕虜は全員監禁された。ミッソンは乗員を増やしたいと考えていたから、部下に、自分たちのことは話さないようにと命じた。

　翌朝、ミッソンは私掠船の船長を呼び、われわれの船に攻撃してくるとは、まことに勇敢であり、それに免じて、通常の捕虜に対するのとは違った処遇をするつもりだ、と言った。ミッソンは船長に、航海日数、船長の名前、積荷などを聞いた。船長は、自分の船はジャマイカを出帆したばかりで、ミッソンの船がこの航海で出合った最初の船だと答えた。船長の名前はハリー・ラムゼイといい、船には布、火薬、砲弾、およびラム酒を少々積んでいた。ラムゼイは下士官室に連れていかれた。前にも述べたように大船室と隣室との仕切りが巻き上げられて、皆の見守る中で協議が行なわれた。結論が出るとラムゼイは再び呼ばれた。ミッソンは彼に、今後六日間私掠行為をしないと約束し、乗組員にもそれを誓わせるなら、用心のため弾薬と小火器はいただいておくが、それ以外の積荷には手を付けずに船を返し乗員も釈放しよう、と言った。そして、われわれはこの海域にもう一週間もいるつもりはないから、そのときに放免すると言った。

　新しいスループ船に乗っていたラムゼイは、この予期しない計らいに感謝し、命令は必ず守ると約束した。彼の乗員も口々にそれを誓った。ミッソンたちがこの海域を離れる日がくると、ラムゼイ一行はボートでもとのスループ船に移された。別れ際に、ラムゼイは、感謝のしるしに空砲を撃ちたいから、火薬を少々分けてもらえまいか、とミッソンに願った。ミッソンは、そんな儀礼は無用であり、約束さえ守ってくれれば十分だ、と答えた。ラムゼイは実際にこの約束を守った。

　二船が別れるとき、ラムゼイはミッソンの船に向かって万歳を三唱した。ミッソンがこれに一回答えると、彼はさらに三唱してジャマイカへ針路を向けた。島の東端で「ダイアナ」号に遭遇した。この船はラムゼイの忠告に従って島へ引き返した。

「ヴィクトワール」号はカーサジナへ向かい、その港外で数日間遊弋した。しかし一隻の獲物にも出合わなかったので、ポルトベロに船を進めた。この航海で二隻のオランダ商船に遭遇した。一隻は砲二十門、もう一隻は二十四門を備えていた。ミッソンは彼らと戦端を開いた。相手も必死に、そして勇敢に抵抗した。ミッソンは、敵船にかなりの人手が乗り組んでいるのを見、斬り込みを敢行するのをためらった。たとえ一方の船に乗り移っても、他方の船から逆にこちらに乗り込まれるかもしれないと考えたのである。しかし、一対二の戦いであったが、「ヴィクトワール」号の弾丸は敵のそれより重く有利だったから、敵はできれば離脱したいと考えていた。二隻は互いに離れず「ヴィクトワール」号に砲火を浴びせながら遠ざかろうとした。

　交戦は六時間近くに及んだ。ついにミッソンは敵の頑強さに腹を立て、また敵の砲弾でマストが破損するのを恐れて、二隻のうち大きな方を撃沈してしまおうと決意した。直ちに部下に命じ、すべての砲を船の中央甲板に運ばせた。そして相手の船に雁行すると、集中砲火を浴びせた。この砲撃でオランダ船には大きな穴が開き、そのまま海の底に沈んでいった。乗員も一人残らず死んだ。

　ミッソンは残った一隻に乗り移るべく、乗員をボウスプリットに配備し、前檣帆桁を船首から船尾へ渡した。オランダ船は僚船の不幸な運命を目の前にし、いままた敵が乗り移ってこようとするのを見て、これ以上抵抗しても無駄と観念し即刻降伏した。ミッソンはこの交戦で十三人の死者と九人の負傷者を出し、負傷者のうち六人も後に死んだ。このため彼は敵に激しい怒りを抱いたが、降伏は受け入れた。オランダ船は大量の金および銀のモール、絹織物、絹の靴下、ブロート、黄麻布などを積んでいた。

　協議が開かれた。そして、ミッソン船長がフルバンを名乗ってカーサジナへ戻り、そこで獲物の品を売り捌き、捕虜も上陸させることに決定した。一味は東へ向かい、ボカチエカ砦と街の間で投錨した。港へ入るのは得策でないと考えたのである。カラチオーリと数人の乗員がボートで岸に向かった。カラチオーリは「ウィンチェルシー」号との交戦で死んだ副官の一人ドービニの名を名乗り、彼の任命状をポケットに入れ、さらに万一の場合を考え、ミッソンの書体を真似て署名した総督宛の親書を携えた。ミッソンは、自分たちは三か月間の任意航海を命ぜられ、この海域をイギリス船が荒らしていると聞いてやってきたところ、二隻のオランダ船に遭遇したので一隻を沈め他の一隻を獲物にしたが、航海の期限も迫っているから、総督閣下が獲物の船と戦利品を引き受けてくれる商人をわれわれの船によこして下されば幸甚である旨手紙に記した。そして、オランダ船の送り状を同封した。植民地総督ドン・ジョセフ・ドラツェルダはカラチオーリ一行を大歓迎した。（カラチオーリはボートを本船へ返した。）そして捕虜を上陸させることを許可し、役に立つことがあればなんなりと申し出てほしいと言った。さらに、新鮮な食糧や野菜をフルバン船長への贈りものとして用意するよう部下に命じ、獲物の船と品物を引き取りたいという商人を数人、ミッソンの船に向けた。彼らはこれらの品々を二十五万ピース・オヴ・エイトで買い取ることに同意した。

　翌朝、捕虜が街に送られた。ミッソンは総督に絹織物を贈った。新鮮な食糧が船に積み込まれ、船と商品が受け取られ代金が支払われた。翌々日、「ヴィクトワール」号は出帆した。読者は、取り引きがこんなに簡単にできたことを訝しく思うかも知れない。これは、商品にオランダの送り状が添付されており、商人もそれが本物であることを認めたからであった。

　ところで、話はすこし横道にそれるが、このころワグナー提督が「キングストン」号に命じフランス軍艦「ヴィクトワール」号を捜索させていた。そして後にこのフランス軍艦が別の、備砲七十門の軍艦と合流し、艦隊を組んで航行しているという誤った情報を得たため、軍艦「セヴァーン」号に「キングストン」号を応援するよう命じた。これが危うく致命的結果をもたらしそうになったのである。というのは、トレヴァー艦長とパドノー艦長の指揮する二隻のイギリス軍艦は、夜中に遭遇し互いに敵と見まちがえて、交戦準備に入った。「キングストン」号の方は、士官が怠慢で見張りを厳重にしていなかったため、「セヴァーン」号が目前に近づくまで気付かなかった。幸い、船は風下にいたから、できる限りの帆を張って「セヴァーン」号から離れることができた。しかし「キングストン」号は大混乱していた。「セヴァーン」号が声をかけても、だれもそれに気付かず、返答しなかった。「セヴァーン」号は「キングストン」号の艦尾についていた。パドノー艦長は、三回目の声を掛けてみてなお返答がないようだったら、一斉射撃を浴びせよ、と命じた。このとき「キングストン」号の騒ぎはすこし収まっていた。トレヴァー艦長は艦尾から「セヴァーン」号に呼び掛けの喇らつ叭ぱを吹いた。これが「セヴァーン」号に届き、艦名を名乗りあって事無きを得たのである。

　二艦はしばらく艦隊を組んで航行したが、情報のようなフランス軍艦には遭遇せず、ジャマイカに戻った。

　閑話休題。植民地総督はミッソンに、現在ポルトベロに備砲七十門のギャリオン船「セントジョセフ」号が碇泊しているが、十日以内に八十万ピース・オヴ・エイト相当の銀と金の延べ棒を積んでハヴァナへ向け出港する予定であり、都合がつくなら、沖に出るまでこの船に同行してもらえまいか、と手紙で依頼してきた。もし同意してくれるなら、すぐこの船に使いのボートを遣るというのである。ミッソンはこれに答え「二、三日航海の予定を延ばしても許してもらえると思うし、パール諸島沖を航海することもできます。私たちの船がグラチアス・アディオス岬にさしかかったら、前檣に白い長旗を掲げ、前檣帆を下げて、風上に向け一発、風下に向けて二発発砲し、ギャリオン船への合図にしますから、それを認めたら、ギャリオン船は航走しながら前檣帆を二回上下し、同じ回数発砲して答えて下さい」と書き送った。総督は大いに喜んで「セント・ジョセフ」号へ使いのボートを遣った。しかし総督の期待に反し、船は二日前にすでに出港した後だった。このボートが戻る途中、沖に向かおうとしていた「ヴィクトワール」号をみつけ、ミッソンにこのことを知らせた。「ヴィクトワール」号では直ちに「セントジョセフ」号の後を追うことに決定し、針路をハヴァナに向けた。しかし、なぜ一味がこの船に追い付けなかったのかは不明である。

　書き忘れていたが、一味が捕らえたオランダ船には十四人のフランス人新教徒が乗っていた。ミッソンは彼らを留置し、仲間にしようと考えた。沖に出るとミッソンは彼らを集め、仲間にならないか、と誘った。同時に、「私は強制するつもりはないから、諸君自身で決めてもらいたい。諸君全員が、あるいはだれか一人でも、私の申し出に不賛成なら遭遇した船で適当と思われる最初の船に移すか、どこか人気のない海岸に上陸させてあげよう。二日間猶予を与えるから、よく考えて返事してほしい」と言った。そして彼らを励ますつもりで乗員全員を集め、自分の選んだ道を後悔しているものがいれば正当な分け前を与え、ハヴァナか、別の都合のよい場所に上陸させる、と言った。しかし、この申し出に応じる乗員は一人もいなかった。新教徒らは全員この仲間に加わることを決意した。これには、「セント・ジョセフ」号から大きな戦利品があるだろうという期待と、ミッソンの自由の申し出が大いに与かっていたであろう。

　メキシコ湾の入口で、一味はジャマイカからロンドンへ向かう大型商船を発見した。この船は二十門の砲を備えていたが、乗員は三十二人しかなく、しかも砂糖を満載していたから、抵抗しなかったとしても不思議ではない。ミッソンはこの船から、弾薬、現金約四千ピース・オヴ・エイト、ラム酒数樽、砂糖十樽を掠奪したが、それ以外なんの危害も加えず釈放した。戦利品のうちで彼が最も価値を認めたのは、この船でヨーロッパへ連行されるはずだった十二人のフランス人私掠船員だった。このうち二人は大工とその助手で、「ヴィクトワール」号に必要な人手だったのである。彼らはボルドーの出身で、そこから「ポムシャトレーヌ」号に乗り組んで出帆したが、プチ・グアヴァ島沖で「マーメイド」号に遭遇し、激しい戦闘の後、捕まってしまったのである。この戦いで、四十人の仲間が死んだ。しかし「ポムシャトレーヌ」号の砲力は「マーメイド」号に四門しか劣らず、しかも敵の乗組員は約三十人であったから、戦いの場に「ガーンジー」号がやってきさえしなければ、捕らえられるはずはなかったのだと、この私掠船員らは言った。逆に「マーメイド」号に斬り込んでそれを獲物にしてしまうつもりだったのである。この男たちは喜んでミッソンの仲間になった。

　彼らは、イギリス船でまる裸同然にされていたため報復させてほしい、とミッソンに頼んだ。しかしミッソンはこれを許さなかった。そのかわり、イギリス船の船長に、「君と乗員を保護してやるのだから、フランス人捕虜に衣服を与えてもよかろう」と言った。船長と乗員はすぐ自分たちの衣装箱を持ってきた。

　ミッソンの船はフランス軍艦を装っていた。しかし、獲物に対して寛大な処遇をしたため、イギリス人はこれに疑いを持った。船も積荷も軍艦に似つかわしくなかったのである。

「セント・ジョセフ」号を捕らえる望みがなくなった一味は、キューバの北岸を航行した。

「ヴィクトワール」号の船底にはかなり垢がついてきた。そこで一味は島の東北東にある入江に入り、ボートと砲を降ろして傾船したが、竜骨を出すことはできなかった。それでも彼らはできる限り船底の垢をかき落し、脂を塗った。乗組員の多くは、最後に捕らえた船を釈放したことを残念がった。もし連行していたら、それを使って傾船できたはずである。

　船の清掃を終ると、砲その他をもとどおり積んで、今後の針路を協議した。閣議の意見は二つに分かれた。船長とカラチオーリはアフリカ海岸へ行くことを主張した。他のものは、船底にはまだ垢がついていて、そんな長い航海には適さないから、ニューイングランド沿岸へ行くべきだ、と言った。そして、逆風や荒天に遭ったら食糧が底をついてしまうことも考えられるが、ここからならカロライナのイギリス植民地に近いから、ヴァージニア、メリーランド、ペンシルヴェニア、ニューヨークあるいはニューイングランド沿岸を航海すれば、西インド諸島と交易する船を捕捉でき、パンや小麦粉や、その他必需品を手に入れることができるというのが彼らの意見であった。食糧を見積ったところ、四か月分あった。ミッソンは乗組員全員を甲板に集め、協議の結果、今後の針路について意見が分かれたから、全員の票決に委ねたい、と言った。「私は価値ある獲物に出合えそうなギニア沿岸へ行きたいと思う。そして万一そこで期待外れに終っても、まだ別の道がある。なぜなら、そこから東インド会社の船の航路へ出ればよいからだ。説明するまでもないと思うが、アメリカからヨーロッパへもたらされた富が、この航路を通って外へ出て行くのだ」。

　彼はさらに、この意見に対して反対するものの考えとその理由を皆に説明し、一人ひとりが意見を明確にし、全体にとってもっともよいと思うほうに票を投じるよう要請した。「私は自分の考えを押しつけるつもりはない。だから諸君が私の提案に反対したとしても、それを悪く思ったりはしない」。

　乗組員の大多数は船長の意見に賛成した。こうして一味はギニア海岸に向かった。航海中はとりたてて言うほどの事件はなにもなかった。黄金海岸に到着するとすぐ、備砲十八門のアムステルダム籍の船「ニウスタート」号に遭遇した。この船のブラース船長は二時間半にわたって抵抗したが無駄だった。一味はこれを捕らえ、四十人の乗員を移乗させた。一方、捕虜は全員「ヴィクトワール」号に乗せた。捕虜は四十三人を数えた。彼らはアムステルダムを出港したとき五十六人だったが、この海戦で七人が斃れ、六人が病気や事故で死んだのである。事故死のうち、一人は船から転落し、もう一人は凪いだ海に飛び込んで鮫に襲われたのだった。

「ニウスタート」号は二千ポンド相当の金粉と、十七人の奴隷を積んでいた。船はまだ奴隷貿易を始めたばかりだった。奴隷たちは一味の増強になった。ミッソンは、彼らにオランダ船の乗員の衣装箱から適当に選んで服を着るよう命じ、また「ヴィクトワール」号の乗員には、われわれと同じ人間を売買するなどということは神の正義と決して相容れないことだ、と言った。「だれにも他人の自由を支配する権利はない。神のことをだれよりもよく知っていると公言してはばからないものが人間を獣のように売ったりするのは、実のところ彼らの宗教がいかさま以外のなにものでもないことの証明なのだ。彼らのやり方に人間らしいところはまったくなく、名前だけを異にする野蛮人とかわるところはない。私は、勇敢な仲間たちとともに、他人を奴隷にするようなことはしない。この人たちはヨーロッパ人と肌の色や習慣や宗教は異なるけれど、それも同じ全能の神の業である。そして彼らも私たちと同じ理性を与えられているのだ。だから私はこの人たちを自由人（彼は奴隷という言葉を使うのはやめるつもりだった）として処遇し、われわれの間に混じってもらいたいと思う。そしてできるだけ早く言葉を覚え、任務を自覚し、正義と人間性に対する自由を守ることに熱意を持つようになってほしい」。

　ミッソンのこの演説は全員の歓呼で迎えられた。船中に「ミッソン船長万歳」の声が響きわたった。黒人一人ひとりには食事仲間がつけられた。彼らは身振りで、くびきから解放されたことに対する感謝を示した。「ヴィクトワール」号の船底にはひどく垢がついてきて、船足も鈍ってきた。そこで一味はラゴス河に入って船を傾け、傷みの激しい船板を新しいものと張り替えた。

　それから獲物のオランダ船も修理した後、再び沿岸を航海した。しかし一隻の船にも出合わなかった。この間、「ヴィクトワール」号の規律はきわめて厳正に保たれていた。しかし、オランダ人の捕虜たちは次第に罵ったり、酒に酔ったりするようになった。これを見たミッソンは、悪習は芽のうちにつんでおいたほうがよいと考え、フランス人乗組員とオランダ人捕虜を甲板に集めた。そして、フランス語のよくできるオランダ人船長に通訳を頼み、捕虜らに向かって次のように話した。「オランダ船の諸君をこの船に迎える以前には、私は偉大な造物主を冒涜するような言葉を聞くことはなかった。しかし遺憾なことに最近よくそのような罪深い言葉を耳にするようになった。そのようなことは得にもならないし楽しくもない。厳しい咎めを受けるだけである。神に対する正しい考えを持つなら、とてもその御名を口にしたりはできないはずだ。ただ、神の純潔に思いをいたし、自分自身の卑しさを恥じるしかないだろう。スペインには、「隠者と泥棒を一緒にしたら、泥棒が隠者になるか、隠者が泥棒になるかだ」という諺がある。これは、私の船にあっても実証されているようだ。私の勇敢な仲間が口汚い言葉を吐くようになったのは、諸君のせいというほかない。諸君が持ち込んだ悪徳はこれに留まらない。諸君がこの船に乗る以前、私の仲間は立派な人間としてふるまっていた。しかし諸君が野蛮な手本を見せてくれたため、彼らは人間と獣を分かつ唯一の資質である理性を麻痺させて、自分自身を動物にまで堕落せしめているのだ。私は乗員を指揮する立場にあるし、仲間である乗員に父親のような愛情を持っているから、彼らがこのような忌むべき悪習に染まってゆくのを黙っているわけにはゆかない。私が乗員を戒めなかったら、共通の正義を顧みなかったとして、私自身が責めを負うことになろう。従って、私は船長として、仲間に、オランダ人捕虜のふしだらな生活への誘いに乗らないように、と言いたい。私は、私の勇敢な乗員が理性に導かれていると信じている。オランダ人諸君には、今後最初に口汚い言葉を吐いたり理性を失うほど酒を飲んだものは、他の捕虜への見せしめのために、帆柱に縛りつけて鞭打ちにし、傷口に塩を塗り込むことを警告しておく。私の友であり、仲間であり、子供である勇敢で高潔な乗員には、敵の悪習を真似ることがいかに馬鹿げて危険なことかを反省してもらいたい。そして、生命の泉源から人間を疎外し神の保護を失わせしめるようなものを抑制するような規律をつくり出してほしい」。

　この演説が、乗組員と捕虜双方にどのような効果をもたらしたか想像するまでもない。オランダ人捕虜は罰を恐れて規律正しくなり、フランス人乗組員も名船長（彼らはミッソンを必ずこのように呼んだ）に咎められまいといっそう自制するようになった。

　アンゴラ沖で一味は絹、毛織物、布、レース、ワイン、ブランデー、油脂、香辛料そして金物を積んだオランダ船に遭遇した。この船は「ヴィクトワール」号を追跡し戦いを挑んだが、逆襲されてついに投降した。これはまことに好都合な獲物だった。「ヴィクトワール」号の乗員の服はすでにすり切れて肘が出るありさまだったが、獲物の船には仕立職人が乗っていたからである。一味は必需品を掠奪すると、この船を沈めた。

「ヴィクトワール」号の捕虜の数はおよそ九十人になった。ミッソンは、先に獲物にした船と航海に必要な品を与え彼らを釈放しようと提案し、仲間もこれに賛成した。そこでこの船から弾薬を「ヴィクトワール」号に移し、一方この沿岸のオランダ植民地まで航海するのに必要な品をこの船に積み込んだ。ミッソンは捕虜に自分の考えを話し、私と行動をともにしたいものはいないか、と聞いた。十一人のオランダ人が仲間に加わった。このうち二人は縫帆員、一人は武器修理員、そして一人は大工で、すべて船に必要な人手だった。残りの釈放された捕虜らは、この新奇な海賊の厳正な綱紀、沈着、そして人間性にひどく驚いたのであった。

　一味はテーブル湾の北十リーグの地点にあるソールダナ湾まできた。ここには新鮮な水と安全な碇泊地があり、船に積んだ品々と交換に、原住民から魚や新鮮な食糧をいくらでも手に入れることができたから、しばらくこの地で休養することにした。湾に入ると大型船が碇泊していたが、「ヴィクトワール」号を見ると直ちに帆を上げ、イギリス国旗を揚げた。「ヴィクトワール」号は距離をつめた。たちまち激しい戦闘が始まった。イギリス船は新造船で四十の砲門を持っていた。しかしこのときは三十二門の砲しか備えておらず、乗員も九十人だった。ミッソンは「敵船に接舷して斬り込め」と命じた。乗員は次々に敵船に乗り移っていった。イギリス人も頑強に抵抗したがついに屈し、船をミッソンの手に委ねた。ミッソンは彼らを放免すると約束し、だれの衣服も奪わなかった。

　イギリス船はラシャ数反のほか約六万ポンドのクラウン金貨とピース・オヴ・エイト金貨を積んでいた。船長と乗員十四人が戦死した。「ヴィクトワール」号も十二人の乗員を失った。ミッソンにとってこれは無念きわまりないことであった。しかし、これを遺恨にして捕虜を虐待するようなことはしなかった。彼は敵の船長の死を悼み、上陸して遺体を埋葬した。そして、部下の石工に命じ、適当な石に「勇敢なイギリス人船長ここに眠る」と刻ませ碑とした。埋葬がすむと五十丁の小銃で三回の弔銃を撃ち上げた。

　捕虜になったイギリス人は、海賊の手に陥ちたことを承知しながらも、ミッソンの人柄に魅せられた。それから三日の間に、三十人の捕虜が仲間になりたいと志願した。ミッソンはこれを受け入れると同時に、この船ではふしだらで無節操な生活は許されないことを承知してもらいたい、と言った。彼は乗組員を二隻の船に分け、カラチオーリを獲物の船の船長にした。そして全員の投票で士官を選出し、彼に従わせた。十七人の黒人は多少フランス語を理解するようになり、船にとって有用な人手となっていた。ひと月もしないうちに、士官を除くイギリス人捕虜全員がミッソンの仲間になっていた。

　いまやミッソンは不屈の男たちが乗り組んだ二隻の船を指揮することになった。一時は希望峰を回り、マダガスカルの南端まで船を進めた。イギリス人の一人が、スラトへ向かうヨーロッパの船はよくヨハンナ島へ寄港する、とミッソンに教えた。ミッソンは、カラチオーリを自分の船に呼んで相談した結果、この島に向かうことになった。一味はマダガスカル島の西、ドディエゴ湾沖を北上した。この湾とヨハンナ島の間でイギリスの東インド会社所属の船に遭遇した。この船は、ミッソン一行を見つけると、遭難信号を発した。予期せぬ浸水のため、いまにも沈没しそうになっていたのである。ミッソンは乗員全員を救出した。しかし積荷はほとんどなにも持ち出せなかった。奇跡的に死を免れたイギリス船員らは、ヨハンナ島へ上陸することを希望した。いずれオランダ船かイギリス船が立ち寄るだろうから、それに救出してもらえるに違いないと思ったのである。

　ヨハンナ島に到着すると一味は島の摂政女王とその兄に親切に迎えられた。一味のなかにイギリス人が含まれていたことと、もうひとつは一味の戦力をみてのことだった。この国は隣国モヒラに侵略され脅かされていたため、実際に政治を行なっている女王の兄は、一味に戦争の支援をしてもらおうと考えたのである。

　モヒラは、ヨハンナ島の北北西に隣接した島である。カラチオーリはミッソンに言った。

「君の立場を利用して二つの小君主国をもっと離反させたまえ。ヨハンナを援助するようにして、両国を支配するのだ。一方は君を保護者として崇めるだろうし、もう一方はどんなことをしてでも君と友人になろうとするだろう。こうして君は二国間の勢力の均衡を保てばよいのだ」。ミッソンはこの勧めに従って、女王に友好と援助を申し出た。女王は喜んでこれを受け入れた。

　この島の住民の多くは英語を話した。通訳をしたイギリス人乗組員は「船長はイギリス人ではないけれど私たちの友人で仲間だし、ヨハンナ島民とも友人で兄弟だ」と皆に話した。ヨハンナの人びとはイギリス人をどの国の人びとより尊敬していたのである。

　一味は女王からすべての生活必需品を提供してもらった。ミッソンは女王の妹と結婚し、カラチオーリは女王の兄の娘と結婚した。この岳父の武器庫には錆びついた火縄銃が二丁とピストルが三丁ころがっているだけだった。カラチオーリは火打ち銃三十丁、ピストル三十丁、火薬二樽そして弾丸二樽を贈った。

　乗員の幾人かは結婚し、また幾人かは戦利品の分け前を求めた。公正な分け前をもらうと彼らは仲間に別れを告げ、この島に落ち着いた。しかし島に落ち着いた乗組員は十人足らずだった。難破船の乗員のうち三十人が仲間に加わったから、乗組員の不足は十分補われた。

　ミッソンらは、狩猟や酒宴や島内の旅行をして時を過ごした。そうこうしているうちに、モヒラ国が来襲してきた。島全体が警戒態勢に入った。ミッソンは女王の兄に、「来襲してきた隊を遮ぎらずそのまま島の中央部まで侵入させて下さい。そうしてから私が彼らの退路を断ちましょう」と言った。しかし君主は、「あなたの言うように敵を島の中央部まで侵入させてしまったら、連中はココア農園を破壊し、島民に多大の損害を与えるでしょう。だから、水際で敵を阻止する必要があるのです」と答えた。これを聞いてミッソンは、部下でないイギリス人らに、われわれ共通の主君の敵を協力して追い散らさないか、と誘った。彼らは全員これに応じた。ミッソンは彼らに武器を与えて自分の部下と混成部隊にし、また同人数のヨハンナ人部隊を編成した。そしてそれぞれをカラチオーリと女王の兄に指揮させた。また、すべてのボートに武装した部下を乗り組ませ、自らは敵が来襲した島の西側に向かった。陸路進撃した部隊はモヒラの部隊に遭遇すると簡単に追い散らした。敵は、ミッソンの水上部隊によって退路が断たれているのを見て、大混乱に陥った。これまで度々モヒラ人に苦しめられてきたヨハンナ人の怒りは激しく、敵の命乞いを聞き入れなかった。来襲した敵は三百人だったが、ミッソンとカラチオーリが島民を宥めなかったら、一人として生き残らなかっただろう。百十三人がミッソンの捕虜になり、彼の船に連行された。彼はモヒラ国王宛に、ヨハンナ王国と講和し同盟することを求めた親書を捕虜に持たせ、無事モヒラに送り返した。しかしモヒラ国王は、多数の臣民の命を助けてもらったことにいささかも恩誼を感ぜず、逆に自分はだれの法律にも従わないし、いつ戦争し講和するかなどということについて他人の勧告を求めたりはしないしそれを望みもしない、と返書を送ってきた。ミッソンはこの無礼な返答に腹を立て、モヒラに攻め入る決心をした。そしておよそ百人のヨハンナ人を従えてモヒラへ向け出帆した。船から見ると岸には敵が大勢いて、上陸を阻止する構えを見せていた。しかし、艦砲射撃によってこの烏合の衆はたちまち壊滅した。艦砲の掩護のもとに、ミッソンはヨハンナ人およびそれと同数のフランス人とイギリス人から成る部隊を率いて上陸した。これをおよそ七百人のモヒラ人が投げ槍や弓で迎え撃った。しかしミッソンたちの火打ち銃の前に彼らはひとたまりもなかった。最初の一斉射撃で敵の多くが死んだ。それに続いて二十発の手投弾が投げ込まれた。敵は大混乱して蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。ミッソンの部隊は、抵抗も受けずこの国の首府へ進軍し、街を焼き払った。ヨハンナ人らはココアの木を手あたり次第切り倒した。そして夕闇のせまるころ、全員船に引き揚げ島を後にした。

　ヨハンナ島へ戻ると、女王が祝宴を催し、客人、友人そして同胞の勇敢な働きを称えた。祝宴は四日間にわたった。最後に女王の兄が、「今度は私自身も参加しますから、もう一度攻撃をかけてくれませんか。今度はモヒラ人を服従させること間違いなしです」とミッソンに頼んだ。しかしこれはミッソンの意図するところではなかった。彼は、マダガスカルの北西に退いて、二国が拮抗するのを見守っているのが自分たちにとって有利だと考えていた。だから、一方の国に他方の国を屈伏させるようなことには興味がなかった。両国が不和のままその勢力が均衡していれば、どちらの側も彼の機嫌をうかがうことは明らかだった。彼は答えた。「よく考えなくてはいけません。期待どおり事が運ぶとは限らないし、敵を征服するのは想像するほど容易なことではありません。モヒラの国王は守備を固めるでしょうし、堅陣に立て篭るだけでなく、待ち伏せで頻繁にわれわれを苦しめるでしょう。味方に犠牲が出るのは必定だし、そのまま退却すれば徒らにモヒラ人の志気を高めることになり、彼らは、ヨハンナにとって相容れない敵になってしまうでしょう。そうなってしまっては、二回も彼らを打ち破って講和を結ぶのに有利な立場にあるのが、元も子もなくなってしまいます。それに私もいつまでもこの国に居るわけにはゆきません。私がヨハンナを離れたら、モヒラの国王は残酷な復讐を企てるでしょう」。女王もミッソンの意見に全面的に賛成した。

　そうこうしているとき、四人のモヒラ人が講和使節として到着した。ヨハンナ人が厳しい条件をつけるのに対して、彼らの一人は次のように弁じた。「ヨハンナの皆さん。あなたがたの先の勝利から、運が常にあなたがたに向いていると結論しないで下さい。皆さんがいつもヨーロッパ人の保護を受けられるとは限りませんし、もしそれがなければ、今皆さんが嫌がっておられる講和を、皆さんの方から求めていたかも知れないのです。太陽が昇り、それが中空に達すれば、そこに留まらず間もなく落ちてゆくことを忘れないで下さい。これがこの世のあらゆる事象の理ことわりであり、皆さんの栄光が大きければ大きいほど、皆さんの凋ちよう落らくも近いことを知っていただきたいと思います。私たちは、眼にするすべてのことから、世界に不変なものは無く、自然は絶えず運動しているということを教えられています。海岸に打ち寄せる波にも越せない線があり、そこに達すれば再び深い海の底に戻ってゆきます。どんな草も、どんな木も、また私たちの肉体でさえ、永続するものの無いことを教えています。永遠の時の流れのなかで、新たな太陽が昇る毎に、変化がもたらされるのです。今日、皆さんはヨーロッパ人の助けを得て勝利に酔い、これまで勝者だった私たちが和を求めてやって来ました。しかし明日は、皆さんが現在の援軍を失い、私たちに命乞いをするかも知れません。このように、明日どうなるか私たちにはわからないのですから、当てにならない希望をもとにいくばくかの有利な条件を求めるのは賢明ではないでしょう。賢い人間なら、確実な平和をこそ求めるべきです」。

　この演説が終ると講和使節は引き下ったが、女王は彼らを接待するよう命じた。協議の後、女王は再び彼らを呼んで言った。「私の友人であるヨーロッパ人と、協議会の委員の意見により、私は講和に同意します。過去のあなたがたの侵掠行為はすべて忘れましょう。しかし、戦争はあなたがたから始めたのであり、私たちが侵掠者になったことは無かったという事実は、あなたがたも認めるべきです。私は私の国内にあって、あなたがたの侵掠に対して防戦したのです。そして数日前の戦争までは、あなたがたの海岸を侵したことは一度もなかったのです。ですから、あなたがたが私の国と本当に友好関係を持つことを望んでいるなら、人質として、国王の子供二人と、最高位の高官十人を私の国に送りなさい。戦勝国の権利を行使することは差し控えます。これが私の唯一の条件です」。

　使節はこの返答をもって帰国した。十日ほどたって、ミッソンの二隻の船がモヒラに到着した。陸から使者がやってきて、モヒラ国王はヨハンナの条件を受け入れて人質を差し出すつもりであること、そして一切の戦争行為を終結させたいと望んでいることを伝えると同時に、ミッソンとカラチオーリを陸に招待した。乗船していたヨハンナ人らはこの招待を受けるのに反対したが、二人は恐れる様子もなく出かけた。しかしボートの乗員に武装させることは忘れなかった。一行が到着すると国王は歓迎の意を表し、タマリンドの木陰で食事をともにした。しかし一行が国王の許を辞してボートに戻ろうとしたとき、百人余りのモヒラ人に取り囲まれた。彼らは恐ろしい勢いで襲いかかってきた。最初の矢が一斉に放たれ、ミッソンとカラチオーリは傷つき、一緒にいたボートの乗員八人のうち四人が死んだ。ミッソンらはすかさずピストルを発射し、数人の敵を斃した。続いてカトラスを抜いて応戦した。銃声を聞きつけた残りのボートの乗員が火打ち銃を手に応援に駆けつけ、敵の背後から一斉射撃を見舞った。たちまち十二人の敵が斃れた。この援軍がなかったら、ミッソンらがいかに勇敢であっても、敵の攻撃を持ちこたえることはできなかっただろう。船ではこの銃声を聞くと、ただちに数隻の大型ボートに乗員を満載し岸に向かわせた。モヒラ人はボートの乗員の一斉射撃にひるんだが、なお戦いをあきらめなかった。一人が決死の勢いでカラチオーリに向かってきて、横腹にナイフで深手を負わせた。しかしこの男は自ら死に急ぐ結果となった。ボートの乗員が彼の頭をたたき割ったのである。大型ボートが到着した。この騙し討ちによって、ミッソンの乗組員は七人が死に、八人が負傷した。負傷者のうち回復したのは六人だった。

　乗員は、指揮官と仲間の復讐を誓った。翌日上陸地点に到着すると、二隻のカヌーがやってきた。カヌーには二人の男が縛られて乗っていた。この男たちが騙し討ちの張本人であり、その悪事の罰を受けさせるために、国王がよこしたというのである。これを通訳したヨハンナ人は「国王がこいつらを身代りの犠牲者に仕立てたに違いありません。国王を信用することはできません。国王はあなたたちを暗殺するように命令したにきまっています。この二人の捕虜とカヌーで来た連中を全員殺してヨハンナに戻りましょう。裏切者と和平などしないことです。それが一番よい方法です」と言った。しかしミッソンはそのような手荒な手段をとりたくなかった。彼はおよそ残酷なことが嫌いだった。必要もなく血の復讐をするのは、卑しく臆病な精神の表れだと考えていた。彼は、カヌーの乗員たちに、夕刻までに人質をよこしたら国王の言い訳を信用してやるが、さもなくば騙し討ちを仕組んだのは国王本人だとみなすから、帰ってそう伝えろと命じ、彼らを釈放した。

　カヌーは行ったきり戻ってこなかった。そこでミッソンは二人の捕虜に、「明日の朝おまえたちを上陸させてやる。私は国王に罪を着せられたおまえたちを死刑にするつもりはない。私が裏切りにどう復讐するか、国王自身思い知るがよい。帰って、私の言ったことを国王に伝えろ」と言った。二人の捕虜は縄を解かれるとミッソンの足元に身を投げだして叫んだ。「どうか私たちを岸にやらないで下さい。私たちは本当に殺されてしまいます。私たちがここへ送られてきたのは、仲間の恐ろしい騙し討ちの計画をやめさせようとしたからなのです」。

　翌日、大砲の掩護射撃に守られて、二隻の船から二百人が上陸した。しかし、大砲の掩護射撃の必要はなかったのである。上陸地点には人っ子ひとりいなかった。一行が島の奥に二リーグほど進んだとき、茂みの後ろに人影が見えた。手勢五十人を率いて右翼を指揮していたカラチオーリの副官が接近した。しかし彼は巧妙に隠された落し穴が自分を取り巻いているのがわかった。部下の幾人かが穴に落ちた。このため、彼を誘い込むためにみせかけの後退をした敵を追撃するのは中止した。これ以上深追いするのは危険と判断したのである。そして、敵の姿が見えないのを見とどけると、もときた道をたどってボートに戻り、船に帰った。そして、部隊を増強し、あらためて島のいくつかの地点から同時に攻撃をかけることにした。このため二人の捕虜に島の地形や北側の地質などを聞いた。彼らは、島の北側は湿地帯で非常に危険だ、と答えた。

　二隻の船はヨハンナに帰港した。負傷した二人の船長と乗員の回復のために島民は最大の気遣いを示した。およそ六週間たって、二人とも甲板を歩けるようになった。この間、彼らは船を降りようとはしなかった。彼らのヨハンナ人の妻たちの心配は想像もできないほどだった。負傷して後に死んだ乗組員の妻は、身動きもせず夫の遺体を見つめていたが、ややするとそれを抱き、涙もみせずに、この人を岸に運んで身体を清めてから埋葬したい、と言った。そして、通訳に助けられ、自分のたどたどしいフランス語を交えて、明日この人に別れを告げてやっていただけませんか、と夫の友人だった男たちに頼んだ。

　こうして数人の乗組員が、この男の分け前を運んで上陸した。ミッソンがこの遺産を残された妻に贈るよう命じたのであった。彼女はこれを見ると微笑んで、「これがみな私のものなのですか」と聞いた。仲間が、「そうです」と答えると、彼女は「このようなきらきらしたおかねが何の役に立つというのでしょう。亡くなった夫の命がこれで買えて、夫を黄よ泉みの国から呼び戻せるというなら、私は喜んでこれを御受けいたします。でもそれはできる相談ではありませんから、このおかねは私には何の役にもたちません。どうぞ皆さんで御自由にお使い下さい」と言った。そして、「死んだ人の気持を害そこなわないように、これから皆さんのお国のしきたりに従って最後の別れをいたしますから、私と一緒にいらしてほしいのです」と頼んだ。さらに、「私は急いで再婚しなければなりませんから、最後まで皆さんと御一緒に葬儀に参列することはできないのです」と言った。この言葉が、彼女の最初の言葉とあまりにそぐわなかったので、仲間はひどく驚いた。それでも彼らは彼女についてゆくと、あるバナナ農園に到着した。そこには、彼女の夫の遺体が花で飾られて横たえられており、それを囲むように多数のヨハンナ人男女がバナナの木陰に座っていた。彼女は参列していた一人ひとりと抱擁し、次に彼女についてきた夫の友人らと抱擁した。この儀式がすむと、彼女の初めての恋人であり肌を許した男であった夫の命を騙し討ちで奪い、彼女の抱擁にも応えられない躯にしてしまったモヒラ人に激しい呪いの言葉を吐いた。それから彼女は、「あなたは子供たちの喜び、乙女らの愛、老いたものの愉悦、若者たちの憧れだった」と夫を称え、さらに、「あなたは杉の木のように美しく、牡牛のように勇敢で、仔山羊のように優しく、亀のように可愛い人だった」と歌った。これは死者に最も近い親族が演壇に立って弔辞を読んだというローマ人の習慣にも似ていた。歌い終ると、彼女は夫の遺体の横にかがんでそれを抱き、再び立ち上ると自ら短剣で左胸を深くつき、夫の遺体の上に折り重なって死んだ。

　船からきた仲間は、その物腰から十七歳を過ぎていないと思われる、少女といってもよいこの女の優しさと決意に驚いた。そして、彼女が急いで再婚すると言っていた言葉の意味がわからず、密かに軽侮の念を抱いていたのが、いまや尊敬の念に変った。

　二人の埋葬が終ると、乗員は船に戻り一部始終を話した。「ビジュー」号（「ヴィクトワール」号の僚船）の装飾を手伝うため乗船していたミッソンとカラチオーリの妻たちはこの話に驚く様子もなかった。カラチオーリの妻は、「その人はきっと身分の高い家の娘だったのでしょう。高貴な家の女だけが、夫と命をともにする特権があるのです。そして不貞を働いた女は生きたまま海に投げ込まれ魚の餌食になるのです。その女の魂は、その肉を食べた魚が生きている限り休まることはないのです」と言った。ミッソンが「われわれが死んだらおまえたちも同じように死ぬつもりなのか」と聞くと、彼の妻は「私たちは家門を辱めるようなことは決してしませんし、夫を思う気持も、あなたがたに感銘を与えた人に負けないつもりです」と答えた。

　乗員が回復するとミッソンはザンジバル沿岸に航海することを提案し、乗員はこれに賛成した。カラチオーリは女王とその兄に暇乞いをした。妻は現地へ残してゆくつもりだった。しかし彼女らは別れ別れになることをどうしても承知しなかった。航海からすぐ戻ると言っても無駄だった。「ザンジバルはモヒラよりずっと遠いし、あんな短い別れでも悲しい思いをしたのですから、それ以上長い別れはとても耐えられません。私たちを連れていって下さらないなら、あなた方がヨハンナに帰港されたとき私たちはもういないものと思って下さい」。

　結局、ミッソンとカラチオーリは彼らの妻たちを乗船させることになった。ミッソンが「しかし、もしほかの乗員たちの妻がおまえたちと同じように、船に乗せていってほしいと言い張ったら大変なことになるし、女たちは敵の餌食になるだろう」と言うと、二人の妻は口々に「女王様に女は乗船してはいけないという命令を出していただきます。船に乗っているものを発見したら、すぐ上陸させればよいのです」と答えた。女王の命令が発せられ、一行はモザンビーク河へ向け出帆した。ヨハンナを発って十日後、この河の東十五リーグの海域で備砲六十門のポルトガル船に遭遇した。戦闘は夜明けから始まり午後二時まで続いた。しかし、ポルトガル船は船長以下多くの乗員が戦死し、ついに降伏した。これはすばらしい獲物だった。二十五万ポンド相当の金粉を積んでいたのである。戦闘の間、二人の女は恐れる様子もなく、ただ夫の身を気遣って、かたときも甲板を離れなかった。この戦闘で味方も三十人の犠牲者を出した。カラチオーリは右足を失った。犠牲者のうち二十人はイギリス人乗組員だった。ポルトガル船は味方の倍の犠牲者を出した。カラチオーリが負傷したため、一行は急いでヨハンナへ戻ることにした。帰港すると負傷者の手当に全力が尽された。負傷者は二十七人を数えたが、傷が原因で死んだものはいなかった。

　カラチオーリは二か月横になったままだった。しかし彼が快方に向かうのを見て、ミッソンは「ビジュー」号に必要な乗員を残し、他の乗員を「ヴィクトワール」号に移乗させた。そして、ポルトガル船からも十門の砲を自分の船に移した。「ヴィクトワール」号には四十の砲門があったが、三十門の砲しか備えていなかったのである。こうして彼は出帆し、マダガスカルの北端まで航海した。そしてディエゴスアレスの北にひとつの湾を発見した。この湾内を十リーグほど進むと、左岸に新鮮な水が豊富にある安全で大きな良港をみつけた。ミッソンはここに投錨すると上陸して土地を調べた。地味は肥沃で空気も良く、土地は平担だった。彼は乗組員に言った。「ここはわれわれの退避場所に最適な土地だと思う。私はここに要塞を築き、小さな街をつくろうと思う。ドックも建設する。適当な土地を所有し、老いたり傷ついたりして厳しい仕事に耐えられなくなったものを収容する施設を作る。そこでは労働で得たもので楽しく暮らし、安らかな死を迎えるのだ。もちろん、私は乗組員全員の賛成が得られないなら、この計画を実行するつもりはない。もし私が望むように全員が賛成してくれるのなら、これは全体の利益になることだから、今すぐ工事に着手しないほうがいいと思う。われわれがヨハンナに帰っている間に土民に破壊されてしまっては困るからだ。それでも、仲間を連れてここに戻ってきてすぐ要塞建設にかかれるように、木を切り出して材木を作っておくことはできるだろう」。

　乗組員は船長の提案に喝采を送った。それから十日間というもの彼らは一心に働き、百五十本の大木を切り出して粗い材木にした。その間、原住民から妨害されたり、その姿を見かけたりすることはなかった。後の作業を楽にするため、材木は水際まで運んでおいた。こうしてヨハンナに帰港すると、彼らは仲間にすべてを話した。船長の計画に全員が賛同した。

　ミッソンは女王に、マダガスカルの海岸に砦を築くために人手を三百人援助してほしい、と申し出た。彼は、モヒラとの戦争ではヨハンナのために働いたし、今後も自分が役立つことは大いにあると考え、申し出が受け入れられると確信していた。女王は、議会の承認なしには何もできないから、早速議会に諮るけれども、ヨハンナ人はあなた方に恩誼を感じているから、申し出は受理されると思う、と答えた。議会が召集され、ミッソンの要求が討議された。長老の一人は、この要求に応ずるのはヨハンナにとって好都合とは言えず、さりとて拒否するのは安全でないと思う、と言った。援助を提供すればヨーロッパ人の勢力が強大になり、恐るべき隣国となって、以前はヨハンナを守ってくれたのが、利あるとみたら逆に島民を奴隷にするかも知れない。一方、もし要求に応じなかったら、彼らはこの国に甚大な損害を与えることもできる、と言うのがその意見だった。いずれにせよ、ヨーロッパ人がヨハンナの隣に砦を構えるのは、良い結果をもたらさないのではないか、と長老は言った。また別の議員は、彼らの多くはヨハンナ人を妻にしているから、この国と友好関係にあるほうが彼らにとってもよく、従って砦を築けばすぐ敵になるとも思えないし、また彼らの子供の代になれば、半分はヨハンナ人の血が入るわけだから何も恐れることはない、と反論した。それに、要求に応じておけば、同盟関係も続きこの国をモヒラ国から守ってくれるに違いない。こう言って、この議員は要求に応ずるのに賛成した。

　長時間の討議で、あらゆる利益と不利益が議論し尽された。そして、提供した人手を四か月以内に返すこと、またヨハンナと同盟しモヒラと戦うことを条件に、要求に応ずることになった。一行はカラチオーリが完全に回復するのを待って出帆した。ヨハンナ人およびイギリス人乗組員、そして仲間に加わった十五人のポルトガル人はポルトガル船に乗船した。ミッソンはこの開拓地をリバタリアと名付け、住民をリベリと呼んだ。こうして、フランス人、イギリス人、オランダ人、アフリカ人等個々の名称とは一線を画そうと考えたのである。

　最初に、港の両翼に砦を築いた。砦は八角形をしていた。そしてポルトガル船から陸揚げした四十門の砲を据えた。これがすむとさらに砲台を築き、十門の砲を据えた。さらに、砲台や船の射程内に小屋や弾薬倉を建てた。ポルトガル船の帆や索具はすべて陸揚げした。こうして忙しく街を建設している間にも、よく狩や居住地の周辺を探索する仲間があり、ずっと奥地まで探検してみようということになった。彼らは居住地から四リーグほど離れた場所に小屋を作り、さらにそこから東南東へ五リーグほど奥へ入ってみた。そこで弓矢と槍を携えた一人の黒人に出合った。一行は友好的な態度を示して、恐れず一緒にくるよう誘った。居住地ではこの現地人を三日間にわたって歓迎し、それから彼と出合った場所の近くまで送っていって別れた。別れ際に真紅の織物と斧を贈った。黒人はこの贈り物に大喜びし、まったく満足した様子で去っていった。

　探検隊員は、この近くに村があるに違いないと考えた。そしてこの男が太陽を見てから真南に歩いていったことを思い出し、彼らもコンパスの指す真南の方向に進んでいった。丘の頂上に到着すると、眼下にかなり大きな村が望めた。彼らは丘を下り村に向かった。村に近づくと手に手に弓矢や槍を持った男たちが飛び出してきた。しかし、白人たちのうち、二人だけが贈り物にする織物と斧を手にして近づいてくるのを見て、村人たちも四人だけを使者に立てた。双方の言葉が通じないのが残念であった。しかし村人らは指を一本だけ立てて太陽を指し、一人を前に歩かせ、また戻らせると残っていた仲間は割礼の跡を見せた。これを見て一行は世界には唯一の神が在り、それが一人の予言者を遣わせたのだと理解し、割礼の跡から、彼らはイスラム教徒だろうと結論した。贈り物は村長のところへ運ばれた。村長は一行を親切に迎え、身ぶりで白人を村へ招待した。しかし一行はモヒラ人の裏切りを思い出して、食糧を取りに皆のところへ戻らなければならない、とやはり身ぶりで示した。

（ミッソンの冒険は、第二十三章「テュー船長と乗組員」へ続く）





21　ジョン・ボーウェン船長





　ジョン・ボーウェンがいつ海に乗り出したのか正確なことはわからない。しかし、一七〇〇年には「スピーカー」号を指揮してマラバー沿岸を航海していた。乗組員はあらゆる国籍の男たちの寄せ集めであり、一味の海賊行為もあらゆる国籍の船に及んだ。この沿岸では交易が非常に盛んで、街の商人は別の街（たとえ十マイルほどしか離れていなくとも）で盗まれた商品であってもためらわず買い付け、海賊には必需品を提供した。そればかりか、海賊に冒険航海に乗り出すことを度々勧め、それに必要な船さえも提供した。そんなわけで、ここでは一味は商売に不便を感ずることはなかったのである。

　一味はカリキロン〔キロン〕近海で、コーンウェイ船長が指揮してベンガルからきた東インド会社の船を捕らえ、船と積荷を売却した。カリキロンの現地人商人、ポルカの商人、そしてマルパというオランダ人商人が三分の一ずつ買い取った。

　この船のほか数か国の船から得た戦利品を満載して、一味はマラバー沿岸からマダガスカルへ向かったが、航海の途中逆風に遭い、さらに操船の失敗もあって、モーリシャス島のセントトマス岩礁に乗り上げ、船を失ってしまった。しかしボーウェンと乗組員の大部分は無事に上陸した。一味はこの土地で大歓待を受けた。ボーウェンは総督の特別の厚遇を受け、総督邸で下にも置かぬもてなしを受けた。負傷者は砦で手厚い看護と治療を受けた。だれも不自由な思いはしなかった。一味はここで三か月過ごした後マダガスカルに行くことにし、スループ船を購入した。これをブリガンティーン船に改装すると、一七〇一年三月中旬、総督に難破した船、大砲、備品、その他流出を免れた積荷と二千五百ピース・オヴ・エイトを贈って別れを告げ、出帆した。モーリシャス島からマダガスカルまでは短い船路であったが、総督は一味に航海に必要な品々を餞別として贈り、今後も冒険航海の途中この島に寄港してくれれば何なりと役にたちましょう、と親切な申し出までした。

　マダカスカルに到着すると一味は東岸のマリタンに投錨した。そして河のほとりの平地に落ち着くと、河口と、そこからすこし上流の土地に砦を築いた。河口の砦は海からの敵に備え、もう一つは原住民の襲撃に備えるためのものであった。さらに自分たちが住むための小さな集落を建設した。この作業は一七〇一年いっぱいかかった。

　しかしこの仕事が完成してしまうと一味はすぐ新しい状態に不満を持ちはじめた。心は海賊稼業に戻ることを求めて止まなかった。こうして、居住地近くの入江に繋留してあったブリガンティーン船を整備して、再び海に乗り出すことに決めた。しかし、偶然なことから、一味にとってさらに好都合な事態がおとずれた。

　一七〇二年初め、スコットランドのアフリカ・東インド会社に所属する「スピーディ・リターン」号が一隻のブリガンティーン船を伴って、マダガスカルのマリタン港に入ってきた。船隊を指揮していたのはドルモンド船長だった。一行はマダガスカル本島に隣接する小島セントメアリー島で黒人を積み込んでマスカリーン島へ運び、そこからさらに同じく奴隷貿易をする目的でこの港にきたのである。

　港に到着するとドルモンド船長と船医のアンドリュー・ウィルキー、その他数人の乗組員が上陸した。このすきにジョン・ボーウェンは数人の仲間を連れ、小舟を操って「スピーディ・リターン」号に近づき、ヨーロッパの品を買い付けにきた商人を装って船に乗り移った。甲板には一等航海士と甲板長のほか二人ばかりがいるだけで、残りの乗組員は船倉で作業をしていた。これをみた一味はたちまち正体を現した。全員ピストルを抜き短剣を構えると、乗組員に向かって「すぐ船室へ入れ。命令に従わなければ命はないものと思え」と脅した。海賊の一人は、武器を手にし、船室のドアのところで見張りに立った。残りのものは船倉の入口を打ち付けると、あらかじめ示し合せておいた合図を岸にいる仲間に送った。四、五十人の仲間がやってきてこの船を奪い、続いてブリガンティーン船も乗っ取った。血を流したものは一人もいなかった。

　当然のことながら、ボーウェンが船長になった。古い乗組員はほとんど全員そのまま船に留め、ブリガンティーン船は不要だったから焼き払った。船に装備をし、水や食糧を積み込むといよいよあらたな冒険に乗り出す準備が整った。





　ここで一味からしばらく離れ、頑迷な人びとの軽率で馬鹿げた判断のために、ボーウェン一味が捕らえた「スピーディー・リターン」号の船長と乗組員を掠奪し殺したという冤えん罪ざいを被った不運な船長の話をしておきたいと思う。

　トマス・グリーン船長が指揮する「ウォーセスター」号はインドからイギリスへの帰路、南風にスコットランドまで流され、一七〇四年七月リース泊地に投錨した。船長と幾人かの乗組員が食糧を求めるために上陸した。ドルモンド船長の船をよく知っていて船長と友人でもあった人びとは、「ウォーセスター」号がインドから到着したと聞き、その船の消息をグリーン船長らにしつこく尋ねた。船長が、そのような船はインドでは聞いたことがないと答えると、人びとはひどく驚いた様子だった。人びとの驚きは、出港以来音さたのないスコットランド船と「ウォーセスター」号の間に何か不都合があったのではないかという疑いに発展した。

「ウォーセスター」号の乗組員が、明らかにスコットランド人に対して海賊と殺人を働いたことを示す言葉を漏らしたと当局に通報するものも出てきた。このため、乗組員数人が密かに取り調べを受けた。彼らは、時には縛り首にするぞと脅され、また時には白状してしまえば悪いようにはしないと誘われたりした。とうとう一人のインド人少年が、人びとの期待していたようなことを宣誓のうえ証言した。船長、一等航海士その他の乗組員は投獄された。船の荷は陸揚げされ、インド人の証言を確証するような品物や書類がないかどうか、しらみつぶしの調査が行なわれたが、なにも発見できなかった。人びとはこの証言と船医チャールズ・メイの証言によって乗組員を審理した。インド人の証言というのは次のとおりである。インド人は、名前をアントニオ・フェルディナンドといった。マラバー沿岸で「ウォーセスター」号に随伴するスループ船に乗り組んだが、ほどなく、イギリスの旗を掲げ、英語を話す白人が乗り組んだ船に遭遇し、交戦になった。戦いは三日間続いたが、三日目に、彼の船の乗組員が相手の船に乗り移り、その乗員を甲板の下からひきずり出して斧で殺したうえ海に投げ込んでしまった。

　チャールズ・メイの証言はこうである。カリキロンに上陸しているとき、沖から砲声が聞こえた。何事があったのか聞いたところ、出港した「ウォーセスター」号が沖で別の船と交戦しているとのことだった。翌朝「ウォーセスター」号が前日碇泊していた泊地に投錨し、その後にもう一隻別の船が碇泊しているのを見た。「ウォーセスター」号の大型ボートが岸にやってきたので、彼はなぜ上陸するのか聞いた。彼らは、水樽が壊れて水が全部流出してしまったから、もう一度水を積むために戻ってきたのだ、と答えた。そして昨夜はひと晩中とりこみだったと言った。五、六日後、彼が乗船してみると荷が乱雑に積まれていた。「ウォーセスター」号の後に碇泊していた船はキロンの商人でコゴ・コモドという男に売却したとのことだった。また、アントニオ・フェルディナンドのほか数人の負傷者がいた。負傷の原因を聞いたら、彼らは一等航海士のマダーさんから口止めされていると答えた。これらはすべて一七〇三年一月から二月にかけてのできごとだった。

　アントニオの証言はまったくの作り話で何の真実も含まれていないようにみえた。また、チャールズ・メイの証言は、彼が知っている事実から、陰険な遠回しのほのめかしをしたものだった。事実はこうである。カリキロンを出帆し、カーニポールへ向かった「ウォーセスター」号は、悪天候のため、キロンの泊地近くからアンジャゴまで流された。そこで東インド会社の船、「オーレング・ゼブ」号に遭遇したので、五発の号砲を撃って合図した。「オーレング・ゼブ」号は「ウォーセスター」号とともに泊地に入り、その後に投錨した。これがメイの見た船だったのである。また、ひと晩中とりこみだったというのは、風に逆らって船を進めていたということに過ぎず、彼らはキロンに戻るためにそうしていたのであった。「ウォーセスター」号は「オーレング・ゼブ」号に水を分けてやったため、もう一度水を積み増ししなくてはならなくなったのである。また負傷した乗組員は三名に過ぎず、一名は船倉に転落したため、一名はオランダ人二人とナイフで喧嘩したため、そしてもう一名は材木を切っているときしくじったための傷だった。

　さらに、メイの証言はアントニオの証言を裏付けるために提出されたものだったが、両者はいくつかの点で矛盾していた。アントニオは、事件はカリクートとタレチェリーの間で起こったと証言した。（しかし、船医は、この船がタレチェリーに立ち寄ったことはないと言い、船長その他の日誌からもそれは証明されている。）メイはカリキロンで砲声を聞いたが、二つの街は百四十マイル以上も離れている。アントニオは交戦が三日も続いたようなことを言ったが、メイによれば、「ウォーセスター」号のとりこみは一晩だけだった。しかも、これ以外のメイの証言はすべて「そのように聞きました」とか「そのような話でした」といった調子のものだった。彼の法廷での証言で気付くことは、その後彼は十八か月間「ウォーセスター」号に乗り組んでいたが、他の船と交戦したとか、獲物があったといった類の話はまったく聞いていないと言っていることである。事件が本当にあったものなら、これは実に奇妙なことである。

　話を手短にしよう。船長以下乗組員全員は想定された犯行で有罪の宣告を受けた。すなわちグリーン、マダー、シンプソン、キーグルおよびヘインズは四月四日水曜日、テイラー、グレン、キチンおよびロバートソンは四月十一日水曜日、そしてブラウン、バックリー、ウィルコックス、バランタインおよびリンゼイは四月十八日水曜日に各々絞首刑に処せられることになった。

　この気の毒な人びとに対する宣告が下ると、街中が喜びにわいた。そして数日間というもの、街はこの話題でもちきりになり、だれもが、自分こそこの問題に関心を持っていると思った。そして残忍な喜びを露わに見せるものもいた。彼らは「ダリエンの仕返し＊をしてやった。俺たちが正当な裁きをするのだ」と言った。

　判決が下ると、被告たちは、死ぬまでの残された時間をもっともよく使いたいから静かにしておいてほしいと願った。しかし彼らは逆に、最大限の口汚い言葉で罵られたばかりか、スコットランド教会の教誨師の訪問に悩まされ続けた。教誨師は陰鬱極まる脅し文句を浴びせ、強情を張りつづけ罪を認めないまま死につけば、神の怒りと恐ろしい永遠の拷問が待つのみであろう、と言った。これらの言葉は、酷薄な人びとに特有の情熱をもって語られた。教誨師は判決が下った後も容赦なかった。お題目のうちから最も恐しそうなものを選び出し、素直に罪を認めれば命は請け合うと被告たちに説いたのである。とうとう、ヘインズとリンゼイがこれに負けて、彼らの喜びそうなことを証言した。ヘインズは、赦免してもらえると聞くと、ドルモンドの船に対する恐ろしい海賊行為を自白した。そして、フェルディナンドの証言になるべく近いような話をした。事実を語らないものの話が常にそうであるように、彼の話には幾つかの非常に重要な点に矛盾があった。全体の話を潤色するため、彼は、仲間が海賊を始めるときの血なまぐさい儀式（魔法をかけるときの馬鹿げた儀式によく似ている）を次のように説明した。「一人ひとりがどこか自分の身体を傷つけて血を出しました。その血を混ぜ合わせると全員が一口ずつ飲み、血にかけて秘密を守ると誓い合いました」。リンゼイはこれより少しはましな男だった。彼は、言い訳になりそうなことだけを、しかもなるべく少なく話すようにした。そして、交戦のあったとき自分は上陸していたから、自分の話の大部分はインド人のうわさだと言った。この情けない男たちは、信義と良心を売って死刑を逃れ、せいぜい数年間の苦難に満ちた人生を手に入れようとしたのである。

　二人の自白が公にされると、大衆のみならず紳士たちも猛り狂い、浅ましい罵言雑言を彼らに浴せた。人びとの怒りはますます激しくなり、ついには裁判を担当した検事にまでそれが及んだため、一時は検事たちも地方に難を逃がれたほどだった。

　この混乱の最中に、ドルモンドの乗組員だった男が二人、ギャレー船「レイパー」号で帰国した。そして彼らの船が海賊に奪われたと供述した。このため、議会は被告たちの刑の執行を八日間延期し、その後、この二人から事実を聴取するためさらに刑の執行を延期したいとした。

　被告らの絞首刑を以前から待ち望んでいた大衆は、執行延期の決定を激しく非難した。四月十一日、議会は今後の方針を討議した。大衆は、刑の延期か赦免が決定されるのではないかと想像した。たちまち街中の店の戸は閉ざされた。街路にはおびただしい数の男、女、子供たちがあふれ、イングランドの人殺したちを裁け、と口々に叫んだ。たまたまここをシーフィールド裁判長の馬車が通りかかった。暴徒はこれを止め、窓を壊して裁判長を引きずり出すと、被告たちを早急に絞首刑にすることを無理やり約束させた。

　裁判長の約束により、この日、すなわち四月十一日水曜日、ただちにグリーン船長、マダーそしてシンプソンが牢から刑場へ連行された。途中、街の人々は勝ち誇り、悪態の限りを尽して被告らを辱めた。気の毒な被告らは、こうして邪な人びとの喜びの犠牲になった。

　死刑の理由となった犯罪を知らされると、グリーン船長は、自分や乗組員に対する判決は不当であると訴えた。そして、自分のイングランド国教に対する信仰、乗組員たちが宗教的義務に忠実だったこと、偽りを口にして死んでは救済はあり得ないと考えていること等を述べた。そして続けた。「私は、自分の信ずるところに従い、また全能の神に誓って、私が有罪とされている犯行を計画したことも実行したこともなく、無罪であると申し上げます。私はこれまで他人を不当に扱ったり、掠奪したりしたことはなく、そのような非難を受けたこともありません。私は海賊行為と無縁に生きてきたことを神に感謝しております。しかし、私を告発した人びとは、私が人びとの前でこのようなことを告白しても無駄だと皆さんに信じこませていることでしょう。私の言うことを、善良なキリスト教徒の話として聞いていただきたい。皆さんに寛容の心がないということは、皆さん自身を傷つけることであり、私を痛めることにはなりません。私の乗組員で、犯行を自白し、私たちに罪を着せたものがいると聞きました。これは判決後に、自分たちが助かりたいがためにしたことです。私はこのようなことは合法的な手続きによってなされるべきのものであり、彼らに、無辜の人びとの血を流す権利はないと思います。私は死んでゆく人間です。彼らはなお生きる望みを持っています。どちらを信じるか、あなたがた自身で選んでいただきたい」。





　ボーウェン船長の話に戻ろう。ドルモンド船長の船とそれに随伴していたブリガンティーン船を奪ったことは前に話したとおりであるが、その乗組員から、マスカリーン島を出帆するとき港にハニカム船長のギャレー船「ルーク」号が碇泊していた、と聞いた。そこでボーウェンは僚船とともにそこへ向かうことにした。しかし船に水を補給したり私事を片付けたりするのに七、八日を費やしてしまったため、島に到着したときは、目的のギャレー船は出帆したあとだった。

　マリタンを出港した日の夜、一味のブリガンティーン船がマダガスカル島西岸の岩礁に乗り上げてしまった。しかしボーウェンは僚船の事故に気付かずにマスカリーン島へ向かった。

　ボーウェンはこの島に十日ほど滞在し、その間に船に食糧を補給した。そして、「ルーク」号はどこか別の島に向かったのだろうと考え、獲物を求めてモーリシャス島へ針路をとった。北西の港に四、五隻の船が碇泊していたが、ボーウェンはひと仕事するには劣勢であると判断し、再びマダガスカルに向かった。そして最初ドーフィン港に立ち寄り、次にオーガスティン湾に投錨した。二、三日後、難破して沈没したか光栄ある稼業から脱落したと思っていた僚船「コンテント」号がこの湾に入ってきた。そして仲間に彼らの災難を話した。海賊一味がこの再会を喜びあったのは言うまでもない。ブリガンティーン船は水漏れがひどく冒険航海には耐えられそうもなかった。そこで一味はこの船を岸に上げて火を放ち、乗組員は全員「スピーディ・リターン」号に移乗した。

　この地で一味は原住民から、ハワードという船長が率いる別の海賊一味がこの近くにしばらく碇泊していたと知らされた。この連中が仕事を求めているときに運悪く東インド会社の「プロスペラス」号という船が入港し、商人を装った一味に乗っ取られてしまった。（ボーウェーン一味が「スピーディ・リターン」号を奪ったのとほとんど同じ手口だった。）ハワード一味は奪った船でニューメセラージへ向かったというのである。ボーウェン一味はこの情報を検討し、単独で行動するよりハワード一味と同盟を結んだほうが得策だと結論した。ギャレー船「ルーク」号を求めてモーリシャス島へ行った際、その船の他数隻の獲物を目の前にしながら、自分たちの船と同程度の力のある僚船がなかったばかりにみすみす見逃がしてしまったことを思い出し、単独では非力すぎて大きな仕事はできないと判断したのである。

　一味は早速出帆してニューメセラージへ向かった。しかしハワード一味の船はそこにはいなかった。彼らはこの地に立ち寄ったのだが、すでに出帆してしまったということがわかった。ボーウェン一味はしばらくそこに滞在した後、ヨハンナ島へ向かった、そこにも「プロスペラス」号の姿はなかった。一味はさらにマヨッタ島へ向かい、そこでハワード一味の船が投錨しているのを発見したのである。一七〇二年のクリスマスのころであった。

　ふた組の海賊は同盟の交渉をした。ハワードはボーウェンの提案が気に入り、すぐ賛成した。盟約が成立した。彼らはこの島に二か月間逗留した。恐らく、この島を根城にして航海に出れば獲物に遭遇しやすいと考えたのだろう。そして実際、彼らの期待することが起こった。三月初め、東インド会社の「ペンブローク」号が水を補給するために湾に入ってきた。一味はボートに分乗してこれに乗り移り、獲物にした。小ぜり合いで船の一等航海士ともう一人の乗員が殺された。

　二隻の海賊船は錨を揚げ、獲物の船を伴って海に出た。翌日、この船の積荷と食糧の大部分を掠奪し、船長と大工を一味に加えた。「ペンブローク」号と残りの乗組員は釈放した。海賊はニューメセラージへ向かった。この島で二人の海賊船長は協議して、インドへ航海する計画を立てた。一味は、この目的のために「ペンブローク」号の船長を留めておいたのだった。彼をインド近海の水先案内人にするつもりだったのである。しかし船長をどちらの船に乗せるかということで、ボーウェンとハワードは激しく言い争った。すんでのところで掴み合いの喧嘩になるかと思われたとき、両者に納得の行くような案が出された。一方が船長の腕とインド沿岸に関する知識を利用して他方を出し抜かないように、彼の頭をぶち割って殺してしまおうというのがその案だった。しかし結局、ボーウェンが自分の仲間を説得し、ウーレイ船長を「プロスペラス」号に残すことに同意したので、船長は命拾いをしたのである。「スピーディ・リターン」号は船底も汚れ、多少の修理も必要になったので、オーガスティン湾に戻ることにした。この間、「プロスペラス」号は喫水部分の塗装をし、水と食糧を補給することにした。二隻は会合地点に定めたマヨッタ島で再び船隊を組むことに決めた。

「プロスペラス」号は約束どおりマヨッタ島へ向かい、そこでしばらくボーウェンの船を待った。しかし僚船は現れず、その風聞にも接しなかった。さらにヨハンナ島まで行ってみたが、この島にも僚船の姿はなかった。一味はボーウェンの船が何か事故に遭ったのだろうと考え、自分たちだけで航海を続けることにして島を離れた。一方「スピーディ・リターン」号はマダガスカル島のセントオーガスティン湾に無事到着し、修理と食糧の補給をすませたが、滞在が長引いているうちに風向きが悪くなり、マヨッタ島へ近づくことができなくなってしまった。そこでヨハンナ島へ向かったが、ここでハワードの船がつい最近出帆したことを知った。一味は紅海へ向け船を進めた。しかし天候が思わしくなく、スラト近くのセントジョン港へ針路を転じた。ここで彼らは「プロスペラス」号と再会したのである。

　二隻の海賊船は約束どおり船隊を組んで航海した。しばらくして四隻の船を発見した。一味はすぐ追跡に移ったが、二隻は北、残りの二隻は南と別々の針路をとっていたため、ボーウェンは南へ向かう船を、ハワードは北へ向かう船を追跡した。ボーウェンは二隻のうち大きい方に追い付いた。この船はモカからスラトに向かうムーア人の船で五百トンの大きさがあった。海賊は獲物をインドのラジャポーラまで連行し、そこで掠奪した。商品は現地人に売却したが、二万二千ポンド相当の金貨は自分たちの懐に入れた。二日後「プロスペラス」号が入港した。獲物は連れていなかった。しかし彼らは、自分たちの戦果もまんざらではなかった、と次のように話した。四隻の船の目的地であるスラト河口で、彼らは獲物に追い付いた。そして一斉射撃により一隻は降伏したが、残りの一隻は湾深く逃げ込んだ。彼らは獲物を連行して沿岸を下り、ダマン沖で積荷の大部分を掠奪した。もっとも価値があったのは八万四千枚のチェキン貨で、一枚がおよそ十シリングに相当した。掠奪後、彼らは獲物の船の錨と索具をすべて取り去って碇泊させた。

　ラジャポーラに碇泊中、一味は船の状態を調べてみた。そして彼らの船より獲物の船のほうが使用に耐えるとわかり、二隻を焼却処分することにした。一味は直ちにスラト船に必要な装備をすると全員この船に移乗した。「プロスペラス」号と「スピーディ・リターン」号には火を放った。この地で一味は百六十四人の新しい仲間を加えた。このうちイギリス人は四十三人だけで大部分はフランス人、そしてデンマーク人、スウェーデン人およびオランダ人が数人含まれていた。さらに力仕事のために七十人のインド人を乗船させ、五十六門の砲を装備した。そして船を「デファイアンス」号と命名すると、一七〇三年十月末、ラジャポールを出港してマラバー沿岸へ向かった。

　しかしこの航海では何の獲物にも遭遇しなかった。一味はコチンの北方三リーグの地点に投錨した。そして岸から食料品を積んだボートがきてくれることを期待しながら、数発の号砲を発射した。しかし岸からは何もやってこなかった。そこで人びとと交渉するため操舵手がボートで陸に向かった。彼は用心のため、ボートをいつでも出せるようにしておいた。結局、人びとは一味を快く受け入れ、必要なものは何でも提供すると約束してくれた。ボートは本船に戻った。

　翌日、豚、やぎ、ワインその他を積んだボートが街からやってきた。それらとともに、海賊の旧友であるオランダ商人マルパの知らせを持ってきた。オランダ船「リメー」号がここからあまり遠くないマドベイに碇泊しているから、その荷を彼らが掠奪してくれたら、それを自分が買い取ろうというのであった。さらにピッチ、タールその他必需品はすべて用立てると約束した。マルパの商館員が引きも切らず船にやってきて、甲板に店を開き、ありとあらゆる雑貨、食料品、宝石、食器を並べて商いをした。そして多額の売上金を箱に入れて帰っていった。

　海賊は獲物の情報を非常に感謝したが、自分たちの船は大きすぎて湾に近づけないと考え、どうすればその船を捕らえることができるかマルパに相談した。彼は即座に、碇泊しているもっと小型の船を売ろうと言った。しかし彼が商館員のプントという男に、この船を出すように命じたところ、プントはそのような悪事に関わるのを拒否したばかりか、海賊と通じていると言ってマルパを詰った。そして、そのような悪事に手を染めるなら、正直な商人の節操を曲げるものであり、二度と同胞に顔向けすべきでない、と言った。この諌言でマルパは考えを改めたのだった。

　インド沿岸の水先案内として海賊に留置されていたウーレイ船長は病を得てひどく弱っていた。そこで、彼のたっての希望により、海賊は船長をこの地で釈放した。翌日、海賊は出帆し、獲物を求めてマラバー沿岸を航行した。この航海で一味は再び「ペンブローク」号に遭遇した。海賊はこの船から砂糖その他を掠奪して釈放した。そしてこの沿岸を後にしてモーリシャス島に戻ったのである。一味はこの島にしばらく逗留し、例のごとく乱痴気騒ぎに時を過ごした。

　島にいる間にイズラエル・フィペニーとピーター・フリーランドが脱走した。二人は海賊船が出帆するまで島の奥に身を潜めていた。彼らは以前ドルモンドの乗組員だった。海賊船が島を離れて間もなく、ギャレー船「レイパー」号に乗ることができ、一七〇五年三月、ポーツマスに帰港した。死刑の判決を受けたグリーン船長の兄ジョン・グリーン氏はこれを知るとすぐポーツマスへ行き、フィペニーとフリーランドがポーツマス市長の前で行なった供述を入手した。供述書には本文に書いたような事実がいくつか含まれていた。彼はすぐそれをロンドンの国務大臣のもとに届けた。供述書は至急便でスコットランドに送られた。そして、船長が処刑された数時間前にスコットランドに到着したのである。





補　遺





　著者が真正なる海賊列伝編纂のための材料蒐集に費した苦労と、真実以外は何ものも伝えまいとして払った細心の注意を理解していただける読者であれば、苦心して調査したにもかかわらず本書の出版までには入手不可能だった以下の事実を補遺の形で掲載するのを諒とされるであろう。

　ボーウェン船長に関する記述は真実である。しかし彼の生い立ちについては確かなことはわからなかったから、私はそれを勝手に想像することはせず、何も書かないでおいたのである。その後、彼を個人的に知り、よく話をした人をつうじて知り得たところによれば、彼はバーミューダ島の立派な両親の間に生まれたのであった。親は彼が望んだ船乗りにするため十分な教育を受けさせた。

　彼は最初の航海でカロライナへ行った。ここで彼があらゆる面で優れ、真面目で知的な男であると知った幾人かの商人は、西インド諸島航海の船の指揮を彼に委せた。彼は数年間この仕事に従事した。しかしある航海の帰路、不運にもフランスの海賊に捕らえられた。海賊は操船に熟達した乗組員がいなかったので、彼を海賊船に留めて操船にあたらせた。西インド諸島をしばらく航海した後、海賊はギニア海岸に向かい、そこで数隻の獲物を捕らえ、また幾人かの熟練船員を仲間に加えた。しかしボーウェンほどの経験者はいなかったから、いくら頼んでも海賊は彼を釈放しようとしなかった。ボーウェンの働きにもかかわらず、海賊は彼を他の捕虜並に、手荒く扱った。これはホワイト船長の章に書いたとおりである。

　海賊は希望峰を回って、ヨハンナ島に帰港し、休養の後西インド諸島に向かった。この航海で彼らは船を失ったのであるが、これもホワイト船長の章に書いたから繰り返す必要はないであろう。この他、本文に書かなかったリード船長との同行、グラブ船の奪取、マヨッタ島からマダガスカル島への航海、フルジュットとの同盟、「スピーカー」号の奪取、ブース船長の相続、マスカリーン島での死、等のことがらについても、他の章に述べた。〔ボーウェンの死は第三十五章「ナサニエル・ノース船長と乗組員」に書かれている。〕





＊　ダリエンの仕返し　ダリエン計画のこと。スコットランドはイギリスの東インド会社に倣って、パナマ地峡の大西洋および太平洋両岸に植民地を建設し、そこを中継地としてヨーロッパ、南アメリカ、そしてアジアとの交易を計画した。ウィリアム三世の反対に遭ったが、スコットランド人は計画を進め、一六九八年、大型船五隻、一二〇〇人からなる第一陣が出帆した。彼らはポルトベロとカルタヘナの間に居住地を設けた。しかし熱病と飢餓、それにスペイン人の攻撃を受けて計画は挫折し、生存者は帰国を余儀なくされた。このことが知らされぬうちに第二陣が出発したが、目的地に到着すると、先発隊の小屋の焼け跡と、破壊された砦があるだけだった。そして先発隊と同じ運命が彼らを待ち受けていたのである。こうしてダリエン計画は失敗に終った。一方、東インド会社は非常な成功を収めていた。このため、スコットランド人はイングランドに恨みを抱いたのである。





22　ウィリアム・キッド船長と乗組員





　これから話そうとする男の名前は、イギリスではこれまでのどの海賊よりよく知られている。キャプテン・キッドである。彼の裁判と処刑は衆人の話題に上り、その所業はバラッドにも唄われている。しかし、これらもすでに過去のことになった。人びとはキッド船長が海賊行為の罪で絞首刑になったことを知っているが、彼の冒険や、彼がどうして海賊になったかを知っている人は当時でもほとんどいなかった。

　ウィリアム王の戦争が始まったとき、キッド船長は西インド諸島で私掠船を指揮して数々の武勲をたて、勇者として、また敏腕の船乗りとして名を馳せていた。そのころ、西インド諸島近海は海賊にひどく悩まされていた。そこで当時バルバドス島の植民地総督をしていたベラモント伯爵らは、海賊討伐を委任するのにうってつけの人物として、キッド船長を政府に推挙した。彼なら、この近海を自分の掌たなごころのように知っていて、海賊の潜伏場所にも精通しているから、政府の船の指揮を任せるのに適任というのがその理由であった。しかし、どのような政治的理由があったのか私は知らないが、この提案は本国では顧みられなかった。これが実現していたら、海賊による被害に苦しんでいたわが国の貿易商人に多大の恩恵をもたらしていたと思われる。ベラモント伯らは、海賊どもの掠奪がおびただしいこと、そして彼らの富の蓄積が莫大であることを知り尽していたから、この提案が拒否されると自らの費用で船を調達し、その指揮をキッド船長に任せようと考えた。そして、乗組員が彼の命令によく従うように、また世評も配慮して、キッド船長に対する国王の委任状を入手した。この委任状は以下のとおりである。





ウィリアム王

神の御加護のもと、イングランド、スコットランド、フランスならびにアイルランドの王にして信仰の擁護者たるウィリアム三世より、信頼に値しかつ忠愛なるギャレー船「アドヴェンチャー」号船長ウィリアム・キッド若しくは暫時同船の船長となるすべてのものに挨拶を送る。余は、トマス・テュー船長、ジョン・アイルランド、トマス・ウェーク船長、ウィリアム・メイズまたはメイス船長そのほかニューヨークその他のわがアメリカ植民地の臣民、原住民、在住者らが他のよからぬ連中と結託し、国際法に違反してアメリカ沿岸その他の海域で、おびただしい海賊剽盗掠奪行為に及び、交易と航海を著しく阻害し、余が忠愛なる臣民、同盟国の人民その他あらゆる国の人民が合法的な職業遂行のために行なう航海を非常な危険に陥れ、危害を加えていることを聞き及んでいる。これら非道なる行ないを防止することは余の希望するところであり、われらが力の及ぶ限りこれら海賊を法に照らし処罰することが適切と考量する。よって、余は、一六九五年十二月十一日付をもって大英帝国海軍大臣名により私掠船委任状を授与し現在「アドヴェンチャー」号船長である右記ウィリアム・キッド、暫時同船の指揮をとるもの、並びにウィリアム・キッド指揮下の士官および乗員に対し、右記トマス・テュー船長、ジョン・アイルランド、トマス・ウェーク船長、ウィリアム・メイズまたはメイス船長および余が臣民たると他国民たるとを問わず、彼らと結託する海賊にアメリカ沿岸その他の海域で遭遇した場合、いかなる一味であれ、一味が投降する場合はそのすべての船もろとも拿捕し、船上で発見した若しくは一味が身につけている商品、金銭その他一切を押収する全権限を付与する。また、彼らが抵抗する場合は、武力をもって屈服せしめてよい。また余は、捕らえた海賊を該当する法に基づき処罰するため、公判に付せしめることを汝に命ずる。ここに、余は、余の指揮官、大臣、および忠愛なるすべての臣民に対し、汝が当該事業の遂行するにあたり、汝に援助と協力を提供することを命ずるものである。汝は、当該事業の遂行にあたっては正確な航海日誌を記し、本委任状に基づき汝が拿捕する海賊とその乗組員の姓名、海賊船の船名、海賊船に積んだ武器、弾薬、食糧その他積荷の量と価額を可能な限り正確に記録しなければならない。なお、汝がこの命に背き、本委任状若しくは本委任状で付与された権限を口実にして、いかなる手段にせよ、わが友好国または同盟国の船舶や人民を攻撃しあるいは妨害することは一切これを禁ずる。以上の証として、余は本委任状にイングランド国こく璽じを印せしめる。

一六九五年十二月二十六日　　ウィリアム王治世第七年

於　ケンジントン宮廷





　キッド船長はこれ以外にも、報復的拿捕認可状コミシヨン・オヴ・リプライザルと呼ばれる委任状を入手していた。戦時であったから、これにより彼はフランス商船に遭遇した場合、それを正当に拿捕できたのである。しかし、この認可状は本章の話には無関係であるから、ここでその話をして読者を退屈させるのはやめよう。

　二種類の委任状を手にしたキッドは、一六九六年五月、ギャレー船「アドヴェンチャー」号に砲三十門を備え、八十人を乗り組ませてプリムスを出帆した。彼は先ずニューヨークを目差した。航海の途中、ニューファンドランドからきたフランス船に遭遇し、これを掠奪した。しかし上述した委任状のおかげで、これは海賊行為にはあたらなかった。

　ニューヨークに到着すると、彼はさらに多くの乗組員を募った。これから命知らずの敵を相手にするにはより多くの人手が必要だったからである。戦利品の四分の一を彼と雇い主がとり、残りを乗組員のものにするというのが募集の条件だった。これによって乗組員はたちまち百五十五人に増強された。

　こうしてキッドは先ずマデイラ島へ向かい、そこでワインその他の必需品を積み込んだ。さらにヴェルデ岬諸島の一つボナヴィスタへ船を進め、そこで塩を積み込んだ。そこからやはり同諸島の一つセントヤーゴ島へ行き食糧を補給した。準備が整うと、彼は海賊の集結地として知られるマダガスカルへ針路をとった。この航海の途中、彼は、ウォーレン艦長が率いる三隻の軍艦に出合った。キッドは自分たちの航海の目的を知らせ、二、三日艦隊と行動をともにした。艦隊と別れると、彼は全速でマダガスカルに向かい、一六九七年二月この島に到着した。プリムスを発ってちょうど九か月後だった。

　しかし、このとき、海賊船はすべて獲物を求めて島を出払ったあとだった。最も信頼できる情報によれば、現在島には一人の海賊もいないということだった。そこでキッド船長は、船に水や食糧の補給をしてから、マラバー沿岸で運を試めそうと考えた。マダガスカルに到着して四か月後の同年六月、「アドヴェンチャー」号はマラバー沿岸に到着した。彼は、海賊を求めてこの海域を遊弋し、ときにはマラバーとマダガスカルの間にあるモヒラ島やヨハンナ島にも立ち寄った。しかし成果はまったく無かった。食糧は日に日に乏しくなり、船も修理が必要になってきた。そこで、ヨハンナ島に立ち寄ったとき、フランス人からかねを借りた。彼らは、遭難して船を失ってしまったが、積荷は助かったのである。キッド船長は借りたかねで船の修理に必要なものを購入した。

　そのころ、キッドは海賊になろうという考えはまったくなかったようである。実際、モヒラとヨハンナ島の近海で、荷を満載したインド船に遭遇し、しかも彼らを好きなようにできる力を持ちながら、まったく手出しをしなかった。彼がはじめて人類に対する犯罪行為に及んだのは、船を修理してヨハンナを出港後、紅海沿岸にあるマビーという土地に立ち寄り、そこで住民から穀物を奪ったときである。

　その後、彼は紅海入口にある「バブの小島」と呼ばれる小さな島〔恐らくペリム島であろう〕に向かった。ここで彼ははじめて乗組員に、方針を変えるつもりであることを知らせた。たまたま話題が「アドヴェンチャー」号と同じ航路を通るモカの船隊のことになったとき、彼は「俺たちはこれまで運がなかった。だが勇気を出せ。あの船隊を襲ってひと儲けしようじゃないか」と言った。反対するものが一人もいないのをみると、彼はボートに十分な人手を乗り組ませ、捕虜を連れてくるか、船隊に関する情報を集めてくるよう命じて陸に偵察に遣った。数日後ボートが戻ってきて、イギリス、オランダ、それにムーアの国旗を掲げた十四、五隻の船が出港しようとしていたと報告した。

　キッド船長のこの豹変ぶりを説明することはできない。最初、彼は海賊を捕らえてひと財産築こうという望みを持っていた。しかし、彼は獲物のない航海にうんざりし、また、多額の投資をしながらなんの成果もないのに腹を立てた雇い主から見離され、頼りがいのない男という烙印を押されるのを恐れた。そして、窮乏に陥るよりは、いっそ別の道を選ぼうと決心したのだろうと私は想像する。

　彼は部下の一人に、船隊が近くを通過するかどうか、マストから厳重に見張るよう命じた。四日後、日も暮れようとするころ、イギリスとオランダそれぞれ一隻ずつの軍艦に護衛された船隊が視界に入ってきた。キッドはすぐさま船隊に襲いかかり、手近のムーア船に砲火を浴せた。しかし急を知った護衛艦が時を移さずキッドの船に迫り砲撃を加えた。「アドヴェンチャー」号は、二隻の軍艦を相手にするだけの力はなく、退却せざるを得なかった。すでに海賊行為に手を染めてしまったキッドは、この稼業を続ける覚悟をしてマラバー沿岸に向かった。最初の獲物はアデンからきた小型船だった。これはムーア商人の持ち船だったが、指揮していたのはパーカーというイギリス人だった。キッドはパーカーと、もう一人この船に乗っていたドン・アントニオというポルトガル人を捕虜にした。獲物の船に乗っていたヨーロッパ人はこの二人だけだった。キッドはパーカーを水先案内人、アントニオを通訳として使うつもりだった。それから乗組員らの腕を縛って吊し上げたうえカトラスで殴りつけ、拷問して金の存り処を言わせようとした。しかし船には、金や銀は積んでいなかった。彼らに対する手荒い仕打ちも無駄だった。キッドは胡椒一梱とコーヒー一梱を奪って船を釈放した。

　それからしばらく航海して、キッドは同じマラバー沿岸のカラウォーという土地に寄港した。ここには、すでにキッドのムーア船に対する海賊行為が伝わっていた。被害に遭ったムーア船の持主らと取り引きのあるこの土地のイギリス商人が、彼らから知らせを受けていたのである。キッドが入港するとすぐ、うわさの海賊ではないかという疑いを受けた。当地のイギリス商館のハーヴェイとメイスンが船にやってきて、パーカーとアントニオという男はいないか、と尋ねた。キッドは、そのような男はまったく知らない、と答えた。彼は、これらの捕虜を、出港するまでの七、八日間、船倉に監禁していたのである。

　しかし、沿岸地帯には警戒体制がしかれ、ポルトガルの軍艦が出動した。キッドはこの軍艦を迎え撃った。熾烈な戦いは六時間にも及んだ。しかし、軍艦のほうが優力とわかると、キッドは快速を利して離脱した。

　彼はポルカに寄港して水を補給し、また乗組員の食糧にするため原住民から数頭の豚を買った。

　それから間もなく、一味はオランダ人シッパー・ミッチェルが指揮するムーア船に遭遇した。キッドはフランス国旗を掲げてこれを追跡した。これに気付いた相手の船もフランス国旗を掲げた。キッドはこの船に接近するとフランス語で話しかけた。相手の船もフランス人を一人乗せていたから、フランス語で答えてきた。キッドは、ボートを「アドヴェンチャー」号によこすよう命じた。相手はやむなくこれに従った。ボートがやって来ると、キッドは相手の船籍や出港地を尋問した後、乗客のフランス人に、フランス政府のパスを持っているか、と聞いた。「持っている」と答えると、キッドは「お前が船長の代りをしろ。いいか、お前がムーア船の船長だ」と言った。フランス人はこれを拒むこともできなかった。つまり、キッドは私掠船の特許状を持っていたから、ムーア船をフランス船に仕立てて掠奪しようと考えたのである。もっとも、彼はすでに海賊業に手を染めていたのだから、屁理屈をつけて言い逃れをする必要もなかったであろう。

　キッドは船の積荷を奪い、後にそれを売り払った。それでも彼はまだ自分の所業が後で悪い結果をもたらすのではないかと心配しているようだった。ある日、一隻のオランダ船に遭遇した。乗組員は一も二もなくこれを襲おうとしたが、キッドは反対した。このため乗員の大多数が反抗し、自分たちだけでボートに乗り、獲物を捕らえに行こうとした。キッドは、そんなことをする奴は二度と俺の船に乗せない、と言い渡した。これでともかく仲間の対立は収まり、しばらくは平穏な航海が続いた。しかし、この争いがきっかけとなってある事件が起こり、それが後にキッドに対する起訴事実の一つとなった。話はこうである。ある日、砲手ムーアとキッドが例のオランダ船のことを話しているうちに両者の間が険悪になった。キッドはムーアを「犬野郎」と罵り、手近にあったバケツを取ると彼をしたたかに殴りつけた。ムーアは頭蓋骨を砕かれ、翌日死んだ。

　しかし、キッドの逡巡も長くは続かなかった。マラバー沿岸を航海中、多数の小船に遭遇すると、彼はそれらを一隻残らず掠奪した。また同じ海域でポルトガル船を拿捕し一週間拘留した。そしてインド商品数箱、バター三十箱、糖蜜、鉄、米百袋を奪った後釈放した。

　同じころ、木材や水を補給するためマラバー諸島の一つに立ち寄った。ここで上陸した給水員が原住民に殺されるという事件が起こった。キッドは自ら上陸して民家を焼き払い、掠奪した。住民は逃げ去ったが、一人が捕らえられた。キッドはこの男を木に縛りつけ、射殺するよう命じた。再び海に出ると、彼が海賊稼業を始めて以来最大の獲物に出遭った。荷を満載した四百トンのムーア船「クエッタ・マーチャント」号である。船長はイギリス人で、ライトという名だった。インド人は、彼らの船員があまり航海術に長けていなかったため、イギリス人かオランダ人の船長を雇うことがよくあったのである。キッドはフランス国旗を掲げて追跡した。相手の船に近づくと、キッドはボートを降して「アドヴェンチャー」号に乗船するよう命じた。ライトがやって来ると、キッドは「お前を捕虜にする」と言った。船にはオランダ人二名とフランス人一名以外にヨーロッパ人はおらず、他はインド人とアルメニア人であり、積荷の一部はアルメニア人のものだということがわかった。キッドはアルメニア人に、身代金になるようなものを支払うつもりがあるなら聞き入れてやってもよい、と持ちかけた。アルメニア人は二万ルピー支払う、と言った。三千ポンドの価値もなかった。キッドは、これは損な取り引きだと判断し、申し出を拒否した。そして乗組員をマラバー沿岸の別の土地に上陸させると、獲物の積荷を売り捌いた。売上は一万ポンド近くになった。荷の一部は食糧その他の必需品と物々交換した。

　インド人たちが沿岸のあちこちから船にやってきて、自由に商いをした。キッドは出港準備が整うまでの間、現地人からいろいろな品を買い付けた。そして用がなくなると、買い付けた品の代金も支払わずに彼らを陸に送り返し、さっさと船を出してしまった。このようなことは、現地人の思いもよらぬことだった。彼らはよく海賊と商売していたが、海賊は商売に関しては常に名誉を重んじ、ぺてんを憎み、自分たちの道を外れた盗みを軽侮する紳士だったからである。

　キッドは乗組員の一部を「クエッタ・マーチャント」号に移乗させ、「アドヴェンチャー」号と二隻でマダガスカルに向かった。島に到着し、錨を投げると間もなく、数名のイギリス人がカヌーで陸からやって来た。彼らは以前からのキッドの顔見知りだった。甲板に上ると彼らはキッドに挨拶し、おまえは自分たちを捕らえ縛り首にするためマダガスカルに来たと伝え聞いているが、もしそうなら昔の友だちに対して酷い仕打ちではないか、と詰った。キッドは即座に彼らの疑いを打ち消した。「俺はそんなつもりはまったくない。今じゃ俺もおまえたちと同じ稼業だし、悪事にかけてもおまえたちに負けないぜ」。そして手下に杯を持ってこさせ、彼らの船長の健康を祝して乾杯した。

　彼らは、海賊クリフォード船長の一味だった。彼らの本船「レゾリューション」号（前名「モッコ・マーチャント」号）はキッド一味からほど遠くないところに投錨していた。キッドは「レゾリューション」号を訪問し、彼らに対する友情を誓った。クリフォードも、キッドを答礼訪問した。クリフォードが航海の必需品に不足しているのがわかると、キッドは錨と数門の大砲を贈って、誠意を示した。

「アドヴェンチャー」号はすでに老朽化し、排水ポンプをひっきりなしに動かさなくてはならなかった。そこでキッドは砲や艤装品を「クエッタ・マーチャント」号に移し、それを一味の船にすることにした。奪ったかねはすでに分配してあったから、ここで残った戦利品を分配した。戦利品の分配が終ると仲間の大部分はキッドのもとを去った。あるものはクリフォード船長の船に乗り組み、また、あるものは上陸して行方をくらました。

　再び海へ出たキッドは、オランダ領スパイス諸島〔モルッカ諸島〕の一つアンボイナに足を伸ばした。この地で彼は自分の行状がイギリスに伝わり、自分が海賊の烙印を押されていると知ったのである。

　事の真相はこうである。彼の海賊行為はイギリス商人をひどく脅かし、その結果彼に与えた特許状や、彼に財政的な援助を与えた人びとのことが議会で問題にされた。議会の審議はベラモント伯爵にきびしいものだった。このためベラモント伯は悩み、キッドの処刑後に弁明書を出版している。そうこうするうちに、このような海賊行為を防止するため、国王の布告を発して、一六九九年四月末日以前に自ら投降した海賊は、その犯した海賊行為がどのようなものであれすべて赦免するのが得策であるということになった。これにより、希望峰の東側からソコトラ島およびコーモリン岬に至る海域で行なわれた一切の海賊行為が恩赦の対象となったが、エイヴリーとキッドは対象外とされた。

　キッドがアンボイナを離れたとき、この布告のことは何も知らなかった。もしそれを知って自分が恩赦の対象から外されているとわかったら、わざわざ喜んで危地に乗り込んでいくようなまねはしなかっただろう。しかし、彼はベラモント伯との関係を当てにし、拿捕した船から手に入れた一、二通のフランス政府のパスが言い訳の材料になるだろうし、獲物を提供すれば友だちもできるだろうと期待して、一人ほくそ笑んだ。彼はニューヨークへ向け船を進めた。しかしニューヨークへ到着すると同時に、ベラモント総督の命により、彼は逮捕され、船の書類や積荷もすべて没収された。マダガスカルで彼のもとを去った仲間の多くはニューイングランドやジャージーへ行ったが、そこで国王の海賊赦免の布告を知って、自ら土地の総督に投降した。最初、彼らは保釈金で許されることになったが、後に留置され、キッドとともにイギリスに護送された。

　一七〇一年五月、オールドベイリーにおいて、ウィリアム・キッド、ニコラス・チャーチル、ジェームズ・ハウ、ロバート・ラムリー、ウィリアム・ジェンキンス、ガブリエル・ロフ、ヒュー・パロット、リチャード・バーリコーン、アーベル・オーウェンズおよびダービー・ムリンズの海賊行為を裁く海事法廷が開廷され、ロバート・ラムリー、ウィリアム・ジェンキンスおよびリチャード・バーリコーンの三名以外は有罪の宣告を受けた。この三名は、自分たちは海賊船の士官の付き人だったと証言し、法廷に自分たちの奉公契約書を提出して、無罪となったのである。

　告訴状によって、彼らは船の掠奪に関与していたことがわかったが、裁判官が正しくも判定したように、彼らの境遇は他の海賊たちとは大きな隔りがあった。すなわち、海賊行為を犯すには自由意志が働くはずであるから、海賊は強制されたものではなく自由人と認められるのであり、従って、意志の働かない単なる行為によっては、人は有罪とされないのである。

　海賊に使われる身であっても、強制されることなく自発的に仲間に加わって自分の役割を持った場合は、その男も海賊と見做さねばならない、証拠によれば、三人の男は役割を持っていた。しかし彼らが各々の主人の役に立っていたかどうかは疑問である。彼らが自発的に海賊に加わったかあるいは無理やり仲間に引き込まれたかは、陪審の判断に委ねられた。そして陪審は彼らを無罪としたのである。

　キッドは砲手ムーアの殺害に関しても起訴され、有罪の判決を受けた。ニコラス・チャーチルとジェームズ・ハウは、国王の海賊赦免布告の期限以内に投降したことを理由に、赦免を願い出た。証人として出廷したウェストジャージーの植民地総督バス大佐も、これを証言した。しかし、この嘆願は却下された。トマス・ウォーレン、イズラエル・ヘイズ、ピーター・デラノイ、そしてクリストファー・ポラードの四人のコミッショナーが、チャーチルとハウは布告の条件を満たしておらず、従って赦免の資格なしと判定したからである。

　ダービー・ムリンズは、自分は国王が認可した私掠船に乗り組んだのであり、船長に反抗したらどのような罰を受けたかわからない、と言って抗弁した。「国王の命を受けた船に乗り組んでの航海では、乗組員は上官に、なぜそんなことをするのか、といったような説明を求めることは許されていません。そんな自由を与えれば規律がめちゃめちゃになってしまうからです。だから、不法行為が行なわれたとすれば、上官が責任をとるべきです。乗員はただ命令に従って職務を行なうしかありません」。

　法廷は、国王の任を受けた行為は、合法的なものならば正当とされるが、不法行為は正当化されない、という見解を示した。ムリンズはさらに弁論した。「私は、自分のしたことが合法的であると言う必要はありません。海員は、上官の命令に従って危険なこともしなければならず、しかも命令に背けば罰せられるという非常に苛酷な状況にあります。それに、もし命令に異議を申し立てることが許されるなら、海上での指揮権などはあり得ません」。

　これは立派な抗弁のようであった。しかし、彼が獲物の分け前を取っていること、乗組員が何度か反抗し船長を支配しようとしたこと等の事実は、彼らが国王から受けた任務を無視し、海賊のやり方に従って行動していたことを示すものだった。これにより、陪審はムリンズを他の仲間とともに有罪とした。

　キッドは、自分の潔白を主張し、悪いのは部下だったと訴えた。「私は大義のために出帆したのであり、海賊になる理由などありませんでした。しかし部下は頻繁に反抗し、好き勝手なことをしていました。彼らは私を船長室に閉じ込め、射殺すると脅しさえしました。九十五人の乗組員が一時に私のもとを去り、ついでに私のボートを焼き払っていきました。このために、私は自分の船で本国へ帰ることもできず、また私掠船の特許状によって、フランスの航行許可証を持った船から奪った戦利品を法律に基づいて没収することもできなくなってしまったのです」。

　キッドの証人に立ったヒューソン船長は、キッドが卓越した人格の持主であると言って、次のように証言した。「私はキッド船長の指揮の下に、フランス船と交戦したことが二度あります。船長はだれにもまして勇敢でした。キッド船長の船と私の船の二隻で敵将デュカス艦長率いる六隻の艦隊を相手にし、打ち勝ったのです」。しかし、これは起訴状に述べられた事実より数年前のことであって、いまのキッドには何の役にも立たなかった。

　キッドは、悪名高い海賊クリフォードとの友情をも否定した。彼は、クリフォードを逮捕しようとしたのだが、部下が悪党で彼の命に従うことを拒み、幾人かはクリフォードの下へ走った、と証言した。しかし彼の海賊行為を裏づける証拠は完璧を極めた。そして前述したように、有罪となったのである。

　判決に関して何か言うことがあるか、と尋ねられると、キッドは「何も言うことはありません。私は邪な奴らに陥いれられたのです」と答えた。判決が下ると、「裁判官閣下、これはあまりにひどい判決です。私は潔白です。私は邪な奴らに陥れられたのです」と訴えた。

　一週間後、キャプテン・キッド、ニコラス・チャーチル、ジェームズ・ハウ、ガブリエル・ロフ、ヒュー・パロット、アーベル・オーウェンズ、そしてダービー・ムリンズが海賊処刑場で処刑された。彼らの遺体はテームズ河を下った別々の場所に鎖で吊され、幾年もの間晒しものになっていた。





23　テュー船長と乗組員





　テュー船長の冒険に入る前に、私がなぜミッソンの話を途中で打ち切ったか説明しておく必要がある。

　私は、入手したテュー船長に関する記録を読んで、彼がミッソンと仲間になったことを知った。そしてミッソンの章でもテューの話をするのは、同じ話を繰り返すことになるし、名を残した海賊一人ひとりを個別に扱う私のやり方にそぐわなかった。テューは勇気の点で他の海賊に引けをとらないし、その活躍も特筆に値するのである。

　しかし、テューの話に入る前に、先ずミッソンがテューと邂逅するまでの話を続けよう。





　黒人たちは探険隊一行がひどく用心深くしているのを見て、煮た米や鳥を持ってきた。一行が空腹を満たすと、隊長は、黒人を船に連れて行って斧や布を贈ったのは自分たちだ、と身ぶりで伝えた。こうしているうちに、例の黒人が狩から帰ってきた。彼は一行を見ると躍り上って喜んだ。隊長はもう戻らなければならないと身ぶりで伝えた。十人の黒人が鳥や山羊を運び一行の船まで同行することになった。

　一行は和やかな雰囲気のうちに部落を辞した。そして黒人たちと友好関係を築けるという希望を持った。部落の家々は巧妙にできていた。土台がなく、六人ほどの男が持ち上げて移動できるようになっていた。こうして村全体が移動することもあった。ヨーロッパ人が家が動くのを見たりしたら、ひどく驚くことだろう。探検隊が贈り物を持った黒人たちとともに船に帰ると、仲間は大喜びで迎えた。黒人たちは大層なもてなしを受け、帰るときには、村長への贈り物のカトラスのほか、ラシャ、鉄製の湯沸かし、ラム酒を持たされた。

　黒人たちは三日間滞在した。その間、彼らは砦や、次第に大きくなってゆく街を眺めて感嘆した。そこではだれもが忙しく働き、捕虜が処刑されるようなことはなかった。

　陸からの危険がないとわかると、ミッソンは現在の砦で居住地の防備は十分だと考えた。そこで、百六十人の部下を率い、再びザンジバル沿岸へ航海に出た。キロア沖で大型ポルトガル船を追跡したが、相手は応戦の構えを見せた。この船は砲五十門、乗組員三百人で「ヴィクトワール」号よりはるかに強力だった。「ヴィクトワール」号はおよそ四時間に及ぶ交戦でおびただしい乗組員を失った。ついには敵船を獲物にするどころか逆に敵の手に捕らえられそうな状況になったため、ミッソンは士官や乗員の進言を入れ、敵船から全力で離脱を計った。しかし、この試みは無駄だった。ポルトガル船は「ヴィクトワール」号に匹敵する船足を持ち、船長は意志の強い勇敢な男だった。彼はミッソンが退却しようとするのを見ると「ヴィクトワール」号に接舷し、斬り込みを敢行した。これまで攻撃された経験がなく降伏ということが念頭になかったミッソンの乗組員は捨て身で敵に対した。そして、甲板から敵を一掃したばかりか、逃げる敵を追って敵船に飛び移るものさえあった。これを見ていたミッソンは、死中に活を求める機会だと考え、「敵はもう俺たちのものだ。斬り込め」と叫んだ。先に乗り移ったものに続いて大多数の乗組員が敵船に斬り込んだ。ミッソンは部下の決然たる行動を見て、「死か、勝利か。二つに一つだ」と叫び、自ら敵船の甲板に身を躍らせた。ポルトガル船の乗組員は「ヴィクトワール」号に斬り込んだ仲間が追い散らされたばかりか、敵が決死の勢いで乗り込んできたのを見てもはやこれまでと観念し、上官の見ている前で持ち場を逃げだした。船長は乗組員の敗走を食い止めようと、カトラスを手に自らミッソンと渡り合った。二人はいずれ劣らぬ勇気で戦ったが、ミッソンの一撃が船長の首を襲い、彼はハッチから転げ落ちた。これが戦いを決した。ポルトガル船の乗員は船長が斃れると、武器を捨てて命乞いをした。命乞いは聞き入れられた。捕虜は全員甲板の下に監禁された。ミッソンは三十五人の部下を獲物の船に配備し、一路リバタリアへ向かった。この戦闘で一味は五十六人の犠牲者を出し、これまでで最も高価な獲物になった。船は二十万ポンド相当の金を積んでいた。これには、ザンジバル沿岸で遭難したこの船の僚船の積荷も含まれていた。難破した僚船の乗組員百二十人中、百人が救出され、残りは海岸へ向かって泳ぎながら、波に呑まれてしまった。しかし彼らが泳ぐのをためらって船に止まっていたら、全員助かっていたにちがいない。なぜなら、その後引き潮で船は浅瀬に残されたからである。獲物の船に非常に多数の乗組員がいたのは、こうした理由によるのだった。

　マダガスカルが見える地点で一隻のスループ船を認めた。この船は一行に向かって進み射程距離に入るとみるや、するすると黒旗を掲げ、風上に向けて一発、威嚇の発砲をした。ミッソンは停船し、風下に向けて一発発砲した。そしてボートを降ろした。これを認めると、スループ船も停船した。ミッソンの副官がスループ船に乗船すると、船長テューの丁重な迎えを受けた。副官は自分たちの冒険や居住地のことを簡単に話し、テューをミッソンの船に招待した。テューは、乗組員の意見を聞いてからでないと招待を受けられるかどうか決められない、と言った。そうこうしている間に、ミッソンがテューの船に近づき、船長が「ヴィクトワール」号を訪れるよう声をかけた。そして、自分たちの方がずっと優勢だから、策を講ずる必要もないけれども、乗員が船長のことを気遣うなら副官を人質に置いてもよい、と申し出た。これを聞いたスループ船の乗組員は「ヴィクトワール」号の副官を引き止めず、彼に同行し招待に応ずるようテュー船長に勧め、新しい仲間に対する信頼を示した。

　ところで、読者はたった一隻のスループ船が、「ヴィクトワール」号とその獲物の船のようなかなりの勢力を持つ二隻の船隊に挑もうとしたことに驚かれるかも知れない。しかしテューのことを知れば、これは驚きではない。

　テュー船長は「ヴィクトワール」号上で大歓迎を受けた後、満足して自分の船に戻ると、乗組員に自分の聞いてきたことを話した。そして彼らの同意を得ると、ミッソン一行と同じ針路をとるよう命じた。彼はミッソンの居住地を訪問する約束をしたのである。

　ここでテュー船長の話をしておこう。

　バーミューダの植民地総督リッチャー氏は二隻の私掠船を準備し、ジョージ・デュー船長とトマス・テュー船長を指揮官に任じた。そしてアフリカのガンビア河口に直行し、王立アフリカ会社を援助してその沿岸のゴリーという土地にあるフランスの商館を占領するよう命じた。

　二人の船長は総督から私掠船の委任状と命令を受けるとバーミューダを出港し、しばらくともに航海した。しかし、途中激しい嵐に遭い、デューの船のマストが折れ、二隻は離ればなれになってしまった。

　僚船と別れたテューは、冒険に将来を賭けてみようという気になり、乗組員全員を甲板に集めてその考えを打ち明けた。「俺たちは総督がフランス商館を壊滅させるために私掠船を用意したことを知らないわけじゃない。いかにも俺はそのための任務を引き受けはした。もっとも俺の考えと違って、雇われ船長だったがな。ところがこいつがまったく間尺に合わない仕事だということがわかった。仮に俺たちが仕事に成功したとしても、得するのはほんの一握りの奴らだけだ。それに俺たちが勇敢な働きをしたところで、そいつらから報酬が出るわけじゃねえ。仕事はやばいだけで獲物の見込みはねえ。好きでわざわざ戦うような奴はいねえだろう。何か得になるとか、皆のためになるんでなきゃ、わざわざ命がけの仕事をする奴はいない。今度の航海にはそのどっちもねえんだ。だからよ、俺は皆がもっとうまみのあることを考えるほうがいいと思う。もし皆にその気があるなら、俺は、生涯安楽に暮せるような方策を講じるつもりだ。もう一つ勇気をふるって仕事をすりゃ、俺たちは安全に、しかも有名にもなって国へ帰れるぞ」。

　乗組員は船長が自分たちの決意を期待していることを知り、「金の鎖を手に入れるにしろ、義足をつけることになるにしろ、俺たちは船長について行きますぜ」と答えた。

　これを聞くと、チューは船長の相談者として操舵員を選ぶように言った。操舵員はすぐ決まった。

　ところで、西インド諸島の私掠船や海賊船では、操舵員の意見は非常に重んぜられ、ちょうどそれはトルコの法律学者マフデイのようであった。操舵員の同意がなければ船長は何もすることができない。操舵員をローマの護民官になぞらえることもできよう。彼は乗員全体の利益を代弁し、それに気を配るのである。

　テューはガンビアへの航路をとらず、船を希望峰へ向けた。そして希望峰を回るとバブエルマンデブ海峡を通過して、紅海に入った。そこで、荷を満載してインドからアラビアへ向かっていた大型船に遭遇した。この船は、やはり金目の商品を満載して続航していた五隻の船（一隻は金を積んでいた）を護衛する任務を帯びており、正規の乗員以外に三百人の兵隊が乗り組んでいた。

　テューは乗組員に、「あの船に俺たちの財産があるぞ」と言って襲いかかった。船は難なく捕らえることができた。相手は人手も多く、砲も多数備えていたが、技倆と勇気に欠けていることをテューは見て取ったのである。実際、テュー一味は、斬り込みを敢行して一人の死者も出さなかった。相手の船の乗員はだれもが積荷を守ることより危険から身を守ることにやっきとなったのである。

　海賊どもは、ほかのものには目もくれず金、銀、宝石類を捜して船を隅なく荒らし回り、気に入りの品々のほか火薬を奪い、本船にこれ以上積めなくなると残りは海に投げ棄てて船を釈放した。戦利品は一人当り三千ポンドにもなった。

　この成功に力を得たテューは、捕らえた船から五隻の船が続航していることを聞き及び、それらも獲物にしようと提案した。しかし操舵員に反対され、やむなくその計画を棄ててマダガスカルに向かった。

　この島は、空気は澄み、土地は肥え、海は魚に富み、生活に必要なあらゆるものを豊かに産した。そこで操舵員はこの土地に定住することを提案した。乗組員のうち二十三人が彼に従った。テュー船長は戦利品の分け前をこれら定住者に与えると、残りの乗組員を率いてアメリカへ戻ろうと考えた。しかし、拿捕した船を連行している「ヴィクトワール」号を発見し、これらからもっと多くの戦利品をせしめられるのではないかと考え、攻撃を決意した。これはすでに話したとおりである。





　テュー一味は、ミッソンの居住地を訪ねることにした。目的地に到着し、そこに築かれた要塞を見たときの彼らの驚きはたいへんなものだった。

　一行の船隊が第一の要塞を通過するとき、ミッソンは九発の礼砲を発射した。要塞も同じくこれに答えた。船が投錨すると捕虜は全員上陸を許された。これまでは人手の足りないことを理由に、一度に二、三人ずつしか許されなかったのである。

　多大な戦利品を見て陸の仲間は喜びにわいたが、払った犠牲を聞かされると、その興奮もさめる思いだった。それでも、テュー船長のスループ船が仲間に加わったことは慰めになった。テューは、カラチオーリを初め陸で待っていた仲間から大歓迎を受けた。カラチオーリは、テューが獲物を攻撃し、後にはミッソンの船を追跡しようとした勇敢な行為を大いに讃えた。テューは、捕虜の処置を討議するための幹部会議に呼ばれた。テューが七十人の手下とともに仲間に加わったものの、新たに連れてこられた百九十人の捕虜を加えると捕虜の総数はミッソン一味とほとんど同じになった。そこで、新しく捕虜として連れてこられた連中と、以前からの捕虜であるポルトガル人およびイギリス人とを隔離しておくことに決まった。そして捕虜らに、一味は非常に強力な土民の王国と友好関係にあると信じさせ、新しい居住地建設を手伝うか、それが嫌なら捕虜として土民の国に送ると言い渡した。七十三人が自ら進んで仲間に加わり、残りも奥地に送られるより何か仕事をすることを望んだ。こうして、百七十人の捕虜が、港の入口から半マイル程遡ったところにあるドックへ送られた。これ以外の捕虜は一定の境界を越えることを禁ぜられた。そして禁を破ったものは死刑に処すと申し渡された。彼らが自分たちの力を知って叛乱しないようにするための措置であった。「ヴィクトワール」号が帰港したとき、味方の損失と捕虜になったポルトガル人の数は一味だけが知っていて、捕虜たちは、仲間が増えたことを知らなかったのである。このような用心に加え、ヨハンナ人たちが武装して警戒にあたり、さらに「ビジュー」号は、新しく連れてこられた捕虜が働いている場所の警備にあたった。こうして安全に備える一方で、彼らは暮しに備えることも怠らず、広い土地を耕して、捕らえた船で見付けたインドやヨーロッパの穀類その他の種を播いた。その間、弁舌に長けたカラチオーリは、帰国の望みを失ったポルトガル人たちを説得し、その多くを仲間にした。無為の生活に耐えられない性格のミッソンは、再び航海に出たいと思った。しかし、捕虜が叛乱するかも知れないと考えると、部下を引き連れて航海に出、居住地を手薄にするわけにはゆかなかった。そこで彼は、捕らえてきた船を捕虜に与え彼らを釈放することを提案した。カラチオーリとテューは、そんなことをしたら一味の隠れ場所を知られてしまい、防備をする前に、アフリカ沿岸に植民地を持つヨーロッパ人に攻撃されてしまう、と言って反対した。ミッソンはこれに答えて言った。「私はいつも回りのことに用心していなければならないのは我慢ならない。いつも死を恐れながら暮らすぐらいなら、ひと思いに死んだほうがましだ。それに、ヨハンナの連中をそろそろ帰国させる時期だが、こんなに大勢の捕虜がいては、人手を乗員に割くわけにもゆかず、かといってわずかな乗員に任せて船を出すわけにもいかないではないか。だから捕虜を全員船に乗せて釈放するか、それとも刃にかけるしかないわけだが、野蛮な手段に訴えて安全を計るようなことは私はしたくない」。

　会議が召集され、ミッソンの提案は承認された、捕虜全員が集められた。ミッソンは彼らに向かって手短に次のように言った。「私は諸君を釈放すればどんな結果になるか知っている。私たちの隠れ場所が知れればすぐ攻撃されるだろう。そのような見込みない戦いを避けるために諸君の命を頂戴することもできる。しかし私は残虐を好まないし、また侵攻されたときは、同盟を結んでいる土民たちが助けにきてくれるだろう。諸君一人ひとりが私の好意を裏切らないと誓約してもらいたい」。それからミッソンは捕虜一人ひとりの境遇を聞き、彼らが失ったものはすべて返した。彼は仲間に対しては、「これらは私の分け前から差し引く」と言い、また捕虜に対しては「私は圧制者とは戦うが抑圧された人びととは戦わない」と言った。捕虜たちは、この寛大で人道的な扱いに感銘し、ミッソンが今後ひどい目に遭うようなことのないように願った。船には、ザンジバル沿岸までの航海に備えて食糧が積み込まれ、備砲と弾薬そして予備の帆と索具はすべて取り外された。こうして百三十七人の捕虜は自分たちの敵の行為を誉めそやしながら、港を出ていった。この間、一味は原住民の消息をまったく聞かなかった。狩に出たものも、黒人には出合わなかった。ミッソンは、彼らが自分たちを恐れて移動したのではないかと考えた。しかし、ヨハンナの連中が帰国しようとしていたとき、およそ五十人の黒人が、捕虜にした二十人の男と二十五人の女、そして百頭の黒牛を追い立てながら姿を見せたのである。ミッソンは彼らにラム酒、手斧、そしてアンゴラ沿岸で分捕った織物やビーズを与えて、牛と捕虜を引き取った。ミッソンのもとにいた黒人たちはこの女たちを娶った。ミッソンは黒人たちを歓待し、また奴隷たちには、もう自由の身であることを教えた。彼らに衣服を与え、一味のものが世話をすることになった。白人たちは、身振り手真似で、自分たちは奴隷制度の敵であることを理解させようとした。黒人たちは十日間滞在した。このため、ヨハンナ人たちの出発は遅れた。出発の時がきた。カラチオーリの副官が指揮する「ビジュー」号は、百人のヨハンナ人を乗せて出港した。彼は出発が予定より一月も延びたこと、そして船が二隻しかないから全員を一度に帰国させられないことを詫びた。ヨハンナに落ち着いていたミッソンの部下十人が仲間のところへ戻りたくなり、帰りの船で妻（各人二、三人の妻がいた）と子供を連れてリバタリアへやってきた。「ビジュー」号はあと二回航海して残りのヨハンナ人を帰国させた。

　ミッソンは「ビジュー」号の傾船修理をした。そして、ギニア沿岸を航海して奴隷船を捕らえ、居住地の人手を増強することにした。このためテューに船の指揮を任せ、自分はカラチオーリとともにドックの作業を急ぐことにした。彼はテューに二百人の部下を預けた。このうち四十人がポルトガル人、三十七人が黒人（十七人が熟練した船員だった）、三十人がイギリス人、そして残りがフランス人だった。テューは希望峰の北まで航海し、そこで砲十八門を備えたオランダ東インド会社のギャレー船に遭遇すると、多少の抵抗を受けたものの、これを拿捕した。味方の損害は一人だけだった。アンゴラ沖では男女、子供合わせて二百四十人の奴隷を乗せたイギリス船を捕捉した。これらの奴隷のうちには、以前この地で捕らえられ今はテューの船に乗り組んでいる黒人たちの知合いが大勢いた。黒人たちは捕虜になった奴隷に、自分たちが偉大な船長（彼らはミッソンをこう呼んでいた）のお陰で足枷を解かれ、思いがけぬ運命の変化で現在愉快にやっていること、奴隷は解放されて自由の身となり、船長と運命をともにするようになったこと、船長は奴隷という言葉さえ嫌うほどだから、ここで捕虜になったものたちも、自分たちと同じ幸運に巡り合わせたこと等を話した。テューはミッソンの命令に従い、また彼自身ミッソンのやり方をよく知っていたから、黒人たちが、奴隷たちは叛乱などしないし、テューの捕虜になったことを喜んでいると言うのを聞くと、すぐ彼らの枷を外してやるよう命じた。これらの獲物に満足したテューは、一路リバタリアへ向かい、無事帰港した。ところで書き忘れていたが、テューはオランダ人捕虜のうち、自ら仲間に加わった九人を除く全員を希望峰の北およそ三十マイルの地点にあるソルディニア湾に上陸させた。ここは、ミッソンがイギリス人船長を埋葬したところである。テューはオランダ船で大量のイギリス・クラウン金貨を発見し、それを一味の共有財産として持ち帰った。あらゆる物が共有となっているリバタリアでは、かねは何の役にも立たなかった。そして個人が私物を確保しておくこともなかった。この航海で解放された奴隷たちは自由人としてドックの建設に従事することになった。彼らは境遇の変化に気付かぬわけもなく、従って非常に勤勉にまた忠実に働いた。彼ら四人に白人あるいは以前から仲間になっていた黒人一人がついて、仕事に必要なフランス語を教えた。（同じ言葉を何度も繰り返し、また同じ黒人通訳の助けを借りて教えた。）ミッソンは入江で二隻のスループ船を建造するよう命じた。船は短期間で完成した。両船とも美しい快速船だった。これらの船に、拿捕したオランダ船から降ろした砲を各八門据え付けた。船の士官は投票で選出された。これらの船の最初の目的は、マダガスカル島沿岸の地形や砂州、水深等を調査してその地図を作ることだったから、一隻は彼らの教師の役をしているものが指揮し、他の一隻は、テューが自ら指揮することになった。各船とも白人五十人、黒人五十人が乗り組んだ。解放されたアンゴラ黒人たちは熱心にフランス語を覚え、皆の役に立とうと励んだ。「チャイルドフード」号および「リバティ」号と命名された二隻のスループ船は、この調査航海に四か月を要した。その間、居住地には原住民がしばしば訪れた。彼らは怪しげなフランス語のほかに、ミッソンの部下が話すのを聞き覚えた二、三のヨーロッパ語をごちゃまぜにして話すようになった。彼らのうち六家族が居住地に住むようになった。これは、ミッソンたち入植者にとって好都合だった。というのは、彼らは、入植者たちの規則正しく協力的な生活がいかに立派なものかを奥地の仲間に報告したからである。スループ船が島の正確な地図を作って戻ってくると、カラチオーリは航海をしたくなった。彼は近海のあらゆる島を訪れてみようと思い、先ずマスカリーン島へ向かった。そして、この島の沖で、植民地を設けようとしていたオランダ船を捕らえ、これを連行して帰港した。この船は、植民に必要なあらゆるヨーロッパの物資を積んでいたから、何にもまして価値ある獲物だった。

　黒人たちは非常に役に立つようになってきた。そこで、テューの成功に力を得たこともあって、ミッソンは黒人全員を二隻の船に分乗させ、一隻はテューが指揮し、もう一隻は彼自身が指揮して、北へ向け航海することにした。乗組員は総勢五百人だった。一行はアラビアのフィーリクス沖でジドン〔ジッダ〕へ向かうムガール帝国の船に遭遇した。この船にはメッカへ行く巡礼が乗っており、ムーア人の船員を含め、総員千五百人を数えた。船は百十門の砲を備えていたが、船内は荷物で塞がり、乗客も多く、守りはまったく貧弱だった。ミッソンとテューは砲撃するには及ばないと考え、この船に追い付くやいなや、斬り込みを敢行した。ムーア人は小火器を盲撃ちしながら持ち場から逃げ出した。

　味方に一人の損害も出さずに船を分捕った二人は、船と捕虜をどうするか相談した。そして捕虜はアインとアデンの間に上陸させることにした。しかし彼らは女を必要としていたから、未婚の娘たちは全員捕虜として連れて行くことにした。また、船もリバタリアまで連行することにした。砲は役に立つであろうし、またムーア人たちは張り板の内側や底荷の中に金目のものを隠しているはずだから、船を釈放したり、沈めたりしたら、みすみす莫大な獲物を失うことになると考えたのである。決定は直ちに実行に移された。彼らは、十二歳から十八歳までの娘百人を捕虜の中から選び出した。彼女らは、両親とともに巡礼に行く途中だった。娘たちを引き離されて嘆き悲しむ捕虜の姿に、ミッソンの心は痛んだ。彼は娘たちを自由にしてやろう、と言った。しかし部下はこぞってこれに反対した。

　一味は捕らえた船に二百人の乗組員を分乗させ、一路マダガスカルを目差した。この船はひどく船足が重く、帰路は大幅に遅れた。グアルデフィン〔グアルダフィ〕岬沖で一行は激しい嵐に見舞われ、イルマニス島に打ち上げられそうになったが、あわやというときに風向きが北に変り、危機を脱した。暴風は収まったものの、なお十二日間強い風が吹き続けた。このため、縮帆して航路をたどるのがやっとだった。途中船影を発見したが、荒天のため合図を送ることもできなかった。こうした苦労はあったものの、一行は無事リバタリアへ帰港した。

　獲物の船は上等の絹織物、絹糸、香料、カーペット、金の細工物や延べ棒のほか、大量のダイヤモンドを積んでいて、その価値は見積ることさえできなかった。船は役に立たなかったから解体し、索具や船材、船首部、鎖、その他金具類は陸揚げし、砲は港の二地点に築いた砲台に据え付けた。これによって彼らの守りは非常に堅固なものとなり、海からのいかなる敵の攻撃も恐れる必要はなくなった。

　このころまでに、彼らはかなりの土地を耕し囲いをした。そして原住民から買った三百頭の黒牛を放牧した。ドックも完成した。「ヴィクトワール」号はすでに老朽化し長い航海には耐えられなくなっていた。さらにこの前の嵐による傷みもひどかったから、解体後、再建造された。新しい船は「ヴィクトワール」号の名を継ぎ、艤装され、食糧が積まれた。そして、さらに黒人を増強するためギニア沿岸に向け出港しようとしていた。ちょうどその時、獲物より黒人の訓練が目的で航海に出ていたスループ船の一隻が帰ってきた。そして、五隻の大型船が自分たちを追って湾に入ってきていると報告した。船型から判断するとこれらはポルトガル軍艦で砲五十門を備えているという。この報告は正しかった。警報が発せられ、砦と砲台には要員が配備され、全員武装した。ミッソンは必要なとき直ちに出動できるように、よく訓練した黒人百人を率いた。（彼らは、「ヴィクトワール」号のフランス人下士官から毎朝訓練を受けていた）。テューはイギリス人全員を指揮した。

　まだほとんど準備が整わないうちに艦隊は姿を現わした。そしてポルトガル国旗を掲げて直っすぐ港に進んできた。二つの砦は艦隊に烈しい砲火を浴せ、一隻は傾くに至ったが、彼らの前進を阻むことはできなかった。艦隊は港に入った。敵はこれで勝負はついたと考えた。しかし、港の砦や砲台、碇泊していたスループ船等から猛砲撃を受け、たちまち二隻が沈没し、多数の乗組員が海に投げ出された。幾人かは他の艦に助け上げられた。ポルトガル人は相手がこれほど堅固な陣を構築していようとは想像もせず、最初の二つの砦を通過してしまうと、乗員を上陸させてこの海賊の巣窟をわけもなく根絶やしにできると考えていた。彼らは事ここに至ってその間違いに気付き、危険を冒してまで上陸用ボートを出そうとはしなかった。しかし彼らも賢明だった。潮が変る直前を見計らって港に入ったのである。攻撃が失敗し、多くの乗員を失うと、急遽帆を張り、引き潮を利して港から脱出を計った。港内に沈んだ二隻はそのまま置き去りにした。しかし脱出は容易でなかった。彼らが砦を通過するが早いか、ミッソンは「ヴィクトワール」号と「ビジュー」号、そしてスループ船に追撃を命じ、湾の入口で交戦になった。ポルトガル艦隊は果敢に応戦した。そのうちの一隻はリバタリアの二隻のスループ船に舷側に迫られながらも、二度までその攻撃を撃退した。他の二隻は戦況不利とみるや、先の一隻を残し、たて続けに砲を発射しながら遁走した。「ビジュー」号と「ヴィクトワール」号は二隻の船が潰走してゆくのを認め、またそれらを拿捕しても得るところはほとんどないと判断すると、追撃を中止し、残った一隻に襲いかかった。ポルトガル船は激しく抵抗し、甲板は血の海になった。多くの乗組員が死んだ。しかし僚艦から見棄てられて不利な戦いを強いられ、抵抗も空しいと悟った艦長は、ついに降伏した。艦長と乗員は助命された。この船は大量の火薬と弾丸を積んでいたが、予想どおり、これら以外にめぼしい戦利品はなかった。捕虜はだれ一人持ち物を没収されたりはしなかった。また、ミッソン、カラチオーリ、テューの三名は士官たちを食卓に招いて歓待し、彼らの勇気をたたえた。残念なことに、以前ミッソンに釈放され、一味には決して刃向かわないと誓ったポルトガル人が二人この船に乗り組んでいることがわかった。彼らは鎖に繋がれ、ポルトガル船士官の見守るなかで、偽証罪に問われ裁判に付された。証人は、被告が釈放されたポルトガル人に相違ないと証言した。二人は別々の砦の先端で絞首刑に処すとの判決を受けた。翌朝、二人に宣告が言い渡された後、ポルトガル人教誡師の立ち会いのもとに刑が執行された。ポルトガル艦隊と交戦した海賊のことがリスボン・ガゼット紙の紙面を賑わし、またイギリスではそれがエイヴリーであろうと考えられた。当時ロンドンでは、エイヴリーは三十二隻の軍艦を擁し、国家を建設し、自ら王の位についていると噂されていたのである。これが間違いであることはすでに述べたとおりである。

　さて、二人のポルトガル人の処刑は一味の指導者らの方針に矛盾するとして非難の的になりそうだった。そこでカラチオーリが熱弁を振るった。「われわれは皆、ミッソン船長がどんなに血を流すことを嫌う人かを知っている。人に命を与えたもうた神以外は何ぴとといえども他人の命に力を及ぼす権利はないというのが船長の信条だ。しかし、時として自分を守るために他人、特に公然たる敵をどうしても始末しなくてはならない場合がある。自由を守るための合法的な戦いで血を流すことは皆が認めてきた。だからそれについては何も話す必要はない。しかし、俺はこの犯罪者たちの処刑理由と、彼らの犯罪の悪辣さを皆に説明しておきたい。彼らはリバタリア人民の寛大な処遇によって命を助けられたばかりか、身の自由や、要求する一切のものを返してもらった。しかもそのあげく、受けた寛容に反してますます恩知らずになったのだ。実際、俺とミッソン船長は彼らの偽証と裏切りの罪を大目にみて、命までは奪わずに体刑に処するつもりだった。しかし俺たちの勇敢な友テュー船長は、俺たち全体の命が俺たちを破滅させようと努めているこれら公然たる敵の命より優先するのはあたりまえだし、また彼らは俺たちの居住地を知り尽しているから、再び自由を与えてそれを濫用されでもしたら俺たちにとって致命的になる、と言うのだ。そして、この忠告を入れなかったら、彼らは俺たち自身の生存を危うくする敵になってしまうだろうと言った。こういう理由で、テュー船長は、被告たちを見せしめの刑にして、他の連中が同じような罪を犯さないようにすべきだと主張するのだ。俺は、テュー船長が最初彼らに慈悲をかけてやるつもりだったことを知っている。しかし彼らがいかに恩知らずで腹黒いかを思い知らされて、この卑劣漢たちに二度も温情をかけると、俺たち全体がひどい目をみることになると考えたのだ。だから、どうしても俺たちの方針と反した措置をとらざるを得なかった。しかし正しく言うなら、リバタリア人でない彼らは自ら墓穴を掘ってしまったのだ」。

　聴衆は口々に叫んだ。「奴らの死は奴ら自身の責任だ。奴らは自ら死を求めたのだ。絞首刑こそ奴らにふさわしい」。カラチオーリは演説を終った。皆は満足して持ち場に戻った。

　ミッソンの部下とテューの部下の間に、国籍の違いによるいさかいが起こった。テューは、剣で結着をつけさせようと言った。しかしカラチオーリは、そのような結着のつけ方をして勇敢な者が倒れたら仲間全体の損害になると言い、断固反対した。彼は、自分とミッソンがフランス人を宥めるから、テューはイギリス人を説得して、事を穏やかに収めるようにしたいと言った。そして、将来のためにしっかりした法律をつくり、政府の形態を整える必要のあることが今度の事件のおかげではっきりした、と言った。双方の仲間を集めると、カラチオーリは、われわれは全世界を敵としているのであり、皆が一体となってやってゆかなくてはならないと話した。彼の話は説得力に富み、またテューの助力もあって、事件は双方満足のうちに収まった。

　翌日、居住地の全住民が召集された。三人の指導者は、自分たちの社会を維持してゆくために必要だから政府を設立しようと発議した。強制的な法律がない場合には、常に弱い者が抑圧され、あらゆることが混乱に陥りがちになる。人間は感情的になると正義が見えなくなって自分のことだけをよく考えるようになるから、何か争いが起こった場合、それを沈着に審理し、理性と公正に従って決定することのできる私心のない第三者に委ねるべきである。それには人民自身が自分たちの法を作り、またその裁判官となるような民主的な形態が最も望ましい。だから、われわれ全体を十人ずつの小集団に分け、各集団が一人ずつ代表を選出して政府を設立し、全体に役立つような法律を定めたい。財宝や家畜は全員が平等に所有するようにする。また、今後個人が囲いをした土地はその者の財産とみなし、売りに出されない限り他人がその土地に権利を主張してはいけない。――以上が彼らの提案であった。

　皆は歓呼してこの提案に賛成し、その日のうちに十人ずつの小集団に分かれた。しかし議会は、議事堂が完成してから開催することになった。彼らは喜びに満ちて議事堂の建設にとりかかった。仲間の中には手斧を見事に使いこなすものが大勢いた。木造の建物は二週間で完成した。

　代議員が集うと、カラチオーリが立派な開会演説をした。彼は秩序がもたらす利点を説き、続けて次のように話した。「勇敢で徳があり、国家が定める法に導かれ、それに従って悪を罰することのできる一人の者に最高権力を委ねる必要があります。しかし、そのような権力は終身的なあるいは世襲的なものであってはならず、三年毎に新しく選出が行なわれるときに決定されるべきものであり、もし新しい適任者がいない場合は、それまでのものがさらに三年間最高権力の座につけばよいと思います。このようにすれば、常に、最も有能なものが首長の座につくことになり、またその任期は短いから、権力を濫用することはできないでしょう。この首長には護民長官の称号を与え、全官職は彼に忠誠を尽すべきものと考えます」。

　この案は満場一致で承認され、ミッソンが護民長官に選出された。そして最高幹部職を任ずる権限と最高長官の称号が与えられた。

　次いで国会を最低年一回開催すること、護民長官およびその評議会が全体の利益のために国会召集を必要と認めた場合はその都度開催できること、そして何事も国会の承認なくしては行なってはならないことを規定した法律を作った。

　彼らの最初の国会会期は十日間にわたった。多くの立派な法律が制定され、国家の台帳に記載された。これらの法律は印刷し、配布された。（彼らは印刷機を持ち、植字工もいたのである。）会期が終ると護民長官は国会を解散した。

　護民長官ミッソンは、テュー船長に提督の称号を贈って遇し、カラチオーリを国務長官に任じた。また、国籍や肌の色には関係なく最も有能なものを評議員に選んだ。彼らが話す異なる国語は次第に混じり合って、一つの言葉になった。財宝や家畜は等しく配分され、住民は各々土地に囲いをするか、あるいは助力を必要とする者に雇われるかした。

　テュー提督は兵器庫を建て、海軍を増強することを提議した。次の国会で兵器庫の建設は認められたが、海軍の増強は、もっと住民の人口が増加するまで不必要とされた。もし住民全員が船に乗り組むことになったら、農作業が疎かになり、居住地の発展に致命的な打撃を与えるというのが、その理由だった。

　さらにテューは以前操舵手に従って自分から去っていった乗組員を連れ戻したいと希望した。しかし評議員らは、船長を見棄てたということは彼らに反抗心があったことの証拠であり、他のものにも規律を乱すような考えを鼓吹するかも知れないと言って、これを退けた。しかし同時に、その乗組員たちに居住地のことを知らせて、彼らが心から居住地の住民になることを望み操舵手を見限る意志があるなら、提督の要望でもあるから、提督自身が彼らに穏やかな行動をとらせると宣誓することを条件に、特別の配慮をしてもよいと言った。

　テューは航海に出たいと申し出た。その航海で幾隻かの東インド会社の船に遭遇したら、自分たちの仲間に加わりたいという有志を連れてくるつもりだった。彼は、国民こそ国の富だから、わが居住地は何にも増して人手を必要としている、と考えたのである。希望峰への航路で待ち伏せすればよい仕事ができることを疑わなかったし、それから北上して以前の乗組員を訪ねる計画だった。

　提督の希望に従って「ヴィクトワール」号の装備が整えられた。それから二、三日後、テューは三百人の乗組員を率いて出帆した。以前の乗組員たちが居を定めている海岸に到着すると投錨して軍艦旗を掲げ、号砲を一発発射した。しばらく待ってみたが陸からは何の合図もなかった。そこで彼は上陸し、ボートは本船に帰した。ボートが去って間もなく、彼の以前の乗組員が二人、森の中から出てきた。テューはミッソンの居住地の話をした。彼らはテューに森の中にある自分たちの居住地まで来て仲間に移住を勧めてほしい、と言った。居住地の首長になっていた操舵手はテューを丁重に迎えた。しかし、自分たちがミッソンの仲間に加われば、多くの勇敢な人手が増強されるわけだから、ミッソンにとっては大助かりかも知れないけれど、自分たちにとっては何の得るところもない、と言った。ここには暮らしてゆくのに必要なものはすべてあるし、自由で外の世界からは独立している。それを、たとえ寛容であっても権力を持つ別の政府にわざわざ仕えるのは気違い沙汰だ。自分は任期三か月の首長に選出されているけれどその権限は小さないさかいを判定する程度のことに限られている。それでも自分は任期の間は公正に務めを果そうと思っている。首長の命令は一定期間しか支持されないということに定めておけば、だれか一人の気まぐれで仲間の平安が乱されることはなくなるというのが、自分たちの一致した考えだ。そして、三か月の任期満了と同時に首長の権限は、まだ首長の役に就いたことのないもののうちから選んだ次の首長に譲らなくてはならない。このように取り決めておけば、だれもがいつかは最高権力の座に就くことになるし、選挙のとき票集めにやっきになることもない。しかも、こうすれば仲間割れすることもないし、だれも仲間から離れてゆこうとは思わない。――操舵手はこのように話した。しかし、と彼は続けた。「もし船長がアメリカかヨーロッパへ渡って、イギリス人が恩恵を受けるような居住地を建設し、海賊という汚名をそそいでくれたら、俺たちは喜んでその国の政府から派遣された使者に投降しましょう。しかし俺たちが、俺たちよりもっと力のある海賊の配下になるのは馬鹿げた話だ。俺がこの土地について書き記したものがあるから持ってきましょう。俺の考えを知ってもらうための参考になるようだったら、それを持っていって下さい」。

　彼は自分の船室――首長の執務所であったが家とは言えない代物だった――に行って数枚の書き付けを持ってくると、それをテューに渡した。

　テューは操舵員が彼の仲間の意見を代表していることがわかり、彼の許を辞して本船に戻った。そして船長室に入って、操舵員がくれた書き付けを読んでみた。その内容はなかなか興味深いものであるから、以下に記しておこう。





　マダガスカル島は暮らしに必要なすべてのものを産し、空気の清浄さや土地の肥沃さの点でも、どんな国にも劣らない。近海は魚が豊富だし、森は食用になる鳥に富んでいる。また、原住民が鉄製の武器を持っているところからわかったことだが、良質の鉄を産する鉱山がある。さらに山には金や銀の鉱床のあることも疑いない。

　土地は砂糖、綿、藍、その他アメリカ植民地と同様の作物を産するが、労賃はずっと安い。バルバドスと当地とで製粉工場を作るのに必要な費用を較べてみよう。

　バルバドスでは、風車は一基百ポンドして、他の材料や労賃も高い。しかし、当地では材木や石は労賃だけで手に入るから、大工や必要な工具をヨーロッパから運んでくれば、砂糖工場は非常に安い費用で建設できる。

　バルバドスでは奴隷は一人三十ポンド乃至五十ポンドするが、マダガスカルでは、十シリング程度の値うちのヨーロッパ商品で奴隷一人を買える。私たちは着古したコート一枚で頑健な奴隷一人を買ったことがある。

　バルバドスでは食糧は非常に高い。しかしここでは自分たちや奴隷の食糧はただで手に入るし、従ってここの奴隷は食費が高くて半分飢えているようなバルバドスの奴隷よりずっとよく働く。

　家畜を使う工場はバルバドスでも安いが、飼料がひどく高いものになってしまう。ほかにもさまざまな利点がある。あらゆる種類の薬草や染料にする植物をヨーロッパから持ってくることができるし、硬木、杉、マホガニー等すばらしい木材が豊富にある。この土地に合法的な権力による植民地が建設されたなら、現在インド諸国から輸入している絹、綿その他多くの必需品を産するようになるに違いない。

　原住民は非常に気立てがよい。彼らは多数の黒牛を飼っている。私たちは半ズボン二着で体重八百ポンドの牡牛を一頭買ったことがある。

　そればかりではない。この島に植民地を建設すれば海賊たちを牽制できるし、また東インド会社の船がこの島を新鮮なあるいは塩漬けにした食糧の補給基地にすれば、現在行なわれているように大量の食糧を持って航海する必要はなくなり非常に便利になるだろう。また会社も莫大な費用を節約できる。





　夜になって、風が真西から吹き、錨を揚げることができなかったため、テューは再び上陸した。彼は首長に、どのようにして原住民と親しくなったのかと聞いた。首長は、仲間三人と狩にでて一人の原住民に出合い、仲良くしたのが始まりだと答えた。この男を小屋に来るよう誘ったところ、相手が三人だから逆らわないほうがためだと考えたらしく、大人しくついて来た。その後幾人かの原住民がやってきて、一味と仲良く暮らすようになったのだ、と言った。

　テューは上陸するとき、ラム酒とブランデーを持参した。二人がそれでポンチを作って飲んでいると、突然激しい嵐になった。テューは海岸に急ぎ、本船に向かってボートをよこすよう合図した。しかし波が高く、とてもボートを降ろすことはできなかった。嵐は激しくなる一方で、二時間もたたずに「ヴィクトワール」号の錨索は切れ、船は切り立った岸壁に打ちつけられてテューの眼前で乗組員が全員波に呑まれてしまった。

　テューは、ミッソンたちのところへ帰るすべを知らず、昔の仲間と起居をともにすることになった。ミッソンの部下が「ヴィクトワール」号に乗船していなかったのはせめてもの幸であった。三か月目の最後の日、沖を大型船が通るのが見えた。テューは「ビジュー」号に違いないと思った。そして合図の烽火をあげたが船はそれに気付かずに行ってしまった。テューは船がしばらくすれば帰りの航路につくだろうと考え、毎夜仲間とともに海岸で大きな烽火をあげ、ひっきりなしに岸へ行ってみた。それからおよそ一か月後のある日の早朝、海岸に行ってみると、驚いたことに二隻のスループ船が大砲の射程内の距離に碇泊していた。まもなく一隻のスループ船からカヌーが降ろされ、漕手六人と舵手一人が乗り組んで陸に向かってきた。

　テューはすぐ、それがミッソン船長だとわかった。ミッソンは上陸すると、テューと抱き合った。彼は、自分たちが描いていた夢はすべて駄目になってしまった、と言った。こちらから何も挑発したわけではないのに、ある夜、原住民の二大隊が襲ってきて、男女老若の区別なく殺戮に及び、守りにつく間もなかった。カラチオーリとミッソンは集められる限りの人手を集めて防戦したが多勢に無勢、抵抗はむなしかった。カラチオーリはこの戦いで死んだ。ミッソンは止むなく大量の未加工ダイヤモンドや金の延べ棒を持って、四十五人の仲間とともに二隻のスループ船に乗り込んだ。「ビジュー」号は航海に出ていたし、また「ヴィクトワール」号もテューが指揮する大勢の乗員を乗せて航海に出ていた。このため居住地の守りが手薄になったところを原住民に乗じられたのだ。しかしどうして原住民がわれわれを襲ってきたのか皆目わからない。――ミッソンは、このように話した。

　テューも自分が遭難したことを話した。二人は互いの不運を慰め合った。テューはミッソンにアメリカへ行こう、と誘った。その土地なら、ミッソンは財宝を持っているから、だれにも知られず安楽に暮らせるだろう。

　ミッソンは、自分はまだ今後の方針を決めかねているが、ヨーロッパへ帰り、家族が生存しているようならひそかに訪れ、それから隠遁生活に入ろうかと考えている、と答えた。

　二人は操舵手と食事をともにした。彼はアメリカに渡って植民地に定住する許可を得るよう二人に勧めた。

　ミッソンは、もうこれからどこかに居住地を建設することは不可能だから、自分は二隻のスループ船のうち一隻だけあればいいし、乗組員も希望者だけ連れてゆくつもりだ、と言った。そして財産も、自分は生活できるだけあれば十分だから、皆で平等に分配しよう、と言った。

　操舵手の仲間のうち四人がテューとともに行きたい、と申し出た。

　その日の午後、彼らは二隻のスループ船に向かった。ミッソンが乗組員の意向を尋ねると三十人がテューとともに行くと言い、十五人がミッソンの船に残った。去ってゆく乗組員も船長と別れるのはひどく辛そうだった。先の四人を合わせ、テューの部下は三十四人になった。彼らは「ビジュー」号が戻ってくるのを期待して一週間ほど滞在した。しかし船は姿を見せなかった。ミッソンは財宝をテューや彼の昔の仲間たちと分配した。そして「ビジュー」号はギニア沿岸に向けて航路をとったから、その方面で遭遇できるかも知れないと期待して、両船は出帆した。

　インファンテス岬にさしかかったとき激しい嵐になり、不運にもミッソンの船は沈没した。目と鼻の先のできごとであったが、テューは助けることができなかった。

　テューはアメリカへ向け航海を続け、無事ロードアイランドに到着した。乗組員は思い思いの方向へ散っていった。テューはバーミューダに使いを出し、財宝をスループ船の十四倍の値段で売却した。そしてだれからも怪しまれず平穏な生活を送った。ミッソンの部下だったものは別の方面へ去っていった。そのうちの一人はラロシェルで死んだ。ミッソンのフランス語の手記はこの男が持っていた書類の中から発見された。そして私の友人を通じて私の手許に送られてきたのである。

　テューはだれからも怪しまれずに暮らした。十分な財産を得、静かに暮らすつもりだった。しかし彼の近くに住んでいた昔の仲間は、分け前を濫費し尽してしまうと、もうひと航海してほしいと彼にしつこく頼んだ。彼はその頼みを長いこと拒絶し続けた。それでも昔の仲間は、大金持になれると言って胆力ある男たちを集め、全員で彼のところへ押しかけてきた。そして、もう一度俺たちを指揮して航海に出てほしいと懇願した。テューは彼らの熱意に根負けして、ついにこれを引き受けた。一味は小型スループ船に乗り組むと、一路モザンビーク海峡を目差した。北上して紅海に入るとムガール帝国皇帝の持ち船に遭遇した。一味はこれを襲ったが、戦闘中、敵弾がテューの腹を貫いた。テューはほんのしばらくの間、腹から出た腸を自分の手で押えていた。彼が倒れると乗組員は恐慌を来たし、そのまま抵抗することもなく敵に投降してしまったのである。





24　ハルゼー船長と乗組員





　ジョン・ハルゼーはニューイングランド、ボストンの出身だった。同植民地の総督から私掠船の委任状をもらい、ブリガンティーン船「チャールズ」号を指揮してニューファンドランド沿岸を航行した。そして、そこで拿捕したフランス漁船にファヨールで合流するよう命じた。しかし、この船が約束の場所に現われなかったので、ハルゼーはカナリー諸島へ向かった。この海域でスペインのスループ船を拿捕すると、掠奪した後沈めてしまった。さらにヴェルデ岬諸島の一つブラヴォー島まで航海し、そこで木材を積み、水を補給した。ハルゼーは副官を追放した。数人の乗組員が脱走したが、ハルゼーの委任状がまだ有効だったため、島の総督は脱走した連中を本船へ送り返した。ハルゼーはこの島を出帆すると針路を南にとり、希望峰を回ってマダガスカル島のオーガスチン湾に入った。ここで木材と水を補給し、また遭難して船を失った船乗りを幾人か仲間に加えた。彼らはヤング船長が指揮する東インド会社船「デグレーヴ」号の乗組員だったが、難破してこの土地に漂着したのだった。ハルゼーは船を紅海に進め、そこでモカを出帆した備砲六十門のオランダ船に遭遇すると、一週間これと距離を保って航海した。彼はこのときすでに海賊になる決意を固めていたが、ムーア人の船だけを襲うつもりだったのである。これが彼と乗組員の間のいさかいの原因になった。乗組員はこの船がムーア船だと主張したが、彼は断固オランダ船だと言って譲らず、ヨーロッパ船には手を出さない決意を変えようとしなかった。乗組員は獲物に接舷することを提案したがハルゼーは頑として聞き入れなかった。そこで彼らはハルゼーと砲手を罷ひ免めんし、拘禁してしまった。そしていざオランダ船に接舷しようとしたとき、相手が下段の砲を操り出そうとしているのに乗組員の一人が気付いた。彼はすぐさま操舵手を押しのけ、舵に取り付くと上手舵いっぱいにとって、船首を風下に向けた。（海賊の規則では、獲物の追跡中あるいは戦闘中、操舵手は舵についていることになっていた。）オランダ船は船首を風上に廻らし、旋回砲を船尾に移動すると、発砲した。弾丸は舵を取っていた男をかすめ、船尾を破壊した。手に負えぬ相手と知った海賊は全速でオランダ船から離脱した。オランダ船から幾人かの男が飛び移ってきたが、船医が剣で始末した。この船医は一味が海賊になることには反対だった。乗組員は自分たちの失敗を認め、ハルゼーと砲手を復任させた。一味はニコバー諸島へ向かった。ここでイギリス人バックレー船長が指揮してベンガルから航海してきた「バッファロー」号に遭遇し、短時間の交戦の後これを拿捕した。船長と二人の航海士がヨーロッパ人で、残りは全員ムーア人だった。船は、バター、米および布を積み、アチンへ向かう途中だった。海賊一味は食糧や衣類にこと欠くような状態になっていたから、これはまさにうってつけの獲物だった。一味は二人の航海士を仲間に加えたが、船長とムーア人乗組員はカーニコバーに残し、さらに航海を続けた。バックレー船長は病み、一味が戻ってくる前に死んだ。この航海で一味はやはりアチンへ向かっていたコリンズ船長の船に遭遇した。この船にも二人のイギリス人航海士が乗っていたが、他は全員ムーア人だった。一味は獲物を連行して「バッファロー」号を残してきた港に戻った。

　ここで一味の意見が分かれた。西インド諸島へ行こうと主張するものと、まだかねを懐にしていないし、そもそもかねを得るのが自分たちの航海の目的だと言ってそれに反対するものがいた。そこで仲間は二つに分かれることになり、一方はロウという男を船長に、またマダガスカルで一味に加えたミエーというフランス人をマスターにして「バッファロー」号に乗り移った。そして拿捕したスループ船の甲板を剥いで、ハルゼーが船長として留まったブリガンティーン船の船底を修理した。一味はバックレー船長の二人の航海士を無理やり仲間にするつもりだったが、二人の懇願に負け、カヌーを与えて釈放した。こうして「バッファロー」号はマダガスカルへ向かい、一方ブリガンティーン船「チャールズ」号はマニラ航路の船を求めてマラッカ海峡に針路をとった。この海峡で一味は備砲二十六門のヨーロッパ船に遭遇したが、オランダ船で苦汁を飲まされていたから、攻撃する勇気がなかった。一味は海岸近くに投錨した。

　二、三日後、中国のジャンク船と思われる船影を発見し、ただちに追跡した。しかし、この船に接近すると、舵手がジャンク船に間違いないと言うにもかかわらず、他の乗組員はオランダ船だと言って聞かず、攻撃しようとはしなかった。追跡をあきらめた一味は、再びマレー半島の海岸近くに碇泊した。数日後、大型船の姿を認め、追跡してみると、ビューズ船長が指揮して中国からの帰路についている東インド会社船「アルビマール」号だった。一味は接近し、しばらく交戦したがひどく手強い相手とわかり、急いで逃げ出した。「アルビマール」号は追ってきたが、一味の船のほうが船足が速く追撃を振り切った。一味は再び投錨した。このとき乗組員は総勢四十人だった。水が欠乏しかかっていたが、オランダ人を恐れて上陸はしなかった。会議が開かれた。マダガスカルへ行って、乗組員を増強し、補給してから新たな冒険に乗り出すのが得策ということになった。この決定に従って、一味はマダガスカルに針路をとった。途中、マスカリーン島に立ち寄り、島の総督に少しばかりの贈り物をして必需品を補給してもらった。ここから一味はマダガスカル島の、海賊たちが希望岬と呼び原住民がハラングビーと呼んでいる場所に到着した。南緯十七度四十分、セントメアリー島の近くである。

　ここに「バッファロー」号と、海賊トマス・ホワイト船長一味が獲物にした「ドロシー」号が碇泊していた。彼らは九十人乃至百人で、この土地を居住地とし自分たちの政府を組織していた。彼らのうちには五、六百人あるいは千人もの黒人を従え統治しているものもいた。一味はここで船を修理し、食糧その他必需品を補給し、さらに仲間を百人ばかりに増強すると紅海へ向け出帆した。途中ヨハンナ島に立ち寄り、山羊とココナッツを食糧として積み込んだ。十一日後バブエルマンデブ海峡に到着した。間もなくモカからジッダへ向かう、二十五隻からなるムーアの船隊を望見した。一味は接近した。しかし、船隊は数隻のポルトガル軍艦に護衛されていたのである。海はすっかり凪いでいた。一味は危うく捕捉されるところであったが力漕して難を脱することができた。数日後、深い霧の中で、射程内に船の姿を認めた。モカから来た一本マストのグラブ船だった。一味は発砲した。砲弾は相手の帆索を切断した。こうして一味はこの船と積載しているボートを手中にした。獲物は薬種を積んでいたが、一味はいくらかの必需品と現金二千ドルを奪っただけだった。そしてモカに四隻のイギリス船が碇泊していて、うち一隻はジッダから来たものだという情報を得ると獲物を釈放した。

　三日後、一味は教えられた四隻の船を発見した。最初、これらはバブエルマンデブの陸の立木のように見えた。夜になって一味はこの船隊に近づき、夜明けまで距離を保って航行した。その間、双方は喇叭を吹き鳴らし続けた。イギリス船と同じく海賊船にも二人の喇叭手が乗っていたのである。夜が明けると四隻の船は縦隊を組んだ。海賊船に呼び掛けたものの、一味は船籍を明さず、彼らの流儀で「海から来たのさ」という答が返ってきたからである。海賊船は風下に回り、斜桁を繰り出した。一隻の船がこれに気付き、海賊船は逃げようとしているから追跡したらどうか、とジャゴー船長に具申した。船長は備砲二十四門、乗組員七十人の船に乗り、全船隊を指揮していた。しかし海賊のやり方を知っていた航海士は、そんなことをしたらほぞをかむことになると答え、自分は幾度も激戦の経験があるけれど今度のが一番手強そうだ、と言った。海賊船は再び水平線に姿を現わし、船隊と逆行すると、船隊の最後についていた備砲十六門の「ライジング・イーグル」号に接舷し、乗り移った。「ライジング・イーグル」号の乗組員は乗り移ってきた海賊に激しく抵抗し、戦いは四十五分続いた。この戦いでチェンバレン船長の一等航海士以下数人が死に、また主計は負傷して海に飛び込んで死んだ。

　その間に、他の船は海賊船に乗り込むようジャゴー船長に求めた。しかし海賊船は船首を転じ、ジャゴー船長の船を砲撃した。この砲撃で船首と船尾を破壊されると、ジャゴー船長は海賊に対する沿岸警備の任務を帯びていたにもかかわらず、危地から離脱することに決め、ありたけの帆を張って遁走してしまった。残った船もこれに倣い、思い思いの方向へ離散していった。こうして海賊は「ライジング・イーグル」号を我がものにした。ところで、「ライジング・イーグル」号が降伏した後、この船の二等航海士が船首楼から二人の海賊を狙撃して殺した。このうち一人は砲手の友人だった。砲手は航海士を射殺して復讐しようとした。しかし、かつて一味の船長でいまは一乗組員となっているトマス・ホワイトや、そのほかアイルランド人とスコットランド人の乗組員が、航海士もアイルランド人だということで、間に割って入り、彼の命を助けたのである。一味は、ジッダから来たのはどの船かと捕虜に聞いた。その船が現金を積んでいたからである。

　それが「エセックス」号であると知った一味は、早速追跡を開始した。目差す獲物に近づくと、メインマストに忌まわしい海賊旗を掲げ、発砲した。海賊船にはせいぜい二十人ほどの乗組員しかなく、近づいたといってもなお獲物はかなり離れていて、マストの頂が水平線に見え隠れする程度だったが、この一発で「エセックス」号は降伏した。降伏すると、「エセックス」号の船長は、「海賊船の船長はだれか」と尋ねた。ハルゼー船長の名を聞くと、さらに操舵手はだれか、と尋ねた。ナサニエル・ノースという名前が返ってきた。船長はノースを呼んだ。彼はこの男をよく知っていたのである。ノースは拿捕した船長の名前がパントと知ると叫んだ。「やあ、トマス・パント船長じゃないか。俺たちの手にかかって気の毒だったな」。船長は丁重な扱いを受けた。海賊は船長やイギリス人乗客の私物には手を付けなかった。しかし船に積んであった四万ポンドの現金は遠慮なく奪った。一味は「ライジング・イーグル」号からも一万ポンドの現金を奪った。それから「エセックス」号を釈放すると、「ライジング・イーグル」号を連行してマダガスカルへ向かい、この島で戦利品を分配した。

　海賊から親切な扱いを受けた船客の幾人かは、後にマドラスの総督の許可状を持ち、小型船「グレイハウンド」号でインドからこの地にやってきた。船には航海必需品を積んでいたが、彼らはこれらを海賊の掠奪品と有利に交換しようともくろんだのである。海賊は彼らを丁重に迎え、彼らの持ってきた品物の値段を聞くとそれらを現金や掠奪品で買い取った。そうこうしているうちに、ジェームズ・ミラー船長が指揮する備砲二十六門、乗組員五十四人の「ネプチューン」号がスコットランドからやって来た。彼らはこの土地で奴隷を買い付け、それをバタヴィアへ運んで売り捌き（船にはオランダ人の中で育った貨物監督人が乗っていた）、さらにそこからマラッカへ向かって、中国からの帰路難破した「スピードウェル」号の荷物を積む予定だった。しかし、ミラー船長はここで海賊と取り引きする船を見て、自分たちも大量の航海必需品やフランスのブランデー、マデイラのワイン、イギリスのスタウトビール等を積んでいるから、奴隷の買い付けをするよりこれらの荷物を現金にした方が得策と考えた。「グレイハウンド」号の商人は、海賊が取り引きでは決して値切るような真似をしないことを知っていたから、自分たち以外のものがかねを儲けるのが不快だった。そこで海賊に次のように言った。

「『ネプチューン』号を獲物にすれば、マドラスの総督にまたとない奉仕をすることになりますぜ。それにあの船はあんた方の目的にぴったりだ」。これに対してスコットランド人とアイルランド人の乗組員はこう答えた。「まだ俺たちはそんなこと考えちゃいねえ。一隻でも獲物にしようって気になりゃ、二隻ともやっちまうさ」。突然ハリケーンが襲ってきた。「ネプチューン」号は全部のマストを切り捨てねばならず、又海賊の三隻の船はすべて海に没してしまった。いまや彼らには船がなく、幾人かは持ち物を波にさらわれてかねもなかった。一味は「ネプチューン」号に目を付けた。「ネプチューン」号の一等航海士ダニエル・バージェスはミラー船長に悪意を抱いていた。彼は密かに海賊と通じ（後に彼は海賊の中で死んだ）、小さなマストや桁をすべて陸揚げすると、船長に、マストにするのに都合よい木を探すよう海賊に頼んだらちょうどよさそうなのを見つけてくれたから、それを船まで運ぶための人手をよこしてほしい、と知らせた。船長は、何の疑いも抱かず、言われたとおり部下を連れて上陸してきた。彼らはたちまち一味に捕らえられ、大型ボートは岸に繋留された。さらに一味は二等航海士と砲手を呼び寄せるよう船長に強要した。船長の弟である航海士は迎えのボートに乗ったが、砲手は何やらよからぬたくらみが隠されていそうな気がして同行を拒否した。夕刻、バージェスが「ネプチューン」号にやってきて、乗組員に船を見棄てるよう勧めた。彼らは少々ためらった後、船に残っているのはたった十六人だけれども、船の砲で掩護して陸からマストや桁材を取ってきて、それから出港しようと言った。しかしバージェスは、まだ乗組員に自分のたくらみを悟られていなかったから、守ることも航海することもできない船は棄ててしまうほうがよいと言って、彼らを説き伏せてしまった。これを知った「グレイハウンド」号の商人は、自分たちもすぐこれと同じ目に遭うとは知らず、大喜びした。

　二日後「ネプチューン」号の中型ボートに乗った海賊がやってきて「グレイハウンド」号を捕らえ、一味が支払った現金をすべて奪い返した。そして「ネプチューン」号からマデイラワイン十樽とブランデー二樽を「グレイハウンド」号に移し、「ネプチューン」号の船長、二等航海士、甲板長、砲手、その他乗組員十四人を乗船させると、出港を命じた。「ネプチューン」号の残りの乗組員は若く、海賊の仕事に向いていたから、一味に留置された。しかし彼らの大部分は大酒を飲み、病を得て死んだ。ハルゼー船長は船が出帆準備をしている間に熱病にかかって死んだ。彼は丁重に葬られ、厳粛な葬儀が行なわれた。イングランド教会の祈りがささげられた。旗が掲げられ、彼の剣とピストルが柩の上に置かれ、その上を船首旗で被った。彼の年齢と同じ四十六丁の銃から弔銃が轟いた。イギリス人乗組員による斉射三回、フランス人乗組員による斉射が一回であった。彼の人となりは勇敢で、捕虜に対しては寛大だった。乗組員は皆、彼を慕い彼の死を悼んだ。彼の墓はすいか畑の中に作られ、野豚に荒らされないよう周りには柵が廻らされた。

「ネプチューン」号はハルゼー船長の死後一年して出帆準備が整った。しかし、このとき再びハリケーンに襲われ波に呑まれてしまった。これが海賊の所有した最後の船になった。





25　トマス・ホワイト船長と乗組員





　トマス・ホワイトはプリムスで生まれた。その地で母親が居酒屋を営んでいたのである。彼女は息子の教育に非常に心を砕いた。そして彼が成長し、船乗りになりたいと言うと、軍艦勤務につけてやった。彼は数年間軍艦に乗務した後、バルバドスへ渡り、そこで結婚した。そしてこの島に落着くつもりで商船に職を求めた。彼はブリガンティーン船「メアリーゴールド」号の指揮を任され、ギニアへ二度航海し成功を収めたが、三度目の航海でフランスの海賊に拿捕された。この海賊は他にもイギリス船を捕らえていた。一味には熟練した乗組員が不足していたから、これらの船の船長や下士官を拘留していた。

　一味はホワイトのブリガンティーン船を乗っ取り、それまで使っていた船を沈めてしまった。しかしギニア沿岸でさらに一味の目的に適った船を捕らえると、今度はそれに乗り移り、ブリガンティーン船を焼き払ってしまった。

　しかし私はここではホワイト船長の話に関連して必要なこと以外、このフランス海賊について語るつもりはない。ただ、一味がイギリス人捕虜に残酷な仕打ちをしたことを言っておきたい。彼らは捕虜を射撃の標的にした。幾人かは彼らの慰みで、このようにして殺された。

　一人の海賊がホワイトを生け贄に選んだ。そして、こいつを殺してやる、と毒づいた。どうしてそうなったのか私は知らない。しかし、ホワイトは命びろいした。話はこうである。ホワイトに友情を感じていた一人の乗組員がいた。彼は自分の仲間が夜中にホワイトを殺してしまう気でいるのを知り、ホワイトに自分と舷側の間で寝るように言った。こうしてホワイトを助けてやるつもりだったのである。実際、この男はホワイトの命を救った。だが彼自身は、凶悪な殺人者にホワイトと間違えられ、撃ち殺されてしまった。しかしこれは余談である。

　海賊一味は希望峰を回り、マダガスカルへ向かった。ここで一味は大酒を飲み正気を失って、原住民がエレクサと呼ぶ島の南端に船をぶつけてしまった。このあたりはマファリという王が治めていた。

　船が難破すると、ホワイト船長、ボアマン船長（ライト島の出身で軍艦の副官を務めた。後に商船に乗り組み、この海賊に捕らえられた）その他幾人かの捕虜は船に積んであった大型ボートに乗り、船底にあった折れたオールと樽板を使って、遭難場所から十四、五リーグ離れたオーガスティン湾に漕ぎ着いた。彼らは上陸するとバヴァウ（マダガスカル島のこの地方の名前である）の王に親切に迎えられた。王は流暢に英語を話した。

　彼らは王の厚遇を得て、この土地に一年半滞在した。王は、この沿岸で難破した白人に親切にするのを常とした。そして、最初に入港した船に、それがどんな素性の船であろうと、遭難者らを引き取らせるのだった。王は、海賊とか商人とかの区別には無頓着だった。

　彼らが王の許に身を寄せて一年半経ったとき、一隻の海賊ブリガンティーン船が入港してきた。王は彼らに、この船に乗るか、あるいは陸路他の土地へ行くよう命じた。彼らは陸路別の土地へ行く気にはとてもならず、やむなく海賊船に乗ることにした。海賊船のウィリアム・リード船長は彼らを丁重に迎えた。

　海賊船長は沿岸を航海し、幾人かのヨーロッパ人を仲間に入れた。それでも乗組員は四十人を超えることはなかった。だからイギリス人に残虐行為を働いてさえいなければ、難破したフランス人海賊らも喜んで仲間に加えていただろう。しかしいずれにせよこれは不可能なことであった。というのは、フランス人たちは原住民に権勢を振るおうと考え、彼らに非道を働くようになったため、彼らに襲われて半数は斬り殺され、残りの半数は奴隷にされたのである。

　六十トンのブリガンティーン船に乗り組んだリード一味はペルシャ湾に向かった。そこで二百トンのグラブ船〔三本マストの船〕に遭遇すると、それを捕らえた。

　船には梱の荷物以外なにもなかった。一味は金を探して大部分の梱を海に投げ棄て、船を空っぽにした。しかし、後になってわかったことだが、一味が血眼になって探し求めていた金が、海に投げ棄てた梱の中に大量に隠されていたのである。

　この航海でリード船長は病を得て死に、ジェームズという男が彼の後を継いで船長になった。ブリガンティーン船は弱小で、船体もかなり傷んでいたから、一味はマヨッタ島へ向かい、そこで船のマストをグラブ船に据え付けた。そしてこの船を自分たちのものにした。島は食糧が豊富で値段も安かった。一味は食糧を補給し、島で見つけた十二本オールのボートを船に積んだ。このボートは以前この近海で難破した東インド会社船「ルビー」号のものだった。

　一味は約六か月間のモンスーン期をこの島で過ごし、その後マダガスカルへ向かった。陸へ近づくと、島の東側から船がやってくるのが見えた。両船は互に相手に向かい、たちまち接近した。彼らは互にどこから来たのか、と声を掛けると、「海から来たのさ」と同じ答が返ってきた。彼らは仲間になった。

　この小型フランス船は最初フランス人フルジェットが指揮していた。酒類を積んでマルティニク島を発ち、マダガスカル島東岸南緯十七度三十分に位置するアンボナヴラで海賊相手に奴隷売買をしていたが、次のようないきさつで海賊に乗っ取られたのである。

　ジョージ・ブース船長が率いる海賊十人が、必需品を買いつけるそぶりで、現金を持ちフルジェット船長の船にやってきた。（ブースという男は、以前は海賊船「ドルフィン」号の砲手だった。）フルジェット船長は非常に用心深く、海賊が甲板に上ってくると一人ひとり検査した。そして最初に乗船したオランダ人海賊がピストルを二丁ポケットに忍ばせているのを見つけると、「悪党め、私の船で何か企んでいるな」と叫んだ。海賊たちはこの仲間が武器を帯びて船にきたことにひどく腹を立てた様子で「おまえなぞ頭をぶち割ってやる」と怒鳴りつけた。そして乱暴にボートに投げ込むと、「さっさと陸へ戻れ」と命令した。しかし一味はこれより前に、船を奪うか死かどちらかだ、と聖書を前に誓いを立てていたのである。

　残った全員も調べられたが武器は出てこなかった。しかし彼らはフルジェットの目を巧みにごまかして、四丁のピストルを持ち込んでいた。これが一味の仕事のための武器のすべてだった。一方フルジェット船長には乗組員二十人があり、また彼の小火器はいつでも使えるように覆甲板の上に置いてあった。

　フルジェットは一味を船長室に呼び食事に招待した。ジョンソンとアイザック、それにもう一人が招待に応じたが、ブースは他の下士官らと食事すると言った。

　ブースは合言葉を叫ぶことになっていた。それは「万歳」というのだった。彼は船べりから小便をするふりをして片手を覆甲板にかけ、一瞬身を躍らせてその上に飛び乗った。そして置いてあった武器を引き寄せ、乗組員に向けてピストルを発射した。彼らの一人は傷を負い、船から海に転落して死んだ。ブースは合図をした。

　前にも話したように、一味のうち三人は船長室で食事をし、七人が甲板に出ていた。甲板の連中は手斧や奪った武器を持って、乗組員を拘禁した。食事をしていた船長と二人の航海士はピストルの音に耳にするとジョンソンに襲いかかり、フォークで相手の身体をめった突きに刺した。しかし銀製のフォークでは大した打撃を与えはしなかった。フルジェットは自分の銃をとりアイザックの胸めがけて引金を引いたが、不発に終った。結局抵抗しても無駄とわかり、船長は降伏した。海賊は船長と、一味に加わりたくない乗組員を釈放し、上陸させた。船長の本、書類その他私物一切を持ってゆくことを許した。さらに御親切にもこの土地で必需品を買えるように酒数樽と武器弾薬を与えた。

　閑話休題。陸に残っていた「ドルフィン」号の仲間を奪った船に乗せ、総勢八十人となったブース一味はセントメアリー島へ向かった。ここにミッソン船長の船が碇泊していた。船長と乗組員全員はニューヨーク出身のオランダ人オルト・ヴァン・タイルに唆かされて船を離れていた。一味はこの船から水樽その他必需品を奪うと、マダガスカル島西島南緯十六度付近にあるメセラージ河に向かった。そこで食糧を塩漬けにしてから東インド諸島に船を進め、セントジョン諸島沖を遊弋しながらモカを出帆するムーア人の船を待ち伏せするつもりだった。

　メセラージへ向かう途中、前にも話したようにホワイト船長の乗った海賊船に遭遇し、仲間になったのである。二隻の海賊船はそろってメセラージ河に投錨した。ここで船の修理をし、食糧を塩漬けにして出帆準備がなったとき、沖に大型船が現われ河口に向かってきた。

　海賊にはこれが商船か軍艦かわからなかった。実はこの船は砲門五十を備えたフランス国王所属の軍艦だったのだが、イギリス軍艦に捕らえられ、後に幾人かのロンドン商人が買い取ったのである。そしてマダガスカルで奴隷を買い付け、ジャマイカに運ぶ予定でロンドンを出帆したのだった。船長は若く、経験の浅い男だった。



当時の一級軍艦「ロイヤル・アン」号。備砲100門、乗員780名





* * *





　海賊一味はこの船に呼び掛けるためボートを出した。しかし船から砲撃を受け、急ぎ岸に漕ぎ返った。一味は、これは軍艦だと結論した。二隻の海賊船は錨綱を解き放ち、岸に向かった。グラブ船はうまく帆を操れず、マングローブの茂みにつっこみ、隠れていた根株で船底に穴が開いて沈んでしまった。もう一方は無傷で浅瀬に乗り上げ、投錨した。

　海賊を恐れさせた船――「スピーカー」号という名前だった――の船長は、彼らが海賊なのか商人なのかわからなかったが、二隻の船を岸に追いやったことで大得意だった。そして「俺が二隻の海賊船を岸に追いやったことが知れたら、俺の名前がロンドンの取引場でもてはやされるだろう」と言った。後に彼が海賊に捕まると、乗組員の一人は「俺たちの船長は最初二隻の海賊船を脅し、後から一味の二隻のボートに捕まってしまったとわかったら、取引場で何と言われますかね」と皮肉った。「スピーカー」号は二隻の海賊船を射程に収めると、数発の砲弾を浴びせ、投錨するとさらに陸へも数発撃ち込んだ。驚いたのは原住民である。彼らからこれを知らされた土地の王は「スピーカー」号との取り引きを禁じようとした。しかし、上陸していた海賊どもは「スピーカー」号を奪う下心があったから、王にとりなしをし、「スピーカー」号の連中は自分たちと同胞であり、訪問地に敬意を表して号砲を発射するのが習しであるが、実弾を撃ったのは船の砲手のまったくの不注意からだ、と言った。王の怒りは解けた。

「スピーカー」号の船長は主計員に金の象眼をした銃二丁、喇叭銃二丁、ピストル二丁を贈り物として持たせ、海岸から二十四マイル奥まったところに住む王のところへ使いにやった。

　上陸したとたん、主計員は海賊の一人トム・コリンズに捕まった。この男はペンブローク生まれのウェールズ人で、バルバドスの私掠船「チャーミング・メアリー」号に乗り組んでいたが、後に海賊に転業したのである。彼は、主計員に、奴隷の買い付けをしていた二人の仲間が砲撃で損害を受けたから賠償しろ、と言った。

　主計員は、自分は船長ではなく、船長はもっと若く向う見ずな男で、友だちに唆かされて商売の道に入ったまったくの素人だと話した。そして、賠償はしなくてはいけないだろう、と言った。コリンズはこの男をブースの船へ連れていった。最初海賊たちから烈しい言葉を浴びせられたが後には非常に丁寧な扱いを受け、翌朝、王のところへ案内された。そして王と和議が成ったのは、先に述べたとおりである。王は「スピーカー」号の取り引きを許し、牛二頭、二、三十人の男が背負った米、その他トークと呼ぶ地酒を贈った。

　船長は海岸に商館を仮設し、奴隷や食糧の買い付けを始めた。海賊たちは人びとに紛れて、船の碇泊状態などを聞き出した。「スピーカー」号の乗組員の一人ヒュー・マンは、船に乗っているのは四十人足らずで、ここに到着する前に二等航海士のほか二十名を大型ボートで失ってしまった。しかし船の見張りは厳重で砲はいつでも発射できる状態にある、と一味に教えた。そしてこう言った。「だけど俺に百ポンドくれたら、導火線を全部濡らして、船を奪う手伝いをしてやるぜ」。

　数日後、「スピーカー」号の船長が上陸してきた。彼は前もって損害賠償に同意していたから、一味から大歓迎された。一、二日後、一味は船長を野外パーティーに招待した。

　食事が終るとボーウェン船長は席を立った。前にも話したように、彼はフランス人海賊の捕虜だったが、今では仲間に加わり、グラブ船のマスターになっていた。戻ってきたとき、彼はピストルのケースを手にしていた。そして「スピーカー」号の船長――名前は伏せておこう――に「お前を捕虜にする」と言った。船長が「なぜだ」と聞くと「俺たちは船が必要だ。おまえの船がよさそうだから、それをいただくことにしたのさ。それでおまえが俺たちに与えた損害を賠償してもらうのさ」と答えた。

　ボートの乗組員がやってきた。酒を飲んでいた海賊どもは「おまえたちも捕虜にする」と脅した。彼らのうちの幾人かは「そいつはいいや。もう俺たちは自分が何なのか考えなくてもすむってもんだ。さあ、飲もうぜ」と言った。

　海賊は「スピーカー」号の合言葉を教えてもらった。これがないと、ボートで本船に行っても乗せてもらえないのだった。合言葉は「コヴェントリー」だった。八時になると一味はマヨッタ島で見つけた十二本オールのボートに二十四人を乗り組ませ、船に向かわせた。

　ボートが岸を離れると、「スピーカー」号の船長は「話したいことがあるから連中を呼び返してほしい」と言った。ブースは「何を言いたいんだ」と聞いた。「船は絶対奪えないぜ」「それじゃ俺たちは船の中かその横で死んじまうってのか」「無事船に乗り移るつもりなら、左舷から近づいちゃ駄目だ。船尾のほうに、重い弾丸を込めた大砲が据えてあるからな」。一味は礼を言って出かけた。

　船に近づくと「だれか」と聞かれた。「コヴェントリー」。「よし。明りを持ってこい」と航海士が言った。しかし後にもう一隻ボートがいるのを見咎め、「そっちのボートは何だ」と聞いた。一人が「水を運んできたんだ」と答えたが、同時に別の一人も「牛肉を積んできたのさ」と答えた。答のくい違いに不審を抱いた航海士は、「海賊だ。全員武器をとれ」と叫ぶが早いか大砲の導火線に火をつけた。しかしヒュー・マンの裏切りで導火線はあらかじめ濡らしてあったから、湿った音がしただけだった。一味はたちまち船に乗り込み、それを奪ってしまった。どちらの側にも一人の犠牲者も出なかった。

　翌日、一味はそれまで乗っていた船に必要な食糧を積み込んで、それを「スピーカー」号の船長と、彼の許に残ることを希望したものに与えた。このものたちの中に仲間を裏切ったマンが含まれていた。海賊は彼に約束の百ポンドを払い、また秘密を明かさない、と約束したのである。自分の船を失った「スピーカー」号の船長は、海賊がくれた船でヨハンナに向かった。そして失意のうちにそこで病を得て死んだ。

　海賊は食糧を積むとセントオーガスティン湾に針路をとった。ここで一味は七、八十人の人手を仲間に加えた。彼らは海賊ジェームズ船長が指揮する「アレキサンダー」号の乗組員だった。一味は「アレキサンダー」号の砲もスピーカー号に移した。これで海賊船の備砲は五十四門、乗組員は二百四十人になり、それ以外に奴隷二十人が乗っていた。

　一味はここから東インド諸島へ向かったが、途中、新鮮な食糧を補給するため、ザンジバルに寄港した。ここは以前ポルトガル人が植民地を建設していたが、現在はアラビア人が住んでいる。船長は食糧を買い入れるため、部下を連れて上陸した。彼は総督の私邸に呼ばれ、十四人の仲間とともに護衛つきで案内された。家へ入ると彼らは離ればなれにされた。他の仲間も街にある別々の家に収容された。そして襲われたのである。彼らは岸を目差して逃げた。舫ってあったボートに乗るとすぐ岸を離れた。武器を持って上陸した海賊はせいぜい六人ぐらいだった。しかし彼らは巧みに防戦し、大部分は無事ボートに戻った。操舵手は剣を片手に、大勢の敵と戦いながら逃げ、小さなカヌーを見つけるとそれでボートまでたどり着いた。

　その間、アラビア人の小さな砦が本船に砲撃を加えたが、船もこれに対し存分の返礼をした。こうして彼らは船に逃げ帰った。ブース船長と十二人の乗組員が死んだ。一味は東インド諸島に船を向けた。

　出帆すると新しい船長を選出することになった。皆はアラビア人相手に果敢に戦った操舵手を指名した。しかし彼が一切の指揮職を辞退したため、ボーウェンを船長、ピッカリングをマスター、フランス人サミュエル・エローを操舵手、そしてナサニエル・ノースを船長付操舵手に選んだ。

　事が落ち着くと、一味は紅海の入口まで船を進めた。ここで十三隻から成るムーア人の船隊に遭遇した。その日はほとんど一日中この船隊を追跡して航行した。しかしこれをポルトガルの軍艦と見違えてなかなか攻撃にふみ切れなかった。ついにしびれを切らした一部乗組員が、獲物に接舷しようと船長に迫った。船長は何も言わなかったが、気乗りの様子ではなかった。彼は商船の船長としては経験豊かだったが、海賊としてはまだ未熟だったのである。

　獲物に斬り込むことを迫った連中は、こんどはボアーマン船長に指揮を頼んだ。しかし彼は、自分は他人を襲ったりしたくないし、またそれをやるなら経験者でなければ駄目だから、だれかが代りに指揮してくれるなら、自分は船首楼から銃で掩護しよう、と言った。これを聞いた船長付操舵手は「船長は決意がつかないようだ。皆にやる気があるなら俺が指揮しよう」と申し出た。全員この言葉に従った。船隊の最後部の船に接近すると片舷斉射を見舞った。二人のムーア人がこの砲撃で死んだ。一味は砲撃の手を緩めず、ついにこの船を捕らえた。しかし夜になったため、獲物はこれだけで終った。一人当り五百ポンドの収穫だった。

　船はマラバー沿岸に進出した。この沿岸での一味の冒険はすでにボーウェン船長の章で述べた。その間、ホワイト船長はずっと平水夫だった。彼は最初から無理やり仲間に入れられていたのだった。

　ボーウェンの乗組員が解散すると、ホワイト船長はメセラージ河へ行った。そこで島を出るあてもないまま、土地の王の許に身を寄せていたが、ある日トマス・ハワード船長が指揮する海賊船「プロスペラス」号が入ってきた。この男は以前、テームズ河で渡し船の船頭をしていた。「プロスペラス」号はオーガスティンで奪ったものだった。彼の仲間と、船で甲板長助手をしていたランテンという男に唆され一味に加わった乗組員（彼らは水を補給するためボートで上陸していた）が、夜中に本船を奇襲したのである。そして何ら抵抗を受けなかったにもかかわらず、船長と一等航海士を殺し、ほかにも数人に傷を負わせた。これらのことは、ハワード船長の章で詳しく述べよう。ホワイト船長とともに上陸していた連中は、運がよければ故国へ帰れるかも知れないという望みを抱き、原住民の中にとり残されるよりは海賊船に乗ろうと決意した。ホワイトは操舵手に任ぜられた。後にハワードがボーウェンと遭遇すると（二人の遭遇はボーウェンの章参照）、ボーウェンの船に移った。そして以下に述べるように、ボーウェンが去った後まで、この船に留まった。ドルフィン港に到着するとホワイトは陸に残された仲間を連れにボートで上陸したが、本船は夜のうちに強風で沖に流されてしまった。船は入港できなかった。ホワイトは船が島の西側へ向かうだろうと考えた。以前そのように計画したことがあったからである。そこで二十六人の仲間とともにボートに乗り、その航路をたどった。彼らはオーガスティンに寄港し、本船が現われることを期待しながら一週間待った。しかし船は来なかった。土地の王は彼らに退去を命じた。彼らに本船があるなどというのは嘘だというのであった。それでも王は新鮮な食糧を与えてくれた。彼らは水を補給してメセラージへ向かった。この土地の王はホワイトを知っていて、一行を親切に迎えてくれた。本船を待って二週間この地に逗留したが、船は現われなかった。ボートを岸に着け、王の与えてくれた食糧を塩漬けにし、水を補給した。そして再び海へ出ると島の北端を目差した。本船はセントメアリー島にいるに違いないと考え、岬を回るつもりだった。

　島の北端に着くと北西の風が非常に強く、岬を回ることはとても無理だった。この風は一年のうち八か月間吹き続くのである。この地域には小型船が退避するのに都合のよい湾が多数ある。そのような湾の一つに入り、三、四週間経ったころ、幾人かの乗組員がボートを焼き払って陸路マナンガロマサイという土地へ行こうと言い出した。そこは南緯十五度近辺に位置し、彼らの知っているレバリンボという名の黒人の王が治めていた。王は、部族間の戦いで幾度か白人の援助を受けていて、彼らとは親友の間柄だった。ホワイトは必死でこの計画をやめさせようとした。大論争の末、ボートを焼き払うことはやめさせたが、乗組員の半数は陸路目的地へ向かう決心だった。彼らは旅に必要と思われる食糧その他を持って出発した。ホワイトその他残りの仲間は、一日彼らに同行し見送った。湾へ戻るとホワイトは仲間とともにボートに乗り込み、メセラージに戻った。旅立った連中が戻ってきて残りの仲間を説き伏せ、ボートを焼き払うことを心配したのである。

　メセラージへ着くと彼はボートに甲板を張った。三か月ほど滞在していると、海賊が三人ボートでやって来た。この男たちは、マダガスカル東岸で海賊狩りをしていた軍艦「セヴァーン」号と「スカーボロ」号に乗務していたが、脱走してモヒラへ渡った。そこから小型カヌーでヨハンナへ渡り、さらにマヨッタへ行った。この島の王がボートをくれたので、それに乗ってメセラージへ来たのである。すでに北西の風も弱まる季節になっていたから、ホワイトらはこの三人を加え、北の岬へ向かった。三人がマヨッタ島から乗ってきたボートは焼き払った。島の北端に着いてみると、風はまだ強く、岬を回るのは無理だった。彼らは近くの入江に退避し、魚や、この土地に豊富な野豚を獲りながら一か月滞在した。風が収まると、彼らは天候の穏やかなときを見計らって岬を回った。東岸を四十マイルばかり航海してある湾に入った。ここで見覚えのある上衣の切れ端を見つけた。陸路旅立っていった仲間の一人が着ていたものだった。彼は大工で、無理やり海賊の仲間にされた男だった。一行は、この男が上衣を裂いて自分の足に巻いたのだろうと想像した。この地方は荒れて岩だらけの土地だったからである。海岸に沿って航海を続け、夜は適当な入江に碇泊した。こうして一行はレバリンボ王の治めるマナンガロマサイに到着した。彼らは食糧を求め、また北の岬で別れた仲間の安否を尋ねた。食糧を得ることはできたが、別れた仲間の消息はわからなかった。

　一行はそこからセントメアリー島に渡った。そこへ一隻のカヌーが白人宛の手紙を持ってやってきた。昔の仲間の一人の筆跡だった。この手紙には、土地の黒人は以前裏切りをしたことがあるから、あまり信用すべきでなく、十分警戒するように、という内容が記されていた。ホワイトらが仲間の船のことを尋ねたところ、彼らはムーア人に船をやってしまい、自分たちはセントメアリー島から二十リーグほど南にあるアンボナヴラという土地に住みつき、黒人たちに君臨しているということだった。

　手紙を持ってきた黒人の一人が一行のボートに乗り込み、オランバーという土地に案内した。ここは片側は海、片側は河に面した土地で、十二人の昔の仲間が大きな家を建てて共同生活をしていた。そして周りに二十門の砲を据えて防備を固めていた。

　残りのものはイギリス人、フランス人、オランダ人等別々に十二人乃至十四人のグループに分かれ、河の上流や海岸沿いに居を定めていた。ホワイトらは彼らに、自分たちの戦利品の分け前はどうなっているか尋ねた。ホワイトらや、陸路南へ向かった仲間の分け前は、いつ彼らがきてもよいように、公正に取り除けてあった。ホワイトは故国へ帰りたいと思った。ここに定住するのは嫌だった。そこで再びボートで海に出ようと仲間に提案した。多くのものが彼に従うと言った。ヨーロッパへ帰る船に遭遇できなかったら、昔の稼業に戻るつもりだった。しかし、ボートをホワイトに与えるのは正当でないと考えるものもいた。売却して仲間全員の利益にすべきだという意見だった。結局、ホワイトは四百ピース・オヴ・エイトでボートを買い取った。そして、もとの仲間とこの土地で仲間になったものを加え、メセラージへ向かった。そこで砲六門を備えた五十トンのフランス船に遭遇した。この船はマダガスカル東岸のマラタンで、そこに上陸していた海賊と東インド会社所属「ディグレーヴ」号の一部乗組員に乗っ取られたものだった。これら「ディグレーヴ」号の乗組員は、船長からヨーロッパまでの乗務を拒否されたのである。というのも、この船長は以前海賊船「スピーカー」号に乗り組んでボーウェンの操舵手を務めたことがあり、彼らが自分の船を乗っ取るのではないかと恐れたのである。当時、イギリスとフランスは戦争状態にあったから、彼はこれら乗組員が海賊の謗そしりを受けることなく強奪行為に及ぶかもしれないと考えたのである。しかしフランス船――船長の名はエローと言った――を奪った海賊は、この船を「ディグレーヴ」の乗組員に残して上陸してしまった。そこで乗組員らは、自分たちの故国に帰る船に出合えるかも知れないと考え、東インド諸島へ行くつもりで船に装備をしたのだった。

　ホワイト船長はこの男たちを発見すると、仲間に加わるよう誘った。そしてアンボナヴラへ航海し、そこで仲間を増やそうと提案した。彼らは賛成し、全員一致でホワイトを船長に選んだ。こうして一味は出帆し、マダガスカルの南端を回ってマスカリーン島に寄港した。そこで船医を乗船させるとアンボナヴラへ向かい、乗組員を補充した。乗組員は六十名になった。さらに針路をマヨッタ島にとり、そこで船の修理をした。ホワイトは一季節をここで過ごしてから紅海へ向かうことにした。船の装備もなり、食糧も十分用意した。頃合いよしとなると一味はバブエルマンデブへ向け出帆した。そしてある港へ入ってモカの船を待ち伏せした。

　この海でホワイトはグラブ船二隻を捕らえた。船は食糧、現金少々、そして薬品を積んでいた。彼は必要物資を掠奪した後、二週間これらの船を連行してから釈放した。それから間もなく大型船を発見した。沖に出てこれを追跡したが、これがオランダ船で手強すぎるとわかると襲撃を断念し、碇泊地へ戻った。

　一味はアラビアの海岸から発見されるか、あるいは掠奪したグラブ船が彼らのことを通報したかも知れないと考え、モカを出帆する船に目を光らせながらエチオピア沿岸に移動した。

　数日後、およそ千トン、乗組員六百の大型船「マラバー」号に遭遇した。一味は夜通しこの船を追跡し、翌朝になって捕捉した。この襲撃で犠牲になったのは甲板長一人で、ほかに二、三人が負傷しただけだった。しかし追跡中に被った船の損害は甚だしく、前檣は折れ、ボウスプリットを失い、上部構造物はあちこち破壊されて長い航海には耐えられそうもなかった。そこで一味は捕虜をこの船に乗せ、食糧を与えて釈放した。

　さらに数日後、備砲四十四門のポルトガル軍艦を発見すると直ちに追跡に移った。しかしメイントップマストが折れてしまったため、追跡を断念せざるを得なかった。ポルトガル軍艦は一味の船を気にもとめなかった。

　軍艦が去って四日後、ポルトガル商船に遭遇した。一味はイギリス国旗を掲げてこれを追跡した。ポルトガル船は一味の船をイギリス軍艦か東インド会社の船と見違えて、逃げるどころか近づいてきた。そしてボートを降ろすと、船長への贈り物に菓子を持って挨拶にやってきた。ボートの乗組員はたちまち拘禁された。海賊は武器を携えてこのボートに乗り込み、ポルトガル船に乗り移りざま発砲した。ポルトガル船の乗組員は仰天し、イギリスとポルトガルは戦争を始めたのか、と尋ねた。海賊どもは「そのとおりだ」と答えたが、船長はこれを信じることができなかった。海賊どもは掠奪をほしいままにし、船長を拘留した。

　二日後、モカを出帆したペンルドック船長のイギリス船「ドロシー」号を発見した。追跡している間、砲火を交えたが、一味が「ドロシー」号の舷側に横付けし乗り移るときにはもはや相手は抵抗する力を失っていた。この船の乗組員は、士官以外は全員ムーア人だった。一味はこの船から多額の現金を奪った。票決の結果、ポルトガル船とその荷物をペンルドック船長に与えることにした。船長自身の私物もほしいものは持ってゆくことを許した。そして、与えた船で航海を続けるよう命じた。イギリス船は一味が使うことにした。

　それからすぐ後、一味は「マラバー」号を掠奪し、一人当り二百ポンドの現金を奪った。しかし、五万チキンは見落してしまった。これは、貨物上乗人の老ムーア人に牛乳を飲ませるため船上で牛を飼っていたが、その牛小屋の床下の壷の中に隠してあったのである。一味はポルトガル人とムーア人の捕虜をこの船に移して釈放した。翌日、ベンジャミン・ステイシー船長の砲六門を備えたケッチ船が一味の手に落ちた。一味は船長が持っていた現金および目ぼしい商品や食糧を奪った。この中には、ステイシー船長に預けられていた二人の子供の所持金五百ドルと銀製のマグ一つ、そしてスプーン二つが含まれていた。子供たちは持ち物を取られて泣いた。ホワイトがなぜ泣くのかと聞くと、ステイシーは、そのかねと食器は子供たちの養育費と私物なのだ、と答えた。

　ホワイトは乗組員を集め、無辜の子供たちの物を奪うのは酷いことだと言った。だれもがもっともだと思い、奪った物をすべて返した。彼らは仲間同士募金をし、ステイシーの航海士その他乗組員に贈り物をした。また子供たちには百二十ドルを贈った。ステイシー一行を釈放すると、ホワイトは一路紅海を目差した。

　デファール湾に到着すると、碇泊していたケッチ船を襲い、上陸中の船長と乗組員を拘禁して、船を掠奪した。乗り組んでいたフランス人ベルジェを仲間に加え、現金およそ二千ドルを奪った。ケッチ船はこの土地の首長に売却し、食糧を買った。

　一味はマダガスカルへ向かった。途中、幾人かは戦利品の分け前一人およそ千二百ポンドをもらってマスカリーン島で下船した。ホワイトは新鮮な食糧を補給した後マダガスカルへの航海を続けた。希望岬に到着すると戦利品を分配し、乗組員は上陸して各々居を定めた。ホワイトは家を建て、牛を買い、また船の上甲板を外して次の航海に備えて艤装にとりかかった。船の準備がほぼ完了したころ、ジョン・ハルゼー船長のブリガンティーン船が入ってきた。海賊稼業にはこの船の方が向いているとわかったホワイト一味は自分たちの船の作業を中止した。そして、新たな冒険を志すものはハルゼーの船に乗り組んだ。ホワイト船長も平水夫として加わった。

　マダガスカルに戻るとホワイトは赤痢に罹り、それから五、六か月後にこの世を去った。死期が近いのを知ったホワイトは遺言をし、原住民の女との間にもうけた男の子の後見人に異なった国籍の三人の男を選んだ。そして最初のイギリス船で息子に遺産を持たせてイングランドに送り、キリスト教徒として、父親より立派な人間になるよう教育してほしいと頼んだ。ホワイトの葬儀は海賊のやり方に従って立派にとり行なわれた。その様子は、ハルゼーの場合と同様である。数年後、イギリス船がこの地に寄港した。後見人らは頼まれたとおりホワイトの息子をその船に乗せ、後のことを船長に託した。船長はこの子供の養育に心を砕き、正直で立派な男に成人させたのである。





26　コンデント船長と乗組員





　コンデント船長はプリムスに生まれた。しかし彼が海賊になった動機や時期はわかっていない。彼はプロヴィデンス島でニューヨークのユダヤ人商人シンプソンのスループ船に操舵手として乗り組んだ。しかしロジャーズ総督がこの島に着任すると、乗組員たちは島を去るに如しくはないと考えた。彼もその一人だった。島を離れてまもなく、乗組員全員が色を失うような事件が持ち上がった。話はこうである。船にインド人が一人乗っていた。仲間の幾人かがこの男をひどく殴った。男は腹いせにスループ船を爆破しようと考えた。そして大部分の武器を船倉に集め、そこに閉じこもった。乗組員のうちには、甲板に穴を開けて、そこから手投弾を投げ込んだらどうかと言うものもいた。しかしコンデントは「そんなことをしていてはまだるっこしいし危険だ。奴は甲板の下から発砲するだろうし、そうなれば死人も出るだろう」と言った。そして片手にピストルを構え、片手にカトラスを握ると船倉に飛び込んだ。インド人は発砲した。弾はコンデントの腕を貫通したが、彼はひるまず男に迫りピストルを発射した。男が死ぬと乗組員たちはその身体を斬り刻んだ。砲手は腹を斬り裂き、心臓を掴み出すと、それを焼いて食ってしまった。

　その後、一味は商船「デューク・オヴ・ヨーク」号を捕らえた。ここでいさかいが起こり、船長と半数の乗組員が捕らえた船に移った。スループ船に残った乗組員はコンデントを船長に選んだ。コンデントはヴェルデ岬諸島へ船を向けた。途中、ワインを積んでマデイラ島から西インド諸島へ向かっていた船を捕らえ、掠奪した後釈放した。ヴェルデ岬諸島の一つマヨ島では二十隻からなる塩船隊をそっくり拿捕した。一味の船は帆桁が一本なかったので、船隊の一隻の主檣を取り外して代用とした。ここでコンデントは捕虜裁判の裁判長を務めた。拿捕した船の乗組員に各船長の行状や態度を尋ね、不満のある船長は鞭で打ち、そのあとに塩をなすりつけた。彼は食糧その他必需品を掠奪し、海賊志願者や無理やり一味にひきずりこんだ男たちで仲間を増強すると、船隊を残してセントジャゴ島へ向かった。この島で、以前私掠船だったオランダ船を難無く捕らえた。一回の斉射でオランダ船は船長以下数人が死に、ほかに幾人かの負傷者を出した。コンデント一味は接舷して乗り込むとまったく抵抗を受けず船をそっくり分捕った。

　この船は海賊の目的に適っていた。そこでコンデントはこれを「フライング・ドラゴン」号と名付けて一味とともに乗り移り、自分のスループ船は以前獲物にしたイギリス船の航海士で無理やり仲間にした男に与えた。ここから一味はブラジルの沿岸へ針路をとった。この航海で彼らは数隻のポルトガル船を捕らえ掠奪した。

　次に一味の獲物になったのはジョン・スペルト船長のギャレー船「ライト」号だった。彼は南海サウス・シー会社・カンパニーに雇われ、奴隷を買い付けにアンゴラへ行き、そこからブエノスアイレスへ行く予定だった。コンデントはこの船をかなり長い間連行し、その間スペルトを厚遇した。二人は同郷だったのである。スペルトの船を拿捕して二、三日後雑貨を積んだポルトガル船を獲物にした。コンデントは「ライト」号の索具を新しくし、ポルトガル船の積荷の一部を与えた。

　ポルトガル船を釈放して間もなく、砲二十六門を備えたオランダ東インド会社船に遭遇した。最初の斉射でこの船の船長は死んだ。スペルトの船にも海賊旗を掲げていたコンデントは、抵抗らしい抵抗も受けず、この船を捕らえた。

　コンデントは三隻の船隊でフェルディナンド島へ向かった。この島で「フライング・ドラゴン」号の傾船修理を行なった後、オランダ船の乗組員十一人をスペルトの船に移した。彼の船から無理やり一味に加えた乗組員の埋め合せのつもりだった。そしてオランダ船から奪った品物を与えてスペルトを釈放した。コンデント自身が出帆する段になると、彼はオランダ船に、自分の出帆後二十四時間はフェルディナンド島に止まるよう命じ、「もしこれに従わず、再び俺たちと出合うようなことがあったら、おまえの船は沈め、乗組員は全員斬り殺す」と脅した。ブラジル沿岸で備砲七十門のポルトガル軍艦に遭遇すると、これに接近した。軍艦からの「どこから来た」との呼び掛けに、コンデントは「ロンドンからだ。ブエノスアイレスへ行く」と答えた。ポルトガル軍艦から激励の歓声が起こったとたん、コンデントは全砲門を開き、また小火器の斉射を浴せた。たちまち激しい砲戦が始まり、戦闘は一時間半に及んだ。しかし相手が手強すぎるとみると、コンデントは全速で離脱を計った。「フライング・ドラゴン」号は快速船だったから難なく脱出できた。

　数日後、彼はポルトガルの沿岸警備船を捕らえた。後にこの船は、一味に乗組員四十人以上を殺され、多数が負傷したと報告している。ブラジル沿岸をさらに南下したところで、ブランデーを積んでフォークランド諸島へ向かっている備砲十八門のフランス船を拿捕した。一味はこの船をラプラタ河まで連行した。

　コンデントは野生牛を数頭獲物にするため部下を上陸させたが、彼らはスペイン軍艦の乗組員に捕らえられてしまった。艦長の前に引き立てられ尋問されると、自分たちは南海会社に所属し、奴隷を運んでいるギニア航路の船の乗組員だ、と言った。彼らはボートへ戻ることを許された。この土地で、無理やり仲間に引き込まれた五人の乗組員がカヌーで脱走した。コンデントはフランス船を掠奪し、錨綱を切って漂流させた。船は岸に乗り上げた。ブラジル沿岸の航海を続けている間に、難破した海賊船の乗組員が投獄されたという噂を耳にしたコンデントは、捕らえたポルトガル人全員の耳と鼻を切り落した。カトリックの僧を捕らえると主檣の下でミサを捧げさせ、それから四つん這いにさせて甲板中馬乗りにしたり、背中に荷物を負わせて追い立てたりした。一味はギニア海岸へ向かい、そこでヒル船長の「インディアン・クイーン」号を捕らえた。

　ロアンガ湾に入ると二隻の船が碇泊していた。一隻は備砲四十四門のオランダ船、もう一隻はボーウェン船長のイギリス船「フェイム」号だった。二隻はともに錨綱を切り、岸へ向かって逃げ出した。「フェイム」号は捕り逃したがオランダ船は捕捉した。再び海に出るとコンデントはヒル船長を釈放し、東インド諸島に針路をとった。希望峰の近くでオステンドに所属する東インド貿易船を拿捕した。この船には、ロンドンの名高い商人ナッシュ氏が荷物監督として、乗船していた。それから間もなくオランダ東インド会社の船を捕らえると、コンデントはオステンド船を釈放し、マダガスカルへ向かった。セントメアリー島でハルゼー船長の乗組員の幾人かと、その他のはぐれ船員を船に乗せた。東インド諸島へ向かう航路の途中、セントメアリー島で仲間になった二隻の海賊船とともに、ヨハンナ島でジェームズ・マックラ船長の指揮する東インド会社船「カサンドラ」号を捕らえた。コンデントは航海を続け、東インド諸島で莫大な収穫をあげた。帰路、マスカリーン島に立ち寄ると、ゴア総督を乗せた備砲七十門のポルトガル船に遭遇した。この船を獲物にし、これが現金を持っていると知ると釈放せずにザンジバルまで連行した。一味はこの地のオランダ要塞を襲って掠奪し、破壊した。要塞の幾人かの兵が仲間に加わった。一味はセントメアリー島へ行くとそこで戦利品を分配し、仲間を解散した。彼らは原住民の中に入って居を定めた。この島にブリストルのスノー船が寄港した。一味はこの船の船長に多額のかねを贈って、マスカリーン島の総督に赦免の嘆願状を届けてほしいと頼んだ。総督は、一味が自分たちの船を処分するなら保護を与えてもよい、と返答した。彼らはこれに従って「フライング・ドラゴン」号その他を沈めた。コンデントと仲間はマスカリーン島へ渡った。コンデントは総督の義理の妹と結婚し、しばらくそこで生活した。しかし私が確かな筋から聞いたところでは、彼はその後フランスに渡り、サンマロに居を定めた。そして、現在、商人として手広く貿易を営んでいるという。





27　マガドクサ漂流記



ビーヴィス船長の航海日誌、および原住民の中に捕われの身として十六年を暮らしたムラトの手記による





　一七〇〇年、ウィリアム・ビーヴィス船長は、東インド会社所属船「アルビマール」号を指揮してスラト〔インド西部ボンベイ州の海港〕へ向かっていた。数か月間の航海の後、モンスーンの逆風を受けて航路から外れ、アフリカ大陸ザンジバル沿岸まで流された。船長は、風が変るまでの三、四か月間船を碇泊して食糧を補給し、乗組員の休養もできる安全な場所を探そうと努めた。

　同年十一月九日、船長は岸に近づいて投錨した。翌十日は風が強かったが、十一日になると天候はすっかり回復したのでヨール〔船載ボート〕を出し、かなり離れた岸の二地点を調査させに遣った。陸は砂地で一面潅木が茂っていたが、人家はなく、ひとの形跡すらなかった。鹿を見かけたが発砲できる距離には近づけなかった。狼、野兎、その他の動物のふんもあったが、姿はまったく見かけなかった。水際にはおびただしいざりがにの殻があった。しかし生きているものは一匹もいなかった。何ものかがこれらのざりがにを採って食べた後、ここを殻の捨て場にしているらしかった。

　ここがまったく荒れ果てた土地だということがわかり、一行は錨を揚げた。そして岸に沿って船を進めたが、十一月十七日、遠眼鏡をのぞいていた船長は、水際に三、四人の人影を認めた。しかし家や火や煙を見ることはできなかった。さらに一リーグばかり進むと入江があった。船長はそこに河があるのではないか、と考えた。数本の高い木を認めることもできた。この沿岸を航海して初めて見る木だった。船長はここには住民がいるのではないかと考えた。

　船長は投錨した。そして三等航海士ボールドウィンに指揮をとらせ、入江に流れ込んでいる河があるかどうかボートを偵察に遣った。岸に着くと、水際近くの州の上に五、六十人の人間が立っていた。そのうちの一人がボートに近づいてきた。男は先に白い布をつけた棒を持って、それをボートの乗組員に向かって振った。乗組員たちはこれを友好のしるしだと思い、こちらからも同じ合図を送った。男は手招きした。乗組員たちは岸に招かれたものと考え、思い切って上陸した。乗組員たちのうち二人は少しばかりポルトガル語を話した。彼らはその男にポルトガル語で挨拶した。近づくと、男は非常に丁寧な身振りをした。彼の話す言葉はまったくわからなかったが、乗組員たちは、部落の小屋で食事をするよう招いているのだろうと想像した。

　しかし乗組員たちは、さしあたってここに長居すべきではない、と判断した。そして本船に戻ると、岸で起こったこと、また入江には河がないことを船長に報告した。彼らは、岸にいた人びとは非常に背が高く均斉もとれ、色は黒く、髪と髭は短く剃り、ターバンと腰布をつけていたが身体の他の部分は裸のままだった、と報告した。乗組員の一人にトルコ語とアラビア語のわかるムラト〔白人と黒人の混血〕がいた。この男は、原住民の着ているものは砂漠のアラビア人のものとは違っているから、彼らはアラビア人から派生したものかも知れないし、だとすれば彼らの言葉はアラビア語が訛ったものだと思うと言った。船長は、ムラトを乗り組ませてもう一度ボートを岸に遣ることにした。ムラトに彼らの言葉がわかれば、水や食糧が手に入るかどうか、また今吹いている東風が止むまで安全に船が退避できる港か湾があるかどうか聞けるのではないか、と考えたのである。

　その日、すなわち十九日は一日中風が強く、ボートを岸へ遣ることはできなかった。夜、陸に火影が見えないかと乗組員たちは目を凝らしたが何も見えなかった。人が住んでいる土地に昼間は煙も立たず、夜は火も見えないのは不思議だった。乗組員たちは、原住民の小屋は海岸からずっと奥地に離れているのだろうと想像した。

　翌日、ボートはムラト、四等航海士カーサー、そのほか四人を乗せて岸へ向かった。船長は奇襲攻撃に備えて武器を持って行くよう命じた。岸に近づくと数人の原住民が水際に向かってきた。しかしボートの乗組員たちが武器を手にして上陸してくるのを見ると、皆陸の方へ逃げ去ってしまい、再び近づいてくる気配はなかった。乗組員たちは内陸へ向かってしばらく進むと、海亀の甲羅で屋根を葺いた小屋がいくつかあるのを見付けた。これらの海亀は、原住民が産卵期に食糧として捕らえ、その甲羅を屋根に使ったものらしかった。また少し離れたところには牛が数頭いた。これらの牛は敏捷で、大きさはヨーロッパの鹿ぐらいだった。ほかにも幾匹かの動物がいた。しかし乗組員たちはそのまま何の情報も得られず本船に帰った。

　前にやったと同じようにボートを岸からすこし離れた場所に止めてから合図し、原住民を誘い出すようにせず、武器を手にしていきなり上陸して彼らを恐れさせてしまったのが失敗だった。ここで何かを発見できる見込みは無くなった。そこで船長は錨を揚げ、もう少し西へ進むことにした。

　十一月二十二日朝、船長は錨を投げた。そして三等航海士ボールドウィンと砲手をボートに乗せて岸に遣った。上陸地点からあまり遠くないところに小高い丘が連なっていた。航海士と砲手は一番高い丘の頂上に登ってその下の土地を眺めてみることにした。午後四時ごろ彼らは本船に帰ってきた。そして、丘の反対側には長さ幅ともおよそ五マイルほどの気持よい平原が広がっていて、鹿その他の動物は豊富のようだったが、住居等人の住んでいるしるしは何も無かった、と報告した。彼らは、かもしか三頭と大きなほろほろ鳥を二羽獲物にして持ち帰った。これらは丘の斜面の潅木地帯で多数見かけたのだという。かもしかは小さかったが非常に美しかった。身体は野うさぎ程度の大きさしかなかったが足はずっと長かった。毛の色は黒と白が混じり、なめらかで非常に光沢があった。角は三インチぐらいの長さだった。

　船は岸に沿って西に進んだ。翌二十三日、スパイグラスを覗いていた船長は岸辺に七、八人の人影を認めた。彼はボートを降ろした。ボートが近づくのをみると彼らは逃げ出した。ボートの乗組員たちは上陸してみた。少し離れたところに荷を積んだ二頭のらくだと二頭の驢馬を連れた原住民たちがいた。乗組員たちは彼らに話かけようとした。しかし彼らは乗組員たちが近づくと家畜を追い立てて急いで行ってしまった。

　翌朝は非常によく晴れた。スパイグラスを覗いていた船長は、西の方に高い塔がいくつか見えたような気がした。彼は錨を揚げ、西へ進んだ、午後四時、大きな街がはっきり見えた。六時、船は街を正面に見て投錨した。船長はその夜はボートを出さず、翌朝、三等航海士ボールドウィン、事務長セール、そして前にも話したトルコ語とアラビア語のできるムラトのほか四人の乗組員をボートで陸にやった。ボートには白旗を掲げ友好的な態度で近づき、とげとげしくあるいは攻撃的に思える言葉や行為は一切慎むよう命じた。ボートは岸に着いた。しかし原住民たちは乗組員を迎えるかのように集まっていて、非常に礼儀正しい様子だった。ムラトは、アラビア語で、自分たちが航路を外れてこの沿岸に流され水に困っていることを説明し、水のある場所を教えてほしい、と頼んでみた。また、新鮮な食糧を提供してもらえたら、かねでもあるいはヨーロッパの珍らしい品物と交換ででもそれを買うつもりだ、と言った。

　彼らの言葉はアラビア語の一種だった。ムラトは彼らと完全に意志を通じ合うことができた。彼らは、今は王が街に不在だから何もできないけれど、船が入ってきたことはすぐ知らせたから、今夜にでも王は帰ってくる、と答えた。そして、必要なものはすべて提供されるであろうと言い、良い水が湧いている場所も幾つか教えてくれた。これらの場所は海岸からかなり離れていて、付近の土地は岩が多くでこぼこだった。ムラトは、そのような長い悪路を水樽を転がしてゆくのは困難だから、海に近い清水はないものだろうか、と聞いた。彼らは、そのような清水はないけれど、水樽をボートまで運ぶのには王が牛を提供してくれるだろう、と言った。乗組員たちは、王子からの贈り物というなつめやしのジャム、つぼに入れた甘味、それに羊四頭をみやげに本船に帰った。

　翌二十六日朝、船長は、王が帰ったかどうか、水をもらえるかどうか知るため、昨日と同じ乗組員を陸へやった。そして水を補給する許可を得たら、大型ボートを岸へ向けるから合図するよう命じた。間もなく、岸へ向かったボートから打ち合せてあった合図があった。大型ボートが岸に向かった。それからしばらくして、船長は最初の連中が戻ってくるのを認めた。帰ってきたボートには四人が乗っていた。彼らは、間もなく王子から船長への贈り物の牛を積んで大型ボートが戻ってくる、と報告した。そして、三等航海士ボールドウィン、砲手、それに操航手のムラトはシュバンダー（彼らは王子の名をこう呼んだ）に食事に招待されて行ったけれど、船長もシュバンダーに何か返礼をした方がよいと思う、と言った。

　船長は彼らのあまりの軽卒さに驚いた。彼は乗組員らに、原住民の裏切りには十分警戒するよう言い、そのために武器も持たせ、海岸からあまり離れないよう命じておいたのである。しかし今となってはどうしようもなかった。船長は王子への贈り物として小型望遠鏡（アフリカでは非常に珍重された）を持たせ、再びボートを岸に遣った。そして一人だけが贈り物を持って原住民のところへ行き、航海士、砲手そしてムラトに至急帰るよう伝え、残りの乗組員はボートに乗って岸から少し離れ、武器が見えないようにしかしいつでも使える用意をして待機しているよう命じた。

　船長がスパイグラスで眺めていると、ボートの乗組員は再び命令に反して全員上陸するのが見えた。しばらくしてからもう一度眺めると、マストもなく人も乗っていないボートが陸へ引き上げられていくのが見えたが、やがてそれは視界から消えていった。

　船長は部下の妄動にひどく不安を感じた。彼はこの海岸の一部には人喰い人種が住んでいることを知っていたから、彼らの命にかかわるようなことが起こったのではないかと心配した。そして、一度に多くの危険を冒すのを恐れ、ボートが何か知らせを持ってくるまで大型ボートは岸に出さないことにした。

　この日一日、船長は極度の不安のうちに過した。乗組員の一人に命じ、スパイグラスでずっと岸を見張らせたが無駄だった。一日じゅう乗組員の姿もボートも岸には現れなかった。その夜、船長は上陸した乗組員の身をあれこれ想像し寝つかれなかった。翌朝、彼は一等航海士ニンと幾人かの士官に、陸の様子を見に行かせた。同時に、原住民が近づいてきたら白旗を掲げること、上陸はせずボートから彼らに話したり合図したりすること、そして仲間が抑留されている理由を聞き出すようにすることを命じた。さらに、彼らが乗組員を拘禁していたり、あるいは奴隷にする様子だったら、ムラトを通訳にして、身代金を払う交渉をするように言った。

　ニンは命令を忠実に守り、岸に近づくと停船してマストの先に白旗を掲げた。このとき街の方から大勢の原住民が集団で海岸へ向かってきた。船長も本船からスパイグラスでこれを見ていた。原住民の数は四、五千にもなろうかと思われた。彼らは交渉するためにボートに近づくことはせず、正面にある砂州の陰まで行進していって、そこで待ち伏せの態勢をとった。ボートに対しては何の合図も返さなかったし、話し合う様子も示さなかった。

　明らかに彼らはボートの乗組員が上陸したら奇襲をかけるつもりらしかった。これをみて、ニンは帰船を決意した。岩礁を縫って航路を探しながら、海岸に沿って進むと、岸からは矢を雨のように射かけてきた。しかしどれもボートまでは届かなかった。ニンは敵が砂州を盾にしていて、攻撃しても損害を与えることはできないとわかっていたが、乗組員に威嚇発砲を命じた。こうして彼は本船に戻った。

　船長はもはや陸へ行った乗組員には会えないものと絶望した。せめて奴隷になってでも生きていてくれたらと思うのが精一杯だった。部下たちが原住民を信用していたので、悲惨で残酷な運命に遭ったとはまだ思わなかった。彼は、部下たちの身に何が起こったのか知るため、もう一つの試みをしてみることにした。もし部下が生きているなら、だれの身をも危険に陥れることなく彼らの情況を知る計略を思い付いたのである。彼は一通の手紙を書いた。そしてそれを長い竿の先に結びつけ、夜のうちに海岸に立ててくるよう部下に命じた。乗組員は竿を海岸に立てると、さらに目に付き易くするため、それに旗も結びつけておく手はずだった。陸の乗組員たちに行動の自由があるなら必ずこの手紙を見つけるだろうし、また行動の自由を奪われている場合でも、原住民は手紙を読めないから、彼らのところへ持って行くだろう。船長はこう考えて疑わなかった。

　手紙の中で船長は三等航海士ボールドウィンと主計セールに、ムラトを含めた五人の乗組員の身代金について原住民と交渉するよう勧めた。それ以外自由になる方法はないのだから、どんな条件でも応ずるつもりだと書いた。返事は同じ竿に結びつけておくよう指示し、書くものがないことを考えて鉛筆と紙を同封した。そして、返事のあることを期待して、原住民の待ち伏せに遭わずにそれを取ってくることができるように、砂州から離れた水際に竿を立てるよう命じた。

　これが、不運な同胞を救うために考えうる最善策だった。しかし、救出はすでに手後れになっていたのである。ボートが出された。二人の乗組員が手紙を結びつけた竿を立てると急ぎボートに戻った。一行は、岸から少し離れた地点に碇泊して、手紙を見守った。正午まで待ってみたが何も起こらなかったので、本船に戻って休息をとるため錨を揚げた。本船に向かって間もなく、一人の男が竿のところへやってきて、それを持ち去るのが見えた。しばらく岸に沿って航行し、例の砂州の正面まできたとき、突然マスケット銃の一斉射撃に見舞われた。一発の弾丸はボートの底に落ち数発は至近距離に落ちた。一行は全速で本船に向かい、船長に報告した。

　原住民が使った武器は、ボートに積んであったものだった。彼らは武器とともに、弾薬箱を六箱見つけた。彼らがこれらの武器を使ってボートに攻撃を仕掛けたということは、彼らが話合いに応じたり、乗組員の釈放に耳を貸す意志を持たないことを意味すると船長は確信した。それでも、手紙の返事になる合図が何かありはしないかと監視を続けた。いつまで待っても何も起こらなかった。船長は、乗組員たちの身に何か不幸がふりかかって、もう彼らとは会えないのではないか、と考えざるを得なかった。しかしこの絶望のどん底にあって、僅かな気安めになるような考えが浮んだ。恐らく部下たちは街に連れて行かれたのだろうが、王がまだ帰っておらず、原住民が手紙を届けるのも彼らが連れて行かれた後だから返事も遅れているのだろう。この微かな希望に縋って、船長はもう幾日か待ってみることにした。部下を見棄てて出帆するよりは、希望を繋いでおきたかったのである。

　来る日も来る日も何か返事があるのではないかと期待して待った。そして合図があったらいつでも対処できるようにボートを岸の近くに碇泊させた。ある日、街から大勢の原住民が繰り出してきた。ボートの乗組員は彼らが仲間を引き渡してくれるのかと期待した。そして休戦旗が掲げられるのを今か今かと待った。しかし期待に返し彼らはそのまま砂州の裏側へ行進していった。待ち伏せの態勢についたようだった。

　ついに望みも失せたように思えた。ボートの乗組員は本船に戻って船長に報告した。船長は幹部船員を召集して、仲間を救出するために何か策はないか意見を聞いた。一人が、ボートを岸へ遣って、水際に舫ってある数隻のジャンクを焼き払ってしまったらどうか、と提案した。しかし船長は、そうすれば腹癒せにはなるだろうが、捕虜を救出することにはならず、逆に原住民を刺激して、もし仲間がまだ殺されていなかったら、かえってその死を招くようなことになると考えた。そればかりか、ジャンクが舫ってある場所は砂州からあまり離れていないから、ボートの乗組員は矢の攻撃に曝されることになり（原住民は今や常時待ち伏せをしていた）、彼らや不運な仲間に利するところは何もなく、ただ被害を増すだけだろう。

　こうしてこの提案は退けられた。激しい風が頻々と吹いた。船長は、もはやこれ以上この遮蔽物のない泊地に留まるのは危険と判断した。十二月四日、彼は錨を揚げた。そして荒天を避けられるような湾か入江を探しながら海岸沿いに船を進めた。彼はまだ仲間が脱走してくるか、あるいは原住民の心が解け身代金で捕虜を釈放する気になることもあろうと考え、彼らをいつでも迎えられる距離にいようと思ったのである。三、四時間ゆっくり前進してから、船長は投錨を命じた。マガドクサの街は東北東の方角になった。海岸は平坦で船が退避できるような湾はなかった。翌十二月五日、船長は船を沖に出し、幹部船員と今後どうすべきか協議した。ここには安全な泊地がなく、沿岸をずっと下って適当な湾があったとしても、それは気の毒な仲間にとって何の役にも立たない。奇襲や裏切りの恐れがあるから、原住民から食糧を購入するわけにもいかない。また、新鮮な食糧が不足して乗組員が弱り、病気になりかかっている。これらを勘案して、彼らはヨハンナ島へ向かうことに決定した。仲間の運命は不安で心配であったけれども、神の御手に委ねるほかなかった。

　この事件さえなければ、彼らの航海は愉快なものだった。しかし彼らとはここで別れ、陸で何が起こったのかを話そう。以下の記述は、蛮人の中で十六年間を過した後脱出してたった一人イギリスへ帰り着いたムラトの手記に拠る。





　三等航海士ボールドウィンと主計セールが、十分警戒するようにという船長の命令を守らず、軽卒にも王の息子の食事の招待を受ける気になったことは前にも話した。彼らはいったんボートを本船に帰し、自分たちは、ムラトを通訳として連れ、街へ向かった。王子の名で彼らを招待した数人の原住民が付き添った。街の最初の門へ到着したとたん、一行は大勢のものに取り囲まれ、門の下にある小さな入口から暗い土牢に無理やり閉じ込められてしまった。二時間ぐらいすると外で大きな物音がし、間もなく牢の戸が開いた。彼らは再び外へ引きずり出された。外へ出てみると物音の正体がわかった。王子への贈り物を取りに本船へ帰した仲間が戻ってきたところ、大勢の原住民に捕らえられたのだった。しかしすぐ見失ってしまった。捕らえられた乗組員たちは離れ離れにされた。ムラトは、一体これはどうしたことか、なぜこんな目に遭うのか聞こうとした。しかし原住民たちは、アカボのところへ連れて行くのだ、と答えるのみだった。（彼らは王のことをアカボと呼んだ。王は、原住民が言っていたこととは違って、実際は街に居たのである。）彼は大勢の護衛に引き立てられて王の住居に向かった。彼はそこで仲間に再会できるだろうと思った。

　王の住居（これについては後に述べる）に着くと、ムラトはいくつかの部屋を通って王の居室に通された。居室の床は地面に直接敷物を置いただけのもので、王はそこに座っていた。そして青みがかった紫の絹で作った足先まである長いズボンをはいていた。靴や靴下は身につけず、同じ絹で作った大きな外衣をまとい、頭には白いターバンを巻いていた。王の周りには八人の従者が座っていた。彼らの服装は王と同じだったが、ズボンと外衣は絹ではなく、青と白の縞のてんじく木綿だった。彼らは王の顧問とお気に入りたちだった。王はムラトに、「おまえの国はどこか」と一種のアラビア語で尋ねた。ムラトは、「中国の広東です」と答えた。王はさらに、「どうしてあの恐ろしい白人たちの仲間になったのか」と聞いた。この質問にムラトは脅えた。しかし仲間の白人たちは礼儀正しく立派な人びとであり、また船長は王が同意すれば必ず自分たちの身代金を払ってくれるものと思うと言った。王はこれには答えず、おまえたちの船はどんなものを積んでいるのかと聞いた。ムラトは船の荷を説明した。王はさらに、残りの乗組員も上陸するつもりなのか、と聞いた。ムラトは、それは自分にはわからないけれど、自分たちを本船に帰してくれるなら、彼らも上陸すると思うし、船長自身も王に会いにくるに違いないと答えた。しかし王は釈放のことは口にせず、ムラトを牢に戻すよう命じただけだった。

　原住民がホーローブと呼ぶ牢は、高さ二十フィートで、屋根の平たい石造りの四角な建物だった。そして正面が大通りに面していた。われわれの知っている牢と違って窓も鉄格子もなく、八、九インチ四方の小さな穴が幾つか壁に開けてあり、明りと空気を取り入れるようになっていた。ムラトは仲間の身がひどく気懸りだった。土牢から引き出され離ればなれになって以来、彼らとは会っていなかった。一人の老人が壁の穴から牢の中を覗いた。ムラトはこの老人に仲間のことを尋ねた。老人は次のような気の鬱ぐ話をした。王子の贈り物を取りに船に戻って、最後に上陸した四人は、道で大勢の原住民に囲まれて殺された。彼らは八つ裂きにされ、原住民一人ひとりがその肉片を手にして歓喜した。多くのものがそれを食った。（老人は二オンスほどの肉片を見せた。大きな肉片を持っていたものから分けてもらったのだと言った。）原住民は子供のころから白人は憎むべきものだと教えられていた。そしてムラトたちが彼らの最初に見た白人だった。ムラトとともに土牢に入れられていた背の高い男と背の低い男（ボールドウィンとセールだった）は王の命令でボディゾー（王の楽しみのために虎その他の猛獣を飼っている場所だった）に連れて行かれ、それらの獣の餌食にされた。

　これが、不運な乗組員たちの残酷な殺害の偽らぬ話だった。ムラトは自分自身も酷い死に方をするのだろうと想像して錯乱し脅えた。時には、自分は混血だから命は助けてもらえるだろうと考えて自ら慰め、またある時は、白人のことをよく言ったからそれだけで十分殺される理由になると考えもした。

　彼は疑心と恐怖の間を揺れ動きながら夜を過した。彼の監禁されている部屋は用便の設備もなく汚物にまみれていて、平静な心であったらとても眠れるような場所ではなかった。朝になった。一人の男が壁の穴から覗いた。男は満面に嬉しさを見せ、もっと多くの白人が上陸してくると言った。男は、ムラトにとって良い知らせだとしてこれを話したのではなく、より大勢の白人を殺すことができる喜びを語ったのだった。ムラトは彼らにここで起こったことを伝え、用心するように言ってやりたかった。しかしこれは自分の心の中に止めておく方が安全だった。彼は何も口にしなかった。数時間後、彼は再び王の前に呼ばれた。彼はとうとう処刑が近づいたと覚悟した。しかし王の面前に出ると、一通の手紙を手渡され、何が書いてあるのか話せと命ぜられた。白人たちがやってきてこの手紙を結びつけた竿を海岸に立て、話しかける間もなく再び帰っていったのだという。ムラトは一読した。船長からの手紙で身代金に関するものだった。一瞬ムラトは考えた。もし王に手紙の内容を説明したら、連中は何かはかりごとをめぐらして、もっと多くの乗組員を岸に誘おびき出だし殺そうとするだろう。しかも仲間はすでに殺されていて身代金は役に立たない。彼は、自分は白人の文字を知らないから何が書いてあるかわからない、と言った。王は、海岸からすこし離れて碇泊しているボートの白人たちを説得して上陸させられるかと聞いた。ムラトは、王が望むならやってみましょうと、答えた。王は顧問たちと何やら相談していたが、結局それについては何も言わなかった。ムラトを信用するのをためらったのである。実際、彼はボートの仲間に何が起こったか告げ、原住民が自分をしっかり掴えていなければ、海に身を投げてボートまで泳いで行くつもりだった。ボートからは銃で掩護してくれるに違いなかった。しかし原住民は彼にそのような機会を与えてくれなかった。

　それから王は、ボートから奪った銃を一丁持ってくるように言い、ムラトにその使い方を説明するよう命じた。ムラトは止むなく銃の使い方を教えた。それからすぐ後で、彼らは奪った銃を使ってボートを射撃した。これは前に話したとおりである。ムラトは牢に戻された。彼は牢番（彼らの言葉でカスブーといった）に、王は自分のことをどうするつもりなのか、と尋ねた。牢番は、王はお前を白人たちのように殺すつもりではないと思う、と言った。「なぜって、俺はお前に食い物をやるように言われているからさ」。これを聞いて、ムラトの沈んだ心に少し元気が出た。牢番はバナナを差し入れてくれた。上陸以来初めて口にする食べ物だった。この食べ物とアラボ（水差しのような容器だった）の水で元気付くと、ムラトは、何か部屋を掃除できるようなものをもらえまいかと言った。牢番は木の枝を束ねたものを持ってきてくれた。これはトシーといって箒の用をした。これとシャベルのようなものを使って、ムラトは自分の部屋をきれいに掃除した。終ってふと見ると一人の老人が穴からこちらを見ていた。ムラトはこの老人と話し込んだ。そして船はもう出て行ったかどうか聞いた。老人は、船はまだ出帆していないと答えた。別のボートが陸から離れたところに碇泊していて、大勢のものが乗組員を待ち伏せしているという。ムラトはパルマタの葉を床に敷きたいから、二、三枚持ってきてほしいと頼んだ。老人は頼みを聞いてくれた。その夜は快適に休むことができた。

　翌朝、ムラトは再び王の前へ呼び出された。王は、例のマスケット銃でコウェイを殺せるか、と聞いた。ムラトはできると答えた。彼はそのような役目を命ぜられて嬉しかった。これで王を満足させるか、少なくとも気に入られるかして、命は助けてもらえるのではないかと考えたのである。彼は河岸に連れて行かれた。王も皆と一緒に見物した。一丁のマスケット銃がムラトに渡された。彼は弾丸を強く打ち砕いて散弾のようにした。自分の命がこの射撃にかかっているかも知れず、とても一発だけで的を射る自信はなかった。こうして彼は銃を撃ち、最初の一発で一羽のコウェイを殺した。王はすこぶる喜んで、再び銃に装填させると、今度は自ら別のコウェイを狙って撃ち、これも殺した。

　コウェイというのは白鳥ほどの大きさの、姿もいくらかそれに似た美しい鳥である。身体は乳白色であるが、頭と尾には多様な色をした房があった。くちばしは少し曲って不揃いであり、足はあざやかな黄色である。この鳥はいつも大群をなして水辺に生活し、年に四回産卵する。そして一回に十四、五羽の雛をかえす。この肉は臭みはまったくなく、非常に美味である。

　射撃が終るとムラトは牢へ戻された。帰路、彼は、すでにかなり親しくなった牢番に、王は自分をどうするつもりなのか考えを聞かせてほしい、と言った。牢番は、王は船（彼はシャビューと呼んだ）と白人が行ってしまうまでお前を監禁し、それから自由の身にして何か仕事を与えるつもりではないかと思う、と答えた。牢番は前よりずっと親切な様子だった。牢へ着くと、彼は炊いた米に油をかけたものをパチュー（皿のことを彼らはこう呼んだ）に盛って持ってきてくれた。これは大そうな御馳走なのであった。牢番はまた大きな水差しアラポを二つ置いていった。飲み水と部屋の掃除用に十分な量だった。その夜、ムラトはぐっすり眠った。

　ムラトは本船が出帆してくれればいいと思うようになった。もはや脱出の見込みはなく、船が去れば自分もかなり自由になれそうだからであった。翌朝、パルマタの葉を持ってきてくれた老人が壁の穴から顔を見せた。ムラトは船がまだ碇泊しているかどうか聞いた。老人は、船はまだ碇泊しているから、大勢のものが砂州の後ろで待ち伏せしていると言った。彼らはボートから奪ったマスケット銃や、弓矢で武装し、白人が上陸したり近づいたりしたらいつでも射かけるつもりだった。ムラトは、何かあったり、特に船が出帆したら知らせてほしいと頼んだ。モラサブというこの親切そうな老人は約束し、夜（彼らの言葉でラハムといった）になったら戻ってくる、と言った。

　しばらくして牢番が朝食のバナナを持って来た。彼は小さな裏庭へ続く戸を開けた。そこには湧水が流れていた。彼はムラトに、この場所は出口がなく、逃げ出すことはできないから、部屋を掃除するなら自分のアラボに自由に水を汲んで持って行けるよう戸を開けておいてやろうと言った。夕方、再び牢番が炊いた米と油を持って来た。そして裏庭へ通じる戸を閉めて帰っていった。

　約束どおりモラサブが壁の穴から顔を見せた。そして、船はまだ碇泊しているけれどボートは来なかった、と教えてくれた。翌朝、モラサブは再びやって来て、船が出帆した、と大喜びで話した。間もなくいつものように牢番が炊いた米を持って来て、船について同じ話をした。

　この土地を離れる望みはまったく失われた。しかし、ムラトは牢から釈放され自由の身になることを期待した。自由こそ、人間にとって最大の愉悦である。夕方、モラサブがやって来て、船はすっかり視界から遠ざかり、王は、白人たちが水や食糧の補給のために別の土地に上陸する場合に備えて、一隊を東の海岸に、もう一隊を西の海岸に遣ったと教えてくれた。翌日、老人は再び姿を見せ、船はずっと西の方に望見できたが、乗組員は上陸しなかったことが王に報告されたと伝えた。翌々日、また老人がやって来て、船はすっかり視界から消えてしまったと王に報告されたと言った。

　これを聞いて、ムラトは自分はすぐ釈放されるのではないかと思った。しかし彼は、さらに十日間も拘禁されたままだった。後にわかったことだが、船が岸近くを遊弋していて、ムラトを自由の身にしたら隙を見て船に逃げるのではないか、と王が用心したからだった。船がすっかり遠のいたと確信できると、王はムラトを呼んで、自由になりたいか、脱走したりしないか、と尋ねた。ムラトは、絶対脱走したりしないと約束した。実際脱走など不可能なことだったから、どんな試みも今となっては無駄なのであった。王は彼に、自分の近くに仕え、他の従者たちと一緒に住むよう命じた。同時に、街から外へ出てはならぬと厳命した。

　ここでの生活に不快なことは何もなかった。仕事は簡単で、することはほとんどなかった。彼の主な仕事は王の食事を運ぶことだった。王は地面の上で食事をした。布の代りにござを床に敷くこともあったし、何も敷かないこともあった。食事は普通、炊いた米と、ときに鹿、ときに山羊の肉を焼いたものが供された。またさまざまな種類の鳥も食された。これらはヨーロッパのものより小さかったが、すばらしく美味だった。種類のわからない鳥もあった。牛肉や羊肉も美味だった。魚の種類も豊富だった。原住民はこれらを焼いたり煮たりして料理した。王はカジャンという胡椒のほか、ソースは何も使わなかった。原住民は大低の場合熱い料理を食べ、炊いた米がパンの代りだった。

　ムラトは王の食事の残ったものを好きなだけ食べることができ、暮しは豊かだった。彼ほどさまざまな食べ物や飲み物を味わえるものはほとんどいなかった。一般の人びとの食べ物はバナナ、炊いた米（パシダといった）と油、そしてバナナと米を一緒に煮たカジャというものだった。鹿や山羊を自分たちで殺して食べることもときにはあった。人びとは煮なべから直接食べた。皿を使うのは身分の高い人びとに限られていた。魚や肉を焼いたときはそれを炭から取り出して食べた。火傷をしないように、生木の枝を二つに割って端を結び合せたものを使った。これはフォークの用をすると同時に、火の上で肉を返したり、焼けたらそれを取るための火ばしの役をした。王はナイフとフォークを使うことを知らなかった。肉を裂くときは指を使ったが、それが非常にうまく、面倒なことではなかった。

　二か月間、ムラトは宮殿から外へ出ようとはしなかった。しかしある日、用事で街へ行く従者に、一緒に行こうと誘われた。そして、ムラトがときどき外出しても王の機嫌を損じたりはしない、と言った。これに勇気を得たムラトは、それ以後王が習慣にしている昼寝の時間を選んで、ほとんど毎日街へ外出するようになった。彼は三、四か月間この自由を満喫した。数時間も宮殿を留守にしたこともあったが、何も咎められることはなかった。街に幾人かの友人もでき、ヨーロッパ人の間で長く暮らしていたものにとっては見るもの聞くものすべてが珍しく、好奇心を満足させることもできた。

　観測したところマガドクサの街は緯度一度五十一分に位置していた。街は二つの丘の間、というよりそれらの両斜面にあり、その大部分が海に面した丘の裏側の斜面にあった。だからこの水路を通る船――といっても「アルビマール」号の場合のように、荒天でこの海岸に漂着したもの以外はほとんどなかった――から見られることもなかったのである。原住民たちは漁に使うジャンク以外の船を持っていなかったし、それもせいぜい十隻乃至十二隻程度だった。十三人から十四人ぐらい乗せられるジャンクもあったが、彼らは岸を遠く離れて航海しようとはしなかった。

　街には三、四千戸の家があった。粗雑な石造りのものもあり、またこの土地に多く産するさまざまな色の大理石で造ったものもある。しかし彼らは大理石を磨くことを知らなかった。最も立派とみなされているのは、石で造り、その上をこの土地特産の粘土で塗ったものである。塗った粘土は三日もすれば乾き、石と同じぐらい堅く丈夫になる。珍しいのは、人びとがそれを自分の好きな色に塗ることである。身分の高い人びとの家はすべてこのような粘土で塗られ、それが白、赤、黄、青などの色をしていたから、見た目にも非常に奇麗だった。王の住居は緑であり、内部の床も同じ粘土だった。部屋は各々別の色に塗り分けてあった。この変化に富む色彩のおかげで、道が狭く不潔であったにもかかわらず、街は非常に美しかった。

　家々の明るい外観にもかかわらず、部屋の中には家具類は何もなく、蜘蛛の巣だらけといった有様だった。人びとはテーブルも、椅子も、食器類も持っていなかった。実際彼らはござを床に敷き、昼間はそれをテーブルクロスとして使い、夜は枕なしでその上に横になり、上にはモカズと呼ぶ厚手の粗布をかけて寝るのである。モカズというのは木の名前である。その樹皮を打って長い繊維にし、木製の細い針を使って、用途により厚くも薄くも織り上げるのである。仕上がりはこの種のものとしては非常にすばらしく、イギリス製のブロードのように滑らかで柔らかく、しかもずっと丈夫なものを作ることができる。

　原住民の家にはガラス窓のようなものは何もないが、各部屋には丸や四角の大きな穴を開けて空気と明りを採り入れるようにしている。そして日中は多数の穴を開けた厚い板で覆い、太陽の熱を防いでいる。煙突の設備はない。大きな家には調理室がある。床の片隅で火を起こし、料理人は煙にいぶされながら炊事するのである。一般の人びとは戸外で火を起こすことが多い。米や魚を調理せずに食べることはないからである。しかし調理や火を起こす労を省くために、肉は生で食べることが多い。

　王は身の周りに護衛をつけることもなく、偉ぶったところはまったくなかった。そして前に説明したような服装で、靴や靴下も履かずよく街に出た。人びとは王に出合っても特に敬意を表したりすることもなく、通り過ぎた。人びとには遠慮という考えがない。だから、男女を問わず道で用便するのを憚かったりしないし、多分王が通りかかっても平気でいるであろう。それでも王は、世界のどんな君主にも引けを取らず人民を統治しているのである。

　高位の人びとも王と同じように気軽に出歩いた。彼らは頭にしたターバンでそれと知れた。一般の人びとも比較的裕福なものは色とりどりの帽子をかぶっているが、それ以外のものはまったくの裸である。

　王妃も護衛や従者をつけずに街を歩いた。彼女のあでやかな服装は見る人の目を惹き付けたが、それがなければ、人びとは王に対すると同様、何の注意を払うこともなく通り過ぎただろう。普段、彼女は紫か緑の絹の上衣を着、それを腰のところで結んでいた。裾は足まで垂れていた。髪は白、赤、緑など色とりどりの羽で飾っていた。しかし他のものと同じく彼女も裸足だった。貧しい女たちは素っ裸だったが、それを恥ずかしいと思ったりはしなかった。

　身分の高い人びとの妻たちは王妃と同じような服装をしていたが、色彩はそれほどあでやかでも豊かでもなかった。しかしどんな場合でも彼女らは胸を露わにしていた。子供を持つ女たちの乳房は腹まで垂れ下っていた。それをわざわざ見られるように露出しているということは、それが美しいものとされているらしかった。また、女たちは乳首を赤く塗っていた。これが、女たちがするただ一つの化粧だった。彼女らにとって、出産は何の苦痛も伴わない。産褥の床につくのは一時間足らずである。

　王は、気晴らしに遠出するときだけはきらびやかに堂々と着飾った。そして象の背に乗ると、お気に入りたちを連れて出発するのである。象の背には八フィートから十フィート四方の木枠を取り付けてある。そこに王は従者とともに、部屋に居ると同じようにくつろいで座るのである。そして二人の召使が歩いてこの象を引いて行くのである。こんな場合、一行は人混みを分けて進むのであるが、だれも立ち止って礼をしたりはしない。王もそれを期待する様子もなく、臣民は君主の威光に畏怖すべきであると言ったりすることもなかった。ヨーロッパの君主たちには見られない見識である。

　王は自ら最良の判断力と力量に従って公正な政治をすることで、人びとの心からの敬愛を維持していた。そしてこれがうわべだけの、しばしば軽侮や憎しみを底に秘めた尊敬より好ましいことを人びとは知っていた。王は裁判官も兼ねていて、争いがあると（実際には極く稀であった）、自らそれを審理した。王の周りには顧問ともいえる七、八人のものが座していて、王を助けた。だれかが、賄賂や報酬や裏取引によって王の裁定に影響を及ぼすなどということは、考えられもしなかった。

　死刑の判決が下ることはめったにない。これは、米、バナナ、油等を除けば、人びとの食糧はすべて狩や漁で得ているから、盗みの必要がほとんどないからである。しかし死刑の判決を受けたものは、腹を空かせた虎、豹、鰐などの猛獣を飼っているボディゾーと呼ぶ檻に投げ込まれるのが普通である。

　ボディゾーにはこれら以外にも、この土地に特有の動物が多数いた。オーガゼットという動物は象に次ぐ大きさである。白というより黄がかった色をしていて、黒い血管のような縞が走り、黒い斑点がある。顔は猫に似たところがあり、長く鋭い爪を持っている。野生のものは非常に狂暴であるが、飼い馴らすと犬のように大人しくなる。

　ボジーという両棲類は河辺に生活し、主に魚を捕食している。これは長いくちばしを持ち鳥と同じ姿をしていたが、飛ぶための羽はなく、毛の代りに樹皮に似た堅いうろこで全身が覆われている。これは矢も通らないほどである。足は太く、身体と同じようにうろこで覆われ、鋭い爪が生えている。原住民は、夜、河の近くを通ってどこかへ行かなくてはならないときは特にこの動物を何よりも恐れる。これは非常に獰猛貪食で人間でも動物でも襲いかかるという。

　マッソーという動物も非常に大きな両棲類である。ボジーのように身体はうろこで覆われているが、色はそれと異なり赤味がかっている。くちばしもボジーのそれと異なり、短く鳩のくちばしのような形をしている。これは臆病で、ちょっと物音がしただけで水に飛び込んでしまう。雑草を常食としている。

　サチューというのは、黒褐色をしたライオンぐらいの大きさの動物である。身体全体に黒い部分があり、背中には角のように堅い皮がある。狂暴な眼付きをして、いかにも恐ろしげであるが、実際は子供でさえこれを脅すことができる。人間の姿を認めるが早いか、これはたちまち森に逃げ込んでしまうのである。

　ボディゾーへ行って動物たちが遊ぶのを見るのが王の気晴らしの一つだった。動物たちは完全に飼育係の命令を聞き、犬のようにさまざまな芸を教え込まれていた。実際、午睡を気晴らしのうちに数えることができないとすれば、ボディゾーを訪れることは王のほとんど唯一の楽しみであった。象で遠乗りすることはめったになく、それを楽しみに入れることはできなかった。

　安逸、豊穣、そして熱暑のせいで、人びとはおおむね怠惰だった。彼らは隣国とまったく交易しなかったし、それを望みもしなかった。国内には多少の行き来があった。捕らえた山羊や鹿を布と交換するのである。金や銀も国内で産するが、品質は粗悪である。彼らは、白人に対して以外は残酷な様子はない。彼らは子供のころから、見たこともない白人に対する憎悪を教えられている。これは、ずっと昔、白人がこの土地を侵掠して、ありとあらゆる残虐行為を行なったという言い伝えによるのである。（彼らは文字による記録を持っていなかった。）実際、ポルトガル人がインドを発見したころ、この土地にも上陸して原住民を奴隷のように扱い、それがこの伝説となり、以来今日まで白人に対する生来の憎しみの原因ともなっているらしいのである。

　ムラトは、外界と交易も交流もしないこの不思議な人びとの風俗や習慣を観察して楽しんだ。ある日街を歩いていると巨大な鳥が音もなく近づいてきたので仰天し、身の毛のよだつ思いをした。これはピオンという鳥だったが、それまで見たこともなかった。だから、これは飼い訓らされて危害を加えたりはしなかったけれど、彼が驚くのも無理はなかったのである。

　ピオンはどんな鳥とも異なった姿をしている。色は白っぽい茶で、翼の先端には黒い羽根と赤い羽根が五本ずつ生えている。これらは一フィート以上もの長さがある。足は明るい赤で、身体の大きさに較べて短く、三フィート余りである。首は非常に長く、足の先から頭までは、十フィートもある。山で産卵し、一度に二個の卵しか生まない。そしてこれらは必ず雄と雌である。人びとはこれを雛のうちに捕らえ、道に放し飼いにして見て楽しむのである。なぜなら、この鳥は悪さをせず、何でも食べるからである。

　ムラトは人びとの鷹揚さに力を得、自分に課せられた制限を無視して行きたいところへ行ってもよいのではないかと思うようになった。そしてある日、好奇心にかられ街の外まで歩いて行った。多くの人びとがこれを見ていた。翌日、王が険しい顔付きで「おまえは街の外へ行ったな」と聞いた。ムラトは王の顔付きを見、また街の外へ出ることを厳禁されていることでもあったから、怯えて返事もできずにいた。王の息子が微笑しながら「なぜ答えぬ」と聞いた。ムラトは我に返ると勇気を奮って「行きました」と答えた。すると王は楽しそうな表情で「ムーアザックを見たか」と聞いた。ムーアザックとは墓のことである。ムラトは「見ません。だけどムーアザックのことはよく聞きますから非常に見たいと思っています」と答えた。このときは、これ以上咎められることもなく終った。

　翌日午後、王は象の背に乗り、ムーアザックへ行くから付いてこいとムラトに命じた。ムーアザックは王の先祖の記念碑であり、街から三、四マイル離れたところにある。これらの墓の立派で美しいことは、造ったのが野蛮人であることを考えると、ほとんど信じられないぐらいである。ムラトはその途方もない壮麗さに茫然とした。王はムラトが驚いているのを見て愉快そうだった。そして「気に入ったか」と聞いた。ムラトは「生まれてからこれほどすばらしいものは見たことがありません。このようなものがここにあると知ったら、世界中から人びとが見にくるでしょう」と答えた。王はさらに白人の墓について、またムラトが行ったことのある国々の葬儀について質問した。ムラトはできる限りの説明をし、なおこれらの記念碑の美しさは世界のどんな墓よりも優っていると言った。王は「お前は火薬の作り方を知っているか」と聞いた。ムラトは「知りません。あれは白人が作るもので、私は彼らのやり方を知らないのです」と答えた。ムラトは、この国の人びとは白人に対して敵意を抱いているから、白人に敬意のある話し方をしたら偏見を持たれると考えて、このように答えたのである。この日の会話に王は大体満足した様子だった。ムラトは王にもっと気に入られるようになることを想像した。

　しかし二、三日後ある事件が起こり、ムラトは再び恐怖を味わうことになった。いつものように外出すると、彼は思い切ってムーアザックまで行ってみた。それを見ることに非常な喜びを覚えたのである。これがたまたま彼の呼ばれたときだった。彼が王の邸内にも街にも居ないことがわかると、数人のものが分かれて捜索に出た。そのうちの一人がムーアザックの中にいるムラトを見つけ、連れ戻した。王の機嫌を損ねたと知り、ムラトは慄然とした。王は憤った声で「どこへ行っていた」と聞いた。ムラトは「ムーアザックへ行っていました」と答えた。王は捜索に出ていたものたちに「本当か」と聞いた。彼らは「確かにムーアザックで見つけました」と答えた。これを聞いて王の気持は鎮まったらしかった。そしてムラトに「コラー」と言った。立て、と言うのである。彼は許された。王は、「おまえを墓守りに任じたら、逃げ出そうとしたりはしないか」と聞いた。ムラトは答えて言った。「逃げたりはしません。あんなすばらしい場所で余生を送れるなら、再び故国へ帰りたいとも思うこともありますまい」。

　この日は、彼は下ってよいと言われた。翌日、王の前に呼び出されると「おまえはムーアザックへ行き、墓守りの一人として仕えよ」と命ぜられた。ムラトはバンゾーに連れられてムーアザックへ向かった。バンゾーというのは僧のことである。道々、バンゾーはムラトにムーアザックでの勤めを教えた。墓守りはいつもムーアザックの中で暮らさなくてはならない。肉や飲物、それに住む場所は与えられている。勝手に街へ行ってはいけないし、他の墓守りたち（パッソーといった）が教えてくれる定められた境界を越えてもいけない。二日おきに寝ずの番をして墓の中の灯を消さないため油を絶やさないよう気を付け、決して外出してはならず、墓地を清めておかなければならない。バンゾーはこのように言った。

　墓地に着くとバンゾーはパッソー全員を集め「王の命により、今度この男もおまえたちと同じ勤めをすることになった」と言ってムラトを紹介した。そして彼らの一人を呼んで「王はムラトがおまえの代りになることを望んでおられる。おまえは王の許へ帰りなさい」と命じた。命令どおり行なわれ、皆は去っていった。

　パッソーたちはムラトを快く迎えた。彼らはすぐムラトと親しくなり、彼に職務を仔細に教えた。また越えてはならぬ境界を教えて、おまえがそこを越えた場合は自分たちはおまえを殺さなければならないと言った。この命令は少々厳しすぎるようにも思えた。しかしムラトは、これは自分が脱走を考えたりしないようにするための脅しにすぎないのだろうと想像した。彼は少しばかり思い上がっていた。一つには彼が命令を守らず街の外へ行ったとき大目に見てもらえたこと、そしてもう一つは、バンゾーが彼と離れたところでパッソーたちと話していたのを見ていて、境界から出てはいけないという命令の真意を自分に教えないよう命じているのだなと推量したことがその理由であった。パッソーたちは冷えた米と油を持ってきてくれた。そして今夜はおまえの前任者が不寝番をする予定だったから、お前がそれに当るように、と命令した。彼らは夜番用の毛のコートを持ってきてくれた。このコートは縫目のまったくない不思議な仕立てだった。これを肩からかけると地面まで届いたが袖はなかった。コートというよりはマントに近いものである。

　太陽が沈むと彼らは寝ずの番につく。二人が組になって、寝ずの番をするムーアザックの戸の前にポハリックを据え付けた。ここでポハリックのことを説明しておこう。ポハリックとは悪天候を凌ぐための一種のテントである。この土地では、夜、特に雨が降ったときなど非常に冷え込むことがある。このため彼らは長さ八フィートほどの支柱を四本、各ムーアザックの前の地面に置いてある穴の開いた四個の石に差し込み、さらにそれらを筋交いで結ぶ。そして帆布ではなく、縫い合せたパルマタの葉で覆うのである。二人の最も年長のパッソーは王のムーアザックの前にポハリックを張り、他のものも年の順に応じポハリックを立てる。彼らは長幼の順を厳しく守っている。各ポハリックの年少のパッソーは自分たちの薪を運ぶ。これは湿気を防ぐと同時に蚊を寄せつけないようにするため是非とも必要なのである。太陽が昇ると彼はポハリックをたたみ、まだ火の残っている灰を集めて始末し、跡には塵一つないようにしておく。また、その日の食糧をもらいにバンクー（ムーアザックの管理人をこう呼ぶ）のところへ行き、自分と仲間の料理を作るのも彼の役目である。

　ムラトはこの仕事が嫌ではなかった。読む本もなかったから、まったく閑だったら気晴らしもできず鬱ぎ込んでしまっただろう。パッソーたちには十分なそして上等な食事が与えられた。日曜日と火曜日は、牛、羊、または山羊の肉と米だった。水曜日はカジャ（前に説明した）だった。月曜日と金曜日は魚とバナナだった。木曜日と土曜日はバナナと米と油だった。魚はなかなかの美味だった。彼らは内臓をとらずに料理し、それをソースの代りにして食べた。しかしムラトは魚を焼くときは内臓を取ってからにした。これは仲間たちから大いに喜ばれ、以後は彼らもこのやり方で魚を料理することになった。

　ムラトはここの生活にすっかり満足した。ある日アカボつまり王の使いがきて街へ連れて行かれた。この予期しなかった召還に彼は震え上った。そして彼を街に連れて行くものたちに、いったいどうしたことなのかと聞いた。しかし彼らは答えられず、ただ彼を急せき立てるだけだった。街へ着くと彼らはムラトを王の前へ連れては行かず、以前監禁されていた牢ホーロープへ直行した。ここに入れられて二時間余りしたとき、古い友人モラサブが訪ねてきた。ムラトはこの老人に、なぜ自分が監禁されたのか考えを聞かせてほしい、と言った。モラサブは、その日の朝、ずっと沖合に船シヤビユーが見えたことが監禁の理由だと思う、と言った。そして丘には見張りが出ているし、乗組員が上陸してきたら奇襲するように待ち伏せしているものもいる、と言った。二人が話しているときに、牢番が炊いた米と油を持って入ってきた。牢番もモラサブの言ったことを認め、ただ脱走させないために拘禁しただけで何も危害を加えられたりする心配はない、とムラトを力づけた。ムラトは、自分の話すことはすべて王に伝えられることを知っていた。なぜなら、王が法廷に着いているとき以外は、だれでも自由に話しかけることができるからである。だから彼は牢番に、自分には妻も子供もいないからもう故国へ帰る望みはきっぱり棄てたし、ムーアザックの境界から出てはいけないという命令も守る決意だから、この国の他の場所を見たいとも思わない、と言った。牢番はムラトに、おまえが今の生活に意義を認めているのは大変よいことだ、と言った。「もしおまえが脱走を計って捕まりでもしたら、あの白人たちと同じ目に遭うのだからな」。ムラトは、王は自分の命を助けてくれたばかりか、自分が何よりもすばらしいと思う場所で生活させてくれたのだから、脱走などしたら殺されても当然だと思う、と言った。

　この会話の内容はすべて王に報告された。翌朝、ムラトは呼び出された。王は先ず、沖に現われたシャビューはおまえが乗ってきたのと同じ船か、と聞いた。ムラトは、見てみなければわかりません、と答えた。（しかしこれは不可能だった。船は投錨もせず、ボートを陸に出すこともせず去っていったからである。）それから王は、ムーアザックに戻りたいかと聞いた。ムラトは、それが何よりも望みですと答えた。そしてカスブーに話したムーアザックでの喜びを繰り返して述べた。これが王の虚栄心をくすぐり、機嫌よくなるのがムラトにはわかった。王はムラトをムーアザックに連れ戻すよう命じた。彼は心も軽くムーアザックに着いた。彼が無事に帰ってきて仲間たちが大喜びしてくれたのも嬉しいことだった。

　ここでは何の気苦労もなかった。食べるものにはこと欠かなかったし、一日中好きなように暮らせた。自分が寝ずの番に当っていないときは、新月の度にムーアザックの内と外を清め、それらの回りにあるランプに油を注いで灯を絶やさないようにすること以外には何もすることはなかったからである。

　パッソーたちは、暇なときには何か仕事をしていた。ほとんどのものは小さな細工物を作っていた。街の人びとがやってきてそれを買ってゆくのである。こうしてパッソーたちは酒とか好きなものを買うことができるのであった。特にムラトの友人たちは、漁網を作るのを楽しみとしていた。しかしこれはヨーロッパで用いられているものとはずい分違っていた。これは海草を一定の長さに織って作るのである。漁師はこれを幾本かの杭くいに結び付けて使う。（彼らは杭を使わずに魚を捕る方法を知らないのである。）彼の仲間はいとも簡単に、一週間で一つの漁網を作った。彼はそれを見て、自分もできると思った。そこで仲間に頼んで海草を分けてもらい、試しに作ってみた。これが非常にうまくいって、二、三日で一つ漁網を完成した。彼はこれを大量の海草と交換した。

　こうしてムラトは新しい商売を始めた。彼は仕事にいそしみ、仲間が作る漁網よりずっと精巧なものをこしらえた。商売は繁昌し、その収入でダンガリー布を買うことができた。彼はこれでイギリス風のチョッキと長ズボンを作った。しかしこれらを身に着けたのはたった一日か二日だった。ムーアザックの管理パンクー人が来て、チョッキを脱いで他のものたちと同じにしなければいけない、と命じたのである。彼らは手に入る布で腰の回りを被うだけであった。

　衣服を身につける機会がないとわかると、ムラトはあまり仕事に精を出さなくなった。しかし彼はバンクーの許しを得て、モハズを買った。夜これをかけて暖まるためである。あるとき仲間と漁網のことを話していて、ヨーロッパではどんな作り方をするかということに話が及んだ。バンクーは彼に、それを同じように作れるか、と聞いた。しかし、自分で稼いだものを自分の楽しみに使えないとわかり、彼は、自分にはできない、と答えた。だが、このすぐ後、ある事件が起こり、それが彼にとって大いに幸いした。

　自分と仲間の食糧をもらいに普段は朝のうちにバンクーのところへ行くのも彼の役目だった。彼らの扶ふ持ちは申し分ないものだったが、ただ塩が非常に不足していた。ある日、バナナ、米、そして油を受け取ったとき、彼は、もう少々塩を貰えないか、と頼んだ。しかしバンクーは、それは他人の分を騙し取りでもしない限りできない相談だと言った。この国では塩は非常に乏しい。海岸の岩にこびり付いた塩を探し、それをこそぎ取って木の実ほどの大きさにする以外、塩を作ったり自給したりする方法を知らないからである。海岸のある場所では、絶え間なく打ち寄せる波により、自然に塩ができる。しかしこれを集めたところでその量はたかが知れている。ムラトはがっかりした拍子に、もし自分が自由にできるなら、マガドクサでもヨーロッパと同じように十分な塩を作れるのだが、と口にした。バンクーはその日のうちにムラトの言ったことを王に報告した。翌日、ムラトは呼び出された。王の前に出るとすぐ、おまえは塩を作れるのか、と聞かれた。彼は、できると思います、と答えた。（実際、彼は塩を作るのを何回も見たことがあった。）そして彼は作り方を説明した。王は直ちに仕事にかかるよう命じ、必要なものは何でも与える、と言った。ムラトは早速製塩を開始した。そしてこれに専心した結果、半年後には首尾よく大量の塩を採ることができた。王は再びムラトを呼び、ヨーロッパで使われている漁網について尋ねた。ムラトが説明すると王はすぐ、おまえにそれが作れるかと聞いた。ムラトは以前バンクーから同じ質問をされて、「自分はできない」と答えたことがあった。しかし、もう自分はこの国の人びとの中で生涯暮らすしか道はないのだから、できるだけ好感を持たれるようにすべきだと考え直し、「私は一度も漁網を作ったことはありませんが、陛下が作れと仰せられるなら、できるだけやってみます」と答えた。

　王は、ムラトにその気があるのを見て大いに喜び、手伝いは必要ないか、と尋ねた。ムラトは糸を紡ぐのに八人、織るのに六人の手伝いがほしい、と言った。助手たちはムラトの命令に従うことになった。彼らは早速仕事を始め、二か月後、長さ八ひろの漁網が完成した。

　網ができ上ると王はその効果を自分の目で確かめてみたいと思った。そこでお気に入り連中とともに自ら一隻のジャンクに乗り、幾人かの老練な漁師を引き連れて海に出た。一行は運よく大漁に恵まれた。最初の一網で今まで見たこともない魚が幾種類か上がった。これらの魚は海の底のほうにいて、杭にかけた網では獲れなかったのである。王はこの成功にこの上なく満足した。そしてもう幾張か作るように命じた。すでに作り方を教えたから、今度はムラトがいなくてもできた。こうして魚獲は以前より遥かに増した。

　ムラトは皆のためになることをしたのだから何か特別な褒賞があるだろうと大いに期待した。少なくとも自由民の資格を与えられて街に住み、何か正業に就くことを許されるだろうと考えた。しかしこれは大変な思い違いだった。彼は前と同じ身分のままムーアザックへ送り帰された。これが最大の褒賞だった。

　ムーアザックでムラトが静謐な時を過ごし、ここで一生を終えようという考えになっていたことは事実である。彼は、どんなに人びとに取り入ろうとしたところで、結局自由の身にはなれないと悟った。そして、彼らの峻烈さを身にしみて思い知る事件が起こったのである。パッソーの一人が非番のとき、命令に反して夜中に秘かに街へ行き、夜の明ける前に戻ってきた。しかし幾人かのものがそれを見ていて、王に通報した。翌朝この男は王の前へ呼び出され、次のようにして即座に死刑が執行された。男は跪き、頭を下げた姿勢を取らされた。執行人は重い棒を手にして、男の頭の下部に一撃を加えた。男の脳髄が飛び散った。

　ムラトは恐怖した。彼はこれ以後十五年間、パッソーのだれかが死んでその葬儀に列席するため王に呼ばれたとき以外、決してムーアザックの境界から出ようとはしなかった。パッソーたちは、一般の人びとと同じようにムーアザックに埋葬されることはなかったのである。

　さて、ここでムーアザックについて話しておこう。これはこの国最大の異観であるばかりか、芸術や科学の発達した国々から見ても、壮麗な建造物といえる。そして他のあらゆる面で野蛮な人びとが、葬儀だけは非常に豪奢に行なうのは不思議にも見えるであろう。

　埋葬地のことを人びとはホイナッツと呼ぶ。ここはマガドクサの街からおよそ二マイル離れた二つの丘の間の美しく気持よい平原に位置している。この中に二十九のムーアザックがある。これらは代々の王によつて建てられ、パッソーたちも王の費用で雇われているのである。各ムーアザックに四人のパッソーがいる。二人ずつ交替で寝ずの番をし、ムーアザックの内部を照らしているランプの灯を絶やさぬよう、また周囲を清潔に保つよう気を配るのがその役目である。

　ムーアザックはすべて王のものといってよいが、王の特別の好意でそこに高官を埋葬することもある。王はときに自分の御気に入りに、家族の埋葬場所としてムーアザックを与えることもあるのである。このような高官の家族のだれかが死んだ場合、そのつど与えられたムーアザックに埋葬する許可を王からもらわなくてはならない。これは、ムーアザックに埋葬される権利を持つ高官が王に叛くことが屡しば々しばあり、王は彼が生きている間はそれを知らぬふりをしていて、死んだときに罰としてムーアザックに埋葬するのを禁ずるからである。

　このことは、人びとがムーアザックに対して抱く崇敬の念を表わしている。彼らは、死後ムーアザックに遺体が安置されることが無上の名誉であり幸福であると考えているようである。実際、王も一般人民も、ムーアザックを訪れることを最大の楽しみの一つとしているが、彼らはこれを一種の宗教的な畏敬をもって行なうのである。

　最大のムーアザックは王自身のものである。ここには王以外のものが埋葬されることはない。広さは八十フィート四方、黒と白の大理石で造られている。半球の屋根の上は尖塔になっている。内部は床も壁も見事に磨かれた白い大理石ででき、丸天井は緑に塗られている。この中に金製のブーズが四十五個、各々四フィートほどの高さの黒い大理石の台に乗せて、安置されている。

　ブーズというのは一種の丸い瓶で、蓋が付いている。大きさは深さ八インチ、直径五インチで、この中に死者の遺灰を入れておく。死体は、ムーアザックに入れる前に火葬に付すのである。

　また、ムーアザック内部には、各々九つの火口を持つ大きなランプが各隅に四個ずつ合計十六、そして二つの火口を持つランプが中央に一個置かれている。大きなランプは葬儀のあるときだけ火が点ぜられ、それは見事である。中央のランプは常に火をともしている。

　死者の遺灰を入れたブーズが四十五個安置されているところから、四十五人の王がここに眠っていると考えられ、ムラトもそのように教えられた。

　二番目に大きなムーアザックはコッシュー、つまり王妃のものである。（男女が同じムーアザックに埋葬されることは決してない。）これは白い大理石で造られ、広さは五十九フィート四方ある。内側の壁は外側とまったく同じであるが、床は黒と白の大理石を格子模様に配してある。これはヨーロッパの貴族の家で見られるものと非常によく似ている。そして、黒い大理石の台の上に、金製のブーズが五十六安置されている。各隅には、七つの火口を持つ大きなランプが三個ずつ合計十二個、中央には銀製のものが一個置いてある。王のムーアザックと同様に、中央のランプは常に燃え続けている。

　三番目はアコビブ、つまり王子のムーアザックである。形は周囲七十フィートの完全な円である。内部にはブーズが五十三、黒い大理石の台に乗せて安置してある。各々七つの火口を持つ銀製のランプが十二、周囲に円形に配され、あと一個が中央に置かれて、それは常にともっている。天井は緑に塗られている。

　四番目は王女のものである。緑がかった黒い縞の入った大理石で造られ、形も大きさも王子のムーアザックとほとんど同じである。内部の壁は白い大理石、床は黒、白、緑と変化に富んでいる。天井は半球状で黄色に塗られている。各々七つの火口を持つ銀製のランプが周囲に八個、中央に一個置かれている。中央のランプには火がともっている。

　五番目はフォラムゼッブ、つまり王子の男子のものである。黒い縞のある白い大理石で造られ、壁と床は明るい灰色の大理石である。広さは三十フィート四方、金製のブーズが十九、銀製のが六十、外壁と同じ大理石の台に乗せて安置してある。銀製のランプが各隅に二つずつ、合計八つ吊り下げられ、空の中央には常時燃えているランプが一つ置いてある。

　六番目のムーアザックはスクイージブ、すなわち王子の女子のものである。これは白い縞の入った美しい赤色の大理石で造られている。広さは二十八フィート四方、内部の壁と床は白い大理石である。銀製のブーズが百九十、青灰色の大理石の台上に安置してある。各隅に二個ずつ、計八個の銀製のランプが配され、空の中央には常時ともしてあるランプがある。

　これらはすべて王の血族のものである。しかしムーアザックすべてについてこまごました説明をするのは退屈であろうから、自分たちと家族用のムーアザックを与えられている高官についてのみ話しておこう。

　最初にバームザン、すなわち最高位の僧のためのものがある。これに次いで、ボーラムズすなわち財務官のためのもの、ジョシボーソーすなわち最高顧問のためのもの、ムーレンゼップすなわち議長のためのもの、カッサすなわち書記のためのもの、パレムゼップ――貴族の最高位の称号で数人いる――のためのもの、テプシァイすなわち以上の人びとの妻のためのもの、モアプズすなわち象係のためのもの、ハモンすなわち町長たちのためのもの、ホイゼッパすなわち象の調教長のもの、そしてサンコフすなわち医師長のためのものがある。

　また、戦争で勇敢な働きをしたものだけが埋葬されるムーアザックがある。さらに、ザンショーすなわち王の楽師長、ディヴァツァボーすなわち王の愛妾たち、パムプバムすなわち彼女らの男の子たち、パラスクアすなわち最高位の僧の男の子たち、ゴーゼットすなわち議長の妻たち、マトットザすなわち町長の妻たち、ホイデネブすなわち収入役の妻たち、そしてオケンゼッグすなわち顧問長の妻たちのムーアザックもある。

　しかし財務官や議長のムーアザックは彼らと彼らの相続人のためにあるのではなく、次にその役職に就く人びとのためにあるのである。彼らの相続人は、彼らの役職を襲わない限り、ムーアザックに入る資格はないのである。

　これらはすべて異なる大理石で造られ、大きいもの小さいもの、円形のもの、方形のもの、屋根に小さな尖塔のあるものないもの等、さまざまである。内部は王や王妃のものと同じように見事な装飾がされている。例えばバームザン、ボーラムズ、ムーレンゼップ、そしてカッサのムーアザックの内側は全部金である。他のもののムーアザックの内部は金もあれば銀もある。ムーアザックが全部でいくつあるか考えてみれば、これら記念碑は実に莫大な富を蔵していることがわかるのである。

　王、王妃、そのほかムーアザックのいずれかに埋葬される資格のあるものが死ぬと、死体は男女を問わず直ちに全裸にされ、棺台に置かれる。そして薄い紫の絹布が掛けられ、街からすこし離れたところにある家まで運ばれてそこに数日間安置される。この建物は長さ六十フィート、幅二十六フィート、高さ三十フィート、平屋根の家で部屋は一つだけしかない。珍しい白大理石で造られ、内部は多数の銀のランプで照らされている。部屋の中央には白い大理石のテーブルが置かれ、およそ三フィートの高さの大理石の台六本で支えてある。この上に遺体を置くのである。

　遺体は日没と同時に埋葬地ホイナッツへ運ばれる。この刻に、最高位の僧がムーアザックに埋葬される資格を持つすべてのものを伴って現われる。（ほかのものはだれも葬儀の手伝いをすることを許されないのである。）そして、モッカドゥーと呼ぶ鋭利な刃物で死者の腹を開き、心臓を取り出して故人の最も近い親族に手渡す。親族はすでにこのために僧の右側に立って待っているのである。これが終ると遺体は部屋の下手に移される。そこには深さ五フィート、幅もほぼその位の穴に火が起こされている。遺体はここで火葬に付され燃え尽きるのである。ここで再び心臓が僧の手に渡される。僧はこれを石の壷に入れ、それを火の中に入れて粉になるまで乾燥する。遺体の灰がすっかり乾くと、心臓の灰とともにブーズへ入れる。そして一行はホイネッツへ向かう。最も近い親族がブーズを持つ。一行がムーアザックに着くと、ブーズは再び僧の手に渡される。ムーアザックはすべてのランプで照らされている。僧は一人その中に入って戸を閉める。そして十五分ほど中に居て、用意された台にブーズを安置してから外へ出る。これで儀式はすべて終るのである。

　以上はすべて、まったく無言のうちに行なわれる。また死者の親族が悲しみや嘆きを表わすこともない。死んだもののことを話したり名前を口にしたりしないのもこの国の人びとの習わしである。

　以上、この国の人びとの葬儀の秩序やしきたり、墓の壮麗さについて述べてきた。墓は遠方からの眺めも見事であるが、近づいて見てもそれらを造った材料のすばらしさや場所の快適さにより、実に美しいのである。

　しかし彼らの宗教については不完全な説明しかできない。彼ら自身、それが何かを知らないからである。彼らはムラトに宗教のことを話したことは一度もなかった。ムラトが彼らの宗教のことを聞いても、彼らはほとんど話さず、始めも終りもわからないような辻褄の合わないことを言うだけだった。街から半マイルほどのところにモスク、というより寺院がある。これが一夜にして建ったという伝説があるが、だれが何のために建てたのか、だれにもわからないのである。それは海の神ヒオスによって建てられた、というのが大方の意見であった。そして、時に彼らはそこに集い一種の祈りを捧げる習わしであったが、どうしてそうするのか答えることはできなかった。しかしムラトができる限り観察したところでは、彼らの中には幾つかの崇拝の対象があるらしかった。ムラトは、狼の姿に多少似ている像を家に置いてそれに祈りを捧げる人びとを見たからである。これはかなり一般的に行なわれていて、貧しい人びとは四、五インチのこの像を木で作って、道端で売るのである。

　彼らは、トルコ人や、イスラム教徒の多くにみられるような、キリスト教徒に対する憎しみや反感は持っていない。しかしこれは、彼らがキリスト教を知らないからなのである。彼らは、われわれが蟇蛙や毒虫を嫌悪するように、白人はすべて化け物の一種だと教え込まれて育つが、これは宗教ではなく肌の色が理由である。一人ひとりについて言えば、彼らは社会の法をよく守り、不正な行為や犯罪は恐らくどのキリスト教国より少ないだろう。

　ムラトは彼らとすっかり同化した。そして皮膚の色も黒く、彼らから嫌がられたり恐れられたりすることもなかったから、他のパッソーや、同じ身分の人びとと差別なく扱われた。

　かつて、彼は人びとに何か有用で皆の利益になることを教え、その褒賞としてもっとよい生活か、あるいは完全な自由を得られるのではないかと期待したこともあった。しかし王がこれに何の寛大さも感謝も示さないことを知って、彼はそのような空しいことを考えないようにしてきたのである。だから彼は一種の諦めをもって、ムーアザックの境界内で日々を送ることを強いられた者の悲しく静かな生活に自分の望みを閉じ込めているようであった。しかしある事件が起こった。これが彼の感情をすっかり変えてしまった。そしてこのことは、自由を愛することが人間にとってどんなに自然かを示しているのである。

　マガドクサの西およそ二十マイルの地点にある同じザンジバルの王国内のセニという地区の町長が暴政をして人びとの恨みを買った。人びとは叛乱し、町長を殺した。この知らせがマガドクサに伝えられると、王は直ちに二千人の男を集め、弓矢を持たせると、自らその部隊を率いて叛乱の鎮圧に向かった。それまで王はムーアザックの番をするパッソー以外に軍隊や守備隊のようなものは持っていなかった。進軍二日目に、セニの東十リーグ、マガドクサから三十リーグの地にあるバンダンという小さな街の近くに船シヤピユーが現われたという報が王にもたらされた。王は六人の男に、ムーアザックへ急行し、ムラトを連行して軍隊に加えよ、と命じた。六人の男がムーアザックに着くと、ムラトは職務に就いていた。彼らはムラトに、自分の弓矢を持って直ちに従軍するよう命じた。これらの武器はムーアザックの番人パッソーとして持っているものだった。ムラトは捕虜というより兵士のようだった。

　二日間の強行軍の後、彼らはセニの街から少し離れた場所で休止している軍隊に追いついた。王は分遣隊を送って街の近くで待ち伏せさせた。彼らは幾人かの捕虜を連れて戻ってきた。捕虜たちは、王の進軍を知った街の住民は皆恐れて逃げ出したと話した。同時に、町長の暴政の数々を挙げて、街の人びとは叛乱せざるを得なかったのだ、と言った。王は人びとの行動に納得した様子だった。そして怒りを抑え、自分はすべてを許し、もっとよい町長を任命するから、残りの住民を探し出しもとの住居に戻るよう伝えよ、と捕虜に命じた。翌日、すべてが終ったかのように王は軍をマガドクサに向けたが、ひどくゆっくり行進した。夜になり深い森にかかると、王は全軍に森の中で夜営するよう命じた。翌朝、王は一兵たりとも森の外へ出てはならぬ、命に叛いたら極刑に処す、と触れた。

　その間、散り散りになっていたセニの住民たちは朗報を聞いてもとの住居に戻ってきた。しかし日も暮れようとするころ、王は進軍命令を発した。そして住民たちが自分たちの家に戻ってまた寝入っている夜の明けぬうちに、密かにセニの街に入った。人びとが驚いて表に飛び出したところを、王は麾下の兵に命じて襲わせた。多数の住民が殺されたが、夜陰に乗じて運よく脱出できたものもかなりあった。脱出できなかったもののうち、捕虜になったのは僅か四十三人、残りは全員殺された。

　たまたまムラトは捕虜の一人と話すことがあった。男は同郷の人びとの不運を嘆き、彼らがどうして街から逃走したか、そしてまた戻ったのかを語った。そしてここからおよそ十リーグ、バンダンから一リーグのところにある海岸で一隻の船を見たと言った。男は船が碇泊している海岸への道も話した。ムラトはそれがセニの真東に当たるとわかった。彼は船の大きさその他について幾つかの質問をした。男は自分のわかることをすっかり話した。それから察して、ムラトは船が帆桁とトップマストを降ろしていることがわかった。これは、船がしばらくそこに碇泊するつもりであることを示すしるしだった。ムラトは、船を見たのはいつか聞いた。二日前とのことだった。

　ムラトの頭に天啓のように一つの考えが閃めいた。神が脱出の手段をお与え下さった。この機を逃したら、永遠に脱出できないだろう。その夜脱走するのにためらいは何もなかった。逃げ出しても、数時間は気付かれないだろう。だから皆が道を間違えずに追ってきたとしても、つかまることはあるまい。それに連中は道を間違えるにきまっている。――ムラトはこう考えた。

　その日一日、彼は希望と恐れのはざまで過ごした。自分で道に迷ってしまうのではないか、船はもう出帆してしまったのではないか、と鬱いだ気持になることもあった。その場合は、死は確実である。原住民ならば身を隠すこともできようが、自分はその術を知らないのだから。また一方、船は帆桁やトップマストを降ろして二日しか経っていないのだから、まだ出帆しているはずはないし、その場所もよく知っているから道に迷うわけがない、と自ら元気づけた。彼は終日、初めての脱走のための道を目に焼き付けることに専念した。

　夜、あたりが静寂に包まれ、仲間（彼の監視役であった）も全員眠ってしまうと、ムラトは抜け出した。だれからも不審尋問されたり、見咎められたりはしなかった。彼らは軍律ということに無知だったから、夜間、歩哨を立てていなかったのである。彼は一晩中、力の限り歩いた。命がけだった。夜が明けた。その日は快晴だった。ムラトは二マイルほど先に小さな街を見つけた。捕虜の話から、それがバンダンの街だと判断した。そして、目の前にある高地の向こうはもう海だと思った。彼は急いで一つの丘の頂に登った。頂に着くとすばらしい海の眺望が開けた。目を凝らして遠方を隅なく眺めると、東の方に船らしいものを認めた。それは非常に遠く、定かにはわからなかった。しかし彼の心は生き返り、自分は助かった、と思った。丘の下の平地にかなり大きな河が流れていた。河は彼の行く方向を遮っていたから、これを渡らなくてはならなかった。しかし泳ぎは彼の得意とするところであったから、恐れることはなかった。彼はまっすぐ河の方へ向かった。堤に着いてみると河の流れは非常に急だった。彼は、この流れでは海まで押し流されてしまうのではないかと心配した。（彼はこれまでにかなり体力を消耗していた。）彼は、もっと上流の、河が曲っている場所を探すしか渡る方法はないと考えた。そのような場所は流勢が弱まっているから、危険なく泳ぎ渡れるだろう。

　ムラトはこのように考えながらあたりを見廻した。そして今しがた降りてきた丘に目をやった。丘は現在の場所からすでに二、三マイル遠ざかっていた。その丘の頂に、六人の男の姿を認めた。彼らはしばらく回りを見廻している様子だったが、突然、猛烈な早さでムラトの方へ向かってきた。ムラトは、連中は追手に違いないと思った。最初じっとしていたのは自分を見付けるためだったのだろう。そして自分を見付けた途端、丘を駆け降り始めたのだろう。捕らえられ惨殺されることの恐怖がすべてのためらいを捨てさせた。彼は追手には一瞥もくれず流れに身を投げた。流れは非常に強かったが、彼は思ったよりずっとうまく乗り切ることができた。対岸へあと一息というところで、神の思し召しであろうか、渦が彼の身体を巻き込み、そのまま堤へ打ち上げたのである。こうして彼は半時間少々で無事対岸に渡り着いた。

　河を泳ぎ渡って疲れたので、腰を下して呼吸を整えた。そのとき、敵の軍がすぐ後ろに迫っているのと同じぐらい恐ろしい光景が目に入った。河岸のすぐ近くに巨大な鰐が横たわっていたのである。これは水に没した樫の巨木のようであった。近くにいて驚いたせいもあろう。ムラトはこれが牛さえ呑み込んでしまいそうな大きさに思えた。同時に彼は追手に目をやった。彼らはすでに対岸近くまで迫っていた。彼は恐怖に駆られ、翼が生えたように走り出した。河の近くに低い潅木の茂みがあるのを見て彼は平静を取り戻し、そこを通って行こうと考えた。鰐が追ってきたとしても、茂みに入れば自分を見失うだろうし、茂みは深いから、それに阻まれて追い付くことはできないだろう。実際、彼はこの考えのお陰で脱出に成功したのである。彼はこれまでより一層早く走った。恐怖が新たな力を生み出した。彼は後ろを振り返らなかった。鰐も追手も目に入らないことが安心になった。この調子で二時間ほど走り続けると、二つの高地の間に狭まれた平原に出た。平原は海に向かって開けていた。そして海岸から一マイルと離れていない場所に碇泊している船の姿を見たとき、ムラトは狂喜した。彼はすぐ水際に急ぎ、船に向かって帽子を打ち振った。大声を出しても、とても聞こえる距離ではないと考えたからである。彼は長いこと帽子を振り続けた。そしてついにはいらいらし、不安になってきた。船からは何の合図も返ってこなかった。合図があれば、船では彼の姿を認めたか、あるいは助けにくるつもりだと考えることもできたのである。しかし突然、近くの岬の陰からボートが現われて、彼の不安は消し飛んだ。ボートは、この土地に人が住んでいるかどうかを調べるため、しばらく沿岸を漕いでいたのだった。

　ボートの姿にムラトの喜びは極まった。服装から彼らがヨーロッパ人とわかり、ムラトは一刻も早く話したかった。そして、ボートが到着するのももどかしく、自ら海に入っていった。水が首の深さになると彼はボート目差して泳ぎだした。彼らはオランダ人だった。ボートに引き上げられたムラトは歓喜で相好がすっかり崩れていた。ボートの乗組員たちは、この男が何者なのか、どこから来たのかひどく知りたがり、オランダ語で話しかけた。ムラトはオランダ語を知らなかったけれど、英語を話すことをどうにか彼らに伝えた。彼らの中にも英語のわかるものが二、三人いた。一人はそれを流暢に話した。ムラトは、自分がキリスト教徒であること、この国に十六年間捕虜あるいは奴隷として抑留されていたこと、今やっと脱出できたこと、そして六人の蛮人に見付かり追われていることを手短に話した。

　ボートには武器があったから、彼らはその蛮人たちが現われるかどうか、しばらくその場所で様子をみることにした。彼らは碇泊して以来人間の姿を見かけなかったから、この土地は無人だと考えていた。（しかし原住民は丘から彼らの船を見ていた。）彼らはオールを置いた。

　一時間ほどすると弓矢を手にした五人の男が現われた。そして足早に水際まで来ると、ボートを見た。そこからボートまではほんの少ししか離れていなかった。オランダ人らは二丁のマスケット銃を発射した。男たちは散り散りに逃げた。しばらくして二人が戻ってきた。彼らは弓矢を岸に投げ出すと海に入った。まっすぐボートへ向かってくるように思えた。オランダ人たちは何事かと驚いた。しかし、二人の裸の男を恐れることもなかったから、そのまま様子を見ていた。二人の男はボートに泳ぎつき、ムラトに引き上げて一緒に連れていってくれ、と切願した。ムラトを捕らえて帰らなかったら残酷な扱いを受けて殺されてしまうと言った。

　オランダ人たちは、彼らを奴隷として売ればかねになることを知っていたから、喜んで引き上げてやった。助けられると、彼らは最初にムラトを見つけた河を渡るとき、仲間の一人は鰐に食われてしまった、と話した、他の三人は命が惜しくて、国からずっと遠くへ行った。しかし自分たちは、捕らえられるか、逃走中飢えて死ぬかの危険を冒すより、白人の慈悲にすがってみることにしたのだと言った。

　本船の人となると、ムラトは自分の冒険を残らず船長に話した。船長は彼が船乗りで航海の知識も豊かなことを知ると、熟練水夫として処遇した。

　逆風のため、船はこの地におよそ三週間とどまった。その間水や材木を積み、乗組員たちは魚を釣って気晴らしした。その後船は東インド諸島バタヴィアへ向かった。その地で荷を降ろし、またインドの産物を積み込んでから、オランダへ帰国した。ムラトはこの船に乗り組んで二、三回航海した。しかし一七二四年、オランダに帰ったとき、昔の船長にどうしても会いたくなった。三月二十八日、彼はオランダを発ってイングランドへ向かった。昔の船長はまだ生きていた。ムラトに再会すると大喜びし、暖かく迎えてくれた。そして彼の冒険の一部始終を書くように勧めた。以上の話は、彼のこの手記に忠実に基づいているのである。

　ムラトはオランダに戻り、健在なら今でもオランダ東インド会社の船に乗り組んでいるはずである。





28　ベラミー船長





　ベラミー船長の出身について詳しいことはわかっていない。だから彼が公然たる人類の敵として現われたときから話を始めよう。ベラミー船長とポール・ウィリアムズ船長は二隻のスループ船を指揮して、難破したスペイン船の財宝を漁っていた。しかし本書の最初の部分でも書いたように、この期待はかなえられなかった。彼らは、無駄な骨折りはやめて一緒に海賊商売を始めることに決めた。最初に彼らの餌食になったのはプリンス船長だった。彼は、ロンドンで建造したギャレー船を指揮し、ジャマイカから象牙、金粉その他金目の商品を積んで母港へ向かう途中だった。この獲物のおかげで一味は豊かになったばかりか、人手も増強もされた。彼らは奪ったギャレー船に砲二十八門を積み、さまざまな国籍の男たち百五十人を乗せた。

　ベラミーが船長に選ばれた。船の名前はもとどおり「ウィダー」号とした。一七一七年二月下旬のことであった。こうして一味は無謀な冒険を続けるべく、ヴァージニアに針路をとった。一味はこの沿岸を荒掠し、数隻の船を獲物にした。ところがこの漁場を後にしようとしたとき、ダヴィデが言うように、一味はまさに地獄に落ちる寸前だったのである。天は嵐の兆しを見せた。暗雲が空を覆い尽すのを見るが早いかベラミーは小帆をすべて巻いた。ウィリアムズは主帆を二段縮帆しようとしたが、烈しい雷雨が襲い作業はほとんどできなかった。「ウィダー」号は転覆寸前になった。

　彼らはすぐ船を風下に向けた。前檣大帆を絞った状態にしただけで強風に任せるほかどうすることもできなかったからである。幸い、風は北西から吹いていた。これが東風だったら、彼らは間違いなく岸に打ち上げられ、壊滅していただろう。夜になり嵐はいよいよ烈しさを増した。彼らは帆を全部絞った。「ウィダー」号では帆桁を左舷に寄せた。下士官室の四人と舵輪の二人が舵柄動索に取りつき、船首を波の方向に向けておくのがやっとだった。万一横風を受けでもしたら、転覆間違いなしだったからである。空には稲妻が縦横に走った。海は、これに呼応するかのように、激しく泡立った。夜の闇は手で触れることができるかのようだった。恐ろしい風の咆哮は絶え間ない雷鳴に匹敵し、海と風を司る神の恐ろしさを知らしめるに十分と思われた。しかし、恥知らずな海賊どもに対する効きめは違っていた。彼らはありとあらゆる罵詈雑言や呪いの言葉を吐き散らして自然の猛威を紛らした。ベラミーは雷鳴を神々が強い酒を飲んで酔っぱらい、掴み合いの喧嘩をしているのだと想像し、「大砲をぶっぱなして挨拶できないのが癪だぜ」と言った。

　その夜、彼らはマストに帆を張らず船を風に任せた。翌朝、メインマストが根元から折れたため、それを切り捨てなければならなかった。同時に後檣も倒れた。この災難に、船内は罵りの言葉に満ちた。船には大量の水が浸入してきた。彼らはポンプに取りついて必死の排水作業をしたが、水嵩は増すばかりだった。スループ船のほうも風に弄ばれるままになっていた。風はありとあらゆる向きに変わり、海は荒れ狂い、彼らはほとんど助かりそうになかった。波が船尾楼を破壊して船尾の手すりから甲板を洗い、舵についていた二人の乗組員を押し流したが、彼らは救助綱にかかって助かった。四日三晩の後、さしもの暴風も収まり、風向きは北々東に定まった。一刻ごとに風は弱まり、空は晴れ渡った。「ウィダー」号はスループ船に声を掛け、一味はカロライナ沿岸へ向かうことにした。こうして一昼夜航海したが風が南風に変わったため、針路を変更しロードアイランドへ行くことにした。この間「ウィダー」号の浸水は続き、ひっきりなしにポンプを動かしても追いつかない状態になった。仮マストが立てられた。大工が船首の浸水箇所を発見した。継ぎ目の詰め物がとび出していたのである。乗組員たちは再び陽気になった。スループ船は、突風で主帆を奪われただけだった。四月上旬、一味はロードアイランドに向かう途中、サウスカロライナの沖四十リーグの地点で、ビーア船長が指揮するボストン籍のスループ船を捕らえた。そして船長を旗艦「ウィダー」号に移し、掠奪をほしいままにした。ウィリアムズとベラミーは船を船長に返すように言ったが、乗組員たちは聞かずにこれを沈め、船長をブロック島に置き去りにした。

　ベラミー船長がビーア船長に対してぶった演説は是非ともここに記しておかねばならない。彼は言った。

「おい、貴様。俺の手下が船を返さなくて気の毒したな。俺は自分の得にもならねえのに悪さをする奴は好かねえ。スループ船はまだ貴様の役に立っただろうに、畜生、奴らは沈めちまいやがった。だが貴様は薄汚ねえ犬だ。それに金持ち連中が自分たちの安全のために作った法律の前にはいつくばってる奴らもそうだ。臆病な犬は、そうでもしなきゃ自分で掠めたものを守れねえってわけだ。そんな奴らは糞喰えだ。気違いの悪党どもに、腰抜けのあほうどもさ。金持ち連中は俺たちをならずもの呼ばわりするがな、奴らは法に守られて貧乏人からふんだくり、俺たちは度胸一つを頼りにかねもちから掠奪する。それだけの違いさ。どうだ、貴様、悪党の金持ちに雇われてそいつらの尻を追い廻したりするより、俺たちの仲間に入ったほうがよかねえか」。

　ビーア船長が、神と人の法を破るのは自分の良心が許さない、と答えると、ベラミーは言った。

「ふん、良心だと。笑わせるぜ。俺は自由な王様さ。海に百隻の軍艦を浮べ、陸に十万の軍勢を指揮する男と同じように、俺は全世界に戦いを挑むことができる。それが俺の良心の命ずるところだ。だが鼻声を出す弱虫犬みてえな奴と議論したって始まらねえ。そんな奴は力のある連中のされるがままになって、いんちき牧師野郎の言うことを信じやがる。ところが牧師たちは自分がうすのろたちに説教していることを守りもしねえし信じてもいねえのさ」。

　食糧と水はたっぷりあった。「ウィダー」号の修理も完了した。一味はまたとない楽しい時を過した。乗組員の一人に旅芸人をしていた男がいた。彼は、あまたの実話や作り話を演じてきた。しかし旅芸人では自分の偉大な精神を発揮できなかったから（と彼は言った）、取立人になればもっと儲かるし、仕事も楽だろうと考えた。そこで、ヨークシャーで鞍付きのすばらしい去勢馬（彼がこう言ったのである）を借り、以前から持っていたピストルのケースを携えると、一座には黙って冒険を求め出発した。彼は幾人かの武者修業者に出合ったが、ことごとくやっつけ、彼の理想の女性に忠誠を誓わせた。しかし彼の武勲を妬み自分の贔屓する騎士の栄光が褪せるのを恐れたのか、あるいは彼の腕前を知りいつの日か屈服せざるを得ないと考えたのか、悪い魔法使いが、その魔法の力で彼を忌わしい土牢に閉じ込め足枷をしてしまった。しかし以前から彼の面倒を見、彼の武勲伝を著わしてくれることになっていた賢人が、彼を救出し、ジャマイカ行きの船に乗せてくれた。その後、さまざまな目に遭って、ついに暴政と強欲に天誅を加える勇敢な自由の擁護者であるこの海の英雄たちの社会に加わった、というのが彼の話であった。

　この風変りな男は海賊船上で「高貴な海賊」と称する劇を演じた。これは、観れば皮肉な笑いを誘うものであったが、後甲板で演ぜられ、役者も詩人も大喝采を浴びた。しかし、この茶番劇を悲劇にする事件が持ち上がり、以後、上演は禁ぜられてしまったのである。事件というのはこうである。従者に囲まれたアレキサンダー大王が、引き立てられた海賊を審理していた。ところが酔っ払っていた一味の砲手がこれを本気にし、自分の食事仲間が危いと思い込んでしまったのである。そしてアレキサンダー大王が、「汝の大罪は死に値する。よって、明朝、汝を縛り首の刑に処する」と宣するのを聞くと、砲手は「畜生、やるか」と叫び船室に飛び込んだ。そこには三人の仲間がきこめしていた。彼はその仲間に言った。「奴らはお人好しのジャック・スピンクスを吊そうとしてやがる。黙っていたら、俺たちも片っ端から殺られちまうぜ。畜生、そんなことはさせねえ」。彼は導火線を付けた手投弾をつかむと甲板に飛び出した。仲間もカトラスを手に続いた。彼は導火線に火を点じて手投弾を役者たちの中へ投げ込んだ。観衆は通路や後甲板にいたが、砲手の仲間のカトラスにかかった。気の毒にアレキサンダー大王は左腕を斬り取られ、ジャック・スピンクスは弾の破片で足を砕かれた。たちまち船中が上を下への大騒動になった。暴漢どもは捕らえられた。さもなくば連中は大王の従者たちと修羅場を演じていたか、あるいは斬り殺されていただろう。従者たちは全員カトラスを持っていたからである。アレキサンダー大王は彼の腕を奪った男を殺して復讐した。その夜、砲手と仲間は鎖につながれ、翌朝法廷に引き出された。しかし無罪になったばかりか、その熱情を賞讃されもした。アレキサンダー大王と敵は和解した。こうしてこの劇は再び上演することを禁じられたのである。

　ビーア船長を上陸させて二週間後、ウィリアムズはワインを積んでコッド岬から航海してきた船を奪い乗組員を捕虜にした。一味はこの船に七人の仲間を乗り組ませ、ベラミーとウィリアムズの指揮する二隻の海賊船に同行するよう命じた。

　二隻の海賊船は長い間修理をしていなかった。そこで一味は針路を北に向け、ノヴァスコシアとプロヴィデンスの間に位置するペノブスコット河に直行した。ここで船を傾け修理するつもりだった。この土地は海岸に沿って西から東へ約百九十マイル、プロヴィデンスからサントクロイに至り、また北から南へはケベック河に沿って海に至る約三百マイルの場所である。

　一六六三年、チャールズ二世陛下からこの土地を賜わったヨーク公ジェームズ殿下は、ペマキッドに居住地を拓いた。土地はあらゆる種類の樹木に富み、上質の麻その他船具の原料となるあらゆるものを産する。また、銅、鉛、鉄鉱石が豊富で、海には鯨、たら、ちょうざめ、鰊にしん、鯖さば、鮭、牡蛎、とり貝等が豊かである。耕地はヨーロッパ種のあらゆる穀類や果物を産し、森林にはさまざまな種類の鹿が多数棲息している。この土地を植民地にすれば、イギリスにとって多大の利益になるであろう。少々の余談となったことを許していただきたい。私は、わが愛する栄光の祖国の領土が富み、あるいは拡大に役立つことにはすべて関心があり、この余談も国を愛する至情からのことなのである。

　閑話休題。河口に到着してみると、傾船するにはマキアス河のほうが適していることがわかった。そこで一味はこの河へ入り、二マイル半ほど遡ったところで投錨した。翌朝、捕虜全員が監視とともに上陸させられ、小屋を建てるのを手伝うよう命ぜられた。河の両岸には防壁を築きそこに開けた狭間に陸揚げした砲を据えた。この作業に四日かかった。地面を深く堀って弾薬庫を作り、それに屋根をふいた。これらは捕虜を奴隷にして行なった。一味は彼らを、西インド諸島の入植者たちが黒人を使うように酷使したのである。弾薬を安全に貯蔵し、その他すべてのものを陸に揚げると一味はスループ船を傾けて修理し、それが完了すると次に「ウィダー」号を修理した。旅役者は二人の船長に、この土地に新しい王国を建てれば、次第に世界を支配下に治め、ついにはかのローマ帝国をも凌ぐほどの勢力になるだろうと言った。「私は粉屋の息子として生まれました。でも旅芸人になる前は、オックスフォードの給費生だったこともあり、一国の大臣になる野心を持ってそれなりの学問にも励みました。もしあなた方がこの土地に帝国を建設し、私を使って下さるなら、必ずや私が真の愛国者であることを御目にかけるでありましょう。私がしかるべき地位を得ますれば、それを恩に着、あなた方の臣民に見せかけの自由を与えながら実際は浅ましい奴隷の身分にし、赤貧の状態に置いて搾取しつくし、あなた方の蔵をいっぱいにしてさしあげます。世界の女王と謳われたローマも、最初は一握りの羊泥棒が建てた国で、逃げ出した奴隷や破産者の集まりでした。それに較べておふた方はずっと有利に新しい王国を建設できます。なぜなら臣民は戦いの術を心得ていますし、迷惑な隣人もなく、この周辺のインディアンや、近くのイギリスとフランスの植民地の不満分子やならずものを保護して勢力や人民を増やしてゆけるでしょう。あなた方自身の力を蓄えるため、役に立つ男はすべて国の要職にとり立て、忠誠を誓わない捕虜を分けてやるとよろしいかと存じます。実に多数の、自由に値しない奴隷どもがおりますから。また、もっと多くの船を建造し、それらをいつも航海に出し、捕虜らには、どんな手を使ってでも、あなた方が君主であることを認めさせることです。世界の偉大な帝国はすべてこのようにして建設されたのです。力に勝まさったものがいつでも正義と認められるのです。昔の人びとは捕虜を重用しました。捕虜たちは合法的な奴隷で、その命は征服者の手の内にありました。征服者は彼らを使役しましたが、その代り、彼らを保護してやったのです。泥棒、盗賊、ならずもの、海賊などという侮辱に甘んじるのと、この土地に帝国を建て君主に具わる合法的な権限により戦争するのとどちらがよいか、御考量願いたいのです。勝手なことを申し上げてしまいましたが、これも私のあなた方に対する忠誠心と公衆のためを思う心からなのです。世界は、あなた方とあなた方の臣民を決して手柔らかに扱ってはくれません。でも、いったんあなた方が合法的な王国を宣言され、あなた方の地位を守る力をお持ちになれば、世界中のあらゆる大学があなた方の神から授かった権利を認め、世界中の国王や君主があなた方との同盟を求めて大使を送ってくるでありましょう」。

　ベラミーとウィリアムズはよく考えてから結論を出すと旅役者に言った。そして彼に礼を言い、「俺たちが王国を建てるのがいいという結論になって、建国を始めるときには、おまえを総理大臣、つまり陸の操舵員にとり立ててやる。人民を搾取して、おまえとおまえの女房子供が金持ちになったら、俺たちはおまえを守るため恩赦法を通してやるぜ」と約束した。そして乗組員全員に酒をふるまった。

「ウィダー」号の修理が完了すると一味は再び航海に出ることにし、ニューファンドランドのフォーチュン湾に船を向けた。沖で幾隻かの船を捕らえた。それらの乗組員を全員、無理やり仲間に加えると、船は沈めてしまった。

　それから間もなく嵐になった。嵐は数日間続き、ベラミーとウィリアムズは離ればなれになってしまった。「ウィダー」号はセントポール島沖で帆影を発見し、直ちに追跡した。近づいてみると、三十六門の砲を備えたフランス軍艦で、兵隊をケベックに運んでいる途中だった。「ウィダー」号は決然として戦いを挑み、対するフランス軍艦も、負けてはいなかった。軍艦は「ウィダー」号に二度の接舷を試み、その度に引き離された。双方に犠牲者が出た。二時間に及ぶ交戦の後、手に負えない相手とみたベラミーは遁走しようとしたが、軍艦はそれを許さず追跡してきた。しかし夜になり、ベラミーは脱出することができたのである。まだ明るいうちであったら、彼は確実に捕捉され、罪の裁きを受けていたことであろう。この海戦で彼は負傷者数名のほか、三十六名を失った。先に話した旅役者の総理大臣も死んだ。

「ウィダー」号はニューファンドランドに戻り、プラセンティア湾の沖で僚船に再会した。

　一味は再びニューイングランド沿岸へ行くことにした。「ウィダー」号はフランス軍艦との交戦で多数の砲弾を受け、大破していたからである。一味はセントジョージ砂州とナンタケット海岸の間で「メアリー・アン」号を捕らえた。

　この船の船長は、以前コッド岬でも一味に捕らえられたことがあった。彼はニューイングランド沿岸に精通していたから、一味から水先案内を命ぜられた。海賊どもは彼に舵を取らせた。ある夜、海賊全員が酔い痴れて騒いでいるのを見定めた船長は、真夜中、イースタム近くの海岸に自分の船を座礁させ、一人陸に逃げ出した。彼の船の灯りに従っていた「ウィダー」号も同じく座礁した。小型船は砂地に乗り上げ、乗組員は苦もなく陸に上った。

「ウィダー」号が座礁すると、海賊は捕虜、つまり彼らが無理やり仲間にしたものを一人残らず殺した。めった斬りにされた死体が海岸に散らばり、波に洗われていたことから、そう結論できるのである。「ウィダー」号にも、またウィリアムズの船にも、助かった捕虜は一人もいなかった。

　脱出した海賊は七人いたが全員住民に捕まった。そして難を逃れた船長の通報と彼らの自白により投獄され、有罪の判決を受けて処刑された。彼らは皆外国人で、無知頑迷な運中だった。しかし敬虔で学識深い牧師が倦むことなく神の教えを説き続けた結果、ついに彼らも自分たちの犯した罪を深く悔いるようになった。これらの海賊たちの裁判や、法廷そして刑場での彼らの行動の記録がボストンで出版された。興味ある読者はその冊子を読まれることを薦める。





29　ウィリアム・フライ船長と乗組員





　この海賊の出生についてはこれまでのところ何もわかっていない。またそれがわかったところでさして重要なことでもあるまい。なぜならこの男の行動から察して、親の素性はいかがわしく、またその教育程度から言っても（彼は熟練の船乗りではなかった）、海賊商売で残虐なことをする以外、取り柄のない男であったのは間違いない。彼は以前海賊だったが裁判で無罪になり、犯した罪を悔いて平水夫になった。そしてまっとうに働いたと伝えられているが、これは間違いである。彼は読み書きができず、そのくせ権力欲旺盛で、それを得るためにはどんな野蛮なことでもする手合いだったのである。

　一七二六年四月、フライはブリストルのグリーン船長が指揮するスノー船「エリザベス」号に甲板長として乗り組みジャマイカからギニア海岸へ向け出帆した。フライは、どんな悪事でもしそうだと見込んだ連中を唆して船を乗っ取り、船長と航海士を殺して自ら指揮して海賊になるつもりだった。彼は悪い仲間に計画を打ち明けた。連中は一も二もなく同調した。五月二十七日午前一時、見張りについたフライは仲間のアレキサンダー・ミッチェル、ヘンリー・ヒル、サミュエル・コール、トマス・ウィンソープその他を引き連れて、舵を取っていたモリス・カンデンのところへ行き、「一言でも声を出したり、一寸でも手足を動かしたら頭を撃ち抜くぞ」と脅した。そして腕まくりしてカトラスを引っ下げ、ミッチェルとともに船長室に押し入り、「外へ出ろ」と凄んだ。船長は「何事だ」と聞いた。フライは言った。「下らねえ質問に答えてる暇はねえ。おめえが大人しく外へ出て甲板へ行ってくれりゃ、この部屋の掃除をする手間が省けるのさ。そうでなきゃバケツに水を汲んできておめえの血を洗い流さなきゃならねえことになる。船の仲間はこのフライ様を船長に選んだのさ。俺たちはな、役立たずに飯を食わしてやるつもりはねえぜ」。

　船長は言った。「君たちがそう決めたのなら私は抵抗しない。だけど私がいたからといって、計画の邪魔にはならないから命は助けてくれないか。私は君たちに酷いことをしたことはないし、君たちだって私を殺して復讐しようとは思わないだろう。君たちの邪魔にならないという言葉を信用できないというのなら、私をどこかへ上陸させるまで鎖につないでおいてくれても結構だ」。フライは言った。「ふん、畜生。生きのびて俺たちを吊すつもりか。俺たちが捕まったらの話だがな。うんにゃ、そいつはいけねえ。その手に乗ってこれまでに大勢の正直者が吊されたんだからな」。

　ミッチェルとフライはすぐさま船長をベッドから引きずり下した。船長はどうか命だけは助けてほしいと懇願して言った。「誓って私は君たちの前に姿を現さない。私はまだ神の裁きの前に出る資格がないのだ。私は罪深い人間だ。だから私の心を曇らす汚れを悔いの涙で洗い流さないうちに命を取られるのは、死を迎える用意ができてから殺されるのとは較べようもなく酷いことだ。私は君たちにも何も悪いことをしていないのにそんなことをされたら、永遠に救われないではないか。だけど私を生かしておいてはどうしても安心できないと言うなら、どうか心の準備をするだけの時間をくれないか。それ以上の慈悲は求めない」。「糞、説教はやめな」ミッチェルがわめいた。「おめえの言うことなんか、俺たちに何になるってんだ。とっとと甲板へ上れ、犬め。おめえと話してるひまはねえんだ」。

　彼らは船長を船尾のほうへ追い立てた。船長が甲板へ上ると悪魔のような連中の一人が「勇敢に海に飛び込むか、それとも弱虫の悪党みてえにほうり投げられるか、どっちにする」と聞いた。船長はフライに向かって「甲板長、どうか私を海に投げ込んだりしないでくれ。そんなことされたら、私はお終いだ。地獄は私の罪の……」「うるせえ」とフライが答えた。「おめえはよっぽど信心深えようだから祈りの時間ぐれえくれてやるぜ。俺が牧師になってやるから、俺の言った後をついてしゃべれ。いいか。神よ、私を憐れみたまえ。よし。祈りは短けえほうがいい。野郎ども、こいつをほうり込んじまえ」。

　船長はなおも慈悲を乞い、一時間だけでいいから待ってくれと言った。しかし無駄だった。海賊どもは船長の身体を掴むと海に投げ込んだ。しかし船長の身体は主帆の索にひっかかって宙吊りになった。これを見たウィンソープは、大斧を持ってきて船長の手を斬り落した。船長はたちまち波に呑まれてしまった。

　船長の処分が終ると、今度は航海士のジェームズ・ジェンキンスが捕らえられ、甲板に連れ出されると同じように酷むごたらしく殺された。彼の命乞いも船長のときと同じくまったく無意味だった。一味は、ジェンキンスに下した宣告を取り消したりはしなかった。彼の哀願や抗議には耳も貸さなかった。人情や同情などには無縁な連中だった。そして、「おめえは船長の食事仲間だったし、一緒に飲んだこともある。そんないい友だち同士を離ればなれにするのは気の毒ってもんだ」と言った。

　一味は嘆き悲しむジェンキンスの姿を笑い種にした。それでも彼は多少の抵抗をした。海賊どもは苛立ち、一人が、ウィンソープが船長の手を斬るのに使った斧を取ると彼の頭めがけて打ち下した。狙いが外れ、斧は肩を大きく割った。彼は海に投げ出された。彼はこれにもめげず、泳ぎながら船医に、「ロープを投げてくれ」と叫んだ。しかし船医はこの声を聞くことができなかった。枷をはめられ自室に閉じ込められていたのである。仮にこの声を聞きロープを投げてやれたとしても、冷酷な連中が気持を和らげ、航海士の命を助けてやったとは思えない。しかし溺れるものは藁をも掴むのであり、人は最後まで希望を捨てないものである。命のある間は、何か僥倖をあてにしがちなものである。

　次に船医をどうするかが議論になった。船長と航海士の面倒を見させるため海に送り込んでやれというものもいたが、大部分は、船医は役に立つから生かしておいた方がよいという意見だった。邪魔者はすべて片付き、ミッチェルはフライを船長に推した。そして他の陰謀に加わった仲間とともに、仰々しく彼に船長室を提供した。

　大杯に酒が満たされ、モリス・カンデンが呼ばれた。彼の代りにジョン・フィッザーバードという男が舵についた。また大工と、トマス・ストリートンもフライの前に呼び出された。フライ船長は「おまえら三人は悪党だから、船長と航海士の後を追わせるに値する。だが特別の慈悲をもって命は助けてやろう。ただし枷ははめておくぜ。乗組員の安全のためにな」と言った。彼らは退室を命ぜられ、枷をかけられた。フライが仲間に「今後の針路を決めたほうがいいな」と言ったとき、船が近づいてくるという報告がきた。協議は中断し直ちに追跡に移った。この船は、ジャマイカを出帆するとき「エリザベス」号と一緒だった「ポンペイ」号だとすぐわかった。「ポンペイ」号は一味の船に近づくと、声を掛けグリーン船長は元気か、と尋ねた。フライは「船長は元気だ」と答えた。一味はこの船を襲うのはまずいと思った。そして協議を再開し、ノースカロライナへ向かうことにした。

　目的地に到着すると湾内に一隻のスループ船が碇泊しているのが認められた。フルカー船長の「ジョン・アンド・ハンナ」号だった。フルカー船長は一味のスノー船に水先案内人がいないのだろうと思い、航海士と二人の乗客アトキンソン氏とローン氏、それに一人の若者を伴ってボートでやってきた。スノー船を湾内に入れてやろうと考えたのである。一行が乗船すると、このスノー船は荷を積んでジャマイカから来たのだと聞かされた。フルカー船長とローン氏は船長のところへ行きたいと言った。フライは二人を船長室で丁重に迎え、酒を用意するよう命じた。フルカー船長がもう一人乗客を連れてきていると言うと、フライはアトキンス氏も召待した。

　酒が運ばれるとフライ船長は客人たちに言った。「俺は隠し立てはしねえ男だ。俺と俺の仲間はジェントルマン・オヴ・フォーチュン〔海賊のこと〕なのさ。フルカー船長のスループ船のほうが俺たちのスノー船より快速だったら、スループ船をいただくぜ。そのほうが俺たちの商売に向いているからな。おめえたちにはこの船をやるぜ」。スノー船はスループ船から一リーグほど離れて投錨した。フライはフルカー船長に、船をスノー船に横付けするよう命じた。そして彼を自分の手下六人とともにボートに乗せた。しかし風向きが悪くスループ船に近づくことはできなかった。フルカー船長を乗せたボートは戻ってきた。

　一行がスノー船の甲板に上ると、フライは激怒した。そしてスループ船を連れてこなかったフルカー船長を口汚く罵った。船長は理由を説明し、船を移動するのは不可能だったと言った。フライはわめいた。「何を言いやがる。この嘘つき犬め。おめえみてえな悪党は皮を剥いでやるぜ。船を連れてこられねえんなら、碇泊場所で火をつけてやるぞ」。フライは、フルカー船長を拷問にかけるよう命じた。理屈もなにもなかった。船長は裸にされ、酷たらしく鞭で打たれた。再びボートが出され、大騒動の末スループ船を砂州の外に移動した。そこで一味は船に穴を開け沈めてしまった。海賊どもはさらに水面から出ている部分に火を付けようとしたが、焼き払うことはできなかった。

　海賊スノー船は獲物を求めて出帆した。フルカー船長その他の人びとは釈放してほしいと願ったが、拒否された。それでも海賊は最初の獲物を捕らえたら、その時自由にしてやると約束した。

　六月五日、一味はカロライナを離れた。翌日、船影を望見した。バルバドスからギニアへ向かうゲール船長の「ジョン・アンド・ベティ」号だった。フライは追跡したが思うにまかせなかった。そこで今度はメイントップマストの頂に船首旗を掲げ遭難の信号を出した。しかし船はこんな罠には騙されず、全速で逃げた。フライは一晩中追い続けた。やがて風が凪ぐと相手の船は射程距離内に近づいていた。フライは海賊旗を掲げ数門の砲を撃った。相手は無防備だった。海賊どもは乗り込みの用意をした。ゲール船長は白旗を掲げた。フライは船首に投石器を備えたボートに手下を乗り組ませ獲物の船に向かわせた。一味はピストルやカトラスで武装して獲物の船に乗り移り、乗組員を監禁した後、ゲール船長を捕虜にしてスノー船に連行した。

　獲物の船は海賊にとって価値のないものだった。一味は少しばかりの帆布と小火器を奪っただけだった。二日後、一味は獲物の船から六人の乗組員を仲間に引き入れ、逆にフルカー船長と乗客のローン氏、そしてグリーン船長の船医をこの船に移して釈放した。アトキンソン氏は拘留したままだった。アトキンソン氏が以前ブリガンティーン船「ボニタ」号の船長で熟練した船乗りだと知り、ニューイングランド沿岸の水先案内人として引き留めたのである。アトキンソン氏がこの海域を熟知していることに海賊は満足だった。

　アトキンソン氏が他の人びとと同じように自由の身にしてほしいと言うと、フライ船長は次のような演説をぶった。「アトキンソン船長よ、俺たちはおめえを仲間にするのが嫌だと言ってるんじゃねえぜ。まったくのところさ。だが、畜生め、おめえが正直にしねえで俺の船を沈めようと何か悪だくみでもしようものなら、俺はおめえの脳みそをぶっとばしてくれる。うんにゃ、そんなことがあっちゃならねえ。なあ、アトキンソン船長、おめえは自分の好きにやることだってできるんだぜ。おめえなんぞはどこの馬の骨とも知れねえ奴だが、俺たちを間違った水路に案内することもできる。だがよ、畜生、そいつはまったく汚ねえ卑怯者のやることよ。おめえを信用している連中を裏切るわけだからな。だが誓って言っておくぜ。俺は、おめえが俺たちの吊されるのを見物できるまで生かしちゃおかねえ。俺はくだくだ言うのは嫌えだ。おめえがよくされてえと思うなら、いい子にしていることだ。だが、おめえがならず者で、俺たちの信頼を裏切ろうなんて気を起こしたら、俺はおめえを頭から地獄へ送り込んでやるぜ。それができねえなら、俺は神様に命をくれてやってもいいし、腹に硫黄をつめ込んで悪魔と一緒に火あぶりになってやってもいい。もういいだろう。話はやめだ。俺はおめえに自分の気持を全部ぶちまけた。乗組員全員が証人だ。俺がおめえの脳みそをぶっとばしたとしたら、それはおめえ自身の責任だぜ。わかったな、畜生」。

　アトキンソン氏は、自分はこの沿岸に自信もないのに水先案内を強要され、知識がないのが原因で失敗したら罪を問われて殺されるのではまったく間尺に合わないし、スノー船には熟練の乗組員もいることだから、自分たちの知識に自信を持ってよく、だから自分はゲール船長の船に乗せてほしい、と頼んだ。フライは答えた。「いやいや、そいつはならねえ。そんなおしゃべりで助けてやるわけにはいかねえな。多言は無価値って、スペイン人も言ってるだろう。貴様が正直に務めを果すか、俺がおめえを悪魔に渡してやるか、どっちかだ。さあ、もう話はおしめえだぜ」。

　アトキンソン氏は答えなかった。一味はニューイングランド沿岸を目差した。デラウェア湾沖で、ニューヨークからペンシルヴェニアへ向かうハリス船長のスループ船を発見した。この船には船客五十人が乗っていた。フライは直ちに追跡し、近づくと海賊旗を掲げて降伏を命じた。相手はこれに従った。フライはアトキンソン船長に三人の手下をつけてこの船に送り、操船を命じた。しかしアトキンソン船長に武器は持たせなかった。海賊どもは獲物を漁ったが、めぼしいものは何もなかった。一味はこの船を二十四時間拘留した後、乗組員ともども釈放した。ただ、乗組員の一人ジェームズ・ベンブルックという強壮な若者を仲間に引き入れただけだった。

　獲物を釈放した後、フライはアトキンソン船長にマーサズヴィンヤード島にスノー船を案内するよう命じた。しかしアトキンソン氏はわざと間違えた。フライは船がナンタケット島沖にきて自分の計画が挫折したのを知るとアトキンソンを呼びつけ、「貴様はとんでもねえ悪党野郎だ。たくさんの正直な乗組員を殺そうなんて考える奴を生かしておくのは人間のやることじゃねえ」と言った。アトキンソンは、自分は一度だってこの沿岸を知っているとは言わなかったし、自分の能力を買いかぶられてそのために死ぬのは間尺に合わない、と抗弁した。そして、水先案内を引き受けながらその仕事に不案内だというのなら罰せられてもしかたがないけれど、最初から知らないことを無理強いされたうえ、乗組員の失敗を自分のせいにされるのではたまったものではないと言った。フライはわめいた。「畜生、何を言いやがる。おめえはまったく腹黒い奴だ。おめえは俺たちを吊そうと思ったんだろう。だがそうはさせねえぜ、犬め」。彼は船長室に駆け込むとピストルを持ってきた。そしてアトキンソンに狙いを定めたとき、ミッチェルが割って入った。彼はアトキンソンが何も企んでいないと考えたのである。アトキンソンは一命をとりとめた。

　アトキンソンは自分の命が風前の灯であることを知ると、一味に取り入り始めた。そして殊勝な様子を見せて、自分が仲間に加わるかのような希望を一味に持たせた。彼はこれをあからさまには言わなかったが、折にふれ、さも偶然のように言葉にした。一味はこのような熟練船乗りを仲間に加えることに大喜びしたばかりか、彼が指揮を取ってくれたらフライ船長をお払い箱にしてもよいと匂わすものさえいた。フライは自分の指揮振りを大層なもののように言っているが、乗組員はだれもが、彼は熟練船乗りではなく、甲板長の仕事を知っているに過ぎないと思っていたのである。アトキンソンは自分が仲間になる意志があることを連中に知らせておくのは有利だと考えた。しかし、指揮に関することには耳を貸さないようにした。

　アトキンソンは酷い扱いを受けないようになり、乗組員たちは彼をフライの仕打ちから守ってくれた。フライはアトキンソンが機会さえあれば裏切るだろうと想像し、一度ならず彼を海に投げ入れることを提案したが、乗組員は承知しなかった。

　一味はナンタケットから東へ向かい、ブラウン砂州沖でスクーナー型漁船を発見した。フライは接近して威嚇発砲し、海賊旗を掲げると叫んだ。「すぐ降伏してボートをよこさねえと船を沈めちまうぞ」。スクーナー船はこれに従い、ボートを出した。フライはやって来た船長に、この近海でどんな船に遭遇できるか尋ね、脚の速い船を獲物にできたら、船を返して釈放してやるが、そうでなければ貴様の船を拘留する、と言った。気の毒な船長は、自分の僚船がもうすぐ現われるけれど、それは自分のよりよい船だ、と答えた。同日、すなわち六月二十三日正午ごろ、もう一隻のスクーナー船が視界に入ってきた。フライは時をうつさず捕らえた船に六人の手下と、捕虜のジョージ・タスカーという男を乗せ、スクーナー船を追わせた。フライ自身は三人の海賊とアトキンソン船長（彼はフライに多少目をかけられるようになっていた）、それに後に無理やり仲間に加えた十五人のものとともにスノー船に残った。しかし武器だけは甲板の自分の手の届くところに置いた。

　フライが心を許していないのは、アトキンソン船長、フルカー船長の航海士と二人の若い乗組員、グリーン船長の大工と砲手、ゲール船長の六人の乗組員、ハリス船長の乗組員ベンブルック、そして捕らえたスクーナー船の三人の乗組員だった。アトキンソンは捕虜と海賊が五対一であると見、いちかばちかやってみようと考えた。折よく、別の数隻の漁船が望見できた。アトキンソンはフライに、前方に数隻の船が見えるからスパイグラスで見てほしい、と言った。フライは武器を後甲板に置いたまま船首へ行き、錨巻きに腰を下して海を眺めた。アトキンソンは武器を確保すると、あらかじめ示し合わせていたウォーカーという男とベンブルックに、フライを掴まえるよう合図した。フライは簡単に捕らえられた。彼らは残りの三人の海賊も捕らえ、船を手中に収めた。他の捕虜たちは何事が起こったのかも知らず、まったく無関係だった。アトキンソンたちは捕らえた海賊どもをスノー船でグレートブルースターに運んだ。その地で監視兵が乗船した。一七二六年六月二十八日のことであった。

　翌七月四日、ボストンの裁判所において、マサチューセッツ湾地区副知事兼司令長官、海事特別法廷裁判長ウィリアム・ダマー以下十八名の裁判官列席のもとに一味の裁判が行なわれた。そこで彼らは殺人および海賊行為により有罪を宣告され、七月十二日処刑された。フライはボストン港の入口に鎖で吊されることになった。こうして、この凶悪な海賊は短い全盛期を終えた。彼はただ、大海を荒らし回ったいかなる海賊にも負けない権勢を求めたのだった。彼とともに処刑された三人の海賊の名はサミュエル・コール、ジョージ・コンディック、そしてヘンリー・グリーンヴィルといった。





30　トマス・ハワード船長と乗組員





　すでにホワイト船長の章でも話したように、ハワードはテームズ河の船頭だった。父親も同じ仕事で、実直な男だった。父親の死後ハワードは放蕩になり、自分に遺されたかねばかりか、母親の分まで濫費した。彼女が甘やかしてすべてを息子の手に委ねたばかりに、この放蕩息子は母親に相談もなく家を売り払い、彼女を路頭に迷わせたのである。彼と母親が破滅すると、友人たちはホワイトの邪な性格が自分たちに災いを及ぼすことを恐れて彼に船乗りになるようすすめ、ジャマイカ行きの商船に乗せた。この島に到着すると彼は船を脱走し、ならず者の仲間に入った。彼らは一隻のカヌーを盗んでグランドケイマン島へ向かった。自分たちと志を同じくし海賊になるつもりで島に潜んでいる連中と合流するためだった。こうして二十人の仲間ができた。一味は海亀漁のスループ船を急襲してそれを奪うと獲物を求めて海に乗り出した。

　最初の獲物は数隻の海亀漁船にすぎなかったが、これで一味は勢力を増強した。あるものは自ら進んで仲間に加わった。また、無人の小島に置き去りにすると脅されて仲間になったものもいた。

　しばらく航海すると食糧を積み役人を乗せたアイルランドのブリガンティーン船に遭遇した。一味はこの船を乗っ取り、相手の船長には自分たちの船を与えた。そしてジャマイカまでの航海に必要な食糧を与え、乗組員のうち五人に船長と同行することを許した。残りの乗組員は全員無理やり仲間に引き入れた。（役人たちは自ら進んで海賊になった。）

　間もなく一味はスペイン沿岸で貿易に従事していたスループ船を襲った。この船は砲六門を備え、一味の目的にいっそう適っていたから、自分たちのブリガンティーン船と交換した。スループ船の乗組員のうち幾人かは志願して仲間に加わり、幾人かは無理やり引き入れられた。

　この捕獲の後、一味はヴァージニアへ船首を向けた。途中、食糧を積んでバルバドスへ向かっていたニューイングランドの大型ブリガンティーン船に遭遇した。一味はこれを捕らえ自分たちの砲をこの船に移した。そして乗組員のうち幾人かを仲間に引き入れてから、船長にはスループ船を与え釈放した。一味はいまや備砲十門の船を持ち、総勢八十を数えた。ジェームズという男が船長になり、ハワードは操舵手だった。

　ヴァージニアの沿岸で一味はイングランドから来た数隻の船を獲物にして人手を増強し、酒、食糧、衣類その他必要と思われる品々を掠奪した。これらの船は数人の凶悪犯を護送中だった。一味は乗組員の幾人かを無理やり仲間に加え、さらにこれら凶悪犯のうちからも海賊の志願者を募った。一味の勢力はさらに増した。一味の手に落ちたヴァージニア船のうちに備砲二十四門の立派なギャレー船があった。この船も罪人を護送していたため、多くの海賊志願者を出した。一味は再びブリガンティーン船からこの船に乗り換えた。折しもこの沿岸を警戒中の軍艦を遠方に認め、一味は早々にこの地を離れた。

　一味はヴァージニアからギニアへ向かい、そこで国籍を異にする多数の船を捕らえ、掠奪をほしいままにした。以前無理やり仲間に引き入れたもののうち釈放を懇願したものを許し、代りに同数の人手をこれらの船の乗組員から補充した。

　この沿岸を航海すること数か月、一味はブラジルから来た備砲三十六門の三層大型ポルトガル船を発見すると、直ちに追跡し接近した。この船の船長はまったく抵抗しようとしなかったが、イギリス人でラトランドという名の航海士は船を放棄するのを恥辱と思い、防戦を決意した。ポルトガル人船長もこれに同意したが自分は安全な場所に身を潜めた。ラトランドは以前イギリスのブリガンティーン船の船長だったが、この沿岸で別の海賊に船を奪われてしまったのである。彼は新たな敵と午前中いっぱい戦った。しかしポルトガル人乗組員が甲板から逃げ出し、彼とともに戦うものはイギリス人、オランダ人そしてフランス人合せてたった三十人となるに至り、ついに降伏せざるを得なかった。海賊どもはポルトガル船に乗り移ると、ラトランドに「おまえが船長か」と聞いた。彼は「違う」と答えた。一味は船長の居所を追及した。そして船倉のどこかに居ると聞くと弾薬庫に隠れている船長を探し出し、甲板に引きずり出した。そして彼の怯懦を責め甲板中を鞭で追いて立た。ラトランド以下船を守って戦った乗組員たちは海賊船に連行された。一味は総勢百八十名になった。一味はギャレー船からこのポルトガル船に乗り換え、船を岸に着けた。そして上甲板を剥がして中甲板を深くし、また舷縁の一部を切り下げて荒天にも耐えられるようにした。一味はこの獲物を「アレキサンダー」号と名付けた。

　一味はこの船でギニア沿岸を下り、多数の船を捕らえた。それらのうちの幾隻かには、無理やり仲間に引き込んだもののうち、釈放を懇願するものを乗せて放免した。また他の船は沈めたり焼き払ったりした。しかし大工、かしめ職人、武器職人、船医そして楽師は残らず仲間に引き入れた。船を修理するつもりでロペツ岬へ向かう途中、ブリストル籍の大型船が碇泊しているのを発見した。この船は乗組員の多くを病気で失い、健康なものはほとんど残っていなかった。彼らはボートで岸に向かおうとしたが海賊どもに阻止された。一味はここでも無理に仲間に引き入れたものの幾人かを入れ換え、船を交換しようとした。しかし獲物があまりの老朽船であることがわかり、必要と思われる品を奪ってそのまま去った。この船はブリストルのゴドリーという人のものだった。

　ロペツ岬まではほかに何の獲物もなかった。目的地に着くと、一味は船を修理し、薪と水を補給して再び海に出た。

　ロペツ岬を出るとイギリス船が遠くに見えた。一味は追跡し、交戦となった。相手の商船は頑強に抵抗した。そして海賊が斬り込んでくると見るや、白兵戦に備えた。ハワード以下七、八人が乗り移った。しかし、一味の甲板長が相手の船に舫うことを怠ったため、海賊船は商船の船尾へ流されていった。残されたハワードらは危険を感じ、船尾にあったボートに飛び乗ると、もやい綱を切り、力漕して「アレキサンダー」号へ帰った。吃水の深い「アレキサンダー」号は、商船が無事通過した隠れた砂州に乗り上げてしまった。この僥倖によって、商船は難を逃れることができた。

　船が砂州に乗り上げてしまったため、一味は水樽に穴を開け、また薪を捨てて船荷を軽くした。このため、再びロペツ岬へ戻って必要品を積み込まなければならなかった。再度薪と水を補給して海に出た一味は二隻のポルトガルのブリガンティーン船を襲い、火を放った。船の乗組員たちは上陸させた。一味は希望峰を回り、マダガスカルへ向かったが、途中、島のオーガスティン湾の北四十マイルにある小島の岩礁に船を乗り上げてしまった。船長は病気で臥せっていた。海賊たちは船を軽くするため大量の食糧や水を近くの島に運び出した。船には船長のほか操舵員ハワードと乗組員十一人が残った。

　ハワードは残った乗組員らと戦利品をすべてボートに積み込み、マダガスカル本島に漕ぎ出した。甲板に人の気配がしないのに気付いた船長は室から這い出た。そしてハワードたちが船を離れて行くのを見ると、船首の二門の迫撃砲を彼ら目がけて発射した。この砲声に、上陸していた連中は驚いたが、どうしようもなかった。潮が引くと船体はすっかり水面上に出た。陸の連中は歩いて船に通うことができた。錨を運ぶためのボートがあれば船は助かったに違いない。しかしボートはすでに無く、彼らは筏を組んで船の荷をすべて陸揚げした。船は静かな入江に座礁していたから、彼らはこの難破船を壊して小型の船を作ることができた。乗組員の大部分はイギリス人とオランダ人だった。彼らは組になって、およそ三十六人のポルトガル人とフランス人を船に乗せ、三リーグほど離れたマダガスカル島へ追いやった。現状では人数に対して食糧が少な過ぎると考えたのである。一味は六十トンの船を作ったが、それを海に浮かべようとした日に、一隻の海賊ブリガンティーン船が入ってきた。海賊は彼らを船に乗せた。

　ハワード一味はマダガスカル島の北端を回ってセントメアリー島へ行くつもりで、島の西海岸沿いに北上した。しかし潮流が強すぎたため、近くの岸に二週間逗留した。その間一味は沖に三隻の大型船を認めた。これらはリトルトン提督が指揮する軍艦「アングルシー」号、「ハスティング」号、および「リザード」号であった。提督は国王の海賊赦免状を携えてセントメアリー島へ航海しての帰途だった。この島で多くの海賊が赦免を受け入れた。ハワードらはこれらを海賊船と思い、烽火を上げた。しかし、やってきたボートが軍艦のものとわかると身を隠した。岸に着いたところ人っ子ひとりいなかったから、ボートは軍艦へ戻り、艦隊はそのまま航海を続けた。

　この土地は魚が豊富で、森には野生の豚がたくさんいた。ある日、ハワードは狩に出たが、仲間はその隙にボートを出し、島の北端を回った。ハワードは一人残されてしまった。

　ボートの一行は、北の岬から二十四、五リーグ下った島の東岸に良港を見つけて入った。ここはヨーロッパの船に知られておらず、立ち寄る船もなかった。彼らはこの土地を治めるムシュマンゴという王から非常な歓待を受け、新鮮な肉そのほか必要なものは何でももらうことができた。この王は以前戦争でオーガスティンを追われ、島の中央部を越えてこの地に落ち着いたのだった。一味がボートに食糧を積んでいる間に、ハワードを置き去りにしたあと一味の指揮者になったジョンソンと他に三人のものが上陸した。残りの連中は戦利品を積んだままボートを出してしまった。そしてセントメアリー島を目差し、岸に沿って南下した。毎日、夜になると適当な湾に入り、また逆風のときは錨を下して碇泊しながら航海を続けた。

　ジョンソンは王のところへ行き、ボートと戦利品は自分のものだと訴えた。王が数人のものを連れて岸を下ってみると、はたしてボートが投錨していた。ボートでは一人が見張りに立ち、残りの乗組員は眠っていた。王は見張りを狙ってらっぱ銃を発射し、殺してしまった。銃声で他の乗組員は目を覚し、錨綱を切って逃げ出した。王は戻ると、ジョンソンにこのことを話した。そして仲間を追うようにと言って、カヌーを一隻、水を入れたひょうたん数個、食糧、それに槍数本を彼に与えた。

　ジョンソンは岸に沿ってセントメアリー島まで航海した。そこで、脱走した仲間がアンボナヴラのマナンサルグ河沿いにある原住民の村に住んでいると聞いた。彼はカヌーを降り、ある原住民の家に行った。この原住民は彼を仲間のところへ連れていった。

　アンボナヴラに滞在して数か月したとき、フルジェット（ボーウェンの章で話した）がマルティニク島からこの地へやってきた。この船で彼らはマダガスカル島の西岸へ向かい、ハワードを置き去りにした場所から三十リーグほど離れたアンクアラという島に投錨した。

　これより先、アンクアラ王の部下がハワードを発見し、この地に連れてきていた。ハワードは岸近くに船が碇泊したのを見て「おーい」と呼んだ。ボートがやってきて、彼を船へ運んだ。こうして彼は昔の乗組員らと再会した。

　ここで二人の黒人少年が脱走した。王がこの二人の引き渡しを拒んだため、海賊どもは未明に上陸し、街を奇襲した。そして王の愛妾十二人を誘拐し、王が少年たちを返さなければ彼女らも渡さないことにした。彼女らと交換に少年たちは返された。ハワードは後に、この船から「スピーカー」号に移り、モーリシャス島で難破するまで乗務した。それからマダガスカルへ戻り、オーガスティンに落ち着いた。ある日この地にヒラード船長が指揮する備砲三十六門の「プロスペラス」号が入港した。ハワードはこの船の甲板長そのほか幾人かの乗組員の手引きもあって、仲間の海賊らとともにこれを乗っ取った。このとき船長と一等航海士が殺され、ほかにも数人が負傷した。ハワードは船長に推された。

　乗組員のうち幾人かは海賊の仲間に加わった。一味はマダガスカル島の南端を回って東岸に出、マリタンまで足を延ばした。この土地で「スピーカー」号の乗組員の一部を発見し、仲間に加えた。一味は総勢七十人ほどになった。

　ここから一味はセントメアリー島へ行き、船を修理し、水や薪を補給した。一味はさらに幾人かの人手を補充した。この地で彼らはオルト・ヴァン・タイルという男の訪問を受けた。この男はマダガスカル本島に住んでいたが二人の子供に洗礼を受けさせるためこの島にやってきたのだった。彼は一味を歓待した。しかし、オルト・ヴァン・タイルが以前海賊を幾人か殺したことがあるという噂を耳にすると、それが事実かどうか定かでなかったにもかかわらず、一味は彼を監禁して家を掠奪し、さらに彼の大型カヌーで持ち出せない品物は河へ投げ込んだり焼いたりした。一味はオルト・ヴァン・タイルを船へ連行し、帆桁に吊してしまうつもりだった。しかし海賊の一人が彼を逃がした。オルト・ヴァン・タイルは森へ逃げ込んだ。そして彼が雇っている幾人かの黒人に会い、奪われた自分のカヌーとハワードのボートを待ち伏せさせた。海賊どもはオランダ人のカヌーに品物だけでなく彼の女や子供たち、そして彼の世話になっている白人たちも乗せていた。海賊どもは女たちにカヌーを漕がせたが、州に乗り上げて転覆してしまった。オルト・ヴァン・タイルは一味に向けて発砲し、一人が腕と大腿部に弾を受けた。オルト・ヴァン・タイルの仲間がこの男を捕虜にした。残りの海賊は河の南岸へ上陸して逃がれた。女たちは北の岸へ上って家に帰った。ハワードのボートが下ってくるとオルト・ヴァン・タイルは発砲した。ハワードは腕を撃たれたが船に帰ることができた。「プロスペラス」号は帆を揚げてメセラージへ向かった。メセラージに着くと食糧を補給した。東インド諸島へ遠征するつもりだった。ここに碇泊中、砲四十門を備え乗組員も十分なオランダの大型船が入ってきた。「プロスペラス」号が攻撃できる相手ではなかった。オランダ船の方も、商売ができなくなることを恐れ、ハワードに手を出そうとはしなかった。しかしハワードに激しい言葉を浴びせ、この土地を出ていかなければ一発御見舞いするぞ、と威嚇した。ハワードはこれに従うほうが得策と考え、マヨッタ島へ向かった。

「プロスペラス」号が出帆して数日後、ボーウェン船長がスコットランド船でこの港に入ってきた。そしてオランダ船の直前、ほぼ小銃の射程内に投錨した。オランダ船は十一発の礼砲を発射し、一方ボーウェンも十五発の礼砲でこれに応えた。両船とも太鼓を打ち、らっぱを吹き鳴らした。しかし、オランダ船は疑惑を抱いた。そして「どこから来た」と海賊船に声をかけると「海からだ」という答が返ってきた。船長は海賊船にボートを出してこちらへくるよう命じた。海賊の操舵手がやってきて、自分たちは危害を加えるつもりはなく、ムーア船を獲物にしようと考えており、食糧を補給するためここに立ち寄ったのだ、と言った。船長は、ここでは食糧は手に入らないから出て行ったほうがよい、と言った。しかし海賊の操舵手は上陸して牛を三頭撃ち、それを原住民に命じて解体させた。オランダ人は、海賊と原住民が親密なのを見、またボーウェンの船には人手が十分なことを知り、さらに別の海賊船が二隻やってくるはずだと聞くに及んで、夜のうちに出帆してしまうほうがよさそうだと判断した。オランダ人は岸に建物を構え、商品を置いていたが、それらを残したまま出帆した。

　数日後、ボーウェンは残された商品を奪ってマヨッタ島へ向かった。この島で「プロスペラス」号と一緒になり、東インド諸島へ行く時期になるまでここに滞在することにした。しばらくすると塩漬けにした食糧が腐ってしまった。そこでマダガスカルへ戻り、再び食糧を積むことにした。ボーウェンはオーガスティンへ、ハワードはメセラージへ向かった。（ボーウェンの章で話したように、ハワードの船にはウーレイ船長が乗っていた。）二組の海賊はムーアの船隊を待ち伏せするため、セントジョン島で落ち合うことにした。幾度かの行き違いののち、彼らは合流し、ムーアの船隊を襲った。一隻がボーウェンの餌食になった。しかし「プロスペラス」号は船足が重く、船隊が荷を降ろすためスラトの砂州に投錨したときやっとそれに追い付くことができた。ムーア人たちは、ハワードの船の甲板には二、三人しかおらず（彼は乗組員を船内に隠していた）、まさか海賊がここまでやってくるとは想像もしなかったから、これをイギリス東インド会社の船だと思った。ハワードはいちばん大きな船に襲いかかった。相手は激しく抵抗したが、三十人が殺された。ハワードはムーア語を話すウーレイ船長に、相手の船へ行って降伏を勧めるよう命じた。ムーア船は降伏した。獲物の船にはムガール帝国皇帝の高官が乗っていた。彼は皇帝のためにヤッファで馬を買い付けてきたのだった。船にあるかねは一部しか見つからなかったが、戦利品は莫大な量になった。一味はこの船をマダガスカルまで連行するつもりだった。しかし砲撃のためボウスプリットが傷み、マストもすべて使いものにならない状態になっていた。そこで海賊はこの船を漂流するに任せた。船はポルトガル領ダマンに流れ着いた。

　ハワードはここからマラバー沿岸へ向かった。そこでボーウェンに再会した。ボーウェンは獲物にした備砲五十六門の船に乗っていた。彼を扱った章で述べたように、海賊は全員ボーウェンの船に移り、「プロスペラス」号とボーウェンが最初に乗っていたスコットランド船「スピーディ・リターン」号には火を放った。一味はインド沿岸を航海した。ハワードは二十名余りのものとともに、分け前を持って上陸し、原住民の中に落ち着いた。そして土地の女と結婚したが、もともと気むずかしく陰険な男だったから、彼女を酷く扱った。このため彼は彼女の親族に殺されてしまったのである。





31　ルイス船長と乗組員





　この紳士は早くから海賊稼業に乗り出した。海賊バニスターの船に乗っていた二人の少年のうちの一人がルイスだった。バニスターは軍艦に捕まり、帆桁の端に吊されて、ジャマイカのポートロイヤルへ連行された。ルイスともう一人の少年も胴体を縛られて後檣の頂に吊され、この島へ連れてこられたのである。ルイスは言語の才があり、モスキルインディアンの言葉、フランス語、スペイン語、それに英語を流暢に話した。英語を含めたのは、彼の出生が定かでなく、フランス人なのかイギリス人なのかわからないからである。

　強健な青年になったルイスはジャマイカを後にしたが、ハヴァナでスペイン人に捕らえられた。しばらくこの地にいたが、ある日六人の仲間とともに小型カヌーを盗んで脱出した。そしてスペインのペリオーガー船を急襲した。この船から二人が仲間に加わった。一味は九人になった。彼らはこのペリオーガー船で海亀漁のスループ船を襲い、船を奪った。幾人かの乗組員を仲間に引き入れ、残りはペリオーガー船にのせて釈放した。

　ルイスは小さな船で沿岸航行船や海亀漁の船を襲った。無理やり仲間に引き入れたり、自ら加わったものたちで一味の勢力は四十を数えるに至った。

　ルイスはこの仲間を率いて、ジャマイカからカンペチ湾へ向かっていた大型ピンク船を獲物にした。さらに同じ航路の船を幾隻か獲物に加えた。カンナ湾にタッカー船長が指揮する、バーミューダで建造された備砲十門のブリガンティーン船が碇泊しているという情報を得たルイスは、タッカー宛の手紙を認め、ピンク船の船長を使いに遣った。自分はおまえが指揮しているようなブリガンティーン船を欲しいと思っていたところだから、大人しくそれを渡してくれれば一万ピース・オヴ・エイト払うつもりだが、嫌だと言うなら、どうせどんな手段を講じてでも船を頂戴することに決めているのだから待ち伏せしてやる、というのがその主旨だった。タッカー船長はこの手紙を読むと、湾に碇泊していたすべての船の船長を呼んだ。そして海賊の手紙を見せ、五十四人の人手を援助してくれたら、自分が湾から出て海賊と戦うと言った。（彼の船にはおよそ十人が乗り組んでいた。）船長らは、自分たちは乗組員があってこそやっていけるのだし、だれもができる限り自分自身のことを考えるべきだから、部下を危険に暴すようなことはしたくないと言ってこれを断った。

　しかし彼らは一団となって出港した。陸の陰に船が見えた。そしてこちらが凪いでいる間に風を受けて近づいてきた。あれは海亀漁船だと言うものも、海賊船だと言うものもいた。はたして、それはルイスの船だった。海賊船は、オールを使ってスループ船団の真中へ漕ぎ進んできた。スループ船のうちには砲を四門備えたもの、二門備えたもの、砲を持たないものなどがあった。ジョセフ・ディルは二門の砲を持っていた。彼はそれらを片舷へ寄せ、海賊船めがけ盛んに発砲した。しかし不運にも一門が暴発し、彼のほか三人が死んだ。タッカーは全スループ船に向かって「人手を貸せ。私がルイスと戦う」と呼んだ。しかし無駄だった。だれもタッカーの船に来なかった。風が出てきた。タッカーは帆を操って一団から離れていった。スループ船は一隻残らず海賊の餌食になった。タッカーは現場から離脱しながら海賊船を砲撃した。スループ船の一隻（船長の名は伏せておこう）は非常な快速船で、遁走しようとしたが、ルイスはこれに一発見舞い、停船させた。彼はすべてのスループ船を手中に収めてから、この船長を呼びつけた。船長がやってくると、ルイスは、「なぜ貴様はならず者か臆病者みたいに、荷主の信頼を裏切って停船したりしたのだ」と詰問した。「貴様の船は俺のより快速だから、逃げられたはずだ」。ルイスは船長に綱をつけ、容赦なく鞭で打ちながら甲板中を引き回した。船長は海賊を宥めるつもりで、「自分は数か月間貿易航海に出ていて、相当なかねを船に隠し持っているが、捕虜になった黒人を使いに出せば、その隠し場所を教えてくれると思う」と言った。

　だが、これはかえって逆効果だった。ルイスは「そんな秘密を暴露するとはとんでもない悪党だ。荷主を裏切るような奴は俺が懲らしてやる」と言い、前にも増して強く鞭をふるった。そして手下をスループ船に遣り、かねを奪い、腕利きの黒人水夫を連れてきた。その他の船からも、必要物資を掠奪し黒人水夫四十人と白人の大工一人を仲間に加えた。拿捕した最大のスループ船は九十トン近かった。ルイスはこれを自分の船にし、砲十二門を据え付けた。一味は白人黒人合わせておよそ八十名になった。

　この掠奪の後、ルイスはフロリダ湾を航行し、西インド諸島へ向け帰路につく船を待ち伏せた。これらのうちの数隻を捕らえると、掠奪した後釈放した。ここからカロライナへ向かい、そこで船を修理した。無理やり仲間にされたものが大勢脱走した。ラム酒と砂糖と交換に、原住民からあらゆる必要物資を手に入れることができた。ルイスは人目につかない入江に船を碇泊したから、植民地政府に気づかれることはなかった。それでも岸から奇襲を受けないように、守りは十分固めておいた。

　一味はカロライナからヴァージニア沿岸に船を進めて数隻の商船を掠奪し、幾人かを仲間に加えると再びカロライナに戻り、その沿岸で荒掠の限りを尽した。

　一味にはフランス人が多数を占めるようになった。ルイスは、イギリス人乗組員がフランス人たちを置き去りにしようとしていると聞き、疑わしい連中を監禁した。そして岸から十リーグ離れた地点で、イギリス人全員をボートに乗せ、肉十切れ持たせただけで放逐した。船にはフランス人と黒人だけが残った。

　ルイスはニューファンドランドの砂州に向かい、数隻の漁船を餌食にした後、好都合な退避場所に船を入れて修理した。修理が完了するとコンセプション湾のトリニティ港に入った。港には数隻の商船が碇泊していた。海賊は「ハーマン」号という備砲二十四門のギャレー船を捕らえた。「ハーマン」号のビール船長はルイスに、操舵手を上陸させれば陸の連中は必要物資を提供してくれると思うと言った。ルイスは操舵手を上陸させた。陸では船長たちが協議した。そして操舵手を逮捕し、ウッズ・ロジャーズ船長に引き渡してしまった。ロジャーズ船長はこの海賊を岸にあった大錨に鎖でつなぎ、また一味の船が逃げ出せないようにするため、大砲を据え付けた。しかしこれは役に立たなかった。人びとが一門の砲を早まって発射してしまったのである。ルイスは獲物を手放し、自分のスループ船に戻ると、夜の闇に紛れ、オールを使って脱出した。船体は多数の弾丸を受けた。最後の命中弾は甚大な損害を与えた。

　ルイスは港外に出ると、絶対に操舵手を取り返してやると誓った。沖で二隻の小型漁船を待ち伏せして捕らえた。このうちの一隻に、ビール船長の弟が乗っていた。ルイスはこれらの船を拘留し、操舵手を即刻釈放しなければ捕虜は皆殺しにすると陸に伝えた。操舵手は直ちに釈放され、戻ってきた。ルイスや仲間たちは、陸でどんな扱いを受けたのかと彼に聞いた。彼はなかなか丁重な扱いだったと答えた。ルイスは言った。「それならいいってことよ。おめえがひでえ目に遭わされていたら、俺は陸のならず者連中を刃にかけてやるつもりだったぜ」。捕虜は釈放された。ビール船長の弟が下船しようとするのを見た操舵手はそれを呼び止め、「陸の紳士たち、特にロジャーズ船長の健康を祝して乾杯しなきゃいけねえぜ」と言った。そして「俺が一晩中鎖につながれていたことを仲間に話したら、奴と奴の部下は八っ裂きになってたはずだと伝えておけ」と彼の耳許で囁いた。これらの捕虜が行ってしまうと、操舵手は自分がどんな扱いをされたかルイスに話した。ルイスがそれを詰ると、彼は「正直者が罰を受けるのはよくないと思いますぜ」と答えた。

　商船の船長らはセントジョンズ島に碇泊していた軍艦「シャーネス」号のチューダー・トレヴァー艦長に使いを出した。艦長は直ちに出帆したが四時間ほど一味を追跡しただけで取り逃してしまった。

　海賊船はこの沿岸を航行しながら数隻のフランス船とイギリス船を獲物にした後、ある入江に入った。一隻のフランス漁船が操業していた。これは戦争末期に私掠船として造られた快速船で、二十四門の砲を備えていた。船長は海賊船に「どこから来た」と声を掛けた。海賊は、ラム酒と砂糖を積んでジャマイカから来た、と答えた。フランス船の船長は、「とっとと商売に出ていけ。この辺りを海賊船がうろついているという話だが、貴様らがその海賊じゃないのか。すぐ出て行かなければ一斉射撃を見舞うぞ」と脅した。ルイスは岸から見られない程度の沖合に出て二週間遊弋した。どうしてもこのフランス船を獲物にする決意だった。フランス船の船長は防備を固め、岸には港内を射程に収めるような砲台を築いた。二週間後、もう去ったと思われた頃に海賊船は戻ってきた。そしてフランス船の二隻のボートを捕らえ手下を乗り込ませた。一隻は岸の砲台を攻め、他の一隻はフランス船を急襲して乗っ取った。ちょうど明けの明星が出る刻だったからルイスは獲物を「モーニング・スター」号と名付けた。この戦いで船主の息子が殺された。彼はほんの好奇心からこの航海に出ていたのだった。船を手中に収めた連中は合図の砲を七発撃った。海賊船が入ってきて横付けした。船長はルイスに「酒がほしいだけなのだろう」と聞いた。ルイスは「船がほしいのさ」と答えた。そしてスループ船の弾薬や食糧をすべてこの船に移した。船長は、一味が自分の船を持って行くつもりだとわかると、船のくせを教えた。ルイスは船長にスループ船を与え、獲った魚のうち自分たちの食糧にする分を取り、残りは全部返した。フランス船の乗組員の幾人かが仲間に加わった。一味は、無理やり引き込まれたり、志願して加わったイギリス人とフランス人を合わせ、総勢二百を数えた。

　一味はニューファンドランドからギニアへ向かい、そこで多数のイギリス、オランダそれにポルトガルの船を捕らえた。これらのうちに、カロライナのスミス船長の船があった。この船を追跡中のできごとによって海賊たちはルイスが悪魔と取り引きしたと信じた。相手の砲撃で前檣の中檣のトップマストが吹き飛ばされると、ルイスは横索を伝って大檣のトップに駆け登り、髪の毛を一掴み引き抜くと「悪魔よ、俺が行くまでにこれを取れ」と叫びながら空中に投げ上げた。船はトップマストを失う前より速度を増して、獲物に追い付いた。

　スミスは捕らえられた。しかしルイスは彼を手厚くもてなし、掠奪した以上のものを与えた。

「そしてかねがたまったら俺もカロライナへ行くつもりだ。そのときはよろしく頼むぜ」と言って彼を釈放した。

　一味はしばらくこの沿岸を航行したがそのうちフランス人とイギリス人乗組員の間にいさかいが起こった。多勢を占めるフランス人乗組員は仲間を離れることにした。そしていま乗っている船は船底が銅張りになっておらず腐食が進んでいたから、最近獲物にした大型スループ船を自分たちで使うことにした。

　話合いに従って彼らは必要な弾薬と食糧をこの船に運び込み、ル・バールという男を船長に選ぶと帆を揚げた。風が強くなった。彼らは甲板にところ狭しと積んだ弾薬や食糧を船倉に収容するため、岸の近くに投錨した。ルイスは残った手下に「ろくでなし連中に仕返ししてやろう」と持ちかけた。彼は舷側の砲に新しく弾薬を装填し、ル・バールの船に並んだ。そして「貴様のマストを切れ、さもなければ船を沈めるぞ」と命じた。ル・バールは止むなくこれに従った。ルイスはさらに全員上陸するように命じた。彼らは武器や食糧を携えることを許可してほしいと頼んだが、ルイスは小火器と弾薬箱だけ持って行くことを認めた。彼らが上陸するとルイスはスループ船からこの船に乗り移り、積荷をすべて運び込むとそれまで乗っていた船を沈めた。

　ル・バールらは船に乗せてくれと頼んだ。ルイスは、全員を乗せることは拒否したが、ル・バールと幾人かは許した。彼らを交え、乗組員たちは浴びるように酒を飲んだ。黒人の乗組員らが、フランス人が陰謀しているとルイスに知らせた。ルイスは「運命には逆らえねえ。俺がキャビンに居ると悪魔が来て、俺は今夜殺されるって告げたのさ」と答えた。

　真夜中、残りのフランス人がカヌーでやって来た。そして船長室に忍び込みルイスを殺した。彼らは乗組員にも襲いかかったが、一時間半の乱戦の後、撃退された。アイルランド出身の操舵手ジョン・コーネリアスがルイスのあと船長になった。





32　コーネリアス船長と乗組員





「モーニング・スター」号の船長になったコーネリアスはギニア沿岸の航海を続け、数隻のイギリス船とポルトガル船を獲物にした。イギリス船は掠奪した後釈放したが、ポルトガル船はすべて焼き払った。

　コーネリアスが沿岸を荒掠しているころ、二隻のイギリス船がワイダーで奴隷を買い付け、まさに出帆しようとしていた。一隻は砲三十六門、もう一隻は十二門を備えていた。二隻はひどくいがみ合っていたが、海賊が悪事をほしいままにしているという情報を得ると、身を守るため手を繋ぐことにした。小型船の船長は病気で臥せっており、船は航海士らに一任していた。二隻が出帆して間もなく、大型船から二百人の黒人が海へ飛び込んで脱出した。このため船は停船し、ボートを出さなくてはならなかった。小型船の航海士は船長に事件を報告し、自分たちも停船してボートを出し、僚船を助けるべきだと言った。しかし病身の船長は一刻も早く岸を離れたかった。そして、四百人もの奴隷を乗せていて、ただでさえ人手が足りないうえにボートなど出したら、彼らは叛乱するかも知れず、危険このうえないと言って、そのまま航行することを命じた。航海士は、僚船を残して行ったら、海賊に襲われる危険があると言い張った。船長は、海は広いし、停船するつもりはないと答えた。こうして船は順風を受け快走した。

　二日後、朝八時ごろ、航海士は水夫にマストに登って見張りをするよう命じた。見張りが帆影を認めた。船は直ちに戦闘準備を整えた。船には、アフリカ会社に勤めギニアで三年を過ごしたジョゼフ・ウィリアムズという男が乗っていた。ウィリアムズは黒人の言葉を流暢に話した。彼は五十人の奴隷を選び出し、「沖に見える船はこの船を攻撃してくると思うが、奴らは人食い人種だから、もし奴らが勝つようなことになれば、おまえたちは全員殺され食われてしまうだろう。自分たちの命を守るために全員戦え」とけしかけた。そして彼らに槍や小火器を渡した。

　十時近く、コーネリアスが近づいてきた。「どこの船か」と問いかけると、「自分たちは海賊を追っている軍艦だ。ボートをこちらへ出せ」と命じた。コーネリアスの船はイギリス国旗と長旗を掲げていたが、一行はこれを拒否した。海賊船の砲が火を吹き、たちまち激しい戦闘になった。戦いは十時間にも及んだ。その間黒人たちは実に見事な腕前で槍を投げ、コーネリアス一味が斬り込んでくるのを防いだ。夜八時、船尾に爆発が起こった。乗組員たちは直ちに大型ボートの索を断ち切った。しかし船はどんどん沈み、ボートに乗り移る時間はなかった。前甲板にあったヨール〔船載ボート〕を浮べるのがやっとだった。船は片舷を下にした。ジョゼフ・ウィリアムズは反対側へ行こうとしてズボンのバンドを後檣の止め具にひっかけてしまい、船もろとも水中に没した。しかし彼は落ち着いて、手にしたナイフでバンドを切り、浮かび上がるとボートに泳ぎついた。ボートにはすでに十六人が乗っており、それに縋り付こうとするものは頭を殴られたり手を斬られたりした。しかし彼は必死に懇願し、片手だけ船べりにかけさせてもらった。彼らは海賊船に近づいた。海賊は、仲間に加わらなければ救助しないと言った。生き延びるため彼らはこの条件を呑んだ。海賊は彼らを親切に迎え、乾いた衣類を与えた。助かったのは、彼らと黒人一名だけだった。

　それから間もなく、海賊は二隻のポルトガル船を捕らえた。コーネリアスはこれらを掠奪し、拘留した。ある霧の深い朝、砲声が聞こえた。コーネリアスはその間隔から、弔砲だと思った。実際、これはイギリス人船長の死を悼む弔砲だった。コーネリアスは手下を獲物の船から呼び戻し、船を釈放した。そして砲声の聞こえた方向へ船を進めた。

　およそ二時間後、弔砲を打った船を発見した。海賊はすぐこれに近づき、何の抵抗もなく拿捕した。先の戦闘で撃沈された船の乗組員たちは、この獲物がイギリス船で、海賊がこれを拘留するつもりではないと知ると、自分たちには家族があり、彼らは自分たちだけが頼りなのだから、どうか釈放してほしいと懇願した。

　コーネリアスはこの言い分を聞き入れ、ライムハウス出身のポーウィス（彼はずっと船長をし、財を蓄えた）、一等航海士ジョージ・フォアロング、甲板長、大工、その他家族持ちのものを拿捕した船に移した。そして彼らが船を失ったことを考え、ポルトガル船の分捕り品を分け与えた。しかしジョゼフ・ウィリアムズと独身者は留置したままだった。一方イギリス船から幾人かの乗組員を補充した後、これを釈放した。

　その後、海賊は碇泊中の三隻のポルトガル船を捕らえ、掠奪した。そして、そのうちの一隻を使って傾船修理を行なった後、これらの船を焼き払った。一味はしばらくこの沿岸に留まって貿易に多大の損害を与え、また多くのものを無理やり仲間にひき入れた。こうして仲間にひき入れたものたちを、コーネリアスは奴隷として扱った。彼らは散々に打たれ反抗しようとも思わなくなった。ここで人が復讐心をもつとどうなるかという例を一つあげておこう。舵を取っていたロバート・ブランドという男が、ジョゼフ・ウィリアムズに、しばらく舵柄を替ってくれと言った。ウィリアムズが拒否すると、ブランドは舵柄の止め綱でウィリアムズをいやというほど殴った。ウィリアムズはブランドと戦って復讐する権利を得るために、すぐさま海賊船の名簿に署名し、進んで海賊になった。そしてブランドとの決闘を願い出た。決闘は素手で戦うことを条件に許可された。こうしてウィリアムズは敵に立ち向かったが、とてもかなう相手ではなかった。彼は海賊に転向して、すっかり打ちのめされてしまったのである。

　コーネリアスは、ギニア沿岸は十分荒らし尽したと考え、希望峰を回った。そこでリトルトン提督が指揮する「リザード」号以下二隻の軍艦を望見した。コーネリアスは追跡するつもりだったが、乗組員たちは気乗りしない様子だった。無理やり仲間にしたものが七十名もおり、またそれらが軍艦らしいというのが彼らの言い分だった。そこでコーネリアスはマダガスカルへ向かい、西岸のメセラージ河へ入った。そしてポンボトクという、小さな黒人の村を前にして投錨した。

　操舵手が上陸すると村長が会見した。幾人かの黒人は英語を話した。操舵手は、自分たちは食糧の補給と交易のためにやってきたと言った。これを聞くと村長は牛を二頭、海賊のボートへ届けさせた。そして村びとに、操舵手を王のところへ案内するよう命じた。ボートの連中は、幾人かの黒人が操舵手を連れず海岸に近づいてくるのを見て、何か悪いことが起こったのではないかと心配した。しかし黒人たちが二頭の牛をくれ、操舵手は二十マイルほど離れたところに住む王のところへ行って明日戻る予定だと聞かされ、心配は薄らいだ。

　操舵手は、らっぱ銃、飾り付きの銃、ピストル二丁を王に贈り、食糧を提供していただけないかと頼んだ。王は、「おまえたちはどこへ行くのか」と尋ねた。操舵手は、「私たちは現在とても貧しいので、財産を作りに行くところです」と答えた。「うむ、そうか」と王は言った。「わしはおまえたちから何ももらうつもりはない。わしは、白人を皆自分の子供と思っておる。白人は、わしがこの国を征服するのを助けてくれた。この国の牛は全部白人たちのものじゃ。わしはおまえたちにいくらでも食糧をやるし、それが無くなったら、またやろう」。王は牛一千頭を海賊のところへ送り、「好きなだけ取るがよい」と言った。彼らはよく肥えたもの百頭を選んで肉を塩漬けにした。

　ここで、アンディアン・チメナット、すなわちチメナット王と呼ばれているこの王のことを話しておこう。彼はメセラージとセントオーガスティンの間にある国を治めていたアンディアン・リスチーの二男で、兄はティマナンガリヴォといった。

　アンディアン・リスチーが死ぬと、チメナットは弟と多数の臣民に助けられ、兄のティマナンガリヴォから王国を奪おうとした。しかしチメナットは敗れ、彼の一派は退却せざるを得なかった。彼はなおも兄に戦いを挑み、再三の敗北を喫した末、勢力も著しく弱まって逆に襲われる心配が出てきた。彼は北へ退却し、そこでアンディアン・メセラージに戦いを挑んだ。しかし大きな成功もなく、海岸に面した土地に落ち着いた。ここではアラブ人の系統を引く海の住民アンティルトと、島で最も下層の民と見做されているヴォージンボにひどく悩まされた。

　そうこうしているとき、ニューヨークのフレデリック・フィリップスの二隻の船が奴隷を買い付けるためユンゴウル（ティマナンガリヴォの国）に着いた。しかし、白人を尊敬していたアンディアン・リスチーはすでに死んでいた。老王が死んだのは寄港したブリガンティーン船上でブランデーを飲み過ぎたためであったが、王子のティマナンガリヴォが、乗組員が父を毒殺したのだとして彼らを斬り殺したということを聞いた一行は、同じ沿岸の別の土地で商売しようと考え、この地を離れた。

　アンディアン・チメナットは二隻の船を認め、合図の烽火を上げさせた。一隻のボートがやって来た。チメナットは彼らを丁重に迎え、商売に応ずると約束して船を招いた。

　船長は、奴隷はいるかと尋ねた。チメナットは、現在少ししかいないけれど、自分の戦争に加勢してくれるなら、二隻の船に奴隷を満載してあげようと答えた。船長が、あなたの兄ティマナンガリヴォは自分たちの同胞を幾人か殺しているから、あなたも信用できないと言うと、チメナットは、自分と兄との戦争を話し、兄は腹悪い人間だと言った。そして、人手を貸してもらえるなら、自分の妻や近親者たちを船に人質に置いてもよいと提案した。

　船長は同意した。チメナットは船に新鮮な食糧をたっぷり届けた。二十人の白人がチメナットの戦争に加わった。チメナットの軍は一つの街を占領し、大勢の奴隷を捕らえた。彼は船長に、これらのうちから好きなだけ取るようにと言った。船長が値段を聞くと、チメナットは、もう一度人手を貸してくれるなら奴隷はただでよい、と答えた。二度目の遠征が行なわれ、いくつかの街を占領した。多くの牛と数千の奴隷が連れてこられた。

　二隻の船は六千の奴隷から好きなものを選び帰路の食糧を積んだ。これらの代金は火薬二、三樽と少しばかりの武器に過ぎなかった。

　王は、戦争を助けてくれた乗組員を残していってくれたら、再び船がきたとき、また無料で奴隷を提供しようと言った。白人たちは進んで残留した。船は出帆し、翌年再びやって来た。そして約束どおり奴隷の提供を受け、残留していた乗組員を乗船させると、代りの白人たちを残して出帆した。彼らの助けにより、チメナットはたちまちアンティルトとヴォージンボを討伐し、後にメセラージ全域を支配するようになった。白人たちの勇名は広まり、白人が一人でも味方していれば勝利は我がものというほどになった。白人の姿が一人でもあると敵は怖じ気づき、戦う前に逃げる準備をする始末だった。

　王は牛のほかにも、百人の黒人に米を運ばせた。コーネリアスは返礼に火薬二樽と小火器を贈り、さらに多くを贈ろうとした。しかし王は、火薬も武器も不自由していないからこれ以上いらないと伝えてきた。それどころか「おまえたちはわしの息子なのだから、ほしければ火薬を十樽分けてやる。おまえたちが航海で儲けて戻ってきたときは喜んで贈り物も受けるつもりだが、いま、貧しいおまえたちから何かをもらうわけにはゆかぬ」と言った。

　この土地で乗組員七十人が不節制のあまり死んだ。長い間新鮮な食糧を口にしていなかったころへ大食し、トーク（蜂蜜から作った酒）を浴びるように飲み、放縦を尽したため激しい熱に襲われ命を落したのである。

　三か月ほど前「スピーカー」号がメセラージを出帆し東インド諸島へ向かったと黒人たちから聞いたコーネリアスは、それと合流するつもりで自分も同じ航路に船を進めた。しかし「スピーカー」号は紅海から少し離れた地点にあり、一方「モーニング・スター」号はペルシャ湾に入ってしまったから、二隻は出合えなかった。一味はペルシャ湾深く進入し、アンテロープ島の島陰に入った。そして見張りを立て、出撃しては幾隻かの船を獲物にした。

　一味はここで船を傾け修理することにし、大部分の積荷と水樽を陸揚げした。陸揚げが終ったとき、見張りが二隻の大型船を発見した。一隻は前檣の頂に旗を掲げていた。大騒ぎになった。海賊たちはできる限りの水樽や必要品を再び船に積み込み、これらの船が彼らと雁行するのを待った。そして直ちに出帆し大型船に接近した。これは備砲七十門、他方は二十六門のポルトガル船だった。二隻の船と海賊船は砲火を交えた。小さな方の船が海賊船にすれすれまで接近し、手投弾の応酬となった。こうなってはコーネリアスは遁走するしかなかった。大型船は海賊船を追おうとして二度針路を誤った。敵を捕捉し損ねて、ポルトガル船は下手回しにしなければならなかった。海賊船が有利になった。もう一方の船も海賊船を追跡し、僚船よりはるかに前進したところで座礁し停止してしまった。これを見て、海賊船も停止した。ポルトガル船は単独で交戦する気がなく、僚船の到着を待つ様子だったからである。日が暮れるとコーネリアスは反対側の岸へ向かい、ポルトガル船が湾を出るのを遣り過ごして、泊地へ戻った。水樽は、ボートで上陸した敵に壊されていた。一味はここで船の清掃をした。獲物にした船はどれもかねを積んでおらず、積荷も価値のないものだった。一味はヨハンナ島へ向かった。大勢になった黒人乗組員を、この島に置き去りにするつもりだった。彼らはイギリス人と一緒にされていた。ジョゼフ・ウィリアムズは、次には白人乗組員の三分の一にしか過ぎないイギリス人が置き去りにされるのではないかと恐れ、黒人たちにこの計画を教えた。彼らは船の武器を鹵ろ獲かくし、ウィリアムズに指揮を委ねた。そしてフランス人とオランダ人乗組員を厳重な監視下に置いてマダガスカルへ向かった。メセラージに到着すると、彼らは王に船を提供した。すでに船底は腐蝕し、これ以上航海には耐えられない状態だった。彼らは全員上陸し、アンディアン・チメナットの息子チマヴ王の許で暮すことになった。チメナットは彼らが戻る前に死んでいた。彼らが船を棄てて五か月後にコーネリアスが死んだ。型どおりの葬儀が行なわれ、遺体は埋葬された。





33　デヴィッド・ウィリアムズ船長と乗組員





　デヴィッド・ウィリアムズはウェールズの貧しい家に生まれた。両親は彼に畑を耕やし羊を追う仕事を教えた。海に出るまでこれだけが彼にできることだった。彼は海賊仲間から腕ききの船乗りと認められることはなかった。これは彼が教育を受けたことがなく文盲で、歴史や自然の知識が無く、平水夫の仕事以外船のことを知らなかったからだと思われる。彼は気むずかしく陰気で、人に馴染まず、激しやすい気性で、胆力と知力を具えたものなら気にもとめないようなことにもすぐ腹を立てた。しかし彼は残酷ではなかった。海賊になったのも悪事を企んだり野望を持ってのことではなく、必要に迫られてのことだった。彼は無理やり海賊に引き込まれたわけではないが、その生活から抜け出ることはできなかったのである。

　強健な若者になったウィリアムズは広く世界を見て運を開きたいと思った。親の支配から独立を願う田舎の若者たちが普通に考えることであった。この出来心で、彼はチェスターへ行き、沿岸航路の船に乗り組んだ。その間に艤装や綱結び、その他船の仕事を覚えた。それからロンドンへ出てベンガル、マドラス航路の東インド会社船「メアリー」号に乗り組んだ。この船で外洋に出たが、同じ船で帰国しなかったのは彼自身のせいではない。帰路、水が足りなくなったため船はマダガスカルへ向かい、東岸南緯二十度付近に碇泊した。船長は水を補給するため大型ボートを岸にやった。しかし波が高かったのでボートは岸から少し離れて投錨し、泳ぎの達者なウィリアムズともう一人が水を探しに岸に泳いで渡った。二人が岸に着いたとき、風が一層強くなり、海が荒れてボートに帰ることができなかった。ボートはしばらく二人を待ったが、彼らが帰り着く見込みがないと判断すると、錨を掲げ本船に戻った。船は出帆し、セントオーガスティン湾で水を補給した後、帰路を急いだ。

　ウィリアムズら二人は見棄てられ、まったく知らない島に置き去りになってしまった。着るものも食べるものもなく、ただ辺りの木の果実だけが頼りだった。しばらく海岸をうろついていると原住民に出合った。二人は部落へ連れて行かれた。原住民たちは親切で、生活に必要なものはすべて与えてくれた。しかし、このように親切にされても、ウィリアムズの相棒は、置き去りにされたことに深く傷つき、悲しみは癒えなかった。そして病を得、間もなく死んだ。

　ウィリアムズを迎えてくれた土地の王は隣国の王と仲違いし、戦争になった。ウィリアムズは主人である王とともに戦場に出た。しかし数に優る敵が勝ち、多数のものが捕虜になった。ウィリアムズもその中に入っていた。勝利を収めた王はウィリアムズに非常に親切にしてくれた。王は古いマスケット銃を持っていたが、それをウィリアムズに与え、「このような武器は使い方を知らないわしの部下が持つより、おまえのような白人が持つほうがよい。今後おまえが戦争でわしを助けてくれるなら、わしはおまえを友とし、わしと同じに遇するつもりだ」と言った。

　マダガスカル島の東岸は多くの部族に分かれて、互いに絶えず戦争している。戦争の原因はほんの些細なことである、特に、たまたま隣国の者が持っている数頭の牛（牛と奴隷が彼らの財産である）を奪ったりすることで争いが起こるのである。戦いに一、二度負けると、敗れた国の王は、勝った王の要求に応じて牛と奴隷を差し出す。西岸では、部族はメセラージに住む王に大部分統一されている。この王は、別の章でも話したように、白人に対し非常に友好的である。この王の父は、白人の助けを得て国を建てたが、それを息子に譲るとき、白人には必要なものを援助し、常に仲良くしなければいけないと命じた。そして、もしこの言い付けを守らず白人を襲ったり、彼らの血を流しでもしたら、自分は再びこの世に現われて、おまえを放逐し、この国をおまえの弟のものにすると脅した。この脅しは大変なききめがあった。王子は、この言い付けに背いたら、父王は必ず自分たちを処罰すると堅く信じた。この部族ほど迷信深い人種はほかに見られない。

　ウィリアムズはこの王の許で平穏に暮らした。王は彼を重んじた。（ウィリアムズは、生活の必要から王におもねることを覚えた。）しばらくして、この王に征服された敵が同盟を結成して攻めてこようとしているという情報が伝わってきた。王は同盟諸国が力を結集する前に攻め込んで蹴散らしてしまおうと考えた。そして早速軍隊を編成し、南へ進軍した。軍隊がやってくるという噂に住民たちは部落を棄てた。彼らは味方の部族に勢力を結集して反撃するよう呼び掛けた。その間、王は抵抗を受けることもなく広大な地域を蹂躙した。しかし敵は次第に力を蓄え、勝機を得た。王の軍勢が疲労し、戦利品で身動きできなくなっているところを急襲し、圧勝を収めたのである。王は幸い脱出したが、ウィリアムズは再び捕らわれの身となった。

　ウィリアムズは勝った王の前へ連れて行かれた。王は戦場でのウィリアムズの活躍振りを見ていた。ウィリアムズは数人の敵を射殺し、勇猛に戦い、包囲されてもしばらくは銃の台尻を振るって身を守った。王は彼に手を差し延べ、「わしは自分の敵とだけ戦をした。わしは白人を尊敬はせぬが、仲良くしたいと思う」と言った。

　ウィリアムズはこの新しい王の許で以前にも増して重用され、数年を過した。戦争が起こり、王の軍隊は潰滅した。敵に追われたウィリアムズは、もはや逃がれられぬと知り銃を捨てて木に登ったところを捕らえられた。彼は多くの敵を銃で殺していたから、めった斬りにされて殺されるのではないかと身も凍る思いだった。しかし彼らは命は助けてやると約束してくれた。

　ウィリアムズを捕虜にしたマラタンの王は、前の二人の王に劣らず彼を重用した。戦のときは必ず彼を伴った。ウィリアムズは運に恵まれ、彼の指揮する部隊は常勝した。そして必ず大量の牛と奴隷を戦利品にして帰ってきた。捕虜はほとんど女と子供だった。彼らはそれ以外のものは容赦しなかった。そして身代金が支払われるまでは、捕虜は奴隷にしておいた。

　ウィリアムズの勇名は国中に広まった。彼の名は恐れられ、彼が指揮しているというだけで敵は戦わず逃げ出した。

　この噂が二百マイル離れたところに住み、群小の王に貢みつがせて強大な勢力を誇るデンパイノ王の耳に届いた。王は使いをよこし、この白人を要求してきた。しかしウィリアムズの主人は彼を手離すつもりはなく、自分のところには白人などおらず、白人といわれている男は土地のものにすぎない、と言って要求を拒絶した。これにはわけがある。マダガスカルには、原住民が白人と呼ぶ人種がいたが、それはアラブ系で、いつのころからかこの島に住み着き、黒人と混血を重ねるうちにいまでは生活も彼らと同化していたのである。

　デンパイノ王の使者はその男に会いたいと言った。ウィリアムズが連れてこられた。彼はすっかり日焼けし、原住民の言葉を完全に話せたから、デンパイノ王の使いが自分の主人に何を話したか知っていたら、あるいはどう答えるか教えられていたら、そのまま原住民として通していただろう。使いはしばらくウィリアムズを眺めていたが、生れはどこか、マダガスカルの住民というのは本当か、と尋ねた。ウィリアムズは自分はイギリス人でこの国に置き去りにされ、すでに五年になると話した。

　これを聞いた使者は、偉大なデンパイノ王の命令だから自分はこの白人を連れて帰らなければならない、と言った。デンパイノ王は近隣の諸王を大部分支配しており、そのような強大な君主の命令に逆らうのは危険だと言うのである。

　王は、デンパイノの臣下ならその命令に従うべきだが、自分は自分より偉大なものの存在を認めておらず、従ってだれからも命令を受けたりはしないと答え、この使者を追放した。使者は帰国すると一部始終を王に報告し、「あの連中は威張りくさっています」とつけ加えた。デンパイノは、自分の命令に抗うようなものはかつていなかったから、臣下の一人に六千の兵を与え、白人を連れてこいと命じた。そして、もし相手の王が要求を拒絶し戦争を布告したら、直ちに使者を帰して報告するよう命じ、そのときは王自ら軍を率いて応援に行くと言った。

　命令はすぐさま、そして秘密裏に実行に移された。マラタンの街は敵の接近に気づく前に包囲された。敵の指揮官は王に、事は白人の引き渡し一つにかかっているのだから、閣下がデンパイノ王と和議するか戦争するかは、閣下自身で決めていただきたい、と言った。

　虚を衝かれたマラタンの王は心ならずもウィリアムズを引き渡さなければならなかった。指揮官はウィリアムズを連れデンパイノへ戻った。彼は乱暴なことは一切しなかったが、デンパイノ王が白人を引き取るため派遣した軍隊の費用として、奴隷百人と牛五百頭をマラタン王に要求した。王はこれはあまりに不当な要求であるとして拒否したが、結局、受け入れざるを得なかった。

　一つ言い忘れたことがある。マラタンの王はデンパイノの指揮官にウィリアムズを渡すとき従者を付けなかった。指揮官は王に、この白人は奴隷なのかと尋ねた。王は、奴隷として扱ってはいないと答えた。「私はすっかりこの白人を奴隷だと思うところでした。閣下はこの男に一人の従者も付けられませんから」と指揮官は言った。王はこの問責に、奴隷を一人ウィリアムズに贈った。

　デンパイノ王はウィリアムズを温かく迎えた。そしてこの部族の衣装を与え、幾人かの奴隷を従者として付け、そのほか必要なものは何でも与えた。王は、ヨーロッパ人に対する評価と敬意を示すために、わざわざ六千もの軍勢を送ったとも言えよう。ウィリアムズはマラタンを離れた後、この主君の許で数年を過ごした。そうしたある日、ウェールズ出身の海賊エイキン・ジョーンズのギャレー船「ベドフォード」号が入ってきた。ウィリアムズは許されてこの船に乗った。一味はオーガスティンへ向かったが、不注意で座礁し、竜骨を破損して船を失ってしまった。一味はこの土地に滞在し、海賊船「ペリカン」号が寄港するとそれに乗り移った。（「ペリカン」号のことはノース船長の章に書いた。）乗組員の一部はこの船で東インド諸島に向かった。ウィリアムズはこの船から海賊クリフォード船長のフリゲート船「モカ」号に移り、航海の後セントメアリー島へ戻った。そこで一味は紅海で得た戦利品を山分けした。しかしここではその冒険の詳細を話すつもりはない。クリフォード船長の話を予定しているから、そこで話すほうが適当であろう。

　彼らのうち、西インド諸島の出身者は機会を得て帰国した。しかしウィリアムズはこの地に残り、前に話したフルジェット船長が寄港したとき、その船を奪った。後に彼は仲間とともに「スピーカー」号を奪いマラタンへ戻った。（「スピーカー」号を奪ったやり方はホワイト船長の章で述べたし、マラタンへの航海はノース船長の章で述べる。）マラタンへ戻ると王は、以前親切にしたことに対して礼の品を要求した。ウィリアムズは「閣下は私の前の主人から私を奪い、私は閣下に尽しました。もう十分御親切に報いていると思います」と答えた。これを聞くとマラタンの王は激怒し、即刻この国から出て行け、と命じた。

　この地でウィリアムズはハワード船長の「プロスペラス」号に乗った。ハワード船長の章で述べたように、一味はセントメアリー島へ向かい、そこからマダカスカル島へ行った。彼らはここでオルト・ヴァン・タイルを誘拐しようとしたが失敗した。このとき置き去りにされたものがいたが、ウィリアムズもその一人だった。オルト・ヴァン・タイルは「プロスペラス」号の連中が自分の農園をめちゃめちゃに荒らしたことに対する腹癒せに、ウィリアムズをじゃがいもの植え付けその他の重労働にこき使った。ウィリアムズは奴隷の身で半年過ごした。半年経ったとき、彼は機を捕らえ、仲間のトマス・コリンズを残して脱走した。コリンズはオルト・ヴァン・タイルに掴まり、腕を折られた。

　苛酷で執念深いオランダ人から逃れたウィリアムズはリバイハラングという黒人の王の許へ身を寄せ、そこで半年過ごした後、海岸に小さな土地を開墾しているジョン・プロというオランダ人の仲間になった。しかしリチャーズ提督の軍艦「セヴァーン」号が到着して二人を捕らえ、ヨハンナ島へ護送した。ここで「セヴァーン」号の船長は、二千ドルでモヒラ島の原住民討伐を引き受けた。軍艦の乗組員が幾人か死んだが、ウィリアムズとプロは小型カヌーでモヒラ島に逃れ、森の中に身を潜めた。森で食糧を集めてから、彼らはヨハンナ島へ渡った。この島でしばらく休養した後、マヨッタ島へ渡った。長さ十八リーグの島である。この島を治める王は、彼らにボートを作ってくれ、さらに食糧や必要品を提供してくれた。彼らはここからマダガスカルへ向かい、南緯十六度四十分近くのメセラージに到着した。そして、すでに話したように、ホワイト船長の一味に加わったのである。

　彼らはここに三か月ほど滞在した後、ボートを焼き払ってホワイトの船に乗った。一味は島の北端を回ってアンボナヴラに到着した。ウィリアムズはこの地に留まり、ホワイト船長が「ホープウェル」号を伴ってくると、それに平水夫として乗り組んだ。この船で紅海へ向かい、航海の終りごろには操舵手に選ばれた。帰路、一味は補給のためマスカリーン島に立ち寄った。乗組員の半数近くがこの島に上陸し落ち着いた。

　残りの一味はマダガスカルのホープウェル岬（ホープフル岬という人もいる）へ船を進め、そこで戦利品を分け、居を定めた。

　一年後、ハルゼー船長のブリガンティーン船「チャールズ」号が寄港した。このことはハルゼー船長の章でも話したとおりである。ウィリアムズは「チャールズ」号に乗り組んで航海に出た。帰路、彼らはマラタンに上陸した。そして弟と戦争している王を助け、圧勝に導いた。アンボナヴラに住む一人の海賊がマラタンから十リーグも離れていないマナンゴアロへ大型ボートでやってきた。ウィリアムズらはこのボートに乗ってアンボナヴラへ渡った。三か月後、ウィリアムズは、ハルゼー船長の章で述べたスコットランド船の船長に推された。

　ウィリアムズはスコットランド人捕虜を働かせ、出帆の準備に精を出した。しかし、いざ出帆というときハリケーンに襲われ、船は難破してしまった。

　このあと、ウィリアムズはスループ船を作り、十人の仲間とともにマスカリーン島を目差したが航路を誤り、マダガスカル島のメセラージに到着した。彼らは船を繋留し、一年間滞在した。しかし、この地を治める王がウィリアムズの気むずかしさに愛想をつかし、退去を命じた。彼らは島の北端へ行くつもりで出帆した。しかし東南東の風が吹き、また潮流が北西の方向だったため、船はメセラージから十リーグ足らずのところにあるボインという港に入った。ここはメセラージの王の領土だったが、総督はアラブの子孫であり、アラビア人たちの交易の場所となっていた。

　投錨するとウィリアムズは三人の乗組員（乗組員は全部で五人しかいなかった）と、二人の黒人の漕ぎ手を伴って上陸した。上陸した四人のうち、デヴィッド・イートンとウィリアム・ドーソンは王の街へ行くつもりで案内を請うた。総督は彼らに案内を一人つけてくれたが、その行き道に待ち伏せをし、二人とも殺させた。二人がボインの街を発つと、ウィリアムズとフランス人メヨーはサムサムというめのうのビーズを買いに街へ出た。これらの品々を見ているとき総督の部下にとり囲まれ、捕らえられてしまった。メヨーはその場で殺された。ウィリアムズは縛られ、ほとんど一日中拷問を受けた。頭や顔に熱い灰を浴びせられ、また子供たちに棒で打たれた。彼は命を助けてくれたら二千ドル払うと総督に言った。しかし総督は、命もかねもいただく、と答えた。これが終るか終らぬうちに総督の部下が槍をもってウィリアムズにとどめを刺した。

　この野蛮な殺戮の後、総督は彼らのスループ船を奪おうと考えた。船には白人二人と黒人の少年が六人、そして女奴隷が幾人か乗っているだけだった。それでも総督は用心して計略を使うことにし、ウィリアムズのカヌーに山羊一頭とトークを入れた容器を積み、武装した黒人十二人を乗せた。そしてウィリアムズとともにやってきた黒人に漕がせてスループ船に向かった。船に近づくとカヌーの連中は声を掛け、甲板に上げてくれと言った。乗組員の一人が、ウィリアムズの部下の黒人に、船長はどこだと尋ねた。黒人は、「船長は総督とトークを飲んでいます。総督は食糧とトークをくれました」と答えた。一人の黒人女がウィリアム・ノークスという白人乗組員に、四人もの白人が上陸して一人も戻っていないのは何か企みがありそうだから、あの人たちを船に乗せてはいけないと忠告した。しかし仲間の黒人からの答を聞いて、彼はカヌーの連中を乗船させることにした。そして黒人女を足蹴にし「このあまっちょ。おめえの思いつきで食い物なしになるなんて真っ平だぜ」と言った。彼はカヌーに向かって甲板に上ってこいと呼び掛けた。たちまち連中は乗船してきた。一人がノークスのピストルを奪い、頭めがけて発射した。もう一人の白人も捕まり、海へ投げ込まれた。彼らは船を乗っ取ると掠奪をほしいままにした。

　このとき、王は狩に出ていた。一年のうち三か月間、野豚を狩るのが王の習慣だった。しかしウィリアムズ殺害の噂はすぐ王の耳に達した。王は狩を楽しんだ後、街に戻った。そして、彼に仕える白人たちが公正な裁きを要求するのを制し、私に任せなさいと言った。王はボインの総督に使いをやり、ウィリアムズらを斬り殺したことは喜ばしい、自分もこれに倣ってこの国から白人を一掃してしまうつもりだ、と伝えさせた。そして、相談したいことがあるから即刻宮廷に来てもらいたいが、ウィリアムズが殺されて復讐しようとしている白人の仲間がいるから、彼らに見つからないように注意して来るようにと命じた。

　命を受けた総督は直ちに出発したが、王の住む街から二マイルほど手前の小さな街に止まった。そして、この街で命令を待つ、と王に使いを出した。

　王は、翌朝まだ白人たちが起き出さないうちに到着するよう命じた。総督は命ぜられたとおり翌朝早く発った。しかし途中で王の手配した黒人の待ち伏せに遭い、捕らえられて王の前に連行された。王は総督の蛮行を難詰し、白人たちのところへ連れて行った。そして彼らに、この男を好きなように殺すがよいと言った。しかし彼らは、王が自分の臣下をどのように扱おうと自由ですが、私たちが閣下の民の血を流すわけにはいきませんと答えた。これを聞いた王の叔父は、即座に、この男を槍で刺せと命じた。たちまち総督の身体を数本の槍が貫いた。処刑が終ると王はボインに使いを遣り、ウィリアムズたちの所持品をすべて持って来させた。そして、それらを白人たちに分けて「わしは悪党の総督が、非道を償うのに一つしか命を持っていなかったのを残念に思う」と言った。





34　サミュエル・バージェス船長と乗組員





　サミュエル・バージェス船長はニューヨークに生まれ、立派な教育を受けた。わに足で、がっしりした体躯の持主だった。西インド諸島で私掠船に乗り組んだが、彼らは委任状の期限が切れると、勝手にそれを延長して憚らなかった。

　この私掠船航海でバージェスはかなりのかねを蓄え、帰国した。総督はバージェスが私掠船の任期を超えて海賊行為を行なったことを知らされなかったか、少なくとも意に介さなかった。バージェスはフレデリック・フィリップスの持ち船の航海士になり、マダガスカルに向かった。海賊と交易するのが目的だった。しかし一行はここで難破して船を失い、オーガスティンに十八か月間逗留した。ある日、イギリスの海賊船が寄港した。土地の王は、バージェスにこの船に乗るよう命じた。バージェスは漂泊の生活が嫌になっていたから、船には乗りたくなかった。しかし王はこれ以上彼らの滞在を許さなかった。彼らは海賊船に乗るか飢えるかどちらか一つしかなかった。

　バージェスはこの海賊とともに東インド諸島へ航海した。そこで多くの獲物を捕らえた後セントメアリー島へ戻って食糧、薪、水を補給した。幾人かの乗組員はこの島に落ち着いた。船長、バージェス、そして残りの乗組員は西インド諸島へ向かい、スペイン領の海岸で獲物を処分した後、ニューヨークへ戻った。一味はわざと船をサンディーフックの岬の先端に激突させた。そしてかねを懐に上陸したのである。



南から望んだニューヨーク市（上：旧オランダ領マンハッタン。絞首台に海賊が吊されている）





* * *





　総督は一味の海賊行為を知らなかった。彼らは煩わされることもなくこの土地で暮らした。しばらくして、バージェスはフィリップスの親類の娘と結婚した。フィリップスは新しく船を建造し「ペンブローク」号と名付けた。そして再びバージェスをマダガスカルへ派遣した。この航海の途中、彼はアフリカ岸デラゴア河に入り、大量の象牙を積み込んだ。オーガスティンへ到着すると昔の仲間が幾人かいた。彼らと取り引きしてかねと奴隷を受け取った。さらにメセラージへ行き、そこでもかねと奴隷を得た。バージェスはここから東岸のセントメアリー島へ船を進め、やはり昔の仲間とかなりの取り引きをした。彼らのうち幾人かはバージェスの船客になり、旅費も惜しまず支払った。彼は次の航海のたねになりそうな情報を得て、無事ニューヨークへ戻った。航海の純益は五千ポンドになった。

　この成功に気をよくしたフィリップスは、バージェスに荷を選ばせ、再び航海に出るように言った。バージェスはワイン、ビールその他を積み込んでマダガスカルの東岸にあるマラタンに到着した。そこで積荷の大部分を言い値で売り払い、残りをメセラージで処分した。この航海で、バージェスとフィリップスの純益は一万ポンドになった。これ以外に、彼は三百人の奴隷をニューヨークへ運んだ。

　しばらく家に滞在した後、バージェスは再び航海に出た。先ずメセラージに寄港して食糧を補給し、商売した。そこから島の南端へ行き、昔の知人に積荷の一部を売って大きな利益を挙げた。島を回航してセントメアリー島へ到着すると、フィリップスの別の船に出遭った。この船はバージェスの指示に従うよう命を受けていた。バージェスはしばらくこの港に滞在し、二隻の船の荷を売り尽した。それから二十人の海賊を乗客にして帰途についた。海賊らはリトルトン提督が携えてきた国王の海賊赦免状を受け入れたのである。

　帰路の途中、バージェスは希望峰へ立ち寄り、食糧、水その他を補給した。ここに滞在中、東インド会社船「ロイヤル・クック」号が入港してきた。そしてバージェスを捕らえ、インドへ連行した。彼らはバージェスの船をマドラスの総督に引き渡したが、総督はこの件に手を染める気はなく「ロイヤル・クック」号の船長に、東インド会社とバージェスの船主に彼が何をしたか報告すべきだと言った。

　乗船していた海賊はほとんどが海賊特赦法で許されると思っていた。しかし幾人かはこれを信用せず、持てる限りのかねを持ち、ボートで脱走した。赦免状を信用して投降した海賊らは獄につながれ、そこで死んだ。脱出した連中の一人のことを話しておこう。彼は船を去るとき、自分の衣服箱の鍵を持っている仲間を探した、箱に入れてあった千七百ポンド相当の金を持って行こうと思ったのである。しかし仲間は上陸していた。彼は、新しい鍵をだめにしてしまうのはもったいないと言って、箱を壊して開けたりはせず、そのまま船に残して行った。

　バージェス拿捕の知らせは僚船の帰港を待たずにフィリップスに届いた。彼は東インド会社を訴えたが、会社側の要請で「ロイヤル・クック」号の到着を待つことになった。船はバージェスを護送してイギリスへ発ったのである。この船の船長は、自分の過失に気づき、それが言い逃れできないと知ると姿をくらました。東インド会社はフィリップスに船と荷の賠償をした。自由の身になったバージェスはしばらくロンドンに滞在した。そうしたとき、ウィリアムズの章でふれたクリフォードという男が彼の姿を見、海賊だと通報した。この男は海賊特赦法を当てに帰国したところを逮捕されニューゲートに投獄されたが、裁判で無罪となり、物乞いをしていたのである。

　バージェスの主人は彼のために必死の弁護をし、救出のためのかねを惜しまなかった。そして海賊船に乗らざるを得なかった事情を話し、訴えたが裁判で有罪の判決を受けた。結局、ロンドンとカンタベリーの主教の取りなしにより、女王の恩赦を得た。

　このあと、バージェスは私掠船の副官として南の海を航海したが、獲物もなくロンドンへ帰った。一年間は仕事もなく暮らした。

　ロンドンへ帰って一年後、彼は「ハンナ」号（後に「ネプチューン」号と改名）の航海士になり、荷を取りにスコットランドへ向かった。船主がスコットランドに在住していたからである。しかしスコットランドに到着する前に船主が破産し、船は繋留された。十八か月後、船は売却処分され六人のスコットランド紳士が買い手になった。乗組員はそのまま残った。船は最初の航海でマダガスカルへ向かった。この地で船長とバージェスはいさかいを起こし、それが原因で船が失われた。というのは、海賊と顔見知りのバージェスが一味を唆し、船を奪ったのである。しかしこれはハルゼーの章で話したから、ここでは繰り返す必要はないだろう。

　ただ、ミラー船長が騙されて上陸したときのことは話しておこう。「ネプチューン」号はハリケーンでマストが折れてしまったが、ハルゼーはミラー船長に、マストに適当な材木があるから見にくるよう言い、肉と酒の宴に誘った。ミラー船長は招待を受けた。食事の最中、昔テームズ河で船頭をしていたエミーという男が、席から離れて座っていた。彼は大きなコートにくるまり、熱病に罹ったような様子だった。実は彼はコートの下にピストルを隠し持っていたのである。食事が終るとハルゼーは客（ミラーと積荷監督）に何か持ってくるような素振りで座を立った。このとき、エミーが船長の胸元にピストルを突き付け、「貴様を捕虜にする」と言った。同時に、らっぱ銃を手にした別の二人の海賊が入ってきて、「二人とも無駄な抵抗をしなければ手荒なまねはしない」と言った。これはすべて海賊の小屋の中でのできごとであった。その間、マストの材木を運ばせる目的でミラーとともに上陸した乗組員たちは、森に潜んだ海賊の一隊に捕らえられた。しかし乗組員はだれも傷つかず、丁重な扱いを受けた。海賊は船を乗っ取ると捕虜を釈放した。

　ミラー船長は他の十一人の乗組員とともに追放された。これもハルゼーの章で述べたとおりである。バージェスは海賊の操舵手に選ばれ「ネプチューン」号と「グレイハウンド」号から掠奪した戦利品の分け前を得た。

　それから間もなくハルゼーが死んだ。彼はバージェスに妻と子供のことを託し、莫大な遺産を残した。他の乗組員らは、自分たちを差し置いてこの新入りに目がかけられたことを不満とし、バージェスから、ハルゼーの遺産のうち三千ポンドと、バージェス自身の分け前千二百ポンドをせしめた。このような扱いをしながらも海賊らはバージェスに「ネプチューン」号の指揮を任せ、大急ぎで船の整備をし、またブリガンティーン船に残った乗組員と積荷を自分たちの船に移すよう要求した。バージェスはこの船で脱走するつもりだったから、作業に精を出した。しかし、島の別の場所に居住していた海賊がこの話を聞き、バージェスを信用しては危険だと考えた。バージェスは船を降ろされ、昔の仲間のところへ行った。彼らの仲裁で、分け前のかねは戻ってきた。

　セントメアリー島に落ち着いて五か月たったある日、バージェスの家が火事になった。彼はかねだけ持ち出すことができた。その後、彼はデヴィッド・ウィリアムズの船に乗ってマスカリーン島を目差したが、船は航路を誤ってメセラージへ戻った。彼はここの王の許に身を寄せ、後に仲間とともにウィリアムズの遺品の分配に与った。

　バージェスはメセラージからオーガスティンへ移った。このとき持って行ったサムサム〔めのう〕で五十人の奴隷を買い、それをアラビア人に売った。メセラージへの帰路、ノース船長のスループ船に遭遇した。船にはミラー船長の乗組員三十人が乗っていた。彼らは、バージェスの裏切りのおかげで自分たちは海賊にならざるを得なくなり、そのため破滅して国を追われる身になったのだから、こいつを捕らえてしまおうと提案したが、ノースはこれに反対した。彼らはノースを監禁してバージェスを取り押え、彼のかねを全部奪った。それから船長を自由にし、分け前として三百ポンドを与えた。メセラージに到着すると船長はこのかねをバージェスに返した。

　バージェスはこの土地に二、三年暮らしたが、あるとき、立ち寄ったオランダ東インド会社の船に乗せられた。しかし彼らもモカへ向かう二隻のフランス海賊船に捕らえられてしまった。海賊は食糧を補給するためメセラージへ行き、捕虜八十人を降ろした。出港すると一味はヨハンナへ向かった。この島ではオランダ船の乗組員を降ろした。彼らはここで船を建造した。バージェスは大層重宝がられ、この船に乗せられた。一行は別の海賊船に乗せられたオランダ人たちが置き去りになった港へ向かったが、途中、ヤングールで難破してしまった。バージェスはここで十八か月過ごしたが、メセラージへ戻りたくなった。彼はメセラジーの王の叔父にあたるこの地の王に自分の希望を申し出た。願いはすぐ入れられ、彼はメセラージに送られた。

　メセラージでの滞在は、ほとんど五年に及んだ。その間、彼は病を得、片目を失った。ある日、ロンドン籍のピンク船「ドレーク」号が奴隷買いに寄港し、バージェスを引き取った。船長は彼を帰国させるつもりだった。しかしちょうどそのとき、同じ船主の船でハーヴェイ船長が指揮する「ヘンリー」号が入ってきた。この船は奴隷商売に不案内だったため、「ドレーク」号のマゴット船長は、バージェスに「ヘンリー」号に乗ってほしいと頼んだ。西インド諸島に到着したら別の船に移してもらうという約束で、彼は「ヘンリー」号の三等航海士になった。ハーヴェイ船長とメセラージの王とはなかなか折り合わず、奴隷を買い付けるのに九か月もかかった。ハーヴェイ船長はバージェスを使いに遣り、王の契約不履行を詰る言葉を伝えた。王は長年面倒を見てやった男の口から非難の言葉を聞き、憤慨した。バージェスは黒人の主だった人びととの会食に招かれ、その席でトークをしこたま飲んだが、その後間もなく病気になって死んだ。恐らく毒殺されたのだろう。彼が妻と子供のために残したかねは、一等航海士の手に委ねられた。





35　ナサニエル・ノース船長と乗組員





　ノース船長はバーミューダの木びきの子として生まれ、木びきとして育てられた。しかし十七、八になったとき、スループ船に炊事係として乗り組んだ。この船はバルバドスの船主が私掠船にするつもりで、バーミューダで建造させたものだった。バルバドスへ回航する途中、船長はサンタウダスで塩を積んだ。バルバドスへ到着すると乗組員全員が水兵に強制徴用された。ノースと彼の仲間は「リザーヴ」号に配属された。

　スループ船の船長はバルバドスの総督に願い出て乗組員の徴用を免除してもらったが、若いノースだけは軍艦に残された。軍艦はジャマイカへ向け出帆した。「リザーヴ」号がこの基地でまもなく就役を解かれようとするとき、ノースは機を見て脱走した。そして砂糖運搬船に乗り組み、およそ二年を過した。彼は熟練の船乗りではなかったが有能だったから、ある運搬船の船長にならないか、と誘われた。しかしこれを断って私掠船に乗り組んだ。

　ノースの乗った私掠船は最初の航海で二隻の立派な船を獲物にし、乗組員は全員多額の分け前に与った。ノースはこうして得たあぶく銭を湯水のごとく使い、危険をともにした仲間は遊び友だちに変った。ノースが彼らの仲間入りしたといったほうが当っているかも知れない。ひと山あてたジャマイカの私掠船乗組員らの生活振りが実直倹約の模範と言えないことは、彼らを知るだれもが認めるところだ。

　ノースはかねを使いはたすと再び私掠船に乗り組んで大成功した。彼はこの商売がすっかり気に入り、幾度か航海に出て成功を収めた。

　そうこうするうち、ノースは私掠船稼業にも厭き、貿易をしようと思いたった。彼はリーズビー船長のブリガンティーン船に乗り組み、スペイン沿岸へ向かった。この船は貿易と私掠稼業を兼ねていて、乗組員の報酬も半分は賃金、半分は戦利品を山分けして支払うことになっていた。しかし商売は振わず、私掠稼業はいっそう低調で、一隻の獲物もなく帰投した。

　一行は、フランス人船長が指揮しフランス人五十人が乗り組む備砲四十門のスペイン沿岸警備船が接近したため、やむなくスペイン沿岸を離れジャマイカへ船を向けた。ブルーフィールド沖で二隻のフランス私掠船スループ船に遭遇した。このうち一隻は以前ジャマイカの私掠船で「パラドックス」号といった。彼らはリーズビー船長の船をスペインから来た貿易船で人手も少ないと見て接舷してきた。しかしこれはとんだ見当違いだった。彼らはリーズビー船長の返り討ちにあい、一隻は捕らえられ、他の一隻は命からがら遁走した。この交戦で味方の十人が死に、七人が負傷した。リーズビーは負傷者をブルーフィールドで降ろし、船主の費用でできる限りの手当を受けさせた。そして食糧を補給した後、ポートロイヤルへ向かった。港に到着すると船長は乗組員に十分な報酬を支払い、労をねぎらった。そして「私は諸君の腕を高く買っている。どうか今後も私と一緒に仕事をしてほしい」と挨拶した。特に、泳ぎが達者でカヌーを操り、機敏で勇敢なノースに対する期待は大きかった。

　ノースほか大部分の乗組員はこれに応え、リーズビー船長が船を修理し終るまで上陸して待機した。二度目の航海ではひと月の賃金十七ドル、戦利品の分け前はなしという条件だった。船には雑貨のほか奴隷三百人を積んだ。一行はスペイン沿岸を四か月航海し、奴隷と積荷を残らず売り捌き、大きな利益を得た。ジャマイカへ帰ると、リーズビー船長は再び航海に出ようとはしなかった。数か月後、ノースは再び私掠船に乗り組んで大量の獲物を手にした。この航海から帰って陸にいるとき、ノースは軍艦「メアリー」号に徴用された。軍艦はスペイン沿岸を航行して帰投したが、すぐまたイギリスへ向かうとのことだった。これを聞いたノースほか三人の乗組員は泳いで脱走することにした。しかしノースは捕らえられ、鞭打ちの刑に処せられた。軍艦がジャマイカ島を離れる前に、ノースは脱走に成功した。脱走すると彼はライセンス船長のスループ船「ネプチューン」号に乗り組んだ。ライセンス船長は「リザーヴ」号の副官だったが、船の修理中、総督から私掠船の委任状を得たのだった。「リザーヴ」号のモーゼス艦長は気晴らしのつもりで同じスループ船の副官になっていた。ヒスパニオラ島沖で、備砲十八門百十八人乗り組みのフランス私掠船に遭遇した。この船は前日、軍艦「スワン」号の追跡を逃がれたばかりだった。

「ネプチューン」号はこれを襲った。モーゼス艦長は早くも負傷し、甲板下に運ばれた。ライセンスは接舷を命じた。しかし操舵手が操船を誤まり、かえって敵船から離れてしまった。

　フランス船はこの機を逃さず小銃弾を雨のように浴びせてきた。ライセンス船長が死んだ。このときモーゼスは船医の手当を受けていたが、ライセンスの死を知らされるとノースに舵を取るよう命じ、乗組員たちには一歩も退くなと下命した。そして傷の手当が終るのももどかしく、甲板にかけ上ると敵船に接舷した。敵の抵抗は頑強をきわめた。しかし船長が十一発の弾を身体に受けて倒れると、さしもの敵もついに降伏した。

「ネプチューン」号は十人を失い、二十人が傷ついた。フランス船は船長を含め五十人の死傷者を出した。船長は二発の弾を受け、血止めをしてもらうため船医のところへ行きかけたところを「ネプチューン」号に接舷された。そこで直ちに甲板に引き返し、部下を叱咜激励しているところを狙撃されたのだった。

　この獲物をジャマイカに連行したところ、ブリストルで建造されたイギリス船「クラウン」号だとわかった。以前の船主が積荷の半分を要求し、三分の一を取り戻した。

　モーゼス艦長の船はまだ修理が終っていなかった。そこで艦長はノースを連れ、再び私掠船で航海に出た。この航海から戻ってしばらくしてから、モーゼスは「リザーヴ」号の人となった。上陸していたノースは軍艦「アシスタンス」号に徴用された。「リザーヴ」号が航海から戻ると、モーゼスは「アシスタンス」号の艦長にノースを正規乗員として推挙した。こうしてノースは「アシスタンス」号の乗組員になった。この艦での生活は快適だった。しかしイギリスへ行くことになり、寒さが嫌だったノースは黙って艦を去った。そして再び私掠船に乗り組み、幾隻かを獲物にした。これらのうち二隻はイギリス船で、もとの船主が所有権を主張して提訴した。ノースは命がけで航海したうえ、戦利品のかねの一部をもとの船主は取られるのは我慢ならなかった。またジャマイカ島では軍艦乗組員の強制徴用が激しくなっていた。こうしたことから、二度とイギリス人とともに航海はすまいと心に決め、キュラソー島に渡った。そしてスペインの貿易船に乗り組み、ニュースペイン沿岸の航海に幾度か従事した。最後の航海のとき、ノースの艦は二隻のフランス籍スループ船に追われ座礁した。スループ船の一隻はローレンスというオランダ人船長が指揮していた。彼は僚船とともにノースの船を拿捕し、掠奪した。乗組員らは助命が受け入れられ、親切に扱われた。

　それからしばらくして、ノースらはフランス人が獲物にした小型スループ船を与えられ、キュラソーに帰港した。

　ノースは以前の嫌なことを忘れてジャマイカへ戻り、備砲十門のスペイン船「バルカ・ロンガ」号に乗り組んだ。船長はジャマイカ生まれのラヴリングという男だった。一行はしばらく航海したが獲物に恵まれず、ニューファンドランドの砂州へ行って運を試すことにした。ここでの最初の獲物はフランスのケッチ船だった。この船はスペインの航行許可証を持ち、スペイン船でおし通そうとした。しかしこれを詮索し、乗組員を脅すと正体を現わした。これより先、彼らはスペイン船と偽って軍艦の手を脱していたのである。

「バルカ・ロンガ」号は獲物を港に連れ帰ると再び出港した。二度目の航海で私掠船の許可を持つフランス商船に遭遇した。これはブリストルで建造された船で「ペリカン」号といい、備砲十八門七十五人が乗り組んで、魚を積んでいた。「バルカ・ロンガ」号は「ペリカン」号に接舷し、乗組員二人がこれに乗り移った。しかし船を繋留しそこなって相手の後方に離れ、乗り移った二人は捕虜になってしまった。再度接舷してこれを拿捕すると、ケッチ船を残してきた港に連行した。

「バルカ・ロンガ」号は三度航海に出た。セントメアリー湾でフランスのフライ・ボートに遭遇した。八百トンの大型船で砲十八門を備え、八十人が乗り組んでいた。魚を積んでいた。

「バルカ・ロンガ」号はフランス国旗を掲げて追跡した。至近距離まで迫ると、フランス船は「どこから来たか」と声を掛けてきた。ボウスプリットの突端にいたガーンジー島出身の男が「プチ・グアヴァからだ。休養のため湾に入るところだ」と答えた。フランス船は「それ以上近づくな。ボートを出せ」と言った。さらに距離をつめると、相手は発砲した。「バルカ・ロンガ」号はこれにかまわずフランス船に雁行すると斉射を浴びせた。フランス船も負けじと応じ、戦いは四十五分間続いた。最後にフランス船は投降したが、一人だけこれを潔しとせず、まるで気違いのように「バルカ・ロンガ」号の乗組員たちの中へ飛び込み、数人に傷を負わせた。男はすぐさまピストルで射殺された。

「バルカ・ロンガ」号はこの船を他の獲物が待つ港へ連行した。そして、これら拿捕した船を没収するときに必要な人員だけを残し、他の捕虜全員を上陸させた。それから獲物の船とともに四隻の船隊を組み、ロードアイランドへ向かった。

　ロードアイランドに到着すると、フライ・ボートとケッチ船を没収した。「ペリカン」号のほうは、もとの船主が権利を主張したため没収手続きが難航したが、スコットランド人の弁護士に三百ポンドを支払い、訴訟を委任した。ラヴリング船長がこの土地で客死したため、乗組員たちは「ペリカン」号を買い取り、「バルカ・ロンガ」号を解体した。そして船主に分け前を支払うと赤道までの航行許可を入手した。航海の期限は十八か月、万一事故があった場合は二年間まで延長という条件だった。

　乗組員はかねを出し合って船の装備を行なった。しかしニューイングランドでは鉄のたがが入手できなかったため、水樽を木製のたがで締めなければならなかった。私がこのことを書いたのは、後にこれが原因で、彼らはまる一年間東インドへの航海ができなくなるところだったからである。

　船の装備が完了すると彼らは出帆し、希望峰へ針路をとった。六月に希望峰を回ると一路マダガスカルへ向かい、オーガスティン湾に入港した。ここで食糧と水を補給した。しかしすでに八月も過ぎ、東インドへ向かう時期を失していた。彼らはヨーロッパ人を相手に海賊を働くつもりはなく、ムーア人の船を狙って、遭遇したムーア船だけを、穏やかにまっとうな方法で掠奪する計画だった。そして良心を痛めず、しかも獲物を満載して定められた期限までに帰港するつもりだった。

　彼らはオーガスティンからヨハンナへ向かった。マダガスカルで積んだ食糧の塩漬けがうまくゆかず腐り始めていた。さらに衣類も綻びが目立ってきた。このような状態で捨て鉢になった彼らは、ヨハンナの王を誘拐して身代金をせしめようと計画するに至った。艦長はこの沿岸を知らなかったから操船には関与しなかった。彼らは島嶼を縫って船を進め、コモロ島に上陸した。そして街を占拠したが、銀製の鎖数本と亜麻布以外、めぼしい戦利品はなかった。この島からさらにマヨット島へ行き、そこで一人のフランス人を捕虜にした。この男は置き去りにされた海賊で、土地の王に仕えていた。彼らはこの男に、王の街を奇襲し占領してしまうことを相談した。男は王の保護を受け恩誼があったから、そんなことをするのは嫌だった。しかし捕らわれの身であり、言われたとおりせざるを得なかった。一味は街に入って三日後、王の住居を取り囲み、王と住人全員を捕虜にした。しかし王の息子はカトラスを振るって一味の真唯中に血路を開き、脱走した。後に彼は射殺された。一味は、王が自分たちの僚船の乗組員を毒殺したという口実を設けてこの暴挙に出たのだった。当然のことながら王はこれを真っ向から否定した。実際一味は彼ら自身でさえ知らないでたらめの船名を口にしたのである。一味は王を船に連行し、他の捕虜は寺院のようなところへ監禁して三十六人の監視をつけた。

　国中が大騒ぎになり、数千の原住民が監視を襲った。しかし銃声を聞き、丘に黒人が蝟い集しゆうしているのを見た船の連中は、炸裂弾を数発撃ち込んだ。黒人たちは大勢の死者を出し、退却せざるを得なかった。

　王は自ら数千ドルの価値がある銀の鎖を身代金とし、要求された食糧を提供した。さらに一味をこの国の支配者として恭順を誓い、白人を毒殺したりしないと約束した。

　この派手な遠征の後、一味はこの土地に二週間止まった。この間警戒は怠らなかった。それから二十人の奴隷を下男として拉致し、オーガスティンに戻った。

　乗組員の間に伝染病が発生した。このため彼らは上陸し小屋を建てた。しかし最大限の注意と用心を払ったにもかかわらず、船長と三十人の仲間が死んだ。この伝染病が収まると、一味は再び海に出ようと考えた。水樽を調べてみると、たががすべて腐っていた。このままでは航海は不可能だった。だが大工の名案でこの危機を切り抜けることができた。彼はマヨット人の奴隷を連れて森へ入り、蔓その他の材料を集めてきた。そしてそれらを縒り合せてしっかりしたたがを作った。この功績が認められて彼は船長に推された。またノースは操舵手になった。

　オーガスティンで彼らは置き去りにされていた幾人かの海賊を仲間に加えた。この中にはデヴィッド・ウィリアムズも含まれていた。また募集に応じて百五十人が集まった。一味は自分たちの船を自由契約船とした。つまり、戦利品はすべて平等に分配するというのである。こうして船は紅海の入口へ向け出帆した。

　目差す根拠地に到着した夜、二隻の船に遭遇した。一隻はクリフォード船長が指揮する備砲四十門のフリゲート船「モカ」号だった。この船は以前東インド会社に所属し、スタウト船長が指揮していたものだった。もう一隻は「ソルダーダ」号といい、備砲十六門、シヴァース船長が指揮していた。両者は互いに「どこから来た」と声を掛け合った。そしてどちらも「海からだ」と答えた。その夜三隻は一緒に碇泊した。翌朝、三隻は今後二か月間僚船として行動し、獲物は平等に分ける契約をした。

「ペリカン」号は薪、水、そして乗組員の一部をクリフォード船長の船に提供した。このときウィリアズも船を移った。およそ十日後、三隻は大型ムーア船を発見した。

　三隻は全速で追跡した。「ソルダーダ」号がまっ先に追い付いた。そして相手の応射にかまわず接舷した。ムーア船は「ペリカン」号の到着を待たずに降伏した。接舷の際「ソルダーダ」号はムーア船から斉射を浴びた。しかし二発が舷側を貫き、乗組員二人が死んだだけだった。一味の損害はこれだけだった。船員、船客等敵の捕虜は一千人に上った。

　ムーア船のかねはすべて「モカ」号に運び込まれ、クリフォードとシヴァースの乗組員たちが山分けした。「ペリカン」号には分け前を出さなかった。

「ペリカン」号の乗組員は僚船の不当を責め「俺たちがモカ号に薪と水を分けてやっていなければ、一緒に航海できなかったはずだ」と言った。しかし「モカ」号からは返事の代りに「とっとと行っちまえ、さもないと船を沈めるぞ」という言葉が返ってきた。「ペリカン」号は、水と薪が不足しているから単独では航海できないと答えた。二隻の僚船は一千ドルとムーア船の水を分け与え、薪はどこかで買えばよいと言った。二隻はこうして「ペリカン」号と別れ、マラバー沿岸へ向かった。ここで捕虜とムーア船が積んでいた馬を降ろし、「ソルダーダ」号を沈めた後、マダガスカルのセントメアリー島へ針路をとった。ここにムーア船が着底し繋がれていた。一味はこの船から一人当り一千ポンド相当の銀や金、その他の品々を引き上げ、山分けした。一味は総勢三百五十人になっていた。

「ペリカン」号は数日間同じ場所に止っていたが、大型ムーア船を発見したので直ちに追跡を開始した。ムーア船は「ペリカン」号を敵と思わず逃げようとはしなかった。「ペリカン」号は相手に接近すると発砲し、停船を命じた。「ペリカン」号はさらに距離をつめ、小火器を発射した。ムーア船は数人の乗組員を失ったが、補助帆を張って速度を上げた。「ペリカン」号はピストルの射程内に獲物を追いつめたが接舷は不可能だった。ムーア船の風下に回ると、マストの高いムーア船は「ペリカン」号の風を奪った。このため「ペリカン」号は優位に立つことはできなかった。「ペリカン」号は間切りながら追跡を続け、ムーア船の舵を破壊しようとしたり、損傷を与えようとした。ついに相手の恐怖心と操舵の誤りに乗じて「ペリカン」号はムーア船に並んだ。しかし操船に失敗して相手の先に出てしまった。その間にムーア船は下手回しに舵を取った。「ペリカン」号はこれを追って上手回しにしようとしたが船がいうことをきかなかった。乗組員は混乱し、彼らも下手回しにした。しかしこの混乱の間にムーア船は新しい針路をとり、すべての帆を張って遁走してしまった。

　獲物を取り逃した一味は平静を失った。そして一時は意見もばらばらになり、あるものは船の鈍速を罵り、またあるものは操船を誤ったことを嘲った。そして船底は一板張りで、もうすっかり腐食しているに違いないから、マダガスカルへ帰って船を解体してしまおう、と提案した。しかし時が経つにつれ、彼らのいがみ合いも収まり、失望が原因の腹立ちも癒えた。

　冷静になると一味はマラバー沿岸へ向かうことに決めた。この沿岸で短期間に三隻の船を獲物にした。最初の船からは、六千ドルを奪って釈放した。二番目の獲物は自分たちで使うことにし、砲二十六門を積み込んだ。そして「ドルフィン」号と命名した。三番目の獲物はマラバー沿岸で、一万八千ドルで売却した。「ペリカン」号は海に放置した。一味はここからマダガスカルを目差したが、途中マスカリーン島近くでハリケーンに遭い、マストを全部失った。一味は応急マストを立ててセントメアリー島までたどりつき、そこで新しいマストを立てた。一味はこの地でクリフォードとシヴァース両船長と彼らの獲物、そして彼らと取り引きするためアメリカからやってきた商船を発見した。このうち一隻はサミュエル・バージェスが指揮する「ペンブローク」号で、ニューヨーク商人のフレデリック・フィリップスの持ち船だった。「ドルフィン」号の船長と幾人かの乗組員は私掠船稼業が厭になり、これら商船に分乗して帰国した。乗組員たちはこの土地で生活していたサミュエル・インレスという男を船長に選んだ。そしてマラッカ海峡へ進出し、数隻のムーア船を捕らえた。しかしこれらは、一味にとってほとんど価値のないものだった。

　ノースは獲物の一隻に乗り移ったが、荒天のため他の仲間と離ればなれになり、ひどい水不足に陥った。親切にしていた同船のムーア人商人がみせてくれた海図を頼りに、ノースはオランダ植民地からあまり離れていない小島に入港し、水を補給した。ムーア人は自分の海図がなかったら一行は命の危険に晒されていたはずだと言った。ノースはこれを認め、僚船に遭遇するとこの船を釈放した。

　一味はアチン近くのニコバー諸島へ向かった。途中遭遇した大型デンマーク船を掠奪し、この船を使って傾船修理をした。それからマダガスカルへ戻り、戦利品を分配した。分け前は商品のほか、一人当り現金三百乃至四百ポンドになった。マダガスカルへ到着して一月後、三隻のイギリス軍艦が沖に見えた。リトルトン艦長の「アングルシー」号、ホワイト艦長の「ハスティングス」号、そしてラムゼー艦長の「リザード」号だった。彼らは「ドルフィン」号を風上に引いて行こうとしたが思うようにならず、火を放った。

　リトルトン提督は海賊に対する赦免状を携えてきた。多くの海賊がこれを受け入れた。クリフォードとシヴァースもこれを受け入れ、商人らとともに帰国した。ノースもこれを受け入れたが、降伏期限が軍艦到着以前に無効となっているのを見て、恩赦を信用しなかった。

　ほとんどの海賊は軍艦の碇泊するセントメアリー島を去った。ノースはここに滞在しては危険と考え、持てるものをすべて「ドルフィン」号のボートに積み込むと、マダガスカル本島へ向かった。そこの仲間と一緒になるつもりだった。しかし途中スコールに遭いボートは転覆した。ボートの乗組員はノースを除いて全員波に含まれて死んだ。ノースはただ一人、四リーグの海を泳いで岸にたどり着いた。

　身に何も着けず水から上ってきたノースの姿を見た黒人たちは、彼を海の悪魔だと思って逃げ去った。しかし白人相手に鳥を売るのを商売にしていた一人の女が勇気を出して、彼が近づくのを見た。白人だった。女は自分の身に着けているものを半分ノースに与えて身体を被ってやり、森へ逃げ込んだ彼女の荷担ぎ男を呼んだ。二人はノースを抱えるようにして、十六マイル離れた白人たちの住む場所に連れていった。泳ぎ疲れて消耗しきったものにとってこれはひどく難儀な旅だった。白人たちはノースを親切に迎え、衣類もくれた。彼は身体が回復するまでここに滞在し、それから土地の王のところへ挨拶に行った。そしてフルジェット船長が到着するまでのまる一年間、王の許に身を寄せていた。

　この船のことはすでにホワイト船長の章でもふれた。ノースはこれに乗り、マダガスカルの北端を回ってメセラージに到着した。一味はここで「スピーカー」号を急襲した。これもホワイトの章で話したとおりである。ノースらの船長ブースが死ぬとボーウェンがその後を襲い、ノースは操舵員になった。そして「スピーカー」号が難破するまで同じ船に止まった。

　ノースは次に「スピーディ・リターン」号（ドルモンド船長とともに拿捕された）の操舵手となり、紅海を目差して出帆した。だがマヨット島に寄港してハワード船長に出合い、僚船を組むことにしたことは前にも話した。ボーウェン一味はハワードらと二か月後に再会することを約し、ここからオーガスティンへ向かった。食糧の補給をすませ、マヨット島に戻ってみたが、僚船の姿はなかった。彼らはすでに出港したということだった。そこで一味はセントジョンズ島沖へ針路をとった。二組の海賊はこの地点で合流し、モカを出港するムーア船隊を待ち伏せる約束だったからである。

　途中、一味は激しい嵐に見舞われ、沈没寸前になった。波が船尾を砕いた。彼らは船倉にある二門を除きすべての砲を海に投棄しなければならなかった。この嵐のため一味はペルシャ湾に入らざるを得なかった。ここで数隻の小型船を獲物にするとその板を剥がして自分たちの船を修理した。

　嵐の中で船を救うため水樽に穴をあけてしまったから、一味はひどい水不足を来していた。捕らえた船も水はほとんど積んでいなかった。そこで一味はカヌーを降ろし、一隻の漁船を追跡させた。この船からどこで水を得られるか聞き出そうと考えたのである。カヌーは全速で船を追った。しかし船は発砲し、次に乗組員全員が海へ飛び込んだ。幾人かは波に呑まれた。残りのものは岸に泳ぎ着いたが、一人だけ遅れて海賊に捕まった。しかしボートに引き上げようとした途端、この男は水に潜り、一時間半にもわたって海賊のボートを翻弄した。海賊どもはこの男を失ってしまっては目的が果たせなくなるから、射つことはしなかった。しかしついにノースが棹を掴み、男が頭を出したところを殴りつけた。ただ痛めつけるだけのつもりだったがこの一撃は男の顎を砕いてしまった。こうして男を捕らえると、一味は本船の船医のところへ連れて行った。一味が、この男はもう話すことはできないだろうとあきらめたとき、彼は煙草を要求した。パイプを一服し、酒を一杯あおると、男は元気を取り戻したようだった。海賊のボートには東インドの言葉を話す黒人奴隷が数人乗っていた。そのうちの一人が命ぜられてこの男に水の場所を尋ねた。そして自分たちを案内してくれたら自由にしてやると約束した。男はこの約束を聞いて彼らを都合のよい上陸地点へ案内した。そして塵芥のいっぱい浮いた井戸を指した。ひどい苦労をしてこの井戸に近づいたが、やっとバケツ三杯分の水が汲めただけだった。これでは上陸した三十人の渇きを癒すのがせいぜいだった。ひどい無駄働きをして激怒した海賊らは、「殺すぞ」と言ってこの男を脅した。男は、日が沈むまで待てば井戸には水が満ち、一晩中流れ続けるのだと言った。男の言うのは正しかった。一味は二十トンの水を汲み出した。彼らは男を連れて船に戻り、品物と現金三十ドルばかりを与えた。そして今後この沿岸で船を見つけ、それが自分たちの決めたのと同じ合図をしたときは、船に出かけてきて何なりと自分ができる仕事をするようにと言った。そして、そのときはいつでも親切にもてなし、かねも十分払ってやろうと約束した。

　その後一味は僚船に遭えることを期待しながらペルシャ湾を数日間航行した。僚船も同じ嵐に遭ったに違いなかった。

　僚船として行動する約束の期限もすでに過ぎたが、ハワードの船は現われなかった。一味はスラトに近いセントジョン島へ船を進めた。ここが合流場所だった。一味が上陸したとき、大型船を望見した。直ちに交戦の準備を整え、追跡に移った。相手も同様の行動をとった。たちまち両船は接近した。そして互いにそれが僚船だとわかったときの彼らの喜びようは並大抵ではなかった。「プロスペラス」号はこの地に十日前から碇泊しており「スピーディー・リターン」号を痛めつけた嵐には遭っていないことがわかった。僚船の災難を聞き、砲や食糧もあらかた海に投棄したと知ると、ハワード船長は気の毒がり、新鮮な食糧を分け与えた。そして僚船関係を二か月間延長することにした。この期間、獲物は両船の乗組員で平等に分配しようというのであった。この海域を航海すること十四日、一味は七隻の大型船を発見した。モカを出港したムーア船隊だった。二隻の海賊船は追跡に移った。しかし「スピーディー・リターン」号の方が船足が速く、先に船隊の一隻に追い付いた。そして接舷するとたちまち相手の船を乗っ取った。味方の損害はボウスプリットを破損しただけだった。一方「プロスペラス」号は、捕虜にしていたウーレイ船長に水先案内をさせて追跡を続け、碇泊中の一隻を獲物にした。これはハワード船長の章でも述べたから、くり返す必要はあるまい。

「スピーディー・リターン」号は獲物の船を連れてマラバー沿岸へ向かった。僚船と約束したとおり、そこで十日間待つ予定だった。六日目に「プロスペラス」号が合流した。獲物は連れていなかった。すでに掠奪を終ってその船を置き去りにしてきたのである。これもすでに話したとおりである。

　一味は戦利品を平等に分配した後「スピーディー・リターン」号は焼却し、「プロスペラス」号は沈めた。そして全員獲物のムーア船に乗り組み出帆した。この沿岸を航行中、数隻の船を捕らえた。コチンに到着すると現地の商人や金細工職人、それにオランダ人らが商売をしに一味の船にやってきた。彼らはスペインドルと交換するために莫大なセキン金貨その他の金貨を持ってきた。海賊たちの多くは足を洗って国へ帰るつもりだったから、身につける便も考え、五百ドルで二百セキンを購入した。金細工職人たちは、甲板に仕事場を作り、ボタンやバックルその他海賊たちの気に入りそうなものを拵えた。海賊船はまたアラキ酒、食糧その他必需品をたっぷり積み込むと、この地を離れマダガスカルを目差した。途中モーリシャス島に立ち寄り、この島のノースウェストハーバーと呼ばれる港に入った。一味は、ここで薪と水を補給した。この港にはレッドスナッパーという毒のある魚がたくさん獲れた。ボーウェン船長はこの魚が毒であることを知っていたから、乗組員らに食べないようにと言った。しかし港にいるときは全員が船長である。ボーウェン船長の忠告など聞くものはいなかった。船長は彼らの頑迷さはとても説得できないと見ると、オランダ人の中に一人残されるよりは仲間と運命をともにするほうを選び、自分も魚を食ってしまった。

　海賊どもは魚をたらふく食ったうえ、酒を浴びるほど飲んだ。間もなく、ひどく腹が張ってきた。翌朝、幾人かの入植者が鳥、山羊等を持って船にやってきた。そして海賊らの惨澹たるありさまと甲板に散乱している魚を見て、「この魚を食ったのではないか」と彼らに聞いた。魚を食ったことがわかると入植者たちは強い酒を大量に飲むことが唯一の毒消しの方法だと教えた。そして、そうしなければ間もなく全員死んでしまうと言った。海賊どもはこの療法が大いに気に入ったから、すぐ言われたとおり実行した。この荒療治と、入植者の腕のいい医者の看護、そして良薬のあったお陰で、四人を除いて全員回復した。この四人だけは自分たちの頑迷さのため命を落したのである。



オランダ軍艦ポルトガルよりコチンを奪取（同地に海賊が出没した当時の様子がわかる）





* * *





　一味はここで船を傾けて船底の汚れを落し、油脂を塗り、必要物資を積み込んだ。この港での滞在が三か月になったとき、島の総督が使いをよこし、オランダ東インド会社の船が到着しそうだから出帆したほうがよいと伝えた。一味は早速準備して出港した。しかし、ボーウェンの章で書いたように、数人の仲間をこの土地に残した。

　一味はマダガスカルへ針路をとったが、途中マスカリーン島へ寄港し、豚、山羊、羊、鳥、そして海亀を積んだ。ボーウェン船長は四十人の仲間を連れて上陸し、土地の総督に相当の贈り物をして保護を求めた。彼らは海賊稼業をやめて、できるだけ早く帰国するつもりだった。六か月後、ボーウェン船長は西インド諸島で流行するのと同じような病気になり、死んだ。土地の僧は、彼が異教徒だという理由で墓地へ埋葬することを許さなかった。ボーウェンは道端に埋められた。

　閑話休題。ボーウェンが上陸すると代ってノースが船長に選ばれた。ここで船長就任の儀式がどんなものか書いておこう。乗組員が全員一致あるいは多数決で船長を選ぶと、彼らはひどく厳粛な態度で彼に一振りの剣を与えて敬意を表し、貴殿はわれわれのなかで最も有能なる人物であるから、よろしく指揮を引き受け船長室を使っていただきたい、と言うのである。選ばれた男がこれを引き受けると、船長室に案内され、テーブルに着かされる。テーブルには上座と下座に一つずつ椅子がある。下座の椅子は一味の操舵手の席である。二人が席に着くと、操舵手は船長に向かって、簡潔に次のように言う。「われわれ乗組員は貴殿の行動と勇気を知り、貴殿にわれらの頭になってもらいたいと思います。われわれは貴殿が変らぬ勇気をもって行動し、われわれ全員の利益につながることをしてくれると信じます。ここに私は乗組員全員を代表し、貴殿の発する一切の正当な命令に従うことを誓い、貴殿を船長であると宣言します」。それから操舵手は前もって船長に贈り、いったん返してもらってある剣を取って船長に手渡し、「これが貴殿の任務です。貴殿とわれらに幸あらんことを」と言う。祝砲が轟き、船長は万歳三唱を受ける。船長は幾人かを選んで食事をともにし、乗組員全員にパンチの大杯がふるまわれる。こうして儀式は終るのである。

　ノース船長はこの島を出帆し、マダガスカルへ向かった。そして、ホワイト船長の章でも述べたように、南端のドルフィン岬へ到着した。ここで投錨し、新鮮な食糧を積み込んだ。しかし風が強くなったため、ボートに三十人の乗組員を残したまま出帆せざるを得なかった。ノースは東岸を北上し、南緯十七度三十八分に位置するアンボナヴラに入港すると、積荷の一部を降ろした。一味は上陸し、原住民の中に落ち着いた。彼らは原住民に君臨した。

　ムーア人捕虜は船に監禁し、十分な食糧を与えた。ノースはムーア人甲板長に、夜のうちに陸風を利して出帆するよう密かに命じた。そして、乗組員は間もなく船を風上に移動し、積荷を全部降ろすつもりでいるから、そうなったらおまえたちは置き去りにされ、二度と母国を見ることができなくなると言った。

　甲板長はこの勧めに従って、夜になってから他のムーア人らに計画を話した。ノースが、計画を実行する間際まで口外してはならない、と命じていたからである。彼らは音も立てずに錨を揚げ、沖に出て行った。

　翌朝、幾人かの海賊が船から鉄の道具類を運んで原住民と商売しようと思い立った。そして船がいなくなっているのを発見し、仰天した。彼らは仲間に急を告げ、ノース船長に一大事を知らせた。ノースは「ムーア人が船に乗って出ていってしまったというのなら、それは俺たちの手落ちだ。俺たちがもっと十分な人手を船に残し、しっかり見張っておくべきだった。だがいまさらどうなるものでもない。辛抱するしかない。船を買おうったって、カヌーしかないのだからな」と言った。

　海賊は、碇泊地の海底は岩だらけだったから、船は何かの拍子で錨綱を切ってしまったのだろう、と考えた。彼らは見晴らしのよい場所へ駆け登ってみた。遥かかなたに帆をいっぱいに張って去ってゆく船があった。もはや船を取り戻せないことは明白だった。

　こうなってはどうすることもできなかった。彼らは気を取り直し、陸揚げした荷物を離ればなれに建てた自分たちの住居に運んだ。彼らは牛と奴隷を買い、互いに隣人として五年間ここに住んだ。そして広い土地を開き、ヤムや馬鈴薯などを植えた。ここの原住民の間ではいさかいや戦争が絶えなかったが、海賊たちはそれを仲裁し、いがみ合っているものを和解させようと努めた。ノースは偏らない判断と厳しい公正さをもって再三原住民の争いを裁いた。（彼はだれからも立派な人格を認められていた。）だから裁きに敗れたものでさえ、彼の公正な判断と決定には満足し納得するのが常だった。

　海賊たちは平和を好み、友好的な生活の範を示した。彼らはどんなもめごとも用心して避け、仲間同士の不満の種になりそうなことはノースと十二人の判事の冷静な判断に委ねた。このことが、それまで白人に対して非常な偏見を持っていた原住民から尊敬される結果となった。仲間同士の調和を保つという点で、彼らは厳格だった。怒気を含んだり不満な調子の言葉を口にするものはだれであっても仲間の全員から非難された。特に、たとえそれが自分たちの奴隷であっても原住民の前でそのような言葉を吐くことは厳しく戒められた。彼らは結束と調和こそ自分たちの安全を守る唯一の方法だと考えていたが、これはまことに正しかった。なぜなら、原住民たちはほんのちょっとした機会でもあればすぐにでも相手に襲いかかろうとしていたから、海賊たちが仲間割れでもしたら、たちまちそれにつけ込まれ、斬り殺されたに違いないからである。

　ノースはよく仲間にこのことを話し、団結すれば原住民から畏怖され君主として敬われもすると説いた。自然は最も無学な連中にも自己保存のため必要な思慮分別を教え、また恐怖は、宗教がすでに行なえなくなったことを起こさせるようである。いまや宗教は一つの商売とみなされ、それを教えることだけが自分の仕事と心得て、理屈に満足し、実践は俗人に委ねている人びとの恥ずべき生活によって汚されているからである。海賊は人間性の恥辱であるというのは理由のないことではない。彼らは悪徳に身を委ね掠奪を業としているからである。しかし、ここで彼らは、自分たちが身を委ねていた欲望を抑えられるということを黒人たちに示すことが身の安全になると考えたのである。そして自分たち自身を治める場合も、原住民の争いを鎮める場合も、厳正であるだけでなく、自じ恃じと節制を保つことが自分たちの利益になると判断したのだった。確かに彼らは幾人もの妻を持った。しかしそれは、みごもった女と同棲することは自然の意志に背く罪であり、幾世代かするうちに動物をはびこらせることになると考える人びとの中にあっては恥ずべきことではなかった。そして彼らの中にあってこの罪を犯せば、自然の意志に忠実で、人間に教訓を示している獣より悪いと看做されるのである。私が海賊たちは自制心を持っていたと言ったのは、彼らが仲間や原住民の権利を決して侵害しなかったという意味なのである。

　読者は、海賊たちが極く些細な争いをどのようにして治めたのか興味を持たれることと思う。前にも話したように、彼らは小さな火の粉を放っておけば、大都会を焼き尽す大火にもなるように、些細なことに原因する不和が仲間全体の破滅を招くことにもなると考え、それを格言としていたからである。

　誤解が原因で論争になったり、ぶしつけな言葉が発せられると、仲間は直ちに話を中止し、そのうちの一人が皆の前に置いた酒を地面に注いで「争いは必ず仲間の損になる。これがもっと大きな損害にならないよう、俺はこの酒を邪鬼への捧げ物とする」と言う。争いの当事者双方は、翌朝ノース船長のところへ出頭するよう命ぜられ、それまでは各々の自宅で謹慎を命ぜられる。それに従わなければ仲間から追放され、島の別の場所に送られることになる。

　翌朝、当事者双方が出頭し、白人全員が召集される。ノース船長は原告と被告を一方に置いて、「加害者が行ないを正すことを約束し、被害者が憎しみを忘れるまでは、われわれは、おまえたちをわれわれ全体の敵と考えなければならず、おまえたちをわれわれの友であり仲間であると見るわけにはいかない」と言い渡す。そして列席者全員の名前を紙片に記し、それを巻いて帽子の中へ入れる。各当事者は帽子をよく振ってから、紙片を六つずつ取り出す。こうして選ばれた十二の紙片に名前を記されたものが判事となり、船長を助けて証人を喚問し事件を審理するのである。審理が十分尽されると法廷は翌日まで休廷になる。再び当事者たちが呼ばれ、翌日まで自宅に居るよう申し渡される。自宅へ戻るときは二、三人に付き添われる。奴隷や周囲の黒人たちに彼らの不和を疑われないためである。

　翌日、審理は再開され、証人もまったく新たに調べられる。これは前日の証言に間違いないかどうか確かめるためである。法廷は再び休廷になり、原告と被告は翌朝、罪状に応じた罰金の判決が下るまで自宅で待機するよう命ぜられる。

　当事者を自宅謹慎処分にするのは、彼らが争いを続けるのを阻止し、また自由の身にすることによって起こるかも知れない事故を防止するためである。

　彼らがとった紛争調停の方法は周囲の国全体を平定した。この土地に定住して三年ほど経ったとき、ノース船長と幾人かの仲間は南の方へ行ってもっと多くの奴隷と牛を買い付けようと考えた。ノースは武器弾薬を大量に用意し、白人五十人と原住民三百人の隊で出発した。およそ四十マイル南へ下ったところで、マンゴラ河という東岸最大の河沿いにある国に出た。ここには奴隷も牛も豊富だった。ノースは銃と弾薬を売って大量に奴隷と牛を買った。ノースが到着したとき、この国は隣国と戦争中だった。マンゴラ国の王はノースに、助勢してくれたら奴隷百人と牛五百頭、それに捕虜は全員提供すると約束した。そこでノースはこの国の味方になり、敵国の大きな街へ進軍した。街は高く険しい岩の上にあって自然の城塞をなし、人びとからは難攻不落と思われていた。街の入口へ登る道は一本しかなく、その門の守りは強力だった。ノースの部隊の黒人たちはこの街を攻めずに放置し、戦利品を求めてさらに南へ進むことを提案した。しかしノースは、敵の要塞を背後にしたりすれば、味方は常に後ろから脅かされ、戦利品を運ぶのにも障しよう碍がいとなって、危険だと主張した。しかもこの街は敵の恰好の退避場所となり、集まった敵は味方を迎え撃つに十分な勢力となる。敵は全員新手であるのに、味方は恐らく足手まといの戦利品を抱えての行進や不便な野営によって疲労困憊しているから、敵は当然自分の方に利があると思って襲ってくるだろう。ノースはこう説明した。

　味方の軍の司令官は、ノースの理屈はもっともだが、これまでの経験からみて街を攻撃するのは不可能だ、と言った。以前何回か包囲したことがあるけれど決して落ちなかったし、今また攻めても時間と人命の無駄になるばかりだと言うのである。

　ノースは、街の包囲を自分に任せてほしいと言った。司令官は、おまえの好きにすればよかろうが、自然に守られた堅城を攻めるのは自分の考えとは反すると言った。そして、この街は神が落せしめないようにしているのであり、かつていく度か攻めても徒に多くの同胞が死んだだけだったと言った。

　ノースは岩を囲むように自分の軍を配置した。それから街へ使者を送り、直ちに降伏しなければ老若男女を問わず容赦しないと伝えた。敵は嘲笑い、おまえが空飛ぶ術を知ってるとは思えないし、また知ったとしても、そんなことで陥落する街ではないと言い返してきた。

　ノースは三十人の白人を選び、それぞれ百人の黒人から成る三つの部隊の先頭に置いた。そして岩の麓の敵の守備兵たちを手投弾で追い散らし、拠点を確保した。黒人たちは銃は知っていたが爆弾はまったく初めてだったから、その威力を目前にするとたちまち武器を投げ棄てて岩の中腹に逃れ、そこに陣取った。ここにも守備兵が配されていた。敵は幾人かの犠牲者を出した。麓の敵を追い散らすと、ノースは十人の白人と三百人の黒人を派遣して陣地を占拠し、残りの白人には岩を登って中腹の守備隊を攻め、さらに黒人たちを率いて街に突入するよう命じた。彼らは命に従い岩を登った。道は狭く、やっと三人が並んで通れるぐらいだった。彼らが射程内に近づくと、敵は矢を雨のように射かけてきた。三人の黒人が武器を持たずに、盾で、後に続く射手を守りながら進んだ。さらにこの後にも、同じように盾を持つ黒人が続いた。こうして一人の白人銃手を二人の黒人が守るような形で全体が進軍した。

　敵はこの道を死守する決意らしかった。しかし、いくら矢を射ても効果なく、逆に銃弾で幾人かを失うと、敵は早々に岩の頂上へ引き上げた。そこで街から来た援軍も加わり、抵抗の構えを見せた。ノースの部隊は追撃し、激しい銃火を浴びせた。敵は混乱した。その隙に攻撃側はさらに距離をつめ、手投弾を投げ込んだ。六発の手投弾が炸裂し、大きな損害を与えた。数人が死んだ。敵は街に逃げ込もうとした。しかし、街の住人たちは敵の突入を恐れ、味方が入ってくる前に門を閉じてしまった。背後から迫ったノースの軍の黒人たちは、閉め出された敵に襲いかかり殺戮した。しかし一部の敵は捕虜にして基地に送った。同時に城門爆破用の火薬の補給を求めた。

　その間、敵は街から無数の矢を射かけてきた。包囲軍はこれを大部分盾で防いだ。

　包囲軍は、再度、街に向かって降伏を呼び掛けた。しかし敵はこれを拒絶した。このため包囲軍は火薬の到着まで、できる限り敵の矢を防がなければならなかった。盾の隙間から撃つ銃弾は、よく敵の矢の勢いをそいだ。

　火薬が到着した。街を包囲している連中は立木を切り倒し、中をくり抜いて火薬を詰め、盾と掩護射撃でそれを守りながら、城門の下まで運んだ。それから大きな穴を掘ってこの爆薬を仕込んだ木を埋め、導火線に火を点じた。火薬が爆発した。城門は破砕され、街に通じる道が開けた。包囲軍は、火薬を運んできた五百人の黒人を加え街に突入した。街は殺戮の修羅場と化した。白人たちは降伏したものは全員保護した。しかしそれにもかかわらず、街は死体と瀕死者たちで埋め尽された。やがて黒人たちは疲れ、白人の説得もあって殺戮が止んだとき、街は灰燼に帰していた。征服軍は三千の捕虜を連れて陣に戻った。ノースの同盟軍は捕虜を自分たちの場所へ連行し、老女、子供その他役に立たないものを選び出してノースのところへよこした。これで、ノースの援助に対する約束を果したとでも言うような素振りだった。

　ノースはこの誠意ないやり方を見て、王を呼び、こう言った。「約束では捕虜は全員われわれのものになるはずだ。のみならず、公正に言っても捕虜に対する権利はわれわれにある。なぜなら、あなたは街を攻撃することを放棄し、われわれがそれを包囲することさえやめさせようとしたからだ。しかも今回の成功はわれわれの働きによるものだし、あなたの軍隊が無事だったのもそうだ。われわれはあなたがたを立派な人びとと思って同盟した。しかし、われわれの考えが間違っていたことは、何とも残念なことだ。なぜなら、あなたがたは約束を守って捕虜全員をわれわれに渡すどころか、まったく役に立たないものだけを選んでよこしたからだ。われわれがこのような侮辱に気付かないなどと思ったり、それに対して何かする力や決意がないなどと侮ってはいけない」。

　それからノースは、捕虜の中にいた美しい娘たちはどうしたのか、と聞いた。王は、彼女たちは自分やその他この国の男たちの親族だから、奴隷にするわけにはいかないと答えると、ノースを残して帰っていった。王の言葉はひどく傲慢だったから、ノースたちは憤慨した。部下は即刻思い知らせてやろうといきり立ったが、ノースは彼らを宥め、自分に任せてほしいと言った。彼らはノースに従った。ノースは通訳を街にやって、捕虜の女たちに、彼女らの親族というのはだれのことなのか秘かに尋ねさせた。女たちは、自分たちの父祖の幾人かがこの国のものと結婚していたのだ、と答えた。ここで読者に注意しておくことがある。この島の住民は単一の言語を持っているのだが、国の違いによる方言の差が著しく、それらを理解するのは原住民か、長年彼らと生活をともにしたもの以外困難である。このため、ノースは王や奴隷と話をするのに通訳を使ったのである。

　捕虜たちの答を聞いたノースは王のところへ行き、こう言った。「自分の親族に戦争を仕掛けるなどということは尋常ではない。だがあなたは捕虜たちを親族だと言ったのだから、留置されるがよかろう。しかし私は、あなたの血縁より私の権利の方が強いことを御覧に入れよう。捕虜たちを捕らえたのは私だ。だから、私は自分の権利の正しさを示せるかどうか、やってみるつもりだ。あなたは守りを固めるがよい。私はもうあなたの盟友ではない。私は誠意のない人間を敵とする」。

　ノースは自分の黒人たちをマンゴリア人たちから離し、それを幾組かに分けた。各組を白人に指揮させ、街の頭越しに砲弾を撃つよう命じた。最初の砲撃はマンゴリア人にとって驚愕そのものだった。数人が逃げ出した。しかしノースはたて続けに二弾三弾を発射し、街に進軍した。そして王とその軍隊の指揮官全員を地面に這いつくばらせた。彼らは完全な服従を示し、白人たちの足に接吻した。そして、変らぬ友情を願い、すべて好きなようにしてもらいたい、と言った。

　ノースは言った。「騙すということは賎しく卑怯な心の表れです。王であるあなたが自分で約束し、また私が捕らえ当然私のものとなる奴隷が多すぎると考えたのなら、そう私に説き自分の気持ちを打ち明けるべきだったのです。そうすればこんな争いは起こらなかったでしょう。私や私の仲間は決して欲深くはないし、不当な要求もしません。だが、あなたには堂々と奴隷を要求する勇気がなかった。だから、卑劣にも自分の親族だなどとごまかしてそれを盗んだ。これこそあなたが自分の要求が正当だと考えていなかったことの証拠です。実際、私の部下は全員、あなたが、捕らえた捕虜はすべて白人に与えると約束したことを証言できます。恩知らずと偽瞞をわれわれは憎みます。正義のために戦うのと、悪や不当な行為に味方して戦うのとでは大違いです。だから私はあなたがたを厳しく懲らしめようと決意していました。しかしあなたがたは自分たちの非を認めた。私はあなたがたを許しましょう。終ったことは忘れましょう。しかし、あなたたちが再び裏切りをしたら、必ず成敗するから覚えておきなさい」。ノースは彼らに奴隷を連れてくるよう命じた。彼らは返す言葉もなく従った。

　ノースは捕虜を同数の二組に分けた。立派で強壮なものを選び出して一方の組に入れ、それを自分たちのものとした。そして他の組を王に与え、「ぺてんや脅迫で私から奴隷を奪うことはできない。だがあなたの兵隊の幾人かはわれわれと危険をともにした。これらの奴隷はそのことに対する贈り物です」と言った。

　王と彼の臣下のものは白人たちの見識と勇気と寛大さにすっかり敬服した。王は言った。

「わしはおまえの奴隷の贈り物にももちろん感謝しておるが、それ以上におまえたちの行ないから学んだことを有難く思っておる。今後、わしは卑しい行ないは一切せんつもりだ。わしは誠実で包み隠さないことの美しさをおまえたちに教えてもらった。贈り物もかたじけなく思う。おまえは復讐するのではなく、わしの目を覚してくれた。わしはおまえの砲弾がわしらの頭上で炸裂しないことに気付いておった。わしは白人が敵の命をも大切にすることを知った。まことにわしらの風習とは違っておる。わしらは女子供以外のものは容赦せんのだ。将来だれも復讐できないようにするためなのだ」。王は、ノースに、何でも言うことを聞くからこの国を去らないでほしい、と懇願した。しかしこれは聞き入れられなかった。ノース一行は奴隷と牛を連れ、帰路についた。マンゴリア人たちはノースの決意の固さに感心した。別れは和やかだった。

　帰国の途中、ノースたちはチムーズという別の国に入った。この国の王は五百人の臣下とともにノースと同盟し、固い友好を誓った。友好を誓うときの原住民の儀式は珍しいものであるから、読者にも興味を持っていただけると思う。友好を誓う部族は互いに足と手の指を絡め合わせる。従って彼らは互いに接して腰を下さなくてはならない。こうして手と足を絡め合わせたまま、彼らは相互に友好を誓い、相手の友に対しては自分も友であり、敵に対しては敵である、と言う。もしこの誓いを破ったら、槍に刺されるなり鰐に食われるなり、はては神に殺されるなり、どうなってもよいと言い、自分自身に禍いあれ、と呪うのである。それから手伝いのものが座っている両人に切り傷をつけ、その血をパンで拭うと、そのパンを各自に食わせる。つまり、両者とも各々相手の血を飲むわけである。この誓いは、対等な二者の間で行なわれるものであれ、王が臣民に保護を約束し、臣民が王に忠誠を誓う場合であれ、神聖で破るべからざるものと看做される。実際このような誓いが破られた例は極く稀である。しかしそれを破ったものは、自分自身の呪いに従って罰せられるということである。

　チムーズの王は強力な隣国と戦争した結果、主だった臣下、妻や親族たち、そしておよそ五百人の兵を伴って国を去り、ノースに従った。彼らは二年間ノースたちとともに過ごした。この間、王はノースから武器弾薬そして兵士の援助を受け、幾度か敵国へ攻め入り、それらすべての王にノースへの同盟を誓わせた。

　二年経ったとき、ハルゼー船長がブリガンティーン船で入港した。これはホワイト船長の章で話したとおりである。この一味は航海に失敗し、船長に対する不満が募っていた。彼らはノースに、ハルゼーに代って船を指揮してほしい、と頼んだ。しかしノースはこれを辞し、ハルゼーはあらゆる点で優れた人物であり、勇気でも行動でも立派な船長を見棄てたりすべきでない、と諭した。そして自分自身は放遂される正当な理由のないものから指揮権を奪う気はさらさらない、と言った。

　乗組員はこれに満足せず、今度はホワイトに同じ申し出をした。しかしノースの熱心な説得で、やっと彼らはこれまでどおりハルゼーを船長とすることにした。ノースとその仲間はすでにかねを使い果し、衣類にもこと欠いていた。ノースは操舵手として、また残りのものは平水夫としてハルゼーの船に受け入れられた。こうして彼らは、ハルゼー船長の章に述べた紅海への冒険に出帆したのである。ハルゼー船長は獲物にした船に移り、ブリガンティーン船の指揮はノースに任せた。

　二人の船長は嵐に遭って離ればなれになったが、各々マダガスカルへ向かった。ハルゼーはアンボナヴラに到着したが、ノースはマラタンに着いた。ブリガンティーン船はひどく蝕まれており、浸水も激しかった。彼らは積荷をすべて陸に揚げ、船を繋いだ。

　一味は原住民から親切に迎えられた。この国の王は自分の弟と戦争中だった。その間、ノースは王の妹に言い寄って彼女の無ぶ聊りようを慰めた。弟を打ち破って帰国した王はノースが自分の肉親に無遠慮に近づいているのを見て、激怒した。そして王家を侮辱した科により、二百セキンの罰金を申し渡すことにした。しかしノースはこれを察知し、事前に百セキンを贈って王を宥めた。

　海賊たちはこの土地に一年間滞在するうち、アンボナヴラへ戻りたくなった。彼らは王にボートを建造するのを援助してほしいと頼んだ。王は千ドルを受け取ると、幾人かの黒人をノースに任せた。ノースは彼らを使って、十五トンの船を大急ぎで建造した。

　このボートで一味はマラタンの北三十リーグの地点にあるマナンガロ河へ向かった。ここで海賊が幾人か、スコットランド船「ネプチューン」号のボートに乗ってやってきて、一味の荷物をアンボナヴラへ運ぶのを手伝った。ここはノースが以前住み、妻と三人の子供のいるところだった。

　ノースは遠征に出て長く戻らなかったが、近隣の国の住民が、南から彼に従ってきたチムーズ人たちが謀叛を企ててノースやその他の白人を殺そうとしていると告げたので急遽帰国した。彼はこの話を鵜飲みにして、気の毒なチムーズ人たちを放逐してしまった。

　しばらくして、ノースはスループ船を建造し、アントンギルへ向かった。ここで九十人の奴隷を買い、「ネプチューン」号の貨物上乗人ジョージ・クルックシャンクを船に乗せた。この男を連れて、マスカリーン島へ行くつもりだった。しかし仲間はこれに反対した。この男がヨーロッパへ帰ったら、仲間全員が破滅することになるかも知れないというのが、その理由だった。これに対してノースは次のように言った。「この気の毒な男の持っていたものをほとんど奪ったうえ、故国や家族や友人たちからも離しておくのは酷すぎる。この男は私の捕虜なのだから、寛大な扱いをするのにおまえたちの同意を得る必要はない。おまえたちがこの男から奪ったものはもうばらばらになって、返してやることもできないのだから、釈放だけがたった一つできる償いなのだ」。

　ノースが話し終ると、一味はクルックシャンクを帰国させるかどうか投票で決めることにした。大多数のものはノースに恩誼を感じていたこともあり、五十四人中四十八人がノースの言うとおり、クルックシャンクの釈放に賛成した。ノースは目的を達した。海賊たちは、「ネプチューン」号の士官候補生で、クルックシャンクの気に入りだった男（Ｊ・Ｂとしておこう）も一緒に行かせるのか、と聞いた。（この男は若いスコットランド人で、有能な船乗りだった。そしてどんな航海でも敏腕を発揮した。）ノースは、航海にはどうしてもＪ・Ｂの知識が必要だ、と言った。仲間は、奴は船長をまいて逃げてしまうに決まっているし、そうすれば自分たちとしても、若い熟練水夫を失うことになるから、拘留しておくべきだと主張した。ノースは、アンボナヴラへの帰路は彼以外だれにもわからないのだから、彼を船に留めておくことが自分の安全になると答えた。

　こうしてノースはマスカリーン島へ向かった。島へ到着するとクルックシャンクと彼の黒人は上陸した。クルックシャンクは自分のかね千六百ドルを全部持っていった。前に話したように海賊一味が「ネプチューン」号を獲物にしたとき、一味は酒その他の品に対して支払ったかねを、船長、積荷監督その他だれからも取り返すようなことはしなかった。一味はそのような行為は不正で卑しいことだと考えていたのである。しかし船と積荷に対しては正当な権利を主張した。つまり両方とも要求した。一味が「グレイハウンド」号の商人に払ったかねを取り戻したのは事実である。しかしこのことによって彼らを不正であるとかその主義に反したとか非難する前に、このときの状態を思い出していただきたい。

　一味は「グレイハウンド」号を乗っ取らなかった。それどころか、彼らは船に十分な食糧と航海に必要な物を積んで釈放したのである。この船は敵国のものであって、許可証もなく彼らの港へ入ってきたのだから、彼らにはこれに対する合法的な権利があったと言ってもよいだろう。さらに、一味は、この船の商人に以前払ったかねを盗んだのではなかった。そうではなく、「ネプチューン」号から「グレイハウンド」号に移した酒に対する代金としてそれを取ったのである。商人自身も、多少なりとも正直だったなら、これらをただで手に入れることなど期待しなかっただろう。しかし一味が実際に行なったように正当な取り引きでかねを得たのではなく力ずくで奪ったのだとしても、それは、不正を処罰せぬまま許しておいたりはしないこれら紳士たちの廉潔さから当然期待されるように、正義の行為に過ぎない。そしてスコットランド船「ネプチューン」号の拿捕を唆したこれら商人らの行為を正しいと言う人はいまい。

　閑話休題。ノースはＪ・Ｂの上陸は許さなかった。しかしその埋め合せに黒人を四人与え、船内でも大幅な自由を認めた。彼は黒人たちを三百ドルで売った。この島でのノースの目的は、自分の子供にキリスト教徒としての教育を受けさせる許可を得ることだった。彼は総督に相当な贈り物をしてこの許可を得、マダガスカルへ戻った。帰路、Ｊ・Ｂはノースから非常な信任を受けた。ノースは彼にこう言った。「私は子供たちをマスカリーン島へ送って、そこの牧師に委ねようと思っている。キリスト教徒として教育してもらうつもりだ。それから私はマラタンに帰って前非を償う懴悔の生活に入るのだ。もう決して海賊稼業には戻らない。おまえが海賊仲間になるのを断ったのはよかった。だから、私はスループ船に二百ドルを付けておまえにやるつもりだ。それで帰国することができるだろう」。

　マダガスカル沿岸に到着すると、フランス船が幾人かの乗組員を置き去りにして行ってしまったという噂を耳にした。ノースは彼らを尋ね、救出するため、自分の航路から百リーグも南まで船を進めた。これは是非ともここに記しておかねばならない。なぜなら、これはわれわれの中にいる信心づらをした少なからぬものを恥じ入らすような人道的な行為だと思われるからである。この連中は全世界の敵、人類の名折れとしてわれわれが追い殱滅しようとしている海賊どもよりさらに野蛮な行ないをしている。この言葉が厳し過ぎると思うものがいるのなら、冷酷な債権者のため、幾千というものが牢で死んでゆくのを見るがよい。しかも債権者らはこれらの人びとが支払えないのを知ってのことである。また、墓場のような生活の悲惨を見るがよい。無慈悲な連中の心を満足させるために毎年何人の人びとが飢えて死んで行くか知るがよい。そしてできるものなら、債権者が気の毒な債務者を人為的な死のうちで最も残酷なもの、すなわち餓死をもって罰することを許しているイギリスの法を廃するがよい。彼らの残虐のそしりを晴らすがよい。話が横に外れてしまったが、私がこんなことを言うのも、このことのみがイギリス人の性質を諸外国人のそれより低からしめていると思うからである。

　ノースは置き去りになった乗組員を一人だけ見つけることができた。彼はこの男をアンボナヴラへ連れて帰った。彼の留守中に、アンボナヴラは内乱状態になっていた。留守を守っていた仲間は原住民との戦争に備えていた。しかし彼の帰国とともに、再び秩序が戻った。帰国して四か月経つと、ノースは奴隷を買い付けにアントンギルへ出かけた。しかし気に入った奴隷がほとんどなく、二か月の滞在期間でたった四十人を買えただけで居住地へ帰った。いよいよノースは自分の子供たちをマスカリーンへ連れて行こうと考えた。しかしＪ・Ｂに今は季節が悪い、と説得され、とりあえず西岸のメセラージへ行ってめのうの商売をすることにした。

　大量のめのうを買い付けると、ノースはヨハンナ島へ行き、さらにマヨッタ島へ向かった。それからマダガスカルに戻ったが、潮流が悪く、再び船をマヨッタ島へ向けた。そして島の西岸にあるスエラズという港へ入った。ここには数日前、プリンス船長のイギリス船が入港した。船長と船医、そしてボートの乗組員は原住民に捕らえられた。船長と船医は火薬二百樽と小火器千丁を身代金がわりにして釈放されたが、ボートの乗組員たちは拘留を解かれなかった。一人につき銃二丁の身代金がなかったからである。この気の毒な人びとは、後にアラビア人に売られてしまった。このことを知ったノース一味は、直ちに上陸して大きな街を焼き払い、手あたり次第破壊して復讐した。マヨッタ島からマガダスカルへ戻ると、アンボナヴラで白人と原住民が戦争しているという話を聞いた。ノースは奴隷三十人を買い付け、乗組員を休養させるとアンボナヴラへ帰った。ノースの帰国を知った原住民は和平を申し入れてきた。しかしノースはこれに耳を貸さず、軍隊を送って街を焼き払い、大勢を捕虜にした。

　ノースの大勝を目のあたりにした原住民は恭順の態度を示して、武器を収めるようノースに懇願した。平和が訪れた。ノースが帰国しておよそ四か月後のことであった。しかし敵は機を窺って、ノースの周囲の原住民を買収し、夜半、彼が寝入っているところを襲って殺してしまった。急を知ったノースの仲間はすぐ武器を手にし、裏切った原住民たちを追い、多数を殺した。ノースの弔い合戦は七年にも及んだ。白人たちは周辺の国をすっかり平定し、従わないものはすべて放逐した。

　ノースはＪ・Ｂに遺言を残した。自分のスループ船をＪ・Ｂに与えるから、それで子供たちをマスカリーンへ送ってほしいというのであった。そして遺産の大部分は彼に与えると書かれてあった。しかし海賊たちは戦争が続いている限りＪ・Ｂを外へ出すつもりはなかった。彼はこれまで一度も海賊行為に加わらなかったから、出ていったら戻ってこないのではないかと懸念したのである。一味は全員一致でスループ船を焼き払い、数年間彼を引き止めたのである。





36　オーガー船長の海賊行為





　一七一八年七月二十日、バハマ諸島植民地総督兼海事裁判長ウッズ・ロジャーズは、指定の期日までに投降した海賊はすべて赦免する旨の国王の布告を携え、イギリスからプロヴィデンス島に着任した。総督の艦隊が同島ナッソー沖に到着したのは夕刻だった。「デリシャ」号の水先案内人リチャード・ターンリーは、その夜砂州を越えるのは危険と判断した。このため、艦隊は翌朝まで沖で碇泊することにした。

　碇泊中、プロヴィデンスに隣接するハーバー島という小島から数人のものがやってきて、プロヴィデンス島にはおよそ千人の海賊がいて、国王の赦免状を待ち侘びていると告げた。海賊たちの頭目はベンジャミン・ホーニゴールド、アーサー・デイヴィス、ジョゼフ・バージェス、トマス・カーターらで、全員ナッソーの街かその郊外に住んでいるということだった。さらに、ナッソーの砦は修復不可能なまでに壊れ、九ポンド砲一門があるきりで宿泊施設はなく、小屋には海賊たちがソーニー総督と嘲笑をこめて呼んでいる老人が一人住んでいるだけだという話だった。

　海賊の一人チャールズ・ヴェイン船長は、投降するつもりはさらさらなく、それどころか新しい冒険を企てていた。艦隊は港からも街からも見ることができたから、ヴェインは夜陰に乗じて島から脱出を計った。港は閉鎖され、また船の喫水が深すぎて、東側の水路を通ることは無理だった。彼は乗組員と積荷の大部分をもっと軽い船に移し、もとの船の砲にはすべて二倍の弾丸と火薬を装填してから火を放った。艦隊の船かボートがやってきたら、砲の爆発で損害を与えることができると考えたのである。

　艦隊ではこの船の火と砲声を聞いて、陸の海賊たちが国王の赦免状の到着を喜んでかがり火を焚き、銃を撃って騒いでいるのだろうと想像した。軍艦「ローズ」号のホイットニー艦長はボートで副官を岸に遣った。しかしボートはヴェインに捕まり、乗組員は海賊船に乗せられた。ヴェインはボートに積んであった食糧を奪った。ボートの乗組員は夜明けまで拘留された。空が白み、東の水路が見通せるようになると、ヴェインは直ちに海賊旗を掲げ、号砲を撃って出帆した。ホイットニー以下ボートの乗組員は釈放され、艦隊に戻った。

　艦隊は無事入港した。副官が戻り、事のいきさつを報告した。直ちにスループ船「バック」号にヴェイン追跡の命が下った。「バック」号には他の船からも武装した乗組員が乗り移った。そして海賊船の後を追って東へ進路をとったが、積荷が重く、ヴェインのほうが優速だった。これを見た提督は「追跡を中止し帰投せよ」の信号を送った。「バック」号はこれに従った。

　艦隊は夜までかかって繋船作業を完了した。翌朝、総督はプロヴィデンスの裁判長トマス・ウォーカー、議長トマス・テイラーその他の要人に迎えられて上陸した。海賊船長ホーニゴールド、デイヴィス、カーター、バージェス、クーラント、クラークらが乗組員たちを二列に並ばせ、その間を総督一行は進んだ。海賊たちは総督一行の頭上に捧げ銃をし、それを絶え間なく撃った。

　ロジャーズが要塞に到着すると彼の委任状が開封され朗読された。彼は型どおりの宣誓を行ない、プロヴィデンス島総督の任に就いた。

　翌日、総督は主任水先案内人リチャード・ターンリー、商館員ソルター、その他幾人かの者に、港にいるすべての疑わしい船を調べてそれぞれの荷の目録を作成し、海事法廷が召集されてどの荷が海賊のものであり、またどれが貿易業者のものか法に従って判明できるまで、船と荷を保全し国王の用に供するよう命じた。

　翌日、軍法会議が開かれた。そして要塞が修復され防備が整うまでスペインと海賊の奇襲を受けないように、軍規が定められた。このため、総督はホーニゴールド、デイヴィス、バージェスら赦免した海賊の幾人かに指揮権を与え、ジョージ・フェザーストン、ジェームズ・ボニー、デニス・マカーティら位の低い海賊たちを、下士官として彼らの指揮下に置くことにした。文民政府が組織され、幾人かの主だった将校が治安判事に任ぜられた。他の下級将校たちは巡査や監視官になった。ナッソーの街を取りまく道路は至るところ潅木に覆われていて、敵が夜のうちに上陸すればそれらの中に身を潜め街を襲うことも可能だった。このため幾人かの海賊は潅木や茂みを刈り払うのに徴用された。

　総督は兵を率いて要塞を守り、また訓練を受けた住民は街の警備にあたった。しかし多数の兵隊を収容するだけの施設がなかったから、船の帆を降ろしてテントを張り、当座の宿舎にした。その間に、まったく新しい工法で急遽兵舎が建設された。

　要塞の兵舎は次のような方法で建てられた。まず、岩盤に適当な間隔をおいて六つの穴を穿ち、各々の穴に、先を又にした柱を立てた。これらの柱に横木を渡し、さらに木こ舞まいをつけた。それからしゅろの葉で屋根をふいて仕上げた。戸や窓の外見には気を配らなかった。

　要塞の修理が進み、街路はきれいに整備されて開拓地らしくなった。プロヴィデンス島の入植を奨励する布告が出され、入植者はだれでも、ナッソーの街やその周辺に、百二十フィート四方の土地を所有してよいことになった。ただし、土地は各自が整地し、定められた期限までに家を建てることが条件とされた。材木は無料で入手できたから、これは容易に行なわれると考えられた。布告は期待どおりの効果があり、多くの人びとが、定められた条件に応じて入植すべく作業を開始した。

　海賊の多くは森で防壁用の木を切り出す仕事に雇われた。船の乗組員は、士官のほかは全員、一週間に四日は要塞の修復工事に従事した。こうして短期間のうちに要塞には壕が巡らされ、防壁が作られて、堅固な防備体制が完成した。

　しかし海賊たちにとって、働かされるのはあまり心に染まないことだった。食糧も十分与えられ、ワインやブランデーにも事欠かなかったにもかかわらず、昔の稼業に対する渇望があった。だから、彼らの多くは、夜中、小舟を盗んで島を脱出していった。数か月もすると、島に残った海賊は数少なくなってしまった。

　しかしスペインとの戦争が布告されると、幾人かの海賊は私掠船に職を求めて島に戻ってきた。なぜなら、ここはスペイン領アメリカに近く、フロリダ湾からもあまり離れていなかったから、スペイン本土へ向かうスペイン船を阻止するのに都合よい基地になると思われたからである。

　海賊たちの思惑は間違っていなかった。総督は自分に与えられた権限に基づいて私掠船の委任状を発行し、国王の赦免状に従って島に残った主だった海賊を選んでそれに任じた。彼らは私掠船の船長としてうってつけであった。昇進を目当てに島に戻ってきた昔の仲間たちが私掠船の乗組員に採用された。

　そのころ、プロヴィデンス島の漁船が、カヌーで漂流している遭難船の船長と乗組員を救助した。この船長はキングといい、サウスカロライナ籍の船「ネプチューン」号に、米、ピッチ、タール、その他を積んでロンドンへ向かっていた。

　船長の話によると、彼は海賊チャールズ・ヴェインに掴まり、バハマ諸島の一つ、グリーンタートル島へ連行された。ヴェインは「ネプチューン」号の積荷が主に食糧であったため、大部分を掠奪した。それからマストを一本切断した後、船を沈めるつもりで船倉めがけて大砲を撃った。一味は「ネプチューン」号の乗組員の一部を仲間に引き込んだ後、船長と残りの乗組員にカヌーを与えて去っていった。船長たちはこのカヌーで小島から小島へと漕ぎ渡っていたところを幸い漁船に助けられたのだった。船長は、チャールズ・ヴェインはまだこの近海を航海していると思うと言った。

　この情報を得ると、総督は直ちに「ウィリング・マインド」号に武装兵五十人を乗り組ませ、もう一隻のスループ船にも三十人を乗り組ませてヴェインの追跡に向かわせた。同時に「ネプチューン」号を取り返すよう最大の努力を払うよう命じた。キング船長が、まだ船には多額の商品が残っていると言ったからである。

　一行は出帆したが、ヴェインに遭遇することはできなかった。しかし「ネプチューン」号は発見できた。海賊の大砲の炸薬の量が不足していたため、発射した砲弾は船倉を突き抜けず底荷で止まってしまい、沈没を免れたのだった。こうして一行は十一月十日ごろプロヴィデンスに帰投したのである。しかし途中「ウィリング・マインド」号は、水先案内の不注意のためか、砂州に座礁してしまった。

　そのころ総督は、プロヴィデンス在住の商館と共同で貿易を行なおうと考えた。このため、ヘンリー・ホワイト船長のスクーナー船「バチェラーズ・アドヴェンチャー」号、ウィリアム・グリーナウェイ船長のスループ船「ランカスター」号、そして故デヴィッド・ソワードの持ち船だったスループ船で、今ではジョン・オーガー船長が指揮する「メアリ」号が用立てられた。これらの船は商品を積んでキューバのポートプリンスへ向け出帆した。

　総督は、プロヴィデンスの住民のために、ポートプリンスの商人とわたりをつけ、新鮮な食糧を入手できるようにすべきだと考えた。彼がこの島に到着した当時、生鮮食糧がほとんどなかった。一方、ポートプリンスには牛や豚が豊富だった。総督はこの土地からプロヴィデンス島に種畜を持ち帰り、将来、住民がそれらを自給できるようにしようと考えたのである。

　一七一八年十月五日、日曜日、一行は出港した。翌日、一行はプロヴィデンスの南南東、北緯二十三度四十分、およそ二十五海里沖にあるグリーンキーという小島に到着した。彼らは航路にある岩礁を避けるため朝まで待つことにし、投錨した。幾人かは、暗くなる前に夕食になりそうな動物を捕らえようと上陸した。彼らは野豚を発見できるだろうと思った。というのも、以前、ジョゼフ・ベイとシスムスという男が、この島に二頭の牝豚と一頭の牡豚を放したことがあるからである。この二人はプロヴィデンス島に住んでいたが、海賊が訪れるたびに家畜類を掠奪されたため、グリーンキー島に種畜を放して凌ごうとしたのである。

　この島は周囲およそ九マイル、幅は最も広いところで三マイルである。野生のキャベツやしゅろの木、その他多くの草や果樹が茂り、動物の食べ物には事欠かなかった。しかし樹木は密生していて、狩猟するには条件が悪く、たった一頭の豚を射止めただけだった。もっともこれは非常に大きな獲物だった。

　ハンターたちは七時前に獲物を船に持ち帰り、それを切って各船に分配して夕食に供した。食後、グリーナウェイ船長とホワイト船長が出帆時刻を相談するためオーガー船長のスループ船にやってきた。十時から十一時の間に出帆すれば浅瀬に乗り上げなくてすむだろうということで意見が一致し、その時刻に出帆することに決まった。船長たちは各々の船に戻っていった。

　間もなく、フィニーズ・バンス、デニス・マカーティ、その他大勢のものが、ホワイト船長のスループ船からオーガー船長の船へやってきた。彼らは、以前ホイットニー艦長のもとで軍艦「ローズ」号の士官候補だったジェームズ・カーと、リチャード・ターンリーに会いにきたと言った。カーはロジャーズ総督にも気に入られ、積荷監督としてこの航海に加わっていた。やってきた連中はビールをくれと言った。彼らは、カーがスペイン商人への贈り物用に上等のビールを保管しているのを知っていた。

　カーは、連中が何かを企らんでいるとは露ほども疑わず、船倉に降りてビールを二本持ってきた。皆はオーガー船長を交え、船尾楼でビールを飲んだ。二本目の瓶が空になる前に、バンスとマカーティはすっかり陽気になり、自分たちが海賊をしていたころの自慢話を大声でわめき散らし、海賊こそ男たるものにふさわしい唯一の仕事だと言った。この騒ぎの最中、バンスが突然立ち上がり、「畜生、俺様がこの船の船長になってやる」と叫んだ。オーガーは、「この船は船長に困っちゃいねえ。俺が指揮できるからな」と答えた。騒ぎはいったんはこれで収まったかに見えた。

　しばらくして、バンスは、このスループ船の武器は磨いてあるのかと聞いた。オーガーの乗組員の一人が、その日研いだばかりのカトラスを幾本か見せた。その中にはカーの持ち物で柄が銀製の剣も含まれていた。バンスはこの剣に感心したらしく、だれのものだと聞いた。カーは、自分のだと答えた。バンスは「こいつはなかなか立派だ」と言って鞘を払い、自分の頭上にかざしながら船尾楼甲板を歩き回った。カーには、「これが終ったらすぐ返すぜ」と言った。バンスは再び気焔を上げ、昔の海賊行為を自慢し始めた。そしてカーに近づくとその剣で斬りつけた。これを見ていたターンリーは、「気をつけろ。カーはそんな扱いを受ける男じゃねえ」と言った。

　皆がこのことで言い争っているとき、デニス・マカーティがこっそり一座を抜け出し、示し合わせた仲間と大船室を占拠した。ここにすべての武器が保管してあった。これと呼応するように、幾人かの男が「あなた、わたしと結婚してくれるって約束したじゃないの……」と歌い出した。（これが船を乗っ取る陰謀をした連中の合図だったらしい。）バンスはこれを聞くが早いか、「おう、するともさ。俺は牧師だからな」とわめき、今度は自分の剣でカーを数回打ちつけた。カーとターンリーはバンスを取り押え、掴み合いが始まった。デニス・マカーティほか数人が、片手にカトラス、片手に弾を込めたピストルを持って大船室から戻ってきた。そして「何だ、総督の犬野郎が刃向かおうとしてるのか」と言いざま、ターンリーとカーをカトラスで打ちつけ、二人の頬のすぐ近くでピストルを発射した。二人は命乞いをした。

　こうして船を乗っ取った連中は、グリーナウェイ船長に緊急の用があるからこっちの船に移ってきてほしいと声を掛けた。グリーナウェイ船長は何が起こったかまったく知らずに、たった二人の部下を連れてボートでやってきた。船長が乗船したとたん、デニス・マカーティが彼を船長室に案内し、そこで「貴様を捕虜にする。俺の言うことを聞くんだ」と言って監禁した。船長は抵抗しようとしたが無駄だった。彼の部下も陰謀に加わっていたし、彼をボートで連れてきた二人の男は武装して一味の仲間になっていたからである。彼は降伏するしかないと観念した。

　船長を監禁すると、一味は彼のスループ船を捕らえるため幾人かをボートで送り込んだ。もっとも、乗組員の多くは陰謀に加担しており、残りのものもこの陰謀に反対というわけでもなかったから、初めから抵抗されると予想せず、計画の成功を知らせに行ったようなものだった。それから一味はグリーナウェイ船長と同じ手口でホワイト船長をおびき出し、彼のスループ船に仲間を向けた。乗組員は全員一も二もなく計画に加わった。オーガー船長は事の成り行きを見て、自分も仲間に加わったばかりか、だれよりも海賊になることに熱意をみせた。

　こうして一味はやすやすと三隻の船を手中に収めた。次になすべきことは、仲間に加わらないものの始末だった。ジョン・ターンリーを殺してしまえというものもいたが、大多数は彼を無人島に置き去りにしてしまおうという意見だった。そうすれば奴は飢えて犬のように死んでしまうだろう、と彼らは言った。彼らがターンリーにこのような悪意を示したのは、彼が水先案内人として総督をプロヴィデンス島に上陸させたからだった。

　この決定により、ターンリー、ジェムズ・カー、トマス・リッチその他数人が裸にされて、舷側に繋いであったボートに投げ込まれた。オールはすべて取り外された。陸へ漕ぎ渡るため古ぼけた櫂かいが一本だけ与えられた。一味は彼らに「行け」と命じた。彼らはやっとのことで島に着いた。前にも話したように、島はまったくの無人島だった。

　翌朝、デニス・マカーティが幾人かの男とともに島へ上陸し、彼らに「着るものをやるからもう一度船にこい」と言った。彼らは海賊たちがこのような酷い仕打ちをしたことに対し自責の念にかられたのだろうと思い、喜んで船に向かった。しかし乗船してみると、海賊の善意を信じたのはとんだ間違いだということがわかった。海賊どもはまるで気晴らしでもするように彼らを乱打した。ひとりが合図用の笛を持ち、それを吹いて「止め」と合図するまで、残りのものは彼らを殴り続けた。

　彼らを船に呼んだ本当の目的は、自分たちが発見できなかった貴重品、特にカーの時計と銀製の嗅ぎ煙草入れがどこにあるのか聞き出すためだった。カーは一味に脅されてそれらの在処を教えた。それらは、船長室の片隅に、航海日誌などとともに保管されていた。一味は、役にも立たない航海日誌類はばらばらにして薬莢の材料にした。それから今度はトマス・リッチを責め立てて、彼がプロヴィデンスで持っていた金時計の在処を聞き出そうとした。しかしリッチは、その時計は軍艦「デリシャ」号のゲール艦長のものだと言った。一味はこれに耳をかそうとはしなかった。そして、以前「デリシャ」号に乗っていた幾人かのものが、リッチの言うとおりだと口添えしてくれたおかげで、やっと殴るのを止めた。その他のものに対する拷問もひとまず中止された。

　しばらくして、海賊たちの機嫌がいいのを見はからい、捕虜たちは何か食べ物をもらえないか、と頼んでみた。彼らは前の日の夜から何も口にしていなかったのである。しかし海賊たちは、「おまえらのような犬が何を言いやがる」と言うだけだった。その間、幾人かの海賊はグリーナウェイ船長を仲間に入れようと説得に努めていた。彼らは船長が傑出した船乗りだと知っていたのである。しかし、船長は頑なにこれを拒んだ。そこで海賊たちは船長の処分を相談した。大多数は、島に置き去りにしてしまえ、という意見だった。だがこれに反対するものもいた。船長はバーミューダ人だから、というのがその理由だった。つまり、バーミューダ人は皆泳ぎをよくするから、置き去りにしたところで泳いで島を脱出するか自分の船に戻ってしまうだろうというのである。しかし船長は、自分が泳いだところで君たちに危害を加えられるわけがないではないか、と言い張った。こうして彼はターンリー、カー、リッチらとともに島に上陸させられることになった。彼らを含め八人の捕虜はオールのないボートに乗せられ、即刻島へ向かうよう命ぜられた。

　翌日、海賊は全部の船を調べ、グリーナウェイのスループ船は海賊航海には不向きだとわかると、積荷をすべて別の船に移した。陸からはこの様子が見えた。海賊がボートに乗ってスループ船から去ると、グリーナウェイは泳いで自分の船まで行き、乗り込んだ。一味が何か残していないか捜すつもりだった。一味はこれに気付き、彼が仲間に入るのを拒絶したことを後悔し、思い直してやってきたのだろうと想像した。幾人かがスループ船に戻ってきて彼に話しかけた。しかし彼の決意は変っていなかった、一味は「おまえにこの船を返してやろう」と言った。船には、古びた主帆、乾燥肉四切れ、ビスケット二十枚、それに水汲み用のバケツ一つが残されているだけだった。連中はグリーナウェイに「俺たちが出帆するまで、おまえたちは船に乗ってはいかん」と命じた。

　グリーナウェイは再び島に泳いで戻り、沈んだ表情で仲間に事の次第を話した。その日の午後、バンスが数人の手下を連れ、ワインの瓶六本とビスケットを持って島にやってきた。連中がもう一度グリーナウェイを誘うつもりで来たのかどうかはわからない。ただ連中はグリーナウェイに盛んに話しかけ、持ってきたワインを自分たちで全部飲んでしまった。そして捕虜一人ひとりにグラス一杯ずつふるまい、ビスケットをひとかけらずつ与えると、やおら彼らをめった打ちにし、船に帰っていった。

　一味が島にいるとき、プロヴィデンスの住人トマス・ボネットの持ち船で、ベンジャミン・ハッチンスが船長をしている海亀漁船がやってきた。これはなかなかの快速船だったが、一味はすぐとりおさえた。ハッチンスはこの近海では腕のよいことで評判の船乗りだった。海賊どもはこの男を仲間に誘い込もうとした。最初、彼はこれを拒絶していたが、後に無人島に置き去りにされるよりはましだと思い、仲間になることに同意した。

　十月九日、出帆準備が整うと、幾人かの海賊が島にやってきて、不埓な捕虜どもに、グリーナウェイのスループ船「ランカスター」号に来いと命じた。彼らは島に上陸したときと同じ小さなボートに乗り、同じ櫂を使って船に向かった。船には幾人かの海賊がいた。そしてやってきた捕虜に「おまえたちがプロヴィデンスへ戻れるように、この船をやる」と言った。しかし船には前にも話したようなものしか残っていなかった。海賊は彼らに前檣の大帆を取り去ってジブと一緒に巻き、ボウスプリットにくくり付け、主帆も帆桁に固く縛り付けろと命じた。捕虜たちは何かを論じたところで無駄とわかっていたから、命ぜられるままにした。

　それから間もなく、別の海賊の一団がやってきた。その中にはバンスとデニス・マカーティがいた。彼らは気が触れたか酒乱になったかどちらかだった。船に上るなり彼らは捕虜に殴りかかり、カトラスで索具や帆をめった切りにした。そして、俺たちがよいと言うまで出帆してはならん、と命じ、今度おまえたちに会ったら皆殺しにしてやると毒づいた。彼らは捕虜たちが乗ってきたボートを引いてこの船を去り、出帆した。

　捕虜たちは船に残された。索具や帆が取り去られていたから航海は不可能だったし、ボートも持っていかれてしまったから、島へ戻ることもできなかった。このままでは、飢えて死ぬのを待つばかりだった。しかし何とかこの惨めな状態から脱して助かりたいと思った。彼らは何か役に立ちそうなものはないかと船中を隈なく捜し回った。そして思いがけず一丁の古い手斧を見つけた。彼らはこれを使って幾本かの鋭い木片を作り、綱通しにした。その他にも是非必要な道具を木を切って作った。

　だれもが懸命だった。太い索を切って長い縄を作り、帆を修理した。またこれで釣糸を作り、釘を曲げて釣針にした。しかし漁に出るにもボートがなかった。そこで丸木を二、三本結びつけて筏を組み、それに二、三人のものが座って静かな海面で釣ができるようにした。

　彼らはこのような筏を二つ作った。幾人かのものがそのうちの一隻で島へ向かった。野生のキャベツや果実を集めるのが目的だった。他の幾人かはもう一隻の筏で漁に出た。島に向かった連中は例の古いバケツを持っていった。他のものが食糧を集めている間に、一人が飲料水を船に運ぶためだった。これは難儀な作業だった。一回に運べる量は僅かだし、船は海岸から一マイル近くも沖にあったからである。

　このような作業を四、五日続けた結果、帆や索具はどうにか整い、水もいくらか蓄えることができた、彼らは出帆のときがきたと考えた。そこで錨を揚げ、持っていた帆をすべて張って湾の入口へ向かった。しかしその時、海賊たちが再び入港してきたのである。スループ船の乗組員たちは驚愕した。

　彼らは予期しなかった海賊の再来にひどく恐怖した。一味が出港まぎわに、許可なく出帆したらひどい目に遭わせると脅していたからである。彼らは転舵し、できるだけ船を岸に近づけると筏を降ろし、全力で島に向かった。もうひと息で岸に着くというとき、海賊船が間近に迫り、発砲した。しかし銃の射程にはまだ入っていなかった。一味は彼らを岸まで追ってきた。彼らはすぐ森の中へ逃げ込み、鬱蒼と茂った木に登って身を隠した。海賊どもは彼らを発見できず、ボートに戻った。そして見棄てられたスループ船に乗り移ってマストとボウスプリットを切断したうえ、沖まで引いていって沈めてしまった。それが終ると再び島に上陸した。逃亡者たちがもう隠れ場所から出てきているだろうから、そこを襲ってやろうと考えたのである。しかし彼らは木の上からすべてを見ていた。そしてまだそこに潜んでいるほうが安全だと判断した。

　海賊どもはとうとう彼らを発見できず、船に戻った。そして錨を揚げると東の方へ去っていった。置き去りになった人びとは、船を沈められるのを目のあたりにし、この無人島で朽ち果てる危険から逃れる希望も失って途方にくれた。彼らは果実や貝を採って食べ物にした。ときにはえいが浅瀬に迷いこんでくることもあった。彼らは木の枝を岩でこすって先を尖らせ（彼らはナイフを持っていなかった）、銛もりのようにしてこの魚を捕らえた。彼らは火を起こす道具がなかった。そこで捕らえた魚を塩水に浸してから、天日で干し、それを食べた。

　こうして八日間が過ぎたとき、再び海賊がやってきた。逃亡者たちは例によって森の中へ逃げ込んだ。しかし海賊どもも彼らを不憫に思うようになっていた。そして仲間のひとりだけを森に遣り、「おまえたちが出てきたら、食糧と飲みものをやる。もう酷い目には遭わせない。俺たちの名誉にかけて約束する」と呼びかけた。

　森に潜んでいた人びとは、あまりの空腹に耐えられず、海賊の約束につられて姿を現わした。一味のボートで海賊船へ行くと、連中の約束に違わず、肉とビスケットをたらふく食わせてくれた。こうして二、三日を船で過ごすことができた。しかし島へ食糧を持っていくことは一切許してくれなかった。海賊たちはそのほか二、三枚の毛布をくれ、針と糸を貸してくれた。人びとは身にまったく何もつけていなかったから、それで何か身にまとうものをつくればよいというのだった。

　海賊船にジョージ・レディングという男がいた。この男はプロヴィデンスの住人で、海亀漁船に乗っていて捕らえられ、無理やり仲間に引き入れられたのだった。彼はリチャード・ターンリーの知人だった。ターンリーが海賊になるよりは島に残る決意でいることを知り、また調理用の火さえあれば、食べてゆく心配はないと聞いて、彼はターンリーに密かに火打ち箱を手渡した。これこそ金や宝石にも勝る贈り物だった。

　間もなく、海賊たちは服従しないものたちに、仲間になるかそれとも島に置き去りにされたいか、と迫った。彼らは全員、島に残ると言った。一味は彼らの要求を聞き入れるかどうか協議した。その結果、グリーナウェイのほか二人をその意志がどうあれ船にとどめ、残りの五人には「島の風物や珍味をもう一度楽しませてやる」ことにした。

　こうして、リチャード・ターンリー、ジェームズ・カー、トマス・リッチ、ジョン・コックス、そしてジョン・テイラーらは再び島に置き去りにされた。彼らを島に送ると、一味は出帆した。一味は東に針路をとり、北緯二十四度に位置するバハマ諸島のひとつロング島に近いパデンポイント島に到着した。

　一方、ターンリーらは、ジョージ・レディングがくれた火打ち箱が至極役に立ち、以前よりは余程快適な生活をすることができるようになった。彼らは火を絶やさず、魚を焼いた。島では陸の蟹がとれた。彼らはこれを料理して食べた。十四日目に再び海賊がやってきた。彼らは、一味が自分たちを仲間に引き入れるために戻ってきたのだろうと考え、森に身を潜めた。

　しかしそうではなかった。海賊たちはすでに怒りも収まり、彼らを憫れむようになっていた。そして彼らを助けるつもりでやってきたのだった、彼らが岸にいないのを見て、海賊たちは彼らが恐れて身を隠したのだろうと考えた。一味は気まぐれから、彼らが出てきそうな場所に食糧その他の品を置いて去った。

　置き去りの人びとは隠れ場所の木の上から海賊どもが去るのを見て、おそるおそる岸に出てみた。そして、そこに二、三十ポンドは入っていそうな粉袋、塩約一ブッシェル、銃二丁、立派な斧、水入れと鍋、そして海亀漁船で飼っていた猟犬三頭が置いてあるのを発見して、驚き喜んだ。海亀漁船はよく猟犬を乗せていた。野生の豚を追い出すのに非常に役立つからである。これらの品以外に、ギニアでよく使うような角の柄のナイフが十二丁置いてあった。

　彼らは、これらをすべて森の中の清水の湧く場所へ運んだ。それからすぐ斧で大枝を切り、柱を立てた。四人が小屋を建てる作業に従った。狩猟の得意なターンリーは銃を持ち、犬を連れて狩に出た。間もなく彼は大きな牡豚を射とめ、仲間のところへ戻ってきた。彼らはこれを切り分け一部は料理して食べ、残りは塩漬けにして保存した。

　以前からみれば、はるかに幸福だと皆は思った。しかし四日後にまた海賊がやってきた。水を補給するのがその目的だった。一味がやってきたとき、ターンリーは狩に出、残りも全員何かの仕事に励んでいた。だから、一味が森の中へやってくるまで気がつかなかった。小屋を発見すると海賊の一人が悪ふざけしてそれに火を放った。小屋は見る間に地に焼け落ちた。何も知らないターンリーが獲物の見事な豚を背に戻ってきた。海賊どもはたちまち彼を取り囲み、獲物の豚を奪った。連中は上機嫌でそれをジョン・コックスにボートまで運ばせた。それから彼に「仲間のところへ戻って一緒に飲め」とラム酒をひと瓶与え、「おまえたちは、できるなら家に帰ってもいいし、この島に暮らすのも自由だ。俺たちはもうおまえたちの邪魔はしねえぜ」と言った。

　海賊はこの約束を守り、ロング島へ向けて直ちに出帆した。この島の塩田に近づくと港に三隻の船が碇泊しているのを望見した。一味は、これらは塩を積み込みにきたバーミューダかニューヨークのスループ船だろうと考え、よい獲物とばかり全速で近づいた。ベンジャミン・ハッチンスから奪った海亀漁スループ船は最も快速だった。船隊に接近したときはほとんど夜になっていた。海賊船は船隊の一隻に並ぶと斉射を浴びせた。すぐにも獲物の船に乗り移るつもりだった。しかし次の瞬間、相手から激しい応射を受け、多数の乗組員が死んだ。残りのものも驚き恐れ、命からがら舷側から海に飛び込んで岸に泳ぎ着いた。

　これらのスループ船は実はスペインの私掠船で、海賊船が近づいてくるのを見ると交戦準備を整えて待ち構えていたのである。私掠船隊を指揮していたのはターン・ジョーと呼ばれる男だった。彼は以前イギリス側の私掠船に乗っていたことがある。彼は海賊をしていたこともあり、今はスペインの植民地総督に委任をうけて働いているのだった。彼はアイルランド生まれの、勇敢で冒険心旺盛な男だった。後にジャマイカの私掠船船長ジョン・ボナヴィーと戦って殺された。

　海賊スループ船は拿捕された。船長フィニー・バンスは瀕死の重傷を負っていた。間もなく二隻目の海賊船が近づいてきた。この船は銃声を聞いて、バンスが獲物に乗り込むとき発砲したのだろう、と思った。この船も一隻のスペイン船に並んだと同時にしたたかな歓迎を受け、たちまち降伏した。それからしばらくして三隻目がこれもあっけなく拿捕されてしまった。泳げる海賊は海に飛び込んで、島に泳ぎ着いた。スペイン側は一人の犠牲者も出さなかった。

　翌日、ターン・ジョーは捕虜にした海賊に多くの質問をし、幾人かは無理やり海賊にさせられたことがわかった。船長は他のスペイン人士官の同意を得、一隻の大型ボートを空にしてそれに負傷した海賊を乗せた。そして食糧、水、その他飲料を積み込ませると、海賊船に拘留されていた人びとにこのボートを与え、海賊をプロヴィデンスへ連行するように、と言った。

　こうしてジョージ・レディング、トマス・ペティ、マシュー・ペティ、ベンジャミン・ハッチンスらは出帆し、四十八時間後にプロヴィデンスの港へ到着した。

　一行は上陸するとすぐ総督のところへ出向き、出港してからの一部始終を報告した。そして、この悪事の主謀者フィニース・バンスもボートで連れてきている、と話した。総督は幾人かのものを伴ってバンスを尋問しに出かけた。バンスは一切を白状した。裁判の必要はなかった。そして彼は以前赦免を受けていることからしても、速やかな見せしめを示さなくてはならなかった。そこで翌日彼の処刑を行なうことに決定した。しかしその夜、彼は傷がもとで死んでしまったから、処刑はできなくなった。

　一行はまた海賊らによって、グリーンキー島に置き去りにされたターンリー、カーその他の人びとのことを話した。総督はこれを聞くと混血のジョン・シムスという男を呼んだ。彼はプロヴィデンス港に二本マストの優秀小型船を持っていた。総督は彼に、五、六人の人手を集めてグリーンキー島に残された五人を救出してくるよう命じた。

　シムスは直ちに準備し、朝出港して翌日の夕方にはグリーンキー島に到着した。島の人びとは海賊の一部が戻ってきたのかと思い、今度は何をされるかわからなかったから、森に逃げ込むのが最善と判断した。

　シムスと乗組員は、島の人びとが欲しがっているだろうと思い、食糧を持って上陸した。そして辺りを捜し彼らの名前を呼んだ。しばらく歩いていると火を絶やさないようにしている場所を見つけた。これを見ると一行は、彼らはこの付近に居るに違いないと思い、食糧を近くに置いてそこで待つのが一番よいということになった。ターンリーはすぐ近くの木に登っていたが、一行の様子を窺い、食糧を持ってきているところから、連中は敵ではないかも知れないと思った。さらによく見ると、プロヴィデンスでよく知っているシムスを見つけた。彼はシムスに声をかけた。シムスはすぐ降りてくるように言い、自分たちは君たちを救出にきたのだと教えた。

　ターンリーは落ちるように木を降り、辺りの木に登っている仲間を呼んだ。シムスは彼らと会えた喜びをすぐにも伝えたい気持で、海賊一味のその後を話した。

　その夜、彼らはシムスたちの持ってきた食べ物を囲み楽しいひと時を過した。彼らはその夜あまりの嬉しさに一睡もできなかった、と後に話した。翌日、皆で狩をすることにした。見事な豚を三頭もしとめることができた。それから彼らは使っていた道具類をすべて持って船の人となり、三日後、プロヴィデンスに到着した。海賊に置き去りにされたときからちょうど七週間目だった。

　その間、総督はロング島の塩田近くへ泳ぎ着いた海賊らを捕らえるため、スループ船を派遣しようとしていた。スループ船の準備が整い、ベンジャミン・ホーニゴールドの指揮で出帆することになった。ターンリーとその仲間も乗り組んだ。なるべく海賊たちと面識のない乗組員を集めるよう気配りがされた。島に到着すると海岸近くに投錨した。商船にみせかけるため、甲板には海賊とまったく面識のない乗組員をほんの数人配置するにとどめた。

　海賊らはスループ船を見ると、二、三人が海岸に姿を見せ、残りは待ち伏せの態勢をとった。あわよくばこの船を乗っ取ってしまうつもりだった。スループ船は岸にボートを向けたが、警戒を装って、海岸から少々離れて停止するよう命じた。待ち伏せしていた連中はボートを目の前にして我慢できず、一斉に水際に群がり、自分たちは難破船の乗組員で飢え死に寸前だ、ここまできて助けてくれ、と叫んだ。これを認めるとボートはすぐ本船へ引き返した。

　再考の結果、今度はワイン二瓶、ラム酒一瓶、ビスケット少々を積み、前とは別の、やはり海賊と面識のない男に指揮させて、ボートを島に向けた。この男は本船の船長のふりをするよう命ぜられた。岸に近づくと海賊たちは前と同じように、岸まできてくれと叫んだ。ボートの乗組員はこれに応え、上陸すると、持ってきたビスケット、ワイン、そしてラム酒を彼らに与えた。船長としてやってきた男は、「君たちは難破船の乗組員だと部下から聞いた。慰めにと思ってこんなものを持ってきた」と言った。彼らは本船の目的地をひどく聞きたがった。彼は、ニューヨークへ行くのだが、塩を積むためにこの島に立ち寄ったと答えた。海賊たちは、どうか自分たちを船に乗せてニューヨークまで連れていってほしいと懇願した。一味は総勢十六人だった。彼は答えて言った。「そんな大勢では船の食糧が足りないんじゃないかと思う。まあ、一度船に戻って調べてみよう。よかったら君たちも幾人か一緒にきてみたまえ。少なくとも何人かは乗せてあげられると思うし、残る者にも、救出までの間の手軽な食糧を置いていけると思う。しかしニューヨークへ着いたら何か礼をしてくれたまえ」。

　海賊たちはこの提案に大喜びし、自分たちはアメリカ各地に友人も多く、かなりの財産もあるから、費用は十分支払うと約束した。そこで彼は数人の海賊をボートに乗せた。本船に着くとすぐ彼は海賊たちを船長室へ案内した。彼らはそこに昔の海賊仲間ベンジャミン・ホーニゴールドが居るのを見て驚いた。しかし、グリーンキー島に置き去りにしたリチャード・ターンリーの姿を見て驚きは一層大きかった。彼らはたちまちピストルを手にした乗組員に取り囲まれ、枷をかけられてしまった。

　これが片づくと、船長は再びボートを岸に遣った。乗組員たちは残っていた海賊に、船長は現在の食糧で何とか君たちも運んでしまうつもりでいると伝えた。一味は狂喜した。彼らもボートで本船に到着したところを、前の仲間と同じように雑作なく捕らえられた。

　もはやなすべきことはなく、スループ船は出帆した。プロヴィデンスに到着すると、海賊は全員、砦に収監された。直ちに海事法廷が召集され、海賊の裁判が行なわれた。十人が死刑の判決を受けた。残る六人は無罪となった。彼らは無理やり海賊の仲間に引き込まれたことが明白だったからである。ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、デニス・マカーティ、ウィリアム・ルイス、トマス・モリス、ジョージ・ベンドール、ウィリアム・リング、およびジョージ・ロジャーズの処刑の様子は、次章で述べる。ジョージ・ラウンズヴィルは、縄をかけられ、吊される寸前に死刑執行延期となり、引き下ろされて仲間の刑を目撃した。

　最後に、このジョージ・ラウンズヴィルのその後のことを書いて、この章を締め括ろう。彼はしばらく陸で働いて口を糊していたが、後に、バージェス船長の私掠船に乗り組んだ。バージェス船長は以前海賊だったが、赦免されて私掠船の委任状を受けたのである。一行の船はグリーンキー島の南の岩礁に乗り上げばらばらになった。ラウンズヴィルのほか五人の乗組員は最初の衝撃を受けたときカヌーに乗り込み、船を離れた。このときバージェスは船尾楼に立ち、「おーい、おまえたちは俺をこのまま見棄てていくのか」と叫んだ。ラウンズヴィルは仲間に戻ってくれるよう頼んだが、皆、「俺たちも命が惜しいんだ。これ以上乗ったらカヌーは沈んじまうぜ」と答え、船長を助けに行こうとはしなかった。これを聞くとラウンズヴィルは海に飛び込み船に向かって泳いだ。しかし友人を助けることはできず、二人とも死んだ。





37　プロヴィデンスにおける海賊裁判





　ジョンソン船長殿

　私は貴殿が「海賊列伝」の第二巻を出版される御予定で現在材料を蒐集中と聞き及び、私が所持いたします公式議事録を御送りいたしたく存じます。御査収いただければ幸です。また、当時バハマ諸島の総督をされていた方が現在ロンドンに住まわれていると聞き及んでおりますが、以下の裁判記録を公表することで立腹されることはないと存じます。私は、この記録に、前総督の立腹の原因となるような部分があるかどうか丹念に調べてみました。しかしこれは同氏の分別と決断を示す以外の何物でもありませんでした。海賊に対する判決と処刑では、氏はまさしく公衆の益を考慮され、勇気ある人びとでさえたじろぐような情況下にあって、決然とそれを追求されました。私は、この記録の出版が氏の名誉となり正しい評価ともなると信じ、あえて弁明はいたしません。





プロヴィデンスにおいて処刑された海賊の裁判と判決



バハマ諸島植民地総督兼総司令官兼海事大臣代理　ウッズ・ロジャーズ





一七一八年十一月二十八日金曜日、ナッソー市庁にて開催した秘密会議議事録

ニュー・プロヴィデンス





　総督は、特定の海賊を逮捕する委任を受けたコクラムおよびホーニゴールド両船長がそのうち十名の海賊逮捕に成功し、現在海賊らは特別収監令状により「デリシャ」号船内に監禁中である旨報告し、これら囚人の処置につき意見の一致をみたいと希望した。

　これに関し十分な討議が行なわれた。そして、牢が不足しているため必要とされる監視を配する結果、砦と船を警護する兵士および海員の疲労が甚だしく、さらにできるだけ多くのものを昼間は砦の工事に夜は見張りに立てねばならず、これが人不足を助長して公的な仕事を阻害している。さらに本諸島にはいまだ疑わしいものどもが残存しており、われわれの情況を頻繁に外部に通報する可能性もあるから、われわれが恐れた様子を見せれば島外にいる海賊どもが勢いづき、監禁されている仲間を助け出そうとするかも知れないという意見がでた。そこでわれわれは、砦の警備状態が良好なときに、また海賊ヴェインを阻止するため六十名の兵士および海員を率いて出動中のボーシャンプおよびバージェス両船長が帰島し、われわれに加勢してくれることでもあり、総督が速やかにこれをなされることが、公益に最もよいことであると考量するものである。（総督は直接海賊裁判の任務は帯びていないと報告した。しかしかかる場合、総督令第六条はジャマイカ総督令第四条に準ずるものである。この政令は情況の許す限りそれに則って自ら律するため、総督が所持しているものである。）これはバハマ諸島植民地総督兼総司令官兼海事大臣代理の委任状で与えられた権限によっても確認され、当地におけるかかる権威に対する国王陛下の意志を示すものである。また、カロライナ植民地政府が最近同地へ連行された海賊二十二名を処刑し、いったん国王陛下の赦免を受けながら後に海賊に戻った連中への見せしめとした例もある。さらに、多くの海賊を大英帝国へ護送するのは危険であるし、当地に監禁しておくのはよりいっそう危険と考える。従って、われわれは、総督が法律に従い最善の方法でとり行なう裁判によりこれら海賊を裁き、有罪が判明したものは速やかに処刑することに国王陛下も同意されるであろうし、わが政府にとってもこれが最善と信ずるものである。





　会議の議事録には以上のように記されています。文脈の繋がらない箇所は総督の書記の責任です。私には「総督が速やかにこれをなされること」という語句が何を意味するのかわかりません。総督は何をすべきなのか。しかし、これは、ことによったらこれを書き写した私の友人の間違いかも知れません。以下の文書も、彼の死後、これと一緒に私が彼の書類中から見つけたものです。





　バハマ諸島植民地総督兼総司令官兼海事大臣代理ウッズ・ロジャーズ、

　ウィリアム・フェアファックス、ロバート・ボーシャンプ船長、トマス・ウォーカー、ウィンゲート・ゲール船長、ナサニエル・テイラー、ジョシアス・バージェス船長、ピーター・クーラント各位





大英帝国ジョージ国王陛下より授与された本諸島植民地総督委任状に基づき、本官は本諸島における一切の裁判官を任命する権限を与えられている。また本官は、当諸島担当海事大臣代理としての職務により逮捕し本政府に連行したすべての海賊を裁き、判決を下すための適切な判事および事務官を任命する権限を有する。よって本官は、上記ウィリアム・フェアファックス、ロバート・ボーシャンプ船長、トマス・ウォーカー、ウィンゲート・ゲール船長、ナサニエル・テイラー、ジョシアス・バージェス船長およびピーター・クーラント船長諸氏の忠誠、思慮、人徳を信頼し、諸氏を本月九日火曜日ナッソー市で開催される特別法廷の判事に任命し、現在監禁中の海賊が本諸島近海で犯した海賊行為をイギリス本国の法律およびかかる場合の法廷規則に従って裁き判決を下すため、本官の補佐とし、また事務官として裁判を行なうべきことを命ずる。



於ナッソー、プロヴィデンス

大英帝国ジョージ国王治世第五年、一七一八年十二月五日

ウッズ・ロジャーズ





ニュープロヴィデンス、バハマ諸島主島

一七一八年十二月九日火曜日および十日水曜日、ナッソー市衛兵舎にて開催された特別海事法廷





植民地総督兼海事大臣代理　ウッズ・ロジャーズ

海事法廷判事



ウィリアム・フェアファックス、ロバート・ボーシャンプ

トマス・ウォーカー、ウィンゲート・ゲール

ナサニエル・テイラー、ジョシアス・バージェス

ピーター・クーラント





　慣例に従って宣言が行なわれ、記録係が最近の法令、すなわち「海賊行為のより効果的な鎮圧のための法律」の目的に従い当法廷を開催するための、総督の特別委任状を朗読した。当該職権に基づき、右記七名が現在、謀叛、重罪および海賊行為に問われ監禁中の数名のものを審理し、裁き、判決するための判事補佐に任命された。

　再び宣言が行なわれ、担当者または召喚されたものは、全員法廷に出席することが要請された。

　被告を法廷に拘引するよう命ぜられた。拘引された被告らの氏名は次のとおりである。すなわち、ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、ジョン・ヒップス、デニス・マカーティ、ジョージ・ラウンズヴィル、ウィリアム・ドウリング、ウィリアム・ルイス、トマス・モリス、ジョージ・ベンドールおよびウィリアム・リング。

　出廷した被告らは全員挙手するよう命ぜられた。

　当該被告らに対する起訴状の朗読が命ぜられた。これは次のとおりである。





ニュー・プロヴィデンス

プロヴィデンス籍のスループ船「メアリー」号前船長ジョン・オーガー、スクーナ船「バチェラーズ・アドヴェンチャー」号砲手兼水夫ウィリアム・カニンガム、スループ船「ランカスター」号船長ヘンリー・ホワイト、同甲板長ジョン・ヒップス、上記スクーナ船水夫ジョージ・ラウンズヴィル、同デニス・マカーティ、同ウィリアム・ドウリング、スループ船「メアリー」号水夫ウィリアム・ルイス、上記スクーナー船水夫トマス・モリス、スループ船「ランカスター」号水夫ジョージ・ベンドールおよび上記スクーナ船水夫ウィリアム・リングに対する起訴状

　被告ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、ジョン・ヒップス、デニス・マカーティ、ジョージ・ラウンズヴィル、ウィリアム・ドウリング、ウィリアム・ルイス、トマス・モリス、ジョージ・ベンドールおよびウィリアム・リングら全員は、先に、国王陛下より、以前犯した犯罪、掠奪および海賊行為に対する寛大なる赦免を得、以降国王ジョージ陛下に忠節を尽すことを誓った。よって、ジョン・オーガーその他全員は信任され、また当該被告らをそれまでの無法な仕事から立ち直らせ、正業で暮らさせるようにするため、まっとうな仕事も与えられた。しかるに被告らは神を畏れず、また君主に対する忠節の誓いも顧みずに、悪魔の誘いに惑い、以前の無法な掠奪と海賊の業に戻ってしまったのである。被告ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、ジョン・ヒップス、デニス・マカーティ、ジョージ・ラウンズヴィル、ウィリアム・ドウリング、ウィリアム・ルイス、トマス・モリス、ジョージ・ベンドール、およびウィリアム・リングは、大英帝国ジョージ国王陛下治世第五年十月六日夕刻七時ごろ、本海事大臣代理管轄海域内の無人島グリーンキー島において共謀し、上記各船の船長と所有者に謀叛し、これら船舶を乗っ取り積荷を掠奪し、現金九百ポンド以上を奪い、商人ジェームズ・カーを上記無人島に置き去りにした。また、上記スループ船の一隻の船長だったジョン・オーガーはグリーンキー島からエクマス島まで海賊一味の船長を務めた。委任状に基づき、ジョン・コクラムおよびベンジャミン・ホーニゴールド両船長は、被告ジョン・オーガーおよびその一味を海賊として逮捕した。そして一味を法に従って裁くため本港に護送した。





　被告らが挙手している間に右の起訴状が朗読された。それから記録係が全員に有罪か無罪かを問うた。全員無罪を主張した。証人らの宣誓後、審問を行なうことが命ぜられた。





　ジェームズ・カーの審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　当証人は積荷監督の委任を受け、スループ船「メアリー」号に乗り組み、僚船二隻とともにプロヴィデンスを出港した。約二日間の航海の後グリーンキー島に到着した。十月六日のことであった。ここで、すでに死亡した僚船の乗組員で本法廷に出頭している海賊一味の謀叛の主謀者フィニース・バンスという男が「メアリー」号へやってきて、証人に乱暴を働いた。そして夕刻、証人を無人のグリーンキー島へ上陸させた。また当証人は、本法廷に出頭している被告のうちデニス・マカーティからだけは親切な扱いを受けた。





　当のマカーティは本証人の審理中、他の被告らの様に国王や政府を非難しなかった。





　ウィリアム・グリーナウェイ船長の審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　十月六日、現在出頭している被告の一人ジョン・ヒップスが他の幾人かとともに、グリーンキーに碇泊中の同証人が船長をしていた船に、煙草をもらうふりをしてやってきた。そして同証人に、「カー氏は今夜出帆する予定でいる」と告げた。同証人は僚船に、カー氏の計画を知らせるためボートを出すよう命じた。そうこうしているうちに、やはり本法廷に出頭しているジョン・オーガー、ジョージ・ラウンズヴィル、ジェームズ・マシューおよびジョン・ジョンソンが本船にやってきて、スクーナー船へ来てほしいと言った。同証人がこれに従ってスクーナー船へ行ってみると、フィニース・バンスに会った。同証人はバンスに、「どうしておまえは他のもののように出帆準備をしないのか」と聞いた。バンスは同証人に船長室まできてほしいと言った。船長室に入るとバンスは同証人に自分の隣りに座るように言い、その直後「おまえを捕虜にする」と言った。そのとたん、本法廷に出廷しているデニス・マカーティが同証人の胸元にピストルを突きつけ、「ひと言でもしゃべったら命はないものと思え」と言った。フィニース・バンスは同証人に、「スループ船には自分の腹心のものがいて、乗組員の大部分は自分の味方だから、まったく気楽だ」と話した。そしてバンスは幾人かの謀叛仲間と「メアリー」号へ行き、それを乗っ取ってしまった。しかし夜だったため、バンスと一緒に行ったのがだれだれだったのか同証人は特定できなかった。後にバンスとジョン・ヒップス以外の本法廷に出廷している海賊らはジェームズ・カー、リチャード・ターンリー、トマス・リッチ、ジョン・テイラーおよびジョン・コックスら全員を無人のグリーンキー島へ上陸させ、同証人もこの島へ運ぶためボートの用意をした。しかしバンスは「こいつはバーミューダ人で泳ぎが達者だから、すぐ船へ戻ってしまうだろう」と言って同証人を拘留し、その船を掠奪した。そして、わずかの粉と肉以外、航海に必要なものは何ひとつ残さなかった。こうして自分がグリーン・キーを出帆後も二十五時間は同証人を出帆させないようにした。しかし同証人は翌朝プロヴィデンスへ向け出帆した。ところが途中で海賊一味に見つかった。追跡されたので同証人はグリーンキー島へ逃げ戻り、上陸した。海賊どもは同証人の船のマストを切り、上陸してきた。捕まるのを恐れた同証人は島の中へ身を隠した。後に、同証人の船に乗り組んでいた人びとがやってきて、「海賊どもは同証人の船を沈めた後ストッキング島へ行き、そこでスペインと交戦し捕らえられた」と教えてくれた。





　ジョン・テイラーの審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　本法廷に出頭している被告らは、ジョン・ヒップスを除き全員謀叛の主謀者バンスの仲間に加わった。バンスともう二人――夜だったから、だれだったか同証人にはわからなかった――が同証人の乗っている船を乗っ取った。さらに、ジョン・ヒップスとグリーナウェイが最初にバンスに監禁された。





　リチャード・ターンリーの審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　十月六日、謀叛の主謀者バンスと本法廷に出頭しているウィリアム・ドウリングおよびトマス・モリスが、グリーンキーに碇泊中のスループ船「メアリー」号にやってきて、カーと同証人に、「ビールをひと瓶くれ」と言った。そこで彼らにビールを与えた。それからしばらくして彼らはもう一本のビールを飲み、さらに三本目を要求した。そして「メアリー」号の乗組員とともに武器を持ち、カー、トマス・コックス、そして同証人を捕虜にし、無人のグリーンキー島へ無理やり上陸させた。この島はプロヴィデンスから約二十五リーグ離れた場所にあった。





　ジョン・コックスの審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　同証人はジョン・オーガー船長のスループ船「メアリー」号に乗り組んでプロヴィデンスを出帆した。十月六日夜、スループ船「ランカスター」号のグリーナウェイ船長がやってきて、オーガーに、「出帆するつもりなのか」と尋ねた。オーガーは、「話せない」と答えた。そこでグリーナウェイ船長はヘンリー・ホワイト船長のスクーナー船「バチェラーズ・アドヴェンチャー」号へ行った。三十分ばかりして、別のボートでグリーナウェイ船長の甲板長ジョン・ヒップスが同船長に会いにきた。それからしばらくして、フィニース・バンスが二、三人のものを伴って、スクーナー船から「メアリー」号へやってきた。バンスはオーガーに会った。何も飲むものがなかったからバンスはカーにビールをひと瓶くれるよう要求した。カーは彼にビールを与えた。バンスは船長室へ行き、カトラスを持ち出した。彼は船長室の戸の前に立ってビールを飲み、「俺がこの船の船長になってやる」といきまいた。オーガー船長はこれを聞き咎めて、「それはどういう意味だ」と尋ねた。しかしバンスとオーガーはやがて仲良くなった様子だった。バンスはビールをもうひと瓶要求し、カーの背中をカトラスで殴った。それからカーのほか幾人かを島に上陸させた。同証人はまた、ヒップス以外の本法廷に出頭している被告を全員知っており、彼らはグリーンキー島での謀叛、暴行および海賊行為の加担者だったと証言した。





　トマス・リッチの審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　同証人は本法廷に出頭している被告のうち、ヒップスを除いた全員がグリーンキー島において船舶と積荷に対する謀叛と海賊行為に参加したことを知っており、また同証人はスループ船「メアリー」号上で一味に捕らえられ、カーその他の証人とともに島に置き去りにされた。





　トマス・ペティの審問。宣誓の後、本証人は次のとおり証言した。

　同証人はヒップスがバンスに殴られるのを目撃しており、ヒップスが無理やり海賊の仲間に入れられたと確信している。またバンスは同証人も仲間に入れるつもりだったが、デニス・マカーティが、「もしこいつを仲間に入れるなら自分はバンスの仲間から去る」と言った。





　法廷は午後三時まで休廷になった。

　法廷が再開され、証人全員の審問が行なわれた。次いで被告一人ひとりが呼ばれ、各自弁論を行なった。ジョン・オーガーが最初に呼ばれ、弁論を行なった。彼は、自分は酔っ払っていたからフィニース・バンスが何を目的に「メアリー」号にやってきたのか知らなかったと言った。しかし彼は自分の無罪を立証する証人を呼ぶことはできなかった。

　次いでウィリアム・カニンガムの審問が行なわれた。彼は、バンスが、自分の乗るスクーナー船へやってきたとき寝ていたと言った。バンスは自分のところへポンチを一杯もってきて、「仲間になるかそれが嫌なら無人島へ置き去りにする」と脅したと言った。

　ジョン・ヒップスは、自分は決してバンス一味に加わりはしなかったと言った。自分の船長であるグリーナウェイを捜しにスクーナー船へ行ったら、すぐグリーナウェイとともにバンスに捕らえられ、後にカーその他のものも一緒に島へ上陸させられた。そこでバンスに殴られ、とうとう無理やり仲間に引き込まれてしまった。それでも自分は機会さえあればすぐバンス一味から逃れるつもりだったと言った。そしてカー、グリーナウェイ、リチャード・ターンリー、トマス・テレル、ベンジャミン・ハッチンス、ジョン・テイラー、ジョン・ジョンソン、トマス・ペティおよびデヴィッド・メレディスらに証言してほしいと言った。

　ジェームズ・カーはジョン・ヒップスのために証言し、バンスが、「もしおまえが自分の海賊一味に加わらないなら後悔することになるぞ」とヒップスを脅したと言った。さらに、被告が一味に加わるよう殴られたりしたのは目撃していないし、そういう事実は知らないが、後に彼は海賊の甲板長を引き受けたと語った。

　グリーナウェイ船長は、自分は同被告とスクーナー船へ行きその船長室で二人とも捕らえられた、と言った。そして、同被告は同証人に、当時甲板で一味の見張り役をしていたデニス・マカーティを襲って海に投げ込んでしまおうと提案したと証言した。しかし同証人は、他の連中から逃がれられそうもないと思い、同被告に、落ち着いてもっとよい機会を待つよう勧めた。そして同被告はカーその他の人びとと島に置き去りにされたと言った。

　リチャード・ターンリーは、自分の記憶にある限り、同被告はバンス一味に無理やり海賊の仕事をさせられたと思うと言った。しかし、バンスらが同被告を殴るのは見ていないと証言した。

　プロヴィデンスの住人トマス・テレルは、同被告は正直な人柄であると証言した。同被告は、同証人の所有するスループ船「サラ」号のトマス・ボウリングから乗組員にと推薦されたと言った。トマス・ボウリング船長はふた月ほど前のキューバへの航海で、謀叛が計画されていることを知ったが、ジョン・ヒップスは潔白だったし、それどころかその謀叛を鎮圧し、船の安全に寄与したと証言した。

　ベンジャミン・ハッチンスは、同被告は海賊仲間になってからも同証人によく不満をもらし、涙ながらに自分の不運を訴えて、機会があり次第一味から離れるつもりだと言っていたと証言した。

　ジョン・テイラーは、同被告がバンス一味から信用されず拘禁されていたと証言した。

　ジョン・ジャンセンは特に注目すべき証言は何も行なわなかった。

　トマス・ペティは、バンスが同被告を脅し、「一味に加わらないならおまえを殴りつけ、食べ物も水もない無人島に置き去りにするぞ」と言っていたと証言した。そして、このため同被告は身の完全を考えてバンス一味に加わったと思うと言った。

　デイヴィッド・メレディスは、フィニース・バンスが船に乗ったとき、被告ヒップスに向かって、「俺たちと一緒にこないなら、無人島に置き去りにするぞ」と脅し、さらにカトラスで何回か殴りつけたと証言した。そして、同被告は無理やりバンスの仲間にされたと思うと言った。

　被告デニス・マカーティが呼ばれた。彼は、カー、グリーナウェイ、ジョン・テイラー、トマス・リッチおよびトマス・ペティが自分のために証言することを求めた。

　カーは、マカーティが海賊の計画にだれにもまけず熱心だったと証言した。そしてマカーティは、他の海賊にくらべて、自分たちに対し親切だったという以外、同被告に有利な証言は何もしなかった。

　グリーナウェイ船長は、自分がバンスに殴られたとき同被告は、「今後この男を殴る奴は俺が相手だ」と言ったと証言した。

　ジョン・テイラーは、同被告がバンス一味から別れると言っていたと証言した。

　トマス・リッチは同被告が、「バンスの仲間になってしまったからこのまま続けざるを得ない」と言うのを聞いたと証言した。

　トマス・ペティは、やはりマカーティがバンス一味に加わった後、自分の軽はずみを後悔し、「妻と小さな子供につらい思いをさせることになってしまった」と言うのを聞いたと証言した。

　次に被告ジョージ・ラウンズヴィルが呼ばれた。彼はターンリーを証人に要求した。ターンリーは、同被告がバンスの海賊一味に加わった後、少しばかり後悔の様子を見せたが、同時に、「もう仲間になってしまったのだから命の危険を冒さずに仲間を見棄てることはできない」とも言ったと証言した。

　次に被告ウィリアム・ドウリングが呼ばれた。彼はトマス・ペティを証人に要求した。証人は、自分は同被告が他の被告たちと同様、海賊の計画に賛同するのを見ているから何も話すことはないと言った。

　次に被告ウィリアム・ルイスが呼ばれた。彼は、自分がジョン・カルモアの店で、「ビールを一杯やりたい」と言ったのをデイヴィッド・メレディスが聞いていたと語ったが、それ以外自分について何も言わなかった。デイヴィッド・メレディスは、「そのとおりだ」と言った。

　次に被告トマス・モリスが呼ばれた。彼は、バンスに仲間になれと言われたとき、ひどい熱と悪寒があったと主張する以外何も語らなかった。そしてトマス・リッチを証人に要求した。リッチは、自分が見た限り、同被告は最も悪質な連中と同じように積極的だったから、彼を気の毒に思ったりはできないと言った。

　次に被告ジョージ・ベンドールが呼ばれた。彼はリチャード・ベンドールを証人に要求した。証人は、同被告が一味から逃げたいと望んでいたが結局海賊を続ける決意をしたと証言した。

　次に被告ウィリアム・リングが呼ばれた。彼は、リチャード・ターンリーを証人に要求しただけだった。ターンリーは同被告が武器を持ち、どの海賊にも劣らず決然としていたと言った。

　法廷は翌十日午前十時まで休廷になった。





　法廷が再開され、再開宣言がされた後、被告らが再び出頭すると、証人を追加申請するかどうか一人ひとり聞かれた。

　ジョン・オーガーはさらに自分を弁護しようとはしなかった。

　次のウィリアム・カニンガムも同様だった。

　三番目のジョン・ヒップスは同じ質問をされると、ジョン・ラドンとヘンリー・ホワイトが出廷していれば自分のために多くのことを証言してくれたはずだ、と答えた。

　そこで裁判官は傍聴人全員に、ジョン・ラドンかヘンリー・ホワイトが話すのを聞いたことがあれば何でもジョン・ヒップスのために証言するよう提案した。巡査のサミュエル・ロウフォードが出頭し、宣誓してから、ジョン・ラドンが、「あのヒップス甲板長に何かしてやれたら俺は嬉しいんだがな」と話すのを聞いたと証言した。ラドンは、ヒップスが無理やりにせよ海賊の仲間になることに同意したことを泣いて悔やむのを見た。また証人に「海賊どもをやっつけることができるなら自分一人でも戦うつもりだ」と言い、さらに、ラドンが、「ヒップスはきっと機会を見つけて脱走するに違いない」と言っていたと証言した。

　四人目の被告デニス・マカーティは気弱な言い訳をし、ベンジャミン・ホーニゴールド船長を証人に要求した。ホーニゴールド船長は、自分はエクスマ諸島の一つに海賊を捕らえに行きマカーティを最初に逮捕したが、彼はすっかり諦めて総督の慈悲にすがるような様子だったと証言した。

　五人目のジョージ・ラウンズヴィルは何も弁明しなかった。

　六人目のウィリアム・ドウリングは、トマス・ペティをもう一度証人に呼んでほしい、と言った。証人は、被告がスペイン船で働くよう誘われたのを断った、と証言した。

　七人目のウィリアム・ルイスは、リチャード・ターンリーをもう一度証人に呼んでほしいと言った。証人は、スループ船「メアリー」号が乗っ取られたときは被告の姿を見かけなかったが、翌日、彼は武器を帯びて他の海賊どもと同じように活躍していたと証言した。

　八人目のトマス・モリスは、出廷していない幾人かのものの名前を挙げ、彼らは自分のために証言してくれると言った。しかし出席者はだれも彼に有利な証言をしなかった。

　九人目のジョージ・ベンドールは自ら弁明はしなかったが、カーを証人に要請した。カーは、被告が「海賊は楽しそうだから早く仕事を始めたい」と言っていたと証言した。さらに、被告は以前仕えていたことのあるバハマ諸島徴税吏ジョン・グレーヴが病で伏せっているとき、絞め殺したいという強い欲望にかられたと話すのを聞いたと言った。だがグレーヴに仕えていたのはごく短期間で、被告はすぐ意図した航海に出、本法廷に出頭している他の被告たちと謀叛に加わり海賊になった。

　デイヴィッド・メレディスはバンスが一度被告を殴ったところ、被告は、「もう一度でもバンスらが俺を殴ったらすぐ奴らを見棄ててやる」と当証人に言ったと証言した。

　十人目のウィリアム・リングは何も弁明しなかった。こうして被告全員は砦へ送り返された。それから全員退廷するよう命ぜられた。

　裁判官は国王および被告らに対する証言を検討した。ジョン・ヒップスを除く被告全員が裁判官全員一致で有罪になった。記録係は判決文を起草するよう命ぜられた。ジョン・ヒップスについては判決を翌週月曜日まで延期することになった。法廷はこの日午後四時に再開された。被告全員が法廷に拘引された。ジョン・ヒップスは枷をかけられ警備船に送致された。残り全員は、死刑の裁決を受けるべきでないとする理由があるか否か問われた。彼らは言葉もなく、ただ懴悔の時間がほしいと言った。

　次いで判決が朗読された。すなわち――。





本法廷は被告ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、デニス・マカーティ、ジョージ・ラウンズヴィル、ウィリアム・ドウリング、ウィリアム・ルイス、トマス・モリス、ジョージ・ベンドールおよびウィリアム・リングに対する証言を正しく審理し、また各人の事情を検討した結果、被告ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、デニス・マカーティ、ジョージ・ラウンズヴィル、ウィリアム・ドウリング、ウィリアム・ルイス、トマス・モリス、ジョージ・ベンドールおよびウィリアム・リングは、謀叛、重罪、海賊行為の罪で、全員有罪の結論に達した。従って本法廷は、被告ジョン・オーガー、ウィリアム・カニンガム、デニス・マカーティ、ジョージ・ラウンズヴィル、ウィリアム・タウリング、ウィリアム・ルイス、ウィリアム・モリス、ジョージ・ベンドールおよびウィリアム・リングに対し、当該被告らを獄舎へ戻し、そこから刑場へ送致して絞首刑に処することを宣する。汝らに神の御慈悲があらんことを。

一七一八年十二月十日



ウッズ・ロジャーズ　ウィンゲート・ゲール

ウィリアム・フェアファックス　ナサニエル・テイラー

ロバート・ボーシャンプ　ジョシアス・バージェス

トマス・ウォーカー　ピーター・クーラント





　被告らに対する死刑の宣告を下した後、総督は裁判長の職権で処刑を同月十二日金曜日午前十時に執行することに決定した。

　被告は全員、前非を悔い死に備えるため十分な時間をほしい、と懇願した。しかし彼らが逮捕されたのは十一月十五日のことであり、彼ら自身国際法に従って有罪となることを考えていたはずである。そしていま刑は確定した。また被告をこれまで監禁し、彼らにできるだけの弁論の機会を与えたため、植民地の防備強化作業に要する時間まで取られてしまい、牢の不足に伴う警備増強で警備兵の疲労も甚しい。さらに総督の当地着任以来、病気や死亡で警備隊は著しく弱体になる一方、予想されるスペインとの戦争に備えて自分の部下を手伝わせ、急遽大砲の据え付けや砦の工事を完成させねばならない状態だった。しかも当諸島にはまだ多くの海賊が残存しているから、プロヴィデンスまで軍艦はこない。そのほか法廷でいちいち枚挙できないほどの理由で、総督は被告らにこれ以上時間を与えるのは植民地のためにならないと判断した。

　被告らは砦の牢に移されると、祈りを唱えてもらう人を呼ぶことを許された。

　金曜日朝、被告らは一人ひとり呼ばれ、まだ心に隠し持っている罪はないか、あればそれを話してしまうことが懴悔に必要だ、と尋ねられた。しかし彼らは一切の証言を拒否し、政府に対する陰謀があるのかどうかも明さなかった。

　十時近くなると被告らは枷を外され、憲兵隊司令官トマス・ロビンソンの手に委ねられた。ロビンソンはこのような場合の慣例に従って彼らの手を胴に縛りつけ、海に面した城壁の上まで連れてゆくよう衛兵に命じた、城壁の上は総督の兵隊そのほかおよそ百名のもので厳重に警備されていた。被告らの願いで祈りと讃美歌が読まれ、出席者全員がそれに唱和した。これが終ると司令官は被告らを城壁の下まで連行するよう命ぜられた。そこには絞首台が建てられ、その上には黒旗が掲げられていた。旗の下は三本の柱に支えられた台になっていた。被告らが別に作った階段を上ってその台に立つと、死刑執行人が縄をかけるのである。彼らは絞首台の下で四十五分間の猶予を与えられた。この間彼らは讃美歌を歌い、あるものは昔の仲間に熱心に勧告を行なった。見物人たちは衛兵が許すところまでできるだけ絞首台に近づいた。総督は司令官に用意を命じた。被告らは全員最期のときを待った。この時点で総督はジョージ・ラウンズヴィルの縛いましめを解いてよいと判断し、それを命じた。ラウンズヴィルが台から降ろされると同時に、支柱の綱が引かれ、台が落下した。こうして残りの被告らは吊された。

　処刑された海賊たちについて手短に述べておこう。ジョン・オーガーは年齢四十ぐらい、ジャマイカで、そして後に海賊仲間によく知られた船長だった。国王の恩赦を受け、総督に推挙されて立派な船と荷物を委された。しかし彼はこの信頼を裏切り、有罪となることを自覚していた。彼は深く罪を悔いている様子で、刑を執行されるときまで顔を洗わず、髭を剃らず、着替えもしなかった。城壁の上で一杯のワインをもらうと、「バハマ諸島と総督に栄あれ」と言ってそれを飲み干した。

　ウィリアム・カニンガムは四十五歳、以前海賊ティーチの砲手だった。彼も自分の罪を悔い、それらしく振る舞った。

　デニス・マカーティは二十八歳。以前海賊だったが国王の恩赦を受けた。真面目で教育ある若者ということで、総督は彼を「ミリシャ」号の旗手にした。しかし彼は再び海賊に戻った。牢に入れられている間彼は模範囚だった。しかし死を逃れられないと知り、期待していた執行延期もなく運命の朝がくると、彼は着替えをし、首、腕そして膝に青いリボンを巻き、帽子を被った。城壁に上ると楽しげに周りを見渡し、「俺はこの島の大勢の勇敢な連中が、俺を犬みてえに見殺しにはしねえと信じてるぜ」と言った。そして自分の靴を砦の胸壁から蹴り棄てると、「俺は靴を履いたまま横死したりはしねえぜ」と言った。城壁を下りるときも絞首台の階段を上るときも、闘士のように敏捷な動きだった。台に上ると彼は壁の下の観衆に向かって同情を呼びかけた。しかし人びとは仮にどんなに彼を助けたくとも力及ばないことを知っていた。

　ウィリアム・ドウリングは二十四歳。長く海賊生活をし、その性は国王の恩赦で矯正されなかった。絞首台に立ってもふてぶてしい態度だった。死後、知人の証言によれば、彼はアイルランドを去る前に自分の母親を殺したという。

　ウィリアム・ルイスは三十四歳ぐらい。肝の座った海賊で死に面しても平然としていた。絞首台に上ったとき、仲間や見物人たちと一杯やりたいと切望した。

　トマス・モリスは二十二歳ぐらい。度し難い海賊だった。法廷では笑顔を見せ、何も気にしていない様子だった。マカーティーは青だったが彼は赤いリボンを着けて城壁に上った。そして、「新しい総督は情を知らねえ」と言った。そして降り際に、「俺はこの島々でもっと悪さをできたかも知れねえ。そうしてりゃよかったと思うぜ」とわめいた。

　ジョージ・ベンドールは十八歳ぐらい。彼は「俺は前に海賊だったことはない」と言ったが、悪にかけては何でもござれといった手合いで、極道連中だったら必ず彼の影響を受けただろう。むっつりした男だった。

　ウィリアム・リングは年恰好三十。この陰謀以前は目立たない存在だった。彼は心から後悔していた。話すこともせず、ルイスにワインをすすめられると、「こんなときには水のほうがふさわしい」と言っただけだった。

　総督の部下のほか見物人たちの中にも彼らと同じ運命になるべきものが少なからずいたが、恩赦を受けて許された。





海賊関係法律要旨





　海賊は万人共通の敵であり、信義のおけない輩であるとキケロは言っている。また、海賊行為を鎮圧するための措置を講じない君主や国家はその怠慢の責を問われる。海賊は万人共通の敵と呼ばれるが、彼らは正しくはそう命名されるべきでない。共和国を建て、法や財務を掌握し、市民に支持されて時に和平や同盟の道を講ずるものは、まことにその名を誉とされるとキケロは言っている。一方、アルジェリア、サリー、トリポリ、チェニス等のように一政府あるいは一国家に甘んじるものには交戦権や使節派遣の権利が認められているのである。

　私掠船免許状を与えられた商人が船を準備して、船長以下船員を乗り組ませ、しかもこうして出帆した連中が許可された相手国ではなく友好国の船を拿捕し掠奪した場合、それは海賊行為とされる。その船がイギリス領土内のいずれかの港に到着した場合、船は接収され船主はそれを失う。しかし彼らは損害賠償を要求することはできない。

　船が海賊に襲われて拿捕され、船を救うため船長が一味の奴隷になった場合、海事法は、海損分担により同船と積荷を同船長の救済に供することを黙示している。ただしこれが船長の過失による場合は海損分担は行なわない。

　イギリス海賊船に、イギリス人とともに敵国人が乗り組んでいて、それが掠奪を働いて逮捕された場合、イギリス人については重罪となるが該敵国人についてはそうでない。なぜなら、彼らの場合は海賊行為ではなく敵に対する強奪だからである。従って彼らは軍法で裁かれる。

　イギリスの敵国民がイギリス領海内で海賊行為に及んだ場合は、イギリスの主権によってのみ罰せられる。

　公海上で海賊行為を働こうとした海賊が逆に打ち負された場合、それを逮捕したものは正式な有罪判決がなくとも一味を主桁に吊してよい。一味を次の港へ連行しても同地の判事が裁判を拒んだり、裁判を待っていては危険や損害を招くおそれがある場合は、当該逮捕者が一味を裁いてよい。

　商品を任された船長が目的地でない港へ行き、それを売却あるいは処分しても、重罪とはならない。しかし最初の港で降ろした荷を奪い取った場合は海賊行為となる。

　海賊が船を襲い、襲われた船長が請戻しのためにかねを支払う約束をした場合、何も奪われなくとも海事法によって、当該行為は海賊行為となる。船が碇泊中、乗組員全員が上陸しているとき海賊が同船を襲い掠奪した場合、それは海賊行為となる。わが国と友好関係にある君主国または共和国の船を掠奪し、その商品をイギリスの公開市場へ持ってきた場合、該商品は押収され、荷主は永久に追放される。

　海賊がイギリスの港へ入り、そこに碇泊している船を掠奪しても海賊行為ではない。なぜならそれは公海上で行なわれたものでなく、一般の法律の対象となる強奪だからである。いかなる重罪に対する赦免も海賊行為には及ばない。海賊行為は特別に定めるべきである。

（28Ｈ・VIII）海事大臣が司法権を主張している海上その他の場所で行なわれた殺人や掠奪は、陸上での犯行と同様、当該場所および州において国王の委任状により限定された範囲内で審理、裁判、決定を行なうものとする。また、国璽を捺印した委任状を海事大臣、副官、若しくは、その代理人および大法官の指名する三乃至四人のものに授与するものとする。

　当該委員またはそのうち三名は、当該州の十二名の陪審員に対し、当該犯行が該州内の陸上で行なわれたと同様に審理を行なわしめる権限を有する。一切の訴状は法律に基づいていることを要する。また、陸上で行なわれた殺人や重罪の犯罪者に対すると同様の手続き、判決および処刑によらねばならない。また、当該犯罪の裁判は上述のごとく限定された権限を有する十二人の陪審員によって行なわれるものとし、当該地区に対する忌避は認めないものとする。当該犯罪で有罪が確定したものは、陸における重罪および殺人と同様聖職裁判権なしで死刑に処し、土地および所有物は没収するものとする。

　本法律は、（必要に迫られて）他船から余剰の食糧、綱索、錨、あるいは帆を押収し、それらの代金を現金で支払うか、または、ジブラルタル海峡以北の場合は四か月以内、以遠の場合は十二か月以内の支払い手形を振り出した海員に対しては不利な扱いをしないものとする。

　五港＊の司法権内にあるいずれかの場所に当該委任状が発せられた場合、それは当該港の港務長またはその代理人および大法官の指名する三乃至四名のものに発行されたものとする。当該犯罪の審理または裁判は当該港の住民並びに上記委員により行なわれる。

（11および12Ｗ・III・Ｃ・７）イギリスの生まれながらの市民若しくは居留人が海賊行為を行なうか、または外国政府の委任状を口実に公海上でイギリス国民に対し敵対行為に及んだ場合、当該者は海賊とみなすものとする。

　海賊に船を明け渡し、または一味に加わり、または他船で逃亡し、若しくは上官に反抗した船長若しくは海員はすべて海賊とみなすものとする。

　一七二〇年九月二十九日以後、海賊が陸上若しくは海上で海賊行為をするのを助け、または海賊をかくまい、若しくは海賊が掠奪した船舶物品を受領したものは、該海賊行為の共犯者とみなし、主犯と同等に罰するものとする。

（４Ｇ・Ｃ・II第７条）Ｗ・III・３・Ｃ・７法律第11号および12号により海賊と宣告されたものはすべて、Ｈ・VIII・Ｃ・15法律第28号が定める海賊裁判の方法に従って裁くことができる。聖職裁判権は認めないものとする。

（同第８条）本法律はスコットランドで有罪とされ、または私権を剥奪されたものには適用されない。

（同第９条）本法律はアメリカにおける国王陛下の領土にも適用され一般法令として扱われるものとする。





＊　五港　イングランド南東の特別港。Dover, Hastings, Hythe, New Romnay および Sandwich. 国防上の貢献の代償に特権が与えられた。





訳者あとがき





　本書は、Captain Charles Johnson : A General History of the Robberies and Murders of the Most Notorious Pyrates, and also their Policies, Discipline and Government, From their first Rise and Settlement in the Island of Providence（以下General History）を翻訳したものである。

　翻訳には、A. L. Hayward による版（A History of the Robberies and Murders of the Most Notorious Pirates, 1926、ロンドン）を使用し、P. Gosse による版および M. Schonhorn による版を参照した。なお、本文第９章「ハウェル・デイヴィス船長と乗組員」中の「セントトマス島、プリンス島およびアナボナ等のこと」、および第10章「バーソロミュー・ロバーツ船長と乗組員」中の「ブラジル記」は、原著ではそれぞれ本文の途中に挿入されているが、この翻訳では、読み易さを考慮して各章末に移動したことをお断りしておく。

　原著の題名は「海賊の歴史」であるが、目次からもわかるように、内容は十八世紀初期、主として西インド諸島とマダガスカル島を拠点に大洋を荒らし回った海賊たちの列伝である。





　初版は一七二四年ロンドンで出版された。初版では十三人の海賊の生涯が扱われていたが、非常な好評を博したため、同年、内容を増した二版が出版された。そして、翌一七二五年に三版、さらに一七二六年には内容をほぼ倍増した四版が二巻本として刊行された。以後今日まで様々な版が出され、オランダ語、ドイツ語、フランス語にも翻訳されている。

　ジョンソンの General History が、三百年近くにわたって多くの人々に読み継がれてきたのは、「海賊」という内容の面白さによることはもちろんであるが、それだけではない。後の歴史家が当時の海事裁判記録その他の資料と照合した結果、大多数の海賊たちに関する記述内容が、細かな点にいたるまで驚くほど正確であることが明らかになっている。そのため本書が海賊史の貴重な第一級史料として認められていることにもよるのである。実際、われわれが少年時代に読んで胸を躍らせた冒険小説「宝島」や「ピーターパン」、近年製作されている様々な海賊映画など、海の冒険者たちを扱った多くの文学作品や映画が、General History を典拠とし、あるいはそれから着想を得ているのである。

　General History で扱われている時代は、われわれが海賊という言葉からイメージするような典型的な海賊を数多く輩出しており、後に「海賊の黄金時代」と呼ばれるようになった。それには時代の背景が直接反映されている。著者ジョンソン自身が序文で説明しているように、一七一四年スペイン継承戦争が終結した結果、英国では余剰となった大量の海軍兵員が巷ちまたにあふれ出た。船を操って戦うことしか知らない彼らが再び海に活路を求めようとしたのは、自然の成り行きであった。しかし今度は国家の後ろ盾がない。こうして、〝絶望した有能な〟（ジョンソン）男たちは小さな船と自分だけを頼りに大洋に乗り出し、自ら悪名高き〝人類の敵〟たる海賊となったのである。

　しかしこのような内容にもかかわらず、著者チャールズ・ジョンソンに関しては、海事に詳しく海賊たちとも交流があった人物であり、チャールズ・ジョンソンというのは仮名らしいということ以外、今日に至るまで確定的なことは何もわかっていない。海賊史家フィリップ・ゴスは、ジョンソン自身が海賊だったのではないかと推測した。しかし一九三九年、インディアナ大学英文学教授ジョン・ムーアは Defoe in the Pillory and Other Studies において、文体比較その他について緻密な論証を展開し、ジョンソンは「ロビンソン・クルーソー」の著者ダニエル・デフォーに他ならない、と結論付けた。これによって、ジョンソン＝デフォー説が一般に受け入れられ確定したかに見えた。ところが事態は一転する。一九八八年、ニューヨーク大学のファーバンクおよびオーウェンは、The Canonization of Daniel Defoe において、ムーアの論証方法そのものに異議を唱え、ジョンソン＝デフォー説に痛撃を与えた。これによって、チャールズ・ジョンソンの正体探しはほとんど振り出しに戻ってしまったのである。しかし、この二人の研究者が問題としたのはムーアの論証方法であって、ジョンソン＝デフォー説が完全に葬り去られたわけではない。むしろ、ジョンソンの正体の謎がいっそう深まったといえるであろう。

　彼の海事および海賊に関する知識から推量して、ゴスがいうように、ジョンソンは海賊の一員だったのかもしれない。われわれ読者としては、いつの日か、彼の正体が解き明かされることを楽しみに待つしかないようである。いずれにせよ、海賊の黄金時代をつくった実在の海賊たちの行動が、ノンフィクションの記録として今に残され、多くの読者がそれを楽しみ、またそれから様々なフィクションが生まれていることは、実に興味深いことだと思う。





　本書は最初一九八三年に『イギリス海賊史』という表題で、リブロポートから同社「冒険の世界史」シリーズの本として刊行された。幸いこのシリーズは好評をもって世に迎えられたのであるが、出版社の事業停止という残念な事情によって刊行を継続できないこととなり、本書もその後長く絶版となっていた。ところがそれから三十年近く経った昨年、中央公論新社から『イギリス海賊史』を同社から再刊しないか、というお話をいただいた。三十年も前に出版した自分のささやかな翻訳書が再度世に出ることなど思いもしなかったので、私はうれしくもあり驚きもした。それから作業は順調に進み、今回中公文庫から刊行の運びとなった。

　本書で扱われている海賊の黄金時代は今からおよそ三百年前、まだ鉄道もなく、自動車もなく、高速船もなく、飛行機もなく、電気通信もない、今日の技術文明などおよそ想像も出来なかった時代である。逆に、コンピューターとインターネットがあれば、世界の出来事を瞬時に知ることが出来、直接足を運ばずとも地球のありとあらゆる場所を画面で見ることの出来る現代人にとっては想像も出来ないほど不便な時代であったであろう。だがそこには、精緻、機能、効率があらゆることの評価基準とされ、生活の細部まで技術に支配されている、あたかも精密機械のように組織化された現代社会がすでに失ってしまった、自由と冒険を求める精神が息づいていた。そしてそこには、抑圧され束縛されることをきっぱり拒否し、自由と冒険を求めて渺びよう茫ぼうたる海に出、海に生きた猛も者さたちがいた。

　歴史全体から見れば、海賊の黄金時代はごく限られた時代のごく限られたエピソードでしかないし、またその時代を生きた海賊たちの行動をいたずらに美化する必要もない。しかし、彼らが今なお多くの文学や映画の題材としてとりあげられていることは、大海原、嵐、帆船、ジョリーロジャー（海賊旗）、孤島、ラム酒、カトラスのきらめき、砲声、硝煙の臭い、財宝等々のイメージが醸し出すロマンや、海賊たちの行動が語りかける強烈なメッセージに、現代人が強く惹きつけられるからであろう。

　本書によって、息苦しく閉塞したこの現代を健気に生きる日本の少年たちや、少年の心を持ち続けて生きる大人たちに、かつて海賊と呼ばれる男たちが存在したことを知ってもらえたら、そして彼らの冒険とロマンと悲しみにいくばくかの共感を持ってもらえたら、訳者の喜びこれに過ぎるものはない。





　今回の出版に当たり、当初の表題『イギリス海賊史』を、原著の内容により忠実な『海賊列伝』に変更した。わが愛する海の無法者たちも、三十年の繋留生活に別れを告げ、再度の船出が出来ることを大いに喜んでいることと思う。この出版（そして出帆）を企画し実現してくださったのは、文芸局第三編集部の山本啓子さんである。ここに特記して感謝の意を表したい。

　二〇一二年二月

訳　　者





A General History of the Robberies and Murders

of the most notorious Pyrates,

and also their Policies, Discipline and Government,

From their first Rise and Settlement

in the island of Providence,

in 1717, to the Present Year 1724.

by Captain Charles Johnson

本書は『イギリス海賊史』下巻として、１９８３年９月にリブロポートから刊行された





『海賊列伝（下）　歴史を駆け抜けた海の冒険者たち』二〇一二年二月　中公文庫





発行　二〇一二年六月一日

海賊列伝（下）　歴史を駆け抜けた海の冒険者たち

著　者　チャールズ・ジョンソン

訳　者　朝比奈　一郎

発行者　小 林　敬 和

発行所　中央公論新社

〒104-8320

東京都中央区京橋２‐８‐７

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