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海賊列伝　上巻　目次





　　はじめに

　　序　章

１　エイヴリー船長と乗組員

２　マーテル船長と乗組員

３　黒髭ティーチ

４　スティード・ボネット少佐と乗組員

５　エドワード・イングランド船長と乗組員

６　チャールズ・ヴェイン船長と乗組員

７　ジョン・ラカム船長と乗組員

８　女海賊メアリー・リードとアン・ボニー

９　ハウェル・デイヴィス船長と乗組員

10　バーソロミュー・ロバーツ船長と乗組員

11　アンスティス船長と乗組員

12　ウォーレイ船長と乗組員

13　ジョージ・ロウザー船長と乗組員

14　エドワード・ロウ船長と乗組員





アフリカギニア海岸およびマダガスカル島主要海賊出没地略図





海賊列伝　上巻





（　）内の註は著者ジョンソン自身によるもの、〔　〕内は訳註もしくは翻訳に使用したテキストの編者アーサー・ヘイワードによるものである。それ以外の註は＊で示し、各章末に記した。





はじめに





　本書の材料蒐集にはひとかたならぬ苦労をした。それというのも、読者に完全に満足してもらうため、いささかなりとも不備な点があってはならないと考えたからである。このため、現在施行されている海賊関係の法律の要旨と、これまでに行なわれた海賊裁判のうちから特に興味深いものを幾つか選んで巻末に載せ、どのような行為が海賊行為とみなされ、また海賊行為とみなされないのはどのような場合かがわかるようにした。

　本書が商船の船長や真面目な海員に読まれることもあるかも知れない。彼らは、長い航海につきものの逆風や嵐、その他もろもろの災難に遭い、食糧その他の必需品が欠乏してひどい難儀をすることもしばしばである。そのようなとき、たまたま遭遇した他の船から（あるいは非友好的な土地に打ち上げられて）、命をつなぐため、あるいは船と荷物の安全のために是非とも必要なものの提供を拒絶された場合、国際法に違反せずにどの程度のことをしてよいのか、本書は一つの指針になるだろう。

　また本書では、船乗りが自分自身にとって非常に危険で、世界の貿易界にとっても有害この上ない海賊稼業に従事せざるを得なくなる誘因の幾つかを示した。この罪悪を無くすには二つの方法しかないと思われる。その一つは、戦争の終結によって仕事を失った多くの船乗りに職を与え、彼らが海賊を稼業にすることを未然に防ぐことであり、もう一つは海賊の巣窟となっているアフリカ沿岸、西インド諸島その他の地域の防備を固めることである。

　ここで私は長い平和の時代に、オランダの海賊の例をほとんど聞かなかったということに読者の注意を促さなくてはならない。私は、オランダ人が近隣諸国の国民より正直だと言うつもりはない。むしろ、責められるべきはわが国に産業がないことであろう。戦争が終って船が繋留されても、オランダには漁業があるから、船乗りたちは直ちに以前と同じように口を糊することができるのである。われわれにもこれと同じ産業があれば、船乗りたちが困窮の際、同じ効果が得られるに違いない。なぜなら、漁業には過剰ということがないからである。海は広く、場所を争う必要もない。資源は限りなく、労働は常に報いられる。それなのに、わが国の沿岸の大部分ではオランダ人たちが常時数百隻の船を浮かべてわれわれの魚を獲り、われわれに売りつけているのである。私は、われわれの魚と言った。なぜなら、大英帝国の海の主権は、今日、オランダはじめすべての国から認められているところだからである。従って、われわれに公共の利益を考える精神があるのなら、海賊を防止し、貧しいものに仕事を与え、食糧や日用品の値段を下げて国民の生活を楽にするための最善の方策として国家的な漁業を確立するのは十分価値あることなのである。

　私の提言は何ら立証を必要としない。今日、実に多くの船乗りが職を失い、国中で貧困にあえぎ、物乞いをしているという事実だけで十分である。これは、彼らが懶らん惰だだからというより、仕事が終ったとたん路頭に投げ出され、飢え死にするかさもなければ盗みを働くしかないという、苛酷な状況によるのである。私は、過去数年というもの、軍艦が就役したということを聞いたことがない。ただ、補充乗員の志願者が二十四時間以内に集まったことが三回あっただけである。商人らはこれをよいことにして、船乗りの賃金を引き下げ、雇い入れたものには僅かな給料と粗末な食事しか与えないでいるのである。このような待遇に彼らは不満を抱き、強く変化を求めるようになる。

　私は本書の中で、西インド諸島の私掠船＊１乗組員について述べ、彼らが掠奪を業としていることを指摘しておいたから、ここでは繰り返さない。習慣は第二の天性であるから、正業で糧が得られないとき、彼らが以前親しんだ商売に足をつっこんだとしても何ら不思議はない。すなわち、戦時の私掠船は平時の海賊の養成所とも言えるのである。

　さて、海賊の始まりとその興隆の事情がこのようなものだと述べれば、当然、アメリカ植民地には平時にも十二隻を下らない軍艦が配備され、強力な敵にも十分対処できる武力がありながら、なぜ海賊たちが脅威になる以前に彼らを捕らえ潰滅してしまわないのかという疑問が起ころう。この疑問は海軍の関係者にとってあまり名誉なことではないかも知れない。しかし、私の助言は公共のためを思ってのことであるから、諒とされたい。

　少数の海賊が何年にもわたってわが軍艦に捕らえられることなく海上を荒らし回れるのがそもそも不思議なことである。そのうちに海賊は多数の船を獲物にすることになる。稼業にとりわけ熱心な海賊もいた。ロバーツ一味などは、潰滅するまでに、実に四百隻の船を獲物にした。

　このことは別の機会にあらためて話すこともあろう。ここでは、海賊は陸の盗賊と同じ知恵を持っているということだけを言っておこう。陸の盗賊は、旅人が頻繁に往来する街道や、獲物によく出合う場所をよく知っている。これと同じく、海賊も、どの緯度上で待ち伏せすれば獲物の船に遭遇できるかよく知っているのである。だから、食糧その他の必需品が欠乏すると、海賊たちは獲物を求めて航海し、ほぼ確実にそれに遭遇するのである。これと同じ理屈で、軍艦が彼らの出没する緯度上を遊ゆう弋よくすれば、海賊が商船を発見できるように、彼らを発見できるに違いない。そして、その緯度上で軍艦が海賊船に遭遇しなかったとすれば、商船はその航路を通って、無事目的の港に到着できるわけである。

　これをわが国の読者にもう少しわかりやすく説明しよう。イギリスから外国へ向かう船はすべて、出港後しばらくすると目的地と同じ緯度上に針路をとる。目的地が西インド諸島か、あるいはニューヨーク、ニューイングランド、ヴァージニア等アメリカ本土の港だとすれば、航海中確実にわかるのは緯度だけだから、船はそれに沿って、航路を変更することなく、目的の港に到着するまでひたすら西に進むのである。しかし、西の海には、ヴァージニアであれ、ネヴィス、セントクリストファー、モンセラト、ジャマイカ等の島々であれ、海賊が待ち伏せているから、同方面を目差す商船はいつか必ず一味の手に陥ちてしまうのである。従って、軍艦がこれと同じ航路をとれば、海賊どもは必ず捕らえられるか、逃げ出さざるを得なくなる。獲物のいる場所には、それを求めて害獣も集まるからである。このようにすれば、貿易船は安全無事に航海できるし、一方海賊は無人島の隠れ場所に退避せざるを得ず、彼らの運命は穴に入った狐同然である。隠れ場所から出てくれば追われ、捕らえられるし、そのまま潜んでいれば餓死するしかない。

　もう一つ注意しておくことがある。それは、海賊は一般に季節の変化に従って活動場所を移動するということである。夏にはほとんどの海賊がアメリカ本土沿岸を活動の場とするが、冬になり寒さが厳しくなると、太陽を求めて西インド諸島に南下する。西インド諸島の貿易に従事したことのある者ならだれでもこのことを知っている。一味の行動がこれほどよくわかっているのだから、われわれの軍艦を冬の間いたずらに繋留して南に向かわせない法はないと思うのである。

　しかし少々穿せん鑿さくが過ぎたかも知れない。議論はこのぐらいにし、本書の内容について少し書いておこう。本書について私が自信をもって言える点が一つある。それは内容が真実だということである。私自身が現場に居合わせなかった事件については、海賊の拿だ捕ほに関与した人びとの確かな関係筋や、捕らえられた海賊自身から話を聞いた。私はこれ以上信頼できる歴史の証言はほかにないと考えている。



初版のタイトルページ（１７２４年）





* * *





　読者は他の海賊に較べてロバーツの話が特に長いことに気付かれるであろう。これには二つの理由がある。一つは、彼が他の海賊たちより長い期間海を荒らし回り、活躍の場も多かったことである。もう一つは、ロバーツと他の海賊たちを較べてみて、彼らの掟その他のことがらが類似しているとわかったから、それらを繰り返して読者を退屈させることはやめ、他にも増して世を騒がせたロバーツを選んでそれだけを述べるほうがよいと考えたからである。

　二人の女海賊については、つくり話のように思われるかもしれないが、真実である。彼女らは海賊行為により法廷で裁かれたのであり、本書に述べたことを証言する人びとも現存している。一般に知られていないことも幾つか書いておいた。これは、私が単に自分の好奇心を満足させる人びと以上に彼女らの過去の境遇について知りたかったからである。彼女らの話に奇異な印象を与える部分があったとしても、それはわざわざ作った話ではない。著者はそのような作為とはまったく無縁である。ただ、著者自身、彼女らの話を大層興味深く感じ、読者にとっても興味深いだろうと考えたのである。

　本書は、幾人かの海賊の活躍を扱ったものであるが、それに〝歴史〟という名＊２を与えたことに対して、特に弁明の必要はないと思う。戦時にあっては、勇気と智謀が人びとの行動を記録に値するものにする。この意味で、本書に記した冒険は歴史の名に値すると考えられるだろう。プルタークは奴隷スパルタクスの活躍を詳細に語り、彼の征伐を、マルクース・クラッススの最大の功績の一つとしている。もし奴隷スパルタクスがもっと長く生きていたら、プルタークは彼の全生涯を記録に残していただろう。世界の女王と謳われたローマも、最初は泥棒や無法者の巣窟にすぎなかった。わが海賊たちも、最初そのようにして、どこかの島に集結し定着していたとしたら、彼らは共和国の名を冠され、その方面ではだれも彼らにかなわないようなことになっていたかも知れないのである。

　私が一部の植民地総督の行動をかなり遠慮無い目で眺めたように思われるかも知れない。しかし、それらに関しては慎重を期して、私の知っている以外のことは述べていない。植民地総督という言葉をときに使ってはいるが、同じ地位にあっても身に恥ずることのない諸氏はどうかそれを侮辱ととらないでいただきたい。

　一言つけ加えておかねばならないことがある。それは、この版では幾つかの材料を追加したため、頁数も増え、値段も多少高くなってしまったことである。

　初版は非常な成功を収め、二版に対する要望も大きかった。その間に、海賊の拿捕に関与した人びとや、海賊の捕虜になったことのある人びとから、初版で漏らした幾つかの事実を知らせていただいた。これらを取り入れたため、出版は多少遅れたが、本書はより完全なものになっている。

　新しく加えた材料について、ここで詳しい説明はしない。ただ、セントトマス島その他に関する記述と、ブラジルに関する記述については少し説明しておく必要がある。わが国の地理学者たちは疑いもなく偉大な学者であるが、書斎の外に知識を求めて旅行するということはほとんど無く、従って諸国のさまざまな事情を記述するには適任でない。学者先生方が無教育な人びとの報告を鵜呑みにする結果、われわれの地図はひどい間違いだらけということになるのである。

　また、商船の船長らは、何か新しい発見をしても、それを他人に伝えたがらないということにも注意する必要がある。ある土地の沿岸が他の土地よりよいことを知っていれば、商売には有利だから、商売人が商売の秘密を明かさないように、地理上の発見をした者も、それを他人には教えないのである。

　大変な苦労をしてこれらの報告を作成されたのはアトキンス氏＊３である。氏は、すぐれた船医であるが、公益のため狭い視野にとらわれることなく、自分の知識を快く提供されたのである。氏の報告は興味深く、またこれら方面の貿易にとって非常に役立つことを私は疑わない。さらに、ポルトガル人の商売の方法が述べられているが、これは、われわれにとっても、役立つものと思う。

　本書の内容について、読者を楽しませるために捏造したものらしく、真実かどうか疑わしいと言っている人びともあると聞いているが、著者は、何よりも本書が有用となることを考えたのであり、これが、一般読者に満足をもって迎えられることを希望している。事実の記述が多少なりとも面白く生き生きしているとしたら、それを本書の欠点であるかのようにはみていただきたくない。本書の信憑性については、これらのことがらを熟知している船乗りで異を唱えるものはいなかったと言っておこう。そして本書に載せたいずれの事実も、信用できる証人に立証してもらえることを断言する。

　本書で扱った以外にも、幾人かの海賊たちがいる。彼らの冒険も、本書の海賊と同様、放埓無法の限りを尽したものである。すでに著者はこれらについてまとめにかかっているが、さらに資料を入手して完全なものになり次第、大方の支持が得られれば、第二巻として出版したいと思っている。（これらの資料は間もなく西インド諸島方面から届く予定である。）





〔この序文は二版のものである。ここで著者が言っている二巻の内容は本書に含まれている。〕





＊１　私掠船　　戦時、政府の免許を得て敵船を拿捕攻撃する民間武装船。

＊２　〝歴史〟という名　　原題は A General History of the Robberies and Murders of the most notorious Pyrates である。

＊３　ジョン・アトキンス（一六八五――一七五七）　　一七二一年ギニア沿岸の海賊討伐の航海をした軍艦「ウェイマウス」号および「スワロー」号の船医。





序　　章





　西インド諸島の海賊は非常に手強く、おびただしい数にのぼり、この方面のヨーロッパ諸国の貿易を妨げるまでになっている。とりわけわがイギリス商人は、彼らの掠奪行為により、先の戦争〔スペイン継承戦争〕でフランス・スペイン連合軍から受けた以上の損害を被っている。貿易に携わる人びとの恐怖の的となっているこれら命知らずの無法者が、どのようにして起こり強大になったのか、世人の是非とも知りたいところであろう。

　しかし個々の海賊の話に入るまえに、時代のどさくさに紛れ、あるいは時の政府が怠慢で海賊を殱せん滅めつしないままに放置した結果、彼らが力を蓄えて強大になり、ついには諸国を脅かすほどの災禍と危険をもたらすようになるという例を歴史のなかから幾つかひろって示し、序章とするのもよいのではないかと思う。

　単独の海賊が政府の注意を引かぬままに海上を自由に徘徊し、次第に力を蓄え、ついには一味を制圧するために多くの血を流し富を費やさねばならなくなるほど強大になるというのがこれまでの通例であった。だが、西インド諸島に巣くう海賊たちがなぜ最近に至るまで増え続けたのかをここで詮索することはすまい。それは立法府すなわち人民の代表である議員諸氏の仕事であるから、彼らにお任せしよう。

　ここではただ、最初は取るに足らない存在だった海賊が、後に多くの国々を苦しめるようになるという例を簡単に紹介するにとどめる。

　ローマはマリウスとスラの時代に全盛期をむかえたが、国はこの二人の偉大な将軍のもとに多くの派閥に分裂し、公益は蔑ないがしろにされていた。そのころ、東はタウルス山を境界とするシリアと、西は小アルメニアの間の地中海沿岸に位置する小アジアの一国キリキアに海賊が起こった。最初は数人の、二、三隻の船しか持たない取るに足らない一味で、ギリシャの島々を回っては、武装の貧弱な、あるいは抵抗力のない船を獲物にしていた。しかし、こうして多くの獲物を捕らえることにより、一味は急速に富と力を蓄えていった。彼らはユリウス・カエサルを捕らえたことによって初めて世人の注目を集めた。当時、カエサルはまだ若く、彼の命を狙うスラの手を逃れてビシニア国王ニコメデスのもとにしばらく身を寄せていた。そしてローマへの帰路、ファーマクサ島近海で一味に遭遇し、捕らえられたのである。この一味は、捕虜は全員背中合わせに縛り、海に投げ込んでしまうという野蛮な習慣を持っていた。しかしカエサルが紫の衣を身にまとい、大勢の従者を従えていたため、この男は身分の高い者であろうと想像し、拘留して巨額の身代金をせしめた方が得策だと考えた。一味は彼に「身代金二十ターレントを払えば釈放してやろう」と言った。いま（原著初版刊行時）のかねで三千六百万ポンドほどである。海賊は相当高い要求を出したつもりだった。しかし、カエサルは微笑して、「五十ターレント払ってやる」と約束した。この返答に一味は喜び、また驚きもした。カエサルの命令で数人の従者が身代金を取りに行くことになった。カエサル自身は、たった三人の従者とともに無法者たちの中に残った。彼は海賊船で過ごすこと三十八日に及んだが、それを気に病んだり恐れたりする様子はなかった。眠るときは、海賊たちに「騒がしくするな」と言い、「もし安眠を妨害したら全員縛り首にしてしまうぞ」と脅した。また一味に加わってさいころ博打に興じ、時には諳そらんじていた詩や対話をしたためた。海賊どもがそれを賞揚しないと、カエサルは彼らを獣とか野蛮人とか言って罵った。一味はこれを若者の冗談だと思い、怒るどころか面白がった。

　やがて、使いに出した従者が身代金を持って戻ってきた。カエサルは海賊にそれを支払い、釈放された。ミレツムの港へ到着すると、彼は直ちに艦隊の編成に着手した。そして自費をもってそれらの船の武装を整えると、海賊の討伐に乗り出した。カエサルは、一味が島陰に碇泊しているところを急襲し、自分を捕虜にした連中以外にも幾人かの海賊を捕らえた。海賊が持っていたかねは押収し、艦隊の派遣に要した費用に充当した。捕らえた海賊はペルガムス（トロイ）に連行し、投獄した。それからカエサルは、当時アジア〔小アジア地方〕の総督で、司法権を持つユニウスに一味の扱いについて伺いを立てた。しかしユニウスは、海賊からかねを押収できないとわかると、カエサルに、捕虜を自由に処分してよいと言った。ユニウスのもとを辞しペルガムスへ戻ると、カエサルは法に従って捕虜を処刑するよう命じた。こうして、カエサルは一味に囚われていたとき彼らをからかい半分に脅していたとおりの刑を本気で実行したのである。

　その後、カエサルはローマへ帰り、当時の指導的な人びとがそうであったように、自分の野心を達成することに専念した。討伐されずに残った海賊らは顧みられず、再び非常な勢力を持つに到った。というのも、ローマの内乱が続き、その間、海の防備はおろそかになっていたからである。海賊たちはキリキア沿岸に各種武器庫や良港、そして望楼を建設し、強力なギャリオット船隊を擁していた。これらの船には命知らずの荒くればかりでなく、腕利きの水先案内人や水夫が乗り組んでいた、とプルタークは伝えている。彼らは強力な武装船以外に、偵察用の軽快なピナス船＊１を持ち、総勢一千隻を下らない艦隊だった。これらの船は船首や船尾に金箔を張り、オールには銀を張り、紫の帆を揚げきらびやかに飾り立てた。その非道さを誇示することが彼らの最大の喜びであるかのようであった。彼らは恐れられると同時に、その絢爛さは羨望の的でもあった。さらに海上での海賊無法行為だけでは満足せず陸でも荒掠行為に及び、征服まで行なった。彼らは四百以上もの都市を占拠して掠奪し、幾つかの都市には貢物を課し、神々の聖堂を荒らして富を蓄えた。しばしば沿岸の村々に上陸し、荒掠をほしいままにしたばかりか、チベル河のほとりにある貴族たちの豪邸を漁りまわった。ローマから任地へ向かう途中の執政官セクティリウスとベリヌスを従者ともども捕らえ連れ去ったこともあった。また、アントニウス将軍の娘を、彼女が田舎の父の家へ行く途中かどわかしたこともあった。

　しかし、彼らの習慣こそ、野蛮極まるものであった。彼らは船を捕らえると乗組員たちに姓名と国を尋ねた。ローマ市民を名のる者がいると、彼らはその名前の偉大さに畏怖したかのように捕虜の前に跪き、自分たちの悪事を許してほしいと懇願し、慈悲を請うた。そしてこの捕虜の召使のごとく振舞った。捕虜が自分たちの改心をすっかり信じ込んだと見るや、彼らは船から梯子を下し、捕虜に向かって「もうあなたは自由の身です。どうぞ船を御降り下さい」と馬鹿丁寧に言った。これが海の真ん中なのであるから、捕虜は驚いた。海賊たちはこれを見て腹の底から大笑いし、捕虜を海に投げ込んでしまうのだった。こうして彼らはまことに気き侭ままに残酷な行為を楽しんでいたのである。

　このように、ローマは世界の女王と謳われながら、その目と鼻の先では、強力な海賊に公然と侮辱されていたのである。しかし、シシリー島、コルシカ島その他から穀物を積んでローマに向かっていた船団が一隻残らず海賊の餌食になり、食糧の供給が途絶えたローマが飢え死にの危機に瀕するに至って、内紛はようやく収まり、ローマ人の天分が呼び覚まされた。そして二度とこの敵の横暴を許そうとはしなかった。ポンペイウスが海賊討伐の司令官に任ぜられ、直ちに五百隻の艦隊が編成された。彼は歴戦の勇士である十四人の元老院議員を副官に任命した。敵は非常に大きな勢力になっていたから、十万の兵と五千の騎兵で陸からも攻撃することにした。敵にこの討伐計画を知られぬうちにポンペイウスの艦隊が出帆したことは、ローマにとってまことに幸いだった。このとき、一味の船は積荷を本国に持ち帰るため、巣から飛び出した蜜蜂のように、地中海全域に散っていたのである。ポンペイウスは麾き下かの艦隊を十三の戦隊に分け、各々に海賊の基地を数カ所ずつ攻撃させたから、味方には何の損害もなく敵船を一隻また一隻と拿捕し、大勢の海賊を捕虜にした。彼は四十日間にわたって地中海を掃討した。戦隊のあるものはアフリカ沿岸を航行し、他のものは島とう嶼しよを巡航し、さらにあるものはイタリア沿岸を捜索した。だから、海賊たちはある戦隊の追跡を逃れても、別の戦隊に拿捕されてしまうことが多かった。それでも、一部の海賊は追手から逃れ、まっすぐキリキアに向かった。そして上陸していた仲間に事の次第を話し、残存勢力をすべてこの国のコラセシウムの港に結集することにした。地中海の海賊を一掃したポンペイウスは、艦隊をブルンドシウムの港に集めると、そこからアドリア海を回り、直接海賊の巣窟の攻撃に向かった。キリキアのコラセシウムに近づくと、そこに碇泊していた海賊の残党は、果敢な戦いを挑んできた。しかし、ローマの天才はこれを圧倒し、海賊どもを残らず捕らえあるいは撃滅した。一方、彼らは沿岸に多数の強力な砦を設け、またタウルスの山麓には城塞を築いていたから、ポンペイウスは軍隊を率いてそれらを包囲しなければならなかった。これらの砦のあるものは彼の急襲で陥落し、またあるものは投降し慈悲を願い出た。こうして彼は完全な勝利を収めたのである。

　しかし、海賊たちが、自分たちに対する討伐の計画を前もってよく知っていて、分散した勢力を集結してポンペイウスに海戦を挑んでいたとしたら、船の数でも、人員でも、彼らの方がはるかに有利だった。しかも、コラセシウムの残党の、自分たちよりはるかに有力なローマ軍に対する戦いぶりからもわかるように、彼らはいささかも勇気に欠けてはいなかった。もし彼らがポンペイウスを打ち負かしていたら、彼らはいっそう大胆な事業を企て、世界を征服したローマも一群の海賊に屈していたのではないかと思われる。

　これによっても、政府が怠慢で、海の無法者たちを初期のうちに撲滅せず、勢力を増大させるにまかせることがいかに危険かよくわかるのである。

　この教訓の正しさは、エーゲ海はレスボス島、ミティレーンの街から出た海賊、赤髭バルバロツサウルージの歴史にさらによく示されている。彼は普通の家の生まれだったが、船乗りとして育ち、最初はごく小さな船一隻で海賊業に乗り出した。しかし次々に獲物を捕らえて巨額の富を蓄え、多数の大型船を持つようになった。付近の島々から、彼の下で働いて獲物をものにしてやろうという魂胆の、向こう見ずな若者たちがこぞって集まってきた。こうして仲間が強大な勢力にふくれあがると、彼は数々の大胆不敵な冒険を企て、海の恐怖の的となった。そのころアルジェリアの国王サーリム・エンテミは、従来からの慣行だったスペインへの貢物を拒否したが、そのため彼らから侵掠されるのを恐れていた。王はバルバロッサを盟友として遇し、自分たちを助勢してくれたらスペインに対する貢物を彼に支払うと申し出た。バルバロッサはこれに快く応じ、大艦隊を率いてアルジェリアに到着すると、兵の一部を上陸させた。ところが彼は一計を案じて街に奇襲をかけ、入浴中のサーリムをまんまと殺してしまった。そしてすぐに自らアルジェリアの国王の位に就くと、チュニスの国王アブディラブデに戦いを仕掛け、完膚なきまでに打ち負かすと、さらに征服の手を四方に拡げた。こうして彼は一介の盗賊から身を起こして、絶大な勢力を持つ国王になったのである。彼は後に戦いで死んだ。彼には子供がいなかった。しかし国王の地位は確固たるものになっていたから、彼の弟で、やはり海賊だったハイルッディンがこの王国を受け継いだのである。

　さて、西インド諸島の海賊の話に移ろう。この海域は世界のどこよりも多くの海賊がはびこっているが、これには幾つかの理由がある。

　第一に、この海域には、便利で、船の修理をしたりするにも安全な港に恵まれた無人島や砂州島が無数にあり、海賊が必要とする海鳥、海亀、魚貝類等の食糧や水も豊富なことである。だから、強い酒さえあれば、海賊たちはしばしの時を懶惰に過ごし、危険が迫る前に再び新しい遠征に出ることができるのである。

　ここで、西インド諸島の砂州島についてすこし説明しておこう。これは、海面からわずかに頭を出し、潅木や草がまばらに生えているだけの、砂州の小島である。しかし、これらの島には、人気のないところで産卵する習性がある海亀が多数棲息し、特に産卵期にはその数は厖大になる。これらは、海賊以外のものの目にとまることはほとんどない。ジャマイカその他の政府は、人びとの普通の食物である海亀を採りに船を出す。私は、これらの小島、特に本島に近いものは、以前は本島と陸続きだったのが、地震（この地では非常に頻繁にある）や、高潮で孤立した島になってしまったのではないかと考える。なぜなら、ジャマイカに近接している島々のように、以前は本島から眺められていたものが、われわれの時代になって遠ざかっていたり、すっかり無くなってしまったりしているからである。これらの小島は、ここに述べたように海賊たちに役立っているばかりではなく、バカニーア〔十七世紀後半、スペインのアメリカ植民地を荒らした海賊〕が華やかだったころには、彼らの財宝の埋蔵地ともなり、また本土にいる彼らの仲間が赦免の手立てをしてくれるまで潜伏する場所ともなったのである。当時は、海賊赦免令がいまより頻繁に出され、法律も厳しくなかったから、バカニーアたちはいつもジャマイカに庇護者や後援者を持っていたのである。恐らく彼らはまだ全部は死に絶えていないだろう。私の聞いたところでは、現在生存している多くのものも以前は同じ海賊稼業をしていたが、この島でまっとうに暮らすこともできるというだけの理由で、足を洗ったのだという。彼らは他人の命を危険にさらして利を得たのである。

　第二に、この海域でフランス、スペイン、オランダ、そして特にイギリス船の貿易が盛んなことが挙げられる。海賊たちは、この近海を遊弋していれば、食糧や衣類、航海必需品、そして時にはこの航路を通ってイギリスに送金される莫大な額の現金（アシエント＊２やスペイン領西インド諸島への私的奴隷貿易の見返り）等の獲物に確実に遭遇することができたのである。要するに、ポトシ銀山の富がいろいろな人びとの手によって、この航路を通り、イギリスに送られているのである。

　第三に、これら孤島の入江や潟、そして港は自然の隠れ場所となり、軍艦の追跡が非常に困難なことである。

　普通、海賊は、西インド諸島を舞台にして、ごく少人数で最初の冒険航海に乗り出す。そしてこれら島々や北アメリカ大陸の沿岸を荒らし回り、運がよければ一年もすると外国へ遠征するほどの力を蓄える。最初の遠征地には、普通、ギニアが選ばれる。この航海の途中アゾレス諸島や、ヴェルデ岬諸島に立ち寄る。そしてさらにブラジルや東インド諸島を目差すのである。これらの方面で十分な収穫があると、彼らはマダガスカルかその近くの島に定着し、すでに住んでいる先輩連中とともに、罰せられる心配もなく悪事で得た富で楽しく暮らすのである。しかし、この稼業を読者に勧めるようなことになってはいけないから言っておくが、これら無法者のほとんどは、大望半ばにして突然この世に別れを告げることになるのである。

　ユトレヒト講和条約〔一七一三〕以降の海賊の興隆、少なくとも彼らの甚だしい増大は、西インド諸島のスペイン植民地のせいだと言ってよい。これら植民地の総督たちは本国で零落した廷臣で、身代をたてなおすかひと財産をつくるためにこの地にやってきた連中であることが多く、儲かることならどんなことでも奨励するのである。彼らは、密貿易の取り締まりを口実にして多くの船に私掠船の許可を与え、植民地沿岸から五リーグ以内に立ち入った船はすべて拿捕するよう命じている。ジャマイカ航路のイギリス船はこの制限海域を避けて通ることができないのである。命令を受けたスペイン船の船長が任務を逸脱し、拿捕した船を勝手に掠奪したような場合、被害者は法廷に訴えることが許されている。そして、多額の訴訟費用を払い、長い時間待たされ、その他めんどうな手続きをふんだ後、やっと有利な判決を勝ち取ることができる。しかし、船や船荷に対する損害賠償要求を出すときには、すでに船の廃棄処分が言い渡され、船荷は奪った乗組員たちが分配してしまった後ということがわかってがっかりするのが落ちである。掠奪を働いた船長のみが責任者ということになるが、これが一文の価値もない貧乏な悪党で、このような目的のために船長の地位につかされている男なのである。

　これら海賊たちによる被害が頻発したため、報復が企てられたとしても無理からぬことであった。一七一六年、絶好の機会が訪れた。西インド諸島の貿易商人たちはこの好機を逃さず、可能な限り最大限に利用した。話はこうである。

　二年ほど前、スペインの銀製品を積んだギャリオン船隊がフロリダ湾で難破した。そこでハヴァナから現地に数隻の船が派遣され、ギャリオン船とともに沈んだ積荷の引き揚げ作業を行なった。

　スペイン人は数百万ペソのピース・オヴ・エイト銀貨を回収し、ハヴァナに運んだが、現地にはなお三十五万ペソほどの銀が残っており、回収作業が続いていた。ちょうどそのとき、ジャマイカ、バルバドス、その他の地から出帆した二隻の大型船と三隻のスループ船が、ヘンリー・ジェニングス船長に率いられて、フロリダ湾に入ってきた。そして、難破船の積荷の引き揚げ作業をしているスペイン人を発見したのである。すでに引き揚げた銀貨は海岸の小屋に保管され、二人の将校と六十人ばかりの兵隊が警備していた。

　ジェニングス一味は現場に直行すると投錨し、三百人を上陸させて守備隊を襲った。守備兵はたちまち逃げ去った。こうして一味は財宝を奪うと、ジャマイカへの航路を急いだ。

　航海の途中、一味は洋紅、藍、ピース・オヴ・エイト銀貨六万ペソ以上等の高価な荷を満載しポルトベロからハヴァナへ向かう一隻のスペイン船に遭遇した。すでに海賊稼業に手を染めていた彼らは、これを拿捕し、掠奪した後釈放した。

　一味は獲物をもってジャマイカに到着したが、被害に遭ったスペイン船は一行を追跡し、入港したのを見届けると引き返してハヴァナ総督に事の次第を報告した。総督はただちにジャマイカ総督に使いを出し、この海賊行為に抗議するとともに、奪われた商品の返還を要求した。

　イギリスとスペインはすでに完全な平和関係にあり、海賊行為は明らかに正義に反した。そして、ジャマイカ総督が彼らを処罰せずにはおかないこと、ましてや保護などということはおよそありえないことは、彼ら自身がよく知っていた。何とか身を処する必要に迫られた彼らは、毒を食らわば皿までとばかり、再び海に乗り出した。しかし獲物の積荷を有利に処分し、弾薬や食糧を調達することは忘れなかった。破れかぶれになった一味は海賊になり、スペインばかりでなく、イギリスその他どの国の船でも見境なく掠奪した。

　ちょうどそのころ、スペインは三、四隻の軍艦を出してカンペチ湾とホンジュラス湾を航行中のイギリス籍ロッグウッド採集船を襲撃した。軍艦は次に示した船舶を拿捕するとこれらの乗組員たちには代りにスループ船を三隻与えて釈放した。しかしこの災難に遭って絶望的になっていたときに、彼らはジェニングス一味に出合ったのである。一味はロッグウッド採集船の乗組員を仲間に加え、勢力を増強した。





一七一六年スペイン軍艦に拿捕された船



スタッフォード号　ノックス船長　ニューイングランドからロンドンへの航海中

アン号　ジャーニッシュ船長　同

ドーヴ号　グリムストン船長　同

スループ船　オールデン船長　同

ブリガンティーン船　モッソン船長　ニューイングランドへ向かう途中

ブリガンティーン船　ターフィールド船長　同

ブリガンティーン船　テニス船長　同

船　ポーター船長　同

インディアン・エンペラー号　ウェントワース船長　同

船　リッチ船長

同　ベイ船長

同　スミス船長

同　ストッカム船長

同　サトレリー船長

スループ船　リチャーズ船長　ニューイングランド籍

スループ船　バルバドス籍

スループ船二隻　ジャマイカ籍

船　二隻　スコットランドから

船　二隻　オランダから





　いまや海賊一味は強大な勢力にふくれ上った。彼らは奪った財宝を隠し、船を修理し、自分たちも住めるような退避場所を探すことにした。ほどなく、北緯二十四度、スペイン領フロリダの東に位置するバハマ諸島中最大のプロヴィデンス島へ行くことに決定した。

　この島は長さ二十八マイル幅十一マイルで、五百隻の船を収容できる港があった。港の前面には小さな島があり、港への出入口が二つになっていた。どちらの入口にも砂州があって、五百トン以上の船は通れなかった。以前バハマ諸島はイギリス領であったが、一七〇〇年、ハイチのペチグアヴァスからフランス人とスペイン人が侵入してプロヴィデンス島の砦と総督府を占領し、植民地を掠奪破壊したうえ黒人の半数を連れ去ったのだった。残りの住民たちは森の中に逃げ、後にカロライナに移住した。

　一七〇六年三月、上院は前国王陛下〔アン女王〕に、次のように請願した。





　戦時、フランスとスペインは二度にわたりバハマ諸島を掠奪蹂躙しました。当諸島には何らの統治形態も存在しておりません。プロヴィデンス島の港は防禦に適しております。もしこれら諸島が敵国の手に落ちたら、結果はわが国にとってまことに危険なものになりましょう。従って、上院は、わが王国の安全と、同諸島における貿易の安全と利益を守るため、同諸島を陛下の手に確保するのに必要と判断される措置を講ぜられんことを、ここに謹んで請願いたします。





　しかし、イギリスの海賊たちがプロヴィデンス島を彼らの共同の退避場所と定めるまでは、この請願に応ずるような措置は何も講ぜられなかった。そしてついに、厄介な連中を追い払うことが是非とも必要になったのである。同地の商人らから、海賊の行状と、今後も行なうと見られる悪事についての報告が政府に寄せられた。そこで国王陛下は次のような布告を発せられたのである。





ホワイトホール　一七一六年九月十五日



　西インド諸島におけるわが島嶼やプランテーションを統治する総督並びに同方面の多数の船長その他、船の乗組員からの苦情によれば、同海域の海賊はおびただしい数に達し、ジャマイカ周辺のみならず、北アメリカ大陸沿岸にまで出没するまでになり、何らかの有効な措置が講ぜられなければ、将来、大英帝国から同海域への貿易に重大な支障をきたすばかりでなく、現在、すでにそれが壊滅の危機に瀕しているということである。余は、枢密院に諮し問もんした結果、同海域の海賊鎮圧のため先ず以下の軍艦を配備することに決定した。





西インド諸島のイギリス植民地で海賊掃討の任に就き、あるいは今後就役する艦船



(1)就任地(2)級(3)艦名(4)備砲

(1)ジャマイカ(2)五(3)アドヴェンチャー(4)四十／現在同地

(1)〃(2)　(3)ダイヤモンド(4)四十／前月五日出帆

(1)　(2)　(3)ラドローキャッスル(4)四十／総督護送

(1)〃(2)　(3)スウィフト(4)　／現在同地

(1)〃(2)六(3)ウィンチルシー(4)四十／西インド諸島近海捜索後帰国、しかしジャマイカ滞在中は他艦に合流し、商船護衛および海賊防止に従事

(1)バルバドス(2)五(3)スカーボロ(4)三十／現在同地

(1)リーワード諸島(2)六(3)シーフォード(4)　／〃

(1)〃(2)　(3)トライオール(4)六／〃

(1)ヴァージニア(2)五(3)ショアーハム(4)三十／帰国命令

(1)〃(2)　(3)パール(4)四十／前月七日本国出帆。現在ケープス近海航行中

(1)ニューヨーク(2)六(3)フェニックス(4)三十／現在同地

(1)ニューイングランド(2)　(3)スクイレル(4)二十

(1)〃(2)　(3)ローズ(4)二十／帰国命令





　ジャマイカ、バルバドスおよびリーワード諸島の軍艦は時に合同し、海賊の掃討と商船の護衛にあたるものとする。ニューイングランド、ヴァージニアおよびニューヨークの軍艦も同様とする。





　これらのフリゲート艦のほか二隻の軍艦に対し、ロジャーズ船長＊３の指揮下に入るよう命令が出された。同船長は、以前ブリストル籍の二隻の船「デューク」号と「ダッチス」号を率いて荷を満載したアカプルコの船を捕らえ、世界一周の航海をしたことがある。彼は国王からプロヴィデンス島総督に任ぜられ、海賊鎮圧に必要なあらゆる手段を講ずる権限を与えられた、すべての用意が整ったので、ロジャーズは、国王による海賊赦免の布告を携えて出発した。これは海賊たちに一定期限内に正業に戻るよう命じたもので次のとおりである。





国王による海賊鎮圧の布告



　国王ジョージ

　余は、一七一五年六月二十四日以来、一部の大英帝国臣民が西インド諸島あるいはそれに隣接するわが国植民地の公海上で海賊行為を働き、同方面で貿易に従事する大英帝国その他の国の商人に多大の損害を与えているとの報告に接している。すでに余は当該海賊を鎮圧するに十分と判断される武力を配備したが、なお枢密院と協議し、当該海賊をより効果的に鎮圧すべく、本布告を発することが適切との判断に至った。すなわち、一七一八年九月五日以前に、自ら大英帝国あるいはアイルランドの国務大臣またはわが海外植民地の総督に投降した海賊はすべて、当人が同年一月五日までに犯した海賊行為に関しては無罪とし、赦免する。また、わが海軍の全提督、艦長、将校、植民地総督、植民地にある砦、要塞その他の指揮官、および民間、軍を問わずすべての船舶士官に対しては、本布告に従って投降することを拒否した海賊を拿捕することを命ずる。さらに、一七一八年九月六日以降、本布告に従って投降することを拒否しあるいは無視した海賊を発見または拿捕し、若しくは発見または拿捕に至らしめたものに対しては、裁判において当該海賊の有罪が確定した場合、以下の褒賞を支払う。すなわち、民間船舶の指揮官には各百ポンド、副官、船長、甲板長、船大工および砲手には各四十ポンド、下士官一人三十ポンド、その他水夫には各二十ポンドを支払うものとする。また、海賊船の乗組員であったものが、一七一八年九月六日以降、海賊船の指揮官を捕らえて身柄を当局に引き渡し、あるいはその身柄を拿捕し当局に引き渡すに至らしめ、裁判において当該指揮官の有罪を確定できた場合、当該乗組員に対しては、捕らえた海賊指揮官一人当り二百ポンドの褒賞を支払うものとする。ここに余は大蔵大臣に対し、上記に従って支払いを行なうことを命ずる。



於　ハンプトン・コート



一七一七年九月五日　現国王治世四年



ゴッド・セイヴ・ザ・キング





　この布告は、ロジャーズ総督が現地に到着する以前に、海賊たちに知れ渡った。彼らは獲物と赦免を同時に手に入れることができると考えた。ともかく彼らは、海に稼ぎに出ている仲間に使いを出し、総会を開くことにした。しかし総会では議論百出し、何も決定できなかった。あるものは、この島を守り、海賊共和国として、自分たちの条件により政府と交渉しようと主張した。またあるものは、島の防備を固めることには賛成しながら、めんどうな手続きは一切やめにして、獲物の賠償義務なしで赦免を受け入れ、分捕品の全部を持って近隣のイギリス植民地へ隠退しようと提案した。

　しかし、一味の提督であり、彼らに常に絶大な影響力を持っていたジェニングス船長は、同時にすぐれた判断力を持ち、出来心で海賊になる前は立派な社会的地位もあった人物であるが、布告の条件にこれ以上無駄な議論をするのはやめて、降伏することを決意した。このため一味の意見はすっかり分裂し、総会は為すことなく散会してしまった。ジェニングスと彼に従う百五十人以上の海賊たちはバーミューダの植民地総督のところに出頭し、赦免状を手にした。しかし彼らの大部分は、野良犬がごみ捨て場に集まるように、再び海賊稼業に戻ってしまったのである。

　当時、この島にはジェニングス以外にも次のような海賊の首領たちがいた。すなわち、ベンジャミン・ホーニゴールド、エドワード・ティーチ、ジョン・マーテル、ジェームズ・ファイフ、クリストファー・ウィンター、ニコラス・ブラウン、ポール・ウィリアムズ、チャールズ・ベラミー、オリヴァー・ラ・ブーシュ、メイジャー・ペナー、エドワード・イングランド、トマス・バージェス、トマス・コクライン、アール・サンプル、チャールズ・ヴェインその他二、三人である。ホーニゴールド、ウィリアム・バージェスおよびラ・ブーシュは後に難破した。ティーチとペナーは殺され、乗組員は捕らえられた。ジェームズ・ファイフは部下に殺された。マーテルの乗組員は全滅し、彼は無人島に置き去りにされた。コクライン、サンプル、そしてヴェインは絞首刑になった。ウィンターとブラウンはキューバのスペイン人に投降した。イングランドは現在もマダガスカル島に生存している。

　一七一八年五月か六月ごろ、二隻の軍艦を率いたロジャーズ船長が任地の総督府へ到着すると、すでに数人の海賊が待っていて、軍艦の到着と同時に、投降し、赦免を求めた。しかし、チャールズ・ヴェイン一味は例外だった。まえに話したように、プロヴィデンス島の港は、その前面にある小島のおかげで、二つの入口を持っている。二隻の軍艦はこの一方の入口から入港し、他方は開けたままにしておいた。これを見たヴェイン一味は、錨綱を解き放ち、繋留していた獲物の大型船に火を放つと、軍艦に砲撃を浴びせながら出港していったのである。

　総督府に着任するとロジャーズ船長は直ちに要塞を築き、防備を固めた。そしてもと海賊だった男たちおよそ四百人を組織し、最も信頼できるものを責任者に任じてメキシコ湾のスペイン人との貿易を開始した。この貿易航海に従事してバージェス船長は死に、ホーニゴールド船長は陸から遠く離れた岩礁で難破して死んだ。しかし彼の仲間五人は、カヌーで脱出し救出された。

　ロジャーズ船長は食糧を輸入するためスループ船を準備し、赦免された海賊の一人ジョン・オーガーを船長に任じた。この航海で彼らは二隻のスループ船に遭遇した。ジョンとその仲間は昔の稼業を忘れていたわけではなく、たちまち持ちまえの自由奔放さを発揮して、これらの船から五百ポンド相当の金品を奪った。二足のわらじを履はくことを総督が認めるとも思えず、一味はバハマ諸島におさらばして、ヒスパニオラ島へ向かった。しかし運悪く途中で激しい嵐に遭い、マストは折れ、バハマ諸島中のある無人島にまでおし戻されてしまった。そして船も失った。一味は上陸し、しばらく森の中をさ迷いながら生き延びていたが、たまたまロジャーズ船長が彼らの所業を聞き及び、武装スループ船をこの島に派遣した。スループ船の船長は、言葉巧みに一味全員を船に乗せ、プロヴィデンスに帰港した。捕らえられた海賊は十一人、そのうち十人はプロヴィデンスの法廷で裁かれて有罪となり、昔の仲間の見守る中で縛り首になった。彼らは絞首台の上から「俺たち十人が、固く誓い合った昔の友だちや仲間が黙って見守る中で、まるで犬のように吊されることがあろうなどとは考えたこともなかったぜ」と言って、自分たちを助けるよう、赦免された海賊たちを唆かした。彼らのひとりハンフリー・モリスは、昔の仲間を腰抜けの臆病者と毒づき、自分たちが不名誉な死に遭おうとしようとしているのを黙って助けもせずにいるのは、海賊の面汚しだと言った。しかしすべては無駄だった。彼らは、いまや死に旅立つ心の準備をするよう告げられ、これまでに犯した数々の悪事を懴悔するよう言われた。海賊の一人は「いいとも、心から後悔するぜ。俺がもっと悪事を重ねなかったことをな。それに俺たちを捕らえた奴らの喉をかき切ってやらなかったこともな。おめえらが俺たちと同じように吊されねえのが癪だぜ」と言った。「俺もだ」ともう一人が言った。さらにもう一人の男も同調した。こうして彼らはすっかり黙ってしまい、死に際に何の言葉も残さなかった。ただ一人、デニス・マカーティという男は、群衆を前に「友だちはよく俺のことを靴を履いたまま野垂れ死にするって言ってたぜ。嘘つき野郎奴」といって、絞首台の上から自分の靴を蹴落とした。こうして海賊たちは冒険の生涯を終えた。彼らは、いったん悪の道に身を持ちくずした男たちにかけた慈悲が裏目に出てしまった例といえよう。

　西インド諸島におけるスペイン人のやり方に対する私の批判が厳しすぎると思われても困るから、以下に一、二の例をできるだけ簡単に述べ、次いで、ジャマイカの総督とイギリス軍艦の将校からキューバのトリニダードの市長に宛てた手紙、そして市長からの返書をいくつか示しておこう。その後、私たちの時代に悪名をとどろかせた海賊たち一人ひとりと彼らの乗組員の話に移ることにしよう。

　一七二二年三月ごろ、キューバの沿岸貿易に従事していたイギリス軍艦ギャレー船「グレイハウンド」号のウォーロン艦長は、現地の商人を食事に招待した。彼らは、従者や友だちなども合わせ、全部で十八人ぐらいやってきたが、何やら示し合わせて八人がキャビンで食事をともにし、残りは甲板で待っていることにした。艦長が招待した商人らと食事をしているときに、甲板長が乗員の食事を知らせる笛を吹いた。乗組員たちは各々食器を持って給食をもらうと、甲板の下へ降りていった。残ったのは四、五人と待機しているスペイン人だけだった。彼らはたちまちのうちに甲板に残った乗組員を殺し、ハッチも閉めてしまった。キャビンにいた連中も、仲間に呼応してピストルを引き抜くと、艦長、船医そしてもう一人の乗員を射殺し、副官には重傷を負わせた。しかし副官は梯子を伝って窓から外に出て一命をとりとめた。こうしてスペイン人たちは一瞬のうちに船を奪ってしまったのである。しかしまったくの僥倖で、船が連行されてしまう前に、それを取り返すことができた。これより数日前、ウォーロン艦長は、別のスループ船に三十人を乗り組ませ、同じく貿易のために、風上へ向かわせていた。このことはスペイン人たちもよく知っていた。そして、彼らの蛮行が終ったとき、このスループ船が近づいてきたのである。これを見るやいなや、彼らは奪った船を棄て、自分たちのボートに乗って逃げ去ってしまった。このとき、彼らは正貨で約一万ポンドを奪ったということである。

　同じころ、イタリア人でマシュー・ルークという男が指揮するポルトリコの沿岸警備船がイギリス船四隻を拿捕し乗組員全員を殺した。この船は一七二二年五月、軍艦「ランセストン」号に拿捕され、ジャマイカに連行された。ここで、一味のうち七人を除く全員が、当然のことながら、絞首刑に処せられた。最初、軍艦はこの船にかかりあうつもりはなかったが、沿岸警備船の方が軍艦を商船と思い、無鉄砲に襲いかかったところ、とんでもない相手だったというのが真相らしい。後にこの船を捜索したところ、イギリス船の航海日誌を破いて作った薬やつ莢きようが発見された。私はこれはスノー船「クリーン」号のものだったのではないかと思っている。尋問の結果、一味はこの船を捕らえ乗員を殺したことがわかった。そして、彼らのひとりは処刑間際に、自ら二十人のイギリス人を手にかけたと白状した。





一七二二年一月二十六日、ジャマイカ植民地総督ニコラス・ローからキューバのトリニダード市長に宛てた手紙



　閣下

　最近、閣下から権限を与えられていると称し、その実、貴政府に保護された無法者の一団がわがイギリス国王陛下の臣民に頻々と掠奪、剽ひよう盗とうその他の敵対行為を働いております。私がイギリス軍艦「ハッピー」号のチェンバレン艦長にこの書簡を託したのは、これら閣下の配下にあるものどもが最近ジャマイカ在住のイギリス人に対して行なった多くの悪辣な掠奪に対する賠償を要求せんがためであります。特に閣下はわが国の裏切者ニコラス・ブラウンとクリストファー・ウィンターを匿かくまっておられます。このような行為は、国際法に違反するばかりではありません。友好関係にある相手国君主の臣民がこのような悪辣な行為を支持奨励するなどということは、何ぴとの眼にも異常とうつるに違いありません。私は、イギリスとスペイン両国の講和が成ったことでこのような無秩序はやがて収まるものと期待し、強行手段に訴えて賠償を得ることは長い間さしひかえてまいりました。しかしながら、この期待に反し、今やトリニダードの港はあらゆる国籍の無法者たちの巣窟となっているのであります。従って、私は、わが国王陛下の御名において、今後、閣下の配下にある無法者どもを本島沿岸で発見した場合は、直ちに、容赦なく絞首刑を命ずる所存でおりますので、御承知おき下さい。また、先にも申したブラウンとウィンター両名が、最近、本島北部から連れ去った黒人全員、および両国和平が成って以来拿捕され掠奪されたスループ船その他をチェンバレン艦長に返還し、また現在トリニダードに抑留されあるいは残留しているイギリス人を同艦長に引き渡していただくよう要求いたします。さらに、今後、閣下が名うての無法者たちに私掠船の任務を与えたり、武装して貴植民地の港を出帆することを許可したりされることのないよう期待いたします。さもなくば、当方が遭遇した連中はすべて海賊とみなし、それに相応しい処置をとる所存でおりますことを御承知おき下さい。



拝　具





「ハッピー」号副官・ジョーゼフ・ロウズよりトリニダード市長への手紙



　閣下

　私は、西インド諸島の全軍艦の司令官であるヴァーノン提督により当地に派遣されました。わが国王陛下の御名のもとに、講和条約締結以降も拿捕掠奪された船と貨物、およびジャマイカから連れ去られた黒人の返還、そして現在トリニダードに抑留され若しくは残留しているイギリス人全員、特にわが国の裏切者であり、海賊であり、全世界共通の敵であるニコラス・ブラウンとクリストファー・ウィンターの引き渡しを要求するためであります。同提督は、友好関係にある相手国の君主の臣民が、このような名うての無法者たちを保護することに驚いていると閣下に伝えるよう、私に命ぜられました。閣下の迅速なる応諾を期待いたします。



ジョーゼフ・ロウズ



トリニダード河沖合にて　一七二二年二月八日





トリニダード市長よりロウズ氏宛返書



　ロウズ艦長閣下

　貴殿の書簡にお答えいたします。当市にも港にも講和条約締結以降ジャマイカから連れ去った黒人やその沿岸で拿捕した船舶は存在しません。講和条約締結以降拿捕した船舶はすべて本島沿岸で無法な密貿易に従事していたものばかりです。貴殿の言われるイギリス人逃亡者は、現在本島でわが国王陛下の臣民となり、自らカトリックに帰依し、洗礼をうけております。しかし、万一彼らが悪人であると判明した場合、そして現在服従している義務を怠ったら、神が守りたもうわが国王陛下の法に従って処罰いたすでありましょう。貴殿が速やかに錨を揚げ、本港と本島沿岸から離れることを希望します。なぜなら、貴殿は、いかなる事情があろうとも本島で交易その他一切の行為を許可されていないのであり、当方もそれを許可する意志はないからです。貴殿に神の御加護のあらんことを。



謹　白



イエロニモ・デ・フエンテス

ベネット・アルフォンソ・デル・マンツァノ



トリニダード

一七二二年二月八日





ロウズ氏から市長宛返書



　閣下

　閣下がわが国王陛下の臣民の引き渡しを拒絶されたことは、この平時にあってまことに驚くべき行為であり、彼らを抑留することは国際法に違反いたします。前回の手紙で申し上げた事実を糾明するための私の一切の質問をはぐらかそうとする閣下の姑息な口実（閣下は何ら根拠のない言い逃れをされておられます）にもかかわらず、私は、報復拿捕を行なうまでこの港に碇泊する決意であることを申し上げねばなりません。無法者を保護することが閣下の御宗旨であるとわかりましたから、私は貴港に所属する船に遭遇したら、それらをすべて、スペイン国王の臣民とは見なさず、海賊として扱うでありましょう。



ジョーゼフ・ロウズ



一七二二年二月八日





市長よりロウズ氏宛返書



　ロウズ殿

　私が私の職務遂行に不自由することは決してないということを御承知下さい。当地の囚人たちは投獄されてはおらず、ハヴァナの総督のもとへ護送するため抑留しているだけです。貴殿が（御自分で言われるように）海を支配されるなら、私は陸を支配いたします。貴殿が、遭遇したスペイン船を海賊として扱われるというなら、私も、私が逮捕できるイギリス人をすべて同様に処遇するでありましょう。貴殿が礼を尽されるのであれば、私もそれに応ずるに吝やぶさかではありません。必要とあらば、私は武器をとるでありましょう。私はそれに適任のものたちを配下にもっております。貴殿が本沿岸で何をなさろうと御自由です。貴殿に神の御加護のあらんことを。



謹　白



トリニダード

一七二二年二月二十日





　アメリカ大陸から最近私が受け取った一七二四年六月九日付の知らせには次のようなことが記してある。

　同月五日、「ジョン・アンド・メアリー」号のジョーンズ船長はヴァージニア岬沖で、ドン・ベニトという男の指揮するスペインの沿岸警備船に遭遇した。警備船は、キューバ総督から私掠船の任務を受けていたということであり、スペイン人六十名、フランス人十八名、そしてイギリス人十八名が乗り組んでいた。スペイン人船長のほか、リチャード・ホーランドというイギリス人も船長であった。彼は、以前、軍艦「サフォーク」号に乗り組んでいたが、ナポリで脱走し、修道院に身を潜めた。その後、カモック提督のスペイン艦隊に加わり、地中海の海戦に従軍した。戦争が終ると、同郷（アイルランド）の仲間数人とともに、スペイン領西インド諸島に落ち着いた。この沿岸警備船は、ジョーンズ船長の船を捕らえると五日から八日まで拘留した。その間、警備船はボストン籍トマス・マウゼル船長の「プルーデント・ハンナ」号およびトプシャム籍セオドーア・ベアー船長の「ドルフィン」号を捕らえた。両船ともヴァージニアへ向かう途中だった。一味は、「プルーデント・ハンナ」号は拿捕した日に釈放したが「ドルフィン」号の方は掠奪し、船長以下乗組員全員をジョーンズ船長の船に移した。また一味はジョーンズ船長の船から食糧や必需品以外に三十六人の男奴隷、金粉、衣類、大型砲四門、小火器そして約四百ガロンのラム酒を奪った。これらの総額は千五百ポンドになると見積もられている。





＊１　ピナス船　二本マストの小型船。

＊２　アシエント　スペイン国王と他の列強との間に結ばれたアメリカ大陸スペイン植民地に対する奴隷供給契約。ユトレヒト講和条約（一七一三）でイギリス政府は毎年四千八百人の奴隷を三十年間にわたって供給することに同意した。

＊３　ウッズ・ロジャーズ　一七〇八年から一七一一年にかけて「デューク」号および「ダッチス」号を率いて世界一周の航海をした。途中、一七〇九年二月二日、ファン・フェルナンデス島で後年、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のモデルとされているアレキサンダー・セルカークを発見した。





１　エイヴリー船長と乗組員





　命知らずの冒険者たちのなかでもエイヴリーほど人びとの話題になったものは近来見当らない。彼は、現在メリヴェイス＊１が世を騒がせているように、世を騒がせ、人びとからは大立て者であるかのようにみられた。ヨーロッパでは、彼は拿捕したインド船から莫大な財宝を奪い、その船に乗っていた大ムガール帝国の王女を娶めとり、彼女との間に多くの子供をもうけて王侯のように暮らしていると思われていた。また要塞を築き、世界各地から集めた腕ききの命知らずたちを乗り組ませた強力な武装船隊を擁しているとも信じられていた。彼は、自らこれらの船の船長や要塞の指揮官を任命し、彼らからは君主と仰がれていたという。「サクセスフル・パイレート＊２」というエイヴリーを扱った戯曲が書かれ、その話がまことしやかに信じられた。そしてついに枢密院に対してまで、艦隊を編成して彼を捕らえよとか、また彼がこれ以上強大になり、ヨーロッパと東インド諸島との交易の妨げとなっては困るから、一味を赦免し、奪った財宝を持たせてイギリスに呼びよせたらどうかなどという提案がなされる始末であった。

　しかし、これらはすべて、軽率で奇談好みの一部の人びとによって尾ひれがつけられた、根も葉もない噂にすぎない。実際、人びとから王位への野望を抱いていると思われていたころ、彼は無一文の生活にあえいでいた。またマダガスカル島に巨万の財宝を所持していると思われていたころ、彼は餓死寸前の状態でイギリスにいたのである。

　読者は、この男はどうなったのか、多くの噂はあるけれど真相はどうなのか大いに好奇心をそそられるところであろう。そこで、私はなるべく手短に彼の話をしてみようと思う。

　エイヴリーはイングランド西部デヴォンシャー州プリムスの近郊に生まれた。船乗りとして育ち、商船の航海士として幾度か貿易航海に従事した。まだライスワイク講和条約〔一六九七年〕は締結されておらず、スペイン、イギリス、オランダその他がフランスに敵対して同盟していたころのことである。当時、西インド諸島マルティニク島のフランス人と南米ペルーに植民したスペイン人との間で密貿易が行なわれていた。しかし、スペインの法律は、平時であってもスペイン本国人以外のものにはこの方面での交易を許可していなかった。そして、囚人として連れてこられるもの以外は上陸も許可されなかった。スペイン人は沿岸警備船を常時ペルー沿岸に遊弋させ、領海五リーグ内に侵入する船はすべて拿捕するよう、それらに訓令していた。しかし、フランス人密貿易者たちは大胆になるばかりだった。一方、スペインの警備船は装備も貧弱で、密貿易船を発見してもそれを攻撃できないことがしばしばだった。そこでスペイン政府は、強力な外国船を二、三隻傭い、ペルー沿岸の警備にあたらせることにした。このことがブリストルにも伝わると、この土地の一部商人たちは早速、備砲三十門、乗組員百二十の、食糧や弾薬も十分積んだ船を二隻用意した。スペイン政府代理人との間に傭船契約が成立すると、二隻の船はラコルニャへ向け出港した。そこで訓令を受け、ニュースペインへ向かうスペイン人を数人乗船させる手はずだった。

　これらの船の一隻、ギブソン船長が指揮する「デューク」号に、エイヴリーが一等航海士として乗り組んでいたのである。彼は豪胆というより狡智に長けた男だった。彼は自分の船と僚船の乗組員中、最も大胆そうな連中にうまく取り入り、彼らの腹を探った。そして彼らが自分のたくらみに加担しそうだと見てとると、「インド沿岸で大儲けができるぜ」と言って、船の乗っ取りを唆した。一味はたちまち意気投合し、翌日夜十時にこの陰謀を実行することに決定した。

　ところで「デューク」号のギブソン船長はポンス酒に目がなく、上陸しているときは一杯やりながら時を過ごすのが常だった。しかしこの日、船長はいつものように上陸はしなかった。だが彼は船上でいつものように一杯やり、一味が仕事にかかる時間より前に寝てしまい、陰謀に関与していない乗組員たちも早々にハンモックに入ってしまったから、一味の計画に支障はなかった。甲板には陰謀の仲間だけが残ったが、これは乗組員の大半を占めた。示し合わせた時間になると、僚船「ダッチ」号から大型ボートが近づいてきた。エイヴリーがいつもの調子で声をかけると、ボートからは「あんたたちの飲んだくれ甲板長は船に居るのか」と聞いてきた。これが一味の合言葉だった。エイヴリーが「いるぞ」と答えると、ボートから十六人の荒くれが乗り込んできて、仲間に加わった。

　一味は、邪魔者のいないのを確かめると、ハッチをすべて閉め、仕事にとりかかった。錨をやり放さずゆっくり引き上げた。湾内には数隻の船が碇泊していたが、何の混乱もなく出帆した。それらのうちの一隻に四十門の砲を備えたオランダのフリゲート艦がいた。エイヴリーは同艦のミンヒール艦長に、一味に同行すれば莫大な報酬を支払うと持ちかけた。しかし彼はそのような扱いをされるのを好まなかったのであろう、陰謀に加わるようなことはせず一味を好きなように出港させたのだった。

　ギブソン船長は船の動揺や索具のふれ合う音で目を覚まし、呼び鈴を鳴らした。エイヴリーが二人の仲間をつれてキャビンへやってきた。船長は寝惚けまなこの怯えた様子で、「一体何事だ」と聞いた。「何でもありませんや」とエイヴリーは平然と答えた。船長は、海がしけて錨綱が切れ、船が沖に流されたのだろうと考え、「何が起こったのだ。船が流されているのか。天候はどうなんだ」と重ねて聞いた。「何でもありませんや。風向きもいいし天候も上々、俺たちは沖に出ているんですぜ」。「沖に出ているだと。一体どうしたというんだ」船長は驚いて聞きかえした。エイヴリーは答えて言った。「まあ、そう驚きなさんな。ともかく服を着なせえ。話はそれからですぜ。いいですか、よく聞きなせえよ。これからはこの俺様がこの船の船長で、この部屋は俺のものになったんですぜ。おめえさんはここから出ていかなくちゃいけねえ。俺はマダガスカルへ行ってひと稼ぎするつもりですがね。肝っ魂のある乗組員は皆俺の仲間になったんですぜ」。



ムガール皇帝の船を拿捕するエイヴリー船長と乗組員





* * *





　船長は我をとり戻すと、やっと事態がのみこめてきた。彼は前にも増して恐怖にかられた。エイヴリーはそれを見て、「何も恐がることはありませんぜ。おめえさんにその気があるなら俺たちの仲間に入れてやってもいいし、まじめに仕事をすればいずれ俺の副官の一人にとりたててもやろうじゃねえですか。それが嫌なら船のボートで陸に戻ってもいいんですぜ」と言った。船長はこれを聞いて安堵し、彼の申し入れを受けることにした。乗組員全員が集められ、船長とともに陸に戻ることを希望するものと、エイヴリーと行動を共にしようというものに分けられた。冒険の計画をすてて陸へ戻ることを希望したものは五、六人に過ぎなかった。船長一行は即刻ボートに乗り移り、一目散に陸へ向かった。

　エイヴリー一味は、マダガスカルに向け航海を続けた。途中獲物にした船があったかどうかはわからない。一味がマダガスカルの北東部のある湾に到着したとき、湾内には二隻のスループ船が碇泊していたが、一味の船を見ると錨綱を切って自分たちの船を岸に乗り上げ、全員森の中へ逃げ込んでしまった。これら二隻のスループ船は西インド諸島から逃げ出してきたものだった。彼らは「デューク」号を見て、てっきり自分たちを捕らえにきたフリゲート艦だと思った。そして、とてもかなわぬ相手と思い、身の安全を計ったのである。

　エイヴリーは、彼らの居場所の見当をつけ、手下を上陸させた。自分たちは友人であることを知らせ、お互いの安全のため仲間に加わるよう誘うつもりだった。スループ船の乗組員たちは武装して森の中に陣取り、船から追手が上陸してくるかどうか歩哨を立てて見張っていた。ところが、追手と思った船からは二、三人の男が武器も持たずにやってきただけだった。歩哨が「何者だ」と聞くと、「友だちだ」という答が返ってきた。そこで歩哨はエイヴリーの使者たちを仲間のところへ連れていった。使者一行はエイヴリーの言葉を伝えた。はじめ、スループ船の乗組員たちは、これは自分たちを騙して船に連れてゆくための計略ではないかと疑った。しかし使者たちが、エイヴリー船長自身と要求されただけの人数の乗組員が武器を持たず彼らと岸で会見しようと申し出るに及んで、彼らはやっと使者たちを信用した。双方はたちまち意気投合し、船の一味は上陸し、陸の一味は乗船して交歓した。

　スループ船の乗組員たちは新しい味方ができて大喜びであった。彼らの船は小型で、武装した船を襲うことなどとてもできず、これまでめぼしい獲物がなかったのに、今後は大物を狙うことも夢ではなくなったのである。エイヴリーも自分たち一味が増強され、大きな冒険ができるようになったことを喜んだ。もっとも大勢になっただけ獲物の分け前は少なくなる勘定であったが、後に述べるように、彼は奸計を用いて自分たちの分け前が減らないようにしたのである。

　彼らは今後の方針を相談した結果、ギャレー船と二隻のスループ船が一隊となって出港することになった。そこで直ちに岸に乗り上げたスループ船を海に戻すと、一味はアラビア沿岸に向け針路をとった。インダス河の近くに来たとき、マストの見張りが沖に帆影を発見した。追跡して近づいてみると、それは大型船で、帰路についている東インド会社の船のように思われた。しかしすぐそれがもっとすばらしい獲物だということがわかった。一味が発砲し、停船を命ずると、相手はマストにムガール帝国の旗を掲げ、応戦の構えを見せた。ところがエイヴリーは、遠距離から砲撃するばかりだったので、一部の乗組員は、彼が自分たちの思っていたような英雄ではないのではないかと疑いを持つようになった。一方、二隻のスループ船は時をみはからってこの船に接近し、一隻は船首に、他の一隻は船尾に接舷した。敏捷果敢に乗り移ってくるスループ船の荒くれどもを目の前にして、ムガール船はたちまち旗を降して投降した。この船はムガール皇帝自身の持ち船であった。船には宮廷の高宮が数名乗っており、その中に皇帝の娘も一人含まれていた。イスラム教徒にとって、生涯に一度はメッカへ詣でるのが義務とされており、船の人びとはマホメット廟への豪奢な貢物を持ってこの聖地巡礼へ行く途中だった。

　東洋の人びとは旅する際、最大の贅を尽すことで知られている。この一行も奴隷や従者を全員伴い、豪華な衣装、宝石、金銀の食器類、それに陸路の旅費のために多額のかねを所持していた。これら掠奪品がどのくらいの額になるのか見当もつかなかった。

　海賊一味は拿捕したムガール船に積まれたありとあらゆる財宝を自分たちの船に持ち去り、さらに掠奪をほしいままにして放免した。ムガール船はもはや航海を続けることもできず、そのまま本国へ引き返していった。この知らせがムガール皇帝に伝わり、海賊がイギリス人であることがわかると、皇帝は激昂した。そして強力な軍隊を送ってインド沿岸のイギリス人居住地を焼き打ちにし、あるいは刃にかけて彼らを撲滅してしまうことを命じた。イギリスにある東インド会社はこれを聞いて胆をつぶした。彼らは、海賊どもを取りおさえ、皇帝に引き渡すようできる限りの努力をすると約束し、ようやく皇帝の怒りを鎮しずめることができた。だが、この事件がインドやヨーロッパでまき起こした騒ぎがそもそもの原因となって、エイヴリーの偉大さにまつわる数々のロマンチックな物語が形成されることになったのである。

　大成功を収めた海賊一味は一路マダガスカルへ戻ることに決定した。彼らは、その地に掠奪した財宝を埋蔵して小さな砦を築き、常時数人の手のものを配備してそれを守らせ、原住民の攻撃に備えようと考えたのである。しかしエイヴリーはこの計画を抹殺し、無用なものとしてしまった。

　一味がマダガスカルへ針路を向けて間もなく、エイヴリーは各スループ船にボートを出して、船長と相談したいことがあるからこちらの船にくるようにと伝えた。船長らがやってくると、エイヴリーはお互いが事故に備え、共通の利益を計るため一つ提案がある、と切り出した。

「俺たちはしこたま財宝を手にしたが、それもどこか陸の安全な場所に保管できなけりゃなにもならねえ。心配なのは航海の途中で災難に遭うことだ。考えてもみねえ。もし海がしけて俺たちが離ればなれになったとする。そしておめえたちのスループ船のどっちかでも軍艦にとっつかまったとしようか。そうすれば、スループ船は拿捕されるか撃沈されるかどっちかだ。積んでる宝もそれまでってわけよ。海につきものの災難だってある。ところが俺の船はおめえたちのスループ船なんかよりずっと強力だからどんな相手とだって有利に戦える。仮に太刀打ちできないような強力な船に遭遇したとしても、十分な人手があるから、逆に乗っ取られるような心配はねえ。それに船足も速いから、スループ船じゃ逃げられねえようなときでも、俺の船なら逃げることができる。そこで相談だが、おめえたちの船の宝を俺の船に移して、各々の箱に封印をして保管しておいた方がよかろうと思うがどうだ。集合場所を決めておけば、離ればなれになっても心配はないだろう」。

　スループ船の船長らはこの提案を検討して、いかにも道理だと思い、一も二もなく同意した。彼らは、スループ船の一隻が災難に遭っても、他の一隻が助かれば、エイヴリーの提案を受け入れておいた方がお互いの利益になると判断したのである。提案は直ちに実行に移された。スループ船の財宝は箱につめられてエイヴリーの船に移され、それぞれの箱には封印がされた。その日と翌日は天候もよく、三隻は船隊を組んで進んだ。この間に、エイヴリーは自分の手下に、「俺たちの船には俺たちが一生安楽に暮らせるだけの財宝がある。どうだ、みんな。どこか俺たちのことが知られていない土地へ行って、何不自由なく暮らそうって気はねえか」ともちかけた。彼らはたちまちエイヴリーの言わんとすることを悟った。そして全員が新しい仲間であるスループ船乗組員の裏をかくことに賛成した。仲間を裏切ることにいささかでも後ろめたさを感じたものは一人もいなかったようである。その夜、彼らは、闇に乗じてスループ船とは別の針路をとり、夜が明けたときにはすでに僚船の姿はなかった。

　翌朝、スループ船の乗組員たちがエイヴリーに裏切られたと知って、どんな混乱に陥ったかは読者の想像におまかせしよう。それまで天候はよかったし、二隻は互いに決めた針路をとっていたのだから、これは故意に行なわれたに違いないのである。しかし彼らのことはひとまずおいて、いましばらくエイヴリー一味の跡を追ってみよう。

　エイヴリーと乗組員は今後の方針を相談し、アメリカへ行くことに意見がまとまった。アメリカを知っているものは一人もいなかったが、そこで戦利品を分配し、各々名前を変えて別々の場所に上陸し、土地を買って安楽に暮らそうと考えたのである。最初、一味は植民が始まったばかりのプロヴィデンス島に上陸した。そしてしばらくこの島に滞在したが、ニューイングランドへ行けば自分たちの船が大型で人目につき、群衆の中にはイギリスから来たものもいるであろうし、ラコルニャから逃げ出した船のことを知っているものもいるかも知れず、自分たちに疑いの目を向けるものもいるかも知れないと考え、この島で船を処分することにした。エイヴリーは、自分たちは私掠船として航海に出ていたが獲物もなく、船主から最も有利な条件で処分するように言われているのだと触れ込んだ。船にはすぐ買手がつき、エイヴリーはそのかねで一隻のスループ船を買い入れた。

　一味はこのスループ船に乗り組み、アメリカの幾つかの土地に寄港したが、彼らを疑うものはだれもいなかった。仲間の幾人かは、エイヴリーから戦利品の分け前を受け取ると、上陸してあちこちへ散っていった。ところでエイヴリーは、例のムガール船を襲った際、手下たちがよく価値もわからずに奪ってきたダイヤモンドの大部分を自分で隠匿していたのである。

　結局、エイヴリーはニューイングランドのボストンに着いた。彼はこの地に落ち着きたいと思っていたらしい。仲間の一部もここに上陸した。しかし、彼は、自分の財産の大部分はダイヤモンドだから、それをこの土地で売り捌けば海賊の疑いをかけられて捕らえられるに違いないと考え、ニューイングランドは自分にとって適当な土地ではないと思いなおした。そこで残った仲間にアイルランドへ行くことを提案し、彼らもそれに賛成した。

　一味は、セントジョージ海峡を避け、その北側を迂回する航路をとってアイルランド北部の港へ入港した。そこで船を処分すると、あるものはコークへ、またあるものはダブリンへと散っていった。そのうち十八人は、後に、ウィリアム王の赦免を得た。エイヴリーは、しばらくアイルランドに滞在していたが、足がつくことを恐れてダイヤの処分をためらっていた。そして考えた末、ブリストルに頼れそうな友人が二、三人いることを思い出すと、彼はイングランドへ渡る決心をした。デヴォンシャーに到着すると、友人の一人にバイドフォードで会いたいと手紙を出した。この男と連絡がとれると、エイヴリーは、自分の財産をどう処分したものか相談をもちかけた。相談の結果、裕福で社会的にも信用の厚い商人にダイヤを委ねるのが、その入手経路を疑われたりすることもなくいちばん安全な方法だということになった。この友人は、自分はこのような目的に適任の商人を幾人か知っているから、彼らにダイヤの処分を任せれば、誠意をもって売り捌いてくれるだろうと言った。エイヴリーは自分でその商人らに会うわけにもいかず、ほかに方法もないところから、その申し出を喜んで受け入れた。友人はブリストルへ行き、知人の商人たちに事の次第を話した。商人たちはバイドフォードに逗留しているエイヴリーに会いにやってきた。商人たちの信用と誠意を確かめた後、エイヴリーは自分の財産であるダイヤモンドと金製の皿類を彼らの手に委ねた。彼らは当座の用にといくばくかのかねをエイヴリーに与えると、去って行った。

　エイヴリーは名前を変え、バイドフォードに息を潜めて暮らした。だれも彼に注意を向けるものはなかった。それでも彼は一、二人の親類には居場所を教えたから、そのものは訪ねてきた。そうこうするうちに、僅かばかりのかねは底をついてしまった。しかし商人からは何の連絡もなかった。エイヴリーは再三手紙を出し、しつこく催促した。やっと彼らはかねを送ってきたが、それは借金さえ返済できない程度の額でしかなかった。実際、彼らが時折送ってくるかねだけでは、毎日のパンにさえこと欠くほどだったし、それでさえ、しつこく催促しなければ送ってもらえないような始末だった。このような生活に疲れ果てたエイヴリーは、とうとう痺れを切らし、自ら商人にかけあうためひそかにブリストルへ出かけた。しかしそこではかねを得るどころか、剣もほろろに拒絶された。エイヴリーが商人たちに自分の財産の清算を要求すると、彼らは、「貴様のことをばらしてしまうぞ」と逆に脅して彼を黙らせてしまった。エイヴリーが海賊であったように、この商人たちも立派な陸の海賊だったのである。

　この脅しを恐れたのか、あるいはだれか自分を知るものを見かけたのか、理由はわからないがエイヴリーは早々にアイルランドへ戻り、そこから商人たちに必死でかねを請求する手紙を出した。しかし、むろん何の甲斐もなかった。とうとう彼は乞食に身を落とした。極度の貧窮にたまりかね、いちかばちか、もう一度商人たちに会って話をつけることにした。彼は沿岸航路の船に乗り組んでプリムスへ渡り、そこから歩いてバイドフォードへ向かった。しかしバイドフォードに着いて数日を経ずして病を得、そこで死んだ。自分の棺ひつぎの代金さえも残さなかった。

　以上が、エイヴリーを途方もない偉大な人物に仕立てた根も葉もない話を排除して集めることのできた確かな事実である。彼は、彼に続くどの海賊よりも世を騒がせたが、その活躍はどの海賊より取るに足らなかったようである。

　さて、エイヴリーに裏切られた二隻のスループ船に話を戻そう。

　エイヴリーの船を見失ったときの彼らの怒りと混乱は前に話したとおりである。それでも彼らは、「エイヴリーの船は速いから夜中のうちに先に行ってしまっただけで、約束の集合場所で待っていてくれるさ」などと気安めを言いながら、航海を続けた。しかし約束の場所に到着してもエイヴリーの消息は聞かれなかった。望みは絶たれた。彼らは今後どうするかを自分たちで考えなければならない羽目になった。食糧もほとんど底をついていた。陸にあがれば米、魚、肉などは手に入るが、それらは塩漬けにしなければ海上で保存することは不可能だし、そうする手だてを持ちあわせていなかった。もはや航海を続けることもできず、上陸して落ち着くことを考えるしかなかった。彼らは船のものをすべて陸に揚げ、帆でテントを作り、露営することにした。弾薬は十分あったし、小火器類も多数持っていた。

　ところがこの土地で、彼らは、トマス・テュー船長の私掠スループ船の乗組員だった数名の同胞に会ったのである。ここで話はそれるが、テュー船長の乗組員たちがどうしてこの土地へきたのか話しておこう。





　ジョージ・デュー船長とトマス・テュー船長はアフリカのガンビア河まで直行し、そこで王立アフリカ会社の協力を得て、ゴリーにあるフランス商館を占領するという私掠船の任務をバーミューダの総督から受けていた。だが出港して数日後、彼らは激しい嵐に遭遇し、デュー船長は自分の船のマストを破損したばかりか、僚船の姿も見失ってしまった。そこで彼は修理のために港に引き返した。一方テューは命ぜられた航路を取らず、喜望峰に針路を向けた。さらに喜望峰を回り、紅海入口のバブ・エル・マンデブ海峡に向かった。ここで、彼は荷を満載しインドからアラビアへ向かう大型船に遭遇した。この船には乗組員以外に三百人の兵隊が乗っていた。しかしテュー一味は果敢にこれに乗り移り、たちまち手中に収めてしまった。この獲物によって、一味は一人三千ポンド近くの分け前にありついたという。拿捕した船の乗組員から、ほかにも荷を満載した船が五隻、同じ航路を通るということを知ったテューは、どんな強力な相手でも襲うつもりでいたが、操舵手その他に反対され、計画を断念した。この意見の食い違いが一味の間に不和をもたらし、仲間を解散することになった。そしてマダガスカルに上陸するのがよいということになった。この土地で掠奪品を楽しみながら愉快に暮らそうというつもりであった。

　テュー自身は、和解して、間もなく幾人かのものとともにロードアイランドへ渡った。

　スループ船の一味がテュー船長の乗組員に出合ったのは以上のような事情によるのである。





　マダガスカルの原住民はニグロの一種族である。彼らはギニアに住む種族と違い、髪は長く、肌は漆黒である。彼らは多数の小部族に分かれ、いつも戦争をしている。捕虜は奴隷になり、売るなり、殺すなり、自由に処分される。海賊一味がこの島に落ち着いた当初、部族の首長たちは彼らとの同盟を求めてきた。海賊たちは、ときにはこちらの部族と、またときには別の部族と同盟を結んだ。原住民たちは火器を持たず、またその使い方も知らなかったから、海賊と同盟を結んだ部族が常に勝者となった。このようにして、海賊たちは原住民にとって大変な脅威となり、戦争している部族の一方に二、三人でも海賊の姿が認められると他方は相手に一撃も加えずに逃げ出してしまう有様だった。

　海賊たちは恐れられ、権力を振うようになった。彼らは戦争の捕虜をすべて自分たちの奴隷にした。そして原住民の女たちのうちから、最もみめかたちのよいものを選んで妻にした。しかも一人二人ではなく、欲しいだけの女を自由にしたから、彼ら一人ひとりが、まるでコンスタンチノープルのスルタンのように、ハーレムを持っているようなものであった。彼らは奴隷に米を耕作させ、漁をさせ、狩をさせ、その他さまざまに使役した。このほかにも、強力な隣国の攻撃から身を守るため彼らの保護下に生活している原住民も大勢いた。このような連中は進んで彼らに忠誠を誓った。しばらくして、海賊たちは妻や奴隷、そして従者を連れ、離ればなれに住むようになった。権力や富が争いを引き起こすのは自然の成り行きであった。彼らも時に争い、攻撃をしかけあった。彼らの多くがこのような内紛で死んだ。しかし、彼らが再びお互いの安全のために結束しなければならないような事件がもち上がったのである。

　この突然やってきた強大な男たちは暴君のように原住民に権力をふるった。彼らは好き勝手に残虐なことをするようになった。少しでも気に喰わないことがあると、奴隷を木に縛りつけ、銃で心臓を撃ち抜くようなことが日常茶飯のこととして行なわれた。これが彼らの唯一の処罰の方法であった。罪の軽重などは無関係であった。たまりかねた原住民たちは、これら破壊者たちを一夜のうちに撲滅してしまおうと共謀した。海賊たちは離ればなれに住んでいたから、海賊の妻の一人が二十マイル近い距離を三時間で走り、彼らにこの陰謀を教えさえしなかったら、計画は容易に成功したであろう。しかし急を知らされた海賊たちはただちに結束し、原住民の一隊が近づいてきたときにはすでに完全に武装して敵の攻撃に備えていた。このため原住民はなすすべもなく退却せざるを得なかった。

　この事件を機に、海賊たちは極度に用心深くなった。この野蛮な連中が自分たちの身を守るためにとった策略と手段は注目に値する。

　彼らは、自分たちの威力も奇襲の前には無力で、どんなに勇敢なものでも寝込みを襲われれば一人の弱者に命を奪われることもあると気付いた。彼らが身の安全のために最初にしたのは、部族の間に争いを扇動し、自分たちは中立を守るということであった。戦争に負けた部族が次々と彼らのところへ保護を求めて逃れてきた。さもなければ全員が殺されるか奴隷にされる恐れがあったからである。海賊たちは味方を増し、利益によって原住民を結びつけた。また、戦争のないときは原住民同士の争いを唆した。どんな些細ないさかいや誤解でも相手に復讐するよう一方を挑発した。奇襲攻撃のやり方を教え、敵を殺すため、弾をこめたピストルや銃を貸したりもした。その結果、人を殺した原住民は復讐を恐れて、妻子や身内のものを引き連れ、海賊たちの保護を求めてきた。

　こうして逃れてきた原住民たちは、彼らの忠実な味方となった。海賊たちは皆からひどく恐れられるようになり、あえて彼らを攻撃しようとするものはいなくなってしまった。

　数年もすると、彼らはたいそうな大世帯にふくれあがった。そこで再び分散し、各々妻子や従者を引き連れて、以前より遠く離れ、広い土地に住むようになった。そのころには、彼ら一人ひとりが大家族をもつようになっていた。君主を特徴づけるものが権力と支配であるなら、これらならず者たちはどの点をとっても王たるにふさわしかった。その一方で、彼らは、暴君がそうであるように、恐怖心を持って暮らしていた。これは、彼らが住居を守るため払った用心深さによく表われている。彼らは、互いに模倣して各自の住居を防備した。それは住居というより砦というべきものであった。彼らは、樹木がうっそうと茂った水のほとりに居を定めた。周囲には、攻城梯子でもなければ登れそうにない高い塁壁や掘割をめぐらした。そこを越えると一本の小道が森の中へ続いていた。彼らはその森の中に小屋を建てて住んだ。小屋はうまく隠されていて、すぐ前までこなければ見つけることはできなかった。しかし最も巧妙なのは小屋へ通じる道であった。道幅はやっと人ひとり通れるぐらいしかなく、それが複雑に入り組んで完全な迷路になっていた。道は幾重にもめぐらされ、さらに幾つかの小路が横切っていた。だから、この道をよく知らないものは、幾時間も迷ったあげく小屋を発見することはできないのだった。さらに道の両側には、この土地に産する茨が上向きに埋め込んであった。しかも道は羊腸のごとく曲りくねっていたから、迷路の道筋をよく知ったものでも、夜小屋に忍び寄ろうとすれば、茨が刺さって前進を阻まれる仕掛けであった。

　こうして海賊たちは皆から恐れられ、自分たちも恐怖心を抱きながら暮らしていた。このような状態の彼らを発見したのはバタヴィアのオランダ人に売る奴隷を買い付けに、四十門の砲を備えた「デリシア」号でマダガスカルへやってきたウッズ・ロジャーズ船長だった。船長はたまたま、ここ七、八年船の入港したことのない港に立ち寄ったところ、数人の海賊を発見したのである。海賊たちが島で暮らし始めてから、すでに二十五年が過ぎていた。そして十一人の海賊が生存していた。彼らと原住民との間の子供たちが育ち、さらにその子供たちも育っていた。海賊たちは、ロジャーズの船を見ると、自分たちを捕らえにきた軍艦にちがいないと思い、砦に潜んだ。しかし船の乗組員が幾人か上陸してきて、敵意も見せず、ニグロの取り引きを申し入れてきたので安心し、砦から出てきた。彼らは多くの従者を引き連れ、まるで君主のようであった。実際、彼らは事実上原住民に君主として君臨していたというべきだろう。

　君主諸侯は、長年の島の生活で、衣服はすれ切れ、すっかりみすぼらしくなっていた。しかし彼らがぼろをまとっていたとは言えない。なぜなら、彼らは衣服と名のつくものをまったく持っていなかったからである。彼らは、なめしもせず、毛のついたままの獣の皮を身につけ、まるでライオンの毛皮をまとったヘラクレスといった風体であった。髪や髭はのび放題で、想像を絶する浅ましさであった。

　しかし彼らは、気の毒にも自分たちの従者を大勢売り払って、衣服、ナイフ、鋸、弾薬と弾丸、その他さまざまなものを手に入れて身をととのえた。船にもやってきて、あちこち珍しそうに眺め、乗組員たちとも親しくなって、陸に招いたりもした。のちに彼らが白状したところによると、夜中に船を奇襲して、乗っ取れるかどうか探っていたのだという。彼らはボートを持っていたし、手勢も十分あったから、甲板の見張りさえ手薄なら、乗っ取りは容易に成功するとふんでいた。しかしロジャーズ船長は彼らのたくらみにうすうす気付いていたらしく、甲板の見張りを厳重にしたので、計画は無に帰した。海賊たちは、上陸してきた幾人かの乗組員をまるめ込んで、彼らが夜の見張りについているときに陸に合図して仲間を呼び寄せ、船長をとりおさえ、またハッチを閉めて残りの乗組員を船倉に閉じ込め、船を乗っ取ろうと計画していた。

「デリシア号」なら相手がどんな船でも獲物にできるから、首尾よくいったら一緒に海賊を働こうと、乗組員たちにもちかけたのである。しかし、船長は海賊と一部の乗組員が次第に親しさを増してゆくのを見て、何かよからぬたくらみをしているのではないかと考えた。そこで彼は、海賊たちと乗員を引き離し、互いに話ができないようにした。奴隷の取り引きのためにボートを岸に出すときも、士官一人を上陸させ、乗組員はボートに残すようにした。

　ついに何の手出しもできぬと悟った海賊たちは、船の出帆直前に、自分たちの計画を打ち明けた。船長は、発見したときと同じくぼろをまとい、王侯のごとくかしずかれている彼らを残して去っていった。ただ彼らの臣下の多くは奴隷として売られ、その数はずっと減ってしまっていた。しかし、野心こそが男を駆り立てる情熱であるなら、彼らはまことに幸福だった。これら偉大な君主諸侯の一人は、以前テームズ河の船頭であった。彼は人を殺して西インド諸島へ逃れ、スループ船の乗組員となったのである。残りは全員水夫だった。読み書きのできるものは一人もいなかった。それでも、彼らの国務大臣たちは、彼らほどにも学問はなかったのである。マダガスカルの王者たちの話はこれですべてである。彼らのうちの幾人かは今でも生存し原住民に君臨していることだろう。





＊１　メリヴェイス　アフガニスタンの族長。一七二三年、ペルシャの支配に反抗し、その軍隊を打ち負かした。

＊２　サクセスフル・パイレート　"The Successful Pirate" チャールズ・ジョンソンによる戯曲。初演一七一二年。作者は本書の著者とは別人。





２　マーテル船長と乗組員





　ここで、ユトレヒト講和条約〔一七一三〕以降の海賊についてすこしばかり触れておこう。海賊が戦時に発生することはない。放浪を好み、冒険心のある男たちは私掠船に職を求め、海賊になる機会がないからである。ちょうど、ロンドンのごろつき連中がある程度の勢力になると、当局が民兵を徴募し、その結果彼らが制圧されるのと似ている。名うての無法者が軍隊の秩序に組み込まれると、一変して恭順で真面目な法の番人になるわけである。同様に、法律によって海賊たちに何らかの権限を与えてやれば、その数が減るばかりか、残った海賊を彼らに捕らえさせることもできる。諺にも、蛇の道はへびというように、彼らこそそのような仕事に適任なのである。

　そのためには、捕らえた海賊船の獲物はすべて捕らえたものに与えるのが、唯一の奨励策である。彼らは、獲物や分捕品があるなら、それが味方のものであろうと敵のものであろうと喜んで飛びつくが、実入りのない捕り物は好まないという手合いだからである。

　このようにして、戦時に西インド諸島で多くの私掠船と乗組員たちが傭役されたことが、平時の海賊の大量発生の一因となっている。だからといって、私掠船の特許状を発行するわがアメリカの植民地総督や、いわんや国王が非難されるべきものではない。私掠船の特許状を発行するのは十分な理由と必要あってのことなのである。しかし、戦時、獲物と富を求めて私掠船に職を見出した多数の懶惰な男たちは、富を得たら得たですぐさまそれを湯水のごとく使い果してしまうのだが、戦争が終ればもはや彼らの親しんだ仕事はなくなり、いとも容易に海賊を働くようになるというのも事実である。海賊行為は政府の特許状のない私掠行為と同じだから、彼らは一方が合理的で他方が非合法というような区別をしたりはしないのである。

　さて、マーテル船長の話に移ろう。私は、この海賊のそもそもの始めを調べたことはないが、先の戦争〔スペイン継承戦争〕中、ジャマイカ島に所属していた私掠船に乗り組んでいたのだと思う。彼の冒険は、彼が次第に勢力を増し、侮り難い海賊になりつつある時期に終りを告げた。従って、彼が活躍した期間は短く、その話も短い。

　一七一六年九月、マーテルは備砲八門、乗組員八十人の海賊スループ船の船長として、ジャマイカからキューバ沖を航海していた。この航海で、一味はサンダース船長のギャレー船「バークレー」号を捕らえ、現金一千ポンドを奪った。さらにスループ船「キング・ソロモン」号に遭遇すると現金、食糧、その他かなりの額の積荷を掠奪した。

　その後一味はキューバのカバーニャ港へ向かったが、途中、二隻のスループ船を拿捕し掠奪した。キューバを出港すると砲二十門を備えた立派なギャレー船に遭遇した。ウィルソン船長が指揮する「ジョン・アンド・マーサ」号だった。一味は海賊の黒旗を掲げてこれを襲い、船ごと奪ってしまった。そしてこれまでにも幾度かやったように、奪った船の乗組員の一部を上陸させ、残りは留置して仲間の増強を図った。マーテル船長は、ウィルソン船長に「この船は甲板を一段下げれば海賊船にぴったりだし、積荷のロッグウッドと砂糖は俺がどこかで売り捌いてやると荷主に伝えておけ」と言った。

　マーテルは奪った船に二十二門の砲を据え付け、百人を乗り組ませた。一方、スループ船には二十五人の乗組員を配備した。こうして、一味はリーワード諸島へ向かった。この航海で一味は大成功を収めた。スループ船一隻とブリガンティーン船一隻を捕らえた後、頑丈な作りの船を発見して追跡した。この船は一味が海賊旗を掲げて接近するとたちまち降伏した。ニューファンドランドへ向かっていた備砲二十門の「ドルフィン」号だった。マーテルは乗組員を捕虜にし、船を連行した。

　十二月中旬、一味はジャマイカからの帰途についているギャレー船「ケント」号を捕らえ、食糧を奪った。このため「ケント」号のロートン船長はいったんジャマイカへ戻って補給しなくてはならなかった。一味はその後バルバドス籍の小型船とスループ船に遭遇すると食糧を奪い、乗組員のうち自ら仲間になりたがったものを一味に加えた後、これらを釈放した。次に一味の餌食になったのはロンドン籍のギャレー船「グレイハウンド」号だった。この船は、エヴァンズ船長が指揮し、ギニアからジャマイカへ向け航行中だった。マーテルは積荷の金粉、象牙、奴隷四十人をすべて奪ってから船を自由にした。

　さて、海賊一味は、そろそろ港へ入って航海の疲れを癒し、船を修理して、その間に分捕品を処分する機会を待とうということになった。サンタクルス島が目的地に選ばれた。北緯十八度三十分、ポルトリコの南東に位置する長さ十マイル、幅二マイルの、フランス領の小さな島である。彼らはこの島にしばらく密かに滞在し、次の悪事に備えることができるだろうと考えたのである。島に向かう途中、スループ船を一隻拿捕し連行した。一七一七年初め、目差す港に着いた。備砲二十門の船一隻、同じく八門のスループ船、そして拿捕した三隻の船、すなわち備砲二十門の船、同じく四門のスループ船、そして最近捕らえたスループ船から成る小艦隊であった。彼らは島の北西にある小さな湾に入り、湾内にある小島によってできた二つの水路に船を入れた。水深は最も深いところで十六フィート、浅いところで十三、四フィート、岩と砂ばかりの入江で、風と波から守られ、外敵を防ぐのに恰好の場所だった。

　船をすべて水路に入れ終ると先ず防備を固めなければならなかった。彼らは島に四門の砲を備えた砲塁を築いた。泊地の北端には二門の砲を据え付けた。さらに水路の入口には備砲八門のスループ船を繋留して、外から船が入ってこられないようにした。これらの作業が終ると自分たちの船を修理するため索具を外し、積荷を陸揚げした。ここで話はしばらく一味から離れる。

　一七一六年十一月、リーワード諸島の総指揮官ハミルトン提督は、当時バルバドス島に在った備砲三十門乗組員百四十人の軍艦「スカーボロ」号のヒューム艦長に、スループ船で緊急の使いを出し、それぞれ十二門の砲を備えた二隻の海賊船が数隻の船を掠奪し、当植民地を悩ませていると伝えた。「スカーボロ」号はすでに二十人の乗組員を失い、いままた四十人近くの病人を抱え、外洋へ乗り出せるような状態ではなかった。しかしヒューム艦長は病気の乗組員を下艦させた後、新しい乗組員を補充するため他の島々へ向かった。そしてアンチガ島で二十人、ネヴィス島で十人、そしてセントクリストファー島で十人の人手を集めると、アングイラ島へ船を進めた。ここで艦長はすこし以前、海賊船とおぼしき二隻のスループ船がヴァージン諸島の一つスパニッシュタウン島に碇泊していたという情報を得た。翌日、「スカーボロ」号はスパニッシュタウン島へ着いたが、二隻のスループ船はクリスマスのころまで島に滞在していたということがわかっただけであった。（ヒューム艦長が同地へ着いたのは、一月十五日であった。）

　ヒューム艦長は海賊に関する情報を得ることができなかったため、翌日、バルバドス島へ戻ることにした。しかし偶然にも、その夜サンタクルス島からやってきた小舟が、二十二乃ない至し二十四門の砲を備えた海賊船が数隻の船を伴って島の北西部に入っていったのを見たという情報をもたらした。「スカーボロ」号は直ちに錨を揚げ、翌朝には海賊たちとその獲物が見える位置に到着した。艦長は船を一味のところへ乗り入れようとしたが操舵手がこれを拒んだ。その間、海賊たちは海岸から激しい砲撃を浴せてきた。ついに「スカーボロ」号は水路近くの砂州に並行して投錨し、海賊船と一味の砲塁に砲撃を開始した。砲撃は数時間にも及んだ。午後四時ごろ、水路を守っていたスループ船が撃沈された。そこで軍艦は海賊が島の背後に繋留していた備砲二十二門の船に砲火を集中した。翌日、すなわち一月十八日夜、砲火は収まったが、砂州に衝突することを恐れたヒューム艦長は船を沖に出し、そこで一、二日海賊たちを封鎖していた。二十日夕刻、軍艦が沖に去ったのを見た一味は島から脱出の好機とばかり、船を水路から引き出そうとした。しかし十二時、海賊船は座礁し、しかも「スカーボロ」号が再び近づいてくるのを見て一味は脱出の望みがなくなり、大混乱に陥った。彼らは船を見棄て、火を放った。船には二十人の黒人が乗っていたが、全員焼け死んだ。一味のうち十九人は小型スループ船で脱出した。船長と残りの乗組員は二十人の黒人を連れて、森の中へ逃げ込んだ。われわれは彼らのその後の消息を聞かないが、恐らくは森の中で飢えて死んだのだろう。ヒューム艦長は、捕虜を残っていた彼らの船およびスループ船ともども解放した。そして先に話した二隻の海賊船を追跡すべく島を後にしたのである。





エヴアンズ船長から著者へ宛てた書簡



　ジョンソン船長閣下

　私は閣下が現在執筆中と聞き及んでおります「海賊列伝」第二巻に寄与できるような材料は何ら持ち合わせておりません。しかし閣下は真実を貴ばれる方と存じますので、僭越とは存じますが、御著作第一巻の誤ご謬びゆうを訂正させていただきたく存ずる次第です。マーテル船長の章で閣下は、当時私が指揮をしておりましたロンドン籍の「グレイハウンド」号がこの海賊の手に落ち、金粉、象牙および奴隷四十人を掠奪された、と記されております。この記述の後半は事実です。ただし象牙については一本も失わなかったと記憶しております。しかし前半は、閣下が思い違いをされております。マーテルは、そのあまりの暴虐ぶりのため仲間に見放されたのです。これは私が一味から直接聞いたことです。離反した連中は、マーテルと彼に従う仲間にスループ船を与えて、彼らを放逐しました。そして自分たちはもっとふさわしい船長を選びました。新しい船長は、名をケネディーといい、キューバ生まれのアイルランド系スペイン人で漁師でした。私が海賊船に移されると、前の日に拿捕された「ウェイマウス」号のサンダース船長が話しかけてきました。彼は私の災難に同情してくれました。最初、私はこの男が海賊の親玉かと思ったのですが、すぐ間違いに気付きました。彼が船尾にいた海賊の船長のところへ連れていってくれたのです。海賊船長は、私に「ようこそ」と言い、私のために、ワインで乾杯しました。幾人かの乗組員が私に、前の船長につかまらなくておまえは幸運だった、と言いました。あるとき一味はマデイラワインを積んだ船を追ったところ、この船は迫撃砲で抵抗したのでマーテルはひどく憤慨し乗組員全員を血祭りにあげてしまったというのです。

　さて、私がどうして海賊に捕らえられたか詳しくお話ししましょう。前にも申しましたように、私はギャレー船「グレイハウンド」号を指揮しておりました。船は二百五十人の奴隷を乗せて、ギニアからジャマイカへ向かっておりました。荷主はビグネル氏ほか数名、荷受人はフィーク氏とオールドクロフト氏でした。一七一六年十月十六日未明、船はモナ島の南々西約十リーグの地点を航行していましたが、二等航海士が私のところへやって来て、われわれの船に接舷しようとしている船がある、と知らせてきました。私たちは西からやや南へ転舵しました。一方海賊船は舳先を南東へ向けていました。相手があまりにも接近してきたので、私たちはぎりぎりでそれをかわし、「もっと風上に詰めろ。衝突するぞ」とどなってやりました。しかし何の返事もなく、甲板には舵手とほかに二人いるだけで、まったく人影がありません。「グレイハウンド」号は相手を避け、いつものようにできるだけ多くの帆を張って、先を急ぎました。しかし海賊船は私たちの航跡につくや全部の帆をいっぱいに張り、たちまち私たちの船に近づいてきました。（彼らの船は船底の掃除がしてありましたが、私たちの船には海草や牡か蛎きがびっしり付いていたのです。）相手は、斜桁帆スプリットスルを巻き上げると発砲してきました。同時に船首旗、船旗そして旒旗を掲げました。船旗には、剣を手にした男と、その前に砂時計と髑髏そして大腿骨が描かれ、船首旗と旒旗には髑髏と交差した二本の大腿骨だけが描かれていました。私は縮帆する必要はないと考えていましたが、そのとき海賊の二発目の砲弾が大檣中檣帆メイントプスルを貫通しました。私は士官たちと相談しました。われわれには防戦するだけの力が無いから、縮帆して海賊の言うことを聞く以外方法はないだろうというのが彼らの意見でした。私は彼らの意見を入れました。

　一味は私に、彼らの船に乗り移るように命じました。私が命令に従って海賊船へ行くと、彼らは丁重な態度で「どこから来たのか」とか「どこへ行くのか」等々、ありきたりの質問をしました。私の二等航海士と乗組員の一部、そして奴隷のうち最も強健そうなもの四十人が、彼らの船に連行されました。海賊らは女奴隷たちを慰みものにし、甲板につないでおいた奴隷の鎖を全部切ってしまいました。海賊の船長は私に、金はないのかと尋ねました。私は「持っていない」と言いました。実際、金はせいぜい百オンスほどしかなかったのです。これは、私が海賊船へ乗り移る前に、乗員の大工が船室の天井裏に隠しておいてくれました。船長は、アフリカ海岸から来たのに金を持っていないのはおかしい、と言いました。私は、かなりの金を持っていたのだけれど別の場所で手離してしまったのだ、航海日誌を見ればわかることだ、と答えました。金に関してはこれ以上の問答はありませんでした。しばらくして、私と私の航海士は大船室に連れて行かれました。そこには海賊の評議員たちが座していました。突然、引金を起こしたピストルが私たちの胸元につきつけられました。そして、「金の隠し場所を白状しないと命はないぞ」と脅されました。私は、「金は持っていない。航海日誌を調べてほしい」と言いました。私の航海士は、自分はアフリカ海岸で船長が金の取り引きをしたかどうか知らないからわからない、と答えました。彼は、私がアフリカ海岸で大量の金を積んだのを見ていますが、別の場所で大量に降ろしているのも見て知っていたのです。そこで私たちは、引き下ってよいと言われました。しかし、私は海賊たちが、私の指の間に火の付いたマッチを挟んで拷問するつもりでいるということを聞いて、百オンスの金を惜しんで手が使えなくなってしまうのではあまりにも馬鹿げていると考え、船長に直接話したいと希望しました。私は彼に、金を持っていること、そしてその隠し場所を教えました。彼はすぐ私の船大工と海賊六人をボートに乗せ「グレイハウンド」号に向かわせました。海賊たちは、一刻も早く金を見たさに、大工の背を剣で突いてせかしました。このことがあってからしばらくして、海賊の砲手をしているタフィアという男が私の寝室――私は船倉に寝室を与えられていました――へやってきて、いきなり私の胸元でピストルの引金を引きました。ピストルはカチンと鳴っただけで不発でしたが、すぐ後、この男は甲板に出てズドンと一発発射したのです。また別の日、私が後甲板にいると、この男がやってきて、私が船長に金の隠し場所を教えたことを難詰し、乗組員全員が金に対する権利を平等に持っているはずだと言い、船長の面前で私をカトラスで殴り倒しました。彼がカトラスのひらの部分で殴ったのが偶然だったのか、それともわざとしたのかわかりませんが、その一撃で私はしばらく気を失ってしまいました。

　ケネディー船長は、海賊を稼業とする連中の中にあっては人情のある男でした。彼は、部下の非行に憤慨し、捕虜に蛮行を働くような仲間とは航海しないと宣言して、一人ボートに乗ると船から離れていきました。しかし一味が説得し、今後このようなことは絶対しないと約束したので、再び船に戻ってきたのです。私たちが捕らえられた夜、海賊はサオナ島に碇泊しました。私たちはそこに二十日まで拘留され、それから「ウェイマウス」号のサンダース船長ともども釈放されたのです。「ウェイマウス」号は、ジャマイカ向けの魚や木材を積んでいました。私たちは二十五日朝、ジャマイカのポートロイヤルに到着し、投錨しました。

　海賊は、私を捕らえるすこし以前にアメリカ本土へ向かっていたと思われる二隻のオランダ密貿易船と遭遇して荒っぽい歓待を受け、退散したのです。「ウェイマウス」号には二人の女性客が乗船していました。彼女たちがどんな毎日を過ごしたかは私が申し上げる必要もありません。しかし彼女たちがその後、一、二回航海していることから考えて、狼ろう藉ぜきされた事実はないのではないかと想像します。

　憂うつな状態におかれてはいましたが、海賊たちが「グレイハウンド」号へ行って戻ってきたときの姿を思い出すと、思わず笑いがこみあげてきます。連中は私のキャビンをひっかき回し、白粉の皮袋とパフを見つけると、頭のてっぺんから足のつま先まで白粉をぬりたくりました。そして帽子を手に持ち、しゃれ者を気取って甲板をのし歩いたのです。これがあまりにもぶざまで、つい笑い出してしまいました。

　私が釈放されて「グレイハウンド」号へ戻ってみると、書類から何から一切合財がめちゃめちゃになっていました。しかし、連中が、私の船の奴隷の鎖を全部切ってしまったことに比べればとるに足らないことでした。私は、海賊船に拘置されていたときより大きな恐怖を覚えました。海賊船にいるときは、船長が人情家で私たちを守ってくれましたが、奴隷が叛乱を起こしたら助命など望むべくもありません。しかも、一味は私たちから一切の武器を奪う一方、奴隷にはナイフを与えて武装させていたので、いったん事が起これば彼らと戦うことさえできません。ニグロの一人などは、無礼にも私の部下の一人のえり首をつかんでゆさぶったりする始末でした。私は乗組員全員を後甲板に集め、われわれの運命はわれわれの決意一つにかかっていると訴えました。私たちは手に手に棍棒を持って、奴隷たちを船倉に追い込んでから一人ひとり呼び出しては鎖をかけ、海賊が彼らに与えたナイフを取り上げました。こうして無事に港に着くことができたのです。この話がいささかでも閣下のお役に立てば、私の目的は達せられたわけです。閣下がもし「海賊列伝」の第三巻を考えておられるなら、私の話が呼び水となって、海賊に捕らえられた経験を持つ他の人びとからも、体験談が閣下のもとに寄せられることを願っております。



ジェイ・エヴァンズ



一七二八年二月二日





追記

　私の部下四名が海賊の仲間に加わりましたが、そのうち二名の名前しか思い出せません。彼らは、ブライアン・ライリーとジョン・ハモンドです。





３　黒髭ティーチ





　エドワード・ティーチはブリストルに生まれた。

　先の戦争〔スペイン継承戦争〕ではジャマイカから私掠船に乗り組んで出帆し、しばしば持ちまえの豪勇で人並外れた働きをした。しかし、一七一六年末、ベンジャミン・ホーニゴールド船長から、拿捕したスループ船を一任されるまでは、彼は采配をふるう地位についたことはなかった。それ以降も、ホーニゴールド船長が政府に投降するまでの間、ティーチは船長と船隊を組んで行動した。

　一七一七年春、ティーチとホーニゴールドはプロヴィデンス島からアメリカ本土へ向かった。途中、ハヴァナからきたスループ船から小麦粉百二十バレル、ターバー船長が指揮するバーミューダのスループ船からワイン数ガロン、そしてマデイラからサウスカロライナへ向かっていた船からも大量の積荷を掠奪した。

　ヴァージニア沿岸で船の修理清掃をしてから、一味は西インド諸島へ引き返した。そして北緯二十四度の海上でマルティニク島へ向かうフランスのギニア航路の大型船を拿捕した。ティーチはホーニゴールドの同意を得て、この船に船長として乗り移った。ホーニゴールドはプロヴィデンスへ戻り、植民地総督ロジャーズ船長が到着すると、国王の海賊赦免の布告に従い、投降した。

　ティーチは奪ったフランス船に四十門の砲を備え、「アン女王の復讐」号と命名した。セントヴィンセント島近海を航行中、クリストファー・テイラー船長が指揮する大型船「グレート・アレン」号を捕らえた。海賊一味は目ぼしいものを掠奪した後、乗組員全員を上陸させ、この船に火を放った。

　数日後、ティーチは砲三十門を備えた軍艦「スカーボロ」号に遭遇した。しかし数時間にわたる砲戦の後、海賊の方が優勢であることがわかると軍艦は交戦をあきらめ、バルバドス島の基地へ引き上げていった。ティーチはスペイン領アメリカへ向かった。

　航海の途中、ティーチ一味は砲十門を備えた海賊スループ船に遭遇した。この船の船長はボネット少佐といい、最近までバルバドス島に住み財産もある名士だった。ティーチはボネットを仲間に加えたが、二、三日行動をともにすると、ボネットが海の生活にまったく無知なことがわかった。そこでティーチはボネットの乗組員の同意を得、手下のリチャーズという男にスループ船の指揮をとらせ、少佐は自分の船に乗せた。ティーチはこう言った。「おめえさんは船の指揮や仕事の気苦労に慣れていねえようだから、船長の仕事はやめて俺の船で気楽にやっていた方がいいだろう。俺の船にいりゃ、しなきゃならねえ仕事はねえし、気の向くまま好きなようにやってりゃいいってことよ」。

　一味はホンジュラス湾の沖十リーグに位置するターニフ島で新鮮な水を補給した。ここにしばらく碇泊している間に、一隻のスループ船が入ってくるのが見えた。スループ船「リヴェンジ」号のリチャーズはすぐさま錨綱を解き放ち、襲撃に向かった。しかしリチャーズの掲げる黒い海賊旗を認めると、この船は自ら帆を降してティーチの船のともに近づいてきた。船はジャマイカからやってきた「アドヴェンチャー」号といい、船長の名はダヴィッド・ハリオットといった。ティーチはスループ船の船長と乗組員を自分の船に移し、「アドヴェンチャー」号には手下の航海士イズラエル・ハンズその他数名を乗り組ませて、海賊船に仕立てた。

　四月九日、一味は一週間滞在したターニフ島を後にしてホンジュラス湾へ向かった。ホンジュラス湾には一隻の船と四隻のスループ船が碇泊していた。四隻のスループ船のうち三隻はジャマイカのジョナサン・バーナード氏の持ち船で、もう一隻はジェームズ船長のものだった。スループでない船はボストン籍でワイヤー船長の指揮する「プロテスタント・シーザー」号だった。ティーチが海賊旗を掲げて発砲すると、ワイヤー船長以下乗組員全員が船を捨て、ボートで陸へ逃げ去ってしまった。ティーチの操舵手と乗組員八人がワイヤー船長の船を乗っ取り、リチャーズが四隻のスループ船を分捕った。そして船主に対する腹いせに、スループ船の一隻を焼き払ってしまった。一味は「プロテスタント・シーザー」号も、掠奪の後、焼き払ってしまった。この船がボストン籍で、その地でこれまでに幾人もの海賊が処刑されたからである。海賊は残った三隻のスループ船を釈放した。

　この掠奪行為の後、一味はターキル島を回って、ジャマイカ西方約三十リーグの地点にある小島、グランドケイマン島へ向かった。そこで小型漁船を拿捕した後ハヴァナに寄港し、バハマ諸島へ向かった。そこから一味はカロライナへ船を進めた。途中、一隻のブリガンティーン船と二隻のスループ船を獲物にした。チャールストンの砂州沖に五、六日碇泊した。その間、ロバート・クラーク船長が指揮し、イングランドへ向かう数名の船客を乗せたロンドン航路の船が港から出てきたところを拿捕した。翌日も、チャールストン港から出てくる船一隻と、港へ入ろうとした二隻のピンク船を捕らえた。さらに十四人の奴隷を乗せたブリガンティーン船を捕らえた。掠奪はすべてこのカロライナの街チャールストンの目前で行なわれた。この土地はつい先ごろも、名うての海賊ヴェインに荒らされたばかりであった。このため、カロライナ全地域が恐慌に陥った。市民は海賊に対抗するすべもなく、いたずらに絶望的になっていた。港内には八隻の船が出港を待つばかりの状態だったが、海賊の手を逃れて航路につくことは不可能といってよく、危険を冒して出港しようとするものは一隻もなかった。入港しようとする船も同じ窮地に陥った。この地域の貿易は完全に杜絶してしまった。この地にとってさらに不幸だったのは、長期にわたり多額の費用を要した原住民との戦争がやっと終ったばかりだったことである。

　ティーチは拿捕したすべての船と捕虜全員を拘留した。そして、一味には薬品が欠乏していたから、それを植民地政府に要求することにして、「リヴェンジ」号の船長リチャーズと二、三人の手下に、クラーク船長の船に乗っていて捕虜になったマークス氏を同行させ、使いに出した。ティーチの要求は横暴極まるものだった。彼は、植民地政府が即座に薬箱を提供し、海賊の使者を無傷で返すのでなければ、捕虜を皆殺しにしてその首を植民地総督に送りつけ、拿捕したスループ船を全部焼き払ってしまうと脅迫したのである。

　マークス氏が当局と交渉している間、リチャーズや他の海賊たちは人びとの見守る中、大手をふって街中を闊歩した。人びとは、彼らが盗賊の人殺しで、特に自分たちに対する非行と迫害の元凶だったから、烈しい憤りを抱いたが、さらに大きな災害をまねくことを恐れて、恨みを晴らそうとするものはなく、連中は自由に街を歩き回った。植民地政府は海賊たちの要求を直ちに受け入れた。これは植民地政府に対する最大の侮辱であったが、多くの人びとの命には代えられなかったからである。（捕虜の中には議員のサミュエル・ラッグ氏も含まれていた。）そこで政府は金額にして三百乃至四百ポンド分の医薬品を海賊船に送ることに同意し、海賊の使者は無事に仲間のところへ戻った。

　黒髭――後に説明するように、ティーチは仲間からこう呼ばれていた――は、薬箱を受け取り仲間も無事に戻ると、捕らえていた船と捕虜を直ちに釈放した。彼はこれらの船から食糧その他の物資以外に、千五百ポンド相当の金及び銀を掠奪していた。こうして一味はチャールストンを立ち、ノースカロライナに向かった。ティーチは自分の船を「軍艦」と称し、リチャーズとハンズは自分たちのスループ船を「私掠船」と呼んだ。もう一隻のスループ船は補給船として使った。このころ、ティーチは仲間を解散することを考えはじめていた。彼は獲物の大部分を自分と、自分が最も親しくしていた仲間の取り分にして、あとの仲間を欺いてしまうつもりだった。そこでトプスル入江に入って船底の清掃をすることをよそおい、自分の船をわざと浅瀬に乗り上げた。そしてこれがいかにも不慮のできごとであるかのようにして、ハンズに船を海に戻すのを手伝うよう命じた。ハンズはいろいろ手を尽したが、結局自分の船をティーチの船に近づけて、二隻とも浅瀬に乗り上げるはめになってしまった。これを見たティーチは、四十名の手下を率いて補給船にしていたスループ船に乗り移り、「リヴェンジ」号を置き去りにした。さらに他の十七人の仲間を捕らえて、一リーグほど沖にある小島に置き去りにした。この島には食糧になるような鳥も獣も棲息せず、また一本の草木も生えていなかったから、二日後にボネット少佐が助けに来なかったら、彼らは餓死していたに違いない。



エドワード・ティーチ、別名黒髭





* * *





　ティーチは二十人ほどの手下とともに、ノースカロライナの植民地総督のもとに出向き、国王の海賊赦免の布告に従って降伏した。しかし彼らの投降は、彼らが更生したからではなく、これまでと同じ稼業をするのにもっと都合のよい機会を待つためにすぎなかったようである。間もなくティーチはノースカロライナの植民地総督チャールズ・イーデン氏と懇意になり、以前よりずっと安全でしかも成功の見込みも大きな機会を得ることになった。この親切な植民地総督が黒髭のために最初にしてやったのは、彼が「アン女王の復讐」号に乗って海賊稼業をしていたとき捕獲した大型船に対する権利を認めてやることだった。この目的で、バスタウンで海事法廷が開かれた。そしてティーチは私掠船の免許を得たことは一度もなかったし、拿捕したスループ船もイギリス商人のもので、しかもそれは平時に行なわれた行為であったにもかかわらず、この船はティーチがスペイン人から分捕った戦利品であると宣告された。この審理は、植民地総督といえども唯の人にすぎないということを示している。

　冒険航海に乗り出す前に、ティーチは十六歳の娘と結婚した。結婚式をとり行なったのは植民地総督であった。本国では牧師が結婚をつかさどるように、ここでは行政長官が牧師の役をする習慣なのである。私の聞いたところによれば、この娘はティーチの十四人目の妻で、十二人の妻は現在も生きているということである。植民地滞在中のティーチの行動はひどく奇矯であった。彼のスループ船がオクラコーク入江に碇泊している間、彼は妻の住むプランテーションに滞在した。夜どおし妻と合歓した後、彼は五、六人の野蛮な手下どもをプランテーションに招くのが習慣だった。そして自分の面前で手下の一人ひとりに身を委せることを妻に強いたりもするのだった。

　一七一八年六月、彼は新たな海賊航海に乗り出し、針路をバーミューダにとった。途中、二、三隻のイギリス船を捕らえたが、これらの船からは当座の食糧その他を奪っただけだった。その後バーミューダ島の近くでマルティニク島へ向かう二隻のフランス船に遭遇した。一隻は砂糖とココアを積み、もう一隻は空荷だった。ティーチは、荷を積んだ船の乗組員全員を空船に移して釈放し、荷を積んだ船を連行してノースカロライナへ戻った。植民地総督と海賊一味は戦利品を分け合った。

　獲物の船を伴ってノースカロライナに到着すると、ティーチは四人の手下とともに植民地総督のところへ出向き、海上で無人のフランス船を発見したと供述した。法廷が開かれ、船は廃棄処分になった。植民地総督は自分の分け前として砂糖六十樽を取り、彼の書記で収入役のナイト氏は二十樽を取った。そして残りを海賊一味が分け合った。

　しかし、これで仕事が終ったわけではなかった。獲物の船はそのまま残っていたから、だれかこの船を知っている者がこの河へ入ってくるようなことがあれば、自分たちの犯行が発覚してしまうかも知れない。だがティーチはこれを未然に防ぐことを考えついた。彼は船が水漏れしているという口実を設けて、このまま放置すれば着底して入江の入口を塞いでしまう恐れがあると申し出た。そして、入江に流れ込んでいる河まで船を持っていき、そこで焼き払ってしまう許可を総督から取りつけると、早速それを実行したのである。船は吃きつ水すい線せんの部分まで焼け落ち、水没した。こうして彼らの犯行が明るみに出る心配も無くなった。

　黒髭ティーチは三、四か月間この河に滞在した。あるときはここの入江に、またあるときは別の入江にと沿岸を航行しながら、途中でスループ船に出会えば、彼らの積荷と自分たちの獲物を物々交換したり、機嫌のよいときには相手から品々や食糧を奪う代りになにがしかの贈りものをしたりした。また、相手が代金の請求をしないのをよいことに、断りもなしに自分のほしいものを奪うこともあった。気晴らしに上陸して、入植者たちにまじって日夜飲み騒ぐこともしばしばあった。入植者たちはティーチをよくもてなしたが、それが心からのものだったか、あるいは彼を恐れてのことだったかはわからない。ティーチは入植者たちに丁重な態度を示し、もてなしの返礼にラム酒や砂糖を贈ることもあった。しかし、彼や彼の手下が入植者の妻や娘たちに働いたという無礼な振舞いに対して正当な対価を支払ったかどうか、私は請け合えない。また別のときには、彼は入植者たちに対して領主のような態度をとり、貢物を要求した。そればかりか、植民地総督に対してさえ横柄な態度をとることもあったが、この二人が仲違いする理由はなにもなく、ティーチは、ただ自分の権勢を誇示するためにこのようにしたのだと思われる。

　この河を上り下りするスループ船はあまりにしばしば黒髭に掠奪されたため、交易商人や入植者の有志が集まって対策を相談した。本来ならば、ノースカロライナの植民地総督に何らかの救済を求めるべきだが、そのようなことは無駄だということをだれもが知っていた。しかしどこからも救済がなければ、黒髭はのさばる一方となろう。そこで彼らは秘かにヴァージニアへ使者を送り、その地の植民地総督に事態を訴え、そこに碇泊している軍艦を派遣して海賊を捕らえるなり討伐するなりしてほしいと請願した。

　ヴァージニアの植民地総督はジェームズ河にここ十か月繋留している二隻の軍艦「パール」号と「ライム」号の艦長に相談した。その結果、植民地総督が二隻の小型スループ船を用意し、軍艦の乗組員をそれらに乗り組ませることに話がまとまった。計画は早速実行に移され、「パール」号のロバート・メイナード大尉が指揮官に任ぜられた。後に、この遠征で勇敢な働きをすることでもわかるように、彼は経験豊かな士官で、勇気と決断力ある紳士だった。二隻のスループ船は十分な兵力と弾薬および小火器を積み込んだが大砲は一門も備えなかった。

　船隊が出港するのと同じころ、植民地総督は議会を召集し、今後一年以内に海賊を捕らえるか討伐したものには褒賞を与えるという布告を決議した。現在、私の手許にある布告の原本は次のとおりである。





海賊の逮捕若もしくは殺害に対して授与される褒賞に関する布告



国王陛下のヴァージニア植民地総督兼総司令官



　国王陛下の治世第五年十一月十一日、首府ウィリアムズバーグで開催された議会会期において議決した「海賊の逮捕および撲滅の奨励に関する法律」に基づき、何なん人ぴとであれ一七一八年十一月十四日以降一七一九年十一月十四日以前に、北緯三十四度以南三十九度以北のヴァージニア植民地沿岸から百リーグ以内の海上、またはヴァージニア植民地若しくはノースカロライナ植民地の内陸で海賊を捕らえた場合、または海賊の抵抗にあったためそれを殺戮した場合は、当該海賊の有罪を法廷が宣告するか、または当該海賊の殺戮が正当である証拠を植民地総督と行政委員会に提出すれば、以下の褒賞を授与するものとする。すなわち、エドワード・ティーチ、通称ティーチ船長、別名黒髭、を捕らえ若しくは殺した場合百ポンド、その他の海賊船の船長は四十ポンド、副官、マスター、操舵手、甲板長、船大工は各二十ポンド、下級士官十五ポンド、海賊船上で捕らえた水夫十ポンドとする。また、いかなる場所であれ上記期限内に、ヴァージニア植民地あるいはノースカロライナ植民地に所属する船が海賊を捕らえた場合は、当該海賊の狂悪さ、その他の条件に従って、同様の褒賞を授与するものとする。真に人類の敵と呼ぶにふさわしい輩を制圧するという、公正で光栄ある事業に参画し、国王陛下と祖国のために進んで役立とうとするすべての人士を督励するため、小職は、国王陛下の議会の助言と賛同を得て、本布告を公布すべきであると考量した。右の褒賞は、当該法律に基づき、ヴァージニア植民地の通貨により、正確公正に支払われることをここに宣言する。よって、小職は当植民地各州の長官および教会牧師に命じ、本布告を公布せしめる。



一七一八年十二月二十四日　今上陛下治世第五年

ウィリアムズバーグ議会において

ゴッド・セーヴ・ザ・キング　　エイ・スポッツ・ウッド





　一七一八年十一月十七日、ロバート・メイナード大尉はヴァージニア植民地ジェームズ河のキクタンを出港した。同二十一日夕刻、オクラコーク入江の入口に到着すると、そこに海賊たちの姿を認めた。遠征は極密裏に進められた。大尉は細心の注意を払い、出合ったすべてのボートや船に河を上って行くことを禁止し、情報が黒髭に漏れないようにすると同時に、彼らから海賊たちが潜伏している場所についての情報を入手するようにした。しかし、このような警戒にもかかわらず、黒髭はノースカロライナの植民地総督からこの計画を知らされていた。総督の書記ナイト氏が手紙でこのことを知らせ、街のあたりで出合ったティーチの手下四人を送り返したから、ティーチも警戒を厳重にするようにと伝えた。手下の四人は、バスタウンからおよそ二十リーグ離れた、一味のスループ船碇泊地オクラコーク入江に送り返された。

　黒髭はこれまでにも同様の報告を得ていたが、それらはみな誤報だった。だから、彼はナイトの手紙もほとんど信用しなかった。遠征隊のスループ船を見てはじめてこれが本当であることがわかった。彼は直ちに防戦体制をとった。船には二十五人しか乗り組んでいなかったが、彼は通りかかる船ごとに、自分の船には四十人が乗り組んでいると言いふらした。その夜、戦いの準備が整うと、ティーチは、彼と取り引きのあったスループ船の船長と飲み明かした。

　メイナード大尉は投錨した。この場所は浅瀬で水路が複雑に入り込んでいたため、その夜はティーチの碇泊地まで進入することができなかったからである。翌朝、彼は錨を抜き、ボートを測深に出した。ボートが射程内に入ると、海賊は砲撃してきた。メイナードは直ちに国王旗を掲げ、帆とオールを使って海賊船にまっしぐらに向かっていった。黒髭は錨綱を切り、連続斉射を浴びせてきた。メイナードには大砲が無かったが、オールで力漕しながら小火器で応戦した。しばらくするとティーチのスループ船は浅瀬に乗り上げた。メイナードの船は海賊船より吃水が深く、それ以上敵に近づくことはできなかった。そこで、彼は敵の射程内ではあったが、投錨した。そして、船を軽くして敵船に接舷し乗り込めるようにするため、底荷や水樽を全部甲板から投げ棄てるよう命じた。

　準備ができるとメイナードは錨を揚げ、海賊船に向かった。これを見て、黒髭は荒々しくどなった。「貴様は何者だ、どこからきやがった」。大尉はこれに答えて言った。「われわれの旗を見ろ。われわれが海賊でないことがわかるだろう」。黒髭は「貴様の顔をよく見てえからボートを出してこっちへ来い」とどなった。大尉は、「ボートを出すわけにはいかない。すぐにこのスループ船で貴様の方へ乗り移っていってやるぞ」と言った。これを聞くと黒髭はグラスを一杯あおって敵に乾杯しこう言った。「糞くらえ。俺は貴様を見逃そうとも思わねえし、貴様に命乞いしようとも思わねえぜ」。これに対してメイナードもこう答えた。「われわれも貴様に命乞いしようとは思わないし、貴様を放免してやろうとも思わないぞ」。

　そのころには黒髪のスループ船は浅瀬から離れていた。メイナードの二隻のスループ船はオールを操りながら海賊船に近づいた。スループ船の中部甲板は高さ一フィート足らずだったから、敵船に近づくにつれ、甲板上の乗組員はすっかり身をさらすことになった。（このときまで、まだどちらの側にも大きな犠牲はなかった。）軍艦が接近すると海賊はありとあらゆる小火器を使って一斉射撃の火蓋を切った。これはメイナードたちにとってひどい打撃だった。彼の船は二十人の死傷者を出し、僚船でも九人が死んだり傷ついたりした。しかし、どうすることもできなかった。風は凪いでいた。彼らは必死にオールを操った。そうしなければ海賊船は逃げてしまうだろうし、大尉は敵を逃がさない決意だった。

　この不運な一撃の後、黒髭のスループ船は舷側を岸に向けた。メイナードの僚船「レンジャー」号は航行不能になりメイナードの船より遅れていた。大尉は、自分の船が間もなく海賊船に接舷し斬込めると見ると、部下全員に、「甲板の下に身を隠せ」と命じた。再び一斉射撃を浴びせられたら自分たちは全滅し、遠征自体が無に帰してしまうのを恐れたのである。甲板にはメイナードと舵手だけが残った。メイナードは舵手に身体を隠しているよう命じ、また船倉に待機している部下たちには、白兵戦に備えてピストルと剣を持ち、命令があったらすぐ飛び出してくるように言い渡した。このためハッチには梯子が二本かけられた。大尉のスループ船が接舷すると、海賊どもは新式の手榴弾を幾発も投げてきた。これは火薬と散弾、そして鉛や鉄の破片をつめたびんに導火線をつけたもので、導火線に火を点ずると、それがびんの内部の火薬に達する仕掛けであった。これが甲板に投げつけられれば強大な殺傷力で、乗組員全員が大混乱に陥るのが普通である。しかし幸いなことに、メイナードの乗組員たちは船倉に潜んでいたため事なきを得た。黒髭は相手の甲板にほとんど人影がないのを見て、手下たちに「奴らは皆ぶちのめされて、三、四人しか残っちゃいねえぜ。乗り移って八つ裂きにしちまえ」とどなった。

　手榴弾の硝煙が立ちこめる中を、黒髭は十四人の手下を率いてたちまちメイナードの船にへさきから乗り移ってきた。硝煙が消えるまで、メイナードは黒髭の姿を認めることができなかった。しかし敵の姿が見えるやいなや、彼は部下に合図した。乗組員全員が甲板におどり出て、海賊たちに立ち向かっていった。彼らの戦いぶりは、かつてこのような場面に示されたいかなる行為に勝るとも劣らないものだった。黒髭と大尉はピストルを撃ち合い、黒髭は傷を負った。二人は剣を抜いて渡り合ったが不運にも大尉の剣が折れてしまった。大尉は後ずさりしながらピストルに弾を込めようとした。黒髭はカトラスを振りかぶって大尉に襲いかかった。その瞬間、メイナードの部下の一人が黒髭の首と喉に一撃を加えた。大尉は指に傷を負っただけで事なきを得た。

　大尉の率いる十二人の部下と黒髭の率いる十四人の手下は激しい肉弾戦を展開し、海は血に染まった。黒髭はメイナードの発射したピストルの弾を身体に受けながら、なおしっかと立ち、恐ろしい形相で戦い続けた。身体には二十五カ所に傷を負い、そのうち五つは弾丸によるものだった。彼は数丁のピストルを発射し、最後にもう一丁のピストルに弾を込めながら、斃たおれた。このときまでに、十四人の手下のうち八人が死んだ。残ったものは、重傷を負いながら海に飛び込み慈悲を請うた。彼らは救助されたが、それも彼らの命を数日間延ばしたに過ぎなかった。僚船「レンジャー」号が近づいてきた。そして黒髭の船に残っていた海賊どもに激しい攻撃を加えた。彼らもついに降伏するに到った。

　こうして勇猛な海賊ティーチは最期を遂げた。正しい道を歩んでいれば、彼は英雄ともなっていたであろう。彼の死は植民地にとってまことに大きな事件だった。ティーチを潰滅させたのはメイナード大尉とその部下の功績である。彼のスループ船が大砲を備えていたなら、犠牲はもっと少なくてすんだに違いない。しかし、ティーチが潜んでいる場所は吃水の深い大型船では近づけなかったため、彼らは小型船を使わざるを得なかったのである。メイナードが河を上って海賊に近づくまでには、百回以上も浅瀬に乗り上げ、他にもさまざまな障害を乗り越えねばならず、並の苦労ではなかった。彼ほどの決意と胆力を持った人でなければ、とうに引返していたに違いないし、仮にそうしたからといっても不名誉にはならなかったであろう。メイナードたちは海賊船に乗り込む前に一斉射撃による手痛い打撃を受けたが、このために残った乗組員が全滅せずにすんだのである。というのは、これより先、すでに逃げ出すことを断念したティーチは、彼が育てた命知らずの黒人部下に火のついた導火線を持たせて弾薬倉に待機させ、大尉とその部下が乗り込んできたら合図するから船もろとも爆破してしまえ、と命じていたのである。この黒人が黒髭の身に起こったことを知ったとき、海賊船の船倉におし込められていた二人の捕虜が彼を説得し、危ういところで早まった行動に出るのを思いとどまらせることができたのである。

　ところで奇妙なことに、黒髭とあれほど勇敢に戦ったメイナードの部下のうちの幾人かは、後に自ら海賊になり、そのうちの一人はロバーツとともに捕らえられた。

　大尉は黒髭ティーチの首を落とすと、それを自分の船の船首の突端につるし、負傷者の手当をするためバスタウンへ向かった。

　海賊船を捜索したところ、ティーチがノースカロライナのイーデン総督、書記、収入役、その他ニューヨークの交易商人たちと取り交した数通の手紙が発見された。ティーチは彼らに非常な好意を持っていたから、手紙が発見されて立派な紳士である友人たちの利益や評判が損われることを恐れ、戦闘開始前にこれらの手紙を処分してしまうつもりだったらしい。

　バスタウンに着くと、大尉は植民地総督の倉庫から砂糖六十樽を押収し、また総督の書記ナイト氏の家からも二十樽を押収した。これらは、例のフランス船の掠奪品の分け前らしかった。ナイト氏はこの不名誉な摘発をされると、この少しばかりの品物に対する申し開きをするため召喚されるのではないかと気に病み、それが原因で数日後に死んでしまった。

　負傷した部下たちがかなり回復すると、大尉はヴァージニアのジェームズ河に碇泊している軍艦に帰投した。彼のスループ船のへさきにはまだ黒髭の首が吊されていた。連行した十五人の捕虜のうち十三人が縛り首の刑に処せられた。刑を免れた一人は、サミュエル・オデルといったが、彼は戦闘の前夜に交易スループ船から連れ出されたことが法廷で判明した。この哀れな男は、不運にも新しい稼業に入ったばかりで戦闘となり、戦いが終ったときには七十以上もの傷を受けていた。それでもこの男は生き延び、傷も回復した。縛り首を免れたもう一人の男は、「アン女王の復讐」号がトプスル入江で失われるまでティーチの僚船の船長をしていたイズラエル・ハンズであった。

　ハンズはたまたまこの戦闘には加わっておらず、後にバスタウンに居るところを捕らえられた。彼は黒髭の一時の野蛮な気まぐれのため不具にされてしまったのである。話はこうである。ある夜、黒髭は自室でハンズ、舵手、そしてもう一人の男を相手に酒を飲んでいたが、別に腹を立てたわけでもないのに、テーブルの下でこっそりと二丁の小型ピストルを引き抜き、撃鉄をあげた。一緒に飲んでいた男はこれに気付くと、ハンズ、舵手そして船長を残し一人だけ席を立って甲板へ出ていった。ピストルの発射準備ができると黒髭は蝋燭の火を吹き消した。そして両手を交差させ、銃口を仲間の方に向けて引金を引いた。ハンズは膝を打ち抜かれ、生涯びっこになってしまった。一丁のピストルは不発に終った。一体どうしてこんなことをしたのかと尋ねられると、黒髭はいまいましそうに、「時には手下の一人も殺さねえことにや、おめえたちは俺様がだれかってことを忘れちまうだろうからな」と言った。

　ハンズは捕らえられ、法廷で死刑の判決を受けた。しかし刑が執行される直前、国王の海賊赦免の布告有効期間の延長を伝える船がヴァージニアに入港した。そこで一旦判決は下されてはいたが、ハンズは赦免を願い出て受理されたのである。彼は現在、ロンドンの街角で物乞いをしながら生き長らえている。

　さてこれまでティーチの生涯と悪行について語ってきたが、ここらで彼の髭について書いておくのも無駄ではあるまい。彼の髭も、彼の凶悪な名前をこの地方で高からしめるのに大いに与あずかっているからである。プルタークその他の歴史家たちは、ローマの偉人の幾人かは彼らの容貌の特徴があだなになっていると言っている。例えば、キケロは鼻にある斑点が特徴だった。わがティーチ船長も黒髭と異名を取ったが、これは、密生した毛が顔全体を覆いつくし、その有様は、たとえてみれば流星のごとく、その形相は、昔このアメリカの地に現われたいかなるほうき星にも増して人びとを恐れさせたからである、この髭は黒く、伸びるにまかせていたから、とてつもない長さになっていた。また上の端は目の部分にまで達していた。ティーチはこの髭を何本にも編んでリボンで結わえ、耳のあたりで後へ回していた。戦闘のときには、彼は肩から吊り皮をかけ、三対のピストルをホルスターにぶち込んでいた。そして火のついた火縄を帽子で押さえ、その両端を顔の両側にたらしていた。この姿が彼の激しく凶暴な眼付と相あい俟まって、地獄の女神でさえかばかりではなかろうと思わせた。

　彼の気性もこの姿にふさわしいものだった。本文中で省略したその放埓ぶりを二、三紹介しよう。それらは、情動のままにまかせた人間の性格がどこまで邪悪になるかという見本のようなものである。海賊の世界では最も非道な行ないをしたものが、仲間たちから一種称賛の眼で見られ、並外れた勇者として、しかるべき地位が与えられるのである。そして、度胸だけが財産であるような男こそ真に偉大な人物ということになる。ティーチはまさにこのような男であった。彼の気まぐれで邪悪な行動はあまりにも常軌を逸していたため、手下たちは、彼が悪魔の化身であると信じていたほどである。例えば、航海中のある日、一杯機嫌で彼は手下にこう言った。「おい、地獄遊びをしようじゃねえか。どれだけ我慢できるかやってみようぜ」。彼は二、三人の仲間を従えて船倉へ降りて行き、ハッチを全部締め切った。こうしてから空き缶を幾つか持ち出し、それらに硫黄そのほか燃えやすいものをつめて火を付けた。煙が船倉内に充満し、彼らは窒息寸前になった。手下たちが新鮮な空気を求めて絶叫すると、ティーチはようやくハッチを開いた。自分が最後まで苦しさに耐えられたからといって、別にうれしそうな様子を見せるわけでもなかった。

　彼は殺される前の晩、数人の手下と交易船の船長を交えて夜が明けるまで酒を飲んでいた。二隻のスループ船が一味を攻撃しにくるという情報に、手下の一人が、スループ船と交戦してティーチ船長に万一のことがあった場合、船長の妻は船長がどこにかねを隠したか知っているのかと尋ねると、彼は「そいつは俺と悪魔しか知らねえ。一番長生きした奴がかねを持っていくのさ」と答えた。

　捕虜になった彼の手下たちは、われわれには信じ難いような話をした。しかし、彼ら自身の口から出た言葉だから、ここに書きとめておかなければ公正を欠くだろう。ある日、航行中、彼らは乗組員の数が一人多いことに気づいた。この男は数日間船にいて、あるときは甲板の下に、またあるときは甲板に姿を見せていたが、彼が何者なのか、どこから来たのかだれも知らなかった。しかし彼らの船が難破するすこし前に姿を消してしまった。海賊たちは、あれは悪魔だった、と信じているようであった。

　こういった諸々のことが、海賊たちを更生へ導くもとになったのではないかと考える人もいよう。しかし無頼の男たちの多くは、互いに励まし元気づけ合って、ますます悪の道に深入りしてゆくのであった。酒びたりの生活もこれに少なからず拍車をかけた。押収した黒髭の航海日誌には、彼の自筆になる次のような言葉が散見される。――何てひでえ日だ。ラム酒がすっかり切れちまった。――乗組員は真面目にやっている。――大騒動だ。――悪党どもが陰謀している。――仲間割れの相談だ。獲物の見張りを厳重にした。――獲物があった。酒を満載している。皆ひどく興奮している。またすべてがうまくいくだろう。

　こうして海賊たちは掠奪した品物を楽しむこともそれに満足することもほとんどなく、最後は屈辱的な死で悪行をあがなって生涯を終ったのである。

　戦闘で死んだ海賊は次のとおりである。





エドワード・ティーチ　船長キャプテン

フィリップ・モートン　砲手ガナー

ギャラット・ギッベンス　甲板長ボースン

オーウェン・ロバーツ　船大工カーペンター

トマス・ミラー　操舵手クオーターマスター

ジョン・ハスク

ジョゼフ・カーティス

ジョゼフ・ブルックス（１）

ナサニエル・ジャクソン





　残りの海賊たちは、最後の二人を除いて全員負傷し、後にヴァージニアで縛り首になった。





ジョン・カーニス　ジョゼフ・フィリップス

ジョゼフ・ブルックス（２）　ジェームズ・ロビンズ

ジェームズ・ブレイク　ジョン・マーチン

ジョン・ギルズ　エドワード・ソルター

トマス・ゲイツ　スティーヴン・ダニエル

ジェームズ・ホワイト　リチャード・グリーンセイル

リチャード・スタイルス　イズラエル・ハンズ（赦免）

シーザー　サミュエル・オデル（無罪）





　海賊のスループ船と碇泊地近くの海岸のテントから、砂糖二十五樽、ココア十一樽と百四十五袋、染料一樽、綿一梱が発見された。これに植民地総督と書記から押収した掠奪品にスループ船の売却代金を合わせると総額二千五百ポンドになった。これらの戦利品はすべて「ライム」号と「パール」号の乗組員たちに分配された。このほか、ヴァージニアの植民地総督はその布告に従って褒賞金を支払った。海賊一味を捕らえた勇敢な男たちの分け前は三か月以内に支払われた。





補　遺





　黒髭がサウスカロライナの船舶を拿捕し、植民地の市民や政府を侮辱したときのことを二、三つけ加えておこう。当時、黒髭一味は非常に強大になり、法律などは気にもとめず、海上ばかりか植民地やその政府にまで勢力をふるっていた。彼らは捕らえた船の乗組員たちと気軽に近づき、自分たちの名前や居場所を隠そうともしなかった。まるで、彼らは正当な国家の住民であり、彼ら自身が自由な国家として全世界と渡り合う決心をしているかのようであった。そして、裁判はすべて司令官たるティーチの名で行なわれた。

　カロライナの捕虜たちは彼らの船の積荷や、他の交易商人の数や様子、彼らがいつどこへ向けて出帆するか等について厳しい取り調べを受けた後、全員ティーチの船に移された。審問はいかめしく行なわれ、海賊たちは、虚偽の申し立てをしたり言い逃れをしたものは死刑に処する、と宣言した。また一味は、捕虜らの書類をすべて、まるで役所の役人がするように、すみずみまで馬鹿丁寧に調べた。これらがすべて終ると、捕虜らは全員自分たちの船に戻された。船の積荷や食糧は、すでに掠奪されていた。海賊たちの行動はあまりに急であったため、これら不運な人びとは、自分たちは殺されるのではないかと本気で思い込んだ。しかも、商人も地位ある紳士も、ラッグ氏の子供まで、だれかれの見さかいなく乱暴に連行され、海賊の見張りもいない船倉に押し込められたので、人びとの不安はいっそう深まった。

　この憂鬱な状況に幾時間も置かれ、人びとは、今にも導火線に火がつけられ自分たちは火薬で吹きとばされるか、あるいは船に火がつけられ、このまま沈没するのではないかと気が気でなかった。だれもが、どのみち自分たちはけだもののような連中の生贄になる運命なのだと思っていた。

　やがてハッチが開き、頭上から光がさし込んだ。人びとはやっと救われる思いがした。海賊どもは、人びとに、すぐ甲板に上って船長のところへ来るよう命じた。人びとは、海賊が野蛮な決定を変更し、また神が連中に人間らしい心を起こさせたもうたのではないかと思った。捕虜の代表者が黒髭のところへ連れて行かれた。黒髭は自分たちが衆議をしている間他人に居てもらっては困るので、その間だけ船倉に閉じ込めておいたのだと事情を説明した。そしてこう言った。「俺たちは薬を切らしちまったから植民地政府からそれをもらわなきゃならねえ。船医が作った必要薬品のリストを手下二人に持たせて植民地総督のところへ使いにやるが、そいつらが薬箱を持って無事に戻ってくるようおまえたち全員を人質にしておくことに衆議決定した。もし俺たちの要求が完全に入れられなかったら、おまえたちを皆殺しにするつもりだ」。

　ラッグ氏は、海賊の要求を一つ残らず満たすことは植民地政府にはできないかも知れない、と答えた。船医の作ったリストには植民地では手に入らない薬が含まれているかも知れないから、そのときは何か代りになる薬で我慢してほしいと言った。また、植民地総督のところへ使いに行く二人の黒髭の手下に、捕虜の一人を同行させてほしいと頼んだ。そうすれば、彼は捕虜になった人びとの危機を植民地政府に本当に訴えてくれるだろうし、国王陛下の多数の臣民の命を救うために、さらに植民地の一般市民が黒髭の使者を侮辱したりしないように、黒髭一味の要求を受け入れるよう説得することができると言った。

　黒髭はこれをもっともだと考え、再び会議を開いて仲間の意見を聞いた。皆もこれに賛成であった。ラッグ氏は地位もあり、カロライナ市民にもよく知られた紳士であった。彼は、自らその任を買って出、また政府が捕虜釈放の条件を拒否するかも知れないのに、自分が戻るまで若い自分の息子を海賊どもの手に残してゆこうと申し出た。しかし黒髭は、ラッグ氏が植民地にとって重要人物であることをよく知っており、海賊たちにとっても同様に重要な人質であるから彼の出番は最後だと言って、その申し出をにべも無く拒絶した。

　話し合いの結果、マークス氏が海賊の使者に同行することになり、二日後に戻るということで一行はカヌーに乗って出発した。その間、黒髭は陸から五、六リーグの沖合に船を碇泊し、条件が受け入れられるのを待っていた。しかし約束の期日が過ぎても港からは何も出てくる様子はなかった。ラッグ氏がティーチの前に呼ばれた。ティーチは恐ろしい形相をして、「俺の手下は人にたぶらかされるような男じゃねえ。何か怪しからぬ裏切りがあったのだろう。おまえたちは即刻皆殺しだ」と言った。ラッグ氏は処刑をもう一日猶予してほしいと頼んだ。彼は、植民地政府が自分たちの生命を非常に心配して、救出のためにできる限りのことをしてくれていると確信していたし、また一行のカヌーに何か不都合なことがあったか、あるいは使いに行った海賊たち自身のせいで帰船が遅れているのかも知れず、いずれにせよ処刑などされてはたまったものではないと思った。

　ともかくティーチの気持は収まり、彼は使者が帰ってくるまであと一日猶予することにした。しかし、その日が終ってもなお使者は帰ってこないとわかると、ティーチの怒りは極まった。彼は捕虜たちを幾度も口汚く罵り、もう二時間でおまえたちの命はおしまいだ、と言った。ラッグ氏はできる限りティーチを宥めすかしながら、見張りを厳重にするように頼んだ。事態は最悪になろうとしていた。人びとは皆、自分たちの命はあと一日もないと観念した。これら無む辜この人びとは心の苦しみにおしつぶされそうになりながら、自分たちを海賊の凶悪な力から救うものは奇跡しかないと思った。ちょうどその時、船首楼から、「ボートがやってくるぞ」という声がした。人びとのふさいだ心に元気がわき、希望が蘇ってきた。黒髭は遠眼鏡をつかむと自ら船首へ行った。そしてマークス氏が陸に行くときに貸し与えた彼の緋色のクロークを認めた。死刑執行延期は確実になったかに見えた。しかしボートが近づくと人びとの心にはまた恐怖が戻ってきた。ボートには海賊の使者もマークス氏も乗っておらず、また薬箱も積まれていなかったのである。

　事実はこうであった。一行が陸に向かったとき、突然突風に見舞われ、船は難破した。そして本土から三、四リーグ離れた無人の小島に漂着した。彼らはしばらくこの島にとどまっていたが、食糧もなくなり、海賊船に残した捕虜の人びとの身も案ぜられたので、彼らはマークス氏を難破した船の床板に乗せ、残りのものは綱で自分たちの身体をその筏に結んで、それを後から押しながら泳いで陸に向かうことにした。これはひどく難儀な航海であった。明け方、一艘の漁船が彼らを発見して引き上げてくれなかったら、全員死んでいたに違いなかった。皆、体力を使い果していた。こうして一行は幸運にも命拾いをしたので、マークス氏はボートを借りてチャールストンへ向かい、さらに事の次第をティーチに伝えるよう頼んだのであった。

　この話を聞いてティーチ船長の気持は収まった。そして、もう二日間猶予することに同意した。遅れたのはだれのせいでもないことがわかったからである。二日目の終りに、海賊たちはついにしびれを切らした。ティーチは、翌朝までにボートが戻ってこなかったら、もう容赦しない、と言った。期待と失望のはざまで、人びとは言うべき言葉を知らず、陸の友人たちのことをどう釈明してよいかもわからなかった。これまでの経過からみて、マークス氏が自分の任務を誠実に行なっていることを疑うことはできないし、またボートが無事チャールストンへ到着したという知らせを得ているのだから、陸にいる人びとが今や死の危機にさらされている八十人の捕虜の生命を危険にさらしてまで薬箱のことを重く見ているという以外に、帰船が遅れている理由は考えられないと海賊に話すものもいた。一方ティーチは、陸の連中が捕虜釈放のための条件を拒否し、自分の手下を監禁してしまったのだと信じた。彼は、手下を監禁したものどもを殺すだけでなく、カリフォルニア植民地の住民は一人残らず自分の手で始末してやる、と何度もいきまいた。人びとは自分たちの最後の願いを聞いてほしいと海賊に頼んだ。海賊の船隊が錨を揚げて湾へ向かってもなおボートのやって来るのを見ることができなかったら、自分たちが水先案内をして街まで行くから、そこで街を征伐するというなら、自分たちも最後まで海賊の味方になって戦おうと言うのであった。

　街の連中の裏切り行為（黒髭は好んでこの言葉を用い、またそう信じていた）に対して復讐するという申し出は、凶暴な黒髭とその手下どもの気に入るところとなり、黒髭は直ちにこれを承諾した。捕獲した八隻の船から成る海賊の船隊は錨を揚げ、街に向かった。街の住民たちは総攻撃を予期して恐怖におののいた。男たちは全員武器を持たされたが、不意のことであり整然とした隊を編成するわけにはいかなかった。女や子供たちは狂乱して通りを走り回った。しかし最悪の事態を迎える直前に、捕虜の救済と平和をもたらすボートがやって来るのが見えた。

　薬箱が海賊に渡された。マークス氏は自分の任務を遂行したのだが、使者として街に行った二人の海賊のせいで帰船が遅れたということがわかった。マークス氏や植民地政府の人びとが協議をしている間、海賊紳士たちは旧友を訪れて酒をくみ交し、家から家へと渡り歩いていた。このため薬の用意ができたときにも彼らの居所がわからなかったのである。そしてマークス氏は、彼らを連れて帰らなかったら、ティーチが自分の手下の背任行為を簡単には信じそうもなく、捕虜の人びとが皆殺しにされてしまうことを知っていたのである。しかし今や船上のすべての人びとに笑顔が戻った。捕虜の人びとをあれほど恐れさせた嵐は去り、太陽の輝きが蘇ったのである。黒髭は約束どおり船と捕虜を釈放し、カロライナから去っていった。





　すでに故人となったノースカロライナ植民地総督チャールズ・イーデン氏に対する非難に関しては、その後聞いた話から推すと、正当な根拠がないと思われる。従って、あの異常事態におけるイーデン氏の行為を誤って判断した人びとが同氏に投げ与えた誹謗を割り引いて考える必要があるだろう。

　事実を公平にながめてみると、イーデン氏が海賊と秘かに通じていたことはなかったようである。私自身、信用のおける人びとから、イーデン氏は自分の力の及ぶ限りその地位にふさわしい行動をとり、誠実な植民地総督として終始したと聞いている。

　イーデン氏の不幸は、彼の治める植民地が弱体で、自分や自分の手下に危害を加えたら街を焼き払い人びとを切り殺すぞと脅してプランテーションばかりか総督の住居までも好き放題に支配した黒髭ティーチの横暴ぶりを罰する力を持たなかったことにあったのである。黒髭は、ときどき船を街に近づけたりしたが、あるとき、自分を捕らえる計画があると疑った。彼は武装して総督邸に乗り込んだ。手下どもには、船に残って、一時間たっても自分が戻らなかったら、自分が中に居てもかまわずに総督邸を打ち壊してしまえと命じた。事程左様に黒髭は無法を極め、敵に対してはことごとに復讐を決意し、その邪よこしまな目的を達するためには自分の命さえ犠牲にしようとした。

　それにもかかわらず、黒髭は海賊赦免の布告に応じて赦免状を手に入れたので、それまでの罪で処刑されることはなかった。マルティニクへ向かう途中で黒髭が拿捕しノースカロライナに連行したフランス船については、植民地総督が裁判を行なった。彼は自分の権限で植民地海事裁判を召集した。その法廷で、海賊船の乗組員四人が、自分たちは公海上で無人の船を発見したのだと主張した。そこで法廷は船の廃棄を言い渡し、積荷は法律に従って処分された。

　ヴァージニア植民地総督と二隻の軍艦の艦長による隠密の遠征についてもふれておこう。彼らはこの計画に秘かに期するところがあった。軍艦は、海賊が植民地沿岸を荒らしまわっていた十か月間、港に碇泊したままであった。このことの責任は当然問われるべきであったが、黒髭ティーチ征伐が成功したため、不問に付されてしまった。しかし私は、ティーチが国王の布告に降伏してから後、どのような海賊行為を犯したかということになるとよくわからないのである。すでに話したように、拿捕したフランス船は法律に従って処分された。また彼が入植者に対して掠奪行為をしたといっても、それは公海上ではなく、河か陸上で行なわれたことであって、海事裁判や海賊行為関係の法律の対象とするわけにはいかないからである。

　ヴァージニア植民地総督はこの事件で私腹を肥やした。彼は軍艦を派遣すると同時に軍隊も派遣して、イーデン氏の治める植民地で、少なからぬ量の海賊の掠奪品を押収したのである。一植民地の総督がその権限を他の植民地にまで及ぼしたということは確かに新しい事態であった。気の毒にも、イーデン氏は自分の手腕を発揮し権利を主張する力を持たなかったばかりに、四方八方から侮辱され蔑ろにされたのである。

　最後に、すでに故人となったイーデン氏の名誉のために次のことを申し添えておこう。黒髭ティーチのスループ船から発見された手紙やその他いかなる証拠によっても、イーデン氏が不正行為に関係したという事実はない。逆に、同氏は植民地総督の地位にあった間、その高潔、清廉で分別ある行動により住民から尊敬され愛されていたのであった。彼の書記官が個人的にどのようなことをしていたか私は知らない。彼は黒髭が潰滅した数日後に死んだ。そして彼について何の調査も行なわれなかったのである。





４　スティード・ボネット少佐と乗組員





　ボネット少佐はバルバドス島の名士で、財産もあり立派な教育も受けていた。彼は、その境遇からすれば、およそ海賊になろうなどという気を起こすことはなかったはずである。彼が海賊になったと聞いて、バルバドス島の人びとは仰天した。海賊稼業に乗り出す以前の彼は、人びとから尊敬される紳士であった。だから彼をよく知る人びとは、海賊になったのは彼の怏おう々おうとして楽しまない結婚生活に原因する精神の混乱のせいだと信じ、非難するよりむしろ同情の目でみた。しかもボネット少佐は海事に疎く、海の稼業には不向きの男であった。

　ともあれ、彼は一隻のスループ船に十門の砲を装備し、七十人を乗り組ませた。すべて自前であった。そしてある夜、バルバドスを出港した。彼はこの船を「リヴェンジ」号と名付けた。最初の航海はヴァージニア沖であった。そこで彼は数隻の船を捕らえ、食糧、衣類、金銭、弾薬等を掠奪した。これら獲物になった船のうちには、モントゴメリー船長が指揮しグラスゴーから航海してきた「アン」号、バルバドスから航海してきた「ターベット」号、スコット船長の指揮するブリストル船「エンデヴァー」号、そしてリースから航海してきた「ヤング」号が含まれていた。「ターベット」号はバルバドスの船籍だったため、海賊はめぼしい積荷を奪った後、船に火を放った。それから一味はニューヨークへ向かい、ロングアイランドの東端の沖で西インド諸島へ向かうスループ船を襲った。海賊一味はガーディナー島に針路をとり、乗組員の一部をこの島に降ろした。別れは穏やかに行なわれ、一味は島に残る仲間のために食糧を買い与えた。そして船は妨害されることもなく島を離れた。

　一七一七年八月、サウスカロライナ砂州沖へやってきたボネットは、港へ入ろうとしていたスループ船とブリガンティーン船を捕らえた。スループ船はバルバドス籍で、船長の名はジョセフ・パーマーといい、ラム酒、砂糖、そして奴隷を積んでいた。ブリガンティーン船はニューイングランドの船で、トマス・ポーター船長が指揮していた。一味は、ブリガンティーン船は掠奪した後釈放したが、スループ船はノースカロライナの入江まで連行した。そしてこの船を使って自分たちの船の傾船修理を行なった後、火を放った。

　船の修理が終ると一味は出港した。しかしまだ針路が決まらなかった。乗組員たちの意見は分かれ、混乱した。前にも話したように、少佐は船乗りではなかったから、海事に疎く、航海中は多くのことを乗組員の決定するがままに任せなければならなかった。そうこうしているとき、一味は黒髭ティーチこと海賊エドワード・ティーチに出会ったのである。ティーチは腕ききの船乗りであると同時に、非道この上ない悪人で、大胆さにおいても彼の右に出るものはいなかった。彼は想像を絶するような残忍な悪事を、ためらいもなく行なう男であった。海賊一味の親玉になるべくしてなった男といってよいであろう。まことに黒髭こそ、悪事にかけてはぬきん出た存在であった。

　ボネットは僚船として黒髭一味に加わった。だがボネットは、スループ船が自分のものであるにもかかわらず一味から蔑ろにされた。彼は黒髭の船に乗せられたが、一味の仕事には関与させてもらえなかった。このような状態が、黒髭が自分の船をトプスル入江で見棄てるまで続いた。そして、ボネットの代りに、黒髭の手下リチャーズがスループ船の指揮をとることになった。少佐は自分の愚かさ加減をいまにして知ったがどうすることもできず、すっかりふさぎ込んでしまった。彼は自分の過去をふり返り、自分の行なったことを考えて慚ざん愧きに耐えなかった。彼の行動は他の海賊たちの目を引いたが、彼らはそのためにボネットに好意を持つようなことはなかった。彼はよく幾人かの海賊たちに、このような稼業はもう嫌になったからすぐにでも足を洗いたいけれど、イギリス人にふたたび顔を合わせるのが恥かしいと話していた。だから、彼がスペインかポルトガルへ行くことができれば、そこでだれに知られることもなく余生を送れたであろうが、それがだめなら生きている限り彼らと行動をともにしなければならないのだった。

　トプスル入江で黒髭が自分の船を見棄て、国王の布告に従って降伏したとき、ボネットはふたたび自分のスループ船「リヴェンジ」号の船長に返り咲いた。彼はノースカロライナのバスタウンに直行し、黒髭同様、国王の布告に従って降伏し、赦免状を手に入れた。ちょうど、イギリス、フランス、オランダ三国とスペインの間に戦争が勃発したときである。ボネット少佐は、スペインに対する私掠船の委任状を得る目的で（少なくともそのように見せて）セントトマス島へ向かうため、ノースカロライナの出港許可状を入手した。ボネットがトプスル入江に戻ってみると、ティーチ一味が大型船からかねと小火器類を運び出して島を去った後だった。さらにティーチは、十七人の仲間を、本島から一リーグほど離れた小島に置き去りにしていった。ティーチはこの仲間たちを餓死させるつもりだったに違いない。島には何の生き物も棲息せず食糧となるようなものはなかった。ボートもなければ、島から脱出するための筏を作る材料さえなかった。置き去りにされた連中は食べ物もなしに三日間をこの島で過ごし、しのびよる死を待つのみであった。そうしたとき、思いもよらなかった救いがやってきた。ティーチの暴虐に耐えかねて彼のもとから逃げ出し、港のはずれの小さな村に潜んでいた二人の海賊から置き去りになった一味のことを聞いたボネット少佐が、事実を確かめるためにボートを出し、それを彼らが発見して合図を送ったのである。こうして彼らは全員ボネットのスループ船に救出された。

　ボネット少佐は全乗組員に、自分はスペインに対する私掠船の委任状を得るためセントトマス島へ向かうつもりだが、一緒に行きたいものがあれば喜んで仲間に加えると言った。彼らは全員これに応じた。しかしスループ船が出帆の準備をしていると、林檎や林檎酒を売りに来たはしけが、黒髭ティーチが十八人乃至二十人の手下とともにオクラコーク入江に碇泊していると知らせた。ティーチから数々の侮辱を受けたボネットは彼を激しく憎悪していた。彼は急遽黒髭の追撃に向かった。しかし時すでに遅かった。オクラコーク入江に到着したときにはすでに黒髭の姿はなかった。その後四日間航海したが何の情報も得られなかった。ボネットはヴァージニアに針路をとった。

　七月、一味はヴァージニア沖で一隻のピンク船に遭遇した。一味はちょうど食糧を切らしていたため、この船から塩漬けの豚肉十二樽とパン約二百キロを自分たちの船に運び込んだ。しかし彼らはこれを海賊行為とするつもりはなく、相手に米十樽と古くなった錨綱を与えた。

　二日後、一味は六十トンのスループ船を追跡し、ヘンリー岬の沖二リーグの地点で捕らえた。一味はスループ船からほしいと思っていたラム酒二樽と糖蜜を手に入れ大いに気をよくした。もっとも一味はそれを買う金は持っていなかった。どのような保証があってのことだったのか私は知らないが、ボネットは自分の手のもの八人を、獲物にしたスループ船に送り込んで、この船を任せた。八人の男たちは持ち前の気侭さを存分に発揮し、好機をとらえて船ごと逃走してしまった。ボネット（彼はトマス船長と呼ばれるのを好んだ）は再び彼らを見ることはなかった。

　少佐はスティード・ボネットの名で、国王陛下の赦免を受けていた。しかしこの事件の後、彼は一切の自制をかなぐり捨て、トマス船長として本気で海賊稼業に戻ったのである。そして、遭遇した船はことごとく掠奪するまぎれもない海賊として再出発したのである。ヘンリー岬沖で彼はヴァージニアからグラスゴーへ向かう二隻の船を捕らえ、積荷のタバコ五十キロを奪った。翌日、一味はヴァージニアからバーミューダへ向かう小型スループ船を捕らえ、塩漬豚肉二十樽とベーコンを少々掠奪したが、彼らもお返しに米二樽と糖蜜一樽を与えた。この船の乗組員二人が自ら一味の仲間に加わった。次いで一味はヴァージニアからグラスゴーへ向かう別の船を拿捕したが、櫛、ピン、針といった小間物以外には価値のある獲物は何もなかった。一味はこの船に塩漬け豚肉二樽とパン二樽を与えた。

　一味はヴァージニアからフィラデルフィアへ針路をとった。北緯三十八度の地点でノースカロライナからボストンへ向かうスクーナー船を捕らえると、大砲の覆いを作る仔牛の皮二ダースのみを奪い、乗組員二人を自分たちの仲間に引き入れた。そしてこの船を数日間拘留した。これまでの獲物は小物ばかりであった。一味はセントトマス島へ到着するまでの必需品だけを調達するつもりだったらしい。これまで不運にも一味の手に落ちた船に対しても、彼らは好意的に取り引きを行なっていたからである。しかし以後一味に遭遇した船はこううまくはいかなかった。北緯三十二度、フィラデルフィア近くのデラウェア河沖で、一味はブリストルへ向かう二隻のスノー船を捕らえ、百五十ポンド相当の商品のほか、かなりの現金を奪った。同時に、フィラデルフィアからバルバドスへ向けて航海中の、六十トンのスループ船を拿捕し掠奪した。掠奪の後、海賊はこれら三隻の船を釈放した。

　七月二十九日、ボネット船長はデラウェア湾六、七マイル沖の地点で、フィラデルフィアからバルバドスへ向かっていたトマス・リード船長が指揮する五十トンのスループ船を拿捕し食糧を押収した後、四、五人の手下をこの船に乗り移らせた。七月三十一日、一味はアンティグアからフィラデルフィアへ向かっていたピーター・マンウォーニング船長の六十トン級スループ船から、ラム酒、糖蜜、砂糖、綿花、そして現金二十五ポンドを奪った。掠奪品の総額は五百ポンドになった。

　この日、海賊一味は拿捕した船を伴ってデラウェア湾を発ち、ケープフィア河へ向かった。ここで彼らは長逗留しすぎてしまった。海賊スループ船――「ロイヤル・ジェームズ」号と改名した――の漏水がひどいため、その修理にほとんど二か月を要したからである。彼らはこの河で一隻の小舟を拿捕し、その板を剥して自分たちの船を修理した。そんなこんなで航海を続けるのが遅れてしまったのである。その間に、海賊が獲物にした船を使って自分たちの船を修理しているというニュースがカロライナに伝わった。

　この情報が伝わると、サウスカロライナ植民地議会は胆をつぶした。この地がまたもや海賊に見舞われるのではないかと怖れたのである。これを防ぐため、当植民地のウィリアム・レット大佐が、自ら二隻のスループ船を率いて海賊の攻撃に赴くことを植民地総督に申し出た。植民地総督は直ちにこの申し入れを受け入れ、大佐に海賊討伐の権限を与えると同時にこの計画に必要な船の準備を一任した。

　数日後、二隻のスループ船の装備が成り、乗組員の配備も完了した。一隻はジョン・マスターズ船長が指揮する砲八門、乗組員七十人の「ヘンリー」号、もう一隻はフェイア・ホール船長が指揮する砲八門、乗組員六十人の「シー・ニンフ」号だった。レット大佐は総指揮官として「ヘンリー」号に座乗した。九月十四日、一行はチャールストンからスウィリバンツ島へ向かった。ちょうどそのとき、アンティグアから一隻の小型船がやってきた。コックというこの船の船長は、砂州の見えるところで砲十二門、乗組員九十人の海賊ブリガンティーン船に捕らえられ掠奪されたと語った。海賊の頭目はチャールズ・ヴェインという名であった。海賊はこのほかにも同じ場所で入港してくる二隻の船を捕らえていた。一隻はバルバドスからやってきたディル船長の小型スループ船、もう一隻はトンプソン船長が指揮するギニア航路のブリガンティーン船であった。ヴェインはこの船に乗せていた六十人余りの黒人を、僚船として同行していたスループ船に移した。このスループ船はイエーツという男が指揮し、二十五人が乗り組んでいた。このことは、ギニア船の船主にとって幸いであった。イエーツはこれまで幾度も海賊稼業から足を洗おうとしていたのだが、ある夜、闇にまぎれてヴェインのもとを去り、チャールストンの南にあるノースエディスト河に入った。そこで彼は国王の赦免を求めて投降したのである。ギニア船の船主は黒人を取り戻し、イエーツと彼の手下は植民地政府から赦免状を入手した。

　ヴェインはイエーツを捕らえるつもりで、しばらくの間砂州の沖を遊弋していた。ここで出港してきたロンドン航路の二隻の船が一味の手に落ちた。海賊たちは捕虜に「俺たちは南の方にある河へ行くのだ」と言いふらした。これを聞いたレット大佐は、九月十五日、二隻のスループ船を率いて砂州を後にした。一行は北の風を受けて海賊ヴェインを追跡し、南にある河や入江をかたはしから調べていった。しかし、ついにヴェインを発見することはできず、ボネット討伐という最初の計画を遂行するためケープフィア河に針路をとった。九月二十六日、大佐の小艦隊はケープフィア河に入り、遠方に三隻のスループ船が碇泊しているのを認めた。ボネット少佐と獲物の船であった。大佐は河を遡ってゆこうとしたが、途中で水先案内人が一行のスループ船を二隻とも座礁させてしまった。座礁した船が再び水面に浮かぶと、すでに日は暮れていた。その夜は海賊に攻撃をかけることはできなかった。海賊一味はすぐ大佐一行のスループ船に気付いたが、彼らが何者であるか、何の目的でこの河へやってきたかを知らなかった。一味は三隻のカヌーに乗り組んで一行のスループ船を拿捕すべくやってきた。しかし彼らはすぐ自分たちの思い違いに気付き、このありがたくない知らせを持ってスループ船にとって返した。その夜ボネット少佐は戦闘の準備を整え、拿捕した船の乗組員を全員上陸させた。彼は捕虜の一人マンウォーニング船長に一通の手紙を見せた。これはカロライナ植民地総督に宛てたもので「われわれの前に姿を見せたスループ船が、われわれを討伐するために植民地総督が派遣したものなら、われわれは遠慮なくそれらを潰滅してしまうし、サウスカロライナ航路の船舶はすべて焼き払ってしまうであろう」という主旨のものであった。翌朝、海賊船は錨を揚げ、砲戦をするつもりで河を下った。レット大佐の率いるスループ船隊も錨を揚げ一味に立ち向かった。大佐は敵船に斬り込みをかけるつもりだった。大佐の作戦をみてとった海賊は、激しい砲撃を浴びせながら船を岸に向けた。海賊船は座礁した。大佐の二隻のスループ船も浅瀬に乗り上げた。レット大佐の座乗する「ヘンリー」号は海賊船のへさき、ピストルの弾がとどく至近距離に擱かく坐ざした。もう一隻は「ヘンリー」号の右前方に着底した。しかし、砲の射程外の地点であったため、大佐の助勢にはならなかった。

　この時点では海賊の方がはるかに有利だった。海賊船は座礁した後、レット大佐の船の反対側に傾いた。このため、海賊たちは相手から遮蔽される形になった。一方、大佐のスループ船も同じ方向に傾いたため、乗組員たちは逆に海賊の砲火にさらされることになった。それにもかかわらず、彼らは座礁した状態のままで激しく応戦した。砲戦は五時間近くに及んだ。海賊どもは血に染まった海賊旗をなびかせ、大佐の乗組員に向かって帽子を振りながら、「俺たちの船に乗り移ってこられるものならきてみろ」と嘲った。乗組員たちは快活な歓声をあげてこれに答え「もうすぐ貴様らと話をしに行くぜ」と言った。そうこうするうちに、大佐の船が浅瀬から離れた。彼は船をもっと水深のあるところへ出すと、戦闘ですっかり傷んだ索具を修理した後、最後の一撃を加えようと海賊船に立ち向かっていった。彼らは敵の船に乗り込むつもりであった。しかしその前に一味は休戦旗を掲げ、投降したのである。大佐は海賊のスループ船を拿捕した。そして海賊船のトマス船長が、過去度々カロライナの地を訪れたスティード・ボネット少佐その人であることを知って、大喜びであった。

　二日後、ボネットとその乗組員は下船させられた。しかしその地には牢獄がなかったため、彼らは番小屋に監禁され、民兵の監視下におかれた。ボネット少佐だけは、司令官の自宅に留置された。数日後、番小屋に監禁されていた海賊のうち、マスターのダヴィッド・ハリオットと甲板長のイグネイシャス・ペルが他のものに対する証人として司令官宅に移された。そして毎夜、二人の見張りがつけられた。

　しかし十月二十四日、見張りが買収されたのかあるいは不注意だったのか定かではないが、少佐とハリオットが脱走した。ペルは一緒に行くことを拒んだ。この事件は植民地に大きな騒ぎをまき起こした。人びとは植民地総督や判事たちがまるで賄賂を取って海賊の脱走を見逃したかのように言って、彼らを公然と非難した。人びとは、ボネットが別の海賊一味を組織してこの植民地に仕返しをするのではないかと怖れるあまり、このような罵りの言葉を発したのだった。しかし人びとはすぐ安心することができた。というのは、ボネットの脱走を知って、植民地総督はすぐさま布告を出し、ボネットを捕らえたものには七百ポンドの賞金を出すと約束したからである。総督は数隻の小舟に武装兵を乗り組ませて、彼の捜索にやらせた。

　ボネットは小舟で北へ向かった。しかし食糧が欠乏し、天候も悪化したため、引き返さざるを得なくなった。彼は必要なものを補給するため、チャールストン近くのスウィリヴァンツ島にカヌーで上陸した。しかしこの情報が植民地総督に伝わったため、総督はレット大佐を呼んでボネットの追跡を命じた。大佐は直ちに捜索隊を組織して、その夜スウィリヴァンツ島に向かった。必死の捜索のすえ、一行はついにボネットとハリオットが一緒に居るところを発見した。捜索隊は発砲して、ハリオットを射殺し、一緒にいた黒人とインディアンに傷を負わせた。ボネットは自ら降伏した。翌十一月六日朝、彼はレット大佐によってチャールストンへ護送され、裁判に付すため、植民地総督の令状により身柄を拘禁された。

　一七一八年十月二十八日から数回の休廷をはさみ翌月十二日まで、サウスカロライナのチャールストンにおいて裁判長ニコラス・トロット以下、判事、判事補佐列席のもとに「リヴェンジ」号、後に「ロイヤル・ジェームズ」号と改名したスループ船に乗り組み捕らえられた海賊一味に対する海事法廷が開かれた。

　トロット裁判長に対する国王の任命状が朗読され、大陪審は起訴状を認定した。また、裁判長が陪審員に与えた説示の認定が行なわれた。その中で裁判長はまず、「海は陸地と同じく神が人間に与え賜うたものであり、統治権と所有権が認められるべきものである」と述べ、続いて「大英帝国の海に対する英国国王の統治権」について特に注意し、第三に、「交易や航海は法律無くしては行なわれえず、従って、これまでにも海事のよりよい秩序と規制のための特別な法律が常に実施されてきた」として、それらの法律や原則について歴史的な説明を加えた。第四に、「特別の裁判官が任命されており、民事および刑事に係る海事事件は彼らの管轄権に属している」と続け、第五に、「本海事法廷の構成と権限」について説明した後、最後に「本法廷で審理されるべき犯罪、特に海賊行為」について説明した。



スティード・ボネット少佐の処刑（１７２５年オランダ語版より）





* * *





小陪審が起訴事実を認め、以下の被告が召喚され審理された。

スティード・ボネット、別名エドワーズ、別名トマス、元バルバドス島在住、海員

ロバート・タッカー、元ジャマイカ島在住、海員

エドワード・ロビンソン、元ニューカッスル・アポン・タイン在住、海員

ニール・パターソン、元アバディーン在住、海員

ウィリアム・スコット、元アバディーン在住、海員

ウィリアム・エディ、別名ネディ、元アバディーン在住、海員

アレキサンダー・アナンド、元ジャマイカ在住、海員

ジョージ・ロス、元グラスゴー在住、海員

ジョージ・ダンキン、元グラスゴー在住、海員

トマス・ニコラス、元ロンドン在住、海員

ジョン・リッジ、元ロンドン在住、海員

マシュー・キング、元ジャマイカ島在住、海員

ダニエル・ペリー、元ガンジー島在住、海員

ヘンリー・ヴァージン、元ブリストル在住、海員

ジェームズ・ロビンズ、別名ラトル、元ロンドン在住、海員

ジェームズ・ミュレット、別名ミレット、元ロンドン在住、海員

トマス・プライス、元ブリストル在住、海員

ジェームズ・ウィルソン、元ダブリン在住、海員

ジョン・ロペツ、元オポルト在住、海員

ヅァハリア・ロング、元オランダ在住、海員

ジョブ・ベイリー、元ロンドン在住、海員

ジョン・ウィリアム・スミス、元カロライナ、チャールストン在住、海員

トマス・カーマン、元ケント州メイドストン在住、海員

ジョン・トマス、元ジャマイカ島在住、海員

ウィリアム・モリスン、元ジャマイカ島在住、海員

サミュエル・ブース、元チャールストン在住、海員

ウィリアム・ヒューイット、元ジャマイカ島在住、海員

ジョン・レヴィット、元ノースカロライナ在住、海員

ウィリアム・リヴァーズ、別名エヴィス

ジョン・ブリーリー、別名ティンバーヘッド、元ノースカロライナ、バスタウン在住、海員

ロバート・ボイド、元バスタウン在住、海員

ローランド・シャープ、元バスタウン在住、海員

ジョナサン・クラーク、元サウスカロライナ、チャールストン在住、海員

トマス・ジェラルド、元アンティグア在住、海員

最後の三名とトマス・ニコラスを除いた全員が有罪とされ、死刑の宣告を受けた。

海賊たちはほとんど全員が二件の起訴事実によって裁かれた。すなわち――。





　陪審員は、国王陛下に代り、厳粛なる宣誓のもとに、元バルバドス島在住の海員スティード・ボネット、ロバート・タッカー、その他を左記のとおり告発する。

　ジョージ国王陛下治世五年八月二日、北緯三十九度に位置するジェームズ岬、別名ヘンローペン岬沖二十マイルの公海上において、被告らはピーター・マンウォーニングの指揮する商船「フランセス」号に対して武力を行使し、凶悪なる海賊行為に及び当該商船を襲撃し、それに接舷し、立ち入った。サウスカロライナ海事裁判所の司法権が及ぶ当該海域において、神の平安と国王陛下の安寧に抗し、被告らは当該スループ船の上述ピーター・マンウォーニングその他の乗組員に暴行を加え、彼らの生命を脅かした。また国王陛下の安寧に抗し、上述、北緯三十九度、沖合二マイル、ジェームス岬、別名ヘンローペン岬のサウスカロライナ海事裁判所の司法権が及ぶ公海上に於て、当該スループ船「フランセス」号を掠奪し、積荷二十六樽その他を奪った。





　以上が海賊一味に対する起訴状である。海賊の大部分のものについてこれ以外にも罪状のあることが立証されたであろうが、法廷は二件の罪のみを起訴するのが適当と考えたのである。上述した罪状以外のもう一つの罪は、トマス・リード船長のスループ船「フォーチュン」号を拿捕し、海賊行為に及んだことである。起訴状の形式は「フランセス号」に関するものと同様である。

　起訴された海賊らのうち、ジェームズ・ウィルソンとジョン・レヴィットは起訴事実を二件とも認め、ダニエル・ペリーは一件についてのみ有罪を認めたが、残り全員は無罪を主張したため、公判に付された。ボネットは直ちに二件の起訴事実を詳細に審議することを望んだが、法廷はそれを認めなかった。彼は両方の起訴事実について無罪の申し立てをした。しかし一件について有罪の宣告がなされると、他の件に関する無罪の申し立てを取り下げた。

　被告らは特に抗弁せず、自分たちは置き去りにされた島からボネットに救われてセントトマス島に連れて行かれただけであり、航海中食糧が欠乏してあのような行為を余儀無くされたのだと言った。ボネット自身も「あれは意図したことではなく不可抗力だった」と主張した。しかし事実が明白に立証され、起訴状に列記されたもののうち、最後の三人とトマス・ニコラスを除いた全員が、各十ポンドから十一ポンドの分け前を取っていたことがわかった。裁判長は被告らに対して非常に厳粛な演説をし、被告らの犯した罪の重大さと、彼らが現在置かれている状況、そして偽らざる懴悔が必要なことを説いた。そして来世へのより十分な心構えを与えるため、「祭司の口唇くちびるに知識を持つべく又人彼の口より法おきてを諮詢たずぬべしそは祭司は万軍の王エホバの使者つかいなればなり（マラキ書二・七）。また、祭司はキリストの使者なり。神は和やわらがしむ言ことばを彼等に委ね給へり（コリント後書五・十九、二十）」と聖書の言葉を引いて結論とし、彼らを植民地の司祭の手に委ねた。それから裁判長は彼らに死刑を宣告した。

　一七一八年十一月八日土曜日、チャールストン近くのホワイトポイントにおいて、判決に従いロバート・タッカー、エドワード・ロビンソン、ニール・パターソン、ウィリアム・スコット、ジョブ・ベイリー、ジョン・ウィリアム・スミス、ジョン・トマス、ウィリアム・モリスン、サミュエル・ブース、ウィリアム・ヒューウィット、ウィリアム・エディ別名ネディ、アレキサンダー・アナンド、ジョージ・ロス、ジョージ・ダンキン、マシュー・キング、ダニエル・ペリー、ヘンリー・ヴァージン、ジェームズ・ロビンズ、ジェームズ・ミュレット別名ミレット、トマス・プライス、ジョン・ロペツ、およびヅァハリア・ロングの死刑が執行された。

　ボネット船長は脱走によって数日間生き長らえることができたが、十一月十日、彼の裁判が開かれ有罪となった。判決を下す前に、トロット裁判長はボネットに対して実にすばらしい訓話をした。本書がどのような人に読まれるかわからないし、このような有益な教えを無視するわけにはいかないから、長くなるのをいとわず以下に掲げておく。





判決にあたり、裁判長がスティード・ボネット少佐に与えた訓話



　スティード・ボネット少佐。被告は今、二件の海賊行為によって有罪とされている。一件は陪審が決定したもの、もう一件は被告自身が自白したものである。

　被告が起訴されたのは二件の海賊行為に関してのみであるが、被告も知るとおり、ノースカロライナを出帆して以来、被告は少なくとも十三隻以上の船舶に海賊行為を働き、それらを拿捕し掠奪したことが、本法廷において立証されている。

　従って、被告が国王の赦免を受け、それまでの海賊生活をやめようとしてからもなお、十一件以上の海賊行為について有罪となっていたはずである。

　それ以前に犯した多くの海賊行為については言うまでもない。それらに対する人間の許しが真正なものでなかったとしても、被告は神の前ではそれらに対する責任をとらなければならないのである。

　被告の犯した数々の罪は、それ自身が悪である。それは「汝盗むなかれ（出エジプト記二〇・一五）」と聖書が教え「奪うものは神の国を嗣ぐことなきなり（コリント前書六・一〇）」とパウロが明言している神の法ならびに自然法に背くものなのである。

　しかし被告は盗み以外にも罪を重ねた。殺人である。被告の海賊行為に反抗して殺された人びとがどれほどの数にのぼるのか私は知らない。しかし傷を負わせたもの以外にも、被告を征圧し被告が日々行なっていた掠奪をやめさせるために合法的に派遣された人びとのうち、少なくとも十八人が殺されたことは周知の事実である。

　被告は、正々堂々たる交戦においてこれらの人びとを殺したのだと思っているかもしれない。しかし、被告には武力を行使し交戦する合法的な権限は与えられていなかったのである。従って、国王と祖国に対する本分を尽しあの戦闘に倒れた人びとは殺されたのであり、彼らの血は今でも被告に対する復讐と公正なる裁きを激しく求めているのである。なんとなれば、「凡そ人の血を流す者は人其血を流さん（創世記九・六）」というのは神の法によって認められた自然の理だからである。

　そして、死のみが人殺しに対する罰ではないことに思いをいたすべきである。すなわち、「人を殺すもの、火と硫黄の燃ゆる池にて其の報を受くべし、これ第二の死なり（黙示録二一・八）」とされているのである。被告の境遇と罪を考えるとき、これらの言葉はまことに被告を恐怖で身震いさせずにはおかないであろう。聖書は「たれか焼きつくす火に止まることを得んや（イザヤ書三三・一四）」といっている。

　被告は、被告が神に抗い、神の怒りを引き起こした数々の罪悪を悟ることで良心の証としなければならない。ここで今さら私が言う必要もないと思うが、被告がその罪に対する神の許しを得る唯一の道は、真実で偽らざる懴悔をし、キリストを信じることである。キリストの讃えらるべき死と受難によってのみ、被告は救済の希望を持つことができるのである。

　被告は教育ある紳士であり、一般の人びとからは学問ある人として尊敬されていた。従って、懴悔とキリストの信仰がいかなるものであるかを私の口から説明することは無用であろう。それらは聖書に尽されているし、被告も知らないはずはないからである。だから、私がこの法廷で被告に対し多くを語るのは適当でないと考える人もいるかも知れない。しかし、被告のたどった人生とその行ないを考えるとき、私は、われわれの悪しき時代の無神論と無信仰により、被告が受けた宗教の教えが、まったくとは言わないまでも堕落しているのではないかと恐れるのである。そして被告の学んだものが、聖書に啓示されている神の法と意志の真面目な研究よりは、むしろこの時代の洗練された文学や愚かな哲学だったのではないかと考えるのである。なぜなら、「エホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ（詩篇一・二）」ならば「聖言はわがあしの燈火わが路のひかり（詩篇二九・一〇五）」であることがわかったはずであり、また被告の学んだものは「キリストの智慧（ピレモンへの書）」に比べれば取るに足らぬものであることがわかったはずだからである。キリストは「召されたるものには神の能力、また神の智慧（コリント前書）」なのである。

　被告は聖書を天の大憲章として尊ぶべきであった。それはわれわれに人生の最も完全な規範を与えるだけでなく、この正しい法に背いた人びとに対する神の赦免をも示しているのである。なぜなら、聖書の中にのみ、「御使たちも之を懇ろに視んと欲する（ペテロ前書）」といわれる堕落した人間の救済という偉大な奇跡がみとめられるからである。

　聖書はまた、罪は神がわれわれを創りたもうたところの純潔、公正、清浄から人間を逸脱せしめ人間の性質を卑しめるものであり、徳と信仰と神の法を守ることは、「楽しき途なり、その経すじは悉く平康し（箴言三・一七）」と記されているように、罪と悪魔の道よりはるかに望ましいとわれわれに教えている。

　しかし不注意で、あるいは浅薄な理解により、被告が神の言葉から学ぶことができなかったのであれば、神の摂理と神が被告に課されたもうた現在の苦しみが、今や被告にそのことを悟らせたであろうことを私は希望する。なぜなら、被告はうわべの隆盛のなかで「罪を軽んじ（箴言）」ていたかも知れないが、今や神の御手が被告に及び、被告を公正なる裁きに到らしめたもうたのだから、私は、現在の不幸な境遇が被告をして過去の行ないと人生を深く反省せしめることを願うのである。そして被告が自分の罪の重大さに気付き、それが耐え難い苦しみであることをわかってほしい。

　被告は、今、こうして「罪に労しその重荷を負うている（マタイ伝十一――二十八）」ことを、被告が逆らってきた最高神との和解への道を教える最も価値ある知恵として重んずることであろう。そして、それは、神の前で被告の助け主であるばかりでなく十字架上の自らの死により被告の罪を償われたイエス・キリストを、被告に啓示するものなのである。このことは神の言葉の中にのみ見出せる。すなわち、「世の罪を除く神の子羊（ヨハネ伝福音書一・二九）」が神の子イエスであり、「他の者によりては救を得ることなし（使徒行伝四・一二）」とあるとおりである。

　イエスはいかにしてすべての罪人を招き「彼等を休ませる（マタイ伝福音書二・二八）」のか。イエスは「失せたる者を尋ねて救はん為（ルカ伝一九・一〇）」に来られたのであり「我にきたる者は、我これを退けず（ヨハネ伝六・三七）」と約束されたのである。

　従って、被告が今からでも真にキリストに帰き依えするのであれば、イエスは被告を受け入れて下さるであろう。

　イエスの慈悲が信仰と懴悔に対するものであるということは、私がここで説明するまでもないであろう。だが、懴悔というものが、単に被告の犯した罪とそれに対して被告にもたらされた罰に思いをいたして後悔するだけのものと誤解してはならない。すなわち、被告は慈悲深く寛大な神に背いたことを反省し悔いなければならないのである。

　私は被告に対し、懴悔に関する特別な心得を与えるつもりはない。私は、被告のつまずきが無知というより、むしろ自分の義務を軽んじ蔑ろにしたことに起因すると考える。私が自分の職分を越えて助言したりするのは正しいことではない。

　被告は、神学を修め、その職と知識により「キリストの使者（コリント後書五・二〇）」となった人びとから、適切な教えを受けることができるであろう。

　私はただ、この悲しくも厳粛な機会に、私が被告の魂に対する哀れみから信仰と懴悔を説いて話したことが、被告が真の悔悟者となることに役立つことを願うのみである。

　被告の魂の救済のために私が為し得る話はこれですべてであり、被告に対するキリスト者としての私の義務は尽した。今や私は裁判官としての職責を果さねばならない。

　被告の罪に対し法が命じ本法廷が下す判決

　被告スティード・ボネットを本法廷から、本法廷に連行される以前の場所に移し、そこから刑場に移して絞首刑に処する。

　汝の魂に神の慈悲のあらんことを。





補　遺





　ボネット少佐の生涯とその行ないに二、三の補足をしておこう。処刑が近づくと彼の覚悟はもろくもくずれ、恐怖と苦悶は極度に高まった。そして刑場に連行されたときにはほとんど意識もないほどだった。判決をうけたときの彼の哀れな様子は植民地の人びとの同情をさそい、特に女たちの心を動かした。そしてボネット助命の嘆願が植民地総督に寄せられた。しかし、これは無駄なことであった。植民地総督ジョンソン大佐自身が極刑をほしいままにしたのではない。ただ彼は自分の職務をよく心得ていて、自分自身の名誉と公共の利益が問題になっているときに、柔弱で思慮のない人びとの涙や嘆願に惑わされなかったということである。ボネットがいったん捕らえられて後、脱走し、追手に抵抗して自分の仲間だったハリオットを死に至らしめ、罪の上塗りをしたりさえしなければ、多少なりとも情況は彼に有利になっていたかも知れない。だが彼は生かしておくにはあまりにも悪名高く危険な犯罪者になっていた。しかし植民地総督は職務においても私生活においても廉潔、名誉、公正を重んずる人であった。そして、ボネットを囚人としてイギリス本国へ送り、国王陛下の裁きに付してほしいという彼の友人たちの願いに耳を傾けた。レット大佐が護送役を申し出た。しかし友人たちは結局のところ、それはボネットの哀れな命を多少延ばすに過ぎないと考えた。彼らは、ボネットを本国へ送ったからといって彼が赦免されるとは思わなかったのである。処刑が近づいたころボネットが植民地総督に宛てて書いた手紙を以下に添えておく。





　植民地総督閣下

　閣下の傑出したお人柄を信頼いたしまして、厚かましいとは存じますが、私は、我が身を閣下の足元に投げ出して、閣下の憐憫と同情を懇願いたしたく、また私がこの世で最も惨めな人間であることを御知りいただきたく存じます。私の悲嘆に暮れた魂から流れ出る涙が閣下の心を動かし、私の陰鬱な境遇を思いやっていただけたらと思うのです。打ち明けて申し上げますと、私は、閣下が私に対して決定されたあの恐ろしい処刑に心の準備ができておりません。

　どうか私の願いをお聞き入れ下さい。私の友人に三人のキリスト教徒がおりますが、閣下のお許しが得られれば、彼らは、私の死刑宣告の原因となった行為は、無理強いされてやったことだと証言してくれます。彼らの言葉に耳を傾けていただきたいのです。

　私が命長らえれば再びあの忌わしい稼業に従事すると思っている、人殺しだけでは満足しない一部の人びとのそねみや神を恐れない狂暴さの犠牲に私をしないで下さい。閣下が私に命を与えてくださるのなら、私は自ら自分の手足を斬り落し、閣下がそのような疑いを抱かれないようにいたします。そして残された私の舌を使って、深い哀しみのうちに、神を求め神に祈りつづけます。そして最後の審判の日まで、自らの救済の希望を求めるつもりです。また、もし私の性向がひどく邪悪なのであれば、善良なるキリスト教徒の人びとの害とならないように、私を生涯最も遠く離れた島の監獄に入れるなり辺地の開拓地に隔離するなり、閣下の御自由になさって下さい。

　重ねての御願いです。閣下がキリスト教徒であらせられますなら、私の惨めな魂に慈悲と同情を御与え下さいませ。私の魂は罪の道から目覚めたばかりで、それが主イエスの腕に抱かれるという希望や確信も十分でなく、あまりにも急な死を迎え入れることができません。それゆえ、私の命、家族に対する世評、そして将来の幸福な境遇はひとえに閣下の御心のままなのであります。どうぞキリスト教徒としての慈悲深き御心で私のことを思いやっていただきたく、また御寛大な決定を下されたく哀願いたします。私は閣下を神に次ぐものとして崇め、神が閣下の罪をお許し下さるよう祈ります。

　永遠の契約により偉大な羊飼いわが主イエスを死よりよみがえらせたもうた平安の神が、御心をなすため、栄光のキリストをつうじて、喜ばしく見たもう閣下とともに在り、すべての良き業に閣下を完全たらしめたまわんことを。これこそ私の心からの祈りなのです。

閣下の最も哀れなそして苦しんでいる下僕　スティード・ボネット





５　エドワード・イングランド船長と乗組員





　エドワード・イングランドはスループ船の航海士としてジャマイカを出帆した。しかし一行はプロヴィデンスに到着する直前に海賊ウィンター船長に捕らえられた。これが原因で、イングランド自身もスループ船を指揮してこの見上げた稼業に乗り出したのである。思慮分別のある人びとが、人間の性格をかくも卑しめ、弱者を餌食にして生きる森の野獣のような生涯を送るのは実に驚くべきことである。その罪業は無法を極め、殺人、掠奪、窃盗、忘恩その他ありとあらゆる犯罪行為を含むのである。海賊たちは日々、これらの悪行に慣れ親しむ一方で、自分たちの自尊心、正義感、勇気等が非難されようものなら、ひどい侮辱と感じ、そのような非難をしたものは死刑に処すべきだと考えるような、非常に矛盾した性格の持ち主なのである。

　イングランドは、善き分別を持った人びとの一人であった。性格もよく、勇気にも富んでいた。強欲ではさらになく、捕虜を虐待することを常に嫌悪した。仲間をこのような温和な性格にもってゆくことができたら、彼は控え目な獲物で満足したであろうし、あまり悪辣な行為に及ぶこともなかったと思われる。しかし彼は他人の言うなりになり、またあの忌わしい集団に深入りしすぎたため、彼らのあらゆる悪行の片棒をかつがざるを得なかったのである。

　イギリス政府がプロヴィデンス島を植民地とし、そこの海賊たちが国王の赦免を求めて降伏した後、イングランド船長はアフリカ海岸へ向かい、シエラレオネ沖で数隻の船舶を獲物にした。それらのうちの一隻にスキナー船長が指揮するブリストル籍のスノー船「カドガン」号があった。スキナー船長は、海賊船に乗り組んでいた昔の自分の部下になぶり殺しにされた。話はこうである。

　彼らがまだスキナー船長の部下でいたころ、船長といさかいを起こした。スキナーはこれらのものどもを解雇し軍艦に乗せてしまうのがよいと考え、給与を払うのも拒んだ。解雇された連中は軍艦勤務についたが、ほどなくそこを脱して西インド諸島航路の船に乗り組んだ。そして海賊に捕らえられプロヴィデンスに連れてこられた。そこでイングランド船長の仲間に加わったのである。

　イングランド一味に掴まると、スキナーはすぐボートに乗って海賊船にくるように命ぜられた。海賊船にやってきたスキナーが最初に目を合わせた男は、彼の昔の甲板長だった。男はスキナーの顔をまるで疫病神を見るような目付きで眺め、こう言った。「これはこれは、スキナー船長じゃねえですかい。俺はあんたに会いたかったぜ。あんたには随分と借りがあるから、たっぷり礼をさせてもらいますぜ」。

　哀れな船長は、自分がどんな連中の手中にあるかを知って恐ろしさに身がすくんだ。甲板長はすぐに自分の仲間を呼んでスキナー船長をおさえつけ、ウィンチに縛り付けてからガラスのびんでしたたかに殴りつけた。船長は傷だらけになった。さらに海賊は船長の哀願には耳もかさずに甲板中引き回し、自分たちが飽きるまで鞭で打った。最後に彼らは「おめえは部下に親切な船長だったから、安らかに死なせてやるぜ」と言って、船長の頭を撃ち抜いた。

　イングランドは拿捕したスノー船からいくらかの積荷を掠奪すると、船と残った荷物と乗組員を仲間の航海士ハウェル・デイヴィスに与えた。この男のことは別の章で述べることになろう。その後イングランドは、ティザール船長の「パール」号を捕らえると自分の船と乗り換え、海賊船に仕立てて「ロイヤル・ジェームズ」号と改名した。一味はアゾレスおよびヴェルデ岬諸島近海で国籍を異にする大小数隻の船を獲物にした。

　一七一九年春、海賊一味はアフリカへ航行した。そしてガンビア河からコルソ岬に到る沿岸を荒らしまわった。この間彼の手に落ちた船はつぎのとおりである。

　コーク籍のピンク船でリケット船長が指揮する「イーグル」号。備砲六門、乗組員十七名。五月二十五日拿捕。この乗組員のうち七名が海賊に転向した。

　ロンドン籍、オルドソン船長指揮する「シャーロット」号。備砲八門、乗組員十八名。五月二十六日拿捕。乗組員のうち十三名が海賊に転向。

　ロンドン籍、スタント船長指揮の「サラ」号。備砲四門。五月二十七日拿捕。乗組員十八名中三名が海賊に転向。

　ブリストル籍、ガードナ船長指揮する「ベントワース」号。備砲十二門、乗組員三十。五月二十七日拿捕。乗組員十二名が海賊に転向。

　ガンビア籍、シルヴェスター船長指揮するスループ船「バック」号。備砲二門。五月二十七日拿捕。乗組員二名が海賊に転向。

　ロンドン籍、スノウ船長指揮「カートレット」号。備砲四門、乗組員十八名。五月二十八日拿捕。乗組員五名が海賊に転向。

　ロンドン籍、クリード船長指揮するギャレー船「カワード」号。備砲二門、乗組員十三名。六月一七日拿捕。乗組員四名が海賊に転向。

　バルバドス籍、ブリッジ船長指揮の「エリザベス・アンド・キャサリーン」号。備砲六門、乗組員十四名。六月二十七日拿捕。乗組員四名が海賊に転向。

　一味はこれらのうち、ジャマイカへ向かうピンク船「イーグル」号、ヴァージニアへ向かう「サラ」号、そしてメリーランドへ向かう「バック」号は釈放したが、「カートレット」号と「カワード」号には火を放った。また「マーキュリー」号と「エリザベス・アンド・キャサリーン」号は海賊船にした。「マーキュリー」号は「アン女王の復讐」号と名付け、レインという男が指揮をとることになった。「エリザベス・アンド・キャサリーン」号は「フライング・キング」号と改名し、ロバート・サンプルを船長にした。二人はイングランドと別れて西インド諸島へ向かい、そこで数隻の船を獲物にした後、船底の垢を落とし、十一月にはブラジルへ向かった。ブラジルでも数隻のポルトガル船を掠奪し、数知れぬ悪事を重ねたが、彼らの海賊稼業たけなわのとき、一隻のポルトガル軍艦に遭遇した。軍艦は非常な快速で、海賊たちにとってはまことに迷惑な闖ちん入にゆう者しやだった。「アン女王の復讐」号は遁走したが、まもなくこの沿岸で戦い敗れた。「フライング・キング」号は負けを悟り自ら海岸に乗り上げた。海賊船には七十名が乗り組んでいた。そのうち十二名が死に、残りはポルトガル軍艦の捕虜になって、絞首刑に処せられた。捕虜のうち三十二人がイギリス人、三人がオランダ人、二人がフランス人、そして一人はポルトガル人だった。

　イングランドはアフリカ沿岸を航行し、ブリストル籍のギャレー船で、オーウェン船長が指揮する「ピーターボロ」号とリドー船長が指揮する「ヴィクトリー」号を捕らえた。一味は「ピーターボロ」号を抑留したが、「ヴィクトリー」号は掠奪の後釈放した。コルソ岬の泊地に二隻の船が碇泊していたが、海賊が近づく前に錨綱を解き放ってコルソ岬砦の下に避難した。これらはプリンス船長が指揮する「ウイダー」号と、ライダー船長が指揮する「ジョン」号であった。一味は最近拿捕し連行していた船に火を放ち、それを二隻の船の方へ進めて焼き打ちにしようとした。まるでこの二隻の船が不倶戴天の敵であるかのようであった。もしこの焼き打ちが成功したとしても、海賊たちには一文の得にもならなかったであろう。しかし、砦から激しい砲火を浴びせられ一味は退却した。一味はワイダー泊地へ下った。そこで彼らは別の海賊船に遭遇した。ラ・ブーシュ船長の一味であった。彼らはイングランドより先に到着し、すでに猟場を荒掠した後だった。イングランド一味にとってはひどい期待外れであった。



エドワード・イングランド船長





* * *





　この妨害に遭って後、イングランド船長は近くの港に入った。そして船底の垢を落とし、また連行していた「ピーターボロ」号――海賊はこの船を「ヴィクトリー」号と呼んでいた――に海賊船としての装備をした。この地で海賊どもはまことに放縦な数週間を過ごした。黒人女たちを好き勝手に玩び、悪さの限りを尽して住民と争いを起こし、幾人かを殺した。また部落の一つを焼き打ちにした。海へ出ると一味は今後の針路について採決し、その結果、東インド諸島へ向かうことになった。一七二〇年初頭、一味はマダガスカルに到着した。しかしそこに長くは逗留せず、水と食糧を補給した後、直ちにマラバー沿岸へ船を進めた。マラバーは北緯七度三十分から十二度、東経七十五度、カラナからコルモリン岬に至る地域を占める豊かな土地で、ムガール帝国の一部であるが、独自の領主たちが治めている。古くからの住民は異教徒であるが、イスラム教徒も多数住んでいる。彼らは商人であり、一般に裕福である。沿岸を北へたどれば、ゴア、スラト、ボンベイがあり、それらの街にはイギリス人、オランダ人そしてポルトガル人が植民している。

　この土地に、地球を半周する航海をして、「獅のごとく潜みまち苦しむものをとらへん（詩篇）」がために、海賊イングランド一味はやってきた。彼らはここで数隻のインド船と一隻のオランダ船を掠奪し、自分たちの船一隻とオランダ船を取り替えた。こうして一味はマダガスカルへ戻った。

　一味は豚、鹿その他新鮮な食糧を補給するため、数名のものにテントと弾薬を持たせ上陸させた。上陸した連中は、かねてエイヴリーの乗組員らがこの島のどこかに住みついたということを聞いていた。そこで彼らを捜してやろうという気まぐれを起こし、情報を聞き集めながら数日間付近を歩き回った。しかしこれは徒労だった。すでに話したように、エイヴリーの乗組員たちはこの島の反対側に住みついていたからである。

　一味は船の清掃修理をすませると、ヨハンナ島へ向かった。そこで港から出てくる二隻のイギリス船と一隻のオステンド籍の船に遭遇した。海賊はこれらのうちの一隻「カサンドラ」号と激しい交戦の末、これを捕らえたのであるが、以下に示す「カサンドラ」号船長がボンベイから寄せた手紙が戦闘の模様を余すところなく語っている。





マックラ船長の手紙（一七二〇年十一月十六日　ボンベイ）



　七月二十五日、私たちは「グリニッチ」号とともにマダガスカルから程遠くないヨハンナ島へ到着しました。乗組員の休養のため入港したところ、海賊が十四人、マヨット島からカヌーで来ていました。彼らの本船は「インディアン・クイーン」号といい、二百五十トン、二十八門の砲を備え、乗組員九十、オリバー・ド・ラ・ブーシュ船長が指揮してギアナ海岸から東インド諸島へ向かっていたのですが、マヨット島で荷を積み過ぎ沈没してしまったのだそうです。カヌーの一味は、船長以下四十人の仲間が新しい海賊船の建造にとりかかっているのをマヨット島に残してやってきたのだと話しました。カービイ船長と私は、そのような悪党どもの巣窟を撲滅すれば、東インド会社に大いに貢献できるだろうということで意見が一致しました。われわれは用意万端整えました。八月十七日朝八時ごろ、いざ出帆というときに、二隻の海賊船がヨハンナ湾に入ってくるのを発見しました。一隻は三十四門、もう一隻は三十門の砲を備えていました。私はすぐに「グリニッチ」号に行ってみたところ、乗組員は戦闘準備におおわらわでした。私はカービイ船長と互いに味方になることを約束しました。私は自分の船に戻り、もやいを解いて出帆しました。同時に、二隻のボートを私の船の前に配し、それらに私の船を引かせて「グリニッチ」号から離れないようにしました。しかし「グリニッチ」号は順風を受けて私の船からどんどん遠ざかり、また、われわれと同行していたオステンド船もこれを見て同じように離れてゆきました。この船の船長も私たちの味方になることを熱心に約束してくれたのですが――。カービイ船長が約束を守っていてくれたら、オステンド船もそうしていただろうと思います。十二時半ごろ、私は「グリニッチ」号に対し、引き返して味方につくよう何度か呼びかけ、それに向けて大砲を一発発射しましたが無駄でした。私たちは「グリニッチ」号が味方についてくれると信じていましたが、私たちから一リーグほど離れると卑劣にもオステンド船ともども、私たちが野蛮で残虐な敵と戦闘するのを見棄てていってしまいました。海賊船は血に汚れた黒旗を掲げわれわれに迫ってきました。私たちは一味の刃にかかって斬り殺されることから逃れられそうもありませんでした。しかし私たちに天祐がありました。海賊の方がはるかに優勢であるにもかかわらず、私たちは二隻の海賊船とおよそ三時間も交戦し、その間、大きな方の海賊船の吃水線に砲弾が命中しました。このため海賊船は浸水し、それを止めるため少し戦列から離れました。もう一方の海賊船は私たちの船に接舷しようとして必死で漕ぎ寄せてきました。そして一時間もすると、半船長ほどの距離に近づきました。しかし幸運なことに私たちの砲弾が敵のオールをすべてうち砕きました。このため海賊は近づくことができなくなり、私たちは助かったのです。

　私の船の上甲板で部署についていた士官や乗組員のほとんどは戦死しあるいは傷ついていました。四時ごろ、例の大型海賊船が全力で私たちに近づいてきました。そしてまだ二百ヤードほどの距離がありましたが、しきりに片舷斉射を浴びせてきました。すでにカービイ船長の助けを望むべくもなく、私たちは浅瀬に乗り上げて敵から逃れようとしました。ところが、私たちの船の吃水は海賊船のそれより四フィートほど深かったのですが、うまいことに敵の方が先に浅瀬に乗り上げてしまったのです。海賊はまたもや私たちの船に接舷して乗り込むことができなくなりました。ここで私たちは今までになく激しい戦闘をしました。士官や乗組員全員が、思いもよらないような勇気を見せて戦いました。そして私たちは、海賊船に対して有利に片舷斉射を浴びせ、多大な損害を与えることができました。もしここでカービイ船長が加勢してくれていたら、私たちは海賊船を二隻とも捕らえていただろうと思います。なぜなら彼らのうち一隻は確実に私たちの手中にあったのですから。しかしもう一方の海賊船は――これはまだ私たちに砲撃を加えていました――「グリニッチ」号が救援に加わらないと見ると、二隻のボートで新手の乗組員を僚船に送り込みました。夕方五時ごろ、「グリニッチ」号は死地にある私たちを見棄てて沖に出てゆきました。これを見て、座礁していない方の海賊船は向きを変え、私たちの船尾の方へ近づいてきました。このころには私の部下が多数死んだり傷ついたりしており、このままでは野蛮な征服者どもの手にかかって皆殺しにされるのは目に見えていました。私は全員に、砲煙にまぎれ大型ボートで船を離脱するよう命じました。こうして、あるものはボートに乗り、あるものは泳いで、七時ごろにはほとんど全員が岸にたどり着きました。海賊どもは私の船に乗り移ってくると、傷ついて船に残っていた私の部下三人をめった斬りにしました。私は数名の部下とともに岸から二十五マイル離れた街に急ぎました。翌日、私は頭に受けた銃弾による出血と疲労で息も絶えだえの状態で街に着きました。

　この街で私は、海賊が、私を引き渡せば一万ドルの賞金を出すと申し出ていることを知りました。国王やその臣下の人びとが私の味方であることを知らなければ、多くの者が海賊の申し出に応じていたでしょう。そこで私は、自分が受けた傷がもとで死んでしまったという噂を流しました。これで海賊たちの怒りは随分収まりました。十日ほどすると私の傷もほとんど快復しました。そして海賊どもの敵意も鎮まったのではないかと期待し、また帰国する望みもないような場所に裸同然の姿で置かれ、下着や靴を手に入れることもできない自分たちの惨めな状態に思いをいたし始めました。

　私は仲間にいとまを告げ、安全の約束を取り付けに単身海賊船へ行きました。数人の海賊幹部が私と同行しました。しかしエドワード・イングランド船長そのほか幾人か私の知っているものがいなかったら、彼らは、私の身の安全を保証したにもかかわらず、情け容赦なく私を斬り殺していたことでしょう。海賊船のうち一隻は私たちが使いものにならぬほどに破壊してしまいました。連中はそれを焼き払い、代りに「カサンドラ」号を海賊船にしようと相談していました。しかし私がうまく交渉したため、一味は大破した船を私にくれることになったのです。この船はオランダで建造された「ファンシー」号三百トンで、百二十九ベールの布を積んでいました。

　九月三日、一味は出帆しました。私も彼らが残していった応急マストと古くなった帆で船の応急修理をし、九月八日、二人の船客と十二人の兵士を含む四十三人の乗組員とともに、たった六トンの飲料水を積んで出帆しました。そして四十八日間の航海の後、身に着けるものもほとんどなく餓死寸前の状態でボンベイに到着しました。それというのも、航海中一日の水は一パイントに制限され、しかもアラビアとマラバーの間はずっと凪いでいて、いつまでたっても陸が見えなかったからなのです。私の乗組員は十三人が殺され、二十四人が負傷しました。一方、私たちは九十人乃至百人の海賊を葬ほうむりました。海賊一味が出帆してゆくとき、二隻の船に約三百人の白人と八十人の黒人が乗っていました。もし「グリニッチ」号がその義務を果していれば、私たちはこれら海賊船を二隻ともやっつけ、私たちの雇い主と私たち自身は、二十万ポンドという大金を手に入れることができたと思います。しかるに「グリニッチ」号が私たちを見棄てたばかりに「カサンドラ」号を失うことになってしまいました。私は海賊が私にくれた積荷をすべて会社の倉庫に運び入れました。これに対して総督と議会は私に褒賞をくれました。植民地総督ブーン氏は大層親切にしてくれ、この荷物を持って本国へ帰るように言ってくれました。しかし、船隊を率いて入港したハーヴェイ船長の方に先約があったため、彼が私の代りに出帆したのです。総督は私の損害を埋め合わすため沿岸航海を約束してくれ、来年自分と一緒に帰国するよう私を引き留めたのです。





　マックラ船長が海賊船に乗り込んだのはまったくいちかばちかの冒険だった。そして海賊船に乗り込んだとたん、彼は自分の軽はずみな行為を後悔しはじめた。海賊どもは船長の身の安全を約束したものの、彼らの言葉は信用できないことがわかったのである。マックラ船長は、恐らくこの島の人びととイギリス人の堅い結びつきを知らなかったため、自分の境遇を絶望的に感じ、自ら海賊の手中に飛び込んでいったのだと思われる。およそ二十年前、コーンウォール船長がイギリス艦隊を率いてこの島へやってきて、モヒラ島という別の島との戦争に加勢したことがあった。それ以来、島民はイギリス人に対してできる限りの便宜を計ってくれるのである。そして「イギリス人とヨハンナ人は一身同体」とまで言われるようになったのである。

　イングランドはマックラ船長に対して好意的な気持になっていた。彼は、海賊仲間の中での自分の権力が落ち目になっていて、彼らに対して何か反対をすると連中はひどく腹を立てるような始末だから、マックラ船長を保護できないのではないかと危ぶんでいる、というようなことまでざっくばらんに話した。そして、もう一人の船長テイラーの気に触らないようにしたほうがよいとも忠告した。テイラーは、だれにもまして野蛮で残酷だというだけで、海賊仲間に大きな人望を得るに至った男だった。マックラ船長は、この獣のような男の気持を宥めようとして、温かいポンス酒をふるまったりした。しかし海賊どもはマックラ船長に引導を渡すかどうかの議論に夢中であった。ちょうどその時、マックラ船長にとって幸運なことが起こった。恐ろしい頬髯を生やし腰にピストルをぶち込んだ義足の男が荒々しく上甲板に上ってきて、「マックラ船長はどこだ」と乱暴に聞いた。船長はてっきりこの男が自分の死刑執行人だと思った。しかし船長がこの男のところへ行くと、男は船長の手を取ってこう言った。「やあ船長、俺は船長に会えて本当にうれしい。いいかおめえたち、マックラ船長に手出ししようとするものはだれでも俺が相手になるぜ。マックラ船長は正直者だし俺は昔この人と同じ船に乗っていたんだ」。

　この言葉で一味の議論に終止符がうたれた。テイラー船長もポンス酒ですっかり気持が和み、古い海賊船と大量の布をマックラ船長に与えることに同意した。そしてそのまま寝てしまった。イングランドはテイラーが目を覚まして自分のしたことを後悔しないうちに早く立ち去るようマックラ船長に忠告した。船長はすぐこれに従った。

　イングランド船長はマックラ船長に加担し過ぎたため、乗組員の中に多くの敵をつくってしまった。彼らは、イングランドの行為は自分だけいい子になろうとするようなもので仲間の方針と相容れないと考えたのである。だから、マックラ船長が彼らを討伐するための船隊を準備したと聞くと、海賊たちはすぐイングランドを追放し三人の仲間とともにモーリシャス島に置き去りにした。この島には魚、鹿、豚その他の獣が多数棲息していたから、将来のために掠奪品をいくらかでも蓄えていれば、住むのに不満な土地ではなかった。トマス・ハーバード卿は、この島の海岸は珊瑚や鯨糞に富んでいると言っている。しかし、これらの産物が大量に発見されていたら、オランダ人はこの島を見棄てなかっただろうと私は思う。一七二二年、この島には再びフランス人が入植した。彼らはこの島からすこし離れたマスカリーン島に堡塁を築いていた。そしてインド航路のフランス船は水や木材の補給、あるいは休養のためにこれらの島に立ち寄った。ちょうどわれわれイギリス人やオランダ人がセントヘレナ島やボンエスペランス岬を利用するのと同じである。イングランド船長らは島に残されていた板きれを集めて小さなボートを作り、マダガスカルに渡った。彼らは、同じくマダガスカル島に住み、多少なりとも蓄えのある海賊仲間の慈悲にすがって今も生きている。

　海賊一味はマックラ船長の乗組員を数人拘留し、傷んだ索具の修理をすませるとインドへ向かった。彼らが陸地を認める前日、東の方向に二隻の船を発見した。最初、一味はこれらをイギリス船と思い、捕虜にしていたマックラ船長の乗組員の一人に、東インド会社の船舶同士の秘密の合図を送るよう命じた。海賊の船長は「すぐ合図を送れ。でなきゃ、貴様を斬り殺してしまうぞ」と脅した。しかし男はその合図を知らなかった。海賊たちは、彼に罵ば詈り雑ぞう言ごんの限りを浴びせた。二隻の船に近づくと、これがマスカットからきたムーア人の船で、馬を積んでいることがわかった。海賊はムーア船の船長と乗船していた商人を連行して拷問し、金目のものを捜して船を隈無く荒らし回った。彼らはこれらの船がモカを出港したもので金目のものを積んでいると思ったのである。しかしこれは期待外れに終った。翌朝、陸が見えた。同時に岸近くに船隊がいるのが認められた。海賊は拿捕したムーア船の処分にとまどった。彼らを釈放すれば自分たちのことがわかってしまい航海は駄目になるし、乗組員と馬を船もろとも沈めてしまうのは残酷すぎる。（彼らの多くはそうしようと考えていたが。）そこで中庸をとって、彼らの船の錨を投げ、帆をすべて海に棄て、マストを半分に切断して航海できないようにした。

　翌日、一味が投錨し船にたまった水を汲み出していると、例の船隊の一隻がイギリス国旗を掲げて近づいてきた。海賊は赤旗〔英国商船旗〕を掲げてこれに答えたが一言も声は交さなかった。夜になると海賊は抜錨し、海風を受けてムーア船を離れ、船隊の後ろから北に向かった。翌朝四時ごろ、陸風を受けるようになると、海賊一味はそのまま止らず、大小の火砲を激しく撃ちまくりながら船隊の中をつき進んだ。夜が明けて、一味は仰天した。船隊をアングリアのものと思い込んだのである。逃げるか追撃するかどちらにするかが問題だった。一味の劣勢は明白だった。二隻の船に乗組員がせいぜい三百人、そのうち四十人は黒人であった。しかも「ヴィクトリー」号では四台の排水ポンプを動かしていたが、それに加えて「カサンドラ」号から取ってきた数台の手押しポンプと補強材がなかったら、とうに沈んでいただろう。しかし船隊が一味に無とん着な様子だったので、彼らは逃げるより追撃することに決し、海風をうけて射程距離に接近した。前方には船隊の大型船が幾隻かあり、後方にも数隻の敵船があった。前方の船はボートを切り離して海賊船より優速になった。一味は一晩中追跡しても追い付けず、翌朝には船隊は一隻のケッチ船と二、三隻のギャリヴァット船（地中海で使用されるフェラッカ船に似た三角帆の小型船）を残して視界の外に去ってしまった。一味が近づくのをみると、彼らはケッチ船の乗組員をギャリヴァット船に移し、ケッチ船には火を放った。ギャリヴァット船は船足が早く、逃げ切ってしまった。同じ日、一味は綿を積んでゴゴからカリカットへ向かっている別のギャリヴァット船を追ってそれを捕らえた。そしてこれが例の船隊に遭遇したに違いないと考え、乗組員に、船隊はどこへ行ったのか、と諮問した。乗組員たちは、ゴゴを出帆してから一隻の船にも出合っていないと言い、どうか見逃してほしい、と懇願した。海賊どもは積荷を全部海に投げ棄てたうえ、乗組員のひざを万力で締め付けて拷問した。だが彼らはその船隊のことをまったく知らず、ただ拷問に耐えるほかなかった。翌日、強い東風が吹いてギャリヴァット船の帆が裂けた。海賊は乗組員をボートに移し、トライスル〔補助用小帆〕と四ガロンの水（半分は塩水だった）だけを与え、陸地が見えなくなるところまで連行して見棄てた。

　ここで読者の理解を助けるために、アングリアについて、また卑劣なふるまいをした船隊についてふれておこう。

　アングリアは有名なインドの海賊で、強大な力と多くの領地を持ち、この方面におけるヨーロッパ諸国（時にイギリス）の貿易をたえず脅かしている。彼の主要な砦はボンベイからあまり離れていないコラバにあり、またその港から見える島を一つ持っている。彼はここを拠点にしてしばしば東インド会社を悩ませている。もし海が浅くなく、軍艦が砦の近くまで入ることができれば、この海賊を制圧することはさほど困難ではないだろう。アングリアは敵が非常に強力なことがわかると、ムガール帝国の領主らを買収して保護を求める術を心得ているのである。

　一七二〇年、「ロンドン」号、「チャンドイス」号、その他二隻のグラブ船（東インド会社がインドで建造した船。三本マストを持ち約百五十トン。交易船を護衛するため軍艦のように武装していた）とギャリヴァット船から編成されたボンベイの船隊が乗組員のほか兵員千人を乗せ、マラバー沿岸にあるアングリアの砦ゲイラを襲撃した。しかし攻撃は失敗に終り、船隊はボンベイに戻った。その途中、先に述べたようにテイラー一味に遭遇したのである。船隊を率いていたアプトン船長は、総司令官ブラウンに、われわれは植民地総督ブーン氏から交戦の命を受けていないし、また海賊と戦うことを目的に出撃したのではないと言って、海賊との交戦に反対した。総督は海賊を撲滅する絶好の機会を失ったことを怒り、船隊の指揮権をマックラ船長に与えた。そして、直ちに海賊追撃に出帆し、遭遇したら即刻交戦せよ、と命じた。

　翌年、ゴアの植民地総督はボンベイから派遣されたイギリス東インド会社の艦隊の助けを得て、アングリアの最大の砦コラバを殱滅すべく八千乃至一万の兵を上陸させた。海にはイギリスの軍艦が数隻遊弋していた。しかし砦の守りは固く、また病気と野営の疲れから兵の一部を失ったため、艦隊は再度引き上げた。





　さて話を海賊一味に戻そう。彼らはギャリヴァット船の乗組員を放逐すると南へ向かうことにした。翌日、ゴアとカルワーの間で数発の砲声を聞いた。一味は停船し、ボートを降して砲声のあった方へ様子を見に行かせた。ボートは朝二時ごろ戻ってきて、二隻のグラブ船が泊地に投錨していると報告した。海賊一味は錨を揚げて湾に向かった。夜が明けてグラブ船が視界に入ったが、もう一息のところで獲物はアンジェディヴァの要塞の下に入ってしまい、手出しができなくなってしまった。一味は水を補給したかったのにそれが不可能になったため、いっそう腹を立てた。夜中に上陸して島を占領しようと提案するものもあったが大部分のものはそれに反対した。一味はさらに南へ下った。途中、ホノワー泊地から出帆した小型船を捕らえた。船にはオランダ人一人とポルトガル人二人しか乗っていなかった。海賊は彼らの一人を陸にいる船の船長のところへやり、水と新鮮な食糧をくれたら船を返す、と伝えさせた。船長は、砂州になったところで船を返してくれたら要求に応じようと、航海士のフランク・ハームレスを通じて返答した。航海士は、これは罠だと思い自分の考えを正直に海賊に話した。

　一味はハームレスの意見を入れて、ラカジヴ諸島まで行って水を補給することにした。そして残った捕虜を陸に送り、このような無礼を働いた以上決して容赦はしない、と船長に伝言させた。三日後、一味はラカジヴ諸島に到着した。しかしここで捕らえたマンチェ船＊１から適当な投錨地がないと聞き、次のメリンダ島へ向かった。一味はこの島にボートを遣って、水が手に入るかどうか、そして住民がいるのかどうかを調べさせた。ボートは満足すべき情報をもたらした。島には良質の水が豊富で民家も多数あるが、男たちは海賊船が近づくのを見て他の島々に逃げ去り、女子供たちだけが身をよせ合って残っているというのである。海賊どもは女たちをほしいままに弄び、さらにココの木を切り倒し民家や教会（以前この島に住んでいたポルトガル人が建てたものと思われる）に火を放った。

　この島に逗留している間に一味の船は岩礁と強風のため錨を三つ四つ失った。そしてついには黒人と白人合わせて七十人の乗組員と大部分の水樽を残していったん島を去らねばならなかった。十日後、船は島へ戻り、水を補給し仲間を収容した。

　食糧がほとんど底をついていたので、一味は海賊の良き友であるオランダ人をコチンに訪ねることにした。彼らは決して海の紳士たちに物資の供給を拒んだりはしなかったのである。一味はジョン・トーケ船長が指揮するアダムス総督の船を拿捕した。トーケはひどく酔って海賊船に連れてこられたが、そこでマックラ船長が海賊討伐の船隊を編成したことを話した。これを聞くと海賊どもは激怒して叫んだ。「あの悪党め、俺たちが親切に船や積荷までくれてやったというのに刃向かってきやがるとはとんでもねえ。縛り首にしてしまえ。それだけじゃ足りねえ。奴に追従する犬どもも縛り首にしてやるぜ」。また操舵手はこう言った。「もし俺の自由になるなら、船長や乗組員を引き連れてきて、あとあとまで苦しめてやる。イングランドの野郎め」。

　一味はカリカットへ向かった。その近海で大型ムーア船を拿捕しようとしたが海岸に備えた数門の砲に阻まれて取り逃した。このとき、マックラ船長の士官で一味に抑留されていたラシンビー氏はデッキの下にいた。彼は海賊の船長と操舵手に帆げたの綱をよく見張っていろと命令されていた。（恐らく海賊どもは安全な場所に脱出する前に彼が弾丸に当ってしまうことを望んだのであろう。）海賊は、なぜ命じた場所に居なかったのか、と詰問した。彼が言いわけしようとすると、海賊は彼の怠慢を責め、「貴様を射殺してしまうぞ」と脅した。ラシンビー氏はなお相手を説得しようとし、「君たちは私を上陸させると約束したではないか」と言った。そのとたん彼は操舵手にしたたかに殴りつけられた。これはイングランドの後船長の地位についたテイラーの権限だったが、彼は手が不自由で自分ではできなかったのである。

　翌日、南下の途中、一味は石灰石を積みカリカットへ向かっていたオランダのギャリオット船に遭遇した。海賊はトーケ船長をこの船に乗せ釈放した。ラシンビーも釈放したらどうかと言うものもあったがテイラーと彼の仲間はこう言った。「この犬めは俺たちの企てを全部聞いていやがる。こいつを逃がしたりしたら、慎重に練った計画が全部ひっくり返っちまうし、オランダ人から食糧を手に入れることもできなくなっちまうぜ」。

　翌日、コチン沖に到着した一味はカヌーで陸に使いをやった。午後、彼らは海風を受けて碇泊地に入った。海賊船は要塞に向かって各々十一発の礼砲を撃ち、要塞も同じだけの礼砲で一味を迎えた。幸先よい歓迎であった。夜になると新鮮な食糧や酒類を満載した大型ボートにジョン・トランペットという男が乗ってやってきた。彼は、海賊にすぐ錨を揚げてもっと南へ行かなくてはいけないと告げた。そして、そこでは航海の必需品や食糧、その他必要物資をすべて手に入れることができると教えた。一味は再び投錨した。ほどなく黒人や白人の乗ったカヌーが数隻やってきた。彼らは一味が碇泊している間ずっと好意を示し続けた。特にジョン・トランペットが総督とその娘からの贈りものだとして大型ボートに積んできたアラキ酒＊２と六十樽の砂糖は、何よりも海賊たちを喜ばせた。この返礼として、海賊は総督にマックラ船長の船から掠奪した立派な卓上時計を、また彼の娘には大きな金時計を贈った。

　海賊たちは、全員乗船するとトランペットに満足ゆくだけのかね六、七千ポンドを払い万歳を三唱した。各海賊船は十一発の礼砲を轟かせた。またトランペットがつれてきたボートにダカトーン銀貨をいっぱいばらまいた。ボートの乗組員たちは先を争って銀貨を拾った。

　その夜はほとんど風がなかったから、一味は出帆しなかった。翌朝、トランペットはさらに多くのアラキ酒や反物の梱こり、それに衣類を運んできた。正午、これらの品を積み終ったとき、南の方に一隻の船を発見した。海賊はすぐさま錨を揚げて追跡した。しかしその船はずっと沖合にいて、一味の北側に針路をとり、コチン要塞の近くに投錨した。トランペットらは、あの船を獲物にしてくれないかと頼み、船を拿捕しても要塞から妨害されることはない、と請け合った。一味は向こう見ずにもこの船に乗り込むべく近づいていった。しかし獲物まで一、二鏈〔一鏈＝約二百ヤード〕の距離まで接近し、岸にも近づいたとき、要塞の小型砲が二門火を噴き、弾丸が海賊船の大砲の近くに落ちた。一味はすぐさまこの泊地を離脱してゆっくりした速度で南へ向かい、夜になってからもとの泊地に投錨した。ジョン・トランペットは、海賊一味にもうしばらく滞在を延ばさせるため、ボンベイ植民地総督の弟が指揮する船が荷を満載して通過することになっていると教えた。

　コチンの総督は外国勢力の典型である。私腹を肥やすために海賊と交流したり取り引きするような、背信的で卑劣な手段を弄する男を支配者に持った人びとはどんな不便や損害を受けなければならないことか。実際、この種の男は、富を得るために不正を行なうことに何のためらいも感じない。そして自分の思うがままに欺瞞と抑圧が法だと確信するのである。彼がこの穢らわしい仕事に手先を使っていることはすなわち罪と不名誉を示すものであり、決してその罪を軽くするものではない。ジョン・トランペットは道具であった。しかし、寓話の中の犬は「主人の命令でしたことは主人のやったことだ」と言っている。

　ここで私はサンチョパンチョのことを思い出さずにはいられない。彼はひどい主人を持ったばかりに身入りを減らされ、しかも御主人様の健康を守ることにことよせてほとんど毎日食べ物をへずられたため、餓死寸前になった。しかし支配者はさまざまである。

　さて、一味のうちのあるものはコチンからマダガスカルへ直行することを主張したが、大部分のものは獲物を捕らえるまで航海を続けるのがよいという意見だった。そこで一味は南へ針路をとった。数日後、陸に向かう船を発見したが、向かい風のためなかなか捕捉できなかった。夜になり風向きがよくなるのを待って、一味は二手に分かれ、一方は北に、他方は南に回って獲物を挟み撃ちにしようとした。だが夜が明けると海賊どもは仰天した。期待とはまったく反対に、一味の眼前には獲物ではなく五隻の大型船が現われたのである。船隊は直ちに海賊に向かって近づくように合図してきた。海賊一味、特にテイラーの船は大恐慌をきたした。僚船が少なくとも三リーグ南に離れていたからである。二隻の海賊船は互いに近づき、一隊となって、この船隊から全力で離脱しようとした。一味はこの船隊をマックラ船長麾下のものだと思った。彼の勇敢さはすでに経験しており、二度とそれを味わいたくなかったのである。

　船隊は海賊を三時間追跡したが、一隻のグラブ船を除き、どの船も海賊船に追いつけなかった。その後は何事もなく、海賊たちの気落ちした顔も次第に晴れてきた。夜になると一味は陸風を受けてまっすぐ沖に向かった。翌朝、すでに船隊の姿は視界になく、一味は大いに安堵した。

　危機を脱した一味は、この年（一七二〇年）のクリスマスは浮かれ騒いで憂さ晴らしをして過ごそうということになった。そして三日間というもの乱痴気騒ぎと暴飲暴食に明け暮れ、前後のみさかいなく食糧を食い潰した。このため、騒ぎが終ってモーリシャス島へ行くことになったが、その航海中、一日水ひと瓶、そして十人に対して一日二ポンド足らずの肉と米少々の割当てしかなかった。船には浸水穴があり、一味はいったんは放棄することを考えた。しかし大量のアラキ酒と砂糖を積んでいたためこれを思いとどまった。そしてこれらのおかげで一味は命をつなぐことができたのである。

　このような状態で一味がモーリシャス島に到着したのは二月中旬だった。この島で「ヴィクトリー」号の外板を補強し、索具を修理すると、四月五日、一味は再び出帆した。島を去るとき彼らは「四月五日、ライムを採りにマダガスカルへ向け出帆する」と書き残した。留守中だれもこの土地へ近づかないようにするためだった。だが彼らはマダガスカルへは直行せず、四月八日、マスカリーン島へ寄港した。そして願ってもないことにポルトガル船が停泊しているのを発見したのである。この船は七十門の砲を備えていたが南緯十三度上でひどい嵐に遭ってその大部分は海に没し、マストも失って、すっかり無力になっていた。このため、この船はいともたやすく一味の獲物となった。これはまことにすばらしい収穫だった。船には、インドの海賊アングリアの討伐隊を出して失敗したゴアの総督コンデ・ド・エリセイラその他の船客が乗っていた。海賊らが船の財宝に気付かぬわけがなかった。船客らはダイヤモンドだけでも三、四百万ドルの価値があると言った。

　総督は、その朝、一味の船をイギリス船であろうと期待して乗船したところを捕らえられ、身代金を要求された。しかし総督の損害が莫大なことを考えた海賊どもは（戦利品も一部彼のものであった）、しばらくためらった後、二千ドルを受け取り、総督その他の捕虜を上陸させた。そしてこの島はそれほど多くの人間が住める場所ではないと思われたから、捕虜らが自分たちでどこかへ行けるように船を一隻残してゆくことを約束した。一味は、捕虜から島の風下にオステンド船（もとロンドン籍「グレイハウンド」号だった）がいると聞き、これを捕らえた。これによって一味は捕虜らの正当な要求に応ずることができたにもかかわらず、この船に幾人かの仲間を乗せてマダガスカルへ向かわせた。残った連中もポルトガル船のマストを修理した後、捕虜のことなどおかまいなしに二百人のモザンビークの黒人を乗せると、これを伴ってマダガスカルへ向かった。

　マダガスカルはグレートブリテン島より大きな島で、その大部分は南回帰線より北にあり、アフリカ東岸の東に位置している。島は、牛、山羊、綿羊、家禽類、魚、シトロン、オレンジ、タマリンド、なつめやし、ココナッツ、バナナ、蜜蝋、蜂蜜、米など、あらゆる産物に富んでいる。また、綿花、藍あい、その他の栽培を行なっている。さらに、黒檀を産するが、これはブラジルすおうに似た堅い木で、原住民はこれで槍を作る。さまざまな種類のゴム、安息香、キリンケツ、アロエ等もこの島の産物である。この土地で最も迷惑するものは、いなごの大群と、川に棲息するワニである。モザンビーク海峡を通るインド航路の船は水を求めて、セントオーガスチン湾に寄港するが、ヨハンナ島には立ち寄らない。そして東インド会社の行なった六回目の潮流調査航海により、南北の潮流は海峡の最も狭くなった部分で最も強く、海が広がるにつれて弱まると同時にさまざまに変化することがわかっている。

　一五〇六年、この島がポルトガル人によって発見されて以来、ヨーロッパ人、特に海賊たちと原住民との間の混血が増えているが、全体からみればまだ極く僅かでしかない。原住民は頭髪が短く縮れた黒人で、活動的である。以前、彼らはヨーロッパ人に対して敵意を持っていたが、今では大人しく友好的である。これは恐らく島に住みついた海賊たちが彼らとできる限りの友好を保ち、ときに衣類や酒を気前よく与え、しかも緊急の際は即座に二、三百人の隊の指揮をとれる等のことによるのであろう。海賊たちと友好を深めることは原住民の利益でもあった。なぜなら、この島は多数の部族に分かれていたが、海賊は小さな砦などを築いており、彼らを味方につけた部族が必ず優位になるからである。

　テイラーが獲物のポルトガル船を伴ってこの島にやって来たとき、先に到着しているはずのオステンド船の乗組員が、同乗していた海賊らが酒を飲んでいるのに乗じて反乱したのを知った。そして後にわかったことだが、彼らはこの船をモザンビークへ回航し、そこで同地の総督からゴアへ行くよう命令を受けたのだった。

　一味はこの島で「カサンドラ」号の清掃をし、戦利品を分配した。一人当り小粒のダイヤモンド四十二個、あるいは大きさによって多少少ない場合もあった。ある男などは、小粒のダイヤモンド四十二個と同じ価値の大粒のダイヤモンド一個をもらったが、不満たらたらで、それを細かく砕いてしまった。そしてこのしあわせ者は、ダイヤが四十四個になったから、自分の分け前が一番多いのだと言った。

　四十二個のダイヤモンドやその他の財宝を手にして、これ以上命を危険にさらすことを望まない連中もいた。彼らは足を洗い、マダガスカルの古い友人を頼って落ち着いた。どちらか長く生きた方が宝を全部自分のものにすると約束したのである。残った海賊たちには二隻もの船はいらなくなった。そこで一味は浸水のひどい「ヴィクトリー」号を焼き払い、テイラー船長以下全員が「カサンドラ」号に乗り移った。彼らは、コチンへ行ってオランダ人にダイヤモンドを売り捌くか、あるいは軍艦のうわさが頻々と耳に入っていたから、その危険を避けて紅海かシナ海へ行くべきか議論した。ここで、一七二一年初めにインドに到着した艦隊についてふれておこう。

　六月、艦隊のマシュー提督は、喜望峰で、マドラスの総督が彼に託した手紙を入手した。この手紙はインドのコロマンデル沿岸に面したフランス領ポンディシェリの総督からマドラス総督に宛てたものであった。文面によれば、インド洋の海賊は強大で、十一隻の船と千五百人の乗組員を擁しているが、彼らの多くはブラジルやギニアの沿岸へ行き、またマダガスカル、モーリシャス、ヨハンナ、モヒラ等の島に住みつき、砦を築いているものや、コンデント船長の「ドラゴン」号に乗り組んだものもいる。この一味は、ジッダとモカに寄港して航海してきたムーア人の大型船を拿捕し、百三十万ルピーを掠奪した。戦利品を分配すると一味は船を焼き払い、マダガスカルの仲間のところにひっそりと落ち着いたという。手紙にはこのほかにも、すでに本書で述べた幾つかの事が書かれていた。

　マシュー提督は自分の任務が気に入っていた。そこでこの情報を得ると直ちにこれらの島々に向けて出帆した。これらが最も成功しそうな場所に思われたのである。彼はセントメアリーで海賊イングランドに会って、もし「カサンドラ」号や残りの海賊のことを教え水先案内をしてくれるなら悪いようにはしないと持ちかけるつもりだった。しかしイングランドは用心深く、これは無条件降伏にほかならないと考えた。そこで艦隊は焼かれたジッダ船の大砲を回収し、各艦がめいめいの航路をとって散開した。これが最も成功しそうに思われたのであったが、結果は無駄だった。その後、艦隊はボンベイまで航海し、この地の要塞の礼砲に迎えられた。それから艦隊は帰国の途についたのである。

　テイラーに率いられた「カサンドラ」号の海賊一味は莫大な戦利品にもなおあきたらず、ポルトガルの軍艦に必要な装備をして、再びインドに向けて航海することにした。しかし出帆の準備をしている最中に、彼らを追って四隻の軍艦がその方面の海域にきていると聞いたため計画を変更し、アフリカ本土へ向かうことにした。そして南緯二十六度に位置するモノモタパ沿岸スピリッツサンクト河近くのデラゴア湾に入った。一味は、軍艦がケープにいるものと考えていたが、その地とデラゴアの間には陸路はなく、また海上交易もないことから、自分たちのことが知られることもなく、安全な隠れ場所と確信したのである。目的地に着いたのは夜であった。突然、砦もなければヨーロッパ人の入植民もないと思っていた海岸から数発の砲撃を受け、彼らは仰天した。その夜は沖合に投錨し、翌朝、海岸を眺めてみると、六門の砲を備えた小さな砦が認められた。一味はすぐさまこれを攻撃し、潰滅してしまった。

　砦は、数か月前にオランダ東インド会社が築いたものだった。何の目的で築いたのか私は知らない。当初は百五十名の兵が配備されていたがその後、病気や事故で人数は三分の一に減ってしまった。救援もなければ必要物資の補給もなかった。砦に残された男たちのうち十六人が海賊船に乗り組むことを願い出て許された。海賊は、これら以外のものも、オランダ人でなかったら同じように船に乗せてやるつもりだったという。あれほどオランダ人の援助を受けていた海賊がいかに忘恩の徒であったかという例として、私はこの話を書きとめておく。

　一味はこの地に四か月以上滞在した。その間、二隻の船を修理し、気晴らしに興じた。こうして食糧をすっかり食い尽すと、彼らは半分飢えかかったオランダ人たちにかなりな量のモスリン、更紗、その他の品々を残して出帆した。オランダ人らは、次にこの地へやってきた船からこれらの品々と交換に食糧を得ることができた。

　一七二二年十二月末、一味はデラゴアを出帆したが、どこへ向かうか、意見がまとまらず、仲間を解散することになった。海賊稼業を続けるものは奪ったポルトガル船でマダガスカルの仲間のところへ向かった。彼らは現在その地に住みついているという。残りは「カサンドラ」号に乗り組んでスペイン領西インド諸島へ向かった。たまたま、軍艦「マーメイド」号が船団を護衛して、一味から三十リーグ離れた地点を本土へ向かっていた。艦長は海賊を攻撃するつもりだったが、護送している船団の船長たちの意見を求めたところ、彼らはこぞって、海賊をやっつけるよりも自分たちを安全に目的地まで送ってくれることの方が重要である、と言った。艦長はやむなくそれに従った。そしてこのことを知らせるためにスループ船をジャマイカに急行させた。しかしこの知らせが軍艦「ランセストン」号にもたらされる一、二日前に、海賊は戦利品を全部持ってポルトベロの総督に投降したのである。

　この土地で、彼らは邪な稼業の成果を分配し、濫費した。多くの国の人びとから掠奪した獲物を分け合うとき、彼らの心にはいささかの悔悟もなく、ほかの連中も自分たちと同じ機会があれば同じようなことをやっただろうと思った。彼らが、当時南海サウスシー会社・カンパニーの経営者やその監督官らがイギリスで行なっていたことを知れば、「俺たちのやった盗みなんぞ、とるに足らないものさ」とうそぶいただろう。

　この海賊一味が五年間に働いた悪事がどのくらいの額になるか見積るのはむずかしい。それは掠奪した品々だけでなく、ときには気まぐれで、ときには情報が広まるのを防ぐため、ときには捕虜に航海を続けさせないために、またときには捕らえた船長の態度が気に入らずに、拿捕した船を沈めたり焼き払ったりしているからである。いずれの場合も、海賊の一言で、船は積荷もろとも海の底に沈められてしまうのだった。

　スペインに投降した後、幾人かはその土地を離れて別の土地へ行ったという。また八人は昨年〔一七二三年〕十一月、南海会社の黒人アシエント供給契約船に乗り組み、海難者を偽ってジャマイカに行き、今はそこで別の船に乗っている。私は彼らの一人が今年〔一七二四年〕の春、イギリスに帰国したことを知っている。テイラー船長はスペインの軍務につき、最近ホンジュラス湾でイギリスのロッグウッド運搬船を襲った軍艦の指揮をしたと伝えられている。





＊１　マンチェ船　マラバー沿岸に特有の一本マストの大型平底ボート。

＊２　アラキ酒　やし汁、糖蜜、米等を原料に二度蒸留した酒。非常に強くアルコール度五十三乃至七十五度。





６　チャールズ・ヴェイン船長と乗組員





　序章でもふれたが、チャールズ・ヴェインは、スペイン人がフロリダ湾で難破したギャリオン船から引き上げた銀を盗んだ海賊の一人で、ロジャーズ総督が二隻の軍艦を伴ってプロヴィデンスに到着したとき、この島にいた。

　ごろつきの巣窟のようなこの植民地で発見された海賊は、ヴェイン一味を除く全員が投降し、赦免状を得た。ヴェイン一味は軍艦が入港するのを見るやいなや、自分たちの錨綱を切り、拿捕して港に引き止めていた船に火を放ち、一隻の軍艦に砲火を浴びせながら、港外へ出て行った。マストには海賊旗がへんぽんとひるがえっていた。

　出港して二日後、一味は遭遇したバルバドスのスループ船を拿捕した。ヴェインは手下のイェーツ以下二十五人をこの船に乗り組ませ自分たちのものにした。一、二日後、スペインのピース・オヴ・エイト銀貨を積んでプロヴィデンスへ向かう小型密輸船「ジョン・アンド・エリザベス」号を獲物にし、これも一味に加えた。これらのスループ船とともにヴェインはある小島に入港し、そこで船の清掃をした。そして戦利品を分配すると、乱痴気騒ぎにしばしの時を過ごした。これが海賊どものならわしだった。

　一七一八年五月末、一味は出帆したが、食糧が欠乏していたため、ウィンドワード諸島へ向け針路をとった。ポルトリコからハヴァナへ向かうスペインのスループ船を捕らえると、その乗組員をボートに乗せ、船には火を放った。ボートの乗組員には、彼らの船の燃える光をたよりに、島に向かわせた。セントクリストファー島からアングイラ島へ向かう途中、一味の欲しがっていた荷を積んだブリガンティーン船とスループ船に遭遇した。一味はこれらの船から航海に必要な物資を掠奪した。

　その後しばらく、一味はアメリカ植民地へ向かうイギリス船を追って北へ向かい、数隻の船を捕らえた。そして必要物資を掠奪した後釈放した。

　八月末、ヴェインとイェーツはサウスカロライナ沖でコッガーシェル船長が指揮するイプスウィッチの船を拿捕した。一味は、この船が自分たちの仕事にうってつけと考え、捕虜に命じて積荷のロッグウッドを全部海に投げ棄てさせた。しかし、どういう風の吹き回しか、積荷を半分ほど海に投げ棄てたとき一味はこの船に興味を失った。コッガーシェル船長は船を返してもらい、航海を続けることを許された。この航海で一味は数隻の船を獲物にしたが、特にめぼしいのは、バルバドスからきたディル船長のスループ船、アンティグアからきたクック船長の小型船、リチャード船長が指揮するキュラソー島のスループ船、そして九十人余りの黒人奴隷を乗せてギニアから航海してきたトンプソン船長の大型ブリガンティーン船であった。海賊はこれらすべての船を掠奪した後釈放した。ブリガンティーン船に乗っていた奴隷はイェーツの船に移した。しかしこのおかげで奴隷たちは元の持主に戻った。話はこうである。

　ヴェイン船長はイェーツとその少数の乗組員に対して優越感を持ち、この仲間をいつも蔑ろにし、彼の船を単なる随伴船としか考えなかった。このため、自分たちこそ最も立派な悪党であり海賊であると思っていたイェーツ一味は嫌気がさし、機会をみてヴェインから離脱して国王の赦免を受けるか、自分たちだけで旗揚げしようと相談した。いずれの道を選ぶにしても、ヴェインに服従しているよりは名誉あることだと考えたのである。そして、ヴェインがただでさえ人手の足りないイェーツの船に多くの黒人を乗せたことも、彼らの憤懣をいっそうつのらせる結果となった。しかし彼らは、今は怒りをおさえ、隠忍自重するのが得策だと判断した。

　一、二日後、海賊一味は陸からすこし離れて投錨した。日が暮れると、イェーツは錨綱をやり放し、帆をあげて岸の方に向かった。これを見て、ヴェインは激怒し、すぐ僚船の跡を追った。ヴェインは、イェーツがもはや自分とかかわりを持つ気のないことを知った。ヴェインのブリガンティーン船は快速船だった。だから追跡を続行すれば、間違いなくイェーツに追い付いただろう。しかし、砂州を通過し、僚船が射程内に追ったとき、イェーツはこの昔の仲間に片舷斉射を浴びせて脱出したのである。ヴェインに損害はなかった。

　イェーツはチャールストンから十リーグばかり南にあるノースエディスト河に入ると、植民地総督に至急の使いを遣り、自分と仲間が国王の赦免状を得られるなら、スループ船と黒人奴隷ごと投降するつもりだと、伝えさせた。申し出は受け入れられた。一味は赦免状を手に入れ、黒人奴隷は元の持主であるトンプソン船長の手に戻った。

　ヴェインはイェーツが出てきたところを捕らえるつもりで、しばらく砂州沖を遊弋していたが、無駄だった。しかし、この海域で、チャールストンからイギリスへの帰路についていた二隻のスループ船が運悪く彼の手に落ちた。ちょうどそのころ、海賊船がケープフィア河で船の清掃をしているという情報を得たサウスカロライナの植民地総督は、二隻のスループ船に十分な武装をし、多数の乗組員を乗せて、この海賊の討伐に向かわせた。しかしスループ船隊を指揮していたレット大佐は、ヴェインに掠奪された船の一隻が、奪われた必需品を補給するために湾に戻ってくるのに出合った。彼らは大佐に、海賊ヴェインに掠奪されたときのことを話し、また海賊に捕らわれていた幾人かの乗組員は、一味が南の河で船の清掃をすると話しているのを聞いたと言った。これを聞いて、大佐は最初の計画を変更し、ケープフィア河の海賊を追跡して北進するのはやめ、ヴェインを追って南へ向かった。ヴェインは、自分たちを追ってくる軍艦があれば、その針路を誤らせようと考え、このような話を広めたのである。そして実際には、彼は北へ向かった。だから大佐は、海賊を追うつもりで逆の方向に船を進めてしまったのである。

　レット大佐がこの船の乗組員と話をしたことはまことに不運なできごとであった。なぜなら、彼らと話をしたばかりに、大佐は、追っていた海賊だけでなく、ヴェインとも遭遇し、これら二組の海賊を撃滅できたはずの航路から外れてしまったからである。間違った航路をとったため、大佐はヴェインに出合う機会を失った。のみならず、もしケープフィア河の海賊がそこで六週間もうつつを抜かしていなかったら、この一味も捕らえそこなっていただろう。大佐は、数日間、船の乗組員から教えられたようにヴェインを追って河川や島々を探索したが、何の成果も得られなかった。そこで最初の任務を遂行すべく船首をめぐらせた。そして、目差す海賊を発見すると、激戦の末拿捕した。これは、ボネット少佐の話の中で述べたとおりである。

　ヴェイン船長は船を北に進め、ある小島に寄港した。ここで彼は、「黒髭」の異名をとる海賊ティーチ船長に出合った。ヴェインは、大砲に実弾をこめ、空高く、遠距離に発射し、礼砲とした。これが海賊同士が出合ったときのしきたりであった。黒髭も同じように礼砲をもって答えた。それから十月初め、ヴェインが別れを告げさらに北へ向かうまでの数日間、彼らは互いに友好的な態度で行動をともにした。

　十月二十三日、ヴェインはロングアイランド沖で、ジャマイカからニューイングランドのセイラムへ向かうジョン・シャトック船長の小型ブリガンティーン船と、小型スループ船を捕らえた。海賊はブリガンティーン船を掠奪した後釈放した。そこから一味はメイシ岬とニコラス岬の間を航海することにした。その間、十一月の末まで、彼らは一隻の船にも遭遇しなかった。十一月末、一隻の船を発見して攻撃をしかけた。海賊は、黒旗を掲げれば相手はたちまち降伏してくるだろうと見くびった。だがそれどころではなかった。相手は海賊に片舷斉射を浴びせ、また軍艦旗を掲げた。フランス軍艦だった。ヴェインは軍艦と事を構えることを望まず、帆を操って相手から脱出を計った。しかしフランス軍艦は、相手が何者であるかよく知ろうと考え、全部の帆を張り全速力で追跡してきた。軍艦に追跡されながら、事態にどう対処すべきか海賊たちの意見が割れた。ヴェインは、軍艦はとても歯の立つ相手ではないからできるだけ早く逃げるべきだと主張した。しかし操舵手のジョン・ラカムは立ち上がると、これに反対し、「敵が俺たちより多くの砲や武器弾薬を持っていたって、接舷して斬り込めばこっちのものさ」と言った。多数のものがラカムを支持した。大多数は斬り込みに賛成だった。しかし、ヴェインは言った。「そいつはせっかちで危険すぎる仕事だぜ。軍艦は俺たちより倍は強そうだ。俺たちが斬り込む前に、反対に奴らに沈められちまうのが落ちさ」。ヴェインと同意見のものは、航海士のロバート・ディールほか十五人余りだった。残り全員がラカムの側についた。ついにヴェインはこの口論に決着をつけるため、船長としての権限を行使した。戦闘とか、追撃とか、あるいは追跡されている場合のような、緊急でしかも収拾のつかない事態にあっては、船長が決定権を持つのである。それ以外の場合は、どんなことでも、船長は多数決に従うのであった。こうして、海賊の言葉によれば、自分たちのブリガンティーン船が軍艦を追い抜いたのである。

　しかし翌日、船長の行動は皆の票決にさらされることになった。その結果、船長の名誉と威信は失墜し、彼は臆病者の烙印を押され指揮権を剥奪された。そして破廉恥の科とがにより、仲間から追放されることになった。フランス軍艦に斬り込むことに賛成しなかったものも全員、船長とともに追放されることになった。海賊らは、以前拿捕し連行していた小型スループ船をヴェインに与え、彼らを見棄てた。だが、彼らが自分たちの力でやってゆけるように、十分な食糧と弾薬を持たせてやった。

　ブリガンティーン船では、ヴェインに代ってラカムが船長の座につき、一味は小アンチル諸島へ向かった。ここでしばらくラカムを離れ、チャールズ・ヴェインの話を最後まで続けよう。

　スループ船はホンジュラス湾に向かった。ヴェインと乗組員は、海賊稼業を続けるために、船をできるだけよい状態にした。一味はジャマイカの北西沖を二、三日航行し、スループ船一隻とプティオガ船〔平底の小型船、二本マスト〕二隻を捕らえた。これらの船の乗組員は全員海賊の仲間に加わった。海賊はスループ船を分捕り、ロバート・ディールをその船長にした。

　十二月十六日、二隻の海賊スループ船はホンジュラス湾に入った。湾には、ジャマイカのスループ船でチャールズ・ロウリング船長の「パール」号がただ一隻碇泊していたが、一味の姿を見ると帆をあげた。しかし海賊のスループ船が旗も掲げずに近づくと、ロウリング船長は一、二発大砲を発射した。二隻の海賊船は直ちに黒旗を掲げ、各三発ずつ「パール」号を砲撃した。「パール」号はたちまち降伏した。海賊はこの船を自分たちのものにし、ボナカ島と呼ぶ小さな島に連行した。一味はこの島で船の修理をした。途中、ジャマイカからホンジュラス湾に向かうウォールデン船長のスループ船と遭遇すると、これも獲物にした。

　二月、ヴェイン一味はボナカを出港したが、数日後、激しい嵐に遭い、二隻の海賊船は離ればなれになってしまった。遭難して二日目に、ヴェインの船はホンジュラス湾の無人島に打ち上げられ、ばらばらになった。乗組員の大部分は溺れて死んだ。ヴェイン自身は助かったが、難破船からは、何も引き上げられる見込みはなく、食糧が欠乏し非常な難儀をした。彼はこの島に数週間いたが、その間、主に本土から小舟で海亀などを取りにくる漁師に食べ物を乞いながら命をつないでいた。

　こうしてヴェインがこの島にいるとき、ジャマイカを出帆した船が水を求めて島に立ち寄った。この船の船長は、昔海賊をしていたホルフォードという男で、ヴェインの顔見知りだった。ヴェインは、島を脱出する絶好の機会だと思い、この古い友人に頼んでみた。しかし、ホルフォードはにべもなくこれを拒絶した。彼はこう言った。「チャールズ、俺はおまえを捕虜として連れて行くんなら別だが、そうでなきゃ、まるで信用しないぜ。俺はおまえが俺の手下とたくらんで、俺の頭に一発くらわせ、俺の船で海賊をやらかすにちがいないと睨んだぜ」。ヴェインは名誉にかけて断固異議を申し立てた。しかし、ホルフォードはヴェインをあまりによく知っていたから、彼の言葉や誓いにいささかも信もおくことはできなかった。そしてこう言った。「おまえがその気になれば、島を脱出する方法は簡単に見つかるぜ。俺はこれからホンジュラス湾に行って、ひと月ぐらいしたら戻ってくるがよ。そのとき、おまえがまだこの島に生きてるようだったら、俺はおまえをジャマイカへ連れていって首を吊してやるぜ」。ヴェインが「どうすりゃ島を出られるってんだ」と聞くと、ホルフォードは「浜に漁師の小舟があるんじゃないのか。その小舟を一隻失敬したらいいだろう」と答えた。ヴェインは、「何だと。おめえは俺に盗みをしろってのか」と問い返した。ホルフォードは「おまえはそれを良心の問題だって言うつもりか、小舟を盗むってことを。これまで海賊をして船や積荷を盗み、出合った船は全部掠奪してきたってのにな。おまえがそんなに御立派なら、この島にいつまでも居ればいいさ、畜生奴」と言い棄てると、ヴェインを残して去っていった。

　ホルフォードが島を去ってから、別の船が水を補給しにこの島に立ち寄った。この船の乗組員はだれもヴェインを知らなかったから、彼はたやすく身を偽って、この船に乗せてもらった。これでヴェインの身は安全になり、彼の罪業にふさわしい運命から逃れられたかに思えた。しかし、ここですべてを破滅に導く不運な事件が起こったのである。湾からの帰路、ホルフォードがこの船に出合った。二人の船長はお互いによく知った間柄で、ホルフォードは食事に招かれてこの船にやってきた。そして、船長室に向かって歩いてゆく途中、何気なく船倉に目をやると、そこでチャールズ・ヴェインが働いているのに気付いた。彼はすぐ船長に「君は、島で拾いあげてやった男が何者だか知っているのか」と尋ねた。「なぜ。あいつはなかなかきびきびした男だと思うがね」と船長は言った。「じゃあ、教えてやろう」とホルフォード船長は言った。「あいつが悪名高い海賊ヴェインだよ」「ヴェインだって。とんでもないやっかい者を背負いこんでしまったな」。「私が、あいつを私の船に連れていって、ジャマイカで投降させよう」とホルフォードが言った。二人は了解した。ホルフォード船長はすぐ自分の船へ戻った。そして武器を携えた航海士を伴って再びヴェインの乗る船に向かった。彼はヴェインのところへ行くと、ピストルをつきつけ「貴様を捕虜にする」と言った。乗組員も一人として異を唱えるものはなく、ヴェインはホルフォードの船に連行され、足かせをはめられた。ジャマイカに着くと、ホルフォード船長はこの古い友人を法の手に委ねた。この地で、ヴェインは裁かれ、死刑に処せられた。これは彼の僚船の船長ロバート・ディールが軍艦でこの地に連れてこられるすこし前のことであった。





補　遺





「海賊列伝」の第一巻では、植民地総督の到着と同時にチャールズ・ヴェインがプロヴィデンスを去るところから話を始めた。その後、彼が島を去る前後の海賊行為の幾つかを知ることができたので、以下に補足しておく。

　一七一八年三月末、ヴェインは、悪事を働いて得たかねを使いはたした十二人ほどのならずものたちとともに一隻のカヌーを盗み、再び慣れ親しんだ稼業に乗り出した。海に出て間もなく、一味はジャマイカのスループ船を襲い、ポター島まで連行した。一味は投錨すると、この船の船長だけを残して、乗組員全員を上陸させた。船長に対しては、彼らの目的にもっとよく適った船をみつけたら、すぐにスループ船は返すと約束した。この機会はすぐにやってきた。四月初め、ハーバー島沖を航行中、一味はスループ船「ラーク」号を捕らえたのである。この船は、これより前、ピアース艦長の軍艦「フェニックス」号が海賊から奪ったもので、セントオーガスティーン島で荷を積んできたのである。ヴェインは獲物を伴い、軍艦には目もくれず、黒旗を掲げてプロヴィデンスの港へ入った。彼は、軍艦を焼き打ちにしてやる、といきまいた。そしてプロヴィデンス島で仲間を七十五名に増強すると、獲物を求めて航海に出た。七月四日、一味は以下の獲物を引き連れて帰港した。すなわち――。備砲二十門のフランス船。砂糖、藍、ブランデー、赤ぶどう酒、白ぶどう酒、その他を積んだフランスのブリガンティーン船。ジョン・ドレイパー船長のスループ船「ドレーク」号――これは海賊がプロヴィデンスからホンジュラスへ向かう航海で拿捕したもので、多額のかねを掠奪し、また前記ブリガンティーン船の砂糖を一部、この船に移した。ジョン・フレッド船長のスループ船「ウルスター」号――アンドロス島から材木を積んできた船で、海賊はこれにも砂糖七十樽を移した。そしてサウスカロライナに向かうロバート・ブラウン船長のスループ船「イーグル」号とそれに随行し操舵手エドワード・イングランドが指揮する二本マストのボートであった。海賊はこの最後のスループ船に砂糖二十樽、パン六樽、その他を積んだ。プロヴィデンスの港では、ニール・ウォーカー船長のスループ船「ランカスター」号と、ジャマイカへ航海する予定だったウィリアム・ハリス船長のスループ船「ドーヴ」号を捕らえた。ヴェインは「ドーヴ」号のめぼしい積荷を掠奪し、また砂糖二十二樽、獣皮、古い索具等をこの船に移した。

　ヴェインは厚かましくも剣を手にして上陸し、街の主だった家屋敷を焼き払い大勢をみせしめにしてやる、と脅した。そして人殺しこそしなかったが、自分ほど立派な悪党でないものに対しては、横柄極まる態度をとった。彼は、この地で二十日間、総督として君臨し、入港した船はすべて拘留した。また、一切の船の出港を許さなかった。イギリスから総督がやってくると聞くと、彼は、自分が港にいる間は、自分以外のだれも総督にはさせないと言い放った。彼は三、四日後にブラジルへ向け出帆するつもりで、獲物にしたフランス船の修理をし、装備を整えた。しかし、総督が二十四日に到着したため、考えを変え、自分の条件が受け入れられるなら、赦免を得ようと思った。そして次の手紙をボートで総督のもとに届けさせた。





　総督閣下には、われわれが以下の条件で国王陛下の慈悲深き赦免をお受けいたしたく、御知らせ申し上げます。すなわち、

　総督は、われわれが現在所有している財産すべてをわれわれが処分することを認めること。

　また、国王陛下の恩赦法に定められているごとく、われわれの一切の所有物に対してわれわれが適切とみなした処置をとることを認めること。

　閣下がこの条件に応じていただければ、われわれは、即座に国王陛下の恩赦法を受け入れる用意があります。そうでない場合は、われわれは自らを守らねばなりません。

一七一八年七月二十四日

閣下の下僕　チャールズ・ヴェインと一同





　この手紙の宛名は、「ニュープロヴィデンス総督閣下」となっており、その下には、「早急に御返事戴き度たし」と記してあった。

　総督は、その夜は海上に止まることを余儀なくされ、入港できなかった。このため、総督は自らヴェインのところへ返事を持っていこうと考えていたが、それはできなかった。その日の午後四時ごろ、軍艦「ローズ」号とスループ船「シャーク」号が入港してきた。二隻は、ヴェインから挨拶代りに四発の砲弾を見舞われた。しかしこれは「ローズ」号の錨綱を切断しただけだった。夕方、「ローズ」号のホイットニー艦長は副官をヴェインの船にやった。ヴェインの乗るフランス船は港の奥に碇泊していた。海賊はこの副官を二時間留置した。乗組員のほとんどが酒を飲んでいて、あるものは黒旗を見せながら彼を脅し、またあるものは侮辱し、嘲って、「帰ったら艦長に、俺たちは最後まで戦う決意だと伝えろ」と言った。

　ホイットニー艦長が八時の号砲を撃つと、ヴェインもこれにならい、「ローズ」号に向けて砲を撃った。十時になると、ヴェインは自分の乗ったフランス船の砲を全門「ローズ」号に向けた後、船に火を放ち、四十人の手下とともに、イェーツが指揮するスループ船に移った。フランス船に火が回るにつれ、砲の弾薬が炸裂し、「ローズ」号の索具に損傷を与えた。ホイットニー艦長は燃えさかる船に危険を感じ、スループ船「シャーク」号とともに錨綱を切って港外に出た。これは、ヴェインに航海に必要なものを調達する時間を与える結果となった。また、ヴェインは、島で一番腕ききの大工と水先案内人を無理やり自分の船に乗せた。準備が整うと海賊はポター島へ移動し、そこで一晩碇泊した後、翌朝、出帆した。

　総督はスループ船「バック」号ともう一隻の小型船にヴェインを追わせた。両船とも十分な乗組員と装備を持っていた。追手は、ヴェインが島の東端を回る前に、彼を射程内に追いつめた。しかし、海賊船はメインシートを緩め、フライングジブを張ると、たちまち追手を引き離した。まもなく夜になり、これ以上追跡しても無駄だったから、軍艦は帰途についた。

　このことがあった直後、ヴェインはプロヴィデンスの総督に使いを遣り、手紙に答える代りに二隻のスループ船から成る追手をさし向けるようなことをしてくれたからいずれ総督のところへ出向いて彼の警備船に火を付けてやるつもりだ、と伝えさせた。

　八月三十日、ヴェインは「ネプチューン」号四百トンおよび「エンペラー」号二百トンを捕らえた。この事件の詳細は、以下に収めた海難報告書に記されている。

　九月九日、ヴェインはスペインのブリガンティーン船でアレン島に着いた。これより前に、彼はハヴァナ籍のスペイン船を拿捕していた。この地で、彼は水先案内人を無理やり船に乗せ、スループ船を一隻獲物にするとグリーンタートル島へ向かった。

　この海賊の最期はすでに書いた。ここでは以下のことを付け加えておこう。絞首台にかけられると、ヴェインは小心になった。そして自分の働いた幾多の悪事にふさわしい苦悩のうちに死んだ。死後に対する不安からではなく、ただ死の恐怖からくる苦悩であった。彼は過去に犯した幾多の罪業に対していささかの悔悟の情もみせなかった。これは、ポートロイヤルの絞首台で刑の執行を見守った人びとの注目するところだった、と裁きを見た一人の紳士が私に語ってくれた。





ハグボート「ネプチューン」号キング船長の海難報告



　本公式海難報告書は以下のことを公知し言明するものである。すなわち、一七一八年八月三十日、ロンドン籍ハグボート「ネプチューン」号の元船長で、現在プロヴィデンス島に在住するジョン・キングは、小職植民地総督ウッド・ロジャーズの面前に出頭し、以下のごとく証言した。すなわち、同船長は、同日、ハグボート「ネプチューン」号を指揮し、アーノルド・パワーズ船長の「エンペラー」号、ダンフォード船長のピンク船「アンタマシア」号、およびエヴァーズ船長のピンク船の三隻とともに、カロライナの砂州を通ってロンドンへ向かった。サウスカロライナの砂州を越えておよそ二時間後、キング船長は四隻の船が二手になって航行するのを認めた。このうちの一隻、ブリガンティーン船が一行を追ってきた。およそ二時間後、ブリガンティーン船は黒旗を掲げて同船長の船に迫ってきた。そして数門の大砲を発射した後、降伏してブリガンティーン船に乗り移るようキング船長に命じた。この船は海賊チャールズ・ヴェインのものだった。ヴェインは、キング船長と彼の乗組員四人をブリガンティーン船に留置し、手下を「ネプチューン」号に送り込んだ。「ネプチューン」号に乗り込むと、海賊どもは帆を揚げるよう命じ、同時にめぼしいものを掠奪しはじめた。一味は「ネプチューン」号と「エンペラー」号のみを拿捕し、他の二船は追わなかった。拿捕した二船の船長から、他の船の積荷は一味に用のないタールとピッチだと聞いたからである。相談の結果、一味は「ネプチューン」号と「エンペラー」号を、アバコ諸島のグリーンタートル島へ連行することにした。一味は目的地へ向け針路をとった。四日ほど後、ヴェインのブリガンティーン船に乗せられていた「ネプチューン」号のジョン・キング船長は、病気になり高熱に苦しんだ。船長はヴェインから「自分の船に戻りたいか」と聞かれ、「そうしてもらえればありがたい」と答えた。ヴェインはボートを降ろして、船長を「ネプチューン」号に帰した。四日後、一味は協議を行なった。ヴェイン船長以下主だった乗組員のほとんどは、「ネプチューン」号と「エンペラー」号から一味が必要としているものを掠奪した後、船を釈放しようという考えであった。しかし残りのものはその考えに賛成しなかった。二隻の船を釈放してしまったら、自分たちの船をどうやって傾船修理するのか、また作業中の防禦はどうなるのか、というのが反対の理由だった。結局、一味はグリーンタートル島まで航海を続けることになった。一七一八年九月十二日、目的地に到着した一味は傾船修理の準備にとりかかった。およそ三週間して修理が完了すると、一味は二隻の船から必要な物資を掠奪した後、「航海の無事を祈る」と言って、これらの船と船長たちに別れを告げた。こうして海賊一味は出帆した。しばらくすると、一隻のスループ船がグリーンタートル島に向かってきた。この船が恐れる様子もなく近づいてくるのをみて、海賊は再び錨を投げた。そして二本マストのボートに十二人の手下を乗り組ませて、この船に向かわせた。一味がプロヴィデンスを離れるとき約束していた五十人乗り組みのスループ船だと思ったのである。船は、海賊が期待したとおり、プロヴィデンスからきたものだった。彼らは三時間ほどプロヴィデンス島の様子などを話した。乗組員のうち幾人かがヴェインの仲間に加わった。キング船長はさらに、このスループ船は弾薬や食糧を運んできたもので、ニコラス・ウッドオールという男が指揮していた、と証言している。キング船長が、プロヴィデンスで何か良いニュースがあったかと聞くと、海賊らは何もなかったと答え、余計なことを聞かずに自分の船を装備してイギリスかプロヴィデンスに向かえ、と命じた。プロヴィデンスへ行くのであれば、海賊もキング船長と同行し、そこで国王の赦免を受けるつもりだったらしい。翌朝、ウッドオールのスループ船がプロヴィデンスからもたらした情報に動揺した海賊どもは、ウォーカー船長を置き去りにするかどうか採決したが、これは実行されなかった。再度の票決の結果、今度は「ネプチューン」号を破壊し、置き去りにすることにした。海賊どもは、マスト、索具、帆、帆桁等を取り去ったうえ、炸薬を倍にして大砲の弾丸を船倉に撃ち込み、この船をイギリスまで航海することがまったく不能なまでに破壊した。キング船長は、ウッドオールのスループ船がやって来たことが、この危害の原因となっているのだと確信した。そして、この破壊行為はウッドオールの好意に対する礼に違いないと思った。彼は、自分の友人だった幾人かの海賊が、もしスループ船が来さえしなければこんなことにはならなかったはずだとすまなそうに話した、と証言した。ヴェインの命令で、一味は、米、ピッチ、タール、鹿皮、帆、索具等をウッドオールのスループ船に積みこんだ。翌日、荷を積み終ると、海賊はウォーカー船長の息子の一人を連れ、彼のスループ船を水先案内にして出港していった。しかし彼らが海峡を出る前に、プロヴィデンスから二隻のスループ船が「ネプチューン」号と「エンペラー」号のところへやってきた。これらは、ヴェインがいると聞いた総督が派遣したものだった。二隻のスループ船のホーニゴールドおよびコクラム両船長は、パワーズ船長とキング船長に、「われわれは、総督の命により、あなた方を助けに来ました」と言った。彼らは、海賊一味が両船を掠奪し、食糧も残さずに去ったためにパワーズおよびキング船長一行がひどい状態に陥っていることを総督に知らせるため、直ちに使いを出した。その夜、ホーニゴールドおよびコクラム両船長は出帆した。三、四日後、チャールズ・ヴェインと取り引きしたニコラス・ウッドオール船長のスループ船「ウルフ」号を拿捕し、プロヴィデンスの植民地総督のところへ連行した。総督は船を没収し、ウッドオールを投獄した。そのころ、ヴェインは再びグリーンタートル島を訪れた。そして「ネプチューン」号と「エンペラー」号を二度にわたって掠奪し、米、索具、マスト、帆等を奪った。海賊が去って三週間ほど後、ホーニゴールド船長とコクラム船長が、五隻のスループ船をひきつれてプロヴィデンスから戻ってきた。これらは、危険な状態にある「ネプチューン」号から物資を回収するために総督が派遣したのである。翌日から二日間かかって物資をスループ船に移し終ると、一行は出帆した。キング船長はプロヴィデンス島に行き、このような場合どうすればよいのか総督に相談した。相談の結果、ヴェインに対抗できる十分な大砲と人員を「ウィリング・マインド」号に装備し、「ネプチューン」号は売却することになった。数日後、「ネプチューン」号は競売に付され、ジャマイカ通貨七十一ポンドでジョージ・フーパーという男のものになった。一七一八年十一月十五日、装備成った「ウィリング・マインド」号はプロヴィデンスを出港し、同十九日、グリーンタートル島に到着した。そこで再び「ネプチューン」号の積荷を回収したが、その結果、船は予想したほどひどい状態ではないことがわかった。風向きもよかったので、一行は二隻の船をプロヴィデンスに回航した。「ネプチューン」号は無事入港したが、「ウィリング・マインド」号は砂州に乗り上げ、船はひどく浸水するようになった。このため、いったん船の積荷を降ろして傾船修理しなければならなくなった。船を傾けてみると、竜骨の一部が失われていることがわかった。船を岸に上げて修理しなければならなかった。大工らがやってきて、できる限りの手を尽してみたが船は元の状態には戻らなかった。総督の命により、検査官が船を調べたところ、木組みや金具がすっかり傷んで、これ以上の航海に耐えられないことがわかった。キング船長はもう一度自分の船と積荷を調べてみたが、ひどい状態だった。現在、プロヴィデンス港にはこの荷をイギリスに運ぶ船がない。そこで、キング船長は、荷物を船積みしたリチャード・スプラット氏に相談するためカロライナへ行く計画をしている。そして荷をどう処分すればよいか、現在の状態の船や荷をどう評価すればよいか、彼の意見を聞くつもりでいる。キング船長は、船と荷物が現在どんなひどい状態にあるかよく知っているトマス・ウォーカー船長、リチャード・トムプソン船長、そしてエドワード・ホームズ船長の意見を求めた。かくして、キング船長と「ネプチューン」号の海員の一人は、上述ブリガンティーン船のチャールズ・ヴェインおよび乗組員全員が、グリーンタートル島の港で「ネプチューン」号を拿捕し、それに接舷して乗り込み、掠奪し、沈め、航行不能にしたことに対し、またそれにより荷主、荷受人、その他すべての関係者が被った損害に対し、ここに抗議を申し立てるものである。

　以上の証として、一七一九年二月五日、われわれは以下に署名した。

ジョン・キング



×　ジョン・モリソンの印



　二月十日　ウッズ・ロジャーズの面前にて宣誓す。





７　ジョン・ラカム船長と乗組員





　前章で話したように、ジョン・ラカムはヴェイン一味の操舵手だった。しかしヴェインがフランスの軍艦に接舷し斬り込むことを拒んだため、二人は離反した。そしてラカムがブリガンティーン船に残った一味の船長に選ばれた。一七一八年十一月二十四日のことであった。船長になって最初の航海の目的地は小アンチル諸島だった。そこで彼は数隻の船を獲物にした。

　これもすでに話したことであるが、投降する海賊に対する国王の赦免状を携えたウッズ・ロジャーズ船長がプロヴィデンス島に到着したとき、当時ヴェインが指揮し、今はラカムが船長となっている海賊ブリガンティーン船の一味は、恩赦を嘲笑い、別の水路から島を脱出した。

　ジャマイカの風上へ向かう途中でマデイラの船を獲物にした一味は、これを二、三日引き留め、掠奪をほしいままにした後、船長に返した。海賊船にホセ・ティスデルという男が乗っていた。彼はジャマイカで居酒屋を営んでいたが、たまたま乗っていた船が一味に拿捕され捕虜になったのだった。マデイラ船はジャマイカへ向かっていたから、一味はティスデルがこの船で帰国することを許した。

　この航海の後、一味はある小さな島に寄港して船の垢を落とし、上陸してクリスマスを過ごした。海賊どもは飲み騒いで、酒がすっかり底をつくと再び獲物を求めて海に出た。ここで一味は二か月以上もの間めぼしい獲物がなく、ただニューゲートの監獄から囚人を乗せて入植地へ向かう船を拿捕しただけだった。この船も数日後にイギリス軍艦に奪取されてしまった。

　ラカムはバーミューダ島に針路をとった。そして、カロライナからイギリスへ向かう船と、ニューイングランド航路の小型ピンク船を拿捕するとバハマ島へ連行した。この島で、一味は再び船の清掃と修理を行なった。しかしこの近海での滞在が長びきすぎたため、一味に拿捕された船のことがプロヴィデンスのウッズ・ロジャーズ総督の耳に入った。総督は、武装、乗組員とも十分なスループ船を派遣し、拿捕されていた船を二隻とも取り返した。しかしその間に、一味はうまく脱出した。

　一味はキューバへ向かった。キューバにラカムは小さな家族を持っていたのである。一味はこの地に腰を落ち着け、娼婦らを相手に日々を過ごした。こうしてかねと食糧を使い果たすと、再び海に出ることになった。一味が船の修理を終え、出帆の準備をしているとき、スペインの沿岸警備船が、イギリス人の乗る小型スループ船を伴って入港してきた。このスループ船は、密輸船として拿捕されたのだった。警備船は海賊一味に攻撃をかけた。しかし海賊船は小島を陰にして岸の近くに碇泊していたため、攻撃らしい攻撃はできなかった。警備船は翌朝を期し、その夜、水路に入った。事態が絶望的で、脱出の可能性はまずないとみたラカムは、乗るか反るかの勝負にでることにした。スペイン軍艦に拿捕されていた船は小島と本島との間の、陸に近い安全な場所に碇泊していた。真夜中になると、ラカムはピストルとカトラスで武装した乗組員全員を率いてボートに乗り、小島を回って音もなくこの船に近づいた。そしてだれにも気づかれずに船に乗り移ると、スペイン人乗組員に「一言でも声を出したり物音を立てたら、命はないものと思え」と脅した。船の乗っ取りに成功すると、ラカムは錨綱を切り放し、外洋に脱出した。スペイン軍艦は、翌朝捕らえるつもりの獲物のことで頭がいっぱいで、ほかのことは何も考えなかった。そして夜が明けるが早いか、すでにもぬけの殻となったスループ船に激しい砲火を浴びせた。しかし、ほどなく彼らは愚弄されたことに気づき、地団駄をふんだ。彼らは見事に一杯食わされて、上等の獲物だったイギリス船を取り逃し、代りに古ぼけて使いものにならない船を手にしたのだった。

　ラカム一味がこの交換を喜ばないはずはなかった。このおかげで一味はその極悪非道の生活を、なおしばらく続けることができたのである。一七二〇年八月、ラカムはジャマイカの北部と西部の港や島を次々に荒掠し、数隻の小型船舶を捕らえたが、これらは大した獲物ではなかった。しかし、一味は人手が不足していたから、小さな獲物を追って仲間を増強しなければならなかったのである。

　九月初め、一味はハーバー島で七、八隻の漁船を捕らえ、漁網その他の船具を奪うとフランス領ヒスパニオラ〔ハイチ〕島へ向かった。海賊どもは上陸すると牛を奪い、夕方には浜で見かけた二、三人のフランス人らと野豚狩りをした。フランス人たちは海賊の仲間に加わったが、それが同意のうえなのか強制されてのことだったのか、私にはわからない。その後、一味は二隻のスループ船を掠奪し、ジャマイカへ戻った。この島の北岸、ポートマリア湾の近くで、トマス・スペンロー船長のスクーナー船を捕らえた。十月十九日のことであった。翌日、ドライハーバー湾に一隻のスループ船を認めた。ラカムはこれに接近し、発砲した。乗組員は全員陸に逃げ、ラカムはこの船を奪った。しかし、上陸した連中は、ラカム一味が海賊とわかると、「俺たちも全員おまえたちの船に乗るぞ」と大声で叫んだ。

　こうして島の沿岸を荒らし回っていたことが、ラカムにとって致命的となった。オチョリオス湾の海岸で一味に不意を襲われたカヌーが、植民地総督に通報したのである。直ちにバーネット船長が指揮するスループ船が海賊の探索に出帆した。ラカムは島を回り、最西端のネグリル岬に接近した。ここで小型プティオガ船を発見したが、相手は海賊船の姿を認めると、すぐ岸に乗り上げ、乗組員は岸に逃げた。彼らの一人が海賊船に声をかけると、「俺たちはイギリス人だ。こっちへ来て一杯やれ」という答が返ってきた。乗組員九人全員が海賊船へやって来た。彼らはマスケット銃とカトラスで武装していたが、なぜそんなことをしていたのか私は知らない。彼らが海賊船に乗船して武器を置き、一味と友好の煙草を喫おうとしたとき、バーネットのスループ船が見えてきた。

　海賊は、スループ船がまっすぐ自分たちの方へ進んでくるのをみると直ちに錨を揚げにかかったが、すぐそれをやり放し、沖に向かった。バーネット船長は一味を追跡し、陸から吹くわずかな風を利して海賊船に追い付いた。そして抵抗らしい抵抗も受けずに海賊船を拿捕すると、ジャマイカのポートロイヤルへ連行したのである。

　捕虜らが陸に連行されて約二週間後、すなわち一七二〇年十一月十六日、セント・ジャゴ・デル・ヴェガで海事法廷が開かれ、ニコラス・ローズ裁判長は、以下のものを有罪とし、死刑の判決を下した。すなわち――船長ジョン・ラカム、ジョージ・フェザーストン、操舵手リチャード・コーナー、ジョン・デイヴィス、ジョン・ハウェル、パトリック・カーティ、トマス・アール、ジェームズ・ドビン、およびノア・ハーウッド。最初の五人は、翌日ポートロイヤルのギャローズポイントで処刑され、残りは翌々日キングストンで処刑された。ラカム、フェザーストン、そしてコーナーの遺体は後に絞首台から降ろされ、それぞれプラムポイント、ブッシュキーおよびガンキーで鎖につながれ、晒しものにされた。

　しかし驚くべきは、海賊船が拿捕されたその日に船に乗り込んだ九人の男たちに対する有罪の判決である。彼らは一月二十四日再開した法廷で裁かれた。この間、法廷は、彼らが海賊になるつもりでラカムの船に乗ったという証拠を待っていたのだと思われる。なぜなら、彼らは海賊船に乗っても、海賊行為は一切働かなかったようであり、彼らに対する証人、すなわちラカムがヒスパニオラ島から連行した二人のフランス人の以下の証言によってもそう思えたからである。証人は次のように証言した。

「出廷している被告ジョン・イートン、エドワード・ワーナー、トマス・ベイカー、トマス・クイック、ジョン・コール、ベンジャミン・パーマー、ウォルター・ラウズ、ジョン・ハンソンおよびジョン・ハワードは、ネグリルポイントで海賊のスループ船に乗り移ってきました。ラカムが迎えのカヌーを岸に遣ったのです。彼らは銃とカトラスを携えてきました。バーネット船長が追ってきたとき、あるものは酒を飲み、あるものは甲板をぶらついていました。海賊船はバーネット船長の船に大砲と小火器を発射しました。バーネット船長がラカムのスループ船を砲撃すると、ここに出廷している被告らの幾人か（名前は証言できなかった）はバーネットから逃れるため、スループ船を漕ぐのを手伝いました。彼らは皆仲間のように見えました」。

　これが、被告らに対する証言の要旨である。被告らは次のように抗弁した。

「私たちには証人がいません。私たちは海亀漁のために、プティオガ船を雇いました。そしてネグリル岬に到着し、上陸しようとしたとき、白い長旗を掲げたスループ船が向かってくるのを見たのです。私たちは武器をとり、茂みに隠れました。仲間の一人がこのスループ船に声をかけると、自分たちはイギリス人だという答が返ってきました。そして彼らは船にきて一杯やれと言いました。最初私たちは断りましたが、強く誘われたので、プティオガ船は錨で繋め、スループ船のカヌーで船に行きました。私たちが乗船して間もなくバーネット船長のスループ船が見えてきました。ラカムは、私たちにすぐスループの錨を揚げるのを手伝えと命令しました。私たちが断ると、ラカムは暴力で私たちを服従させました。バーネット船長が海賊船に追い付いたとき、私たちは進んで投降しました」。

　被告らが退廷し、列席していた人びとも退出すると、裁判官たちはこの件を審理した。過半数が、被告は告訴された海賊行為により有罪という意見であった。すなわち、「海賊になり、凶悪なる犯罪行為を働くことを意図して、当時悪名高く、また彼ら自身もそのことを承知していた海賊ラカム一味に加わった」廉かどにより、被告は全員死刑の判決を受けた。まことに不運な男たちというべきである。

　二月十七日、ジョン・イートン、トマス・クイック、およびトマス・ベイカーがポートロイヤルのギャロウズポイントで処刑され、翌日、ジョン・コール、ジョン・ハワードおよびベンジャミン・パーマーがキングストンで処刑された。その後、残りの連中が処刑されたのかどうか私は聞いていない。

　ラカムの乗組員だった他の二人の海賊〔次章の二人の女海賊のこと〕が有罪の判決を受けた。そして、死刑の判決に対して何か申し述べることがあるかと諮ねられると、二人はともに大きくなった腹を見せて、自分たちには間もなく子供が生まれるから、刑の執行を猶予してほしいと願った。法廷は、海賊裁判の判例に従って判決を下したが、同時に、事実を調べるために適切な判事を任命するまで控えているよう被告らに命じた。

〔以下のジョン・ラカムとヴェインの仲間割れ、そして彼とアン・ボニーの恋の話は補遺からの抜粋である。話はプロヴィデンスの海賊が国王の赦免を受け、ラカムを含むヴェイン一味だけが島から脱出したときから始まる。〕



　そうこうした後、ヴェインはヒスパニオラに向かった。船には、イズリーゼア〔アダリー？　〕と呼ぶ土地に立ち寄った際住民から掠奪し調達した酒類や豚、山羊、鳥等の肉がふんだんにあったから、航海中、一味は馬鹿騒ぎに明け暮れた。二月ごろ、メイシ岬沖を航海中、一味はロンドン航路の大型船「キングストン」号に遭遇した。船は荷を満載し、また数人の船客を乗せていた。イギリス人とユダヤ人が数人、そして女が二人いた。

　ジャマイカの北で、彼らは一隻の海亀漁の船を捕らえた。そして先に掠奪した「キングストン」号の船長と乗組員の一部、そして二人の女を除く船客全員を漁船に移した。女二人は一味の慰みのために海賊船に残したが、これは海賊のやり方としては異例のことであった。普通、海賊は、女は争いのもとになるから釈放するのである。

　一味は「キングストン」号を分捕った。このころには、一味は、志願して仲間に加わったものや、「ネプチューン」号および「キングストン」号から無理やり仲間に引き込んだもので、二隻の船を必要とするぐらいの大世帯になっていた。そこで、ヴェインの操舵手ジョン・ラカム、別名キャラコのジャック（彼はいつでもキャラコのジャケットとズボンを愛用していたためこう呼ばれた）と数名の乗組員が「キングストン」号に移った。ラカムが全員一致で船長に選ばれた。

　海賊どもの帝国はまもなく分裂し、内乱が勃発しそうになった。そのままだったら一方が壊滅して終ったにちがいない。この二人の冒険者の運命を決した仲間割れの事情はこうである。たまたまヴェインが酒を切らしてしまったので、兄弟分のラカムに少し分けてくれと使いを遣った。ラカムは適当と思われる分量をヴェインに分けてやったが、これがヴェインの期待より少なかった。ヴェインはラカムの船に出向いてこれをなじった。荒々しい言葉が飛びかい、ラカムはヴェインに、「すぐ自分の船に戻らなければ頭を撃ち抜くぞ。それに俺と別の航路を取らなければ船を海の底に送ってやる」と脅した。

　ヴェインはラカムがその言葉どおり豪胆で、また彼の船の方が大型で強力なことから、ここは相手の言うことを聞いておいた方がよいと判断した。

　こうして二人は仲間割れし、ラカムはプリンセス島へ向かった。一味はこの航海で得た莫大な戦利品を甲板で山分けした。

　海賊たちはダイスを投げて分け前を決めた。一番高い点数を出したものに最初に選ぶ権利が与えられるのだった。戦利品の分配が終ると、彼らは財宝を樽につめ、プリンセス島の海岸に埋めた。船に再び新しい獲物を積めるようにするためであった。こうしている間にジャマイカの海亀漁のスループ船が入ってきた。ラカムはこの船にボートを遣り、船長を自分の船に連れてこさせた。船長はラカムの質問に答え、ジャマイカではスペインに対する戦争が布告されたが、このため海賊に対する赦免の期限はまだ切れていないと教えた。

　これを聞いて、ラカム一味は突然考えを変え、直ちに投降して赦免を得ることにした。海賊どもは捕虜にした船長が恐れていたような残酷なまねはせず、それどころか彼に数々の品を与えた。そしてジャマイカに戻って、約束どおり赦免してもらえるなら自分たちはすぐ投降するつもりであるということを総督に伝えてほしい、と言った。海賊どもは、プロヴィデンスにいたとき、赦免の布告に抗って出港したから、自分たちには赦免は適用されないのではないかと心配したのである。そして、船長に、損はさせないから総督の返事を持って戻ってきてほしい、と頼んだ。

　スループ船の船長は喜んでこの役目を引き受けた。彼はジャマイカへ着くと、ラカムが言ったとおりを総督に伝えた。しかし船長が到着する以前に「キングストン」号の船長とその乗客がこの島に到着し、ヴェインとラカムの海賊行為を総督に報告していた。そして総督はすでに二隻のスループ船に装備をし、海賊討伐の用意を整えていたのである。総督は海亀漁船の船長からラカムの居所を知ることができ、大いに喜んだ。

　二隻のスループ船は、十分な人手を乗せて出帆した。そして、海亀漁船の船長が教えた場所でラカムを発見した。一味は秩序なく出帆や戦闘の準備もしていなかった。帆はほとんど陸に揚げてテントにしてあり、甲板には戦利品が乱雑に積まれていた。大部分の乗組員は上陸していたが、ラカムはたまたま甲板にいた。遠くから二隻のスループ船が近づいてくるのを認めると、スパイグラスを取り出して眺めた。そしてこれらの船が何やら戦闘の準備らしいことをしているのを見て訝しく思った。これはまったく予期しないことだった。ラカムは敵がくるとは思ってもいなかったのである。彼が怪しんでいる間にも二隻のスループ船は近づき、砲撃を開始した。

　ラカムは防戦に備えるだけの時間もすべもなく、ボートで岸に逃げるほかなかった。彼は、二、三人の手下を連れ、二人の女は船に残して岸に逃れた。

　スループ船は「キングストン」号を拿捕し、この船に人員を配備すると、ジャマイカに連行した。船の積荷の大部分は無事に残っていた。「キングストン」号がジャマイカに到着すると、この船の船長は、失われた積荷と残った積荷の調査を始めた。船荷証券や通関証明証を捜したが、これらはラカムがすべて破棄したり焼却したりしていたため、イギリスから新たに船荷証券を取り寄せるまで、どの荷主の荷物が助かり、どの荷主の荷物が失われたのかわからなかった。船荷には金時計六十個と銀時計三十個が含まれていた。海賊は銀時計を奪ったが、金時計は他の荷物の中にまぎれていたため、彼らの目を逃れ無事だった。これはまことに不幸中の幸いであった。

　その間、ラカム一味は今後の方針も定まらぬまま森の中で暮らしていた。彼らは弾薬と小火器を持っていた。さらに、ボート二隻とカヌー一隻を持っていた。

　仲間の意見が分かれた。ラカムと彼につく六人の海賊は一隻のボートに乗り組んでプロヴィデンス島へ行き、国王の赦免を願い出ることにした。自分たちはヴェインに無理やり仲間に引き込まれたのだと言えば、赦免してもらえるだろうと考えたのである。彼らは武器弾薬と食糧を積み込むと出発した。最初彼らはパイン島に立ち寄り、そこからキューバの北へ向かった。そこでスペイン人のボートとランチ数隻を獲物にした。捕らえたボートの一隻は頑丈な作りだったから、一味はその船に乗り移り、自分たちのボートは沈めてしまった。彼らはさらに航海を続け、一七一九年五月中旬、無事プロヴィデンス島に上陸すると、国王の赦免を願い出た。総督は、一味を赦免するのが適切であろうと判断した。こうしてラカム一味は国王の赦免状を手に入れた。

　この地で、彼らは、持ってきた品物を売り捌いて得たかねを濫費して、陽気に日々を過ごした。かねが無くなると、あるものは私掠船に、またあるものは貿易船に乗り組んだ。

　ラカムは船長として他のものより多くの分け前をとっていたから、かねもかなり使いでがあった。そうこうしているとき、彼はアン・ボニーと知り合った。ボニーを知ると、ラカムはひどくかね使いが荒くなった。後の章でも話すが、アン・ボニーは、ジェームズ・ボニーと結婚していた。彼は赦免された海賊の一人で、好青年であった。そして以前海賊であったことを恥じて、今は真面目な生活をしているのであった。しかしアンは年若く、たちまちジェームズの手に負えないほど放縦になった。あるときなど、ジェームズは、アンが別の男とハンモックの中で戯れている現場を取り押さえたこともある。ラカムは彼女に言い寄り、ついにはすっかりかねを使い果たしてしまった。かねが無ければ色恋も思うにまかせない。ラカムはバージェス船長の私掠船に雇ってもらった。バージェス船長は、昔海賊だったが、赦免されてスペインに対する私掠船の任務についていたのである。この航海は大成功だった。彼らは数隻の船を拿捕した。ココナッツを積んでいた船と砂糖を積んでいた船はとりわけ大きな獲物だった。彼らは獲物の船をプロヴィデンスに連行し、これを目当てに他の土地からやってきた商人たちに売却した。分け前は莫大な額になった。バージェスは新たな獲物を求めて再び出港したが、ラカムは、アン・ボニーのことしか頭になく、陸にとどまった。そしてまた散財しては恋人を楽しませるのだった。

　こうしてラカムはアン・ボニーに入れ揚げ、贅沢三昧をして暮らした。彼女は彼の気前のよさに心を動かされ、ジョン・ラカムと一緒に暮らしたいから自分と別れてほしい、と夫に申し出た。そして、「私と正式に別れてくれるなら、ラカムがあんたに相当のかねを払うよ」と言った。さらに彼女は、幾人かの人びとに離婚の証人になってほしいと頼んだ。

　この話は少なからず巷の話題になった。話を聞き及んだ総督は、彼女と、彼女の母親ということでカロライナから彼女とともに来たアン・フルワースを呼びつけた。アン・フルワースはアンの不品行をすべて知っていた。総督が人びとのうわさについて真偽を糺ただしたところ、二人はそれを否定できなかった。総督は、実際に破廉恥な離婚などしたら、二人とも牢にぶち込んで鞭打ちの刑に処し、しかもラカム自身にそれをやらせると言い渡した。

　この脅しが利いて、アン・ボニーは、夫と貞節に暮らし悪い仲間とは二度と交わらない、と約束した。しかしこれは全部嘘だった。ラカムと彼女は、まっとうな方法では一緒になれないし、自由にできないから、世間のことなど構わず、二人で駆落ちして楽しくやろうと相談した。

　二人は港に碇泊している一隻のスループ船を乗っ取ることを計画した。ラカムは血気盛んな若者を数人自分の企てに引き込んだ。この男たちは、全員もと海賊で、最近赦免されたが、陸で働くことに飽き飽きし昔の稼業に戻りたがっているのをラカムはよく知っていた。

　一味が選んだスループ船は三、四十トンの大きさで、この種の船では最も快速だった。船は、プロヴィデンスからあまり遠くない小島に住むジョン・ハマンのものだった。この島には、彼と彼の妻と子供たち以外はだれも住んでいなかった。彼は、キューバやヒスパニオラ島近海にくるスペインのスループ船や大型ボートを奇襲して、それらを掠奪することを生業にしていた。時には大そうな獲物があったが、快速の船足にまかせていつでも逃げ去った。その逃げ足の速さは語り草となり、「ほら、あそこに行くのはジョン・ハマンだ。掴えられるものなら掴えてみな」などとはやされた。彼はプロヴィデンスに自分の家族を引き連れて定住するつもりだった。恐らく、孤独な島の生活に疲れたか、あるいはスペイン人に隠れ家を発見され仕返しされることを恐れたのであろう。

　アン・ボニーは何度かこの船を訪れていた。彼女はジョン・ハマンと取り引きがあるかのようにして、彼が陸にいるときを選んで船を訪れた。そして、乗組員は何人いるか、どんな見張りを置いているか、航海の予定と航路はどうなっているのかなどと聞いて回った。

　彼女は必要なことすべてを聞き出した。そして、乗船しているものはたった二人であること、ジョン・ハマンは毎夜上陸することなどがわかった。彼女は乗組員に、見張りはするのか、どこで休むのか等、さまざまな質問をした。彼らは、彼女に特別の意図があるとは考えもせず、単なる好奇心ぐらいに思って、気楽に質問に答えてやった。

　彼女はこれらをすべてラカムに教えた。ラカムは即刻行動を起こすことにして、八人の仲間に知らせた。一味は真夜中十二時に落ち合うことにした。男たちは根っからの悪党どもであった。そしてアン・ボニーもこれらに引けをとらない女丈夫だった。彼らは武装を固め、ボートを盗むとスループ船に向けて漕ぎ出した。目差す船は岸から極く近くに碇泊していた。

　雨もようの、襲撃にはうってつけの暗夜だった。一味が船に乗り込むが早いか、アン・ボニーは片手に抜き身の剣を引っさげ、もう一方の手にはピストルを構えて、仲間の一人とともにまっすぐ二人の乗組員が休んでいるキャビンへ向かった。乗組員が物音で目を覚ますと、彼女は、「ちょっとでも抵抗しようとしたり、騒いだりしてごらん。おまえたちの脳味噌が吹っ飛ぶよ」と脅した。

　その間、ラカムと残りの連中は錨綱を巻き揚げるのにおおわらわだった。片方の綱が巻き揚がると、もう片方はやり放して港の出口へ向かった。船が要塞のすぐ近くを通過すると、要塞から「どこへ行くか」と声をかけられた。警備船からも同じことを聞かれた。一味は、「綱が切れてしまったから甲板で作業しているだけだ」と答えた。それ以上とがめられることはなかった。このすぐ後、彼らは小さな帆を一枚かけ、舵だけとれるようにした。港の出口まできて、もうこの暗さなら見つかる心配はないと判断すると、一味はすべての帆を張って一路沖へ向かった。そして二人の乗組員に、「俺たちの仲間になるつもりはないか」と聞いた。二人にその気がないとわかると、海賊は、岸まで漕いで行けるよう彼らにボートを与え、「用が済んだらスループ船は返すとハマンに伝えてくれ」と言った。

　ラカムとアン・ボニーはリチャード・ターンレイという男を恨みに思っていた。アンはターンレイに夫ジェームズ・ボニーがラカムに与える離婚証文の証人になってほしいと頼んだけれど、ターンレイはこれを拒絶し、この話を総督に知らせたのである。このため、ラカムとアンは、彼に復讐を誓ったのだった。

　海賊一味が脱出する前に、ターンレイはプロヴィデンスを出港して海亀漁に出た。一味は彼の行く島を知っていたから、彼を追ってその島へ向かった。彼のスループ船は岸から一リーグほど沖で漁をしていた。六人の海賊がこの船に乗り込んだ。しかし幸運にも、ターンレイは息子と二人で岸にいて、前の日に獲物にした野豚の肉を塩漬けにしていた。一味はターンレイの居場所を聞き出すと、ボートで岸へ向かった。

　ターンレイは岸からこの様子を見ていた。そして、いったんスループ船に乗り移り、今また岸を目差している男たちは海賊ではないかと考えた。この海域では、海賊は珍しくもなかったからである。彼は息子を連れて森へ逃げ込んだ。波が高く、海賊たちはボートを岸に寄せることができなかった。彼らは胸まで水につかって岸に向かってきた。ターンレイは、木立の間からのぞいて、一味が武器を持って岸に来たのを見た。彼らの風体もよくなかった。ターンレイは息子を連れて茂みの中に身を隠した。

　一味はあたりを探し回り、ターンレイの名前を呼んだりもしたが見つからなかった。そして、結局、こんな荒れはてた場所で彼を探すのは時間の無駄だとあきらめ、ボートに引き返した。しかし海賊どもは再びスループ船に立ち寄り、帆やその他の品物を奪っていった。三人の乗組員も連行した。連行された乗組員の名前は、リチャード・コナー、ジョン・デイヴィス、そしてジョン・ハウェルであった。デヴィッド・ソワードも一緒に行こうとしたが、海賊に断られた。この男はもと経験豊かな海賊であったが、以前受けた傷のせいでびっこになり、役に立たなかったのである。

　一味はスループ船を掠奪するとメインマストを切断し、さらに船を沖まで曳いて行った。そしてデヴィッド・ソワードに一味のボートを与えて海に降ろしてから、スループ船を沈めてしまった。彼は何とか自力で岸まで漕ぎ着き、そこでターンレイに会った。彼はターンレイに、ラカムとアン・ボニーが、ターンレイを見つけたら死ぬまで鞭で打ちつけてやると言って呪っているのを聞いた、と話した。ターンレイのもたらした情報によって、総督がアンを鞭打ちの刑に処すると脅したのを恨んでのことだった。

　ここから一味はベリー諸島に足をのばし、出遭った船はことごとく掠奪し、ポートロイヤルで処刑されるに至るまでなお勢力を増強したのである。





８　女海賊メアリー・リードとアン・ボニー





メアリー・リードの生涯





　さて、ここでまことに驚くべき波乱に富んだ物語をしよう。女海賊メアリー・リードとアン・ボニー、別名ボンの話である。彼女らの漂泊の人生はあまりにも常軌を逸しているため、話は絵空事に過ぎないと思う人もいるだろう。しかしこれから話すことは、彼女らの裁判に立ち会い、また、彼女らが女であることがはじめてわかったときの話を聞いている大勢のジャマイカの人びとが証人であり、ロバーツとか黒髭といった海賊が実在したと同様、異論の余地ない事実なのである。

　メアリー・リードはイングランドに生まれた。彼女の母親は若くして船乗りと結婚した。彼は、結婚してまもなく、身重の妻を残して航海に出た。生まれた子供は男の子だった。母親の配偶者だった男が難破したのか航海の途中で死んだのか、メアリー・リードは知らなかったが、いずれにせよ彼は再び戻ってはこなかった。しかし、若く多情なメアリーの母親は、奔放な娘によくあるように、ふとしたことで再び父無し子を身篭ってしまった。どうしてそうなったのか、相手はだれなのかなどということは、彼女以外に知るものはいなかった。なぜなら、彼女は近隣で極く評判のよい女だったからである。腹の子供は次第に大きくなってきた。そこで彼女は身の不始末を隠すため、田舎にいる自分の友だちと暮らすと言って、夫の親類に別れを告げた。こうして、彼女は、当時まだ一歳にも満たない息子を連れて去っていった。この地を去って間もなく、彼女の息子は死んだ。しかし神の配慮であろうか、彼女は隠れ家で無事女の子を出産した。これがメアリー・リードである。

　メアリーの母親は、この地に三、四年を過ごすうちに、蓄えをほとんど使い果たしてしまった。そこで彼女はロンドンへ戻ろうと思った。ロンドンには、夫の母親がまずまずの暮らしをしているから、今の子供を死んだ子供と同じに見せかけさえすれば、養育費ぐらいは出してもらえるだろうと考えたのである。しかし女の子を男の子に変えるのはなかなか難しい仕事であった。そして、経験豊かな老婦人の目を欺くのはまず不可能といってよかった。だが、彼女は思いきって子供に男の服装をさせると、ロンドンの母のところへ連れて行き、夫の息子だと言って見せた。老婦人はこの子供を引き取って育てるつもりになった。しかし母親は、子供と別れることに胸もつぶれんばかりの様子を見せた。そこで、子供は母親と一緒に暮らし、ていよく子供の祖母にされた義母は、養育費として毎週一クラウンを与えるということになった。

　こうしてメアリーの母親は自分の思いどおりにすることができた。彼女は娘を男の子として育てた。そして娘がある程度分別のつく年ごろになると、彼女に出生の秘密を話し、自分が女であることを隠させようと考えた。こうしたとき、祖母が死んだ。母と娘の生計の途がとだえ、生活は窮乏した。彼女はやむを得ず娘をあるフランス婦人の家に奉公に出した。メアリー・リードは十三歳になっていた。しかし彼女はここに長くはいなかった。大胆に、そして逞しく育った彼女は、また放浪を愛したから、自ら軍艦に身を投じ、しばらく乗務した。退艦すると今度はフランダースへ行き、志願兵として歩兵連隊に加わった。しかし、彼女は、あらゆる戦闘で勇敢に戦ったにもかかわらず、正規兵にはしてもらえなかった。当時、正規兵の地位は売買されるものだったからである。そこで彼女は歩兵連隊を辞め、騎兵連隊に移った。彼女は幾つかの戦闘で際立った働きを見せ、すべての上官から高く評価されるようになった。ところで、彼女の戦友にフレミング出身の美貌の青年がいた。彼女はこの青年を恋をしてしまったのである。その時から彼女は任務をおろそかにするようになった。マルスとヴィナスは両立しないようであった。それまでいつもぴかぴかに磨き上げ手入れされていた彼女の武器と装備は、すっかりかえりみられなくなった。実際、この男が命令を受けて作戦に従事するとき、彼女自身も、任務でもないのに、ただ彼のそばにいたいがため自ら危険に身を投じるのだった。他の兵隊たちは、彼女のこのような行動には何か隠された理由があるのではないかなどと疑うこともなく、ただ気がふれたのだろうと思った。彼女の戦友自身、自分の戦友がどうしてこんなに変ったのかわからなかった。しかし恋は巧みである。二人は同じテントに寝ていた。そこで彼女は、それとなく相手に自分が女であることを悟らせる方法を思いついたのである。

　男は自分の戦友が女であることを知ってたまげてしまった。そして次には自分だけの情婦が持てると思って滅法喜んだ。何しろ、軍隊に女がいるなどということは前代未聞のことであった。彼は無造作に自分の欲望を満たすことだけを考えた。しかし彼はすぐ自分が思い違いをしていることに気づいた。彼女は内気で慎み深い女だった。そして彼のあらゆる誘惑を拒んだ。さらに物腰も上品で、人の心をひきつけるようなところがあった。彼女は彼の目当てをすっかり変えてしまった。はじめ、彼は彼女を自分の情婦にするつもりだった。しかし今、彼は彼女に結婚を申し込んだのである。

　これこそ彼女が心から望んだことだった。二人は婚約した。そして戦争が終り、連隊が冬の陣地へ引き上げると、二人はかねを出し合って花嫁衣装を買い、正式に結婚した。

　二人の兵士が結婚したという話は世間の評判になった。数人の将校が、物珍しさもあって、結婚式の手伝いに来た。彼らは相談して、同じ連隊の兵士だった花嫁に、家庭生活へのはなむけとして、一人ひとりが何か小さな贈りものをしようということになった。

　こうして身を固めた二人は、軍隊を辞めて落ち着きたいと思った。この希代の恋と結婚によって二人は大変な人気者になっていたから、除隊の希望はすぐかなえられた。彼らはブレダ城の近くに、「スリー・ホースシューズ」という居酒屋を開いた。商いは順調で、大勢の将校が店の常連になった。

　しかしこの幸福も長くは続かなかった。メアリーの夫が急死し、またライスワイク講和条約が締結されたため、以前のように将校たちがブレダに立ち寄ることもなくなった。未亡人になったメアリーは、ほとんど商売もなくなってしまった店を畳まなければならなかった。そのうち蓄えもすっかり使い果たしてしまった。彼女は再び男装してオランダへ行き、その地で歩兵連隊に入隊して国境の街に宿営した。しかし、ここに長くとどまることはなかった。平時に昇進の見込みもなかったから、彼女は別の道で身を立てようと決心した。そして連隊を辞めると、西インド諸島航路の船に乗った。

　この船は、途中、イギリスの海賊に捕らえられた。メアリー・リードがこの船に乗っていたただ一人のイギリス人だった。海賊一味は彼女を仲間に加え、船は掠奪した後釈放した。その後しばらくして、西インド諸島全域に、指定された期日までに自ら投降した海賊は赦免するという国王の布告が出された。メアリー・リードたち乗組員は布告に従って投降し、陸に上って平穏な生活に入った。しかし蓄えが次第に乏しくなり、またプロヴィデンス島の総督ウッズ・ロジャーズ船長がスペインに対して数隻の私掠船を準備中だということを聞くと、彼女は数人の仲間とともに私掠船に加わるべく、プロヴィデンス島に向けて出帆した。彼女は何としてでも運命を切り拓こうと心に決めていた。



アン・ボニーとメアリー・リード。１７２０年11月28日、海賊行為の科により、ジャマイカ島サンチャゴ・デ・ラ・ウエガの海事法廷において有罪の判決を受ける





* * *





　これらの私掠船は出帆した。しかし一部の船では赦免されたもと海賊の乗組員が反乱を起こし、昔の稼業に逆戻りした。メアリー・リードもこの中に入っていた。彼女が、自分は海賊の生活が嫌で、今度もこの前のときも、強いられてこの道に入ったけれど、機会さえあればいつでも足を洗いたいと思っている、と言っていたのは事実である。しかし、やはり無理やり海賊に引き込まれ彼女とともに航海した男たちのうち、彼女の裁判で証人になったものの幾人かは、戦闘の際、メアリー・リードとアン・ボニーほど勇敢に臆せず敵船に斬り込んだり、危険なことを引き受けたりするものはいなかった、と証言している。特に一味が攻撃され、捕捉されて白兵戦となったとき、甲板を守ったのはただメアリー・リードとアン・ボニーだけだったと彼らは証言した。このときメアリー・リードは甲板の下に身を隠した乗組員らを「甲板に出て男らしく戦え」と叱咤した。それでもなお彼らが奮起しないとみるや、自分の銃を船倉へ向けて発射し、一人を殺し幾人かに傷を負わせたと言う。

　これは彼女自身は否定した証言の一部である。これが真実であるか否かはともかく、彼女はいささかも勇気に欠けるところなく、しかも貞節で慎み深い女であったということは確かである。船の乗組員はだれもメアリー・リードが女ではないかと疑ったりはしなかった。しかし、同船していたアン・ボニーが、メアリーに特別の好意を持つようになった。アンは、節操という点ではまことにだらしのない女であった。アンは、メアリー・リードを好男子だと思い込み、彼女に言い寄った。そして自分が女であることを打ち明けた。メアリー・リードはアンの思惑を知ってそれに応ずるわけにもいかず、自分も女であることを打ち明けざるを得なかった。アン・ボニーはひどくがっかりした。二人の親密な関係をみて、アン・ボニーの情人だったラカム船長は心穏やかでなかった。彼はひどく嫉妬し、アンに「お前の新しい色男の喉をかき切ってやる」と言った。彼を宥めるため、メアリーは彼にも秘密を明かした。

　ラカムは彼女から言い含められ、乗組員には秘密を明かさなかった。しかしメアリーがいかに巧妙に自分を隠そうとしても、恋に逆らってまで自分が女であることを忘れることはできなかった。一味は西インド諸島とイギリスを行き来する船を多数捕らえた。そして拿捕した船に腕のよい職人や一味に役立ちそうなものが乗っていれば、力ずくででも仲間に加えずにはおかなかった。このようにして海賊船に連れてこられた男たちの中に、非常に魅力的な――と少なくともメアリー・リードの目には映った――青年がいた。彼女はこの男の人柄や物腰にすっかり惚れ込んでしまい、昼も夜も心安まらなかった。しかし恋ほど巧みなものはない。以前にも恋の手て管くだを使ったことのある彼女にとって、相手に自分が女であることを悟らせるのはさほど困難なことではなかった。彼女は自分が海賊の生活を嫌っていることを男に話した。彼も海賊をひどく嫌っていたからたちまち二人は意気投合して親友のようになり、食事をともにするようになった。彼女は、彼が自分に対して男としての友情を持ったことがわかると、さりげなく自分のまっ白な胸を見せた。

　これを見て、男の好奇心と欲望はつのった。彼は彼女に正体を明かすようしつこく迫り、彼女もようやく自分が女であることを打ち明けた。こうして二人の恋が始まった。男は、まだメアリー・リードを自分と同じ男だと思っていたとき、彼女に友情と尊敬を抱いていたが、今やそれは愛情と欲望に変った。彼女も彼に劣らず情熱的だった。そして彼女は自分の愛情を最も献身的な行為によって示したのである。話はこうである――。ある日、この若者が海賊の一人と喧嘩した。一味の船はある島の近くに碇泊していた。二人は海賊のしきたりに従って陸に上って決闘するよう命ぜられた。メアリー・リードは恋人の身を案じてどうしようもなく不安になった。彼女は、自分の恋人が臆病者の烙印を押されることには耐えられなかったから、彼に決闘を拒否させようとは思わなかった。しかし、相手の男が自分の恋人よりずっと手強いのではないかと考えると、身ぶるいするほど恐ろしかった。恋をしているとき、人は最も献身的になるものである。窮地に立ったメアリーは、自分の身より恋人の命を心配していることを行為で示したのである。彼女は自ら恋人の相手と戦うことを決意した。そしてこの男に陸で決闘することを申し込み、彼女の恋人と戦うことになっている時間より二時間前を決闘の時間に指定した。彼女は剣とピストルで渡り合い、その場で相手を倒してしまったのである。

　以前にも、彼女は海賊仲間から侮辱されたとき、決闘したことはある。しかし、今度の決闘はまったく恋人のためにしたことであった。言ってみれば、彼女は恋と死のはざまに立ったのだった。恋人がいなければ生きてゆけないかのようであった。彼が彼女に愛情を持っていなかったのなら、この行為は、彼に対して永遠の義務を負わせることになっただろう。しかし、二人の間には義理や義務は何もなかった。彼の彼女に対する気持だけで十分だった。二人は互いに愛情を誓い合った。メアリー・リードは、これを教会で司祭が司るのと同じく、まことの結婚と思う、と言った。その後彼女はみごもり、このため裁判で助命を願い出たのである。

　彼女は法廷で、自分は決してだれとも私通のようなことはしなかったと言明した。そして、彼女が夫と呼んでいた男と、その他数名のものを無罪とした法廷の裁きを称えた。夫はどの男なのかと訊ねられても、彼女は答えようとしなかった。ただ、夫は正直もので、彼女と二人でできるだけ早く海賊稼業をやめて堅気の商売をする決心をしていた、と言った。

　多くの人びとが彼女に同情したことは疑いもない事実である。しかし、ラカムに捕らえられ、しばらく海賊船に拘留されていた一人の男の証言によって、法廷は彼女を有罪にせざるを得なかった。この男は、海賊船に拘留されていたとき、たまたまメアリー・リードと話をする機会があった。彼は彼女を若い男だと思って、常に銃や剣のもとに命をさらすばかりでなく、生きながらえたとしても恥辱にまみれた死が待っているような稼業のいったいどこが面白いのかと聞いた。これに答えて彼女は、縛り首などは大したこととも思っていないし、それが無ければどんな臆病な男でも海賊になり、海が海賊でいっぱいになって勇敢な男たちが飢えてしまう、と言った。また、海賊には死以外の罰はあり得ないのであり、死の恐怖が腰抜けの悪党どもを堅気に引き止めているのだし、それがなければ、現在未亡人や孤児たちを騙し、正しい裁きを受けるかねもない貧乏な人びとを押え付けている連中の多くが海でも剽盗を働くようになり、海は陸と同様ならず者が徘徊する場所となって、商人たちは航海に出ることもできず、貿易などはたちどころに引き合わない商売になってしまう、と言った。

　間もなく子供が生まれそうだとわかって、彼女の刑の執行は延期された。そして減刑される見込みもあったのだが、判決後間もなく彼女はひどい熱病にかかり、獄中で息を引き取ったのである。





アン・ボニーの生涯





　アン・ボニーはアイルランド、コーク州のある街に生まれた。父親は弁護士であった。アンは嫡出の子供ではなかった。昔から父無し子には運がつくというが、彼女の場合、これはあてはまらないようであった。父親の正妻は産褥で重い病にかかり、健康を回復するために転地を勧められた。そこで彼女は数マイル離れた夫の母親の家に移った。彼女はここにしばらく滞在したが夫は仕事の理由で家に残った。妻は、家事や家族のことを若い女中に任せていた。この女中はなかなかの美人で、同じ街の皮職人の青年から想いを寄せられていた。皮職人は、家族の留守を狙っては、彼女に言い寄った。ある日、彼は彼女と二人になったとき、彼女が家事に忙しく自分に背を向けている隙に、銀のスプーンを三本、すばやく自分のポケットに挿し込んだ。女中はすぐスプーンの無くなったことに気付き、部屋には自分と男しかいないところから、またスプーンを最後に見たのが自分であったところから、「スプーンを盗んだでしょう」と男をなじった。彼は、自分は盗っていない、と頑固に言い張った。女中は激怒し、警察に訴えて裁判にかけてもらう、と脅した。調べられれば盗みがすぐ露見するのはわかっていたから、彼は度を失った。そして必死に女中を宥め、引き出しやその他の場所をもう一度捜してみてくれと頼んだ。女中がそこらを捜している間に、彼はこっそり別の部屋に入った。この部屋は彼女の寝室だった。彼は盗んだスプーンをシーツの間に入れると、裏口から逃げ出した。彼は、彼女がベッドに入ればスプーンを見つけるだろうから、翌日もう一度彼女のところへ出向いて、ちょっと脅かそうと思ってやったことだと言えば、笑い話で済んでしまうだろうと考えた。

　女中は男がいないのに気付くと、スプーンを持って逃げて行ったのだろうと思い、自分も捜すのをやめた。そして、まっすぐ警察へ行って、男を逮捕してほしいと申し出た。男は、警察が自分を捜していることを聞いたが、明日になればすべてうまく収まると思って気にもかけなかった。しかし三、四日たち、警察がまだ自分を捜していると聞いて、彼は身を潜めた。彼にはわけがわからなかった。女中がスプーンを自分のものにして、その罪を彼になすりつけようとしているのだとしか思えなかった。

　そうこうしているとき、健康を回復した女主人が、夫の母親と一緒に帰ってきた。そして最初にスプーンの無くなったことを知らされた。女中は、男が逃走したことも話した。男は女主人が帰宅したことを伝え聞いた。そして、この事件が解決しなければ、おおっぴらに商売することもできなくなってしまうと思った。そこで、女主人は気立てのよい人だから、彼女のところへ行ってすべてを話してしまおうと決心した。ただ、冗談のつもりで自分がスプーンを盗んだことは隠しておくことにした。

　女主人はこの話をほとんど信じることができなかった。しかし、女中部屋へ行って、ベッドの敷布をひっくり返してみると、三本のスプーンがでてきた。これを見て彼女はひどく驚いたが、若い皮職人には、これ以上このことでごたごたするのはよくないから、家へ帰って仕事に精を出しなさい、と言った。

　彼女には事の次第がわからなかった。彼女は今まで女中が盗みを働いたことのないのを知っていた。だから、女中が自分でスプーンを盗もうとしたのだろうとは思いもしなかった。このことから推して、スプーンが無くなってから、女中は自分のベッドでは寝ていないことになると結論した。その途端、彼女は嫉妬にとらわれた。自分が留守をしていた間、女中と夫がただならぬ関係になったのではないか、だからスプーンがすぐには見つからなかったのではないか――彼女はこう疑った。

　彼女は、夫が女中にいろいろ親切にしてやっていたことを思い出した。そのときには気にもとめなかったことが、ひとたび嫉妬で頭がいっぱいになると、一つひとつ彼らの不義の証拠に思えた。しかも、その日、妻が帰ってくることを知っていたというのに、そして彼女が病床について以来四か月も音信がなかったというのに、夫は何か用事を装って外出してしまったのだ。これらすべてのことがますます彼女の猜疑心を深めさせた。

　女がこの種の侮辱を許すようなことはまず無い。彼女は女中に復讐してやろうと思った。彼女はスプーンを見つけた場所にそのまま置いてから、女中にベッドにきれいなシーツをかけておくよう命じた。そして、今夜は夫の母親が私のベッドで寝るから、私はあなたの部屋で休むつもりだと言った。このため、女中はいつもとは別の部屋で休まなければならなかった。彼女はベッドのシーツを取りかえようとして、無くなったスプーンを見つけ、びっくりした。しかし、彼女には自分のベッドでスプーンを発見したことを言えない理由があった。彼女はそれをいったん自分のトランクへ隠し、いずれ偶然見つかるような場所に置いておこうと考えた。

　その夜、女主人は不自然にならないように女中のベッドに休んだ。これからどんなことが起こるのか、想像もできなかった。ベッドに入ってしばらく、嫉妬のためまんじりともせずにいると、だれかが部屋へ入ってくる物音がした。一瞬、彼女は泥棒ではないかと思い、身も凍るほどの恐ろしさで声も出なかった。そのとき闖入者が、「メアリー、起きているかい」と言うのを聞いた。まぎれもなく夫の声だった。恐怖心は消えた。しかし、声を出して気付かれないように黙っていた。彼女は寝たふりをして成り行きにまかせることにした。

　夫はベッドに入ってきた。だが夫に抱かれながらも、この人は私のことを女中だと思ってこんなことをしていると考えると、彼女は楽しまなかった。そしてただ夫になされるがままになって耐えた。明け方早く、彼女はまだ眠っている夫を残してベッドを離れ、義母の寝ている部屋へ行って一部始終を話した。夫も目を覚ますと、この部屋にいるところを見付かってはまずいと思い、こっそりと部屋から出ていった。女中に対する彼女の復讐心はますます強くなり、とうとう警察へ出向いて女中がスプーンを盗んだと訴えた。女中のトランクが開けられ、スプーンが見付かった。女中は治安判事の前に引き立てられ牢に入れられた。

　夫は正午近くまで外をぶらついてから、街に用足しに行ってきたようなそぶりで帰宅したが、女中のことを聞くと、妻に激しい怒りを覚えた。これが火に油を注ぐような結果になった。彼の母親は妻の味方についた。争いは昂じ、母親と妻は、やにわに馬に乗ってもといた家へと出ていってしまった。以後、この夫婦は二度とベッドをともにすることはなかった。

　女中は長い間牢に入れられていた。巡回裁判が来るまでにはまだ半年近くもあった。しかしその前に、彼女は身ごもっていることがわかった。彼女は法廷に呼び出されたが証拠不十分で放免になった。女主人の良心は痛んだ。彼女は、女中が夫と不義の関係にこそなったが、盗みはしていないと信じていたからである。放免されてしばらくすると、女中は女の子を生んだ。

　しかし夫がなにより驚いたのは、このとき妻もやはり身重の体であることがわかったことであった。彼は、妻が病床について以来、彼女と床をともにしたことは一度もないと思っていた。今度は彼が嫉妬する番だった。そして、このことによって自分の浮気を正当化した。いままでずっと妻を疑っていたが、今度こそ証拠をつかまえたとふれこんだ。彼女はふたごを生んだ。男の子と女の子であった。

　夫の母親が病気になった。彼女は息子に便りをして、妻と仲直りするように言った。しかし彼はこれに耳を貸さなかった。そこで母親は遺言状を作成し、遺産はすべて息子の妻と彼女の二人の子供のために使うよう管財人に委ねた。それから数日後に彼女は息をひきとった。

　生計の大部分を母親に頼っていた彼にとってこれはひどい仕打ちだった。しかし彼の妻は、このような男にはもったいないくらい優しい女だった。彼女は義母の遺産から毎年一定の金額を夫に送った。しかし別居はしたままだった。これが五年近く続いた。このころになると、彼は女中に生ませた女の子に対する愛情がつのり、この子供を引き取って一緒に住もうと決心した。しかしこれが女の子であることを町中のものが知っていたから、妻や人びとの目を欺くため、半ズボンを穿かせて男の子に仕立てた。そして、親戚の子供を引き取り自分の助手として育てているということにした。

　妻は、夫が幼い男の子を家に置いて可愛がっているということを聞いた。彼女は、そんな男の子のいる親戚を知らなかったから、友人に頼んで詳しいことを調べてもらった。友人は子供に会って話をした。そしてこの子供が実は女の子で、その母親は例の女中であり、夫はいまも彼女と交際を続けていることがわかった。

　このことを知らされた妻は、自分の子供のかねが夫の不義の子供の養育費となることに我慢ならず、夫に対する仕送りをやめてしまった。夫はひどく怒って、腹いせに女中を家に呼び寄せ、公然と同棲を始めた。これは近所で大変なスキャンダルになった。彼は自分の行為の悪影響をすぐ知ることになった。仕事の依頼がだんだん少なくなってきたのである。彼は、この土地ではもう生活できないことがわかった。そこで家財を売り払い、女中と娘を連れてコークへ行き、そこからカロライナ航路の船に乗った。

　最初、彼はこの植民地で弁護士を開業したが、後に商売に転じた。これはなかなかの成功を収め、かなりの規模の農園を買うことができた。こうしたとき、彼の妻として過ごしてきた女中が急死し、すでに成長していた娘アン・ボニーが家事をすることになった。

　アン・ボニーは気性の激しい男まさりの女だった。このため、彼女が裁判で判決を受けるとき、彼女の不利になるような話が幾つか報告されたのである。例えば、あるとき彼女はかんしゃくをおこして、父の家で使っていたイギリス人の女中を食卓ナイフで刺し殺してしまったという話などがそうである。しかし、後に私が調べたところ、この話はまったく根も葉もないことがわかった。アンが非常に腕っぷしが強かったのは確かである。あるとき、若い男がアンのいやがるのを無理やりベッドに引きずり込もうとして逆にしたたか殴られ、かなり長く寝込んでしまったこともある。

　アンが父親と生活していたころ、父親は娘に良縁を見つけて幸福な暮らしをさせてやりたいと思った。しかしアンはこの期待を裏切った。父親の同意も得ずに無一文の若い船乗りと結婚してしまったのである。父親は立腹のあまり、娘を家から追い出してしまった。彼女と結婚した男はかねの入るあてがなくなってしまったので、彼女と二人で職を求めてプロヴィデンス島へ渡った。

　この島でアンは海賊ラカムを知った。ラカムは彼女に言い寄り、すぐ彼女の心を夫から自分の方へなびかせる方策をみつけた。アンはラカムと駆落ちすることに同意した。そして男装し、彼とともに海に乗り出したのである。船で彼女は立派に任務をはたした。海に出てしばらくして、彼女は身ごもっていることがわかった。腹の子供が次第に大きくなってきたので、ラカムは彼女をキューバに降ろし、その土地の友人に出産までめんどうをみてくれるように頼んだ。出産後、再び働けるようになると、ラカムはまた彼女を呼び寄せた。

　国王の赦免が布告されると、ラカムは投降した。その後私掠船の任務についたが、再び海賊稼業に戻ってしまった。これはメアリー・リードの話にも出てきたとおりである。一味のすべての冒険航海に、アン・ボニーは仲間として加わった。戦闘のときには、彼女はだれにもまして勇敢に戦った。彼女とメアリー・リードが最後まで甲板に残って戦ったこともすでに話したとおりである。

　アンの父親は、ジャマイカの入植者たちに多くの知人がいた。彼は入植者たちと取り引きをしていて、彼らの評判もよかった。彼らの幾人かはカロライナにいたこともあり、そこで父親と娘が一緒に暮らしていたことを覚えていた。こうしたことから、彼らは、アンに有利になるよう取り計らってやりたいと思った。しかし、彼女が夫と別れるときにとった態度が悪評を買ってしまった。ラカムの処刑の日、特別の配慮で彼は彼女に会うことを許された。このときの彼女の慰めの言葉はこうであった。「あたしはあんたが絞り首になるのは悲しいよ。だけどあんたがもっと男らしく戦っていたら、犬みたいに吊されなくてもすんだんだよ」。

　アンは牢の中で出産した。そして刑の執行はたびたび延期された。しかし、その後彼女がどうなったかはわからない。ただ、彼女の刑が執行されなかったことだけはわかっている。





９　ハウェル・デイヴィス船長と乗組員





　ハウェル・デイヴィスはモンマウスシャー〔おそらくペンブロークシャー〕ミルフォードに生まれ、少年のころから船乗りとして育った。スキナー船長が指揮するブリストルのスノー船「カドガン」号に一等航海士として乗り組んで、ギニア海岸へ向かったのが、彼のイングランドからの最後の航海だった。一行がギニア沿岸のシエラレオネに到着したとたん、海賊イングランドに捕らえられ、掠奪された。スキナー船長はむごたらしく殺された。これはイングランド船長の章で話したとおりである。

　スキナー船長が殺されると、デイヴィスは海賊の仲間になるようイングランドに誘われたが、海賊の仲間になることを誓うぐらいなら撃ち殺された方がましだと、きっぱり断った。この勇気が気に入ったイングランドは、デイヴィスと残りの乗組員をスノー船に戻してやり、デイヴィスに、スキナーの代りに船長になって航海を続けるよう命じた。イングランドはまた封をした一通の書き付けを彼に渡し、しかじかの地点まで航海したら開封してよいと言った。そして、命にかけてもそこに書いてある指示に従うように命じた。これはまるで君主が麾下の将軍たちに対して行なうようにものものしい儀式だった。デイヴィスは、イングランドに言われたとおりこの書き付けを乗組員全員の前で読んだ。書き付けには、寛大なる計らいによって、船と船の積荷をデイヴィスと乗組員に贈ること、そしてデイヴィス一行はブラジルへ行って積荷を売り捌き、利益を平等に分配すべきこと、と記してあった。

　デイヴィスは、乗組員に、これに従うかどうか諮った。しかし、期待に反し、大多数のものがこれに反対した。腹を立てたデイヴィスは、乗組員を畜生呼ばわりし、どこへでも好きなところへ行くがいいさ、と罵った。積荷の一部はバルバドス島の商人に宛てたものだった。乗組員は船をこの島へ向けた。島に到着すると、彼らは、荷受人たちにスキナー船長の不幸な死を伝え、またデイヴィスが自分たちを唆かしたことを暴露した。デイヴィスは直ちに捕らえられ、三か月間牢に繋がれた。彼は海賊を働いたわけではなかったから、裁判にかけられることなく放免されたが、この地で職につくことはもはやできなくなってしまった。彼はプロヴィデンス島が海賊たちの集合地になっているのを知っていた。そこで、なろうことなら自分も海賊の仲間に加わろうと決意し、この島に渡った。だが彼は再び失望を味わった。彼が島へ到着したとき、島にいた海賊たちはすでにウッズ・ロジャーズ総督に投降し、国王の赦免を受けていたのである。

　しかし、ほどなく彼は仕事にありついた。ロジャーズ船長が貿易船に仕立てた二隻のスループ船「バック」号と「マンヴィル・トレーダー」号のうち、「バック」号に乗り組むことができたのである。二隻のスループ船は、フランス人とスペイン人相手に交易するため、莫大な価値のヨーロッパ商品を積んでいた。乗組員の多くはもと海賊で、最近赦免されたばかりだった。最初の寄港地はフランス領マルティニク島だった。ここでデイヴィスは数人の仲間と共謀し、ある夜、船長を監禁して船を乗っ取ってしまった。乗っ取りに成功すると、一味は少し離れて碇泊していた僚船の乗組員に一味の船に乗り移るよう呼びかけた。デイヴィスらは、僚船の乗組員の中にいつでも謀叛を起こす用意のある連中が大勢いることを知っていたからである。彼らは誘いに応じ、ほとんど全員が仲間に加わることに同意した。海賊になることを望まない乗組員は「マンヴィル」号に送り返され、好きな航路をとることを許された。しかしその前にデイヴィスは「マンヴィル」号から役に立ちそうなものをすべて自分の船に移してしまった。

　このあと一味は大杯を前にして作戦会議を開き、指揮官を選ぶことになった。選挙はすぐ終った。デイヴィスが絶対多数の票を集めて船長に選ばれた。全員この決定に従い、投票検査を要求するものはいなかった。指揮官に選ばれると、デイヴィスは直ちに仲間の掟を起草した。乗組員全員がそれに署名し宣誓した。これが終ると彼は、全世界に対して宣戦布告をするという主旨の短い演説をした。

　次に一味は船の垢落としをどこで行なうかを相談した。獲物を追う場合にも追跡を逃れる場合にも、速い船足は大いに役立つからである。この目的に適った場所として、一味はキューバの東端にあるコクソンホールを選んだ。ここは入江が狭く、船一隻で百隻の敵を締め出すことができ、奇襲からも安全だった。

　目的地に着くと一味は船底の清掃をしたが、乗組員の中に大工がいなかったからひどく苦労した。ここから、一味はヒスパニオラ島の北岸へ向けて出帆した。この航海で最初に遭遇した船は砲十二門を備えたフランス船だった。デイヴィスの船には三十五人の乗組員しかなかったが、食糧が欠乏しかかっていたから、このフランス船を襲った。相手はたちまち降伏した。デイヴィスは掠奪のため手下を十二人この船に乗り移らせた。このとき、一味は風上に別の帆影を発見した。フランス船の船長に、「あの船は何だ」と尋ねると、船長は、「前日出会った備砲二十四門乗組員六十人の船だと思う」と答えた。

　デイヴィスは、仲間に、「あいつは俺たちが使うのにまたとない船らしいから襲撃してやろう」と提案した。仲間は、これを無謀な企てだと思い、気乗りしない様子だった。しかしデイヴィスは、「俺に策があるからまかせておけ」と言って彼らを説得すると、追跡を開始した。獲物にした船にも同行を命じた。フランス船は船足が遅く、デイヴィスの船が先に敵に追い付いた。敵に並行するとデイヴィスは海賊旗を掲げた。敵船の乗組員は驚いた。そして、デイヴィスに向かい、「俺たちに近づくとは身のほど知らずなやつだ。すぐ降伏しろ」とどなった。デイヴィスは、「もうすぐ仲間の船がきてお前らを打ちのめしてやるが、それまで相手になってやるぜ。俺たちに降伏しねえとひどい目にあうことになるぜ」と言い返しざま片舷斉射を見舞った。相手も片舷斉射でこれに応じた。

　そうこうするうちに、フランス船が近づいてきた。この船の乗組員は全員、デイヴィスの仲間に見せかけるため白いシャツを着て甲板に出ているように命ぜられていた。またこの船には海賊旗がなかったから、汚れた帆布を掲げてその代りとした。フランス船にはいかにも大勢の海賊が乗っているように見えた。敵船はすっかり脅威を感じて降伏した。デイヴィスは敵の船長に、乗組員を二十人連れて海賊船に移ってくるよう命じた。船長が言われたとおり乗組員を連れてやってくると、デイヴィスは船長を除く全員に足枷をかけた。それから彼は、フランス船に四人の手下を使いに遣った。そして、なおこの船を一味の僚船のように装っておくため、この男たちに「獲物にした船に何か積んであるか調べたいから、向こうの船長に人手を貸すよう頼んでくれ」と大声で命じた。だが同時に、彼らに何をするかを指示した紙切れを手渡した。デイヴィスは、フランス船の備砲をすべて動かぬように固定し、小火器と弾薬を運び出してからその船に乗っている仲間全員を連れて新しく獲物にした船へ行くよう命じたのである。これが終ると、彼はもっと多くの捕虜をフランス船へ移すよう命じた。こうして彼は大勢の敵に反抗されないような安全策を講じたのである。なぜなら、海賊船に拘留した捕虜には足枷がかけてあったし、フランス船の方には火器も弾薬もなかったからである。

　二日間、三隻の船は一隊となって航行した。しかし獲物にした船のうち大型船の方はひどく船足が遅く、海賊船には適さないことがわかったので、デイヴィスはこの船をもとの船長と乗組員に返すことにした。彼は、まず船から弾薬そのほか必要と思われるものをすべて運び出した。フランス人の船長はまんまと騙されたことに激昂したあまり、船に戻ると自ら海に身を投じようとしたが乗組員に引き止められた。

　二隻の船を釈放すると、デイヴィスは北へ針路をとった。一味はこの航海でスペインの小型スループ船を捕らえ掠奪した。一味はさらにウェスタン〔アゾレス〕諸島へ足をのばしたが、その海域では何の獲物もなかった。一味はヴェルデ岬諸島に船を進め、セントニコラスに到着するとイギリス国旗を掲げて投錨した。この地のポルトガル人は、デイヴィスの船をイギリスの私掠船だと思い、デイヴィスが上陸すると丁重にもてなした。そして彼と取り引きもした。

　海賊はこの地に五週間滞在した。この間にデイヴィスは乗組員の半数を連れて港から十九マイルほど奥にある島一番の街へ気晴らしに出かけた。着かざったデイヴィスは総督その他の住民から大層親切にされ、ポルトガル人が見せたり、かねで買ったりする娯楽にはこと欠かなかった。一週間この街で遊ぶと彼らは船に戻り、入れ替りに今度は船に残っていた連中が街へ出かけた。

　全員が船に戻ると、一味は船の清掃をした後出帆した。しかし仲間のうち五人は、ハンニバルの兵士のように、この土地の愉悦と女たちとの気侭な交情にすっかり魅せられてしまい、島に残った。彼らの一人はチャールズ・フランクリンと言ったが、土地の女と結婚して島に落ち着いた。彼は今でもこの島に住んでいる。

　一味はボナヴィスタへ向かったが、港には一隻の船も入っていなかったので、さらにマヨ島へ船を進めた。マヨ島には大小さまざまの船が碇泊していた。一味はこれらの船を残らず掠奪し、必要なものはすべて自分たちの船に運び込んだ。同時に多数の人手を増強した。彼らの大部分は、自ら海賊の仲間になりたいと言ってきたのである。一味は拿捕した船のうち一隻を海賊船に仕立て、二十六門の砲を積むと「キング・ジェームズ」号と命名した。この近辺では真水が得られなかったから、ポルトガル領セントジャゴへ向かった。デイヴィスが二、三人の手下を連れて上陸し、適当な給水場所を探していると、総督自ら数人の従者をつれてやってきた。そして、「おまえらは何者か。どこから来たのか」と尋ねた。総督はデイヴィスの答が気に入らなかったので、「おまえらは海賊ではないのか」とあけすけに聞いた。デイヴィスはひどい侮辱を受けた様子で、「名誉にかけてそんなことはない」と言い、「総督の言葉を軽蔑する」と言い返した。だが総督一行が帰ると、デイヴィスは事態を恐れ、一目散に船に引き返して事の次第を仲間に話した。海賊どもは自分たちの船長に加えられた侮辱に憤慨した。デイヴィスは夜中に砦を襲えば成算がある、ともちかけた。一味は賛成した。夜が更けると、一味は武器に身を固めて上陸した。そして衛兵がぼんやりしている隙に、難なく砦の中に入ることができた。こうなっては時すでに遅く、砦では多少の抵抗を受けただけだった。デイヴィスの仲間が三人殺された。砦の兵隊は自分たちの身を守るため総督の家に逃げ込んだ。総督の家の守りは厳重を極め、デイヴィス一味が侵入することはできなかった。しかし海賊どもは家の中に手投弾を投げ込んだ。家はめちゃめちゃに壊れ、中にいたものが数人殺された。

　夜が明けると、全土に警報が出され、海賊討伐隊が編成された。包囲攻撃をもちこたえるのは一味の目的とするところではなかった。彼らは砦の大砲を取り外すと、すぐさま船に戻った。この冒険で一味はポルトガル人に甚大な危害を加えたが、自分たちに益するところもなかったのである。

　再び海に出た一味は、今や総勢八十名になっていた。今後の方針を相談し意見が分かれたが、多数決によりギニア海岸のガンビアへ行くことになった。これはデイヴィスの意見だった。彼はギニア航路の船に乗り組んでいたことがあり、この沿岸をよく知っていたのである。彼は、ガンビアの砦にはいつも大金がうなっているから、それを強襲するだけの価値は十分あると言った。仲間は、砦には守備隊がいるというのに、どうやって攻めるのかと聞いた。彼は、万事自分に任せてほしいと言った。そして、砦の乗っ取りを請け合った。今や乗組員はデイヴィスの勇気と指揮ぶりを大いに評価していたから、それ以上の詮索はせず彼に従うことにした。

　目的地の見える地点に到着すると、デイヴィスは操船に必要な要員以外は全員甲板の下に隠れるように命じた。こうすれば、要塞の連中は、乗組員が少ないから貿易船としか思わないだろうと考えたのである。砦の真下に投錨すると、デイヴィスは甲板長と船医、それに六人の手下を連れてボートに乗り込んだ。甲板長と船医、そして自分自身は紳士らしく着かざり、他の六人のものにはあたりまえのジャケツを着せた。砦の連中に商人と水夫一行のように見せるためだった。そして岸に向かって漕いでいる間に、この男たちに予想される様々な質問に対してどう答えればよいか言い含めた。

　岸に着いた一味はマスケット銃を持った一隊に迎えられ、要塞に案内された。植民地総督は、「皆さんはどういう方々か、どこからいらしたか」と丁重に聞いた。海賊は、ゴムと象牙を買い付けにリヴァプールからセネガルへ向かったところ、その沿岸で二隻のフランス軍艦に追われた。しかし彼らより船足が速かったから、危うく難を逃れたのだ、と答えた。そして、今は災いを転じて福にするつもりでこの土地で奴隷を買おうと思っている、と言った。総督が、主な積荷は何かと聞くと、彼らは、鉄と食器類だと答えた。この土地では、それらの品々がよく売れるのであった。総督は、その積荷全部を奴隷と交換しようと言い、さらに、何かヨーロッパの酒を積んでいないか、と聞いた。海賊は、自分たちの分として少しばかり持っているが、よかったら提供しようと言った。総督は皆に、食事をしていってほしい、と丁重に招待した。デイヴィスは、自分は船長としての任務があるからいったん船に戻らなければならないが、一緒にきた二人の紳士は残ってもよいし、自分も酒をみやげに食事までには戻るつもりだ、と言った。

　砦にいる間、彼は鋭く目をくばって、間取りや物の配置を頭に入れた。そして入口に一人歩哨がいること、そのすぐ近くに兵舎があること、そこには守備兵が待機していること、彼らの武器は隅に積み上げてあることなどを頭に入れた。さらに、総督邸のホールにも多数の小火器があることがわかった。船に戻ると、デイヴィスは仲間に、成功は間違いないから酒を飲まないようにしろと命じた。そして、砦に旗があがるのが見えたら、砦の乗っ取りに成功した合図と思ってよいから、直ちに二十人の人手を上陸させるよう指示した。このとき、小型スループ船が入港してきて一味の船の近くに錨を投げた。デイヴィスは、一味の騒ぎや武装を見られて陸に通報されないように、数人の手下をボートでこの船に送り込み、船長以下全員を捕らえて海賊船に留置した。

　このような用心をした後、デイヴィスは幾人かの手下とともに、砦に向かった。彼は手下に各々上衣の下にピストル二丁を隠させ、自分も同じく二丁のピストルをしのばせた。そして上陸したら兵舎へ行って兵隊たちの話に加わり、自分が総督の部屋の窓からピストルを発射したらすぐさま蜂起して兵舎にある武器を取り押えるよう命じた。

　デイヴィスが砦に戻ったとき、まだ食事の準備はできていなかった。総督は食事になるまで一杯やりながら待っていてほしいと言った。前にデイヴィスを岸まで運び、一人砦に残っていたボートの艇長が、砦の中をあちこちを見て、敵の兵力をよく見定めていた。彼は、今この部屋にいるのは、デイヴィス、甲板長、船医そして自分と総督だけだとデイヴィスに耳打ちした。これを聞くとデイヴィスはいきなりピストルを引き抜いて総督の胸につきつけ、「死にたくなければ砦を明け渡して金目のものを全部渡せ」と脅した。総督は突然の攻撃になすすべもなく、彼らの言うとおりにすると約束した。一味はドアを閉め、ホールにあった武器を全部奪うとそれらに弾を込めた。デイヴィスは窓からピストルを発射した。外にいた連中はこれを聞くとたちまち英雄のごとくふるまった。全員ピストルを手にして衛兵と武器置き場の間に立ち、一人がそれらの武器をすべて外へ運び出してしまった。これが終ると連中は衛兵たちを兵舎の中に閉じ込めて錠を下し、外には見張りを立てた。

　この間に一人が砦にユニオン・ジャックを掲げた。これを合図に船に残っていた連中は援軍を上陸させ、ほとんど混乱もなく砦を乗っ取ってしまった。双方に一人の死者も出なかった。

　デイヴィスは兵士たちに向かって熱弁をふるった。多くのものが仲間に加わった。海賊になることを潔しとしないものは、拿捕した小型スループ船に乗せた。そしてこの船のすべての帆と索具を取り去るよう命じた。こうしておけば脱走することもできず、従って、彼らを見張っている必要もないからであった。

　この日、一味は得意の絶頂にあった。砦からも互いに大砲を撃って喜びあった。翌日、彼らは仕事に精を出した。砦の掠奪に専念したのである。しかしそこで発見したものはかなり期待外れだった。当てにしていた大金は最近持ち出されてしまったあとだった。それでも二千ポンド相当の金の延べ棒その他の獲物を多数手に入れることができた。気に入ったものはすべて海賊船に運び込んだが、役立ちそうにないものは拿捕した小型船の船長や乗組員に気前よく分けてやった。そしてスループ船も返してやった。これが終ると一味は砦の大砲を取り外し、砦も解体してしまった。

　働ける限りの悪事を働いて、いざ出帆しようとしたとき、全速で近づいてくる船をみつけた。一味はすぐ錨を上げ、迎え撃つ用意をした。この船は、十四門の砲を備え六十四人が乗り組むフランスの海賊船であった。乗組員のうち半数はフランス人、半数は黒人だった。船長の名前はラ・ブーズと言った。彼はデイヴィスの船を荷を満載した獲物だと思い、追ってきたのである。しかし近づいてみると多数の砲を備え、甲板には多くの乗組員が見えたから、これは容易ならぬ敵だと思い始めた。小型のイギリス軍艦だと思ったのである。だが最早逃れるわけにもゆかず、彼は不敵にもデイヴィスの船に接舷して乗り移る決心をした。そして船を相手の方へ向け大砲を発射すると同時にマストに海賊旗を掲げた。デイヴィスも大砲の答礼をし、同じく海賊旗を掲げた。この僥倖にフランス船は大喜びした。二隻の海賊船は互いにボートを降ろし、船長同士が会って祝福し合った。二隻の船は船尾に休戦旗を掲げた。海賊たちは交歓に時を過ごした。ラ・ブーズはデイヴィスに、自分たちがもっとよい船を入手するまで一緒に航海してほしいと頼んだ。デイヴィスは快く同意し、最初に捕らえた海賊船に適した船をラ・ブーズに提供すると約束した。

　彼らはまずシエラレオネに寄港した。港には大型船が一隻碇泊していた。デイヴィスの船は快速船だったから、最初にこの船に近づいた。しかし相手が逃げようともしないので、軍艦かも知れないと思った。相手と並行になったとたん、この船は片舷斉射を浴びせてきた。同時にマストに海賊旗を掲げた。これに倣ってデイヴィスも海賊旗を掲げ、風下に向けて一発大砲を発射した。

　船は二十四門の砲を備えた海賊船で、船長の名はコクリンと言った。彼は入港してきた二隻の海賊船を獲物と思い、これらが恐れて逃げてしまわないように、黙って入港させたのだった。

　海賊たちはこの邂逅を大いに喜び合った。二日間、彼らは友情と親交を深めあって過ごした。三日目に、デイヴィスとコクリンはラ・ブーズのブリガンティーン船でこの地の砦を攻撃することにした。彼らは満潮のとき要塞に近づこうと計画した。砦では一味を怪しんで防備を固めた。ブリガンティーン船が小銃の射程内に近づくと、砦からは一斉射撃を浴びせてきた。船もこれに応じた。交戦は数時間に及んだ。二隻の僚船が応援に近づいてきた。砦を守っていた兵隊は、海賊船の多数の人手を見ると、これ以上抵抗できぬと思い砦を見棄てて逃げ出した。

　海賊一味は砦を占拠し、七週間近く滞在した。その間に彼らは全部の船の清掃をすませた。こうしているときギャレー船が一隻入ってきた。デイヴィスはこれを捕らえ約束どおりラ・ブーズに与えるべきだと主張し、コクリンもこれにあえて反対はしなかった。そこでラ・ブーズは乗組員とともにこの船に移った。彼は甲板を半分取り除き、二十四門の砲を据え付けた。

　彼らは作戦会議を開き、三隻で沿岸を下ってゆくことに決定した。艦隊司令にはデイヴィスを選んだ。だが三人の親密な関係はいつまでも続かなかった。デイヴィスの船に集まって飲んでいるうちに強い酒が回って興奮したあげく、彼らは喧嘩を始めた。このとき、デイヴィスは次のような短い言葉で結着をつけた。「よく聞け、コクリンにラ・ブーズ。俺は貴様らに力を貸してやったが、そのため貴様らは俺に逆らうようになった。だが俺はまだ貴様らを相手にするぐれえのことはできるぜ。だが俺たちは紳士的に出会った。だから穏やかに別れようじゃねえか。三人が集まって一つことをしようとすりゃ、意見が合わねえことはわかっているからな」。この言葉で他の二人の船長はそれぞれの船に戻り、別々の針路をとって去っていった。

　デイヴィスは沿岸を南下した。アポロニア岬で二隻のスコットランド船と一隻のイギリス船を掠奪した後釈放した。五日後、一味はスリーポイント岬沖でオランダの密輸船に遭遇した。密輸船は大砲三十門を備え、九十人が乗り組んでいた。乗組員の半数はイギリス人だった。デイヴィスが近づくと密輸船は第一弾を発射し、続いて片舷斉射を浴びせてきた。この砲撃でデイヴィスの乗組員九人が殺された。デイヴィスも負けずに応射し、激しい砲戦が続いた。戦いは午後一時から翌朝九時まで続いたが、遂にオランダ船は降伏した。

　デイヴィスはこのオランダ船を自分の船にして「ローヴァー」号と名付け、三十二門の砲と二十七門の旋回砲を据えると、「キング・ジェームズ」号ともどもアナマボへ向かった。一味は正午過ぎに湾に入った。港内には三隻の船が碇泊していた。奴隷、金、象牙を買いにきていたホール船長のピンク船「ヒンク」号、プラム船長の「プリンセス」号、そしてフィン船長のスループ船「モリス」号であった。「プリンセス」号には、後に話すことになる大海賊ロバーツが二等航海士として乗り組んでいた。デイヴィスは何の抵抗も受けずにこれらの船を捕らえ、掠奪した。そしてスループ船「モリス」号をオランダの密輸業者に与えた。四十人の黒人、乾物、そして大量の金粉がこの船にだけ積まれていた。

　ところで、デイヴィス一味が入港してきたとき、「モリス」号の回りには数隻のカヌーがいた。彼らは岸に逃れ、海賊船が入ってきたと港の要塞に知らせた。要塞は海賊船に砲撃を加えたが、砲弾の重量が不足で、敵まで到達しなかった。デイヴィスはこの挑戦を受け、マストに海賊旗を掲げると要塞に礼砲を返した。

　同じ日、デイヴィスは三隻の船を引き連れてポルトガル領プリンス島へ向かった。

　翌日早朝、マストで見張りについていた男が遠方に帆影を認めた。海賊は見張りをきびしくしていた。彼らの掟では、最初に船を発見したものは、それが獲物であれば、自分の分け前のほかにその船にある最良のピストルを二丁自分のものにすることができるのだった。そして彼らはその褒賞に非常な誇りを持ち、時にはそのような一組のピストルが人から人へ三十ポンドの値段で売り渡されるのだった。

　海賊はすぐさま追跡を開始した。この船はオランダ船だった。船は海賊船と岸の間にあり、全速で岸に向かい、自ら座礁して逃れようとした。デイヴィスは相手の意図を見破ると、全部の帆を張り、相手が座礁する前に追い付いて片舷斉射を浴びせた。オランダ船は直ちに降伏し、命乞いをした。海賊は彼らの命乞いを受入れた。一味の掟では、命乞いがなされた場合は常にそれを認めることになっていたのである。

　捕らえた船はたいそうな獲物だった。アクラの植民地総督が乗船していたが、彼は家財一切を持ってオランダへ帰国する途中だった。数々の価値ある品物のほか、一万五千ポンド相当の現金を積んでいた。海賊はこれらの分捕品を全部自分たちの船に運び出した。

　この成功により、海賊は先に捕らえた「ヒンク」号と「プリンセス」号をホール船長とプラム船長に返した。その一方で海賊はこの二船と「モリス」号の乗組員のうちから白人三十五人を仲間に加えて一味の増強を計った。また、オランダの密輸船も掠奪した後、釈放した。

　一味がプリンス島へ到着する前に、僚船「キング・ジェームズ」号が浸水をはじめた。デイヴィスはこの船の乗組員全員に、役に立ちそうなものをすべて持って彼の船に乗り移るように命令した。「キング・ジェームズ」号は錨に繋いでハイカメルーンに放置した。島が見えてくると海賊はイギリス国旗を掲げた。大型船がやってくるのを認めたポルトガル人は、何者か調べるため小型スループ船を派遣した。スループ船が声をかけると、デイヴィスは、自分たちは海賊船を追っているイギリスの軍艦だがこの沿岸に海賊が出没するという情報を得てやってきたのだと言った。これを聞いてポルトガル人はデイヴィスに歓迎の意を示し、港に案内した。デイヴィスが要塞に礼砲を発射すると要塞も礼砲でこれに答えた。彼は船を要塞のすぐ下まで近づけて投錨し、軍艦がするように揚陸用ボートを降ろして九人の乗組員と艇長を乗り組ませ、彼自身も乗り込んで陸に向かうよう命令した。

　ポルトガル人は栄誉礼をもって彼を迎え、総督のところへ案内した。総督はデイヴィスの素性をいささかも疑わず、丁重に迎え、「島で手に入るものは何なりと御用立てしましょう」と言った。デイヴィスはこれに感謝し、「御用立ていただいたものに対してはイギリス国王が代金を支払うでありましょう」と答えた。和やかな会話の後、彼は船に戻った。

　このとき一隻のフランス船が必要物資を補給しに島に帰港した。一瞬、この船を掠奪しようかとデイヴィスは考えた。しかし事を正当に見せるため、彼はポルトガル人に、あの船は海賊と取り引きしていて、掠奪品を積んでいるのを発見したから、それらをわが国王のために押収するのだと納得させた。この話はまことしやかに総督に伝えられ、彼はデイヴィスが職務に勤勉であることを称えた。

　数日後、デイヴィスは十四人の手下とともに密かに上陸し、海岸から奥まった村まで出向いた。この村には総督や主だった人々の妻たちが住んでいた。恐らく海賊どもは彼女たちの亭主の代りを務めようと企んで出かけたのだろう。しかしその前に一味は発見され、女たちは森の中へ逃げ込んでしまった。一味は目的を達さずに船に戻った。この事件は多少の騒ぎになったが、だれも一味のことを知らなかったので、そのままになった。

　船の清掃をすませ、すべての準備が整うと、デイヴィスの考えは本来の稼業のことに戻ってきた。島を掠奪しようというのである。しかし財宝の在処がわからなかったので、労せずに（と彼は思った）それを手に入れる一計を案じた。彼は一味に相談し、一味もその計画が気に入った。計画というのは、親切にしてもらった御礼に十二人の黒人を総督に贈り、それから彼と主だった人びとを船に招待して、彼らが船に来たところを足枷をかけて監禁してしまい、四万ポンドの身代金を要求しようというものだった。

　だがこの計略はデイヴィスにとって命取りになった。一人の黒人が夜陰にまぎれて海賊船を脱出して岸まで泳ぎ着き、すべての陰謀を総督に知らせてしまったのである。この男は、総督たちの妻を襲おうとしたのもデイヴィスだということも教えた。だが総督は何喰わぬ様子でデイヴィスの招待を慇いん懃ぎんに受け、船に出向くことを約束した。

　翌日、デイヴィスは総督を船に迎えるために上陸した。このとき彼は総督に対する敬意を示すため自ら上陸した。彼はいつものように丁重に迎えられた。そして彼と主だった乗組員は、船に行く前に総督の家で軽い食事をしてゆくように勧められた。（一部の主だった乗組員は「閣下」と呼ばれ、重要な場合には船長の相談役となり、一般の海賊には許されない特権――例えば士官遊歩路を歩いたり、船長室を使用したり、自由に上陸したり、拿捕した船の船長と交渉したり等々――を有していた。ここでいうのは、このような海賊の一部である。）一味は、何の疑いもなくこの申し出を受けた。しかし彼らは再び帰ってはこなかった。待ち伏せにあったのである。合図と同時に、伏兵の銃が一味を狙って一斉に火を吹いた。一人を除いて全員が倒れた。難を逃れた男はボートに乗って船に戻った。デイヴィスは腹を射抜かれた。彼は起き上り、逃れようと弱々しい努力をしたがついに力尽きて死んだ。死ぬ間際に、彼はピストルを引き抜き、敵に向けて発射した。軍鶏しやものように、恨みを残さず死ねるよう、最期の一撃を見舞ったのだった。

　さて、筆者は最近、本沿岸周辺ポルトガル人入植地に関する話を、同地域からやってきた聡明な紳士から聞くことが出来たので、それをここで紹介しておきたい。





セントトマス島、プリンス島およびアナボナ島のこと





　ポルトガル人は偉大な航海者であり、アフリカ沿岸に定住した最初のヨーロッパ人である。彼らはさらにインドを回り、また現在では他の国々の利益ともなっている多くの発見をした。だから、主記の島々のことについて話すまえに、ポルトガル人たちが新しい冒険航海に乗り出すことを可能にした磁石の驚くべき性質について簡単にふれておくのも無駄ではあるまい。

　磁石の引力は古代の人びと、恐らくはギリシャ人にも広く知られていた。しかし、それが極を指すという性質をわれわれが知ったのはほんのここ三百五十年ばかり前のことであり、ナポリのジョン・ゴイアが発見したと言われている。また印刷術とか鉄砲の使用などの近代的技術と同じく、パウルス・ヴェネトゥスが中国からイタリアへもたらしたという説もある。

　磁石の他の性質、すなわち偏差――正確な南北からの偏向や傾き等は、セバスチャン・カボット、ジェリブランド、ノーマン諸氏の発見である。磁針の傾き、すなわち赤道以外の場所では水平より高くを指し、赤道では平行となるのは実に驚くべき現象であり、わが国の人びとの発見によるのである。これが規則的なものとわかれば、緯度を知るのに非常に役立つのではないかと思われる。少なくとも船が陸に近づいたかどうかを知るのに、従来知られているより余程よい方法が工夫されるのではないだろうか。

　羅針盤が使用される以前、ポルトガル人の航海はヌン岬を越えることはなかった。航海術が改良される以前には、悪天候のため沿岸貿易船がポートサントやマデイラまでも流されることがあった。しかし羅針儀が発明された後、十四、五世紀ポルトガルのヘンリー王、アルフォンサス王、ジョン二世王らの奨励により、航海術は年々長足の進歩をした。

　アルフォンサス王は地理上の発見がポルトガルにもたらす利益を知り、先王にも増して航海を奨励した。さらに、ボジャドール岬とインドの間で発見した土地は永久に領有してよいとローマ法王が認めたから、王はリスボン市民ベルナルド・ゴメスに援助と利益の保証を与え、航海のたびにさらに百リーグ遠くに航海して新しい土地を発見することを義務づけた。この結果、一四七〇年、セントトマス島、プリンス島、そしてアナボナ島が発見されたのである。ポルトガルがアフリカに有していた多数の植民地のうち、これらの島々のみが現在もポルトガル領として残っている。

　セントトマス島は三島のうち主たるもので、ここの総督はこれら島々の最高司令官である。そしてプリンス島の総督は、ポルトガル宮廷から指名されるが、トマス島の総督の指揮を受けるのである。ここは司教の管轄区であり、多くの在俗司祭がいる。彼らの幾人かは黒人であることからみても、学問や信心はありそうにない。彼らの主だった一人が、気晴らしにと私たちをミサに招待してくれたが、そこで彼は仲間の司祭たちと気取った身振りと奇声を発してミサを行なった。彼らは恥知らずにも、私たちを慰めるためにこんなことをしたのだった。さらに悪いのは、かねを目当てにしていることである。司祭らは島の主たる貿易業者でもあり、人にとり入るため言語道断の卑しむべき行為にも及ぶのである。彼らと政府は貿易をめぐってたがいに反目し、他所からやってきた商人の商品は、玩具であれ衣類であれ、ポルトガル人が必要としているものはすべて独占しようと、ぺてん的な手段を講ずる。黒い普通の上下服は七、八ポンド、四シリングのかつらが一モイドール、四十シリングの時計が八ポンド等の値段で売れるのである。

　街はみすぼらしいが、規模は大きく人口も多い。全島で一万人と推定される原住民と三千人の兵隊の大部分がここに住んでいる。彼らは一般に卑劣でずるい連中だと私の古くからの真面目な友人が話した。あるとき、この友人は食糧と交換するため古着を詰めた鞄を持って上陸し、海岸に腰を下すと大勢のものが集まってきて彼をとり囲んだ。一人の男が、一番上に置いてあった、持ってきた商品のうちで最も上等の黒い服の値段を聞いて、自分の身体に合うようならこれを買う、と言った。そして断りもせず、あっという間に服を身に着けてしまった。私の友人が、よく御似合いです、と世辞を言おうとしたときには、男は群衆の外へ逃げ出していた。予期もしないことだった。私の友人は大声をあげて追った。しかし、そこに集まっていた五百人のものに邪魔されて見失ってしまった。もとの場所へ戻ってみると、召使が群衆に殴り倒され、残りの商品も持ち去られていたという。

　ギニアからくるポルトガルやイギリスの船のほとんどが、これらの島のいずれかに立ち寄り、新鮮な食糧と水を補給する。アフリカ沿岸では水質が悪かったり、港の便が悪かったりするからである。また、この島へ立ち寄るポルトガル船は、積んでいる奴隷に対する貢租を国王に支払うことになっている。これは常に金で支払われ、ブラジルに到着するまでに奴隷が死んで減少することは一切斟しん酌しやくされない。そしてこれが植民地政府の民事や軍事の財源となり、本国からの送金の煩わしさを無くし、またトマス島とプリンス島を潤して人びとはヨーロッパ人から欲しいものを何でも買えるのである。

　島の牛は小さく、痩せているが（体重二百ポンドほど）、山羊、豚、そして鶏は立派である。砂糖は粗く汚い。ラム酒はごく普通である。これら食糧品のほとんどは他の品をほしがっている人びとが所有している。彼らは、それらをわれわれの持ってゆく品物と安い率で交換してくれる。例えば、上等の豚一頭は古いカトラス一振り、肥えた鶏一羽がブラジル煙草一束（非常に珍重される）といった具合である。しかし現金ならば、牛一頭八ドル、山羊一頭三ドル、成長した豚一頭六ドル、鶏一羽一テスチェーン半、ラム酒一ガロン一ドル、砂糖一ルーヴ二ドル、そしていんこ六羽半ドルを払わなければならない。とうもろこし、ライム、シトロン、ヤム等も豊富である。

　島は縦横各十八リーグのほぼ正方形で、赤道直下にあり、起伏に富んでいる。街を出たところに木の橋があって、南へ行くにも北へ行くにも便利なようになっている。熱帯の太陽の直射を常に受けながらも島民は非常に健康である。陽気な連中はこれを医者のいないせいだと言っている。

　セントトマス島に次ぐのはプリンス島である。この島はポルトガル人の従しよう容ようとして思索的な気質に合った気持のよい土地で、どこからも煩わされない快適な引退生活ができる。私はこの島について、それをとりまく海、港、島の産物と季節、島民の生活、そして里人たちの習慣の順に話してゆこう。

　われわれは七月下旬、雨季が終り南西の風が吹くようになってから（雨季の前には南東の風が吹く）ワイダーを出帆した。しかし海に出ると船は予想外に南へ外れ、島の風上へ出てしまった。ワイダーの風下の強い潮流がベニンまで達しているとすれば、これはほとんど不可能なことである。否、フォーモサ岬の風上を通ることさえ困難に違いない。私はここでギニア沿岸全域の潮流について詳しく述べておこう。

　ギニア湾の南岸は緯度線に平行し、東岸は北に向いているが、どちらも直線で、入江や湾はごく少ない。それらのうちでも大きいのはベニンとカラバーである。両岸の潮流はカラバーに向かい、南で最も強くなる。なぜなら、南は広い海に開け、（陸からは見分けられないほどであるが）隆起し、これが海岸近くの潮流の原因となっているからである。これは陸の地形により変化し乱される潮汐にほかならない。

　その証拠に、実際に観察した以下の事実を記しておこう。ガンビアとシエラレオネの河川、ベニンの瀬戸の海峡、そして海岸全域で流れは規則的である。ただ次のような違いがある。すなわち、上述の河川とベニンの海峡では海岸が狭まり、潮は強く、高く、そして規則的である。しかし平坦な海岸では潮はゆっくりと低く（二乃至三フィート以上にはならない）、ベニンに近づくに従って強まる。これはコルソ岬、サッコンダ、そしてコメンダでいっそう著しい。これらの土地では海岸が回り込んでそれが障害となり、隣接した平坦な海岸では二、三フィートしかない潮の高さが、規則的に四フィート以上にもなる。そして十リーグも沖へ出れば障害はなくなって潮はほとんど高まりを見せない。

　以上のことから、ハーレイ船長の見事な潮汐理論とは別に、私は次のように推論できると思う。第一に、アンゴラ、カビンダその他のアフリカ南岸の地を目差す船は、パルマス岬から赤道を横切り、あまり西に寄らず南半球へ入るべきである。理由は簡単である。すなわち、もし諸島を横切ろうとすれば、凪と、南風と、逆流に遭うし、またあまり西に寄ると、貿易風が強く不利である。なぜなら、貿易風が変る南緯二十八乃至三十度まで航海しなければならないからである。

　第二に、ギニアの北部では、船が黄金海岸からシエラレオネ、ガンビアその他、風上の土地へ向かう場合は、この航路をとった方が、潮流と有利な陸風、そして南では雨期、トルネード〔西アフリカを襲う暴風〕、さらにパルマス岬を通過するときの貿易風を考えると、陸地へ着く風を得るまでに西へ四、五リーグ、北へも同じくらい迂回する航路をとるよりずっと有利である。

　最後に、この海岸は入江がなく河も小さくて航海できないから、海岸全域で打ち寄せる波が非常に危険なのである。

　この季節（七、八、九月）、プリンス島の回りの海は多数の鯨が群れ、船になれ近づいて遊ぶ。彼らは必ず牝牡組をなし、牝は牡よりずっと小さい。よく腹を上にすることがあるが、これは出産の前触れである。鯨には尾お長なが鮫ざめという敵がいる。これも大型の魚で、同じ時期にこの近海に群れ、鯨が空中高く飛び上り再び激しい勢いで海面に落下したところを襲う。この戦にはかじきも加わるといわれている。この魚は鯨が海面に上ってきたところを突いて攻撃する。しかし鯨は早い動きをするとき、頻繁に水面上に出て呼吸しなければ、窒息してしまうのではないかと私は考える。また、尾長鮫やかじきは餌食にする目的で鯨を襲うのではなく、彼らの餌場から追おうとしているのではないだろうか。鯨の大群を見ると私はよく、割のよい漁業ができるのではないかと考える。これらの鯨が鯨骨を採るのに適している種類ではないかと思うのである。島民は二、三隻のカヌーで沖へ出て鯨を一頭捕らえるのを遊びにしている。

　島の岩礁と海岸は海鳥、特にかつおどりとあじさしの繁殖地である。かつおどりはかもめぐらいの大きさで黒く、のろまである。人が近づいても逃げようともしないから、容易に掴えることができる。しかし、これはこの鳥が疲れているのと、翼が大きくていったん休めてしまうとそれを広げて飛び立つ余地がないせいだと思う。あじさしはもっと小さく、足は同じく偏平である。

　これらの鳥たちが生存のための季節と場所を知る本能には驚くべきものがある。七月から九月にかけて島の近海に大きな魚が群れるようになると、夥おびただしい鳥が魚の卵や餌の余りを求めてやってくる。そして一月には魚も鳥もいなくなってしまう。これと同じ理由でアフリカ海岸には海鳥はほとんど見られない。岩と島が彼らにとって最も安全で生存に適した場所なのである。

　プリンス島の港は、島の東南東に位置している。北側は遠浅であるが、ここは水深が深く、一マイル沖では百四十尋ひろの深さになる。港は静かな狭い湾で、強い南風さえ吹かなければ、安全である。そしてテントを張ったり、給水したり、帆を修理するのに便利な浅い入江に続いている。港全体は左側にある砲十二門を備えた砦に守られている。湾の最も奥、投錨地からおよそ一マイルほどの地点が街である。街には本通りが二、三本あり、家屋は木造である。ここに、島の総督その他主だった人びとが住んでいる。引き潮になると島民はやなを仕掛けて魚を捕る。これは彼らの暮らしのためであるとともに毎日の楽しみでもあり、五百人もの人びとが手に手に棒や小技で編んだ篭を持って集うのである。港内では潮は規則的に六フィートの高さに満ちるが、湾をなしている岬がなければその半分にもならないであろう。

　この島には宣教師が二人常駐している。彼らは六か月の任務で、キリストの教えを広め黒人を改宗させるため派遣されてくるのである。現在いる二人の宣教師はヴェネチア出身の才気ある人物で、この土地の自由な風俗を軽蔑しているようである。彼らは小ぎれいな修道院ふうの家に住み、庭にはこの島に産する種々の珍しい植物を栽培している。特に、くるみより大きな黄色い果実は、堅い二つの種を柔らかい果肉が包んでいて、しゃぶると砂糖や蜜より甘い。庭の唯一の害はおかがにである。これは明るい赤色をしていて（それ以外は海のかにと同じである）兎のように砂地の丘に穴を掘り、臆病である。

　島は丘と谷が混和して快適である。丘陵には椰や子し、ココナッツ、そして綿の木が茂り、猿や鸚鵡が遊んでいる。谷はヤム、クラル、パパ、野菜、パイナップル、グアヴァ、バナナ、カサヴァ、とうもろこし等のプランテーションである。そしてギニア鶏、マスコヴィ、鴨かも、山羊、豚、そして七面鳥が小さな黒人の部落で飼われている。彼らは主人に仕えてプランテーションの栽培や家畜の飼育を管理し、またそれらを物々交換したりかねに換えたりする。値段はセントトマス島と大差ない。

　さて、この島に産する植物について少し詳しく説明しよう。これらのほとんどは、アフリカ全土で産するものだからである。

　椰子はアフリカ海岸に多く、果肉、飲料そして衣料の原料になることで珍しいものである。椰子の樹はまっすぐ四、五フィートの高さに育つ。頂の部分にだけ三、四本の枝が大きな傘のように広がる。幹は、こぶや樹をまっすぐ成長させ果実をよく実らせるために切り落とした枝の切り跡などでごつごつしている。枝は皮層で強く合わさっているが、この皮層をほぐすと非常に長く幅もある繊維が得られる。ベニンでは皮層の内側の膜を布に織り、染めて着る。樹は枝の下、幹のすぐ近くに果実をつける。一本の樹に三十個ぐらいだと思われる。実は一個三十ポンドぐらいの重量があり、刺のある皮に被われている。針ねずみに似ていないこともない。この実から液体と芳香のある油が得られる。これはアフリカ全海岸で食用にされるが、特に一部の地域では、大量につぶし、煮てその上澄みを取る。枝が出ているすぐ下に穴を開け、コクラと呼ぶワインを採る。やり方は次のとおりである。最も敏捷な黒人がつるで作った輪で自分の体を木に掛けてするすると登る。枝の下まで登ると樹に一インチ半ほどの穴を開け、そこに瓢箪をくくり付けて降りてくる。こうして一晩に二、三クオーツの液が採れる。これが終ると穴をふさいで別の樹に移る。穴をふさがないで液をたれ流しにしたり、昼間液を採ったりすると、樹を傷めてしまうのである。液は乳色で人を酔わせ、二十四時間ですっぱくなる。しかし採りたてはのどの渇きにも空腹にもよい。このワインからアラキ酒を造るのである。樹のてっぺんにキャベツと称されるものができる。これは味がキャベツに似ているところからこう名付けられたのだと思う。表皮には綿毛があり、これは上等な火ほ口くちになる。その他の部分の繊維は強い糸になる。

　ココナッツの樹は椰子の樹に似ているが、背はそれほど高くない。実は枝の下、幹の近くにつく。実に含まれている乳白色の液は（半パイントかそれ以上入っている）のどの渇きをいやすために飲まれ、しかも満腹する。液が多く含まれている実は皮も果肉も薄く、液が少ないと皮や果肉が厚くなる。

　綿の樹はアフリカ全土と島嶼に育つ。樹は鳩の卵ほどの大きさの実をつける。実は太陽に熱せられて熟すと、破裂して綿をつけた種を露出する。黒人たちはこれを紡ぐことを知っており、ニコンゴとセントジャゴ島では布にも織る。

　ヤムは同じ根に生え、甘味があるが、馬鈴薯に似ていなくもない。クラルはほうれん草に似た野菜である。パパはかぼちゃを小さくしたような果物である。これらはすべて、煮て肉と一緒に食べる。イギリス人はバターとライムを加えてパパのタルトを作る。

　グアヴァはりんごほどの大きさの渋味のある果物で、種と堅い実が入っている。西インド諸島ではあまり賞味されないが、クリオール人＊は桃よりもこれを好む。鹿肉よりかえるを好み、美しいイギリス婦人より黒人女を好むような下等な趣味の連中のことだから、別に驚くほどのことではない。

　プランテインとバナナは細長い果物で大小の違いがあるだけである。どちらかといえばバナナのほうが美味で小さいだけ汁気も多い。ふつう、皮を剥いでパンの代りに食べる。プランテインの葉は傷にすばらしくよく効く。私は頑固な潰瘍にこれを当てて治癒した例を見たことがある。

　カサヴァは根茎で、すぐりぐらいの高さの潅木になる。島民はこの茎からでん粉を作り、一ルーヴ当り三ライアルで売る。そして船が寄港すると大量に売り捌くのである。作り方は次のとおりである。まず、根を絞って毒のある汁を出してしまってから、女たちが石うすで粉末にして家に持ち帰り、われわれが小麦を料理するように煮て奴隷の食べ物にするか、自分たちが食べる白く美味なパンにする。本島に成育するカサヴァの樹には強い毒があり、料理法を心得ていないものがそれを食べて死ぬことがよくある。島民は豚に食べさせて毒があるかどうか確かめるが、これがわれわれの船乗りの死因の一つにもなっているのではないかと宣教師らが私に語っていた。

　とうもろこしは、米と同じくわれわれの奴隷船の普通の食糧であり、二ドルで千本購入できる。この茎は八、九フィートの高さに真っすぐ育ち、六インチごとに長い葉を出す。

　コーラと呼ばれるタマリンドの樹がある。ポルトガル人は水を飲むときこの実を噛んで甘味を楽しむ。また、名前は忘れてしまったが、非常な強精効果があるというある種の樹皮を見せてもらったことがある。私はこの種の話は好きでないし、植物にそのような効果があるとも信じないが、黒人たちが実際にこれを使っている光景を見たことはある。婦人方がこの樹皮を輸入したいなどとは望まれないであろうが、この樹皮を多く摂ると気分が塞いでくるということは知っておいてよい。この島のシナモンのことを言い忘れるところだった。シナモンの林へ通ずる道はたった一本しかなく、それは総督の別荘の入口になっている。この土地のシナモンは非常によく茂り、皮もインド産のシナモンに劣らない。島の人びとがこの肥沃な土地でシナモンその他の香料の木をもっと育成しないのは、あまり産物が豊かになると有力な近隣の部族に島を狙われると考えているせいだろう。

　この島には冬、というより春が二回と夏が二回ある。この冬は雨季であり、九月と二月または三月にやってきて、二か月続いて地味を肥やす。ここではあまり労力を要さず年に二回の収穫がある。

Hic Ver assiduum atque alienis Mensibus Aestas,

――Bis gravide Pecudes, bis Pomis utilis arbos.



（ここでは永遠に春であり、夏は夏でない月まで続く。／家畜は年に二度身重になり、木は年に二度果実をもたらす。　　――ウェルギリウス「農耕詩」小川正廣訳）



　冬は強い風と雷雨を伴って突然やってくる。しかし嵐はすぐに去り、雨季が始まる。雨はほとんど絶え間なく降り、二月に最も気温が低くなる。同様の雨季はアフリカ沿岸全域でみられる。

　この島のポルトガル人の生活は質素で節度があり、貧困とさえ言える。その証拠に、家で十分な食べ物を与えられない彼らの犬は貪食で野生化し、空腹のため墓を掘って死体を喰うのを私は幾度も見ている。ポルトガル人たちは貪欲と、しばしばその結果である例のキリスト教の徳すなわち克己心のおかげで、痩せ細っている。彼らは痩せた家畜でもいい値に売れるものなら、それらも同じように飼育していただろう。そうすれば倹約してもっと早く蓄えができるからである。総督以外の人びとは大部分、人を訪ねたり招いたりして楽しんだりはしない。毎夕、彼らは道路に面した戸口のところに集まって座り込む。小さな島のことだから、だれもが毎日見に行ける程度の距離にプランテーションを持っている。だから彼らはこうして集まって、自分たちのプランテーションとか黒人とかについてよもやま話をして別れるのである。毒にもならないが空しい会話である。

　黒人たちは厳しい労働を課せられてはいない。彼らの仕事は家の管理とか庭の手入れ、あるいは種播きといった、だれもが健康や楽しみのためにわざわざする程度のものである。最大の労働は彼らの主人あるいはその夫人をプランテーションまで送り迎えすることである。彼らはハンモックを吊し、日除の布を掛けた棒の両端を担いで主人を運ぶ。私はこのような労働でも、炭坑夫たちの見かけの自由よりは余程ましなのではないかと思う。

　黒人たちは主人に感化されて、ほとんどが、少なくともうわべはキリスト教徒である。しかし例外はある。彼らは慶弔のときにはいまだに馬鹿げた異教のしきたりに従い、混血したものやポルトガル人に対してもある程度の影響力を持っている。

　人が死ぬと親類や友人がその家に集まる。家の中には、死体が地面に丁重に置かれ、顔を除いた部分には布がかけられている。人々はその周りに集まり、哀切をきわめて哭泣する。アイルランドの人びとの儀式と似ている。この喪が八日八晩続き、声をそろえて泣く友人たちが出入りするが、日が経つにつれ声の調子は静まり、悲しみに沈む時間が長くなる。

　慶事や祭にも馬鹿げた騒ぎをする。これは、だれかが難破その他の危険な目に遭いながら助かったとき一般に行なわれる。彼らは助かったものの家に集まり、楽器をかき鳴らし、それに合わせて仲間の一人が声を絞って歌う。残りのものは壁に近くぐるりと輪になり、一人あるいは二人ずつ、順番を待ち、皆の手拍子に合わせて踊る。踊りながらひっきりなしに「アベオ」という声を発するが、これは「御機嫌いかが」の意味である。この馬鹿騒ぎは三、四日続き、毎回十二時間から十八時間にも及ぶのである。

　ポルトガル人は他のあらゆる面でよく節度をわきまえているが、こと肉欲については節制することがない。そして彼らの禁酒は恐らくめちゃな耽色の害毒に対する毒消しのつもりなのだろう。彼らはほとんどが性病に患っており、年をとるとともに痩せ、消耗してゆくのである。私はここで性病による潰瘍が癌になって内臓まで達している例を二件見た。まことに法による規制の必要性が痛感される悲惨な姿だった。

　アナボナは三島のうちで最も小さい。ここでも果物や食糧が豊富で、入港した船と、古い衣料やその他雑貨と物々交換している。セントトマス島から任命されてやってきた総督が島を治めている。二、三人の僧侶がいるが、いずれも宗教心などなく、無知で淫心ばかりあり、気ままに暮らしている。





＊　クリオール人　西インド諸島に移住した白人、特にスペイン人、またはその子孫。





10　バーソロミュー・ロバーツ船長と乗組員





　バーソロミュー・ロバーツはプラム船長の「プリンセス」号に二等航海士として乗り組んだ。一七一九年十一月、船はロンドンを出帆し翌年二月ギニアに到着した。アナマボで西インド諸島へ連れて行く奴隷を積んでいるときハウェル・デイヴィス船長に捕らえられ、海賊の一味にされたことは前章で述べた。はじめのうち、ロバーツは海賊の生活をひどく嫌っていたから、機会さえあれば一味から逃げ出していたに違いない。しかし後に、彼は考えを変えた。他の分野の多くの人びとと同様、出世できるということがその理由だったと思われる。個人としては嫌なことにでも船長としてならやましい気を持たずにすんだのである。

　前章で述べたようにデイヴィスは逝き、一味は新しい船長を選ばなければならなかった。シンプソン、アシュトン、アンスティスら、「閣下」という称号で呼ばれている幹部乗組員のうち数人が候補に上っていた。彼らはこの問題を討議し、デイヴィス亡きあと首領のいない政府がいかに弱体かということに話が及ぶと、閣下連中の一人デニスが酒をあおって次のような演説をぶった。

「称号があるかないかなんてことは大した問題ではない。俺たちもそうだが、そもそも立派な海賊の首脳部というものは仲間から最高の権限を委任されていて、船長をその力量や性格によって任免できるのだ。俺たちははじめてこの権利を行使するわけだが、新しい船長が出しゃばりすぎるようなら即刻追放すればよい。だが、死んだ船長のあとを継ごうとするものは、傲慢な行為がどんなに取り返しのつかない結果をもたらすか心しておくべきだろう。俺は、船長には勇敢で、航海に熟練した男を選ぶべきだと思う。不穏分子の危険や無秩序のもたらす恐ろしい結果から俺たちの共和国や仲間を守ってくれるのは船長の器量と勇気にほかならないからだ。そして、俺はこのような男として、ロバーツを推す。彼は、どんな点から見ても、諸氏の尊敬と支持を得るものと信ずる」。

　この演説は一同から喝采を受けた。ただ一人シンプソンは、密かに自分が船長になることを期していたから、ひどく不機嫌になった。そして「カトリック教徒でなきゃ、だれを船長に選ぼうとかまやしねえさ。カトリック教徒だけは許せねえ。俺の親父はモンマースの反乱で殺されたんだからな」と毒づいた。

　こうして、海賊一味に加わって六週間足らずのロバーツが船長に推挙された。閣下連中と乗組員全員がこれを承認した。ロバーツは「俺は泥水にどっぷり手をつけてしまったから、もう海賊になるしかない。どうせなら、平水夫でいるよりは船長になろう」と言って、この名誉を受けた。

　ポルトガル人に殺されたその他の幹部乗組員の補充を行なって首脳部が確立すると、一味は亡きデイヴィス船長の復讐をしようということになった。デイヴィスは、あらゆる場合に勇敢であったばかりでなく、気のおけない好人物だったから乗組員全員から敬愛されていた。決定に従って、およそ三十人の男が要塞攻略に上陸した。要塞にたどり着くには、大砲を正面にして険しい坂を登りつめなければならない。一味を率いたのはケネディーという、大胆不敵ではあるがつむじ曲りで品行の悪い男だった。船の掩護射撃を受けながら、一味はまっすぐ要塞に攻め登ったが、ポルトガル人は彼らを認めるといち早く要塞を棄てて街に逃げた。海賊どもは何の抵抗も受けずに要塞へ入ると、火を放ち、大砲をすべて海に投げ込んでしまった。そして意気揚々と船に戻った。

　だが、これだけでは彼らの気持は収まらなかった。一味の大多数は、街を焼き打ちにしてしまえという意見だった。ロバーツは、自分たちの潰滅を招かずにやれるうまい方法があるならそれに賛成すると言った。街は、すぐ近くまで深い森が迫り、要塞よりずっと安全な場所にあるから、敵はその森に身を隠して味方より有利な位置から射撃できるばかりでなく、攻撃の困難さと予想される犠牲を考えると、街の貧しい家を掠奪しても見合わないというのが彼の意見だった。この慎重な意見に仲間は納得した。だが一味はこの港で捕らえたフランス船に十二門の砲を積み、船荷を軽くすると浅瀬を街まで近づき、数戸の家を砲撃して破壊した。全員本船に戻るとフランス船を持主に返した。そして碇泊していた二隻のポルトガル船に火を放つと、その光に照らされて港を後にした。

　ロバーツは南へ針路をとった。途中、ギニア航路のオランダ船に遭遇するとこれを掠奪した後、船は船長に返した。二日後、ロペツ岬でコーネット船長の「エキスペリメント」号というイギリス船を捕らえた。この船の乗組員は全員海賊の仲間に加わった。一味は不要になった船を焼き払って、セントトマス島へ向かった。この航海では一隻の船にも出合わなかった。一味はさらにアナボナへ針路をとり、そこで水や食糧を補給した。それから東インド諸島へ向かうかブラジルへ向かうかを票決し、ブラジルへ行くことになった。二十八日間の航海の後、一味はブラジル沿岸の無人島フェルディナンド島へ到着した。この島で彼らは水を補給し、船底についたフジツボや牡蛎を落とした後、塗装を行なって来るべき航海に備えた。

　一味はブラジル沿岸のほとんど陸の見えない沖合をおよそ九週間獲物を求めて遊弋したが、一隻の船にも遭遇しなかった。一味は失望してこの海域をあとにし、西インド諸島へ向かうことにした。そしてこの地の見納めに船を陸に近づけロス・トドス・サントス沖にきたとき、思いがけず四十二隻から成るポルトガル船団に出合った。この船団は荷物を積んでリスボンへ向かうところだった。数隻はかなりの武装をしていたが、なお、各々七十門の砲を備えた護衛艦二隻をこの海域で待っているところだった。ロバーツは、まかりまちがえばひどい目に遭うだろうとは思ったが、これらの船を獲物にしてやろうと決心した。彼は、部下に適当な時がくるまで船内に隠れているよう命じ、船団の中へ紛れ込んだ。そして、最も離れて碇泊している一隻に近づくと、船長に「静かに俺たちの船に乗り移れ。少しでも抵抗したり他の船に合図したりしたら容赦はしない」と脅した。ポルトガル船の乗組員は、この威嚇と海賊船の甲板にぎらつくカトラスに度を失い、一言も発さず降伏し、船長は海賊船にやってきた。ロバーツは船長に丁重な挨拶をし「われわれは海賊（ジェントルマン・オヴ・フォーチュン）であるが、あなたには船団で一番価値ある船がどれか教えてもらいたいだけだ」と言った。そして「正直に教えてくれれば何ら危害を加えずに船に戻してさしあげるが、さもなければ即刻命はないものと思っていただきたい」と言った。



バーソロミュー・ロバーツと「ロイヤル・フォーチュン」号および「レンジャー」号。１７２２年１月11日ギニア海岸ワイダー泊地にて11隻の船舶を拿捕する





* * *





　ポルトガル船の船長は、百五十人が乗り組み四十門の砲を備えた船を指し示した。その船は「ローヴァー」号より強力だったが、海賊一味はいささかもたじろがず、「なに、奴らはポルトガル人だ」と言って近づいていった。声の届く距離まで接近すると、海賊は捕虜にしている船長に命じてこう言わせた。「おーい、船長はどうしているね。ちょっと話したいことがあるんだがこっちの船まできてもらえないか」。相手は「すぐそちらへ行く」と答えた。だがそれに続いて船からざわめきが聞こえた。海賊は、自分たちの正体がばれ、相手の答は応戦の準備の時間かせぎのためだと感付いた。時をうつさず、海賊は相手に片舷斉射を浴びせ、接舷し、鈎フックで自分たちの船に引き付けた。戦いは短く激しかった。ポルトガル人船員多数が死んだが、海賊側の犠牲は二人だけだった。このときには全船団が非常事態に気付き、各船は、トガンマストに信号旗を掲げ、大砲を発射して護衛の軍艦に急を知らせた。軍艦はまだ錨を下したままでいたが、騒ぎを知って急ぎ救援に向かった。後に海賊の語ったことが真実なら、最も責められるべきはこれら軍艦の艦長であり、彼らは艦長の資格に値せず、男の風上にも置けない輩であった。実際、ロバーツは帆走するのに獲物が重荷だとわかったが、それでもこれを手放すまいと決意し、停船して先頭の敵艦に向かい戦闘準備をした。（この軍艦は僚艦よりかなり先行していた。）だが見下げ果てたことに、海賊船よりはるかに強力なこの軍艦は交戦を拒否したのである。この艦は危険を冒して単独で海賊と戦おうとはせず、便々と僚艦を待ちつづけ、その間に海賊船は獲物を引き連れ、悠々と去っていった。

　獲物の船は莫大な価値があった。主な積荷は砂糖、皮革、煙草、金製の鎖や装飾品、モイドーレ金貨四万枚等であった。特に、ポルトガル国王のために誂あつらえたダイヤをちりばめた十字架は見事なものだった。一味は後に、これを恩誼あるギアナ植民地総督に贈った。

　この戦果に意気揚々とした一味は、どこか安全な隠れ場所へいき、贅沢放埓の限りを尽して楽しみたいと思った。そして、ギアナ海岸のスリナム河にある通称悪魔の島という小島を選んだ。島に到着すると一味は総督や商館の人びとばかりか、彼らの夫人たちからも最高のもてなしを受けた。彼らは海賊と商品を交換し盛大に取り引きした。

　一味はこの河で捕らえたスループ船から、この船がロードアイランドから航海してきたもので、ギアナ沿岸で取り引きする物資を積んだブリガンティーン船も一緒だということを知った。ちょうど一味の食糧が底をつきかけてきていたから、これは願ったりの獲物だった。腹がへっては戦はできぬというわけである。ある夜、彼らが自分たちの宝庫であるポルトガル船を漁っていると、目当てのブリガンティーン船のマストが望見された。ロバーツは、この仕事ができるものは自分をおいてほかにないと考えた。そこでスループ船に四十人の手下を乗り組ませるとブリガンティーン船の追跡に向かった。しかしこの早計な、さして重要でない冒険があやうく一味の命取りになるところだったのである。ロバーツは、その日の午後にもブリガンティーン船を獲物にして戻れると気軽に考えていたから、船の食糧についてまでは考えもせず、四十人の乗組員を賄うだけのものを積んでいるのかどうか調べもしなかった。しかし獲物を追って出帆したものの、彼は船を見失い、逆風と潮流に悩まされながら八日後には風下三十リーグの地点まで流されていた。潮流はなおも彼らの船に逆らい、ついに獲物を捕らえる希望もなくなった。一味は投錨し、本船の仲間に状況を知らせ救援の船をよこすようボートで使いを出した。だが翌日にはすでに水も尽き、救援の船かボートが戻るまでどうやって食糧を補給すればよいか思いつかなかった。救援がくるまでにはなお五、六日かかりそうだった。一味はここでタンタロスのように、清冽な川の流れや澄んだ湖の幻影に苦しみながら、餓死一歩手前の状態に陥った。ついには苦しさに耐えかね、船室の床板を剥がしてロープで結び合わせ桶のようなものを作って、当座の水を求めて陸まで漕いで行かなければならなかった。

　数日後、待ちに待ったボートが戻ってきた。だがボートは不快この上ない知らせを持ってきた。ロバーツの留守を任されていた副官のケネディーが、海賊船と獲物を奪って逃げ去ったというのである。この屈辱こそ復讐して晴らさねばならない。ケネディー一味に裏切られ、置き去りにされた連中の怒りの声が聞こえるようである。われわれはここで、口々に謀叛した一味に対する復讐や呪いの言葉を吐くロバーツ船長と残された乗組員からしばらく離れ、ケネディーの跡を追うことにしよう。これ以後、彼は一路絞首台に向けて針路をとることになるのである。

　ケネディーは謀叛した一味の船長に選ばれたが、今後の方針がなかなか決まらなかった。海賊稼業を続けることを主張するものもいたが、大部分の乗組員は足を洗って密かに帰国したがっているようであった。（当時、海賊を赦免する法律は施行されていなかった。）そこで彼らは仲間を解散し、各自の道をとることにした。彼らはまずポルトガル船を釈放することにした。海賊船にはスリナム河で捕らえたスループ船の船長（名前をケインと言った）が乗っていた。（彼はまことに気のよい男だった。彼はいつも海賊どもを楽しませていた。ロバーツが追跡したブリカンティーン船のことを気軽に話したのも彼であった。海賊に捕らえられたとき、彼は自分の船がもっと大きく、積荷も多かったらお役に立てたのに、などと言った。）そこで一味はこの男に、まだ積荷を半分ほど残しているポルトガル船と三、四人の黒人を与え、彼自身の乗組員全員を返した。船長は篤志家の海賊らに礼を述べ、去っていった。

　ケネディー船長は「ローヴァー」号を指揮してバルバドス島へ向かい、その近海でヴァージニア籍のまことに平和的な船を捕らえた。この船の船長は、名前をノットと言い、クエーカー教徒だった。ピストル、剣、カトラスの類は一切船に置いていなかった。彼は海賊の言うことを何でも聞きそうだったから、一味のうちの幾人かは仲間と別れるよい機会だと考えた。こうして、八人の海賊がノット船長の船に乗せてもらい、無事ヴァージニアに運んでもらった。この連中はクエーカー教徒の船長に砂糖十箱、ブラジル煙草十巻、モイドール金貨三十枚、金粉少々を贈った。これらの品々は二百五十ポンドほどの価値があった。彼らは乗組員にもなにがしかの贈り物をして航海中愉快に過ごした。船長は彼らの好き勝手にさせたが、実際のところ、連中が酔いつぶれているか寝込んでいるときに不意を襲うのでもなければ、手が出せなかった。彼らは起きている間は武器を帯びていて、船長を絶えず脅かしていたからである。それに、策略によるのでなければ戦わないというのが彼の、というよりクエーカー教徒の主義でもあった。こうして船長は連中と事を起こさずケープスまで航行した。ケープスに到着すると、一味のうち、四人がより安全な逃亡を計り、船のボートを奪ってメリーランドへ向かった。しかし途中嵐に遭い、沿岸の辺鄙な土地に漂着した。彼らはここで入植者たちに歓迎され、数日間海賊であることを気付かれずに過ごした。一方、ノット船長は残った四人の海賊（彼らはノースカロライナへ行くつもりだった）を乗せていたが、この地の植民地総督スポッツウッド氏に急ぎ使いを遣り、不本意で乗せている船客がいることを知らせた。こうして四人は逮捕され、また捜索の結果、上陸して浮かれ騒いでいた四人も捕まった。海賊たちは全員裁判で有罪となり、絞首刑に処せられた。ブラジルの沿岸で海賊に捕らえられ、ヴァージニアまで連れてこられた二人のユダヤ系ポルトガル人が証人であった。上陸して騒いでいた四人の海賊は自分たちの財産の一部を入植者らに委ねたが、それについて彼らは黙したままだった。ノット船長は海賊が船に持ち込んだものばかりか、彼らから掠奪の見返り品として贈られたもの一切を当局に差し出し、乗組員にもそうするよう命じた。

　このヴァージニア船を拿捕してから数日後、ジャマイカ近海を航海していたケネディーは、そこでパンと小麦粉を積んでボストンからジャマイカへ向かうスループ船を捕らえた。海賊稼業から足を洗うつもりでいた乗組員は全員この船に移り、冒険航海を続けるつもりの仲間を残して去っていった。ところがスループ船に移った連中の中にケネディーも含まれていたのである。船の連中はケネディーを発見すると、船長としてあるまじき卑劣な行為に腹を立て、彼を海に投げ込んでしまおうとした。彼は少年時代は掏す摸り、海賊になる前は押し込み強盗という、海の紳士が最も卑しむ稼業をしていたところから、イギリスへ帰国したとたん仲間を裏切るのではないかと恐れたのである。しかしケネディーは仲間に忠誠を尽すことを厳粛に誓って、やっと一緒に航海することを許された。

　一味の中には、航海術ができると称するものは一人しかいなかった。しかしこの男の腕は見せかけに過ぎないことがわかった。（ケネディーは読み書きができず、胆力だけを売りものにして船長になった。彼の勇気はいろいろな機会に示されたが、特にポルトガル船を捕らえたときの活躍はすばらしかった。）一味はアイルランドに上陸することにして針路をとったが、スコットランド北西岸沖に航路を外れ、正確な位置もわからぬまま数日間激しい嵐に翻弄されて危うく海のもくずになるかと思われた。ようやく一味は船を小さな入江に乗り入れ、船を投錨した状態のまま放棄し、上陸したのである。

　そこから五マイルほど離れた小さな村にたどり着き、全員難破船の乗組員を装って休養した。彼らは用心しさえすれば何も疑われずに旅を続けることができたに違いないが、これから話すように、道々の気違いじみた放埓な行状によって自ら旅路を縮めてしまったのである。

　ケネディーともう一人の男はこの村で一味と別れると、近くの港から船に乗り無事アイルランドへ着いた。また別の六、七人は、気侭な旅をしながら、疑われることもなく彼らの望んでいたロンドンの港へ到着した。だが残りの連中は行く先々で酒を飲み、騒いで人びとを驚かせた。彼らが立ち寄る場所場所では、人びとは恐ろしくて家の外へ出ることもかなわなかった。また別の村では、まるでイソップ物語の中に出てくる主人公が自分の荷物を軽くするように、彼らは村人全員に大盤振舞をした。この濫費が災いして、一味からはぐれた二人の飲んだくれが何者かに道端で頭を割られて殺され、懐中のかねを盗まれた。残った十七人のならず者はエディンバラの近くまで来たとき、自分たちの知らない容疑で逮捕され、投獄された。だが一味の二人が自ら証人になることを申し出たため、治安判事は時を移さず一味を告訴した。そして速やかに裁判が行なわれ、九人が有罪の判決を受けて処刑された。

　ケネディーはアイルランドでかねを使い果たすとイングランドへ渡り、ロンドン南東のデットフォード街にある曖昧宿に身を潜めた。そして時おり、昔取ったきねづかの盗みを働きに外へ出かけた。しかし、あるとき宿の女の一人が彼を強盗で密告したため、ブライドウェル牢獄に投獄されてしまった。女は事を中途半端に終らせたくないと思った。そして彼が以前、自分が海賊を働いたことがあるという船の名前をうかつに口にしたのを覚えていたから、その船の船員を探し出した。この船員はグランドと言う名だったが、ケネディーの牢まで出向き、彼が海賊の張本人であることを確認した。これにより、ケネディーはマーシャルシー監獄へ送られた。今や彼のなすべきことは、共犯者の名前を証言して、自分の刑を減じてもらうことだった。そして、八乃至十人の仲間の名を挙げたが、彼らの所在がわからなかったため、一人しか逮捕できなかった。この男は有罪を宣告されたが根は正しい人間で、強いられて海賊仲間になったのであり、いちはやく仲間から離れたことが明らかになったので、結局赦免された。しかし、ウォルター・ケネディーは名うての犯罪者として、一七二一年七月十九日、海賊イグゼキユーシヨン処刑場・ドツクで絞首刑に処せられた。

「ローヴァー」号に残った連中はほどなく西インド諸島のある島に上陸した。その後彼らがどうなったかはわからない。だが一味の船はセントクリストファー島のスループ船に発見され、その島に回航された。船には黒人が九人乗っていただけだった。

　われわれは非道の者どもの悲惨な末路をみてきた。そして自然法や神の律法に抗って放埓に身を委ね、強盗掠奪等人類に対する犯罪を重ねた男たちが、ほとんど刑を逃れ得ないことも見てきたとおりである。これらの死が残った海賊たちに対し、いわば仲間が乗り上げて自滅した暗礁をさけるための標識ともなって、彼らが投降し赦免を求めるかあるいは海賊稼業から永遠に足を洗うことが期待されたのであった。このような稼業を続ければついには自分たちも同じ裁きをうける運命にあることを知るなら、その恐ろしさに、酔いつぶれでもしなければおちおち眠ることもできないはずである。ここでこのようなことを言うのは、ケネディーを裁いた法廷の正しさを称えんがためである。彼が死刑の判決をうけたとき、人びとは、「ならずものの奴には当然の報いさ」と言った。





　さて、ギアナ海岸に残してきたロバーツの話に戻ろう。ケネディー一味の仕打ちにロバーツは地団駄を踏んだ。しかし気を取り直すと、残されたスループ船で新たな冒険に乗り出すことにした。これまでの仲間の絆がいかに頼りないものであったかを反省した一味は、より強固な集団と一人ひとりに対する公正のために、彼らの掟を起草し、銘々がそれに署名し忠誠を誓った。だが、アイルランド出身の乗組員は全員これから除外した。ケネディーがアイルランド人であったことから、彼らはこの国のものに抜き難い憎しみを持っていたのである。神と人間の法に叛きながら、なぜロバーツは宣誓が拘束力を持つと考えたのか私にはわからない。だが、彼は、「仲間の絆を維持することを決意したなら、この掟を守ることがすなわち一人ひとりの利益になる」とし、それが仲間の安全になると考えたのである。

　以下は、海賊たちから直接聞いた彼らの掟の大要である。

　一、各人は、重大事項の票決に際し一票の権利を有する。また各人は、いかなるときであれ戦利品となった新鮮な食糧あるいは火酒に対し平等の権利を有し、随時それらを食し飲することができる。ただし、食糧が欠乏し、全体のために節約が要請される場合はこの限りではない。（海賊が食糧に欠乏することは珍しくない。）

　二、拿捕した船には、乗組員全員が乗員名簿に従って、平等に秩序正しく乗船するものとする。この際各自は正規の分け前の取得以外に、衣服を取り替えてもよい。ただし、食器類、宝石現金等を一ドルたりとも詐取したものは無人島に置き去りマルーンにするものとする。（これは、掟に叛いた乗組員に銃一丁、弾丸少々、水一瓶、および火薬一瓶を持たせ、荒涼たる、あるいは無人の、岬か島に置き去りにするというもので、海賊たちの野蛮な風習だった。）仲間同士の窃盗の場合は、被害者が犯人の耳と鼻に傷をつけた後、無人ではないが難儀することが明らかな島に置き去りにするものとする。

　三、かねを賭けてのカルタや骰さい子ころ賭博は絶対にこれを禁ずる。

　四、八時をもって消灯時間とする。消灯時間を過ぎての飲酒は、露天甲板で行なうこと。（ロバーツ自身は謹厳な男であったから、これによって乗組員が酒びたりになることを阻止できると考えたのである。しかし一味の不節制をやめさせようとする彼のあらゆる努力は結局効果がなかった。）

　五、銃、ピストル、カトラスは各自が手入れを怠たらず、常に使用可能な状態にしておかねばならない。（この点、海賊たちは実に見事であった。彼らは所持している武器の美しさと立派さを競い合い、時には上甲板大檣の下で一対のピストルが三十乃至四十ポンドで競売に付された。彼らは色とりどりのつり皮を各自のやり方で肩からかけ、それにピストルを吊して部署につき、悦に入った。）

　六、女子供を船に連れ込むことは一切これを禁ずる。女をたぶらかし、男装させて船に連れ込んだものは死刑に処する。（「オンスロー」号を拿捕したときのように、獲物の船に女が乗っていた場合、一味は女に見張りをつけ、悶着が起きないようにする。しかしこの場合もだれが見張りになるかで争いが起こる。多くの場合、最も粗暴な男が見張りになるが、見張りになった男は女の貞操を守って、自分以外のものが彼女と寝るのを許さないのである。）

　七、戦闘中船を放棄したり持ち場を離れた場合は死刑もしくは置き去りの刑に処する。

　八、船上で仲間同士が争うことはこれを禁ずる。争いはすべて当人同士が上陸し、剣とピストルによって結着をつけるものとする。（喧嘩をして和解しようとしない乗組員がいた場合、操舵手は二人を連れて上陸し、一定の距離をおいて互いに背中を向けるように立たせる。操舵手の合図で、二人は即座に向き合い、ピストルを発射する。さもないと双方とも武器を手からたたき落とされる。双方とも撃ち損なった場合はカトラスで渡り合い、最初に相手を傷つけた方が勝ちになるのである。）

　九、何人であれ、自分の分け前が一千ポンドになるまでは仲間から離脱してはならない。このため、勤務中に不具になった乗組員に対しては八百ドル、それ以外の場合も傷害の程度に応じて共同基金から補償金を支払うものとする。

　十、船長と操舵手は戦利品の二人分、マスター、甲板長、および砲術長は一・五人分、その他の上級船員は一・二五人分の分け前を取得するものとする。

　十一、楽士は、安息日には休息してよい。それ以外の六日間は、特別のはからいがある場合を除き、無休とする。



　以上がロバーツの掟と確信できるものの一部である。しかし、彼らは用心深く、各人が署名をした掟の原本を海へ投棄してしまっていたところから、残りの部分には、自ら一味と悪事をともにしようとする輩以外のものにとっては身震いするほど恐ろしい内容が含まれていたのではないかと想像されるのである。それはともかく、この掟は新入り乗組員の宣誓にも使われた。新入りの海賊は、まずこのときのためにとってある聖書に誓いをたて、ロバーツ閣下の面前で署名するのだった。これら条文の解釈に疑義のある場合、また当事者が掟に違反したかどうか議論のある場合は陪審員が任命され、係争に対し評決をするのだった。

　さて、これまで海賊の掟についてみてきたが、次に、このやくざな共和国の主な習わしと統治形態について、できるだけ簡単に述べてみよう。これらはどの海賊をみても大同小異である。

　掟の条文に定められていないような反則行為で、陪審に委ねるまでもない瑣末なものに対する処罰は、彼らが操舵手と呼ぶ幹部乗組員――これは選挙で選ばれる――の権限下にある。（ただし、戦闘時はこの限りではない。）彼の命令に従わなかったり、仲間同士喧嘩をしたり、捕虜を虐待したり、許された以上の掠奪をしたり、また特に抜き打ち検査をして武器の手入れを怠っていることがわかった場合、操舵手は自分の裁量で当該者を棍棒か鞭で打ち、罰とするのである。操舵手以外のものがそのようなことをすれば、たちまち乗組員全員の強い非難を招いた。言わば、操舵手は海賊一味の管財人であって、捕らえた船に最初に乗り込み、一味が取得すべき戦利品を分別し、また持主に返却すべきと思われるものを返却することをその役目とした。ただし、金銀製品は全員の意志で返却しなかった。

　海賊船で治安判事の役目を果す操舵手について述べたから、今度は軍司令官である船長について説明しよう。このような無政府的で秩序のない集団内での船長の特権は実に微々たるものである。乗組員は、いつでも追放できるという条件で、一人の男に船長の座につくことを許しているに過ぎない。一味は船長に大きな船室を提供し、ときには銀や陶製の食器を船長専用に割り当てることも認めた。（ロバーツは茶を常飲していた。）だが、だれでも気が向けば自由に船長の食器類を使ったり、彼の部屋に勝手に入り込んで毒づいていったり、彼がとがめだてしないのをよいことにして食糧や飲み物を失敬していったりもした。しかし、ロバーツは人並み外れた管理手腕により、常に船長の座についた。船長になるには乗組員の過半数の票を得ることが必要とされていたから、知力と胆力に傑出し、彼らの言う不死身の、そして反目する連中からは畏怖されるような男が選ばれるのだった。ロバーツはこれらの点で仲間から頭一つ抜きんでた存在であった。船長に選ばれると、彼は競争相手だった六人の最も凶暴な連中を自分の顧問団に任じて、容易に支配権を確立した。こうして彼は仲間からいっそう尊敬されるようになった。しかし彼の支配も末期になると、あらゆる計画に仲間と意見の対立をみるようになった。そして彼がいっそう打ち解けなくなり、他の連中のように飲み騒ぐこともしなかったため、彼を船長の座から追放しようとする陰謀が企てられた。しかし、結局、彼の死によって、より有効な終止符がうたれたのである。

　獲物を追ったり、敵と交戦したりする場合、船長の権限は絶対的であった。船長の命に逆うものはだれでも棒で打たれたり、刀で斬りつけられたり、さらには発砲されたりすることを覚悟しなければならなかった。船長の権限は捕虜にも及んだ。捕虜の処遇は、ほとんどの場合、船長が彼らの態度をどう思うかで良くも悪くもなった。たちの悪い仲間が、拿捕した船の船長を虐待しようとしているのを見ると、ロバーツはそれを制止した。そしてボトルを手にして愉快そうに、こうすることが自分の優位を維持し、また自分より無分別で気違いじみた連中から処罰の権限を取り上げることになるのだ、と捕虜たちに説明した。部下が船長の厳しい扱いを望まないとき（ロバーツは連中をおとなしくさせるため、よくこの手を使った）彼は新入りたちに、俺がおまえたちに優しくしてやるのは何もおまえたちが好きだとかえこひいきしてのことではなく、自分の気が向いたからそうしているだけのことだ、と言うのだった。「なぜって、おまえらが俺と互角に争うようになったら、だれもが俺を吊そうとするだろうからな」。





　さて、ろくに修理もしていない小型船で、食糧や装備もない状態では、海賊稼業を続けるわけにもゆかなかった。そこでロバーツ一味は、ともかくわずかばかりの補給をして、西インド諸島へ向かうことに全員一致で決定した。そこへ行けば、これら悪条件をすべて解決し、損失も取り戻すことができるに違いないと考えたのである。

　西インド諸島のうちの一つデシーダ島近海で一味は二隻のスループ船を捕らえ、食糧その他必要物資を奪った。数日後、ロードアイランドのブリガンティーン船を掠奪してからバルバドス島へ針路をとった。島の沖合で砲十門を備えたブリストル籍の船を拿捕した一味は、この船から、大量の布、現金、雑貨二十五梱、火薬五樽、錨鋼、太索、オートミール十箱、牛肉十箱、その他を掠奪したうえ、乗組員五人を仲間に加えた。そして三日間この船を連行した後、釈放した。釈放された船はバルバドス島へ向かい、到着すると直ちに海賊の掠奪に遭ったことを総督に報告した。

　当時港には軍艦は一隻もいなかった。そこで総督は碇泊中のブリストル籍ギャレー船に砲二十門、乗員八十、また同じくスループ船に砲十門、乗員四十を緊急配備するよう命じた。ギャレー船はブリストル出身のロジャーズ船長、スループ船はバルバドス出身のグレイヴス船長が指揮し、総督の命により、ロジャーズ船長が討伐隊の司令に任ぜられた。

　出帆して二日後、ロジャーズ一行はロバーツ一味に発見された。海賊は、これが自分たちの討伐隊であるとはつゆ知らず、直ちに追撃に移った。二隻のバルバドス船はゆるゆる進み、海賊船は接近した。ロバーツは発砲を命じた。自分たちの海賊旗のもとに相手はたちどころに降伏するだろうとふんだのである。だが予期に反し、相手は三度喚声をあげると同時に片舷斉射を浴びせてきた。戦いの火蓋が切られた。しかしロバーツは苦戦し、ありたけの帆を張って遁走せざるを得なくなった。敵のギャレー船は快速を利して海賊船にぴたりと追尾し、間断なく砲撃を加えた。海賊は備砲その他の重量物を海に投棄して船を軽くし、やっとのことで危機を脱した。このことがあって以後、ロバーツはバルバドス島出身者を許さず、バルバドス島の船を捕らえたときはとりわけ手厳しい処遇をしたのである。

　ロバーツ一味はドミニカ島へ向かった。この島で水を補給し、また船の雑貨と交換に住民から食糧その他必要物資を調達した。この土地で一味は十三人のイギリス人に会った。彼らの乗った二隻のニューイングランド船がフランス領マルティニク島の沿岸警備船に拿捕され、彼らだけこの島に上陸させられたのであった。この連中は喜んで海賊一味に加わった。一味にとってもこれは好都合の人員補充になった。

　一味の船はすぐにも修理が必要だった。しかし彼らはこの島は適当でないと考え、早々に出港した。この判断は正しかった。この島に滞在していれば、一味は壊滅していたかも知れない。というのは、彼らが船の修理のためにグレナダ諸島へ行くことに決めたちょうどそのとき、偶然のことから彼らのことが植民地に知れてしまい、マルティニク島の総督に通報されたからである。総督は直ちに二隻のスループ船を海賊追撃に向かわせた。一味はグレナダ諸島へ直行してカリアク環礁に入り、一週間ほどで急遽船の手入れを済ませた。この突貫作業のおかげで、一味はマルティニク島の二隻のスループ船の追撃を、数時間の差できわどくかわすことができた。海賊は夜のうちに出帆したのだが、追手は翌朝到着したのである。これは海賊どもにとってまことに幸運な脱出だった。彼らは後に、追手に発見されることを恐れて島を後にしたのではなく、酒と女が手に入らなかったため次の航海を急いだのだと言って平然としていた。

　かくして難を逃れた一味はニューファンドランドへ針路をとり、一七二〇年六月末目的地に到着した。そしてマストに高々と海賊旗を掲げ、ドラムやトランペットを打ち鳴らしながらトレパシーの港へ入っていった。港には二十二隻の船が碇泊していたが、海賊船の姿を認めると乗組員は全員船を棄てて陸に逃げた。この港で一味が働いた破壊蛮行は枚挙にいとまがないほどである。港に碇泊していた船はただ一隻ブリストルのギャレー船を除いてすべて焼き払って沈め、貧しい入植者たちの漁場や船着き場を情け容赦なく打ち壊した。まことに粗野で無知な連中が力を思いのままにすることほど嘆かわしいことはない。彼らは他人の災難などはおかまいなしに非行の限りを尽し、自分たちにとっても何の利益にもならない悪事を働いては喜んでいるのである。彼らはまるで気違いのように火を放ち、燃え木や矢を投げ、人を殺しながら、「おもしれえじゃねえか」などと言うのであった。

　ロバーツは港で捕らえたブリストルのギャレー船に十六門の砲を積むと、それに仲間を乗り組ませニューファンドランド沿岸を航海した。ここで出合った九乃至十隻のフランス船をことごとく拿捕し破壊した。ただ一隻、備砲二十六門の船は自分たちが使うことにして連行した。そして一味のギャレー船をフランス船の乗組員に与え、自分たちはこのフランス船に乗り移り、それを「フォーチュン」号と名付けた。一味はこの船とスループ船で船隊を組み、航海を続けた。この航海で一味が襲った船は、ジョナサン・ホワイトフィールド船長の指揮するバイドフォード籍の「リチャード」号、プール籍の「ウィリング・マインド」号、トプシャム籍の「エクスペディション」号、そしてケアリー船長指揮のロンドン船「サミュエル」号であった。一味はこれらの船から乗組員を徴用して仲間の増強を図った。「サミュエル」号は豪華船だった。船客も数人乗っていた。一味は彼らを手荒く扱い、「持ち物を全部出さなければ殺すぞ」と脅し続けた。そしてハッチを打ち破り、復讐の女神のごとき形相で船倉に押し入ると、手に手に斧やカトラスを持ち、船荷の樽や梱や箱を手当り次第壊した。甲板に運び上げた戦利品のうち、入用でないものは船倉へ戻さず、すべて海へ投げ棄ててしまった。こうして作業している間にも海賊どもは絶えず罵り毒づき、人間というよりは悪鬼であった。一味がこの船から奪ったものは帆、大砲、火薬、ロープ、そして八千及至九千ポンド相当の選りすぐりの品々であった。彼らはケアリー船長にこう言った。「俺たちは降伏して赦免してもらおうなんてけちな考えはこれっぽっちも持っちゃいねえぜ。恩赦法を定めた国王や議会なんぞ糞喰らえだ。キッドやブラディッシュの仲間たちのようにホープポイントで吊されて日干しになるつもりもねえ。俺たちが敵に敗れるときにはな、船の火薬庫にピストルをぶち込んで木端微塵、そろって陽気に地獄へ行くのさ」。

　戦利品をすべて自分たちの船へ移し終ると、一味は「サミュエル」号を沈めてしまうかそれとも焼き払ってしまうか話し合った。だが相談の最中に別の帆影を発見したので、一味は「サミュエル」号を残し新たな獲物を追うことにした。夜半になって獲物を追い詰めた。ボウルズ船長が指揮し、ブリストルからボストンへ向かうスノー船だった。海賊はボウルズ船長に残酷な仕打ちをした。彼がバルバドス島沖で一味を襲撃したロジャーズ船長と同じブリストルの出身だったからである。

　二日後、すなわち七月十六日、一味はジェームズ・フィリップス船長のヴァージニア船「リトル・ヨーク」号と、リヴァプール航路の「ラヴ」号を捕らえ掠奪後釈放した。翌日、ブリストルから航海してきたジョン・リチャーズ船長のスノー船「フェニックス」号が一味の手に落ち、ボウルズ船長同様、酷い目にあわされた。さらにトマス船長のブリガンティーン船と、スループ船「サドベリー」号が獲物に加わった。一味はブリガンティーン船の乗組員を全員捕虜にしたうえ、船は沈めてしまった。

　その後一味はニューファンドランドを去り、西インド諸島に針路をとった。途中、食糧が欠乏したので、補給船（一味は獲物のことをこう言っては面白がっていた）に遭遇しそうなデシーダ島近海を遊弋した。アフリカ海岸で交易すると称して、イギリス植民地で荷を積み、その実この方面へ向かう船がかなりあったのである。海賊に拿捕されて痛い目にあう危険を冒してもなお商人は利益の多い市場をめざしたのである。

　しかしこのときはいつもと違って不漁だった。日に日に食糧が少なくなってきた。一味はこの海域を見限ってセントクリストファー島へ船を進めた。だがこの島の総督府は一切の援助を拒絶した。海賊どもは腹いせに街に火を放ち、碇泊していた二隻の船を焼き払った。一隻はブリストル出身のコックス船長のものだった。ここから一味はセントバーソロミュー島へ向かった。この島で一味はたいそうな歓待を受けた。島の総督は新鮮な食糧を提供した。そればかりか、島の高官たちも一味を友好的にもてなした。島の女たちは競って着飾り、しなを作って気前のよい海賊どもに愛嬌をふりまいた。

　十分満ち足り、船にも新鮮な食糧を満載すると、一味は全員一致でギニア海岸へ行くことに決定した。途中、北緯二十二度の海域で、荷を満載してマルティニク島からやってきたフランス船に遭遇した。フランス船の船長にとって運の悪いことに、彼の船は、一味がニューファンドランド沖で取り替え現在に至っている船よりずっと一味の目的に適った装備をしていたのである。一味は船長にいいかげんな世辞を言って再び船を取り替えてしまった。（一味によれば交換は盗みではないのであった。）これが彼らの初代「ロイヤル・フォーチュン」号となった。

　この船に乗り組むと一味は航海を続けた。途中、ロバーツはギニアに到着する前にヴェルデ岬諸島南端のブラヴァ島に立ち寄り、船の手入れをしようと言い出した。だが、またもや救いがたいしくじりと判断の誤りから、目的の港よりはるか風下に流されてしまい、港へ戻ることはおろか、アフリカ海岸のどこかへ着くことも絶望的になった。一味はやむなく貿易風に乗って西インド諸島へ戻ることにした。これが一味を全滅寸前に追いやることになったのである。新たな目的地にスリナムを選んだが、これは七百リーグ以上も離れていた。しかもこの航海で、百二十四人の乗組員に水は約二百リットル入りの樽一つしかなかった。まことに、海賊どもの愚かしさと狂気をあからさまにするような惨憺たる有様だった。技倆と見通しの不足が招く危険に身をさらそうとするのは、まことにもって軽率というべきである。

　この惨状がいささかでも軽減される見込みもなく壊滅が避けられそうにないこのときほど、彼らは自ら犯した罪に思いを致したことはなかったのではなかろうか。あまたの掠奪を重ねた彼らは、一体どのような顔で救済を求めようというのか。彼らは今の今まで神にあらがってきたが、ことここに至って、その神こそ彼らが頼るべき唯一のものになってしまったのである。実際、神の力添えがなければ、自ら命を断つか、座して餓死を待つか、道は二つに一つしかなかったのである。

　一味は航海を続けた。そしてついに、二十四時間に一口の水しか割り当てられない状態になった。多くの乗組員が渇きをいやすため自分の小便や海水を飲んで死んだ。赤痢にかかるものもあった。日一日と仲間は減っていった。この惨憺たる状態によく耐えたのは、一日に一口か二口のパン以外の食物は取らずに、餓死寸前になりながらも辛抱した男たちだった。彼らは極度に衰弱しながらなお命を保っていた。

　暗い前途を思って不安や苦しみに打ちひしがれていた彼らは、ついに一滴の水もなくなったとき、どれほどの恐怖を味わったことであろうか。まさにこうしたとき（疑うべくもなく神の御業であるが）一味の船は錨綱の届く水深のところへきていた。その夜、一味は水深七尋で投錨した。彼らの喜びは言葉に尽せない。消えかかった命の灯に新たな生命が吹きこまれたかのようであった。だが、この喜びも長くは続かなかった。朝になってマストから陸を認めたが、それはあまりにも遠方で、ここ二日間一滴の水も口にしていない彼らにとっては、よそよそしい眺めだった。それでも一味はボートを出した。その日の夜、水を運んでボートが戻ってきたのを見て、一味は大いに安堵した。ボートの連中は自分たちがスリナム海岸マロニ河口沖にいることを教えた。

　読者は、奇跡的に危機を脱することができたことによって海賊どもは改心したのではないかと思われるかもしれない。ところがである。彼らは喉の渇きをいやすが早いか奇跡のことなどはきれいさっぱり忘れてしまった。そして食糧不足に気付き、再び飢えに備えなければならなくなった。食糧はほとんど底をついていた。にもかかわらず彼らは、「俺たちが真面目に稼業に励めば、神様は飲み水をくだされたように、肉もくださるだろうぜ」と冒涜的なせりふを吐いたのである。

　真面目に稼業に励むべく、一味は残り少ない食糧を頼りにバルバドス海域に針路をとった。獲物を捕らえるか、さもなくば飢え死にするかという、いちかばちかの航海だった。そして一味は必要物資を積んだ船と、さらにもう一隻のブリガンティーン船に遭遇したのである。最初に出合った船はセントクリストファー島の「グレイハウンド」号といい、フィラデルフィアへ向かっていた。この船の航海士は海賊の掟に署名し、後に「ロイヤル・フォーチュン」号の僚船「レンジャー」号の船長になった。

　これらの船から十分な食糧と酒を掠奪すると、一味はトバゴ島へ行き水を補給した。ところがカリアクに碇泊しているとき、二隻のスループ船が彼らを追っているということを耳にしたので、一味はマルティニク島へ向けて出帆した。この島の総督から受けた仕打ちに対して返礼をしてやろうという魂胆だった。

　マルティニク島にはオランダの密貿易船が出没したが、島民と取り引きしようとするときは船首旗を掲げて街に近づいてゆくのが彼らの習慣だった。ロバーツはこの合図を知っていた。そしてマルティニク島の連中は不倶戴天の敵だったから、この合図を利用してひとあわ吹かせてやろうと企んだ。彼は船首旗を掲げて街に近づいていった。案の定、島民は海賊船を商売相手と思い込み、スループや小舟で我さきにとやってきた。ロバーツは近づいてきた連中を次々とりおさえると、「無駄足を踏ませたとあっちゃ気の毒だから、かねは置いて失せろ。貴様らのような悪党はいつでもこういう目に遭うがいいぜ」と毒づいた。彼は、海賊船に引き止めた島民を陸に返すため一隻を残し、あとの船はすべて焼き払った。その数は二十隻にものぼった。

　バルバドス島とマルティニク島の植民地総督が以前自分を捕らえようとしたことに憤激したロバーツは、新しい海賊旗を誂え、以後それを使用した。この海賊旗にはロバーツ自身の立った姿が描かれ、両足の下には二個のしゃれこうべが配されていた。そして、しゃれこうべの下にはＡＢＨとＡＭＨという文字が染め抜いてあった。これらはそれぞれ「バルバドス人の頭」と「マルティニク人の頭」を意味した。

　次の寄港地ドミニカ島で、一味は備砲二十二門、乗組員七十五人のオランダ密貿易船と、ロードアイランドからきたノートン船長のブリガンティーン船を拿捕した。密貿易船は抵抗したが、乗組員が数人殺されると、残ったものは怖気づき降伏した。一味は二隻の獲物を伴って北上し、グアダルーペ島でスループ船と砂糖を積んだフランスの大型平底船フライボートを掠奪した。スループ船は掠奪した後焼き払った。一味は船を修理するつもりでモナ島へ船を進めたが、そこは波が荒く危険だったので、針路を転じてヒスパニオラ島北岸へ向かった。そして、サマナ湾のベネット島に碇泊し、本船とブリガンティーン船の修理を行なった。ヒスパニオラ島にはスペイン人とフランス人が入植しており、スペイン本国から派遣された長官も駐在して、スペイン領西インド諸島全域から寄せられる陳訴に対処していたが、島の大きさに比し人口が稀薄で、海賊どもは住民に発見される心配のない安全な退避港にことかかなかった。

　一味がここに滞在しているとき、二隻のスループ船が入港してきた。船長の名前はポーターとタッカーマンといった。彼らは、ソロモン大王を訪れたシバの女王よろしくロバーツのところへやってきて、「貴殿の令名と偉業を聞き及び」志を同じくするものとして海賊稼業の技と知恵を伝授していただきたい、と言ったものである。そして、自分たちは冒険航海に必要な品々がなくて困っているので、それらを援助してもらえまいかと言った。ロバーツは彼らの突飛で無遠慮な言動が気に入り、火薬、武器、その他必要とするものを与えた。二、三日一緒に愉快に過ごし、彼らが去ってゆくときには、ロバーツは「神が諸君の事業を成功に導きたまわれんことを祈る」と言った。

　船の手入れが完了してなおしばらく一味はここに滞在し、例のごとく放埓を尽した。いまや、ラム酒と砂糖はあり余るほどあり、酒は湯水のように飲めた。節酒しようなどと考えるものはいなかった。それどころか、しらふでいれば仲間に対して陰謀を企てているのではないかと疑われ、酒を飲まないような男は悪党だとみなされるのであった。「ロイヤル・フォーチュン」号の船長に選ばれたハリー・グラスビーの場合がそうである。彼はヒスパニオラ島滞在中、他の二人の仲間とともに隙をみて無断脱走した。彼は口数が少なく酒も飲まなかったのでよく疑いをかけられた。だからグラスビーたちが脱走した後、すぐ一味は、彼のいないことに気付いた。直ちに捜索隊が出され、翌日、三人とも船に連れ戻された。彼らの行為は重大犯罪であって、即刻裁判に付された。

　一味には裁判の方式があった。これは、他のもっと正式な権限を持った法廷でもほぼ同じである。彼らの裁判では弁護人に謝礼をするとか、証人を買収するといった習慣はまったくなかった。また陪審員を抱き込んだり、企図して法律を曲げて解釈したり、もったいぶった用語や無用な区別で訴訟事実を混乱錯綜させることもなかった。さらに、正義の女神も法廷から逃げ出してしまいそうな不吉で恐ろしげな顔付きをした役人たちが大勢出廷するなどということもなかったのである。

　三人の裁判は下士官室で行なわれることになった。テーブルの上にはラム酒をたたえた大杯が置かれた。パイプと煙草の用意もととのい、裁判が始まった。被告らが前に出ると起訴状が朗読された。海賊の法に照らして彼らの行為が問われた。法は被告らに不利だった。事実が明白に証明され、判決を言い渡す段になると、裁判官の一人が、まず一服しようと提案し、皆もこれに従った。

　被告らはみな、判決を下すのはやめてほしいと必死に懇願した。法廷は被告らの罪を憎み、彼らの訴えに心動かされることはなかった。しかし、ついに裁判官の一人ヴァランタイン・アシュプラントが立ち上り、パイプを口から外すと、一人の被告のためにひとこと言わせてもらいたいと前置きし熱弁をふるった。「グラスビーは絶対殺しちゃならねえ。やったら俺が許さねえ」というのがその主旨だった。そして席に着くと再びパイプをくわえた。この動議は残りの裁判官全員の猛反対に遭った。だがアシュプラントは決意も堅く、再び熱弁をふるった。「畜生め。いいか、貴公たち。俺は誠実さでは貴公らのだれにもまけねえつもりだ。俺がだれかに背いたりでもしたら、俺の魂は地獄へ落ちるさ。グラスビーは災難だったが、いい奴であることにかわりはねえ。俺は奴が好きだ。でなきゃ、俺は悪魔にのろわれるってもんだ。奴には生き長らえて、罪を悔いてもらいてえ。だがどうしても奴が死刑だというなら、俺も一緒に死ぬつもりだ」。しゃべり終ると彼は一対のピストルを引き抜いて裁判官席の同僚たちの前に差し出した。一同は彼の弁論を大いにもっともだと思い、グラスビーを無罪にするのがよかろうということになった。こうして裁判官全員がアシュプラントの意見に従い、無罪の判決を下した。

　しかし残りの二人の被告に対しては、被告自ら乗組員全員のうちから四人の死刑執行人を自由に選んでよいというのが最大の減刑措置だった。哀れな男たちは、直ちにマストに縛り付けられ、海賊どもの判決どおり銃殺刑に処せられた。

　一味はカリアクに寄港したとき危い目に遭ったのに懲り、自分たちの噂が広まるのを恐れて拿捕した船を連行し拘留していたが、再び海に出るとき、これらを処分した。それから自分たちのスループ船を焼き払い、ノートン船長のブリガンティーン船に移乗して、船長をオランダ密貿易船に移し放免した。この処置に、ノートンは不満でもなかった。

　奪ったブリガンティーン船を「グッド・フォーチュン」号と命名すると、一味は「ロイヤル・フォーチュン」号と船隊を組み、再び乏しくなってきた食糧を求めデシーダ島へ針路をとった。航海に出て間もなく、願ってもない獲物が手に入った。荷を満載してジャマイカへ向かっていたヒングストン船長の船が不運にも一味の手に落ちたのである。海賊はこの船をバーミューダ島まで連行し掠奪した後、再び西インド諸島へ戻った。この海域で次々と豊かな獲物（多くはフランス船だった）を捕らえ、食糧その他をたっぷり捕給した。食糧や弾薬が豊かになると、一味はもっと自分たちに相応しいことをやろうと考えた。絶えず消費する食糧や消耗品を掠奪することは本来彼らの意図するところではなかった。一味は再びギニア海岸を目差した。そこで金粉を安く手に入れようと考えたのである。この航海で一味はありとあらゆる国籍の船舶を獲物にしたが、船長の態度や性格が気に入らないというだけの理由で何隻かを焼き払った。

　このように一味は航海では数々の成功を収めていたが、この男たちを何らかの秩序のもとにおくということは、極めて困難であった。というのも、彼らはほとんどいつも乱痴気騒ぎをしているか、さもなければ酒びたりになっていて、だれもが自分が船長であるとか、君主であるとか、あるいは国王であるとか妄想していたからである。このように野蛮で始末におえない連中を押えつけ、あらゆる騒ぎの原因ともなる暴飲をやめさせるのは、生易しい手段では不可能とみたロバーツは、彼らに対して荒っぽく高圧的な態度をとり、必要とみれば罰しもした。そしてこのやり方をよく思わないものがいれば、彼は、「上陸して剣なりピストルなりで俺と決闘するがよかろう。俺はそんな奴らを屁とも思わんし、恐れもしない」と言い放った。

　アフリカ海岸沖四百リーグのところまできたとき、それまで行動をともにしてきたブリガンティーン船が、夜陰に乗じてロバーツから離脱しようと計画していた。これを説明するには、ロバーツ一味がこの航海に出る前に水を補給するため立ち寄った西インド諸島のある島で起こった事件について話す必要がある。この事件で一味の支配体制が崩壊しそうになり、またそれが今度の仲間割れの一因ともなったのである。話はこうである。

　ロバーツは飲んだくれ乗組員の一人（筆者はこの男の名前を失念した）に侮辱されてかっとなり、その場でこの男を殺してしまった。多くのものがこの仕打ちに憤慨したが、とりわけ、殺された男の食事仲間だったジョーンズという血気盛んな若者の怒りは大きかった。（彼は最近、マーシャルシー島で死んだ。）事件が起こったとき、ジョーンズは船に給水するため上陸していた。しかし船に戻ると自分の食事仲間がロバーツ船長に殺されたと聞かされた。彼はロバーツを呪い、船長も同じ目に遭うべきだと言った。ジョーンズの罵りを耳にしたロバーツは剣をひっさげて彼を追い、背中に一太刀浴びせた。ジョーンズは傷を負いながらもロバーツに掴みかかり、大砲ごしに投げとばしてしたたかに殴りつけた。このできごとで一味は騒然となり、あるものは船長の肩を持ち、またあるものは反抗した。一味は内乱状態に陥るかにみえた。だがこの騒乱も、操舵手のとりなしでやっと収まった。船にあっては船長の権威が支持されるべきであり、また船長の地位は名誉あるものだから、その地位に就くことが相応しいと皆が認めたものに対してはだれも楯突いてはならない、と言うのが多数の意見だった。

　ジョーンズに対しては、今回の不行跡の罰として、仲間一人ひとりから鞭打ち二回を受けるという判決を言い渡した。彼の背中の傷が癒えると、早速この刑は実行された。

　この厳しい罰を受けても、ジョーンズは自分が悪かったとは思えなかった。それどころか、彼の心の中に、何かの形で仕返ししてやろうという思いが強まった。だがロバーツと同じ船に乗っていては何もできない。彼は数人の仲間とともに、ブリガンティーン船の船長アンスティスと連絡をとり、アンスティスやアンスティスの船に乗っていた主だった連中と共謀してロバーツ一味から離脱しようということになったのである。アンスティスも、ロバーツに対して従属的な立場にいるのが不満だった。ロバーツはブリガンティーン船を単なる随伴船としてしか認めず、アンスティスと彼の乗組員に横柄で尊大な態度をとり、戦利品なども彼らには残り物しか与えなかった。ジョーンズと彼の仲間は遊びに行くふりをしてアンスティスの船を訪れた。そして盟友と相談したところ、大多数がロバーツと訣別することに賛成だった。こうして、その夜、彼らの言うところの穏便な別れを決行することにし、反対するものはだれでも海に投げ込んでしまうことに相談がまとまった。しかし一人の反対者もなく、一味は計画を実行したのである。

　さて、アンスティス船長のことは暫くおき、ギニアを目差して航海するロバーツの話を最後まで続けよう。ブリガンティーン船は快速で、乗組員も七十人いたから、この船を失ったことは一味にとって大きなショックだった。しかし、この事件の種を蒔いたロバーツは、自分の不始末と失策を気にも掛けない様子で、このために目的を変更したりはしないと決意していた。

　ロバーツ一味の船はセネガル河に近づいた。この地ではフランス人が独占するゴム貿易が盛んに行なわれていた。フランス人は密貿易を阻止するために、たえず巡視船を遊弋させていた。一味が到着したとき、二隻の小型船が警戒にあたっていた。一隻は備砲十門、乗組員六十五人、もう一隻は備砲十六門、乗組員七十五人であった。彼らはロバーツの船を認めると、てっきり密輸業者の一味だと思い、全速で追跡し、たちまち追い付いた。しかし彼らが見当外れに気付いたときは時すでに遅かった。追いつめた船のマストにジョリー・ロジャー（一味は海賊旗のことをこう呼んでいた）がするするとあがるのを見て、フランス艦の乗組員は肝をつぶした。そして二隻はほとんど抵抗らしい抵抗もせずに降伏してしまったのである。一味はこの獲物を伴って、シエラレオネまで下ると、そこで一隻を「レンジャー」号と命名して僚船にし、他の一隻は傾船修理をするための補給船にした。

　シエラレオネ河の河口は広く、右岸には小さな入江がいくつもあって、船の清掃修理や給水が安全便利に行なえた。海賊一味にとってさらに好都合だったのは、この土地に定住した交易業者がもともと彼らの朋輩だったことである。ここにはおよそ三十人のイギリス人が住んでいるが、皆かつては私掠船に乗り組んでいたかバカニーアか、あるいは海賊を生業としていたのであり、今もなおそのような生活に常だった馬鹿騒ぎや突飛なことが大好きなのである。彼らは原住民と仲よくしていて、男女の召使を大勢抱えている。男たちは忠実であり、また女たちは従順で、主人の命とあらばだれにでも体を許した。王立アフリカ会社はベンス島と呼ばれる小島に砦を持っていたが、奴隷を留置する以外にはほとんど何の役にも立たなかった。岸からかなり離れていたために、陸に対して威力を発揮することができなかったのである。この島に通称クラッカースという老人が住んでいた。昔は海賊として鳴らし、数知れぬほどの掠奪を重ねた男だった。いまではこの地に落ち着いて立派な家を構え、家の前には二、三門の砲を据え付けていた。そして海賊の友だちが訪ねてくると挨拶代りにその大砲をぶっ放し、彼らが滞在している間一緒に愉快にやるのだった。

　その他の無頼商人たちと召使の名前を以下に挙げておく。彼らは密貿易者と秘かに取り引きして、王立アフリカ会社に多大の損害を与えている。王立アフリカ会社は並々ならぬ努力を払い、多大な費用をかけて植民地を開拓維持してきたのだが、その植民地や砦がなければたちまち密貿易することもできなくなるような無法商人らから、何の代償も得るわけではなかった。だから、他人の労働のうまい汁をすって世渡りをしているこれら悪党どもを何とかして根絶やしにすることが望まれるのである。

　彼らのうち二人はロバーツの仲間に加わり、一味が絶滅するまで行動をともにした。





シエラレオネの高台に居住する白人とその持ち船

ジョン・リードストン



ボート三隻とペリアグア船一隻

召使　トム

同　　ジョン・ブラウン



アレクサンダー・ミドルトン

大型ボート一隻

召使　チャールズ・ホーキンス



ジョン・ピアース

ウィリアム・ミード

共同経営者、大型ボート一隻

召使　ジョン・バーノン



デヴィッド・チャトマース

大型ボート一隻



ジョン・チャトマース

大型ボート一隻



リチャード・リチャードソン

大型ボート一隻



ノートン

リチャード・ウォーレン

ロバート・グリン

共同経営、大型ボート二隻、小型ボート二隻

召使　ジョン・フランクス



ウィリアム・ウェイツと青年

ジョン・ボナーマン

ジョン・イングランド

大型ボート一隻



ロバート・サンプルズ

大型ボート一隻



ウィリアム・プレスグローヴ

ハリー

デイヴィス

ミッチェル

リチャード・ラム

スループ一隻、大型ボート二隻

小型ボート一隻、ペリアグア船一隻



ロキス・ロドリグス（ポルトガル人）

ジョージ・ビショップ

ピーター・ブラウン

ジョン・ジョーンズ

大型船一隻



アイルランド人青年

ベンジャミン・ガン（リオプンゴ在住）

ジョージ・イエーツ（キッダム在住）

リチャード　レモンズ（ギャリニーズ在住）





　この港は材木を積み込んだり水を補給するのに便利なため、多くの商船、とりわけブリストル航路の商船がビール、りんご酒、火酒類を満載して寄港し、土地の商人がリオヌンや北部の地方で買い求めた奴隷や象牙と交換していった。だから商人たちの暮らしむきはなかなかよかったのである。

　ここへロバーツが到着したのは一七二一年六月末であった。到着早々、各々五十門の大砲を備えた軍艦「スワロー」号と「ウェイマス」号がひと月ほど前にこの地を出港し、帰港するのはクリスマスごろだということを聞いた。一味は、この地に滞在していれば安全であるばかりか、軍艦の後から沿岸を下って行けばいつでも艦隊の寄港地を知ることができ、無事な航海ができると知って、心ゆくまでくつろぎ楽しんだ。六週間ここに滞在して船の清掃や修理も完了し、酒や女にも飽きると、一味は本業のことを思いだした。そして八月初め出港し、沿岸をジャカンまで進出した。途中遭遇した船はことごとく掠奪し、入用でない積荷は海に投げ棄てるなどして非道の上塗りをしたのである。

　この航海で一味は王立アフリカ会社所属の優秀フリゲート艦でギー船長が指揮する「オンスロー」号を捕らえ、自分たちの老朽フランス船と取り替えた。「オンスロー」号は給水と会社に必要な物資を積み込むためセストスに碇泊していたが、海賊船が襲ってきたとき、乗組員の大半は上陸していた。そのため船はロバーツ一味の手に落ちたというわけである。しかし、乗組員が全員乗船していたとしても、結果は変らなかったと思われる。彼らの大部分は進んで海賊の仲間に加わり、また、コルソ岬の砦に勤務するため船に乗っていた兵士たちにもそうすることを勧めたのである。兵士らは海賊の偉業や武勇伝を聞かされて、海賊航海が虐げられた人びとを解放し、名声を高める勇侠の冒険のように思えた。そして彼らも海賊に志願したのである。しかし海賊たちはためらった。彼らは陸上生活者に対し侮蔑の念を抱いていたから、いったんは兵士らの申し出を断った。結局、彼らの重ねての懇願に根負けし、「屈強の男どもが陸で少しばかりのバナナを食糧として飢えるのは気の毒であるから、特別の計らいで仲間に加えてやろう」と言った。

「オンスロー」号には、イギリスからコルソ岬の砦に赴任する牧師が乗っていた。海賊らの中には、この男に自分たちの船の牧師になってもらおうと提案するものがいた。そこで一味は、ポンス酒を作ることと祈りをささげること以外は何もしないでよいし、それに対して報酬も支払うから海賊船の牧師になってほしいと彼に頼んだ。しかし他のことでは野蛮極まる海賊たちも聖職に対しては畏敬の念を持っていたから、彼の意志に逆らってまで無理に海賊船に連れて行こうとは考えなかった。牧師もそのような生活に対する興味はなかったから、一味の光栄な申し出を辞退した。一味はこれを諒承し、持ち物もすべて返した。牧師は海賊が上機嫌なのをみて、他の人びとの持ち物も返してやってほしいと頼み、これも聞き入れられた。結局、海賊は祈祷書三冊と栓抜き一個以外には、教会の財産は何も取らなかった。

　海賊は「オンスロー」号を乗っ取り、ギー船長には代りにそれまで使っていたフランス船を与えた。そして「オンスロー」号の船内隔壁を切り下げ、平甲板に改装すると、どこからみてもまたとない立派な海賊船になった。一味はこの船に「ロイヤル・フォーチュン」の名前を踏襲し、四十門の砲を装備した。

　こうして、前にも話したように「ロイヤル・フォーチュン」号と「レンジャー」号はジャカンまで航海し、さらにオールドカラバーに向かった。十月、目的地に到着すると、一味は船の手入れをした。ここは、船の手入れをするには沿岸で最適の場所だった。湾の水深は十五フィートを越えず、水路は入り組んでいたから、たとえ軍艦がここに寄港してもなお海賊は十分に対抗できると思われた。なぜなら、湾の水深が浅いことと水先案内人がいないことが海賊にとっては安全を保証するものとなり、一方軍艦にとってはこれが近づき難い障害となるからである。こういうわけで、一味はここでうちくつろぎ、戦利品を分配した。心配ごとは痛飲して忘れ去ってしまったのである。一味をこの港へ案内した水先案内人は某船長〔恐らく以下に出てくるローニ船長〕だった。海賊の勘定記録によれば、彼は水先案内その他のサービスに対して過分の報酬を得ていた。彼らの勘定は、普通行なわれている複式簿記のやり方ではなく、ずっと簡潔なものであった。すなわち、彼らの友人にまとめて支払ったつけは、そのまま次回に遭遇した正直な商船にまわすというものであった。

　一味はカラバーでローニ船長を捕虜にし、二、三隻のブリストル船を掠奪した。しかし冗長になるだけであるからこの話は省略して、この土地で一味が原住民から受けた仕打ちについて話しておこう。カラバーの黒人は一味が期待したほど友好的ではなかった。一味が海賊だということがわかると、黒人たちは彼らとの交易を一切拒絶したのである。このことは、貧しい黒人たちが、キリストの教えも知らず、教育の恩恵にも浴していないにもかかわらず、十分な知識あるキリスト教徒さえ恥入らすような道徳心を生来持っているということを示している。だが、これは無法者どもを怒らせるだけだった。一味は力ずくでも黒人たちに交易を迫ろうと、四十人から成る一隊を編成し、船の掩護射撃のもとに上陸させた。黒人たちは総勢二千人の集団となって、海賊と対決するかにみえた。しかし海賊どもがピストルの射程内に近づき、二、三人の犠牲者を出しながらなお恐れる様子もなく進んでくるのをみて、退散してしまった。彼らも数人の犠牲者を出した。海賊たちは村に火を放って船に戻った。この事件は原住民を恐怖に陥らせ、かくして彼らと海賊との交渉はまったく途絶えてしまった。食糧を入手できなくなった一味は、船の手入れが終ると直ちに出帆した。そしてロペツ岬で水を補給し、アナボナで新鮮な食糧を積むと、再びカラバー沿岸に向かった。

　これが一味の最後の、そして命とりの航海となった。一味がこの航海に成算ありと確信したとは信じ難いことであるが、例の二隻の軍艦は自分たちを攻撃できないだろうとたかをくくっていたか、あるいはシエラレオネでの噂をうかつに信じ込んで、すでにそこへ戻ってしまったと考えてのことだったと思われる。この話をもっと詳しくしよう。

　このとき軍艦は、乗組員の病気で戦力が落ち、予定の行動をしていなかった。しかしそのような事情を一味は知る由もなかった。そして、二度目のアフリカ海岸掠奪を成算ありとふんだのである。一七二二年一月初旬、一味はラウー岬まで進出し（これはもともと計画していた土地より、さらに遡ったところだった）、ますます自信を深めた。ここで王立アフリカ会社の「キング・ソロモン」号ともう一隻の交易船を捕らえ、「キング・ソロモン」号の乗組員二十人を仲間に加えた。アポロニア岬で海賊船は「キング・ソロモン」号の風下約一リーグのところにいたが、潮の流れと風が災いして、獲物に近づけなかった。そこで一味は大型ボートに手勢を乗せて襲撃することにした。このような場合、「行くのはだれか」という言葉が発せられるのが常であるが、一味は全員先を競って志願した。彼らは決意も堅く、我が身をかえりみなかった。このようにして彼らは自分たちの勇気を見せ、また戦利品のなかから好きな衣類を取り、上から下まで着替えをする許可を得たのである。

　ボートの一味はすみやかに「キング・ソロモン」号に近づいた。船長から「何者か」と尋ねられると、「反抗号だ」と答えた。「キング・ソロモン」号のトラハーン船長は近づいてきたボートに大勢の男が乗っているのをみて、好ましくない客であると思い、迎え撃つ準備をしていた。そして一味が船尾につくとマスケット銃を発砲した。これに対して海賊も一斉射撃で応じ、たちまち船に乗り移ってきた。このとき船長は乗組員に、自分たちの半数程度の敵に抵抗もせず降伏するのはわれわれの名折れだから力を合わせて船を守ろう、と呼びかけた。しかし甲板長のフィリップスという男が、自分が乗組員の意見を代弁すると言って、その場の結着をつけた。彼は自分は戦わないとにべもなく言った。そして、国王陛下の御名において――彼はこう言うのが好きだった――武器を棄て、海賊に命乞いをした。残りの乗組員もこれに惑わされて船を失ってしまったのである。

　船に乗り移ると、一味はすぐさま錨綱を切って帆を揚げた。海賊の一人ウォールデンという男は、「船を燃しちまおうってときに、いちいち錨綱をえんやこら巻き揚げるのは余計な手数ってもんだからな」と船長に言った。一味はこの船を本船の近くまで連行すると、帆やロープ等必要なものを掠奪したうえ、アフリカ会社の積荷を手当り次第海に投げ込んだ。まるで目的もなにもなく、ただ、かねを湯水のように使う放蕩者のようであった。

　同じ日、一味はオランダ船「フラッシング」号を捕らえ、マスト、桁、食糧を奪った後、前檣を切り倒した。しかし何にもましてオランダ船の船長を耐えがたい思いにさせたのは、彼の妻が作ってくれ船に保存していたすばらしい腸詰を海賊どもが勝手に持ち出し、おどけた様子で自分たちの首の回りにまきつけて散々それを馬鹿にしてから海に投げ棄ててしまったことである。また別の海賊は、船長の七面鳥の首をはね正餐用に料理した。そして丁重に船長を招待し、「酒は持参しろ」と言った。これはまったく不快極まる要求であったが、応じないわけにはいかなかった。飲むほどに酔うほどに、海賊どもは陽気になり、船長からとりあげたオランダ語の祈祷書を開いてフランスやスペインの歌をうたい、その他さまざまな冒涜行為をした。オランダ船の船長はただ席に着いたまま驚いているだけだった。

　海賊船が陸に近づきすぎたため人びとは警戒し、イギリスとオランダの商館へ急を告げる使いが出された。一味はすぐこの失敗に気付き、またできるだけ損のないようにと考えて、ワイダー港までは沿岸を離れて航海し、その間の獲物は見逃すことにした。この港にはあらゆる国、特にポルトガルの貿易船が集結し、海賊どもがほしがる金を主に買い付けていたから、そこで十分な獲物にありつこうと考えた。一味は途中期待していなかった航海でも、アキシムと目的地の間で数隻の船を拿捕した。しかしこれらの話は煩瑣なだけであるから省略して、一味がワイダー港に着いたときのことから話を続けよう。

　海賊船はイギリス海軍旗を掲げ、後檣ミズン先端ピークには黒い絹の旗をなびかせ、船首旗と長旗も同じく黒旗という姿で入港した。後檣の海賊旗は中央に髑髏があり、その両側に遠眼鏡と交差させた大腿骨を配していた。また船首旗には、前に話したように、剣を抜いた男が両足で頭蓋骨を踏まえて立ち、それぞれの頭蓋骨の下にはＡＢＨおよびＡＭＨ、すなわち「バルバドス人の頭」と「マルティニク人の頭」を意味する文字が書かれていた。泊地にはイギリス船、フランス船そしてポルトガル船合わせて十一隻が碇泊していた。フランス船は三隻、それぞれ備砲三十門以上、乗組員百人の強力な船だった。しかしロバーツが近づいて発砲すると、他の船ともどもたちまち投降し命乞いをしてきた。海賊がいとも簡単に勝利を収めたのは、これらの船の船長と乗組員の大部分が、この土地の習慣に従って荷を受け取り奴隷を船に戻すために上陸していたことによる。ここの海は非常に波が荒く、船乗りらは適当な潮どきを待たなければならなかったからである。「ポーキュパイン」号以外の船はすべて、一隻当り金粉八ポンドを保釈金として海賊に支払った。この取り決めのために陸と船との間で何度かめんどうな手紙のやりとりが行なわれた。協定が成立し、保釈金が支払われたにもかかわらず、海賊はフランス船の一隻を拘留した。そして船が満足に航海できないことがわかったら釈放すると約束して、乗組員数人を仲間に加えた。

　いままで海賊行為に遭ったことのない幾人かの船長は、荷主に事情を納得してもらうために、保釈金の領収証を海賊に要求した。そこで海賊は領収証を認したため彼らに渡したが、そのうちのひとつを次に示しておこう。





われらジェントルマン・オヴ・フォーチュン（海賊）一同は、ディットウィット船長の「ハーディ」号の保釈金として金粉八ポンドを受領したので、ここに本船を釈放する。



証人　バーソロミュー・ロバーツ

　　　ハリー・グラスビー



一七二一年一月十三日





　この他にもポルトガル船の船長に与えた領収証があるが、内容は同じである。ただ署名したのはサットンとシンプソンというふざけた男で、彼らは次のように署名した。





アーロン・ウィフリングピン



シム・タグマトン





　海賊どもはフレッチャー船長の「ポーキュパイン」号に対してひどく冷酷で野蛮な行ないをした。これは特に見過ごすことはできない。

　海賊船が入港してきたとき「ポーキュパイン」号は奴隷を満載して碇泊していた。上陸して取り引きの精算をしていた船長は呼び出され、身代金を要求された。彼は荷主から何の命も受けていないからと言ってこれを拒絶したが、盗賊と取り引きするのは不名誉だと考えたのが本当の理由だった。そして、奴隷を別にすれば、船には要求された金額ほどの価値はないと思っていた。また、海賊どもは奴隷には残酷なことはすまいとも考えていた。ロバーツはすぐさま奴隷を運び出すためのボートを出した。船を焼き払ってしまうためだった。しかし事を早く片付けてしまおうとあせるあまり、奴隷の足枷を外すのに手間どるとみるや、およそ八十人の奴隷を船に残したまま火を放った。彼らは二人ずつ鎖につながれ、船の中で焼け死ぬか、海に飛び込むか道は二つにひとつしかなかった。炎を逃れて海に飛び込んだものも、この近海に多数いる鮫の餌食になり、海賊の見ている前で生きながら手足を食いちぎられて死んだ。較べようもない残酷さである。たとえこのことだけで海賊一人ひとりが縛り首になったとしても、だれもそれを厳しすぎる裁きだとは思わないだろう。

　海賊一味はここでの仕事を早目に切り上げなければならなくなった。というのは、フィップス司令官から王立アフリカ会社のワイダーにおける代理人であるボールドウィン氏に宛てた手紙を横取りしたところ、スリーポイント岬の風上でロバーツの船を目撃したことが書いてあり、軍艦「スワロー」号が一味を追っているはずだが、軍艦より先に当地に到着したら、会社の船を海賊から守るため警戒したほうがよい、と記してあったのである。ロバーツは仲間を集めると、フィップスの演説（ロバーツは手紙のことをこう呼ぶのが好きだった）を聞かせた。そして大言壮語する一味を説得してこの地を離れることにした。彼はこう言った。「胆っ玉がすわっていりゃ、こんな知らせに恐れたりしねえさ。だが不意打ちを喰らってしたたかにやられるってことは十分考えられる。そんなのは避けたほうが得策ってものさ」。

　一味はこの地に木曜日から土曜日の夜まで滞在しただけで出帆した。そしてアナボナ島へ向かうことに決定したが、逆風に災いされてロペツ岬まで押し流されてしまった。やがて一味はこの地で破滅を迎えることになるのであるが、ここでしばらく一味から離れ、彼らが悪事を重ねていたとき軍艦「スワロー」号はどこで何をしていたのか、なぜ海賊を攻撃できなかったのかを説明しておこう。さらに、軍艦はどんな情報を得て行動を起こすに至ったか、そしてロバーツ船長とオーグル艦長という二人の互いに見知らぬ男が、どんな経緯で世界の果てともいえるようなこの土地で邂かい逅こうすることになったかを話すことにしよう。

　すでに述べたように、「スワロー」号と「ウェイマス」号は五月二十八日シエラレオネに到着したが、それから一か月後にロバーツ一味が到着した。そこで彼は艦隊の目的と彼らがこの沿岸で艦の修理をしていることを知ったに違いない。一味は安心して気晴らしに興じた。そして八月に最初の沿岸掠奪航海に出て、大成功を収めたのである。このころ、「スワロー」号と「ウェイマス」号はプリンス島に帰港し、船の手入れをしていた。

　艦隊は一七二一年七月二十八日から九月二十日までプリンス島に滞在した。このような場合、乗組員を厳しい規律のもとに置くのは不可能で、そのための不規則な生活によって三週間のうちに十人が死んだ。残りの乗組員もひどい病気にかかるものが多く、とても航海に出られる状態ではなかった。そして艦隊のこの災難がロバーツ一味潰滅の遠因になったのである。なぜなら、艦隊は当初予定していたようにシエラレオネへ帰投することができず、二隻のうちとくにひどい状態だった「ウェイマス」号はコルソ岬の要塞砲のもとに投錨して、商船から不足している乗組員を強制徴募しなければならなかった。実際、このときには、艦の乗組員だけでは帆を操ったり錨を揚げたりすることすらできない状態だったのである。このような事情で軍艦が当初の計画を変更したことなどつゆ知らぬロバーツは、危険から遠く離れていると安心していたが、その実、一味は自ら虎口に入っていったのである。プリンス島を出帆した艦隊は、コルソ岬より先に航路を伸ばそうとはしなかったが、これが幸いして、海賊の航跡を追う結果となったのである。

　十月二十日、二隻の軍艦は寄港地アポロニア岬で合流した。ここでバード船長という男から海賊の噂を耳にし、警戒を厳にした。だが一味が同じ沿岸を二度も荒らしにくるような無謀な行為に出てくるとはとても想像できなかった。そこで「スワロー」号は乗員の健康回復のため、貿易船を装い、僚艦「ウェイマス」号をコルソ岬泊地に残して出帆、十一月十日にはバッサムに到着した。途中、どの寄港地も海賊に荒らされてはいなかった。「スワロー」号は僚艦と合流すべくコルソ岬への帰路についたが、途中遭遇したポルトガル船から、前日数隻の船が一隻のイギリス船を追っているのを目撃したけれど恐らく捕まったのではないかという話を聞いた。

「スワロー」号はポルトガル船から聞いた海域に海賊を求めて急行したが、次に出合ったブリストル船「ジェイソン」号のプラマー船長は、自分たちはもっと風上の方から航海してきたが海賊らしい船は見なかったし、そのような噂も聞かなかったと言った。「スワロー」号は再び船首を回らし、その月の二十三日にはアポロニア岬、そして二十七日にはスリーポイント岬に立ち寄り、翌年、すなわち一七二二年一月七日にコルソ泊地に戻ってきた。

　ところが僚艦「ウェイマス」号はすでにコルソ砦から兵士の補充を受け、デスミナスでオランダ人に不法に拘束された王立アフリカ会社の財産と人員を取り戻すために出港していた。僚艦となかなか合流できないのを残念に思っているところへ、九日アキシムから、さらに続けてディクスコーヴ（イギリス商館）からフィップス司令官宛火急の知らせがとどいた。アキシムの砦近くで三隻の海賊船が、一隻のギャレー船と王立アフリカ会社の貿易船を掠奪したというのである。この三隻が、昨年八月に沿岸を荒らし回った例の海賊船であることは疑うべくもなかった。ワイダーに直行することが「スワロー」号の急務となった。なぜなら、海賊に捕らえられた船が「スワロー」号が近海にいることを一味に知らせているに違いないし、また艦の乗員の健康状態も数か月前よりずっと回復していると考えられたからである。だから余程の馬鹿でもない限り、一味は隠匿している戦利品を取りにワイダーへ直行するであろう。そうでなければこれまでの彼らの努力は水の泡になってしまうからである。隠匿した獲物は大部分金であった。

　一月十日、「スワロー」号はコルソ岬を出港したが、アクラで会社の船「マーガレット」号と「ポルトガル」号の表敬訪問に数時間、またアポングでは彼らがミス・ベティと呼ぶ人物の訪問に丸一日を費やして手間取ってしまった。このために軍艦は海賊をワイダーで取り逃してしまった。これを聞いたフィップス司令官は「スワロー」号の行動を非難した。しかし彼自身、海賊は逃げられっこないから、数時間くらいの寄港は差し支えあるまいと言っていたのである。

　さて、「スワロー」号は航海に手間取り、ワイダーで海賊一味を取り逃してしまったが、詳しくはこうである。「スワロー」号がアポングに寄港した日、海賊船は順風を受けてワイダーの泊地に入港し、一月十三日には出帆した。「スワロー」号が同港に到着したのは十七日であった。これより前、一月十四日の夜にはグランドポポからきたフランスの小型船、翌朝にはリトルポポからきたオランダ船から一味に関する情報を得ていた。軍艦は海賊を捕らえられるものと確信した。そして船団を発見し、そのうちの三隻が抗戦するような様子をみせたときは、てっきり一味であると思った。だがこの三隻はフランス、ポルトガル、そしてイギリスのまっとうな貿易船だった。これらの船は海賊に襲われ、掠奪された後、釈放されたのだった。

　この期待外れに、軍艦の乗組員は歯がみしてくやしがった。彼らは戦利品を手に入れるつもりで色めき立っていたのである。伝えられるところによれば、海賊は三個の鍵をつけた木箱に金をぎっしりつめて持っているはずであった。しかし、いずれにせよ公海上で一味に遭遇していたら、そのうち一隻あるいは二隻とも逃走してしまったかも知れないし、そうでなく敵が戦いを挑んでくるとしたら、やぶれかぶれの戦闘をくりひろげていただろう。

　こうして思案しているとき、アフリカ会社のワイダー責任者ボールドウィン氏から手紙が届いた。それによれば、海賊はここから七リーグほど下ったジャカンにいるという。翌一月十六日朝二時「スワロー」号は錨を揚げ、昼にはジャカンに到着した。しかし海賊の姿はなく、碇泊していた二隻のポルトガル船にワイダーを恐怖に陥れた海賊と見まちがえられ、彼らを脅えさせただけだった。その夜はいったんワイダーに戻り、「ポーキュパイン」号や海賊が連行していったフランス船の見棄てられた乗組員ら、イギリス人フランス人とりまぜて三十人の志願者で乗組員を補充したうえ、一月十九日、再び海賊を追って海に出た。一味が沿岸を離れることを決意したとしても、水の補給と休養のため、カラバー、プリンス、ガボン河、ロペツ岬、アナボナのいずれかへ寄港せざるを得ないと判断したのである。前にも述べたように、これらのうちカラバーは波が高く、寄港には不向きの場所だった。プリンス島は彼らが苦い経験をした場所であるが、一月二十九日、最初に立ち寄ってみた。しかし何の情報も得られなかった。そこで直ちにガボン河へ向かい、二月一日、河口に投錨した。

　この河は二筋の流れになっていて、五リーグほど上流にポパグアイ（鸚おう鵡む）島という小島がある。よくオランダの沿岸警備船が船の手入れを行なう場所で、ときには海賊が獲物を求めたり、あるいは船の改装をするために立ち寄ることもある。これは、島の回りがやわらかい土になっていて、船が大砲や荷を積んだまま岸に乗り上げても船体に損傷をうける心配がないからである。「スワロー」号のオーグル艦長は、部下の中尉をボートに乗せ情報を集めにいかせた。中尉がこの島の上手にいたオランダ船から聞いた話では、四日前ロペツ岬を出港したときには、自分たち以外に一隻の船もいなかったという。しかし、ともかく「スワロー」号はロペツ岬に急ぎ向かった。二月五日未明、突如砲声が聞えた。夜が明けると、ロペツ湾に三隻の船が投錨していた。そのうち最も大きな船はイギリス国旗と長旗を掲げていた。これこそロバーツとその僚船であった。しかし「スワロー」号は風上にあって、しかも思いのほか湾深く入っていたため、フランス人の砂州と呼ばれる浅瀬に乗り上げないよう回頭しなければならなかった。海賊はしばらくこれを見守っていたが、敵は怖気付いたものと早合点した。そこで、このとき傾船していた僚船「レンジャー」号を立て直すと、急ぎ追撃に向かわせた。海賊どもが自分たちの動きを勘違いしたのを知った「スワロー」号は、海賊から逃げ出すふりをして沖に出た。操艦の指揮をとっていたのはサン中尉という経験豊かな士官だった。彼は砲声が岬に碇泊している海賊の本船に聞えない距離まで「レンジャー」号をたくみに誘き出した。海賊は自分たちに対して策略を用いるものがあろうなどとは考えもしなかった。このため、いとも容易に罠にかかってしまったのである。

　海賊は軍艦を迫撃砲の射程内に追いつめた。一味はワイダー泊地で使った海賊旗を掲げ、獲物と狙った船に斬り込みを決行すべくスプリットスル・ヤードを倒した。そして相手に国籍を訊ねもしなかった。恐らく軍艦を、砂糖を積んだポルトガル船と思ったのであろう。追跡している間、一味はじりじりして、ひっきりなしに風や帆に悪態をついた。しかし事態は一瞬のうちに逆転した。獲物と思って追跡していた船をピストルの射程内に収めたとたん相手が停船し、下段の砲門を開けたのを見て動顛した。軍艦はたちまち海賊旗を撃ち落としてしまった。

　この奇襲の後、再び黒旗を掲げた海賊船は距離を保ちながらしきりに砲撃した。海賊どもはカトラスを振り回して気勢をあげていたが、同時に敵艦からうまく離脱しようとしていたのである。いまや万策つきると、一味の指揮官らは決死的な突撃を敢行して再び斬り込みをしようと提案した。だがこの提案は十分な支持を得られなかった。さらに二時間の交戦の後、メイントップマストに敵の砲弾が命中して折れてしまった。十人が即死し、二十人が負傷した。軍艦側は一人の犠牲者も出さなかった。このような状況で、一味はすっかり戦意を失い、降伏して命乞いしたのである。このとき「スワロー」号は砲三十二門を備え、フランス人十六、黒人二十、そしてイギリス人七十七が乗り組んでいた。海賊旗は海に投じられた。

　捕虜を収容するため「スワロー」号がボートを出したとき、海賊船の大船室が突然爆発し、黒煙を吹き上げた。「スワロー」号では、海賊が自爆したものと思った。後にわかったことであるが、これは一味のうち最も命知らずの六人の男が、もはやこれまでと見定めると、下士官室に保管してあった火薬樽を囲み、それにピストルの弾を撃ち込んだのだった。だが火薬の量が少なかったために、彼らは全身に恐ろしい火傷を負っただけだった。

　海賊船の指揮をしていたのはウェールズ出身のスカイミーという男だった。この男は戦闘中に片足を失ったが、手当を受けたり安全な場所に移されたりすることを潔しとせず、最後まで部署を守って奮戦した。その他の乗組員も快活で精気に溢れていた。彼らの多くは白いシャツを着、時計をつけ、絹のベストをはおっていた。だが彼らの金粉は、「ロイヤル・フォーチュン」号とともに湾に残った「リトル・レンジャー」号に保管してあった。

　ここで、例の火薬の爆発で傷ついた連中のうち、ウィリアム・メインとロジャー・ボールのことを書いておこう。ウィリアム・メインが腰に銀の呼び子をつけているのに気付いた「スワロー」号の士官が、「おまえがこの船の甲板長だな」と言うと、彼は「あいにくだがそうじゃねえ。俺はロバーツ船長の『ロイヤル・フォーチュン』号の甲板長さ」と答えた。士官が「そうか、その甲板長殿も縛り首間違いなしだな」と言うと、メインは「それが貴様の望むところだろうさ」と言い返してそっぽを向いた。だが士官は爆発の様子をもっと知りたかったのでそのことを訊ねた。「畜生。奴らはみんな気違いさ。あの爆発のおかげで俺は上等の帽子をなくしちまったぜ」とメインは言った。（彼は帽子もろとも船室の廊下から海へ吹き飛ばされてしまったのである。）「その帽子はそんなに大したものなのか」「いや、それほどでもねえ」。この会話の間、士官の部下がメインの靴や靴下を脱がせてやった。士官はさらにロバーツらのことを聞いた。「ロバーツ船長の船には百二十人の乗組員がいてな、みんなだれにも負けない立派なやつさ。俺もあいつらと一緒にいたらな」「だがその船に乗っていなかったってわけだ」「いまいましいがそのとおりさ」。二人の会話が終るころには、彼は身につけたものをすっかり脱がされていた。

　次に士官はロジャー・ボールのところへ行った。彼は隅っこの方に一人腰をおろしてひどく不景気な顔付きだった。爆発のことを訊ねられると「ジョン・モリスがピストルの弾をぶち込んだのさ。奴がやらなきゃ俺がやってたぜ」と、傷の痛みにも文句ひとつ言わずに答えた。士官は、自分は外科医だが手当をしてほしければしてやろう、と言った。しかし、ボールは手当なぞまっぴらだし、俺の身体に布でも巻きつけたらすぐ引き裂いてやると悪態をついた。それでも士官は、ひどくてこずりながら、親切に手当をしてやった。夜になると、ボールは錯乱状態になった。そして、ロバーツは勇敢だとわめき、彼の仲間がくればすぐ俺を救け出してくれるぞと大声をあげた。このため、彼は前部水夫部屋の床にしたたかに投げ出された。それでもなお彼は全身で抵抗したので、前にもまして酷く扱われ、肉が傷つき血を吹くほどに殴りつけられた。翌日、彼は壊え疽そで死んだ。

　捕虜になった海賊たちは手枷や足枷をかけられた。海賊船は戦闘で使いものにならないほど傷んでしまっていたから、「スワロー」号の艦長らはいったんはそれを焼き払ってしまうことを考えた。しかしそのためには海賊船の負傷した乗組員を軍艦に移さなければならないし、また「ロイヤル・フォーチュン」号がこの僚船の帰りを待っていることも考えあわせ、結局、軍艦はここで二日間碇泊し、その間に海賊船の応急修理をしてからフランス人の乗組員全員と軍艦自身の乗組員四人を乗船させ、プリンス島に回航した。

　二月九日夜、「スワロー」号は再び岬を望んだ。湾には「ロイヤル・フォーチュン」号がロンドンからきたヒル船長の「ネプチューン」号とともに碇泊していた。幸先よしである。一味はこの新たに拿捕した船の酒やら戦利品のことで気もそぞろに違いない。

　翌十日朝、軍艦は岬を回って湾に向かった。陸越しに軍艦のマストを認めた乗組員がキャビンのロバーツにそれを知らせた。だが彼はヒル船長を客に迎えてうまい鍋料理をつつき、ヒル船長の船にあったビールを飲みながら朝食の最中だったから、部下の知らせを気にもとめなかった。乗組員たちも気にする様子はなく、ポルトガル船だろうとかフランスの奴隷貿易船だろうとか言うものもあったが、大部分は「レンジャー」号が戻ってきたに違いないと言った。そして、どんなふうにして迎えてやろうかなどと仲間同士で愉快そうに相談したりしていた。しかし「スワロー」号が近づくにつれ、事態がはっきりしてきた。危険を恐れたりするものは臆病者の烙印を押されたが、それでも幾人かの乗組員は危険が迫っていることを迷わずロバーツに直言した。特にアームストロングという男は「スワロー」号を脱走した水兵だったから、この軍艦のことをよく知っていた。ロバーツは、仲間の意気を挫くような奴は卑怯者だと罵り、一体おまえらは戦う気があるのかないのかと殴りかからんばかりの勢いで詰問した。彼自身が事態をどう考えていたかはわからない。だが軍艦が砲門を開き、軍艦旗を高々と掲げると、ロバーツは決然とした。彼は錨綱を解き放ち帆を張ると、臆する様子もなく、「全員戦闘配置につけ」と号令した。そして、「嵌はめられたか、畜生」と悪態をつきながらも、大海賊らしく、脱出できなければ死あるのみと決意していた。

　一味は「スワロー」号の脱走水兵アームストロングに軍艦の装備や船足のことを聞いた。彼は、軍艦は逆風に対して優速だから、離脱するなら追風に乗ることだと言った。

　危険はさし迫り、脱出するための方策を協議する時間も残されていなかった。この窮境にあって、ロバーツは「スワロー」号の側を全速で通過しつつ、敵の片舷斉射を受けたら応射することにし、敵の砲撃で帆走不能になった場合は船を浅瀬に乗り上げて、原住民の中へ紛れてしまうつもりだった。そしてこれらの試みが失敗した場合、敵に肉迫し船もろとも自爆する覚悟だった。それというのも、乗組員の大部分はまだ酔い痴れて活気がなく、戦闘に耐えないと見たからだった。

　ロバーツは真紅のダマスコ織で作ったチョッキと半ズボンを身につけ、赤い羽毛を飾った帽子をかぶった。さらに首にはダイヤモンドの十字架をつるした金の鎖をかけ、手には剣、肩から絹のたすきをかけ、それにピストルを二丁下げるといういでたちで戦闘に臨んだ。そして部下に凛然と命令を下した。計画どおり敵艦に接近すると早速砲撃を受けた。すかさずロバーツも海賊旗を掲げ、ありたけの帆を張って全速で航走しながら相手に砲弾を浴びせた。アームストロングの忠告を入れて追風に乗っていたら、恐らく海賊船は危地を離脱していただろう。しかし風向きが変ったか操舵を誤ったかして、船は逆風を受け、再び敵艦に接近してしまった。この時、弾丸の破片がロバーツの喉をまっすぐ貫いたのだった。このすみやかな死の訪れさえなければ、ロバーツは凄絶、絶望的な戦いで最期を飾っていたことだろう。彼は砲架にもたれかかった。舵のところからこれを見ていたスティーヴンソンがすぐ助けに駆け寄った。そして船長が敵弾を受けたとも知らず、「立て。男らしく戦おう」と叱咤激励した。しかしロバーツがすでに事切れていることに気付くと、彼は男泣きに泣き、自分も続いて敵弾に倒れ船長と運命をともにしたいと願った。乗組員は、彼が生前くりかえし希望していたように、遺体に愛用の武器を持たせ、立派に飾って海に投じた。

　ロバーツは長身、色の浅黒い男であった。年齢は四十歳足らず、ペンブロークシャー州ハヴァーフォードヴェスト近くのニューイバーに生まれた。豊かな才能と勇気に恵まれていたが、責められてもしかたないような悪事にそれらを役立ててしまった。彼はよく酒を飲んでは「縛り首になるために生まれてきた男に乾杯」などと言った。三年前、プラム船長の「プリンス」号に乗り組んでいたとき、アナマボで海賊に捕らえられたのがこの稼業に入るそもそものきっかけであった。彼は新米乗組員たちに当時のことを話してよくこう言った。「俺も今のおまえらのようによく空涙を流したものだが、時と、気の好い仲間がそれを忘れさせてくれたのさ」。彼は自分が悪の道に転じたことを、仕事にあぶれたからだとか、まっとうに生きていては食っていけなかったからだなどと言ったりはしなかったし、そんなそぶりをするような意気地なしでもなかった。彼は、「知りあった幾人かの船長の鼻持ちならない横柄な態度から逃れたかったし、また航海の変化に豊んだ生活を愛していたから海賊稼業に入ったのさ」と明けっぴろげに話した。「まっとうな船に乗り組んだら食い物は僅かで給料も安いうえに仕事はきつい。それにくらべてこの商売は腹いっぱい食えるし、楽しみや安楽、自由と力がある。いちかばちかの仕事をしくじったところで、すこしばかり苦汁を飲む思いをすればすむことさ。どっちの稼業が得か勘定するまでもなかろう。楽しく短く生きるのが俺の主義さ」。彼はこう言い放って、最初あれほど嫌っていた海賊稼業に自ら入ったのである。そして仲間との飲めや歌えの馬鹿騒ぎを日々楽しんだ。こうして転落の傾向をますます強め、ついには恐れや良心は消滅してしまったのである。彼はありとあらゆる悪行を重ねたが、他人を無理に海賊の仲間に引き込むことは好まなかったという。そして多くの乗組員の反対にもかかわらず、幾人かを放免してやったということである。

　ロバーツが死ぬと、あたかも彼が一味の生命であり精神であったかのように、海賊たちは意気消沈した。多くのものが部署を棄て、放心したようになって、抗戦はおろか脱出しようとさえ考えなかった。そして敵艦の斉射でメインマストが吹き飛ばされると、もはや一味は降伏して命乞いをするしかなかったのである。ボートが往復して捕虜を連行する間、「スワロー」号は海賊船から離れて碇泊していた。なぜなら、海賊どもは戦いに敗れたら自爆すると誓っていたし、何人かの命知らずは導火線に火をつけて自爆する様子をみせ、それに反対する乗組員との間に取っ組み合いの喧嘩があったことを知っていたからである。私はこの気性を簡単に説明することはできないが、正しくない勇気とでも言えばよいかもしれない。なぜなら、だれでもピストルを使うなり海に飛び込むなりして、死ぬことを欲さない他人を巻添えにせずとも、自ら命を絶つことはできるのであり、せいぜい、死を恐れての行為としかいえないからである。

「ロイヤル・フォーチュン」号は砲四十門を備え、百五十七人が乗り組んでいた。乗組員のうち四十五人が黒人だった。戦闘で死んだのは三人だけだったが、「スワロー」号は一人の犠牲者も出さなかった。海賊船からは二千ポンド以上の価値がある金粉が発見された。倒れたマストから海賊旗を降ろすのは容易でなく「スワロー」号がそれを外した。旗には骸骨と、抜身の剣を手にした男が描かれ、死を恐れぬことを象徴していた。

　ロペツ岬湾へ戻った「スワロー」号は、そこで「リトル・レンジャー」号を発見した。海賊が防戦におおわらわで見棄てていったのだった。私が聞いたところでは、この船に乗り組んでいた海賊たちが所持していた二千ポンド相当の金粉が何者かに奪われていたという。「ネプチューン」号のヒル船長は、軍艦が戻るのを待たず早々にこの地を去ってしまっていたから、彼に疑いがかかったのは当然であった。後に彼は他の品々をもこの船から盗んだと悪びれず自白し、バルバドス島で投降した。盗んだ金は五十オンスだったことが確証された。

　さて、ここでロバーツの壊滅までの経緯を簡単にふり返ってみよう。軍艦がプリンス島を出発したとき乗組員はひどい病気にかかっていて、最初予定したようにシエラレオネまで航海することができなかった。その結果、海賊の航路から外れてしまった。一方、海賊一味はもともとの計画とはまったく逆に、再びコルソ岬を目差し、アキシムの近くで獲物を追っているところを発見された。この情報は直ちに軍艦にもたらされた。ワイダー港で「ポーキュパイン」号を焼き払い、邪悪な欲望を十分満足させた海賊一味は獲物にしたフランス船を伴って出港した。

「スワロー」号は、これらの船の残された乗務員から三十人を乗り組ませ、人手を補充した。軍艦はここで海賊を捕らえることはできなかった。このとき一味はロペツ岬にいたが、馬鹿騒ぎをして勢力を分散していた。万一これらの勢力が結集していたら恐るべきものになっていただろう。結局、流血の惨事をみることなく、海賊は征服されたのである。これらのことを考えあわせると、一味の壊滅には、神の力添えがあったと私は思うのである。

　捕虜になった海賊どもは機会があればいつでも反乱しようと企んでいたことがわかった。なにしろついさきほどまで一人ひとりが船長のようなつもりでいた連中のことである。監禁されるとひどくいら立ち、与えられる食事や寝場所に我慢できず、ひどい境遇になったのを他人のせいにして、互いにののしり、非難し合った。

　一味の気違いじみたやぶれかぶれの反乱を事前に防ぐために、軍艦では下士官室に厳重なバリケードをし、さらにその部屋の前にも獄室をしつらえた。そして捕虜らに手枷足枷をしたうえ、ピストルとカトラスで武装した士官が昼夜を分かたず警戒にあたった。

　このような状態におかれても海賊どもは破廉恥なほど陽気で、お互いの裸の姿を見ると、「敵さんは俺たちに三途の川の渡し賃も残しちゃくれねえぜ」と言った。そして、わずかな給食を見ては、「こんな飯を喰わされたんじゃすぐ骨と皮だけになって、縛り首の綱にぶら下る重さもなくなっちまうぜ」と毒づいた。とりわけサットンという男は冒涜的な言葉を口にした。偶然彼と同じ鎖につながれた男は真面目で、ときおり聖書を読み祈りをささげていた。この男に、サットンはいまいましそうに言った。「うるせえ、祈祷なんかしやがって。いってえ何を願ってるんだ」。「天国へ行くことさ」と男は答えた。「天国だと、馬鹿野郎。海賊が天国へ行ったって話を聞いたことがあるか。俺は地獄だぜ。その方がよっぽど面白れえ。地獄の入口でよ、俺は十三発の大砲をぶっぱなしてロバーツに挨拶してやるのよ」とサットンは言った。そしてこの戯言が相手に何の効果も与えないことがわかると、軍艦の乗務員に、この男は仲間の平安を乱すから、隔離するなり、聖書を取り上げるなりしてほしいと申し出た。

　一味のムーディ、アシュプラント、マグネス、メアらが、士官を殺し船を奪って逃げることを共謀した。彼らは自分たちの世話をしてくれている一人の混血の少年を抱きこんで連絡係にした。少年は言われたとおり忠実に主謀者間の連絡の任を務めた。しかしその夜、少年が陰謀の参加者と蜂起の時間をアシュプラントに耳打ちするのを、彼の隣につながれていた二人の捕虜に聞かれたのが運のつきだった。この男たちは一味の陰謀を船長に密告してしまったのである。船にはたちまち警戒体制がしかれた。そして調べてみると、幾人かの海賊は何らかの手段を講じて枷を壊したりゆるめたりしていることがわかった。結局、彼らは前よりいっそうひどい仕置きを受け、厳重に監禁されるはめになったのである。

　コルソ岬へ向かう航路で、海賊から分捕った「ロイヤル・フォーチュン」号も同じような危険に陥った。この船には一人の士官と二、三人の乗務員が乗り移り、セントトマス島でいくらかの食糧を補給した後、「スワロー」号の後を追うことになっていた。船に残された海賊は、幾人かの黒人と、三、四人の負傷者、それに一味の船医だったスカダモアだけだった。士官たちはこれら海賊の残党にいささかの懸念も抱かなかった。特にスカダモアは、彼が医者であることも手伝って、すっかり信用され、飲食をともにする自由を与えられていた。だがこの男は受けた好意を蔑ろにし、あらゆる改悛の情を棄て去っていた。そして士官らを殺し、船を奪って逃げる計画を仲間の黒人たちにもちかけたのである。黒人たちは簡単に誘惑できた。しかし海賊仲間だった連中にも同じようにこの計画をもちかけ、自分は航海術を知っていること、黒人は頑強なこと、アンゴラ語で話をもちかけたら彼らはすぐ計画に乗ってきたこと、このままコルソ岬へ連れられていって犬のように縛り首になり日干しにされるよりは、いちかばちかのこの計画を決行して沿岸を下り、新しい仲間を募ったほうが得策なこと等を話したところ、一人の男が計画の残酷さに嫌気がさしたか、失敗したときのことを恐れたかして陰謀を密告してしまったのである。スカダモアは即刻捕らえられ、船の安全は保たれた。

　コルソ岬の砦に留置されると、一味の望みはすっかり絶たれた。そしてまもなく最後の判決が下される身であることがわかると、いままで虚勢を張り、傲岸な戯言を楽しんでいた多くのものが、その態度を変え、真面目にそして敬虔になり、聖書を求め、一般の人びとの祈祷に参加し、毎日二回は讃美歌を口にするようになった。

　彼らの裁判であるが、それを詳細に話していては読者も退屈してしまうであろうから、重複を避け、同じ起訴事実で裁かれたものはできるだけひとまとめにし、簡潔に述べようと思う。また、単なる事実の羅列は控え、私が知ることのできた幾人かの最期を記しておこう。

　最初に、海賊船の乗組員は、大部分、逮捕される数か月前にアフリカ沿岸で一味に加わったものだということが、一味のリストからわかる。このことから、ロバーツに強制されて海賊仲間に加わったというのは、多くの場合、双方対等の立場にたっての合意によるものだったと結論してよいだろう。実際、ロバーツは幾度か、特に「オンスロー」号の乗組員に対して、「一緒に行きたい奴はだれか。俺は強制はしない」と言っていたことを、彼の腕ききの手下だった幾人かのものが後に無罪になったとき証言している。ケネディーに対する怨恨から、ロバーツがアイルランド人の志願者を拒絶し、また彼の支配を危うくしついには壊滅させるかもしれないような連中には暴力をもって対したと考えるのも正しくない。彼らの態度によって、ロバーツの懸念はすぐにとり除かれたのである。捕らえられたときに強制されてやったと弁解するのは、それが連中にとって身を守る唯一の方便で、彼らはただ悪行の経験が浅いだけだと納得した。

　一味が裁かれることになった土地では幸いなことに、法律家も法律書もなく、記録係の任には法律の素人があたったことにも注意してよいだろう。法廷は正規の構成でなくともよいとされたが、それがためいっそう公正なものになったといってよい。

　法律がないことによって、一部の法廷よりいっそう公正が期せられることもあろう。民法が普遍的な理性の法であり、人間の行為の正邪を判定するものであれば、良識ある人ならだれでもその一部、少なくとも正と悪を分別するに十分な理性を備えているからである。

　だから、ここでは同じ罪を犯した二人の人間があって、一方が有罪になり、他方が法を曲解することによって無罪になるということはあり得ない。なぜなら、被告は強制されたのかあるいは任意だったのか、目的は何だったのか、その他実質的な差を生ずるすべてのことがらにもとづいて判決が下されるからである。また、この種の犯罪では、法律畑の人びとより海事に携わっている人びとのほうが、事実を正しく理解すると思われる。なぜなら、あることがらを理解するためにはそれに関する用語を知らなければならないが、海事用語はそれ自体、ひとつの言葉であり、恐らく法律家には理解できないものと思われるからである。従って、法律家は、海事用語で述べられた事実を正しく判断できないであろう。

　法廷は、海賊一味の被害者すべての証拠を得ることは不可能なため、まずこの瑕か疵しをどうして補うかを検討した。そして、共犯証人になることを申し出ていたジョー・デニスという男を許すべきかどうか相談した。彼は一味の生活や会話に最もよく通じていた。法律がないためどうすればよいかわからなかったが、結局、これは偽証をさせて犯罪を見逃すことに思えたため、否決された。このため、彼が提供し得たはずの多くの証言をふいにしてしまったのである。

　また、国王が裁可した法令では法廷を成立させるためには起訴事実の日時、場所等々を明示することが要件とされていたが、これも大きな困難であった。なぜなら、一味を個々特定の掠奪行為で起訴するとすれば、大部分の証拠を被害に遭った王立アフリカ会社の船から集めることになるが、それらに関して、コルソ岬砦の関係者は「海賊一味が起訴されている掠奪行為の対象となった船や商品に対しわれわれは直接間接の利害を一切持っていない」と証言しているため、法廷で証言する資格がないからである。だが、この点に関しては、商品に対する取り扱い手数料が彼らに支払われているところから、利害関係はあるものとみなされた。また、もし彼らを資格ないものとすれば、法廷を構成することもできなくなるため、彼らのうち三人に対し名ざしで権限が委任された。

　これらすべてのことを勘案して、法廷はその一切の訴訟手続きを、「スワロー」号の宣誓証書にもとづいて行なうことに決定した。「スワロー」号の証書は簡潔明瞭で、起訴事実の日時、場所、やり方、等々すべてかかる場合の法の規定に則っていた。しかし、これでは起訴状に全般的な掠奪行為を述べるだけであり、海賊らがもっぱら「スワロー」号の事件に関係したかのように、一括して絞首台に送るのは人命に対して専断的であると判断し、法廷は個別に裁判を行なうことに決定したのである。

　さらに、被告らに弁論の機会を与えるべきであったから、完全な海賊とみなされるための次の三つの条件を緩和したりあるいは確証したりするようなあらゆる証拠を公正に審理することにした。第一に、最初から自分の意志で海賊の仲間に加わったこと。第二に、獲物を掠奪する際に自ら進んでそれに加わったこと。そして第三に、捕らえた船の獲物の分け前を自ら進んで受け取ったことである。これらの行為が個々人の意志によるものであっても、なお彼ら全員が犯罪に係ったのであり、このことから考えて、軍艦「スワロー」号に対しても彼らは一体となって行動したと認められるのである。





イギリス軍艦「スワロー」号が拿捕した海賊の裁判――アフリカ海岸コルソ岬砦にて



一七二二年三月二十八日開廷





　委任状は、以下の人びとのうち任意の三人に対して法廷に協力する権限を授与し、法廷が常に七人で構成されるよう、資格ある人びとを必要人数召集するためのものであった。そして、ジョン・バーンスリー大尉、チャールズ・ファンショー大尉、サミュエル・ハートシーズ大佐およびウィリアム・メンジース大佐の召換状に署名がなされた。





国王陛下より委任された権限にもとづき、海事法に従い、先般、当領土沿岸においてイギリス軍艦「スワロー」号が拿捕した海賊を裁き判決を下すため、貴下を判事に任ずる。



一七二二年三月二十八日



於　コルソ岬砦



マンゴ・ハードマン　フランシス・ボイ

ジェームズ・フィップス　エドワード・ハイド

ヘンリー・ドッドソン





　委任された人びとが砦の広間に集まった。最初に委任状の朗読があり、続いて裁判長以下裁判官が法に従い宣誓し、以下の書面を各証人に送付した。かくして法廷は開廷された。





私儀〔氏名〕は、国王陛下と被告のなかに立ち、被告が現在告訴されている海賊および掠奪行為の事実に関し、誠実なる証人を務めることをここに厳粛に誓います。





　法廷の構成は、裁判長マンゴ・ハードマン大佐以下、ジェームズ・フィップス、エドワード・ハイド、ヘンリー・ドッドソン、フランシス・ボイ、ジョン・バーンスリー、およびチャールズ・ファンショーの各氏であった。

　海賊船「レンジャー」号で捕らえられた以下の被告が出廷し、起訴状が朗読された。





「レンジャー」号で捕らえられた海賊



（×印は有罪、○印は裁判のためマーシャルシーへ送致）



氏名／もと乗り組んでいた船／仲間に加わった日

×ジェームズ・スカーム／グレイハウンド号／一七二〇年十月

×リチャード・ハーディ／海賊デイヴィス一味／一七一八年

×ウィリアム・メイン／ピート船長のブリガンティーン船／一七二〇年六月

×ヘンリー・デニス／海賊デイヴィス一味／一七一八年

×ヴァランタイン・アシュプラント／海賊デイヴィス一味／一七一九年

×ロバート・バードソン／海賊デイヴィス一味／一七一九年

×リチャード・ハリス／ブリストル船、リチャーズ船長／一七二〇年六月

×Ｄ・リトルジョン／ブリストル船、リチャーズ船長／一七二〇年六月

×トマス・ハウ／於ニューファンドランド／一七二〇年

○ハーバート・ハンキンス／スループ船サクセス号

×ヒュー・ハリス／ウィリング・マインド号／一七二〇年七月

×Ｗ・マッキントッシュ

　トマス・ウィルズ／バイドフォード籍リチャード号／一七二〇年七月

○ジョン・ウィルデン／メアリ・アンド・マーサ号／一七二〇年七月

×ジェームズ・グリーナム／フィリップス船長リトル・ヨーク号／一七二〇年七月

×ジョン・ジェインソン／ランチェスター籍ラヴ号／一七二〇年七月

○Ｃ・ラング／ブリガンティーン船トマス号／一七二〇年九月

×ジョン・ミッチェル／ギャレー船ノーマン号／一七二〇年十月

　Ｔ・ウィズスタンドノット／ギャレー船ノーマン号／一七二〇年十月

　ピーター・ラ・フィーヴァー／ジェレミア・アンド・アン号／一七二〇年四月

×Ｗ・シュリン／ジェレミア・アンド・アン号／一七二〇年四月

×ウィリアム・ワッツ／シエラレオネ、グリン氏の船／一七二一年七月

×ウィリアム・デイヴィス／シエラレオネ、ホセ氏の船／一七二一年七月

○ジェームズ・バロウ／レイディ船長指揮　スノー船、マーサ号

×ジョシュア・リー／レイディ船長指揮　スノー船、マーサ号

　ロバート・ハートリー／リヴァプール籍、カニング船長　指揮、ロビンソン号／一七二一年八月

○ジェームズ・クレーン／リヴァプール籍、カニング船長　指揮、ロビンソン号／一七二一年八月

　ジョージ・スミスソン／タールトン船長指揮、ギャレー船スタンウィッチ号／一七二一年八月

　ロジャー・パイ／タールトン船長指揮、ギャレー船スタンウィッチ号／一七二一年八月

○ロバート・フレッチャー／タールトン船長指揮、ギャレー船スタンウィッチ号／一七二一年八月

×Ｒ・ハートリー／タールトン船長指揮、ギャレー船スタンウィッチ号／一七二一年八月

○アンドリュー・ランス／オランダ船／一七二一年八月

×カスバート・ゴス／ブリストル籍ギャレー船　マーシー号、於カラバー／一七二一年十月

×Ｔ・ジルス／ブリストル籍ギャレー船　マーシー号、於カラバー／一七二一年十月

×イズラエル・ハインド／ブリストル籍ギャレー船　マーシー号、於カラバー／一七二一年十月

　ウィリアム・チャーチ／オランダ船ガートリヒト号

　フィリップ・ハーク／オランダ船フラッシング号／一七二二年一月

　ウィリアム・スミス／シャープ船長指揮エリザベス号／一七二二年一月

　アダム・コムリー／シャープ船長指揮エリザベス号／一七二二年一月

　ウィリアム・グレーヴス／トラハーン船長指揮　キング・ソロモン号、於アポロニア岬沖／一七二二年一月

×ピーター・ド・ヴァイン／トラハーン船長指揮　キング・ソロモン号、於アポロニア岬沖／一七二二年一月

　ジョン・ジョンソン／トラハーン船長指揮　キング・ソロモン号、於アポロニア岬沖／一七二二年一月

　ジョン・ストッドジル／トラハーン船長指揮　キング・ソロモン号、於アポロニア岬沖／一七二二年一月

　ヘンリー・ドーソン／ワイダー籍スループ船　於ジャカン／一七二二年一月

　ウィリアム・グラス／ワイダー籍スループ船　於ジャカン／一七二二年一月

　ジョシア・ロビンソン／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

　ジョン・アーノート／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

　ジョン・デイヴィス／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

○ヘンリー・グレーヴス／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

　Ｔ・ハワード／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

○ジョン・ライマー／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

　トマス・クリーヴン／Ｔ・タールトン船長指揮　タールトン号／一七二二年一月

　ウィリアム・ギニース／フレッチャー船長指揮ポーキュパイン号／一七二二年一月

○ジェームズ・コシンズ

　Ｔ・ストレットン／ギー船長指揮　オンスロー号／一七二二年一月

×ウィリアム・ペティ／ギー船長指揮　オンスロー号／一七二二年一月

　Ｍ・レモン／ギー船長指揮　オンスロー号／一七二二年一月

×ウィリアム・ウッド／ギー船長指揮　オンスロー号／一七二二年一月

×エド・ワッツ／ギー船長指揮　オンスロー号／一七二二年一月

×ジョン・ホーン／ギー船長指揮　オンスロー号／一七二二年一月





　ピエール・ラヴァン　ピーター・グロシー　ジョン・ダガン　ランス・フロジェ　ジエームズ・アーデン　ルイ・アーノート　エトリアン・ジロット　ランス・トービー　Ｒ・マロード　メス・ルラック　ジョン・ジッティン　ジョン・ガマー　ジョー・リチャードー　ジョン・パケット　ジョン・ラボーグ　アラン・ピガン　ジョン・デュプレシー　ピエール・シロー



ワイダー泊地のフランス船より一七七二年二月





　大英帝国ジョージ国王陛下の御名において、被告ジェームズ・スカーム、ミカエル・レモン、ロバート・ハートリほか全員を以下のとおり起訴する。

　被告らは、国法を公然と侮辱し、邪に徒党を組み同盟して、貿易に従事する国王陛下の臣民を悩ませ妨害した。そして、最も邪悪なる目的のもとに結託し、二隻の船をもってアフリカ海岸を蹂躙した。最初は一七二一年八月初め、二度目は本年一月のことである。そして、その航海で遭遇した大小の船舶を沈め、焼き払い、あるいは掠奪した。

　被告らがここに起訴されたのは、とりわけ、シャロナー・オグル艦長の報告によるのである。それによれば、被告らは同艦長の指揮するイギリス軍艦「スワロー」号に対し、不法な攻撃を加えた裏切者であり、海賊である。

　二月五日、上述国王陛下の軍艦をロペツ岬で発見した被告らは、直ちに乗り組んでいた備砲三十二門のフランス船「レンジャー」号の錨を揚げ、当該軍艦を全速で追跡した。

　同日午前十時ごろ「スワロー」号の射程内にまで近づくと、被告らは海賊旗を掲げ、迫撃砲を数発発砲して当該軍艦の乗組員の任務遂行を可能な限り阻止しようとした。

　一時間後、当該軍艦に近接した被告らは、不埓にもさらに二時間にわたり、国王旗を掲げ任務を帯びた軍艦に反抗し、公然と法を犯し、抵抗と攻撃を続行した。

　ついには、これらあらゆる作為により、被告ら全員が各部署にあって一致協力し、一体となり当該軍艦を破船させ、国王陛下の良き臣民を殺そうとした。





　以上に対して被告らは各々無罪を主張した。

　そこで法廷は「スワロー」号に乗り組んでいたアイザック・サン中尉、ラルフ・ボールドリック甲板長およびダニエル・マクローグリン航海士を召喚し、被告らに見覚えがあるかどうか尋ねた。そして彼らがどのようにして軍艦を攻撃し、戦闘したかの証言を求めた。軍艦の乗組員の証言は次のとおりである。





　証人らは被告全員と対面し、海賊船「レンジャー」号で捕らえた一味であることを確認した。一七二二年二月五日月曜日未明、軍艦に乗り組んでいた証人らは、アフリカ南岸ロペツ岬に三隻の船が碇泊しているのを発見した。岬は軍艦から西南西約三リーグの地点にあった。三隻のうち一隻は長旗を掲げていた。これより前、夜明けを知らせる砲声を聞いていた彼らは、すぐにこれらが海賊ロバーツの船とその僚船、そして一味がワイダー泊地から連行してきたフランス船だと思った。

　軍艦はフランス人の砂州と呼ばれる浅瀬に乗り上げるのを避けるため、北西から北北西に向きを変えなければならなかった。南南西の風が吹いていた。こうして三十分ほど経過したとき、三隻のうち傾船していた一隻が帆を揚げ、軍艦を追ってくる構えをみせた。この向こう見ずな行動をうまく利用するため、軍艦は海賊船を恐れたかに見せかけて、風下から離れた。しかし、軍艦は、メインヤードを転桁索で回して下手回しにし、ひどく手ぎわの悪い操舵をした。

　午前十時半ごろ、海賊船は射程内の距離に近づくと、迫撃砲を四発発射し、後檣の頂に海賊旗を掲げた。そして、軍艦に斬り込みを行なうべく、スプリットスルヤードをボウスプリットの下に置いた。さらに三十分ほどして、両船の距離がいよいよ縮まるとみるや、軍艦はおもかじを取り、敵に片舷斉射を浴びせた。海賊船は停止し、応射した。

　その後海賊船は軍艦の斜め前方に離れ、ほとんどの砲が軍艦を狙えなくなったため、しばらく砲火は止んだ。この間に海賊旗が軍艦の砲撃で吹っ飛んだが、間もなく再び掲げられた。

　ついに敵の操舵の誤りと風向きのおかげで、軍艦は再び海賊船に接近し、午後二時ごろ敵船のメイントップマストを砲撃で吹き飛ばしてしまった。

　海賊船は黒い海賊旗のほかに、赤いイギリス軍艦旗、国王旗、そしてオランダの旗を掲げて戦ったが午後三時ごろには投降した。この船はフランスで建造された備砲三十二門の「レンジャー」号であることがわかった。

アイザック・サン



ラルフ・ボールドリック



ダニエル・マクローグリン





　この証言の後、被告らは全員、海賊船に乗り組んだいきさつや、国王陛下の軍艦に対して不敵な抵抗をした理由を問われた。

　各被告は「レンジャー」号に乗り組んでいて拿捕されたことを認めた。そして、海賊の掟に署名し、戦利品の分け前を得たと言った。一部のものは、海賊の仲間になって日も浅く、分け前は少なかったと証言した。しかし、彼らは掟に署名したのも、軍艦に抵抗したのも自分の意志でしたことではないと主張した。そして一味の要求を拒絶したものは殺されるというのが海賊のきまりであり、それを恐れて掟に署名し軍艦と戦ったりしたのだと言った。これに対し法廷は、だれがその掟を作ったのか、どうして大砲を発射するに至ったのか、また救済される見込みもあったのに、なぜ持ち場を棄てて反乱しなかったのかと質問した。しかし被告らは同じ答をくり返し、自分たちは強制されてやったのだと言い張るだけだった。そこで法廷は、被告らがイギリス軍艦に対し不法な攻撃と抵抗をしたとする起訴状は十分に立証されたということで意見が一致した。しかし、後に被告らのうち多くのものが強いられて海賊になったことが明白になり、またあるものは海賊になってきわめて日が浅いこともわかったので、法廷は十分検討の後、以下のような寛大な決定をした。

　起訴状のうち、彼らが自らの意志で犯行に加わり、あるいは他の船の焼き打ち、沈没、掠奪に加担したという箇所に関しては、被告一人ひとりについて、有利不利を問わずさらに証言を聞くというのである。もし彼らが何らかの盗み、または掠奪に加担していたとすれば、彼らが自分の意志で海賊になったことになる。そのような証拠は、たとえ形式を備えていなくとも、告訴理由になる。





　さらに、「ロイヤル・フォーチュン」号で捕らえられた以下の海賊に対する起訴状も提出された。

×マイケル・メア／ローヴァー号／五年前

×クリストファー・ムーディ／デイヴィッドの部下／一七一八年

×Ｍ・ジョンソン／オランダ船／一七一八年

×ジェームズ・フィリップス／海賊スループ船「リヴェンジ」号／一七一七年

　デイヴィッド・シンプソン／デイヴィッド一味

×Ｔ・サットン／デイヴィッド一味

×Ｈ・ジェイコブスン　オランダ船／一七一九年

×Ｗ・ウィリアムス／トマス船長指揮　サドベリー号、於　ニューファンドランド／一七二〇年六月

×ウィリアム・ファーノン／トマス船長指揮　サドベリー号、於　ニューファンドランド／一七二〇年六月

×Ｗ・ウィリアムス／トマス船長指揮　サドベリー号、於　ニューファンドランド／一七二〇年六月

×ロジャー・スコット／トマス船長指揮　サドベリー号、於　ニューファンドランド／一七二〇年六月

×Ｔ・オーウェン／ブリストル籍　ヨーク号／一七二〇年五月

×ウィリアム・テイラー／ブリストル籍　ヨーク号／一七二〇年五月

×ジョセフ・ノシター／トプシャム籍エクスペディション号／一七二〇年五月

×ジョン・パーカー／プール籍ウィリングマインド号／一七二〇年七月

×ロバート・クロウ／スループ船ハッピー・リターン号／一七二〇年七月

×ジョージ・スミス／メアリ・アンド・マーサ号／一七二〇年七月

×Ｊ・クレメンス／スループ船サクセス号／一七二〇年七月

×ジョン・ウォールデン／ライミントン籍ブレシング号／一七二〇年七月

×Ｊ・マンスフィールド／マルティニク島

○ジェームズ・ハリス／ピンク船リチャード号

×ジョン・フィリップス／漁船

　ハリー・グラスビー／ケアリ船長　サシュエル号／一七二〇年七月

　ヒュー・メンジース／ケアリ船長　サシュエル号／一七二〇年七月

×ウィリアム・マグネス

×ジョセフ・ムーア／スループ船メイ・フラワー号／一七二〇年二月

○ジョン・デュ・フロック／ヒングストン船長／ロイド号／一七二一年五月

　ウィリアム・チャンプニーズ／ヒングストン船長／ロイド号／一七二一年五月

　ジョージ・ダンソン／ヒングストン船長／ロイド号／一七二一年五月

○アイザック・ラッセル／ヒングストン船長／ロイド号／一七二一年五月

　ロバート・リルボーン／ターナー船長　ジェレミア・アンド・アン号／一七二一年四月

×ロバート・ジョンソン／ターナー船長　ジェレミア・アンド・アン号／一七二一年四月

　ウィリアム・ダーリング／ターナー船長　ジェレミア・アンド・アン号／一七二一年四月





○ウィリアム・ミード／ターナー船長　ジェレミア・アンド・アン号／一七二一年四月

　トマス・ディグルス／スノー船クリストファー号／一七二一年四月

×ベン・ジェフリーズ／ギャレー船ノーマン号／一七二一年四月

　ジョン・フランシア／スループ船、於セントニコラス／一七二一年四月

×Ｄ・ハーディング／オランダ船／一七二一年四月／一七二一年四月

×ジョン・コールマン／スループ船アドヴェンチャー号／一七二一年四月

×チャールズ・バンス／オランダ籍ギャレー船／一七二一年四月

×Ｒ・アームストロング／同スワロー号から脱走／一七二一年四月

×アブラハム・ハーパー／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

×ピーター・レスリー／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

×ジョン・ジェサップ／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

　トマス・ワトキンス／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

×フィリップ・ビル／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

×Ｊ・スディーヴンソン／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

×ジェームズ・クロムビー／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

　トマス・ギャラット／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

○ジョージ・オグル／ギー船長指揮　オンスロー号、於セストス／一七二一年五月

　ロジャー・ゴーサッチ／スノー船マーサ号／一七二一年八月

　ジョン・ワトソン／スノー船マーサ号／一七二一年八月

　ウィリアム・チャイルド／ギャレー船マーシー号　於カラバー／一七二一年十月

×ジョン・グリフィン／ギャレー船マーシー号　於カラバー／一七二一年十月

×ピーター・スカダモア／ギャレー船マーシー号　於カラバー／一七二一年十月

　Ｃ・グランジャー／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

　Ｎ・ブラトル／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

　ジェームズ・ホワイト／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

　Ｔ・デイヴィス／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

　Ｔ・シヴァー／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

×ロバート・ベヴィンズ／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

×Ｔ・オーターローニー／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

×ディヴィッド・ライス／ギャレー船コーンウォール号　於カラバー／一七二一年十月

×ロバート・ホース／ローン船長ジョスライン号／一七二一年十月

　ヒュー・リドル／ディリジェンス号／一七二一年一月

　スティーヴン・トマス／ディリジェンス号／一七二一年一月

×ジョン・レイン／キング・ソロモン号

×サム・フレッチャー／キング・ソロモン号

×ウィリアム・フィリップス／キング・ソロモン号

　ジェーコブ・ジョンソン／キング・ソロモン号

×ジョン・キング／キング・ソロモン号

　ベンジャミン・パー／ケニング船長ロビンソン号

　ウィリアム・メイ／シャープ船長エリザベス号

　エド・ソーンデン／シャープ船長エリザベス号

×ジョージ・ウィルソン／リヴァプール籍タールトン号　於 ラホー岬／一七二一年一月

　エドワード・タールトン／リヴァプール籍タールトン号　於 ラホー岬／一七二一年一月

×ロバート・ヘイズ／リヴァプール籍タールトン号　於 ラホー岬／一七二一年一月

　トマス・ロバーツ／オールライト船長　チャールトン号

　ジョン・リチャーズ／オールライト船長　チャールトン号

　ジョン・ケイン／オールライト船長　チャールトン号

　リチャード・ウッド／フレッチャー船長　ポーキュパイン号　於ワイダー泊地／一七二一年二月

　リチャード・スコット／フレッチャー船長　ポーキュパイン号　於ワイダー泊地／一七二一年二月

　ウィリアム・デヴィドソン／フレッチャー船長　ポーキュパイン号　於ワイダー泊地／一七二一年二月

　サム・モーウェル／フレッチャー船長　ポーキュパイン号　於ワイダー泊地／一七二一年二月

　エドワード・エヴァンズ／フレッチャー船長　ポーキュパイン号　於ワイダー泊地／一七二一年二月

×ジョン・ジェサップ　プリンセス島で投降／一七二一年二月





　大英帝国ジョージ国王陛下の御名において、被告ハリー・グラスビー、ウィリアム・デヴィドソン、ウィリアム・チャンプニーズ、サミュエル・モーウェルその他全員を、以下のとおり告訴する。被告らは国法を公然と侮辱し、邪に徒党を組み同盟して、貿易に従事する国王陛下の臣民を悩ませ妨害した。そして邪悪なる目的のもとに結託し、昨年八月と本年一月の二度にわたりアフリカ海岸を蹂躙し、イギリスその他の貿易国の財産や船を掠奪し破壊した。

　被告らがここに起訴されたのは、とりわけ、シャロナー艦長の報告によるのであり、それによれば、被告らは、裏切者であり、盗賊であり、海賊であり、人類共通の敵である。

　二月十日、砲四十門を備えた「ロイヤル・フォーチュン」号に乗り組んだ被告らは、アフリカ南岸ロペツ岬湾近くで、イギリス軍艦「スワロー」号に対し、数時間にわたり敵対的な行動をとり抵抗した。

　国王陛下の軍艦に対するこの戦闘と不埓な抵抗は、被告ら自身の堕落した意志以外のなにものでもなく、しかも、海賊旗のもとに行なわれたのであり、これは、被告らが自ら、人類共通の敵であり、裏切者であり、法を犯すものであることを誇示したものである。

　そしてその抵抗は、被告ら各々が進んで行なった行為であり、すなわち、一人ひとりが、当該軍艦を窮地に陥れ、その任務を妨害することに力を尽したのである。





　以上の告訴に対し、被告らはそれぞれ無罪を主張した。

　そこで再び「スワロー」号の士官が召換され、証言した。彼らの証言は次のとおりである。





　証人らは法廷で被告全員に対面し、彼らが「ロイヤル・フォーチュン」号で拿捕した海賊であることを確認した。

　一七二二年二月十日土曜日、証人らが乗り組んだイギリス軍艦「スワロー」号がアフリカ海岸ロペツ岬へ到着すると、そこには被告らが乗り組んだ備砲四十門の「ロイヤル・フォーチュン」号と、他に二隻の船が碇泊していた。「ロイヤル・フォーチュン」号は三隻のうちで最も大型で、船首旗、軍艦旗、そして長旗を掲げていた。軍艦の姿を認めると、他の二隻の船との間にボートをしきりに往復させた。軍艦では、海賊が人手を集めているのだろうと想像した。風向きが悪かったので、軍艦は海賊船に近づくのに二回上手回しをしなければならなかった。ようやく敵の盲打ちの弾丸が届く距離まで近づくと、敵船は錨綱を切って帆を揚げた。

　午前十一時、海賊船はほとんどピストルの射程距離にまで近づいた。メインマストには海賊旗と長旗が高く翻っていた。証人らは、午前中ずっと海賊船に掲げられていたフランスの軍艦旗を撃ち落としたと言った。海賊船はイギリス国旗を掲げ、同時に軍艦に片舷斉射を浴びせた。軍艦もすかさずこれに応射した。

　海賊船の後檣トップマストが砲撃で倒れ、索具も損傷したが、なお軍艦より優速を保ち、大砲の射程距離の半分ほど先を進んでいた。その間にも、絶えず砲撃をし、軍艦もそれに応じた。風向きが変り、両船は再び接近した。そしてさらに砲火を交えることおよそ三十分、今度は軍艦のメインマストに敵弾が命中し、倒壊した。

　午後二時、海賊は戦闘旗を降ろし、降伏した。一味の船「ロイヤル・フォーチュン」号は、もと「オンスロー」号と呼ばれていたことがわかった。この船で捕らえられた海賊は、泊地に残した二隻の船のうち小さい方が彼らの僚船で小「レンジャー」という名前だと言った。そして、軍艦との交戦を機に廃棄処分にしたのだった。

アイザック・サン



ラルフ・ボールドリック



ダニエル・マクローグリン





　法廷は午前中に行なわれた裁判と同じく、今度も被告らの言い分を聞いた。これに対する彼らの答は同じようなものだった。すなわち、自分たちは強いられて犯行に加わったのであり、「スワロー」号に対して進んで砲撃したことはなく、ロバーツに脅されて帆走をすこしばかり手伝ったにすぎないと言った。そして、彼の言うことに従わねば即座に射殺すると言われ、やむなくしたのだと言い張った。

　公正を期すため、法廷は前の一味に対して行なったように、次のような寛大な決定をした。すなわち、各人が自ら進んで海賊の仲間に加わり、それ以来海賊行為を重ねてきたか否かについてさらに証言を聞き、海賊になってまだ日が浅いものが無差別に有罪とならないような配慮をしたのである。

　法廷の命により、ジョン・アトキンスが記録係を務めた。





　ウィリアム・マグネス、Ｔ・オーターローニー、ウィリアム・メイン、ウィリアム・マッキントッシュ、ヴァランタイン・アシュプラント、ジョン・ウォールデン、イズラエル・ハインド、マークス・ジョンソン、ウィリアム・ペティ、ウィリアム・ファーノン、アブラハム・ハーパー、ウィリアム・ウッド、Ｔ・ハウ、ジョン・スティヴンソン、チャールズ・バンス、およびジョン・グリフィン。以上の被告に対する証人として、彼らに襲われ掠奪された「キング・ソロモン」号のジョゼフ・トラハーン船長と、航海士ジョージ・フェンが喚問された。彼らの証言は次のとおりである。





　一月六日、証人らの船がアポロニア岬に投錨していると、風下およそ三マイルのところに碇泊していた別の船から、風と潮に逆って一隻のボートがやってくるのが認められた。ボートが近づくと、それに多数の男が乗り組んでいるところから、海賊ではないかと思われた。そこで船では一味を迎え撃つ準備をした。海賊どもは、身を隠すもののないボートに乗っているという不利な条件と、船の手勢は一味の倍はあるところから、攻撃をせずに引き返すだろうと船長は考えたのである。しかし、部下の軽率で臆病な行動によって（彼らは武器を捨て海賊に降伏してしまった）、船は一味に乗っ取られ、掠奪される結果となった。

　裁判長「海賊に捕らえられ、掠奪されたときの状況をもっと詳しく思い出せますか」

　証人「海賊船の操舵手マグネスがボートを指揮していました。そして、船の積荷を掠奪し運び出す命令をしていました。積荷の種類が多かったので、海賊どもは掠奪作業を分担していました。海賊船の甲板長だったメインは索やロープ類を運び出しました。そして船の乗組員の作業が遅いといって、彼らを殴りつけていました。帆職人ペティは帆や帆布の運び出しを担当していました。樽職人ハーパーは樽や道具類をまかされていました。グリフィンは大工関係の品物を物色していました。舵手オーターローニーは私の衣類の中から適当なものを選んで着替えをしました。それからワインを一瓶とりよせ、ひどく横柄な態度で、船をロバーツ提督の船のともの方に移動するよう命令しました。以上が詳しい話です。裁判長閣下、彼らは無法を極め、われがちに悪事を働く輩であります」

　裁判長「キャステルさん、キング・ソロモン号の掠奪に関して知っていることを話して下さい。海賊のボートはどのようにしてこの襲撃に派遣されたのですか」

　Ｔ・キャステル「裁判長閣下、一味のボートがあの襲撃に出るとき、私は海賊船に捕らわれの身でした。襲撃が決まると『だれが行く』という言葉がかかるのを聞きました。すると、全員がわれがちに志願したのです。何の強制もありませんでした。むしろ、一番先に名乗るのを競うかのようでした」。





　被告らは「キング・ソロモン」号に対する襲撃と掠奪の事実は認めたが、キャステルの証言は否定した。そして、海賊船ではロバーツが君臨していて、襲撃に応じなければ臆病者呼ばわりされたと言った。彼らのあるものは、獲物の船に斬り込む際まことに大胆であったが、いざ裁きの場に立たされると、臆病風に吹かれたようだった。

　裁判長「それでは、ロバーツが船を襲うことをおまえたちに強制したというのか」

　被告「ロバーツは俺たちにボートに乗ることを命令し、操舵手は掠奪を命令しました。彼らの命令に逆らうことは俺たちにはできませんでした」

　裁判長「おまえたち被告の言い分を認めたとしてもなお、あの掠奪はおまえたち自身の行為である。なぜなら、おまえたちはおまえたち自身が選んだ指揮官の命令に従ったからである。心の正しい人間であるならば、毎日忌わしい任務を命ずるような船長や操舵手を選んだりするであろうか」。

　被告らは沈黙した。突然ファーノンがわめいた。「俺はマグネスを選んだりはしなかった。俺はデイヴィッド・シンプソン（前の操舵手）に一票を入れたんだ。まったく、マグネスは正直すぎてこの稼業には不向きと俺は思ったのよ」。

　証言は明快で核心をついていた。法廷はためらうことなく、全員に有罪の判決を下した。





　ウィリアム・チャーチ、フィリップ・ハーク、ジェームズ・ホワイト、ニック・ブラトル、ヒュー・リドル、ウィリアム・トマス、トマス・ロバーツ、ジョン・リチャーズ、ジョン・ケイン、Ｒ・ウッド、Ｒ・スコット、ウィリアム・デヴィドソン、サム・モーウェル、エドワード・エヴァンズ、ウィリアム・ギニース、その他十八名のフランス人。

　最初の四名は、別々の商船に乗り組んでいたところをごく最近海賊に捕らえられ、無理やり仲間にされて海賊船で楽士を務めていたことが明白だった。そして海賊船に捕らえられている間も、だれかに一曲聞かせてくれと頼まれて、今日は疲れているから勘弁してほしいなどと言おうものなら、楽器を壊されあるいは頭を殴られることも度々あり、鬱々とした毎日を送っていたこともわかった。

　他のイギリス人被告も全員海賊船に乗り組んでいたのはワイダーからロペツ岬までの航海で、極く短期間であり、その間、掠奪行為は一切していなかった。またフランス人の被告たちは、彼らの船（あるいは「リトル・レンジャー」号）をワイダー泊地へ戻すつもりで海賊が拘留していた船員たちで、捕虜の扱いを受けていた。そして武器を持つことは許されていなかった。法廷は即刻、これらの被告らを無罪放免にした。





　トマス・サットン、デイヴィッド・シンプソン、クリストファー・ムーディ、フィル・ビル、リチャード・ハーディ、ヘンリー・デニス、デイヴィッド・ライス、ウィリアム・ウィリアムズ、リチャード・ハリス、ジョージ・スミス、エド・ワッツ、ジョン・ミッチェル、およびジェームズ・バロー。

　以上の被告に対する証人として、法廷は、一月初旬アキシム近海で一味に拿捕された「フラッシング」号の船長、ジェレット・ド・ハーン、昨年十二月ガボン近海で拿捕された「ガートリヒト」号船長ベンジャミン・クレスト、同じく航海士ジェームス・グロート、そして海賊船の捕虜だったキャステル、ウィングフィールドその他を喚問した。

「フラッシング」号と「ガートリヒト」号の証人は、ハーディを除く被告ら全員が彼らの船に乗り込んできて掠奪をほしいままにし、傍若無人のふるまいに及び、乗組員は身の危険を感じた、と証言した。特にクレスト船長は、サットンが弾薬類を残らず運び出すよう命令したと証言した。これを聞くとサットンは即座に「その証人は偽証しやがった。俺は半分も盗んじゃいねえ」とわめいた。これはふざけて言ったのではなく、被告らが、オランダ人が主張するよりもっと親切味のある掠奪行為をしたのだということを示したかったのだろうと思われる。

　キャステル、ウィングフィールドその他の証言によれば、これら被告は海賊一味の顔役連中で、あらゆる企てで指導的な役割を担っていたという。そして彼らの大部分は、海賊船の上院（と一味は呼んでいた）に属し、権勢をふるっていた。特にキャステルは、彼が乗っていたスループ船「ディリジェンス」号が拿捕されたとき掠奪にとりわけ熱心だったのはハーディで、船に穴をあけて沈没させたのもこの男だったと証言した。

　法廷は無罪放免になった被告たちからも、海賊の要職につくことを引き受けたり、断ったりすることは自由だったのかどうか、証言を求めた。それによれば、すべての役職は投票による多数決で決定され、それを断るのも自由だった。なぜなら、役職につけば戦利品の分け前が多くなり、それがために、役職につきたがっている連中がいくらでもいたからである。被告全員有罪。

　三月三十一日、法廷はデイヴィッド・シンプソン、ウィリアム・マグネス、リチャード・ハーディ、トマス・サットン、クリストファー・ムーディおよびヴァランタイン・アシュプラントの六被告を召喚し、判決を言い渡した。以下はその際の裁判長の訓話である。





「被告ら全員が有罪となった海賊行為という犯罪は、他のいかなる掠奪行為にもまして重大であり非道である。なぜなら、不意打ちを受ける恐れのない遠隔の海域で海賊らは力をほしいままにし、盗みばかりか残虐行為に及ぶこともしばしばだからである。海賊は他人の難儀や困窮に動ずるということがなく、幾多の危険を冒し、やっとの思いで日々の糧を得ているむしろ同情すべき人びとからも容赦なく強奪し掠奪するのである。さらに悪いのは、捕らえた人びとの多くを誘い、あるいは力ずくで妻子から奪って仲間に加えることもあり、一家の働き手を失った家族は破滅し貧困に苦しむ結果となるのである。

　貿易国にとって海賊行為ほど破壊的なものはなく、よりきびしい見せしめのための刑罰が必要とされるのである。そればかりか、海賊行為は国家の名折れでもある。それは島を繁栄させるための唯一の手段であるところの勤労の見返りや多くの輸入品を杜絶させるのである。このような無法極まりない数々の行いにおいて、被告らが指導的立場にあったという事実は重大である。

　被告らの所業にもかかわらず、私たちは十分な審理を尽した。そして被告らの罪を弁明したり軽減させるような証言はなかったが、なお私たちは被告らがその罪を心から悔い改め、私がこれから言いわたす判決が実行された後、神の慈悲と許しを得ることを心から望んでいる。

　被告デイヴィッド・シンプソン、ウィリアム・マグネス、リチャード・ハーディ、トマス・サットン、クリストファー・ムーディおよびヴァランタイン・アシュプラント。被告ら各々に対し、次のごとく宣告する。すなわち、被告らをいったん獄に戻し、そこから本砦の外に設けた処刑場に移し、満潮標より下の位置で絞首刑に処す。その後被告らの死体を降ろし、鎖で吊すものとする」。





死刑執行委任状



土曜日、コルソ岬砦で開かれた海事裁判において、デイヴィッド・シンプソン、ウィリアム・マグネス、リチャード・ハーディ、トマス・サットン、クリストファー・ムーディおよびヴァランタイン・アシュプラントに対して下された判決に従って、貴下に以下のことを委任する。すなわち、明朝九時、前記犯罪人を砦の外に設けた刑場に連行し、そこで絞首刑に処すること。



一七二二年四月二日



マンゴ・ハーディマン



司命官　ジョセフ・ゴーディン殿

屍体は鎖につなぎ、近くの丘に設けられた晒し台に吊すものとする。

Ｍ・Ｈ





ウィリアム・フィリップス





「キング・ソロモン」号船長ジョー・トラハーンおよび航海士フェンの証言から、本被告は、一月六日同船が海賊一味のボートに襲われた際、同船の甲板長だったことが判明した。

　証言によれば、ボートが近づきかなりの人手が乗り組んでいたところから、同船ではそれが海賊であろうと判断した。そしてボートに「何者か」と問うと、「『デファイアンス』号だ」という答が返ってきた。これを聞くと船長はすぐさま部下の一人が持っていたマスケット銃をひったくり、ボートに発砲すると同時に、乗組員に対し、自分とともに船を守って戦うよう命令した。しかし海賊は一斉射撃でこれに応じ、「抵抗すれば容赦しないぞ」と叫んだ。これを聞いた被告は船長の同意も得ず海賊に投降した。多くの乗組員が被告の行動に欺かれて武器を捨て、その結果、遮蔽物のないボートに乗った味方の半数ほどの海賊に船を渡してしまったのである。その後被告は自ら進んで海賊の仲間に加わったことも明らかだった。第一に、彼はまっ先に「キング・ソロモン」号の積荷の掠奪にいそしんだ。第二に、彼は船長を虐待するのに熱心だった。そして第三に、彼はフェンに対して、一味にピストルを置いたテーブルの前に座らされて海賊の掟に署名することを強制され、それに従わなければ殺すと言われたと告白していたが、他の証言から、これが虚言であることが判明し、また同証人は、被告が「スワロー」号との戦闘でも武器を帯びていたと証言したからである。

　これに対し、被告は、このような土地で友人がいないのは不幸なことだと言い、他の土地であったなら、海賊になる前の自分の律儀さを証言し、自分が自ら進んで海賊になったなどという間違った証言を反証してくれる友人がいるのだと言った。彼は、船長に、自分が釈放されるようにとりなしを願い出なかったことを認めたが、それは船長が自分に悪意を抱いていたから、そんなことを願い出ても無駄だと思ったからだと釈明した。

　法廷は、食卓にピストルと掟が運ばれてきたとか、正直な稼業から無理やり、一味にひきこまれたといった被告やその他の海賊の弁解が、実はしばしば共謀されたものであり、嫌疑を軽くし、供述にのせるためのものだということを見抜いた。海賊らは別に損することもなかったから兄弟分に讃辞を送ることを惜しんだりせず、同時に最も腕の立つ男を仲間に加えたのだった。なぜなら、このような依存関係が彼らをいっそう勇敢にしたからである。有罪。





ハリー・グラスビー（マスター）





　被告ハリー・グラスビーに対する証人として、ロバーツの船に捕らわれていた幾人かの人びとが出廷した。彼らの証言は次のとおりである。

「キング・ソロモン」号の船長ジョー・トラハーンの証言によれば、彼が海賊船に捕らえられていた間、被告は船のマスターをしていた。だが、部下は勝手気侭にふるまい、指揮官に似つかわしくなかった。そして証人に対して、こういう凶暴な連中を統べるのはまったく厄介なことで、こんな生活は飽き飽きしたとこぼし、海賊稼業をひどく嫌っている様子だった。

　カラバーで海賊の捕虜だったジョー・ウィングフィールドも、被告は指揮官だったが、一味のだれよりも親切だったと証言した。証人が王立アフリカ会社の代理人として乗り組んでいたブリガンティーン船を焼き払うことを一味が決定したとき、それを留めたのが被告であった。そして、自分の仲間が行なってきた数々の悪行を悲しみ、避けるすべもなく自分の意に染まないことやってきたのだと証人に話した。証人はさらに、一味が外科医のハミルトンという男を捕らえ、海賊の掟に署名するよう迫ったとき、グラスビーはそれに反対しやめさせたと証言した。また、別の外科医ハンターという男も、グラスビーの懇請と説得により、掟に署名せずにすんだ。証人はこの男から、かつてグラスビーが他の二人の海賊とともに西インド諸島で仲間から脱走した廉かどで死刑の宣告を受け、グラスビー以外の二人は実際射殺されたという話を聞いた。

　王立アフリカ会社の船「オンスロー」号に乗船していて捕らえられたエリザベス・トレングローヴの証言もこれを裏付けた。グラスビーが良心的な男だと聞いたので、彼女は「オンスロー」号で掠奪に余念がなかった海賊の操舵手に、グラスビーに会えないだろうかと聞いてみた。すると彼は「だめだ。奴は一度脱走しようとしやがったから、俺たちは用心して奴を船から出さねえようにしているのさ」と答えたという。

　エドワード・クリスプ、トレングローブ船長、そしてシャープ船長も次のように証言した。すなわち、彼らや、その他不幸にして海賊に捕らえられた人びとは、主にグラスビーのおかげでひどい目に遭わずにすんだ。彼は、一味が証人たちの船を掠奪するとき、ここには不要のものしかないと言って、なるべく多くの積荷を残しておくように計らった。

　ジェームズ・ホワイトは楽士だったが、「スワロー」号との戦闘の際海賊船の船尾にいた。彼は、交戦中被告が大砲の近くで働いていたり、あるいは弾込めや発射の命令を下すのを一度も目撃していないと証言した。そして、ロバーツに命ぜられるまま、帆の操作に従っていたという。さらに証人は、のぼせあがった連中が船ごと自爆しようと火の付いた導火線を手に弾薬庫へ走り下りてゆくのを、腹心の部下をつかって押し止めさせたのが被告グラスビーにほかならないと言った。

　軍艦の副官アイザック・サンの証言はこうである。戦利品を軍艦のボートに積むため海賊船へきてみると、一味はひどくとり乱し、仲間割れの状態だった。あるものは船ごと自爆してしまおうと言ったし、別のものは罪を軽減してもらうことを考えてかそれに反対した。サンはグラスビーの人となりを聞いていたから、彼に相談した。彼ならできる限りの手を尽して、自爆を阻止してくれるだろうと考えたのである。サンの意に違わず、被告は自分の腹心の部下を使って、ジェームズ・フィリップスから火の付いた導火線を奪い取ったのである。フィリップスは「全員地獄に送ってやるぜ」と叫びながら、弾薬庫にかけ降りてゆくところだった。証人はまた、ロバーツが戦いに倒れた後、戦闘旗を降ろすように命じたのは被告だったと言った。こうして、証人は海賊一味のうち最も凶悪な連中がだれだったかを暴露して、被告の行為と信念とが一味のそれとどんなにかけ離れたものであったかを示した。

　被告自身は次のように抗弁した。彼が海賊に捕らえられたのは、ケアリー船長指揮するロンドン船「サミュエル」号に一等航海士として乗り組んでいたときのことだった。連行されるのを恐れて身を潜めていたが、ついに一味に発見され、したたか殴られたうえ海にほうり込まれた。七日後、海賊の掟に署名するのを拒絶すると今度は剣で傷つけられ、虐待された。このことがあって後、彼は一味に取り入るような態度をとったが、それはただ自分の身を守るためだった。一味からもらう戦利品の分け前はその時々彼と同じようにして海賊の捕虜になったものたちに分け与えた。実際、最近まで彼は極く僅かな蓄えしかなく、ローニー船長に、自分のモイドール金貨を二、三枚、妻に渡してくれるように頼んだ。彼は西インド諸島で仲間二人と脱走を試みて捕らえられ、一味の飲んだくれ判事に銃殺刑を宣告された。二人の仲間は殺されたが、彼は、たまたま御歴々の一人に気に入られ、この男が他のものをあしざまに言ったので難を逃れたのだった。ヒスパニオラ島で二度目の脱走を図った。森の中の道しるべに、携帯用コンパスをポケットに忍ばせた。しかし島の最も荒涼とした地帯に入り込み、どの方向をとってよいかわからず二、三日さまよった後、やむなく船に戻った。そして一味から脱走の嫌疑をかけられたのを、悪罵の限りを尽して打ち消した。一味に銃殺されるのが恐ろしかったのである。このとき以来、彼は海賊一味が彼に対して疑い深くなったこと、そしてロバーツが彼に対して秘密を漏らしてくれなくなったこと等を釈放された捕虜らが証言してくれれば、自分の罪がいくらかなりとも軽くなるのではないかと望みを抱くようになったのである。さらに「サミュエル」号のケアリー船長と船客四人は、彼は無理やり海賊に連れ去られたとの宣誓供述書を作成した。被告はこれを提出することができなかったが、さまざまな証言から法廷はそれを信じていただきたい、と懇願した。

　以上のことから、法廷は被告の行為は本意ではなかったことが立証されたとした。また被告は、自分の身の危険を顧みず捕虜たちを親切に扱った。被告は掠奪において武力を行使する立場になかった。また被告は最大の危険を冒して、二度までも脱出を試みた。かくしてハリー・グラスビーは無罪放免となった。





ジェームズ・スカイミー





　放免された数名の海賊の証言から、スカイミーは軍艦と戦った「レンジャー」号の指揮をしていたことがわかった。彼は部下に対して持ち場を守るよう下命し、大砲の装填発射を指揮した。自らは剣を手にしてその命令を徹底し、任務を怠ったり、臆した様子のものがいれば容赦なく殴りつけた。そして彼は戦闘で片足を失ったにもかかわらず、戦意旺盛で、完全に敗れたとわかるまで頑として甲板を離れなかった。

　彼は次のように抗弁した。すなわち、一七二〇年十月、セントクリストファー島籍スループ船「グレイハウンド」号に航海士として乗り組んでいたときに海賊に捕らえられ、無理やり一味に加えられた。海賊が「グレイハウンド」号を釈放したとき、彼も自由の身にしてほしいと頼んだら、殴る蹴るの暴行をうけた。海賊の生活に慣れ、成功を重ねるうちに、彼の羞恥心は麻痺していった。しかし最近数か月間は体調を崩し、何の任務にもつけなかった。今回の仕事もロバーツに無理強いされたもので不本意なことだった。そして「レンジャー」号の船長という地位を与えられはしたものの実権はなく、追跡していた船がイギリスの軍艦だとわかって、部下に撃ち方やめの命令を発したが、彼らはそれに従わなかった。

　被告は病気を主張したけれども、戦闘中片足を失ったという事実は、被告がそのような状況下でよく活躍していたということである。船長という称号は、たとえ何ら特権を伴うものでなかったとしても、それはイギリス国旗に対する交戦を命令できる権限の称号であり、従って被告は最高の責任者であった。有罪。





ジョン・ウォールデン





　ジョン・トラハーン船長とジョージ・フェンは、被告がボートに乗り組んで彼らの船を襲い占拠した海賊一味の一人だったと証言した。彼の破壊行為はとりわけ目立ち、錠の下りた戸は手にした斧でたたき破った。さらに、他の海賊が皆で、錨を巻き揚げているとき、彼は錨綱を斧で断ち切って、こう言った。「おい船長、こんな暑い日によいとまけで錨を揚げる馬鹿はねえぜ。ロンドンへ行きゃ錨なんざいくらでも手に入るしよ。それにおめえの船は焼き払っちまうのさ」。

　放免された海賊ウィリアム・スミスは、被告ウォールデンがミス・ナニーという渾名で呼ばれていたと言った。これは彼の猛烈さを皮肉ってつけた名前だった。彼は「スワロー」号の追跡に加わるため「フォーチュン」号から志願して「レンジャー」号に乗り移った二十人の海賊のうちの一人だった。彼はその戦闘で最も勇猛果敢に戦い、敵弾にあたって片足を失った。

　裁判長はハリー・グラスビーを呼んで、被告の性格や、「フォーチュン」号から「レンジャー」号に乗り移って「スワロー」号の追撃に参加したときの模様を証言するよう命じた。

　グラスビーは、被告ウォーデンが腕利きと認められていたと証言した。そしてこれは志操堅固な海賊で大悪党という意味だと説明した。「スワロー」号の姿を認めたとき、一味はそれがポルトガル船であることを望んだ。なぜなら、一味には砂糖が欠乏し、そのため「フォーチュン」号と「レンジャー」号の仲間は不和になっていたからである。（「フォーチュン」号ではポンチを飲んでいたが、「レンジャー」号ではそれができなかった。）そこでロバーツは「レンジャー」号に向かって「おーい、沖に砂糖船がいるぞ。あれを取ってこい。そうすりゃ不平や文句を言うこともなくなるぜ」と言って、追跡を命じた。同時に彼の船の乗組員にも、「加勢にいく奴はいないか」と聞いた。たちまち「フォーチュン」号のボートは満員になり、「レンジャー」号に向かった。

　裁判長「では、獲物の船に乗り込むのは皆志願者ということか。それともほかに理由があるのか」

　グラスビー「普通は名簿の順に獲物の船に乗り込むことになっていました。そこで戦利品の分け前をもらうほかに、着替えすることを許されていたからです。乗り込みを強制されることはありませんでした。だれもが早く新しい衣類に着替えたかったからです。でも今度の場合もそうですが、危険になりそうなときは、不精で臆病な連中は自分の番を辞退して先輩に譲ることも多く、それを受けて冒険に出かけるものはいっそう評価が高くなりました。被告そのほか『フォーチュン』号から『レンジャー』号へ乗り移った連中は、海賊仲間でもっとも頼りになる者たちでした」

　裁判長「『レンジャー』号が仲間から離脱して投降する心配はなかったのか」

　グラスビー「『レンジャー』号の乗組員はほとんどがギニア海岸で仲間に加わった新入りで、新鮮な食料やワインの分け前も、『フォーチュン』号の乗組員ほど多くはもらえませんでした。連中は、自分たちが苦しい任務をはたしているのだと思っていました。このため彼らは不平不満を言い、折あらばわれわれから離脱するかのようにみえました。しかし彼らの多くは、古参の海賊たちより規律正しく振舞っていましたから、われわれは、彼らが離脱するとは思いませんでしたし、仮にするにしても、それは自分たちで旗揚げするためだろうと考えていました」

　被告は恐れた様子もなく、法廷の質問に答えたりするより義足の足を休めたがった。抗弁するように言われると、彼はぞんざいで投げやりな態度で、自分はおよそ一年前ライミントン籍の「ブレッシング」号に乗り組んでいたところ、ニューファンドランドで一味に捕らえられ、無理やり仲間にされた。これは古い海賊ならたいてい知っていることだ、と言った。環境の変化から、だれもがなるように気分の塞ぐ日々を送っていたが、そのうち海賊の生活に慣れ友だちもできると、自分も変化した。そして、「キング・ソロモン」号の襲撃に加わり、その錨綱を切ったことを率直に認め、そういう場合はだれも強制されたりはしなかったと言った。

「レンジャー」号に乗り組んで軍艦を追跡した件については、ロバーツに命令されてやったことだと主張した。そして追跡しながら一発大砲を撃ったが、それが罠だと気付くと、抵抗しても無駄だから砲撃を中止して脱出するよう部下に命じた。そしてそのための操帆をしているとき、敵弾が飛んできて片足を奪われたのだと言った。だが、もし軍艦が思惑どおりポルトガル船だったらどうしたかと尋ねられると、彼は、「そのときゃ、俺は何をしたかわからねえよ」と答え、全員掠奪の意志満々であったことをほのめかした。有罪。





ピーター・スカダモア





　ハリー・グラスビー、ジョー・ウィングフィールド、そしてニコラス・ブラトルは、被告がカラバーでロルズ船長のもとから自分の意志で海賊一味に加わったと証言した。最初、海賊の指揮官の一人ムーディが被告を仲間に加えることに反対し、ロルズ船長に、帰国したらこいつのことを公報に知らせてやってくれ、と意地悪そうな態度で言うのを聞いて、被告はこの海賊と喧嘩した。ロルズ船長が海賊船からボートで去るとき、一瞬たつまきが起こったが、被告は「あん畜生溺れるがいいぜ。奴はひでえ悪党で、何かにつけ俺のことをひどくあしらいやがった」と言った。

　また、被告は躊躇せず海賊の掟に署名し、船医で掟に署名したのは俺が最初だといって得意満面だった。（以前は、船医が一定期間勤務して下船を申し出ると、海賊たちは新しい船医を雇い、彼らに署名を強制することは決してなかった。しかし、被告は後進のためにこの前例をうち破ったのである。）そして、「俺もだれにも負けない立派な悪党になるつもりだ」と誓った。

　ジョン・トラハーン船長とジョージ・フェンは、被告が「キング・ソロモン」号の主な医療器具と薬、そしてバックギャモン用の卓を奪ったと証言した。この卓はウィンコンという男のものだった。このため二人の間に争いが起こったが、ウィンコンが譲ったのである。

「エリザベス」号のジョー・シャープ船長は、被告がロバーツに、彼の船医カムリーを仲間に加えることを許可してもらうのを聞いたと証言した。これはすぐ実行され、被告は船医を連れ出し、薬も奪った。だが、被告の邪な性格を何より雄弁に物語るのは、彼がコルソ岬に護送される途中、その職業や教育のため深く疑われることもなく、およそ捕虜らしからぬ寛大な処遇を受けていたにもかかわらず、船を乗っ取って脱走することを企てた事実である。

　放免された海賊チャイルドは、軍艦に拿捕された「フォーチュン」号でのセントトマス島からの航海途中、被告に何度か黒人とともに蜂起して「スワロー」号の乗組員を殺してしまおうと持ちかけられたと証言した。被告は白人をやっつけるのはわけないし、そうしたらアンゴラで新しい海賊一味の旗揚げをしようと誘った。そして「俺は航海術を知っているし、おまえにもすぐ教えてやる。コルソ岬へ連行されて、そこで吊されて日干しになるよりは、その方がずっとましだぜ」と言った。これに対して証人は「俺は縛り首なんか恐くない」と答えた。スカダモアは「このことは黙っていろ、そうすればおまえに危害がかかることはない」と言った。しかし翌朝、陰謀実行の時間がくると、証人は「スワロー」号の将校にこのことを内通し、スカダモアが前夜黒人たちにすべての手はずをアンゴラ語で説明していたことも話した。

　アイザック・バーネットは、被告が負傷して「フォーチュン」号に残っていた海賊の一人ジェームズ・ハリスに、船を乗っ取って新しい仲間と旗揚げする陰謀に加わる気はないかと誘っているのを聞いた。だが、証人が近づくと、話題を変えて競馬のことを話しはじめた。証人は耳にしたことを士官に教えたため、士官はすぐ部下に武装させて一晩中見張りを厳しくした。黒人たちが暴動を起こす恐れもないわけではなかった。なぜなら、連中は長い間海賊生活になじんだが今や十分な食べ物も与えられないような境遇になり、暴動の機は熟していたからである。

　被告は、自分は昨年十月ロルズ船長のもとから無理やり海賊一味に入れられ、ロバーツとヴァランタイン・アシュプラントに脅されて掟に署名したのだと抗弁した。

　また、「キング・ソロモン」号と「エリザベス」号の薬箱を奪ったのは当時海賊の船医長だったハンターに命ぜられたからで、海賊の掟では、彼がこの分野の指揮権を持っていたのである。そして自分とチャイルド（放免）はフランス船の薬をありたけ持ってくるよう命ぜられた。二人ともこれを拒否できなかった。

　護送中に船を奪って逃げる陰謀については、彼はまったくのでたらめだと否定した。そして仮に黒人たちがそんな陰謀を考えていたら、護送の手勢は少なく見張りもいいかげんだったから、わけなく実行に移せたはずだが、彼がそんなことを唆したなどというのは嘘だし、黒人たちとアンゴラ語で話したのは、その言葉をもっとよく話せるようになろうと思ったからだ、と言った。航海術については、被告はしばしばその心得があるとチャイルドに話していた。有罪。





ロバート・ジョンソン





　本被告はアポロニア岬で碇泊していた「キング・ソロモン」号をボートで襲った二十人の海賊の一人で、この仕事に関与した海賊は全員志願者だったこと、そして特にこの被告は自分の順番でもないのに二度までも襲撃に参加することを申し出ていたことが立証されていた。

　被告はハリー・グラスビーに弁護を求めた。グラスビーは、最初被告が一味に加わったときはひどく酔っぱらっていて、彼を船から船へ滑車を使って移さなくてはならなかったと言った。しかしその後は頼りがいのある仲間になり、「スワロー」号との戦闘では操舵をまかされていたと証言した。

　被告自身も、ターナー船長の供述書にもとづいて同様のことを話した。この船長の供述書によって、被告の仲間の幾人かは無罪になっていた。

　法廷は、同じ証拠にもとづいてあるものは無罪にし、あるものは有罪にするのは不公平であり、また異議の出ることも考え、裁判官の誠実の証として、以下の所見を述べておくことが適切であると判断した。すなわち、法廷が個々の海賊に弁論を許すのは、もし「スワロー」号の起訴事実以外のことを聞かなければ、本来無罪のものも無差別に有罪とされるかも知れず、そのようなものを、法の厳格な適用から免除するためなのである。そして、これがためには、被告の仲間であったものから被告の人となりを聞くのが最善である。被告は、海賊の仲間に入ったときの任意性に疑問はあるが、それ以後の行動は明白であり、海賊の仲間に加わったいきさつは、そこでどのような行動をしたかということに較べれば問題にならないのである。有罪。





ジョージ・ウィルソン





「エリザベス」号船長ジョン・シャープは、同船の乗客で、二度まで海賊の手に捕らえられた被告ジョージ・ウィルソンに関して次のように証言した。

　船長はアフリカ沿岸セストスで黒人に捕らえられていた被告を、三ポンド五シリング相当の品物を身代金にして引き取ってやった。シャープ船長はよいことをしたと思っていたが、後にカニングという船長に会ったとき、彼は「一体どうしてウィルソンのような悪党を自由の身にしてやったんだ。奴は、ジョン・タールトン船長のもとを去って、自ら海賊の仲間に加わった男だ」と言った。証人の船が海賊に捕獲され、シャープが捕虜になったとき、海賊船にはジョン・タールトンの弟も捕われの身になっていた。これを見たウィルソンは海賊をおだてて、彼に見るも気の毒なほどの暴行を加えさせた。リヴァプール出身の乗組員らが彼をボウスプリットの下に隠してやったからよかったようなものの、そうでなければ彼はとうに射殺されていただろう。というのも、ムーディーとハーパーが撃鉄を上げたピストルを手にして船内を隈なく探し回っていたからである。二人は証人のハンモックにもやってきて、危うく彼をタールトンととり違えるところだったが、彼が大声を出したので間違いに気付き、「こいつは俺たちに船医をつれてきてくれた正直者だ」と言って立ち去った。海賊船から去るとき、証人はウィルソンに例の約束手形は一味が持っているのかどうか聞いた。彼はそれに答えることはできなかったが、「大したことじゃありませんぜ、シャープ船長。俺がそいつを支払いにイギリスへ帰国することは先ずないだろうからね」と言った。

「エリザベス」号の船医だったアダム・コムリーは、ウィルソンが病気で困窮していたのでなにくれとなく親切にしてやった。にもかかわらず、自分が海賊に捕らえられ無理やり一味に引き入れられたのは、ウィルソンとスカダモアの差し金によるものだということがわかった。ロバーツに会ったとき、ウィルソンはひどく浮き浮きした様子で彼に挨拶し、「お目にかかれて大変うれしい。俺の船長から新しいシャツとズボンを借りて、身なりをととのえてから、すぐ海賊船へ移ります」と言ったのである。彼はすすんで海賊の掟に署名し、証人にも同じことを勧めた。そして、一味は八か月かけてブラジルへ航海し、そこで一人当り六、七百ポンドの分け前をもらってから仲間を解散するのだと言った。一味が船医長を選ぶとき、証人自身も候補に上った。ウィルソンは、船医長には他のものより二五パーセント分け前の加増があるから、その地位をスカダモアから取ってしまうとよい、とコムリーに言った。だが「レンジャー」号の乗組員の好意にもかかわらず、彼は選に漏れた。大部分の乗組員は、ロバーツの側近スカダモアに票を投じたのである。

　また、ジョー・トラハーン船長、トマス・キャステルその他、当時やはり海賊の捕虜になっていて、被告の行動を見ていた人びとの証言によれば、彼は海賊の生活にすっかり満足し、特にロバーツとは親しくしていた。一味は軍艦の話が出るとよく嘲笑って、「かぶら男（ジョージ一世の愛称だった）の艦に出合ったら、自爆して奴らを地獄の道連れにしてやるぜ」と言った。彼はいろいろ酔狂なことをして仲間の人気を集めようとしたが、懶惰な性格のため敵も多かった。ロバーツでさえ、負傷した男がウィルソンに繃帯するのを断られた、と文句をいうのを聞いて「二度もここへくるとは、おまえは二人分の悪党だ」と言い、耳を切り落としてやるぞ、と脅した。

　さらに、トマス・タールトン船長は、被告は数か月前、彼の兄が船長をしていた船に乗っていてはじめて海賊に捕らえられ、その仲間に加わったと証言した。被告がこの新しい仲間の役に立ちたいと申し出ると、すぐボートで本船の薬箱を持ってこいと命ぜられた。しかし風と潮流が強く、一行はモンテゼラド岬に打ち上げられてしまった。

　ウィリアム・ダーリングの証言はこうである。被告が最初に一味に掴まったとき、ロバーツは彼をジョン・タールトン船長と間違えた。診察の医者がきたのだと聞くと（ロバーツはこのとき風邪気味だった）彼はすぐウィルソンに自分の食事仲間メスメイトになれと言った。ウィルソンが、自分には妻子があるから、と言ってそれを断ると、ロバーツは大笑いした。彼がボートに乗ってモンテゼラド岬に打ち上げられたのはそれから二日後のことである。被告が「エリザベス」号に乗って再びこの一味に捕らえられたとき、「最初のボートに乗せて奴を船へ連れてこい」とロバーツが命令するのを証人は聞いていた。

　サミュエル・モーウェルは、ウィルソンが海賊船に乗っている間、その境遇を嘆き、一味のトマスという男に、ロバーツに自分の釈放を頼んでもらえないかと言うのを聞いていた。彼は、家に多少の財産があるから、海に出て稼がなくともよいのだと言っていた。

　ワイダーで一味に拿捕されたフランス船に乗っていたため、四十八時間ほど拘留されたニコラス・バトラーは、被告が彼にフランス語で話しかけ、こんな連中につかまっているのは情けないし不幸なことだと嘆いていたと証言した。

　被告は二、三質問させてほしいと言った。そして、海賊は従来船医には掟に署名させなかったのにそれをさせるようにしたことについて、自分はロバーツを問責しなかったかどうか、最初一味から脱出したとき自分は喜んでいなかったかどうか、ワイダーでロバーツが多くの船を捕らえたとき、自分はそれが合法的なことなのかと問わなかったかどうか、さらに、一味は船医を釈放すべきだと主張しなかったかどうかを証人に問い質した。証人はこれらすべてについて被告の言うとおりだったと言い、さらに、被告が「エリザベス」号から一味に連行されたとき、スカダモアはまだ彼を知らなかったと思うと言った。

　被告は、ジョン・タールトン船長のもとで船医をしていたとき、ギニア沿岸で最初にロバーツ一味に捕らえられた。一、二日後、ロバーツはそこにしばらく碇泊しなければならなくなった。そして、被告に、自分の手箱（薬箱ではなかった）を持ってくるように命じたと自ら証言した。彼はこの機に乗じて一味から脱走したのだと言った。手箱を取りに行くボートに乗り組んだのはフランス人五人とイギリス人一人で、皆被告と同じように一味から脱出したがっていた。そこで一行はボートで上陸し、モンテゼラド岬の黒人たちに身を委ねようということになったのである。この土地は、海が荒いばかりでなく、時に人肉を喰う野蛮な原住民の危険もあった。被告はここで五か月間過ごしたが、ちょうどそのころ彼の船長の弟トマス・タールトンが商売のためこの土地に立ち寄ったのだった。被告はタールトンに自分の難儀と飢餓を訴えた。しかし彼は無慈悲にも「おまえは海賊の仲間だったな」と言って、被告を捕らわれの状態から助け出すことも、またわずかばかりのビスケットや塩漬け肉を置いていくことも拒絶した。それからしばらくして一隻のフランス船がやってきて、その船長が被告のために身代金を支払い、黒人たちから解放してくれた。しかし過酷で劣悪な生活のため被告が不潔な皮膚病にかかっているのをみて、船長は彼を再びセストスで船から降ろしてしまった。その後、シャープ船長が彼を見つけ助け出したのは船長の証言にあるとおりである。被告は、測り知れない恩誼を感じた。だが運悪く、被告はこの「エリザベス」号で再びロバーツ一味に捕らえられてしまった。そしてこの海賊船にトマス・タールトンが捕虜になっているのを発見すると被告は前後の見境なく、モンテゼラドでのひどい仕打ちを詰なじった。ところがこの被告の言葉が思わぬ悪い結果を招いたのである。自ら正義を行なう者を任じていたロバーツが、タールトンの不正をただすため、彼を容赦なく打ちすえたのである。これについて被告は、そうなったのは自分の意図とはまったく反したことであったことを信じてほしいと言った。そして、自分はまったくの部外者だったから、海賊一味の間に何の発言権もなかったし、だからあのような結果になったのは何か別の動機があるに違いない、と言った。被告は、二度目にロバーツに捕らえられたとき、彼に会えてうれしいと言ったかどうか、あるいはコムリーが証言したようなことを言ったかどうか覚えていなかった。しかし思慮の浅さから、不用意な言葉を吐いたりロバーツにへつらったりしたのだとすれば、それはだれもがやったように、ロバーツの機嫌をとって少しでもよく処遇してもらおうと思ったからであり、またロバーツは彼を釈放すると約束してくれたけれども、コムリーのような、代りの船医がいなかったらその約束も反故になってしまうのではないかと恐れたのだ、と被告は言った。そしてこのことは海の紳士たち（彼は海賊をこう呼んだ）全員が証言してくれるだろうと言った。

　また被告は、最初に海賊の仲間になったときは、若さのあまり血気にはやったのだと弁明した。（このときはひと月ほど海賊船に乗っていただけで、戦闘任務にはついていなかった。）そして、特に「スワロー」号で警送中の一味の陰謀を事前に通報した功績を認めてほしいと強調した。

　被告ジョージ・ウィルソンに対して、法廷は有罪の判決を下したが、刑の執行は、国王陛下の意向を聞くまで延期になった。これは「スワロー」号の艦長が、海賊の陰謀を最初に通報したのは被告だったと証言したからである。





ベンジャミン・ジェフリーズ





　グラスビーとリルバーン（放免された海賊）の証言によれば、被告ベンジャミン・ジェフリーズは、ギャレー船「ノーマン」号に乗り組んでいて一味の捕虜になったが、海賊船で酔いつぶれて本船に戻れなくなってしまった。そして、酔った勢いで海賊らに向かって「おまえたちの中に人間は一人もいない」と悪態をついたため、翌朝、乗組員一人ひとりから六回ずつ、鞭打ちの歓迎を受けた。このため彼は数週間身体を動かすこともできなかったが、回復すると掌帆長属になった。海賊船ではどんな地位につくのも（選挙によって決まりはするが）各人の自由である。だれもが戦利品の分け前の加増に与りたがっているからである。

　証人らはさらに、シエラレオネではだれでも脱走しようと思えばそれが可能だったけれど、被告は一味の船が出帆準備整い、川を下るまで逃げようとはしなかった、と言った。

　被告は、最初自分は無理やり一味に連行されたのであり、甲板長の助手になったのも強制されたからで、本当はやめたかったのだと弁明した。また、一味に鞭で打たれたのは、正業について日々の糧を得ている人間は海賊になどならないと彼らに言ったためだ、と説明した。さらにシエラレオネで脱走しなかったのは、昔海賊だった連中が三、四人岸にいて、もし脱走でもしたら、一味のウィリアム・ウィリアムズと同じように、彼らの手で仲間に引き渡され、鞭打ちにされると思ったからだと言った。

　法廷は、海賊が脱出する術がなかったというのは、最初無理やり仲間に入れられたというのと同様、薄弱な言い逃れであると判断した。なぜなら、シエラレオネではだれでも自由に上陸できたのだし、彼も望めばそうすることが可能だったからである。しかも鞭打ちなどという野蛮なやり方で一味に迎えられた男が、自由をとり戻す機会を見過ごしたというのは責められるべきであり、被告の邪な性癖を示すものである。こうして被告は弁明の余地なく有罪とされた。





ジョー・マンスフィールド





　トラハーン船長とジョージ・フェンの証言で、被告は「キング・ソロモン」号を襲い掠奪した一味のひとりだということがわかった。彼はおどおどして何も答えられないものには威張りちらしていたが、彼を知る友人にとっては扱いやすい男だった。たとえば、あるとき、ムーディが彼の手から大杯を取り上げ、「ぶつぶつ言ったらてめえの脳みそを吹っ飛ばしてやるぞ」と脅した。

　放免された海賊たちは、被告は西インド諸島の一つドミニカ島で、自ら一味に加わり、自分は軍艦「ローズ」号の脱走乗組員で、以前は追いはぎだったと自己紹介した、と証言した。彼はいつも飲んだくれていて「スワロー」号と遭遇したときも泥酔状態だったから、戦闘のことは何も知らなかった。そして「フォーチュン」号が投降した後で、カトラスを手に、敵船に斬り込むのはだれだと大声でわめきながら甲板に上ってきた。仲間が彼に事情をのみこませるにはかなり手間どったという。

　被告はほとんど弁明しなかった。そして、酒が自分をこの稼業に引き込んだ元凶だが、自分にとっては金より酒のほうが大きな動機だった、と言った。有罪。





ウィリアム・デイヴィス





　ウィリアム・アレンは、被告がシエラレオネでギャレー船「アン」号に乗り組んでいたと証言した。そこでこの船の航海士と喧嘩し相手を殴り倒してしまった。そのため、部署にもどるのが怖くなり、土地の黒人の中に紛れて暮らすようになった。そして黒人の女を妻にしたが、ある日のこと、喉の渇きを癒すため恩知らずにも、彼女を売り飛ばしてポンス酒を求めた。このあと、彼は王立アフリカ会社の支店長プランケット氏のところへ出向き保護してもらったが、彼女の親類や友人が補償を求めてやってきた。プランケット氏はすぐ被告を彼らの手に渡し、この男の首をはねても自分は一切関与しないと言った。しかしそんなことをしても一文にもならぬと考えた黒人たちは、彼を、同じ黒人でキリスト教徒のセニョール・ホセに売った。ホセは、被告の妻を買い戻してやるために支払った金額の代償として、二年間彼を自分の下で働かすことにし、契約した。しかしこの契約期間が満了するよりずっと前に、たまたまロバーツ一味がシエラレオネに立ち寄った機会に被告は志願して一味に加わった。（これはセニョール・ホセが証人に話したことである。）

　証人はさらに、所用でマウント岬へ行ったとき、そこでロバーツの船の脱走者二人に会ったが、彼らも同じことを話したと証言した。そして、海賊一味はデイヴィスが怠け者で役立たずだったので、今度陸に立ち寄ったとき、彼を船から降ろしてしまうことに決めたのだと言った。

　グラスビーとリルバーンの証言によって、一味がシエラレオネに滞在中、乗組員はだれでも自由に上陸していたのは明白であった。ロバーツは、グリン氏その他この港にいた貿易業者たちに、だれも無理強いして仲間に入れることはしないと言明していた。そして、実際にそのようなことは行なわれなかった。被告の同僚がこの地で脱走したが、この男は被告も脱走しようと思えばできたはずだと言った。

　被告は、自分は心ならずも拘留されていたのだと言った。象牙を買い付けてシエラレオネに戻ろうとしていたとき、一味のボートに追われ、海賊船に連れて行かれた。そして自分は航海術の心得があったから、一味が釈放してくれなかったのだと言った。

　法廷には、この連中が最初海賊になったのは無理やり仲間に入れられたからだというのは馬鹿げた言い訳だとわかっていたし、また証人がマウント岬で二人の脱走者に会っていたことや、シエラレオネでの一味の自由な生活ぶりから、その気にさえなればだれでも脱走できたということも明白であった。有罪。





　以上がロバーツの乗組員の裁判の大要である。先に挙げた海賊の一覧で、名前の前に×印があるものは有罪、○印のものはマーシャルシーの法廷へ送致、そして何も印のないものは放免となったものである。





　以下の海賊は、判決に従って、ケープ・コルソ砦の門外満潮標の下で処刑された。





氏　名／年　齢／出身地

ウィリアム・マグネス／三十五／マインヘッド

リチャード・ハーディ／二十五／ウェールズ

デイヴィッド・シンプソン／三十六／ノースバーウィック

クリストファー・ムーディ／二十八

トマス・サットン／二十三／バーウィック

ヴァランタイン・アシュプラント／三十二／ミノリーズ

ピーター・ド・ヴァイン／四十二／ステプニー

ウィリアム・フィリップス／二十九／ロワーシャドウェル

フィリップ・ビル／二十七／セントトマス島

ウィリアム・マイン／二十八

ウィリアム・マッキントッシュ／二十一／カンタベリー

ウィリアム・ウィリアムズ／四十／パリムス近郊

ロバート・ホーズ／三十一／ヤーマウス

ウィリアム・ペティ／三十／デプフォード

ジョン・ジェインソン／二十二／ランカスター近郊

マーカス・ジョンソン／二十一／スマーナ

ロバート・クロウ／四十四／マン島

マイケル・メア／四十一／ゲーント

ダニエル・ハーディング／二十六／サマセットシャー、クルームスベリー

ウィリアム・ファーノン／二十二／サマセットシャー

ジョー・モア／十九／ウィルトシャー・ミーア

アブラハム・ハーパー／二十三／ブリストル

ジョー・パーカー／二十二／ドーセットシャー、ウィンフレッド

ジョー・フィリップス／二十八／スコットランド、アロウェイ

ジェームズ・クレメント／二十／ジャージー

ピーター・スカダモア／三十五／ブリストル

ジェームズ・スカーム／四十四／ウェールズ

ジョン・ウォールデン／二十四／サマセットシャー

ジョー・スティヴンソン／四十／ホイットビー

ジョー・マンスフィールド／三十／オークニーズ

イズラエル・ハインド／三十／ブリストル

ピーター・レスリー／二十一／アバディーン

チャールズ・バンス／二十六／エグゼター

ロバート・バートソン／三十／デヴォンシャー

リチャード・ハリス／四十六／コーンウォール

ジョセフ・ノッシター／二十六／デヴォンシャー、サドベリー

ウィリアム・ウィリアムズ／三十／処刑の際黙否

アッゲ・ジェイコブソン／三十／オランダ

ベンジャミン・ジェフリーズ／二十一／ブリストル

カサバート・ゴス／二十一／トプシャム

ジョン・ジェサップ／二十／プリムス

エドワード・ワット／二十二／ダンモア

トマス・ジャイルス／二十六／マインヘッド

ウィリアム・ウッド／二十七／ヨーク

トマス・アームストロング／三十四／ロンドン。軍艦ウェイマウス号上で処刑

ロバート・ジョンソン／三十二／ワイダー

ジョージ・スミス／二十五／ウェールズ

ウィリアム・ワッツ／二十三／アイルランド

ジェームズ・フィリップス／三十五／アンティガ

ジョン・コールマン／二十四／ウェールズ

ロバート・ヘイズ／二十／リヴァプール

ウィリアム・デイヴィス／二十三／ウェールズ





　以下に記す残りの海賊たちは、法廷に請願書を提出して、死刑の判決を流刑に相当する七年間の懲役に減刑してもらった。請願書は次のとおりである。





　一七二二年四月二十日海賊裁判のためケープ・コルソ砦にて開廷した海事裁判所裁判長および判事閣下。トマス・ハウ、サミュエル・フレッチャー（以下略）は以下のとおり請願いたします。

　私たち請願者は不幸にも、また不注意にも、海賊という浅ましく忌わしい犯罪に身を委ね、そのため公正なる裁きを受けました。

　今、私たちは、法廷の寛大なる御慈悲に縋り、私たちの死刑判決を減刑していただき、当地にあるイングランド王立アフリカ会社にて法廷が適切と判断される方法で、七年間の労役に服したく、ここに請願いたします。死刑の判決を受けて前非に気付いた私たちは、もし神が私たちの命を長らえさせ賜うならば、王立アフリカ会社の事業所にて、忠実なる下僕、善良なる召使、そして有用なる雇人として働きたく存じます。



請願者一同





　法廷の決定は次のとおりである。





請願者は本海事法廷の許可を得て王立アフリカ会社黄金海岸総督と、当該会社のアフリカに在るいずれかの事業所において、当該総督が適当と判断する方法で七年間の労役契約を取り交すものとする。





　四月二十日金曜日の法廷の認可に従って、同二十六日木曜日、契約書が作成され、請願者各々がそれに署名した後、マンゴ・ハードマン船長、ジェームズ・フィップス氏、エドワード・ハイド氏、チャールズ・ファンショー氏、およびジョン・アトキンス氏立ち会いのもとに取り交された。





労役契約書写し



　海賊行為により有罪となったが、請願により、国王陛下の任を受けた委員並びにアフリカコルソ岬砦にて海賊の裁判のため海事法廷を開催すべく任命された判事の寛大なるとりはからいにより七年間の労務を許された被告の労務契約およびその他条件は以下のとおりである。

　一七二二年四月二十六日、もとブリストル市在住の海員ロジャー・スコットとイギリス王立アフリカ会社総督は本契約を取り交した。すなわち、ロジャー・スコットは王立アフリカ会社総督若しくはその合法的な承継人に対し、王立アフリカ会社のアフリカ沿岸のいかなる事業所においても、今後七年間、労務に服することをここに約束する。また当該総督若しくはその承継人は、当該国の慣習に基づいてロジャー・スコットを雇用するものとする。

　右記に鑑み、当該総督は、ロジャー・スコットに対し、当該国の慣習に従い、肉、飲料、衣料および住居を提供することを約束する。

　右記の証拠として、以下の立会人が本契約書に署名した。



裁判長　マンゴ・ハードマン



書　記　ジョン・アトキンス





　以下の被告もこれと同様の契約書を取り交した。





トマス・ハウ　デヴォン州バーンステイブル出身

サミュエル・フレッチャー　ロンドン、イーストスミスフィールド

ジョン・レイン　ロンドン、ランバートストリート

デイヴィッド・リトルジョン　ブリストル

ジョン・キング　ロンドン、シャドウェルパリッシュ

ヘンリー・デニス　バイドフォード

ヒュー・ハリス　デヴォンシャー、コーフキャッスル

ウィリアム・テイラー　ブリストル

トマス・オーウェン　ブリストル

ジョン・ミッチェル　ロンドン、シャドウェルパリッシュ

ジョシュア・リー　リヴァプール

ウィリアム・シュリン　ロンドン、ラッピングパリッシュ

ロバート・ハートレイ　リヴァプール

ジョン・グリフィン　ミドルセックス、ブラックウォール

ジェームズ・クロムビー　ロンドン、ワッピング

ジェームズ・グレアム　グロウスターシャー、マーシャルフィールド

ジョン・ホーン　ロンドン、セントジェームズパリッシュ

ジョン・ジェサップ　ケムブリッジシャー、ウィスベク

デイヴィッド・ライス　ブリストル





　以上のもののうち、現在、生存者は一人もいないということである。残った二人、ジョージ・ウィルソンとトマス・オーターローニーの刑執行は国王の意向を聞くまで延期になった。前者は船上で死に、後者は故国に帰って国王の赦免を受けた。海賊全員では、次のようになる。





赦免　七十四名

死刑　五十二名

延期　二名

徴役　二十名

マーシャルシーへ送致　十七名

「レンジャー号」で戦死　十名

「フォーチュン号」で戦死　三名

コルソ岬へ護送中死亡　十五名

砦に収容後死亡　四名

両海賊船に乗り組んでいた黒人　七十名

計　二百六十七名





　私は、犯罪者の最期の行動や言葉が、わが国の一般人士にどのように受け入れられているか知らないわけではない。そこで、これら海賊たちの最期はどうであったか、特に注目すべきものを記しておこう。



ギニア海岸コルソ岬砦。ここでロバーツ一味が裁かれ、処刑された





* * *





　最初に刑の執行に呼び出されたのはマグネス、ムーディ、シンプソン、サットン、アシュプラント、およびハーディの六名だった。彼らは全員古参の海賊で名うての悪党だった。足枷を外し、絞首索をかけるために全員牢の外へ出されたとき、気落ちした様子のものは一人もいなかった。ただ一人、サットンは弱々しい声で話していたが、これは二、三日前獄中で赤痢にかかったためだった。船医だった一人の紳士が親切にも教戒師の役を申し出て、彼らの罪の深さと懴悔が必要なことを、力の及ぶ限り説いた。そして、裁きを認めなければならないと諭した。しかし彼らはこのような言葉には耳もくれず、水を飲ませろと要求するものや、衛兵に帽子をかぶせてくれと頼むものまでいた。この紳士がなおも返答を求めると、彼らは口々に法廷がきびしすぎると叫び、裁判官全員が自分たちと同じ目にあえばいいとさえ罵った。そして「俺たちはついてねえ。ほかの奴らがもっとひでえことをやりながら無罪になっているのによ、俺たちが吊されるなんてな」と言った。

　彼が被告らの心を宥めようとして、全世界に対する慈愛の心を持って死につくように説き、このような無益な会話をやめさせようとして彼らの生国、年齢等を尋ねると、あるものは「そんなことおめえに何の関係がある。俺たちは法律のおかげでこんな目にあったんだぜ。神なんかに何も話すことはねえよ」と答えた。そして、犯した罪を反省する涙ひとつ見せず絞首台まで歩いていった。それどころか、シンプソンなどは道の途中で自分が知っている女を見かけると、「俺はあの売女と三回寝たことがあるぜ。今日は俺が吊されるのを見に来たってわけか」と言った。またハーディは、後ろ手に縛られると（この土地の人々は犯罪人を刑場に連行するやり方を知らなかったため、こうなったのである）、「俺は吊される奴を何人も見たことがあるけどよ、後ろ手に縛られるなんてのはこれまで御目にかかったことがねえぜ」と言った。私はこれらの例を、彼らが死というものにいかに無知で無思慮だったか、そして彼らのすてばちな、神に見放された性質が遂に最期まで変らなかったことを示すために、ここに記したのである。

　サミュエル・フレッチャーはいったん死刑の宣告を受け、後に執行延期になった海賊である。彼は自分の立場をすぐ理解したようである。仲間とともに死刑の宣告を受けたとき、彼は典獄を通じて裁判官の慈悲を受けられないかどうか、謙虚な請願をした。そして、もし慈悲が受けられるものなら、自分は裁判官一同に限りない恩誼を感じ、自分の一生をもってしてもそれを返すことはできないと思うし、また死刑を逃れることができないのなら、なるべく早く苦しみを除いてほしいと請願の中で述べた。

　これらとは逆の海賊もいた。彼らは懴悔を聞いてくれるものや、精神的な助言を与えてくれるものに恵まれなかったにもかかわらず、残された時間を善良な目的のために費やし、信仰と懴悔の毎日を送った。スカダモア、ウィリアムズ、フィリップス、スティヴンソン、ジェフリーズ、レスリー、ハーバー、アームストロング、バンス、その他である。

　スカダモアは、死刑判決の主たる原因となった企ての愚かしさと罪深さに気付いたが、すでに遅すぎた。死から逃れられないとわかると、彼は二、三日の猶予を願いいで、聞き入れられた。こうして得た時間で彼は聖書に読み耽った。自分の罪を深く悔いているようだった。そしていよいよ絞首台に上るとき、彼は観衆に、讃美歌第三十一番の最初の部分を一緒に歌っていただけないだろうかと願い、彼自身は最後まで歌い通したのである。

　脱走水兵だったアームストロングだけは軍艦「ウェイマウス」号の艦上で死刑になった。彼の罪の釈明を聞こうとしたり悲しんだりするものはだれもいなかった。これは船乗りに対する見せしめであった。彼は最後の時間を、自分の罪を嘆き後悔しまた観衆に対しては、正直で良き生活のみが人びとに満足を与えるのだと説いて過ごした。最後に彼は、讃美歌第百四十番を一緒に歌ってほしいと言い、それが終ると、一発の銃声とともに、フォアヤードに縛られたまま絶命した。

　バンスは二十六歳にならぬ青年であったが、絞首台のもとでだれよりも感動的な演説をした。彼はまず、自分を海賊の仲間に誘い込んだのは力、自由、そして富という罠であったと論じ、自分は若くてその誘惑に勝てなかったのだと言った。彼は敏腕だったので、仲間の信望を得るに至ったが、このこと自体は、彼の快活な性格ともども、決して落度ではなかった。そしていま、彼は自分が全人類に対して犯した罪を思って、良心の呵責に苦しむようになり、人びとと神の許しを求めた。観衆に対しては、若者の心に神を教え、彼らをよく保護し、彼らの心が自分のように悪い方向へ向かないようにしてほしいと熱烈に訴え、「俺はあの絞首台の立つ岩にあって、航路を誤ろうとする船乗りたちに危険を知らせる標識となるのだ」と結んだ。

　以下に、（ロバーツ一味が最初に向かった）ブラジルについて紹介しておきたい。また、西インド諸島のわが商人たちがいささかの危険を伴うものの、この地でいかに有利な交易をしているかについて、私の友人が提供してくれた情報もあわせて紹介しておきたい。





ブラジル記





　ブラジル（「聖なる十字架」の意）は一五〇一年、ポルトガル王国のアルヴァレス・カフラルによって発見された。土地はほとんど赤道直下から南緯二十八度に及ぶ。気候は温暖で、西インド諸島と較べれば涼しい。土地が広く開け、強い風が吹いてもそれがさえぎられることはない。

　最も北の部分は幅百八十リーグの美しく肥沃な土地で、一六三七年ごろ、オランダ西インド会社がポルトガルから買い取った。しかし、宗教のないところではどこでも同じであるが、征服者たちはポルトガル人に過酷な税金を課し、また原住民に残虐の限りを働いた。このため、ポルトガル人と原住民は、オランダ人の管理の失敗も手伝って、すぐにでも反抗しそうな気配になった。そのころオランダはインド植民地に専念し、植民地総督モーリス伯を召喚したばかりか、砦の強化も怠った。一方ポルトガル人は本国から派遣された艦隊の増援を得、原住民にも支持されていた。しかしオランダ人はこの優勢な相手に対して一六四三年から一六六〇年に至るまでよく抵抗し、結局この土地を見棄てはしたが、ポルトガルに対しては屈辱的な条件を認めさせたのである。すなわち、オランダがこの土地を手離すにあたり、インドでオランダがポルトガルから奪った土地はすべてそのままとすること、そしてポルトガルはオランダに八千万ポンドを支払い、オランダ人に対しては従来どおりポルトガル王国臣民に対するのと同一条件でアフリカおよびブラジルでの貿易の自由を認めること、というのであった。しかしその後さらに新しい条項がつけ加えられた。それによれば、ブラジル貿易から完全に締め出されたオランダ人は、その代りに、アフリカ貿易に従事するポルトガル船から一割の貿易認可料を取るものとし、すべてのポルトガル船は奴隷の買い付けを始める前に当該料金をデスミナスにあるオランダ黄金海岸総督に支払う、というものであった。

　ブラジル沿岸の主要貿易都市はサンサルヴァドル（バイア）、サンセバスチャン、そしてペルナンブコの三つしかない。

　バイア・ロス・トドス・サントスのサンサルヴァドルは総督府の所在地でもあり、第一の貿易港である。金山から運ばれた金はここからヨーロッパに船積みされる。近海は鯨に富み、漁期には多数が捕獲される。肉は通常塩漬けにし、奴隷船の食糧にする。また油は一パイプ三十乃至三十五ミルレイスで輸出する。

　リオジャネイロ（サンセバスチャン）はポルトガル領の最南端に位置し、必需品の工面には不便なところであるが、鉱山に近く入植には都合よく、また奴隷を管理するにも便利な土地である。奴隷は普通その主人に日当一ドルが支払われ、それ以上の働きがあった場合は彼ら自身のものとなるということである。

　この土地に産する金は、その銅味を帯びた色により最高品質のものと評価されている。こことバイアには金貨鋳造工場がある。モイドール金貨には鋳造場所の頭文字が刻印されている。

　ペルナンブコは権勢において第二の、人口の多い大きな街である。河を六マイル遡った、いっそう快適だが交通と商業にはあまり便利ではない場所にあったオリンダという街が廃墟になったあとできたのである。街のすぐ上流で河は二つの支流に分かれ、そのまま海へは流れ込まず南へ向かっている。分流でできた島の陰に総督の邸宅がある。これはモーリス公が住んでいたもので、四角の簡素な造りの建物である。屋上には二つの塔があり、一六四一年と記されているが現在でも読める。ここに至る街路はいずれも高いココナッツの並木になっていて気持がよい。

　河の支流には橋がかかっている。内陸に通じる橋は木造だが、街へ通じる橋はオランダ人がかけたもので、二十六乃至二十八の弧を持つ半石造である。彼らの時代には娯楽のための店や賭博場はほとんどなかった。

　街の鋪道の一部にはタイルが敷いてあるが、これもオランダ人の征服の名残りである。街の背後には河の支流が流れ、前面には港がある。港には船荷の積み降ろし用の波止場があり、そこは商人や貿易業者が集う場所ともなっている。家々はしっかりとした造りであるが質素で、空気を入れるための格子がはめてある。ちょうどリスボンの家屋のようである。小部屋がなく、炉もない。人びとはかまどの上で煮炊きする。肉は非常に柔らかくなるまで煮込むから、ナイフ一本あれば十人分に切り分けることもできると思われる。

　ペルナンブコ（レシフェ）で最も不便なのは宿泊施設がないことである。だから、他所からこの土地を訪れる人は、一か月一ギニーで普通の家を借りなければならないのである。また、重要な用件でやってくる人びとは、それが秘密を要するものであれば、推薦状を持参しなければならない。

　市場には食料品が豊富に出回っている。牛肉は一ポンド五ファージング、羊または山羊は九シリング、七面鳥四シリング、そして鶏は二シリングである。これは私がこれまで見たこともないような大きなものだが、人を雇って外から持ってこさせればもっと安くなると思われる。ここで高価なのは水である。これはオリンダから桶で運んでくるが、泊地の船に積み込むときの値段は一パイプ当り二クルセードを下らない。

　この土地のポルトガル人はヨーロッパに住むポルトガル人より色黒である。これは気候ばかりでなく黒人との混血のせいである。黒人は大勢住んでおり、声望がありよい暮らしをしているものもいる。女たちは、他の土地の混血女と違い、他所者を好むようである。他所から来た男たちの情をかき立てることに興味を持っているらしい娼婦ばかりか、結婚している女でさえ、誘われればそれに応じなければならないと考えるのである。しかし奔放な男女関係の結果、彼らの多くは性病に感染している。しかもこれを治療したり軽くできる医者はここには一人もいないのである。医者の代りをするただ一人の人物はアイルランド人の神父であるが、彼は二、三の薬草の効能を知っているだけである。これと健康に適した気候、そして節制によって病気の悪化を防ぐしかないのである。しかし、ほとんどのものが膿んだり発疹したりするけれど、われわれが不慣れな水銀療法を受けている人びとの間によく見る悲惨な状態にまで陥ってしまうものは一人もいない。

　またこの土地には僧院が三つと教会が六つある。いずれも、豊かでもなければ立派でもない。ただ、この国の守護者である聖アントニオに献げられた教会は美しく塗られ、金色に輝いている。

　ブラジルの輸出品は、金以外には砂糖と煙草が主なものである。煙草は百ポンドをひと束にして出荷する。そして糖蜜と栽培地の土で絶えず湿気を与えるため強い独特の臭いを発する。これを嗅かぎ煙草にすると一層強烈である。嗅ぎ煙草はリスボン向けの輸出以外禁制となっているが、一ポンド二シリングで売っており、煙草もひと巻き六ミルレイで売っている。最上の砂糖は一ルーヴ約八シリング、糖蜜を原料にした下等なラム酒は一ガロン二テスチューンである。

　これら以外にも大量の木材、鯨油、ゴム、そして鸚鵡などが輸出されている。ブラジルの鸚鵡はアフリカ産のものと色形が異なる。アフリカ産のものは青く大きいが、ブラジル産のものは緑色で小さい。そして雌は野生の鳴き声のままで、話させるようにすることはできない。

　ポルトガルはこれらの物産を輸入するために、年一回リスボンから船隊を出し、ヨーロッパのあらゆる商品をこの土地に持ち込んでくる。この時期に仕入れができなかったり怠ったりしたものは、次の航海の時期がくる前に非常な高値で仕入れをすることになるのである。

　旅行者や奴隷あるいは商品をある土地から別の土地へ輸送したり、また漁をしたりするには、ブラジルの人びとがジンガダーと呼ぶ筏を使う。これは四本の材木（外側の二本が長い）を縛り合わせて両端をとがらせたものである。そして両端に椅子を置き、腰かけて漕ぐか、揺れが激しいときはそれにつかまる。さらに小さな三角帆を中央部に張る。この風変りな船で人びとは陸が見えなくなるまで沖に出、またどんな天候のときでも沿岸を幾リーグも航海するのである。そしてスコール（ごくあたりまえにある）に遭って転覆したら、乗組員は海に入って再び船をもとどおりにするのである。

　原住民は黒褐色の肌をし、髪は少ない。体つきはがっしりして筋肉質であるが、縮れ毛の種族ほど見栄えしない。彼らはポルトガル政府に黙従している。ポルトガル人はオランダ人より彼らを人道的に扱い、それによって内陸三、四百マイルにも及ぶ土地を領有し、平和をもたらしたのである。この土地は牧草に富み、牛が群れ、肥沃である。ここから鸚鵡、小猿、アルマジロなどを捕らえてくるのである。私は、もっと内陸のほうには、人びとがシボヤと呼び、羊を丸ごと飲み込んでしまうという大蛇が棲息していると思う。以前私は六ヤードもの長さの別の種類の蛇の皮を見たことがあるが、それからしてもこれはあり得ることだと考える。

　ペルナンブコの港はおそらく他に類がない。それは本土から半ケーブルほど突出しオーガスチン岬にまで及ぶ低い岩礁からできていて、大型船を受け入れることのできる港である。連続する岩壁はその北端で最も高くなっており、その上に小さな要塞が築かれている。そして砂州を通過して入港してくる船舶を監視しているのである。入港してすこし進むと右舷（本土側）にもう一つの要塞（五稜堡）があるが、よく訓練された数人の兵士にわけもなく落とされてしまう程度のものだと思われる。しかしこれらが港と街の防禦のすべてなのである。人びとはオリンダを撤退後、街をめぐらす城壁の建設を開始したが工事は遅々として進まず、完成までにはまだ日数がかかりそうである。

　港外の泊地は、ヨーロッパへの出帆が間近になったり、船団を待ったり、あるいはバイアへ向かうポルトガル船が利用する。外国船はやむを得ないときだけ利用するのである。最もよい泊地は街から北々西へ三マイルほどの地点にあり、水深は十尋ある。これより近いところはポルトガル船が投棄した錨が海底にごろごろしていて危険である。またこれより遠いところは水深十四尋であるが珊瑚礁や岩礁がある。七月は冬で、この沿岸は最悪の季節である。貿易風が烈しく吹きすさび、泊地には危険な大波が押し寄せる。毎日スコールがあり水平線は霞む。しかしそれ以外のときは空も澄み渡っている。

　南半球では、エルサレムの十字に似たところからそう名付けられた南十字星が輝く。これは南半球で最も明るい星座で、北半球の北極星のように観察される。しかし私が星座の話を持ち出したのは、マジェラン星雲のことを紹介したかったからである。これは南海の壮麗なみものである。マジェラン星雲は二つの星雲から成り、白く、せいぜい帽子ほどの大きさに見え、ここ南緯八度の地点では七月、朝四時ごろ観察される。仮にこれらの星雲がそれより上にある星体から放射する光を反射しているものとしても、なぜこれらが永続的かつ規則的な運動をするのか説明するのはむずかしい。

　ブラジルの国、街、沿岸そして海を説明しながら、この地における奴隷密貿易についてふれないのは片手落ちだろう。わが国の商人はだれもこの貿易で利を得ていないが、抜け目なくやれば安全に莫大な利益が得られるものと思われる。さらに、アフリカ南岸から西インド諸島へ向かう船は非常な回り道をしてまでブラジルに立ち寄るようなことはしないから、打撃を受けることもないのである。

　ポルトガル人にとって奴隷の買い付けが不利なのは、ギニア向けの適当な商品を持たないこと、そして彼らが最も頼みとする金が、一七二二年七月の法令で持ち出し禁止になったことによる。このため、鉱山での奴隷の非常に高い死亡率と需要に対し、雇船は極端に不足しているのである。しかも彼らが法を犯すような危険な行為に出たとしても（むろん彼らはそうしているし、そうしなければ奴隷を買うことができないのである）、金は商品と違い、遠路（特にアフリカ）まで運んだからといって価値が上るわけではなく、またオランダに対して協定金も支払わねばならないから、彼らはイギリス人、オランダ人あるいはフランス人が買い付けるほとんど二倍の値で奴隷を買うことになり、これがブラジルでの奴隷の値段を暴騰させるのである。

　このようにブラジルでは奴隷の需要が高い。ここで外国人、例えばイギリス人がこのような貿易をしようとするときに遭遇する困難と、それらを除去する方法を考えてみよう。障害は一部はポルトガル側に、また一部はわれわれの側にある。

　相手側の障害というのは、奴隷貿易が死刑をもって禁止されていることである。しかしこれは、罰金刑より効果が薄い。なぜなら、不適切で過度な罰則は警告の意味しかなく、当局が密貿易者をつかまえても、モイドール金貨八乃至十枚で見逃すことになるからである。そして、これが慣行となっているのである。

　一方、われわれの側の障害は、ポルトガルによる商品の没収である。しかし彼らは沿岸を警備する船を持っていないから、注意さえ怠らなければこれは最小限ですむであろう。

　さて、この土地で奴隷密貿易をしようとする場合、私なら、そのための情報を得るため、自分たちの船は海賊を追跡中の軍艦か私掠船だとふれ込み、食糧が欠乏したことにしてペルナンブコへ立ち寄る。海賊を恐れて人びとが街から逃げている間に、士官と幾人かの乗組員を総督のところへ遣る。総督は、この国で禁止されている物々交換によらず、かねを払うのであれば、必要な物資をすべて購入してよいという許可を与えるだろう。

　この最初の上陸がその後の商売の成否を決するのであるから、上陸するものには細心の注意と慎重さが必要である。彼は上陸するとたちまち野次馬にとりまかれ、「どこから来た」とか「どこへ行くのか」などと質問攻めにあうだろう。一緒に上陸する乗組員には、ギニアから来たが奴隷は一人も乗せていない、と答えるよう教えておく。奴隷は船倉に押し込めて外から見られないようにしておくのである。だが実際にはその必要もないだろう。なぜなら、奴隷を買うつもりの連中は、自ら事情を納得するだろうからである。

　総督に挨拶しているころには、われわれの噂は街中に広まり、自宅に招待してくれる商人がでてくる。彼は船に積んでいる奴隷のことやその値段を密かに知りたがっているのである。総督が手先を使ってこれを調査しようとするかも知れないが、こちらは紳士然としているのだし、また、いったん辞去したものをすぐまた引き止めるのもいかがなものかという判断もあって、嫌疑をかけられることはない。適当な見張りを立て、それとなく商人に知らせてやれば、商人とその仲間は二夜のうちに船から大部分の奴隷を陸に運んでしまう。値段は少年の奴隷でモイドール金貨二、三十枚、成年男子の奴隷で三、四十枚である。リオジャネイロのほうが危険は少ない。

　これ以外にも商人と渡りをつける方法はある。彼らは奴隷を積んだ船の到着を二週間以前に知るであろうから、どこか人気のない海岸で荷を降ろすことを示し合わせておけばよいのである。しかし値段が折り合わなかったか、ポルトガル商人がこの重大な違法行為が発覚し厳罰に処せられることを恐れたのか、理由はわからないが、従来この方法は成功したことがない。

　しかし、失敗したところで時間を失うだけで、ほかに特に危険もなく儲かる商売はやってみる価値がある。これはジャマイカから来るスペイン人たちが毎日やっていることなのである。





11　アンスティス船長と乗組員





　一七一八年、トマス・アンスティスはプロヴィデンスからスループ船「バック」号に乗り組んで出帆した。彼はこの船で海賊業に乗り出すことを企んだ六人の男の一人であった。他の五人は、プリンス島で殺されたロバーツの前任者ハウェル・デイヴィス、ブラジル沿岸で金品を満載したポルトガル船を捕獲したときに殺されたデニス・トッピング、海賊処刑場で絞首刑になったウォルター・ケネディー、そしてあと二人であるが、彼らは現在ロンドン市内で正業についているとのことであるから名前は伏せておく。

　アンスティスの海賊行為についてはすでに前の二章でもふれた。ここでは、この六人の男たちが、後にロバーツ船長のもとで恐るべき力を持つことになる一味のそもそもの始まりであったということに注意しておこう。一七二一年四月十八日、アンスティスは、ギニア沿岸での冒険を目差すロバーツのもとを離れ「グッド・フォーチュン」号を指揮して西インド諸島へ向かった。



アンスティス船長一味の模擬裁判（１７２５年オランダ語版より）





* * *





　七月中旬、一味はヒスパニオラ島とジャマイカの間の海域で、ニューヨークへ向かうマーストン船長の船を捕らえると衣料、酒、食糧を奪い、乗組員五人を仲間に加えた。しかし積荷には手をつけなかった。この航海ではほかにも二、三隻の船を掠奪して食糧を捕給し、仲間の増員を図った。これらの船のうちには、アイルランドのコークからやってきたロス船長の「アーウィン」号が含まれていたと思うが、一味はこれを否定しているから確言はできない。この船は牛肉六百樽、その他の食糧を積んでいたが、マルティニク島の沖で海賊の手に落ちた。船にはモントセラット島のドイリー大佐とその家族が船客として乗っていた。大佐は別の婦人船客を野獣のような海賊の手から助けようとしてひどい目にあわされた。二十一人の海賊どもはこの婦人に次々と狼藉を働いたうえ、最後に彼女を海に投げ込んでしまったのである。私は、このかつて聞いたこともない蛮行と残虐を働いた男たちがアンスティスの乗組員であったと確言はできないと言ったが、被害者の証言する事件の場所、時間、海賊船の大きさ、一味の人数等の情況が一致し、他に凶行の場所もないところから、連中の犯行と疑えるのである。

　この航海にきりをつける潮時と考えた一味は、ある島に入港して何の邪魔もうけず船の補修を行なった。再び海に出た一味はバーミューダ諸島へ足をのばし、そこでギニアからカロライナへ向かっていた「モーニング・スター」号を拿捕するとそれを乗っ取った。一両日後、バルバドス島からニューヨークへ向かっていた船が一味の餌食になった。アンスティスはこの船の大砲と船具を「モーニング・スター」号に移し、それに百人の仲間を乗り組ませて海賊船に仕立てた。そして手下のジョン・フェンという男を船長にした。「グッド・フォーチュン」号のほうが「モーニング・スター」号より弱小であったが、アンスティスは足の速い自分の船に非常な愛着をもっていたので、捕らえた大型船を手下で砲手のフェンに譲ったのだった。

　二隻の船に十分な手勢を乗り組ませた海賊一味は、新たな冒険に乗り出せるかにみえた。ところが執行部が不満分子にかき乱され、一味は仲間割れして立ち直れないほどの状態になってしまった。一味には新入りが多く、彼らは海賊業にさほど熱意を持っていない様子だった。船長の提案はことごとく反対され、冒険の計画を決行するには到らなかった。そこで、多数の意向に従って仲間を解散するしかなかった。しかし、そうするにしても、一味の安全を図らねばならない。このためさまざまな案が出されたが、結局、国王の赦免を求める請願書を本国へ送り、その返事を待とうということになった。（当時、海賊赦免法は実施されていなかった。）そして「グッド・フォーチュン」号の甲板長ジョーンズの提案に従って、キューバの近くにある無人島に一時身を潜めることにした。彼は、先の戦争中、スペインに対する私掠船に乗り組んでいて、この島をよく知っていたのである。

　一味は次のような請願書を作成し、それに全員が円形に署名をした。これは主謀者がだれかわからなくするための措置であった。





神の御恩寵により大英帝国、フランスおよびアイルランドの王であり信義の擁護者であらせられますジョージ国王陛下

海賊という汚名を着せられた私たち「モーニング・スター」号および「グッド・フォーチュン」号の二隻の船の乗組員一同は、伏して以下の請願をいたしたく存じます。

陛下の最も忠実なる臣民であります私たちは、さまざまな時期に、もとこれら二隻と、もう一隻の船の船長であったバーソロミュー・ロバーツに捕らえられましたが、後に彼のもとを離れました。ロバーツはわれわれに海賊の仲間に入り、そこで働くよう強要しました。これはまことに私たちの意に反することでありました。陛下の忠実な臣民たる私たちは、そのような不敬な稼業を忌み嫌い、一同相談のうえ、一七二一年四月十八日ごろ、国王陛下の寛大なる赦免を得ることのみを希望して、上述「モーニング・スター」号およびブリガンティーン船にて、ロバーツのもとから離脱したのであります。陛下の最も忠実なる臣民である私たちは、母国へ帰り、私たちが無理やりロバーツ一味の仲間にされていたとき一味の被害に遇った人びとから仕返しを受ける心配なく、それぞれの持分に従って祖国に奉公したいと存じます。一同衷ちゆう心しんより、陛下の御寛容を願うものであります。



再　拝





　一味はこの請願書をジャマイカからイギリスへ向かう商船に託した。この船の船長は、イギリスからの帰路、一味の隠れている島の風下二十リーグの付近を通るから、そこで請願書が受け入れられたかどうか知らせると約束した。約束が成ると、一味は二隻の船に乗って予定した無人島に向かった。

　この島はキューバ南西端の沖にあり、人は住まず、立ち寄る船もほとんどなかった。島の東端は潟になっていて、入口は船が一隻やっと通れるほどの幅しかなかったが、奥行は一リーグ近くあり、水深も十五乃至二十二フィートあった。潟の両岸には入口もわからぬほどマングローヴの木が鬱蒼と茂り、中へ入った船は容易に発見されなかった。島の中央部にはそこかしこに高いパインの樹々が密生して小さくこんもりした森をなし、また別の種類の樹木も散見された。

　一味はここに九か月間滞在した。その間に食糧が尽きたため、この島の産物を採って暮らさなくてはならなくなった。島では数種類の魚と海亀がとれたが、特に海亀は豊富で、彼らの主食となった。西インド諸島でごく普通に見られる野生の豚や牛、その他の動物がこの島に棲息していなかったのか、海賊どもがめんどうがってそれらを狩猟しなかったのか、あるいは他の食べ物のほうを好んだためか理由はわからないが、後日、彼らは、獣肉やパンをまったく口にしなかったと私に語った。彼らは船に大量の米を積んでいたから、それを煮てからこねて天日で乾かし、パンの代用にして海亀の肉といっしょに食べたのだという。

　西インド諸島には数種類の海亀が棲息しているが、最も大きなものは体重百五十乃至二百ポンド以上にもなる。しかし、この島で採れるのは最も小さい種類のもので、体重十乃至十二ポンドにしかならない。そして美しい甲羅を持っている。肉はすこぶる旨く、ある部分は鶏肉のようであり、また、ある部分は仔牛の肉のようである。だから、海亀の肉だけでさまざまな味を楽しめ、海賊たちは何ら不自由を感じなかったのである。海亀をとる方法がまた独特である。海亀は五月、六月そして七月に産卵のため岸に上ってくる。雌は一度に八十乃至九十個の卵を産むが、雄も雌につきそって岸に上る。岸に上るのは夜に限られる。狩猟者は亀が上陸すると甲羅を下にして、満潮線の上まで引っぱって行き、翌朝までそこに放置しておくのである。亀は自分でもとの姿勢に戻ることはできず、またそこから移動することもできない。産卵時期以外にも餌を求めて亀は岸に上ってくるが、子を育てるときは棲息地を二、三か月離れて別の地へ行く。この間は何も食べていないらしい。

　一味はこの土地で飲んだり踊ったりしながら愉快に過ごした。彼らの楽しみの一つに模擬裁判があった。この裁判では仲間一人ひとりを被告に見立てて、ある日被告になった男は別の日には裁判官になるのであった。私はこの愉快な裁判の話を聞いて大層面白かったので、読者諸氏にもそれを簡単に話しておこうと思う。

　裁判官と被告、そして弁護士の役が決まると、裁判長は背から汚い防水着ターポリンをかけて木に登り、一段高い場所に陣取る。防水着は法衣のつもりである。彼はまた帽子を被り、特大の眼鏡を鼻にかける。こうして身仕度した裁判長の回りには杖の代りに思い思いの棒を手にした高官たちが並ぶ。これ以上の渋い顔は作れないといった表情の被告が連れてこられると、法務長官役の男が起訴状を朗読する。彼らの演説は簡潔を極め、裁判全体も簡略である。以下にこれを会話の形で記そう。





　法務長官「裁判長閣下並びに裁判官の皆様方。ここにおりますのは、救いようもないやくざでならずものの悪党であります。本官は、裁判長閣下がこの悪党に即刻絞首刑の判決を下されることを希望いたします。此奴は公海上で海賊行為をしたのでありますが、閣下、よく御聞き下さい、数えきれぬほどの嵐に遭い、乗っていた船は難破したにもかかわらず、悪運強くここに生き延びているのであります。これは此奴が水死する運命には生まれついていない証拠であります。そればかりか、首吊りになることを恐れる様子もなく男、女そして子供に暴力を振るい、船の荷を掠奪し、船を焼き払い、また沈め、まるで此奴の心には悪魔が棲んでいるかのようであります。しかし、閣下、此奴の悪行はこれに尽きるものではないのであります。いっそう邪なことに、この男は酒をまったく嗜みません。閣下も御承知のように、酒を飲まないような男に碌な奴のいたためしがありません。閣下、本来ならば本官はもっとうまく演説できるのでありますが、生憎われわれはラム酒を切らしてしまったのであります。酒を少しも飲まずに真面目な法律の話をうまくすることがどうしてできましょうか。しかし本官は、閣下がこの悪党に絞首刑の判決を下されることを希望いたします」

　裁判長「おい、そこのしらみだらけの情けないみすぼらしい男、よく聞け。かかしのように吊されて日干しになる前に、何か申し述べることがあるか。おまえは有罪か無罪か」

　被告「無罪です。閣下」

　裁判長「無罪だと。もう一度その言葉を言ってみよ。即刻、裁判にもかけずにお前を縛り首にするぞ」

　被告「どうぞ閣下、お聞き下さい。私は船の船首と船尾を往き来して帆を操ったりロープを結んだりしていた正直な船乗りでした。でもある日、名うての海賊ジョージ・ブラッドレー（裁判長を務めている男の名前）につかまってしまったのです。奴は縛り首にもならずに生き延びている碌でもない悪党で、私を無理やり海賊の仲間にしたのです」

　裁判長「こら、わしの質問に答えろ。おまえはどのような裁きを受けようと言うのだ」

　被告「神と祖国の裁きを受けます」

　裁判長「何という罰あたりだ、おまえという奴は。陪審席にいる皆の衆、わしらのなすべきことは、もはや判決を下すことだけだと思うが、いかがなものかな」

　法務長官「まことにおおせのとおりであります、閣下。此奴をしゃべらせておいたら、身の証を立ててしまうかも知れませんし、そうなれば本法廷を侮辱することになります」

　被告「お願いいたします、閣下。どうか御一考下さい」

　裁判長「考えよだと。一体何とたわけたことを申すか。わしは生まれてこのかた考えるなどということはしたことがないのだ。わしは、考えることは大逆罪に等しいと思っておる」

　被告「でも閣下、私は閣下に私の弁明を聞いていただきたいのです」

　裁判長「悪党のたわごとを聞けというか。そんな理屈を聞いて何とする。わしはおまえのことを十分知っているぞ、悪党。わしらはおまえの弁明を聞くためにここに座しておるのではないのだ。わしらは、法に従ってふるまう。飯の用意はできておるか」

　法務長官「できております、閣下」

　裁判長「ではならず者の悪党、よく聞け。おまえは三つの理由で有罪である。第一、わしが裁判長としてこの席についた以上だれも縛り首にしないわけにはいかない。第二、おまえは薄汚く縛り首にふさわしい面をしておる。第三、わしは腹がへっておる。従って、おまえは縛り首である。裁判が終る前に裁判長の食事の用意ができたときはいつでも被告を絞首刑にするのがしきたりである。これがおまえのようなごろつきに対する法である。看守、こいつを連れて行け」

　以上が、海賊どもが私に話してくれた模擬裁判の様子である。彼らは、絞首刑という身のちぢむような恐ろしいことを、こうして物笑いの種にしていたのである。





　一七二二年八月初め、ブリガンティーン船の航海準備が整うと、海賊一味は沖へ出てジャマイカ航路をたどり、使者の船に追い付いた。しかしイギリスでは彼らの期待していたようには事が運んでいないことがわかった。一味はこの悪い知らせをもって、再び島の仲間のところへ戻った。このころ彼らは必需品にも事欠くようになっていた。そこで再び海賊稼業を続けざるを得なくなった。一味は、「グッド・フォーチュン」号と「モーニング・スター」号に乗って南へ向かった。翌日の夜、ひどい不注意のため「モーニング・スター」号がグランドケイマン島に乗り上げ、めちゃめちゃに壊れてしまった。僚船の難破を見たブリガンティーン船はすぐさま船首をめぐらし、島を回避した。翌日、アンスティス船長が島の入江に入ってみると、難破した仲間は岸に打ち上げられていて、大部分のものは無事だった。船長は彼らを収容するために投錨した。「モーニング・スター」号の船長フェン、大工フィリップス、その他数人を「グッド・フォーチュン」号に乗船させたとき、二隻の軍艦「ヘクター」号と「アドヴェンチャー」号が近づいてきた。海賊船はすぐさま錨索を切り、沖に出た。軍艦の一隻が数時間にわたり海賊船を追尾した。風が強くなり、軍艦が優速になったのをみて、アンスティスと乗組員は動顛した。このままでは二時間余りもすれば一味は捕らえられてしまうに違いなかった。しかしこのとき神は一味にしばしの猶予を与え賜うた。風が凪ぎ、一味はオールを使って危うく軍艦から離脱することができたのである。

　一方「ヘクター」号は兵を島に上陸させ、残っていた「モーニング・スター」号の乗組員四十人を捕虜にした。彼らは一切抵抗しなかった。それどころか、自分たちは無理やり海賊の仲間にされたので、こうして海賊から離れることができてうれしい、と言った。幾人かは森の中に逃れ、発見できなかった。マスターのジョージ・ブラッドレーほか三人は後にバーミューダ島のスループ船に投降し、島に連行された。

　敵から逃れたブリガンティーン船は、ホンジェラス湾近くの小島に入港して船の清掃と修理を行なった。途中の航路で、ダーフィー船長の指揮するロード島のスループ船その他二、三隻を捕獲した。一味は捕らえた船は沈めたが、乗組員は全員海賊船に乗せた。

　海賊が船を修理している間に、捕虜になったダーフィー船長と幾人かの乗組員、そして二、三人の海賊が集まって、一味の指導者を幾人か捕らえ、ブリガンティーン船を奪って逃げることを計画した。この陰謀は船の出帆準備が成る前に発覚し、不成功に終った。しかしダーフィー船長ほか四、五人の同志はいくらかの武器弾薬を持って上陸し、一味のカヌーが水を補給しにやってきたところを拿捕した。これを知ったアンスティスは、別のボートに三十人の手勢を乗り組ませてダーフィー船長の討伐に向かわせた。しかしダーフィー船長と彼が捕らえたカヌーの連中はすでにこのとき結託していて、激しく応戦してきた。このため追手は船に逃げ戻らざるを得なかった。

　一七二二年十二月初め、アンスティスはこの地を離れ、仲間を増強すべく再び西インド諸島に向かった。最早、引き返すことは不可能だった。この航海で彼はスミス船長が指揮していた優秀船を捕らえると、それに二十四門の砲を積み、「モーニング・スター」号の船長だったフェンに指揮を任せた。彼らは連れ立って航海し、途中、一、二隻の船を掠奪してバハマ諸島に到着した。ここで一味が待ち望んでいた食糧を積んだ船に遭遇した。ダブリン航路の「アンティロープ」号だった。

　一味はどこか適当な場所で捕獲したフリゲート船を修理し、海賊船としての装備をしなければならなかった。彼らはトバゴ島を選び、一七二三年四月初旬「アンティロープ」号を伴ってこの島に到着した。

　一味はすぐ作業にかかり、大砲その他積荷一切を陸揚げした。ちょうどこのとき、運悪く軍艦「ウィンチェルシー」号がこの島に立ち寄ったのである。海賊どもは不意をくらって慌てふためき、修理中の船とスループ船に火を放つと島に上陸し、森の中に逃げ込んだ。ブリガンティーン船に乗っていたアンスティスは快速を利して脱出したが、仲間の秩序はすでに乱れ、それを立て直すことは不可能だった。海賊業に嫌気がさした幾人かの新入乗組員が、ハンモックに寝ていたアンスティス船長を射殺し、次いで操舵手その他二、三人の主だったものを殺して彼らの統治に終止符を打ったのである。残った乗組員はこの男たちに降伏した。彼らは乗組員に足枷をかけてオランダ植民地クラコアで投降し、そこで海賊乗組員と船を植民地政府に引き渡した。乗組員はこの地で裁判を受け絞首刑に処せられた。一方、船ごと投降してきた男たちは放免されたのである。

　さて、フェン船長はどうなったであろうか。彼は例の災難に遭って一、二日後、抵抗も空しく部下の砲手その他三人の仲間ともども軍艦の乗組員に捕らえられ、アンティガに送られた。そこで全員処刑されたが、特にフェンは鎖にかけられて縛り首になった。捕らえられず島に残った連中は、見張りを一人残してしばらく森に潜んでいた。ついに、小型スループ船が島に寄港した。一味は、二、三人の黒人を残して全員これに乗り込んだ。新たな冒険に乗り出す気はすでになく、イギリスに向かうことに意見が一致した。十月、ブリストル海峡に到着した一味はそこでスループ船を沈め、上陸するとそれぞれの家を目差して散っていったのである。





12　ウォーレイ船長と乗組員





　ウォーレイ船長が海賊として権勢をふるった時期は短かった。しかし、彼は海賊として独自の出発をした。八人の仲間とともに、小さなボートに乗り組んでニューヨークから船出したのである。かつて海賊稼業に乗り出したどの男たちにも劣らない強い決意をした乗組員たちだった。一七一八年九月末、彼らは少量のビスケットと乾燥肉、小さな水樽、そして旧式のマスケット銃六丁と弾薬をボートに積むと、ニューヨークを後にした。しかしこのような船で長い航海や大それた冒険ができるわけもなく、一味は沿岸をおよそ百五十マイル離れたデラウェア河まで南下した。途中一隻の獲物にも出合わず、一味はこの河をニューキャッスルまで遡った。そこでフィラデルフィアに家庭用品や食器類を運んでいたジョージ・グラントの小型船を襲った。一味はこの船からめぼしいものを掠奪した後釈放した。これは公海上で行なわれた掠奪ではなかったため、海賊行為にはあたらず、単なる窃盗であった。しかし、この大胆な冒険者一行にとっては法律的な議論などどうでもよく、シャロップ船の荷を軽くしてやると再び河を下った。

　シャロップ船はフィラデルフィアへ直行し、海賊一味のことを伝えた。植民地政府は、まるで自分たちが宣戦布告を受けたかのように驚き、警戒した。火急の使者がニューヨークその他の街に派遣された。手強い海賊一味を討伐すべく数隻の船が準備されたが無駄だった。どの船も、数か月間海賊を追い求めたが、一味の情報を得ることもなく戻ってきた。

　ウォーレイ一味は河を下る途中でフィラデルフィアのスループ船を捕らえた。これは、彼らがブラック・ロビンと呼ぶ黒人と白人の混血男の持船だった。一味はいままでのボートからこの船に乗り換え、シャロップ船のときと同じように船の乗組員を三人仲間に加えた。このうち二人は黒人だった。一味の勢力は十二人に増大した。一、二か月後、海賊はハル船長のスループ船を獲物にした。これはよりいっそう一味の目的に適っていた。船には食糧その他必需品が積まれていたから、一味は望むままに企てを進めることが可能になった。

　海賊の成功を知らされた植民地総督は、国王陛下の海賊赦免期限までに投降することを拒絶した海賊を残らず逮捕するよう布告した。同時に、サンディフックに碇泊していた備砲二十門の軍艦「フェニックス」号に出港命令を下した。海賊を追跡し、また沿岸植民地の交易の安全を守るのがその任務だった。

　さて、海賊はスループ船を捕らえたおかげで、当面危ういところを助かった。というのは、このスループ船は最近船底の清掃をしたばかりで、食糧その他も十分に積んでいたから一味は外洋に出たが、「フェニックス」号は海賊がまだ沿岸にいると思っていたのである。こうして一味は軍艦を出し抜いたのである。

　一味はバハマ諸島でスループ船とブリガンティーン船を捕らえた。スループ船は沈め、他は釈放した。スループ船はニューヨークの船だったため、母港に戻って一味のことを告げられるのを防ぐには沈めてしまうのが得策だと判断したのだった。こうしておよそ六週間後、海賊はアメリカ沿岸に戻ってきた。

　このころにはウォーレイの仲間は二十五人ばかりになっていた。大砲八門のほか多数の小火器を持ち前途洋々といった状態であった。ウォーレイは黒地に白く髑髏を染抜いた海賊旗その他海賊船に似つかわしい旗を作った。一味は全員掟に署名し、決して敵に命乞いをしたりはせず、最後の一人まで戦うことを厳粛に誓った。そして、これは間もなく完遂されることになるのである。

　海賊船がノースカロライナの入江に入って傾船しているという知らせを受けた植民地総督は、備砲八門および六門の二隻のスループ船におよそ七十人の討伐隊を乗せ出帆させた。ウォーレイは船の清掃をすますと、カロライナのスループ船が近づく前に出帆し、北へ針路をとった。しかし二隻のスループ船も同じ航路をたどり、ヴァージニア岬沖を進む海賊船を発見した。一方、ウォーレイもこの二隻のスループ船を認めると直ちに船首をこの船隊に向けた。彼は二隻の船を追手とは知らず、ジェームズ河へ向かうものとばかり考えていたので、その針路を断とうとしたのである。

　二隻のスループ船は同時に船首を岬へ向けた。ウォーレイは海賊旗を掲げた。これを見ていたジェームズタウンの人々は仰天した。三隻の船が全部海賊船で、街を襲いにきたと思ったのである。泊地にいるすべての船舶に対し、危険を避けて直ちに岸の近くにくるか、あるいは戦えるのであれば防戦の用意をするよう命令が出された。偵察に出した二隻のボートが戻ってきて、海賊船の一隻は砲六門を備えた小型スループ船で、すでに湾内に入っていると報告した。植民地総督は、他の二隻も続いて入港し、一味は上陸して街を掠奪しにくるだろうと考え、集めうる限りの兵力を召集して海賊を迎え撃つ準備をした。そして、碇泊中の船の大砲をすべて取り外して砲座を作るよう命じた。こうして全植民地は臨戦態勢に入った。しかし海賊船だと思っていた三隻が互いに戦いの火蓋を切るのを見て、人びとは前にも増して驚いた。

　事実はこうである。ウォーレイは、二隻の獲物が湾に入ったところを捕らえようと考え、先に湾に船を進めた。しかし相手がイギリス国旗を掲げて発砲するのを見て、自分の間違いに気付いた。形勢は一転して自分に不利になったことがわかった。相手を制圧するどころか、はるかに優勢な敵に封じ込められてしまったのである。事態をのみこむと、海賊は決死の防戦準備をした。そして乗組員の四分一の反対はあったけれど、前に誓いあったように、敵に命乞いをしたりはせず、最後の一人まで戦うことを決意した。一味には死か勝利かの選択しかなかった。

　カロライナの軍艦は海賊船に一斉に砲撃を浴びせた後、一隻は船尾、他の一隻は船首に接舷して、兵を敵船に斬り込ませた。ウォーレイと乗組員は甲板から一歩も退かず、頑強に抵抗し、激しい白兵戦を展開した。数分もすると多数の男たちが血の海の中に斃たおれているという惨状を呈した。海賊たちは彼らの誓いを守った。命乞いしたものや、あるいはその申し出を受けたものは一人もいなかった。船長ともう一人の乗組員、および重傷者以外は全員戦死した。生き残った二人は、翌日、すなわち一七一九年二月十七日、足枷をかけられて陸に連行され、そこで縛り首になった。人びとは、海賊どもが牢で死んで、彼らの罪にふさわしい罰を逃れるのを恐れたのであった。





補　遺





　現在執筆中の「海賊列伝」は分量も多く、内容も多岐にわたっているから、筆者は個々の事件について、まま不正確な記述もあるであろうことを認めるに吝かではない。筆者が割愛したり間違ったりした部分について、大方の御教示を願う次第である。訂正乃至追加は、補遺として巻末に収める予定である。

　以下の手紙を下さった読者に厚く感謝する。筆者は、本書をできる限り完全なものにするつもりであるが、これが非常に困難な仕事であり、読者の親切な援助は大いに役立つのである。





「海賊列伝」著者ジョンソン殿



　拝　啓

　私は貴著「海賊列伝」を拝読いたしましたところ、ウォーレイ船長と乗組員に関する記述中に、かなりの誤りを発見いたしました。一般読者も誤解していると思いますので、僭越とは存じますがお知らせいたします。すなわち、同海賊は、サウスカロライナのチャールストン湾において、当時植民地総督であったロバート・ジョンソン大佐自らの手で捕らえられたのですが、このときのことを、以下に説明いたしたく存じます。なお、この海賊の起りと隆盛については、貴著にあるとおりです。

　一七一八年十月、植民地総督ジョンソン氏は、ムーディーという男が率いる備砲五十門、乗組員二百人近い海賊船がチャールストン湾沖に現われたという知らせを受けました。ムーディーは、ニューイングランドからこの港へ向かう船をすでに二隻捕らえ、それらの船とともに湾の南の沖に碇泊しているとのことでした。そこで総督はこの土地の主だった人びとを召集し、討伐隊を編成して海賊を撃滅することを提案しました。総督は、ティーチやヴェインのときのように、一味がこの地に逗留し、交易を妨げるのを心配したのです。一同はこの提案に異議なく賛成しました。当時、チャールストンの港には十四、五隻の船が碇泊していましたが、総督はアーサー・ローン船長のギャレー船「メディタレニアン」号、ジョン・ワトキンソン船長の「キング・ウィリアム」号、そして二隻のスループ船を討伐船に徴用しました。スループ船のうち一隻は「リヴェンジ」号と言い、先に海賊スティード・ボネットから捕獲したもの、もう一隻はフィラデルフィアからきた船でした。スループ船を指揮していたのはジョン・マスターズ船長とフェイア・ホール船長でしたが、彼らはおよそ一か月前、同じスループ船を指揮してフィア岬でボネットを捕らえていました。「メディタレニアン」号の備砲は二十四門、「キング・ウィリアム」号は三十門、「リヴェンジ」号は八門、そしてもう一隻のスループ船は六門でした。総督は乗組員を募り、戦利品はすべて自分たちで分配してよいこと、そして彼自身も討伐に同行することを約束しました。しかし二隻の船と二隻のスループ船は徴用されたのですから、当然のことながらそれらの船長は、万一のことがあった場合は船の持主に満足のゆくような措置を講じてほしい、と申し出ました。これは総督の一存では決められないので、彼は植民地議会の総会を召集しました。議会は船が失われた場合は正当な評価に基づいて持主に損害額を支払うこと、また遠征に要した費用も支払うことを、満場一致で決議しました。この手続きに一週間要しましたが、その間、総督は偵察用のボートを数隻配備し、それらに河を上下させて、海賊が上陸するのを防ぐとともに、こちらの情報が一味に漏れないよう気を配りました。同時に船の出港を一切禁止しました。

　総督が出帆する三日ほど前に、泊地の沖に一隻の船がスループ船とともに姿を見せました。そしてそこに投錨すると、水先案内を求める信号を送ってきました。しかし総督はこれをムーディー一味とそのスループ船だと思い、水先案内人が彼らに近づくことを禁止しました。一味は四日間碇泊していましたが、後に彼らが語ったところによれば、その間一、二回、サリヴァン島と呼ぶ島にボートで水を補給しに行こうとしたそうです。彼らはすっかり水を切らしていたのです。しかしボートは偵察隊に阻止され、やむなく同じ場所に留まっていました。そして食糧にも困るようになっていたため、窮状を救ってくれそうな船が通りかかるのを待ち望んでいました。

　討伐隊の準備が整い、四隻の船に三百人の志願者が乗り組むと、総督は、自ら備砲五十門の船に乗り、しかもスループ船まで従えているムーディーと雌雄を決すべく、船隊を率いて出帆しました。船隊はジョンソン砦の下で一夜を過ごし、翌朝、空が白みはじめると錨を揚げて、八時ごろには湾外に出ました。

　海賊のスループ船は直ちに錨綱を解き放ち、海賊旗を掲げると砂州と総督の船隊の間に割って入りました。船隊が一味を恐れて湾へ戻るだろうと思い、それを阻止するつもりだったのです。これに続いて海賊の本船も黒旗を掲げ、スループ船に後続しました。その間、総督の船隊の乗組員たちは甲板に姿を見せず、一味の射程内に入るまで砲も隠していました。総督が「メディタレニアン」号のメインマント高く軍艦旗を掲げると同時に、討伐隊の船は全船、隠していた大砲を露わにし、海賊一味に一斉射を浴びせました。海賊船も即座に応射しました。総督は二隻のスループ船に、岸に向かっていた海賊のスループ船を追撃するように命じ、自らは「キング・ウィリアム」号とともに、僚船とは逆に沖を目差していた海賊の本船を追跡しました。この船は多くの砲門を持ち、乗組員も大勢いるように見えましたが、たった二門の大砲しか発射しませんでした。「メディタレニアン」号上の総督は、この船をずっとムーディーのものだと思っていましたから、なぜ敵が全砲門を開けて応戦しないのかひどく訝しく思いました。

　海賊のスループ船はウォーレイのものとわかりましたが、二隻のスループ船の激しい攻撃に晒されました。このためウォーレイと数人の乗組員以外は全員甲板の下に身を隠しました。残ったウォーレイらは戦死しました。スループ船の乗組員は海賊船に乗り移り、これを拿捕しました。戦闘の一部始終はチャールストンの街から見えるところで行なわれ、人びとは家の屋根に上ったり、港に碇泊している船のマストに上ってこれを見物したのです。総督の「メディタレニアン」号と「キング・ウィリアム」号が海賊の本船に追い付いたのは午後三時でした。海賊船は追撃されながら旗を降ろし、それに小火器をくるんで海に投げ捨て、またボートやその他のものも投棄し、船足を軽くしようとしました。しかし結局は無駄でした。「キング・ウィリアム」号が最初に海賊船に追い付き、迫撃砲を発射しました。この砲撃で海賊船の甲板にいた数人が殺され、一味は投降したのです。拿捕してみて驚いたことに、この船には男ばかりでなく大勢の女が乗っていました。これは、囚人を護送してロンドンからヴァージニアへ向かっていた「イーグル」号だとわかりました。そして航海の途中、ヴァージニア岬沖でウォーレイに捕らえられたのでした。船には男百人、女三十人が乗っていました。男たちの多くは海賊の仲間に加わっていたため、本国で受けたであろうと同じ運命がカロライナで待っていたのです。つまり、彼らはチャールストンで絞首刑に処せられたのです。海賊は、貞淑な婦人たちをバハマ諸島の、ある無人島に降ろすつもりでした。この島には海の紳士たちが骨休めに立ち寄るのに適した良港があったのです。ですから、海に出るのに十分な食糧と水さえ手に入れば、彼らはこの島でまことに願ってもないコロニーを建設することができたでしょう。しかし運命の女神は彼らをあまりの長期にわたってチャールストン港外に引き留めました。そして、以上お話ししたように、彼らは全滅し、その邪な生涯に終止符をうったのです。

　討伐隊の準備がムーディーに知られないよう総督が細心の注意を払ったにもかかわらず、幾人かの悪い連中が夜中にこっそり岸を離れ、海賊に追手の情報を知らせました。ムーディーは総督が出帆する三日ほど前、マデイラからワインを積んで航海してきたスマイター船長の「ミネルヴァ」号を拿捕していましたが、これを聞くと直ちに錨を揚げ、獲物の船を連れたまま百リーグほど沖へ出て、そこでこの船を掠奪しました。彼は「ミネルヴァ」号に積んであったワインをほとんど全部奪ってしまうと船を釈放し、その後プロヴィデンスへ向かい、しばらくして国王の海賊赦免の布告の恩恵を受けたのです。一方、ウォーレイは、ちょうどムーディーの去った後にやってきて、ムーディーのために用意された運命を彼の代りに受けてしまったのです。

　総督は、ムーディーが再び戻ってくることを期待して、しばらくの間、船をすぐ出帆できる状態にしておきました。しかし、海賊はプロヴィデンスへ向かったと「ミネルヴァ」号から知らされたので、約束どおり戦利品を乗組員に分け与え、直ちに彼らの任務を解いたのです。

　ボネットの逮捕に関する貴殿の記述はまったく正確です。彼の逮捕もジョンソン総督の命によるものでした。





13　ジョージ・ロウザー船長と乗組員





　ジョージ・ロウザーは、王立アフリカ会社の船「ガンビア・キャッスル」号に乗り組んでテームズ河を船出した。船は十六門の砲を備え、乗組員は三十人だった。船長はチャールズ・ラッセル、ロウザーは二等航海士だった。この船にはジョン・マッシー大尉が率いる兵士の一団が乗っていた。彼らは、ガンビア河沿岸にある王立アフリカ会社の入植地の一つに行き、そこの砦を守備する任務を帯びていた。この砦は先ごろ海賊デイヴィスが占領し、破壊した場所であった。

　一七二一年五月、「ガンビア・キャッスル」号は無事目的の港に到着し、マッシー大尉の一隊をジェームズ島に上陸させた。大尉は、別の船で到着した総督ホイットニー大佐のもとで指揮をとることになっていた。だがここで、軍人とアフリカ会社の人びとの間に大きな誤解が生じ、その結果アフリカ会社は再び砦を失ったばかりか、十分な装備をし、一万ポンドの価値はある立派なギャレー船の謀叛まで招いたのである。

　植民地総督と大尉という名称は大いに喧伝されていたけれども、その地位に付随する権力は、実際には土地の商人と商館が握っていることがわかり、彼らはひどく苛立った。特にマッシーは、彼と部下に対して支給される食糧が少ないことが大いに不満だった。大尉と総督は土地の商人から食糧の供給を受けていて、これが彼らにとって少なからず不満であり屈辱だった。偉大なサンチョが、ただ食べ物が足りなかったがために主人の許を去ったように、彼らにとっても食い物がうらみだった。「私はこの土地にギニアの奴隷になるために来たのではない。私は部下にも、兵士にふさわしい待遇と給与を約束していたのだ。私は国王陛下の多くの臣民の安全を守る責任がある。だから、もし諸君がわれわれに相当な支給をしないのなら、私は同胞や部下を保護するため、適切な措置を講ずるつもりだ」とマッシーは商人らに言った。

　このとき総督は熱病にかかって「ガンビア・キャッスル」号で静養していた。船上生活が三週間ほど続いたため、彼はこの争いに何も口をはさむことはできなかったが、自分の権限がひどく制約されているような土地にはこれ以上滞在すまいと決意していた。確かに、商人たちは砦に食糧を供給するよう王立アフリカ会社から命ぜられていたのである。同様なことは全沿岸で行なわれていた。商人らが食糧の上前をはねたのかどうか、筆者の知るところではないが、仮にそうだとすれば、船と砦を失った責めは第一に彼らの汚行に帰せられるであろう。



マティグ湾ポートマヨのジョージ・ロウザー船長と一味





* * *





　ところがラッセル船長と、本章の主人公である二等航海士ジョージ・ロウザーがちょっとしたことで不和になり、これが不幸なできごとにさらに輪をかける結果になった。船長の不興を買ったロウザーは、下っ端水夫らに取り入った。船長がロウザーを処罰するよう命ずると、彼らは、手に手に棍棒を持ち、仲間を捕らえようとする奴はぶちのめしてやると脅した。船長とロウザーの間の溝はますます深まった。ロウザーは船の一味といっそう親密の度を深めた。謀叛の機は熟した。

　マッシー大尉はこの土地に滞在を続けていたが、土地の人びとと仲直りすることもなく、また彼の待遇が改善されるでもなかった。そして航海で親しくなったロウザーとしばしば会って話をし、彼らの不満はますます昂じた。二人は、現在のような束縛された状態を断ち切り、自分たちの力でやっていこうと決めたのである。

　健康を回復した総督は島に上陸した。マッシーが何かを企んでいると疑えば容易に疑えたはずだが、総督は彼の行動に注意を払わなかった。一方、ロウザーと陰謀仲間の乗組員らは横柄大胆になり、ラッセル船長と一等航海士が任務につくよう命令しても、それを拒絶する始末だった。このような事態をみたラッセル船長は、ある朝早く、総督および王立アフリカ会社の代理人と相談するつもりで島に向かった。ロウザーは船長の企図を察してこれを阻止するためボートにマッシー宛の手紙を託した。彼は暗に「船に戻れ。計画実行の時が来た」と知らせたのである。

　手紙を受け取ると、マッシーは直ちに兵舎へ行き、部下に「イギリスへ帰りたいものは、私についてこい」と言った。全員が同意すると、マッシーは倉庫へ行き、戸を押し開けた。そして二人の歩哨を立て、だれもここに近づけるなと命じた。こうしておいて、彼は総督の部屋へ行き、部屋にあったベッド、荷物、食器、家具類を運び出した。（マッシーは、総督が船に乗るものと期待していた。総督は以前、彼にこのように約束していたのである。しかし後に総督はこれを断った。彼は後に、マッシー一味が海賊になろうとしていると思ったからだ、とその理由を説明した。しかし、ロウザーの意図がどうであれ、マッシーは単にイギリスへ戻ることを提案しただけだった。）荷物を運び出すと、彼はボートで一等航海士に使いを出し、「バロ（王立アフリカ会社居住地近くにあった黒人の王国）の国王が食事をしに船に行くから、大砲の準備をされたし」と伝言した。ロウザーはこの一等航海士宛の伝言の意味をすぐ悟り、一等航海士を拘禁してしまった。そして合図の大砲を発射し、出帆準備を完了した。この日の午後、マッシーは総督の息子を連れて乗船した。島に貯蔵してあった食糧全部とワイン十一樽を船に積み込んだ。島の倉庫にはワイン二樽半だけを残し、砦の大砲はすべて取り外した。

　午後、一味は片方の錨を引き揚げたが、船を河から出すには時間が遅すぎると思い直し、他の錨はそのままにした。そうこうしているうちに船が浅瀬に乗り上げてしまった。この椿ちん事じが起こったとき、マッシーは軍人であることを自ら示した。船が擱かく坐ざすると彼は部下十六人を連れて直ちに島の砦に向かい、再び大砲を据え付けて一晩中そこの守りについたのである。同時に、商館の従業員らに、船の荷降ろしを手伝うよう命令した。この間にラッセル船長が戻ってきたが、一味は船長の乗船を拒んだ。船長はロウザーに、船を明け渡すならどんな条件でも受け入れる用意があるし、彼や彼の仲間に悪いようには計らわない、と言ったが無駄だった。翌朝、船は浅瀬から離れた。マッシーと彼の部下は、砦の大砲を再び取り外してから乗船した。一味は、総督の息子と二、三人の乗組員を下船させた。彼らは、総督が行かないのなら自分たちも行きたくないと言ったのである。こうして一味は河を出帆した。途中、碇泊していた「マーサ」号、「オッター」号その他と数発撃ち合ったが、どちらの側にも被害はなかった。

　船が海へ出ると、ロウザーは全員を集めて次のような演説をした。「この際イギリスへ帰ろうなどと考えるのは愚の骨頂というものだ。俺たちがしでかしたことは、もはやどう取り繕うこともできないからだ。これは、法からみれば大逆罪なのだ。そして国で待ち受けている強敵の攻撃に抗することは不可能だ。俺自身は、そんな危険を冒すつもりはない。そこで、俺がこれからする提案に反対なものは、どこか安全な土地で船を降りてほしい。俺たちは優秀船を手に入れたし、仲間は皆勇敢だ。飢え死にしたり、奴隷になったりするのはまっぴらだ。そこで提案だが、もし諸君が俺と同じ気持なら、先輩の冒険者たちがやってきたように、海上に自ら富を求めようではないか」。彼らは一も二もなくこれに賛成した。そして船室を取り壊して船首から船尾まで平甲板にし、また海賊旗を作った。そして船名を「デリヴァリー」号と改めた。乗組員約五十人、備砲十六門であった。一味は次のような簡潔な掟を起草し、聖書を前にしてそれに署名し、誓をたてた。





ジョージ・ロウザー船長と乗組員の掟



　一、戦利品の分け前については船長は二人分、航海長は一・五人分、船医、航海士、砲手および甲板長は一・二五人分を受領するものとする。

　二、捕獲した私掠船その他の獲物の船上で不法に武器を手にし、仲間を傷つけたものは、理由のいかんを問わず、船長並びに乗組員多数の判断にもとづき、処罰するものとする。

　三、敵と交戦中、卑怯な行為に及んだものは船長並びに乗組員多数の判断にもとづき、処罰するものとする。

　四、捕獲した獲物の船上で八ピース・オヴ・エイト相当額の金、宝石、銀等を発見しながら、発見者が二十四時間以内にそれを操舵手に引き渡さなかった場合は、当該発見者は船長並びに乗組員多数の判断にもとづき処罰するものとする。

　五、賭博を行なったもの、あるいは他人から一シリング以上を詐取したものは船長並びに乗組員多数の判断にもとづき処罰するものとする。

　六、敵と交戦中、四肢のいずれかを失ったものに対しては百五十ポンドを支払い、当該者が船に残ることは自由とする。

　七、助命を乞われた場合はそれを許可するものとする。

　八、獲物の最初の発見者には、当該船中で発見した最良のピストル若しくは小火器を与えるものとする。



　七月十三日、ロウザーはこの土地を離れ、二十日にはバルバドス島沖二十リーグの海域に到着した。ここで一味は、ボストンのブリガンティーン船でジェームズ・ダグラス船長の「チャールズ」号に遭遇し、これを掠奪した後釈放した。しかしこの船がどこかで軍艦に出合って一味の海賊行為を通報し、追跡されるはめにならないようロウザーは一計を案じ、砲四十門を備えた海賊の僚船が付近を遊弋していることにした。そして証明書らしきものをチャールズ号の船長に渡し、その僚船につかまったときは、この証明を見せればそのまま航海させてくれるはずだと言った。

　その後「デリヴァリー」号はヒスパニオラ島へ向かった。島の西端でワインとブランデーを積んだフランス船に遭遇すると、マッシーは商人を装ってこの船に乗り移り、あれこれ品物の値段を聞いて積荷の値踏みをした。こんなひやかしを楽しんだ後、彼はフランス船の船長の耳元で「代金は払わないけど積荷はそっくり頂戴しますぜ」と囁いた。船長はすぐこれが何を意味するか察し、しぶしぶ承知した。一味はブランデー三十樽、ワイン五樽、更紗、その他価値ある品々とイギリス貨幣約七十ポンドを奪った。ロウザーは律儀にも、奪った現金のうちから五ポンドを丁重な扱いを受けた礼として船長に返した。

　しかし、どんな組織でもいつかは古くなり揺ぎだすものである。この海賊共和国も例外ではなく、内部に動揺を生じ、仲間割れの様相を呈するようになった。事情はこうである。マッシー大尉は幼年時代から軍人として育ち、海の知識はほとんどなかった。しかし冒険心旺盛だったから、自ら道を切り拓くのでなければ満足しなかった。そこで彼はロウザーに、フランス植民地に上陸して掠奪の限りを尽してみたいから、部下を三十人ほしいと申し出た。

　ロウザーは、そんな向こう見ずで危険なことをして失敗したら元も子もなくなってしまうし、成功の見込みもほとんどないと言って、マッシーを思い止まらせようと努めた。しかしマッシーはフランス植民地を攻撃すると言って譲らなかった。そこでロウザーも一味にこのことを諮はからざるを得なかった。幾人かはマッシーと行動をともにする決意だった、大多数はこれに反対し、計画は否決された、マッシーはいっそう不機嫌になり、ロウザーと争い、一味は陸の海賊と海の盗賊に仲間割れした。そしてまさに大乱闘が始まろうとしたとき、マストの見張りが「船だ。船が見えるぞ」と叫んだ。この声で仲間喧嘩は収まり海賊船は総帆を揚げて追跡を開始した、二、三時間後、海賊船は獲物に追い付いた。ジャマイカからイギリスへ向かう小型船だった。一味はこの船から必要と思われるものを奪い、乗組員一、二名を仲間にした。それからロウザーは、数人の乗船客もろともこの船を沈めてしまおうとした。どんな理由があったのか筆者は知らない、しかしマッシーが異議を唱え、この残酷な仕打ちを止めさせた。船はその後無事イギリスへ到着した。

　翌日、密輸業者の小型スループ船を捕らえると、一味はそれを積荷ごと拘留した。この間ずっとマッシーは不愉快で、仲間を離れる決意を公言した。ロウザーにとってマッシーはいまやひどい厄介者だったから、マッシーとその同志が、拘留中のスループ船に移乗して仲間を去るのを許した。マッシーは直ちに十人ほどの不満分子を引き連れてスループ船に移り、まっすぐジャマイカに向かった。

　このようないきさつには知らぬ顔を装って、マッシーはジャマイカのニコラス・ロウズ総督のもとへ出向いた。そして彼が海賊ロウザーのもとを離れたことについて、「私はガンビア河から出帆するとき彼の手伝いをしました。でも私は国王陛下の多くの臣民がこの土地で餓死してしまわないよう、彼らを救出するためにすることであり、イギリスへ帰国することが目的だと言ってやりました。しかしロウザーは仲間の多くの連中と陰謀して、そのまま海賊になってしまったのです。私は好機をとらえて彼のもとを去り、こうして閣下に投降したわけです」と申し開きした。

　マッシーは総督の厚遇を得た。そして自らロウズ船長のスループ船「ハッピー」号に乗り組んで、ロウザーを捕らえるべくヒスパニオラ島沖を目差して出帆した。しかし結局ロウザーに遭遇することはできず、ジャマイカに戻った。彼は総督から証明書といくらかのかねをもらうとイギリス航路の船客としてこの地を離れたのである。

　ロンドンへ着くと、マッシーは王立アフリカ会社の総督代理と理事宛に長い手紙を書き、自分の航海、船とともに任地を離れたこと、そしてロウザーと海賊を働いたことを述べた。そして、これは最初の約束と違って現地でひどい待遇を受け、期待もはぐらかされて前後の見境がなくなってやってしまったことだと言いわけしながらも、自分のやったことは死刑に値すると認めた。しかし、もし許してもらえるなら、自分はまだ軍人として働けるからそれを切に希望する、と述べた。しかし、どうしても処刑するというのであれば、せめての情として、犬のように吊されるのではなく、幼年時代から軍人として育った男に相応しい銃殺刑にしてもらいたい、と願ったのだった。

　しかし、この手紙は彼が望んだような結果はもたらさなかった。理事らからは「法に従って絞首刑に処せらるべきである」と返事があった。マッシーは、この重要な時期に街を出ることはやめようと考え、オルダーズゲート街に宿をとった。翌日、彼は首席裁判官のもとへ出向き、裁判長閣下はもうジョン・マッシー大尉に対して、海賊行為容疑による逮捕令状を出されただろうか、と尋ねた。事務官が、そのようなことはわれわれにはわからないと答えると、マッシーは自分はその本人だが、閣下はすぐその手続きをとられるであろうから、その際には係官はこの場所へ来られたい、と言って自分が投宿しているところを教えた。彼らはこれを書きとめ、数日後逮捕令状が発行されると、巡査が彼の通知どおりその宿にやって来て、難なく彼を逮捕した。

　当時、ロンドン市内にはマッシーの犯行を証言するものは一人もいなかった。さらに、例の手紙もマッシーの自筆かどうか証明できなかった。だから、マッシーが自分を告発した人びとに協力しなかったら、再び彼を釈放しなければならなかっただろう。判事に「この手紙はおまえが書いたものか」と尋ねられると、マッシーは「はい、そうです」と答えた。そればかりか、彼はその内容をすべて自白したのである。これにより彼はニューゲートの監獄へ送られたが、後に百ポンドの保釈金で出所を許された。

　一七二三年七月五日、オールドベイリーで彼を裁く海事裁判が開かれた。ラッセル船長、ホイットニー総督の息子その他が証人として出席し、起訴事実の認定をした。しかし、たとえ証人らの証言がなかったとしても、大尉は男らしい精神の持主であったから、何も否定しなかったに違いない。そして抗弁する代りに、最初の船出から帰国までの冒険を長々と語って法廷を楽しませたのだった。さらに、起訴されていない二件の海賊行為に言い及び、証人に対して、もし自分の言うことにいささかでも真実でない部分があったら反論してほしいと言った。そして起訴状に述べられた罪状を否認するどころか、さらに委細を尽してそれを確認したのである。結局、大尉は有罪ということになり、死刑の判決を受けた。そして三週間後、海賊処刑場の露と消えたのである。

　さて、話をロウザーに戻そう。彼はヒスパニオラ島沖から風上に向かい、ポルトリコ近海で二隻の船を追跡した。近づいてみると、二隻はスミス船長のブリストル船と、それを拿捕し拘留していたスペインの海賊船だった。ロウザーは、スペイン人に、イギリスの船を捕獲する権限があるのかと尋問し、そのような行為に及んだら皆殺しにしてやるぞ、と脅した。スペインの海賊一味は、この連中が自分たちに優るとも劣らない悪党であるとわかり、同業のよしみから、寛大な処遇を期待した。結局、ロウザーは両船とも掠奪した後、焼き払ってしまった。スペインの海賊一味は船のボートに乗せて追い払い、ブリストル船の乗組員は全員海賊の仲間に加えた。

　二、三日後、セントクリストファー島の小型スループ船を拿捕すると、それに仲間を乗り込ませて、ある小島に入港した。そこで船の清掃修理をし、しばらく滞在して気晴らしをした。彼らは飲み、毒づき、騒ぎ、まるで内乱のような状態で、人間というよりは悪魔の集団といったほうがよく、だれが最もひどい罵詈雑言を考えつくかを競い合った。

　クリスマスのころ、いまや乱痴気騒ぎに耽っている時ではないとみた一味は、再び船に乗り、ホンジュラス湾へと向かった。途中、水を補給するため立ち寄ったグランドケイマン島で、彼らと同じく名誉ある稼業に従事している小型船に出合った。この船には十三人の男が乗り組み、船長はエドワード・ロウといった。彼については章を改めて述べることにしよう。ロウザーは彼らを友人として迎え、敬意をもって遇した。そして、諸君は小人数で、利益（獲物のことを海賊はこう呼んでいた）を追求できる状態にはないから、共同で仕事をしようではないかと誘った。ロウ一味はこの提案を検討して受け入れた。ロウザーが指揮官、ロウが副官になった。ロウ一味が乗っていた船は沈め、一味はロウザーが計画していた航海を続けた。

　一月十日、ホンジュラス湾に到着した海賊は、そこでボストンから来た二百トンの船を襲った。ベンジャミン・エドワーズ船長の「グレイハウンド」号だった。ロウザーは海賊旗を掲げると、「グレイハウンド」号に一発威嚇砲撃をし、停船を命じた。しかし「グレイハウンド」号はこれを拒んだ。「ハッピー・デリヴァリー」号（海賊船の名前）はじりじりと距離をつめ、片舷斉射を浴びせた。エドワーズ船長は果敢に応戦し、よく一時間にわたって砲火を交えた。しかし海賊の方がはるかに優勢であり、またこれら無法者にあくまで抵抗したときの結果を考えて、エドワーズ船長は旗を降ろして降伏するよう乗組員に命じた。海賊どもはボートで「グレイハウンド」号にやってくると、掠奪をほしいままにしたばかりか、乗組員に打つ、殴る、斬りつける等の乱暴を働いたうえ、海賊船に連行し、「グレイハウンド」号には火を放った。

　海賊は湾を遊弋して数隻の船を獲物にした。これらの船から抵抗らしい抵抗をうけることはなかった。獲物の船は次のとおりである。ニューイングランドのボストンに所属する二隻のブリガンティーン船の内一隻には火を放ち、他は沈めた。コネチカット所属、エアーズ船長のスループ船――放火。ジャマイカ籍ハミルトン船長のスループ船――海賊船として使用。ヴァージニア所属のスループ船――掠奪の後返還。およびロード島所属の百トンのスループ船――海賊船として拘留し、砲架八基、旋回砲十門を装備。

　かくして海賊一味は小艦隊を編成するに到った。すなわち、ロウザー提督の「ハッピー・デリヴァリー」号、ロウ艦長のロード島のスループ船、ハリス艦長（「グレイハウンド」号の二等航海士だった）のスループ船（ハミルトン船長から奪った）、および先に話した小型スループ船（補給船として使った）である。海賊艦隊はホンジュラス湾を離れるとアマティーク湾のボートマヨに向かい、そこで傾船修理の準備にとりかかった。船の帆を全部岸に揚げてテントを設営し、掠奪品、食糧等を運び込んだ。船が傾くと男たちは船底の汚れをこすり落とし、油を塗るのに忙しく働いた。このとき突然原住民の一団が襲撃してきた。海賊らは防戦の備えも何もしていなかったから、スループ船に逃げ込み、本船「ハッピー・デリヴァリー」号に火を放った。岸に設営した基地と、大変な価値の掠奪品は土民の手に落ちた。

　ロウザーは一味の最大の船「レンジャー」号に大砲十門と旋回砲八門を備え、最良の装備をしていた。しかもこの船は最も船足が軽かった。そこで一味は全員この船に乗移り、他の船は置き去りにした。いまや一味は食糧が極度に欠乏していた。原住民に襲われたとき、その大半を失ってしまったのである。このような状態におかれて苛立ったならずものらは互いに掴み合いの喧嘩を始め、窮状に陥った責任のなすり合いをした。

　一七二二年五月初旬、一味は西インド諸島に到着し、デシーダ島近海でペイン船長のブリガンティーン船を捕らえた。この船から欠乏していた食糧その他を調達すると、ようやく一味のすさんだ気持も和らぎ、海賊商売は再び順調にゆくように思えた。一味は存分に掠奪をした後、この船を海の底に送り込んだ。それから島へ立ち寄り、水を補給した後、アメリカ沿岸を訪れるべく針路を北にとった。

　北緯三十八度線上で、セントクリストファー島からボストンへ向かうスミス船長のブリガンティーン船「レベッカ」号を捕らえた。そしてこれを機に海賊は二派に分かれた。グランドケイマン島で一味に加えたロウが、常に仲間の規律を乱し、自ら野心を持って船長のやり方に満足しなかったから、ロウザーはどんな条件であっても彼を追放してしまったほうが安全だと考えたのである。全員投票の結果、ロウは四十四名の同志を連れてブリガンティーン船に移り、ロウザーは、やはり同数の仲間とともにスループ船に残った。この日、すなわち一七二二年五月二十八日の夜、彼らは訣別した。

　ロウザーはアメリカ本土の海岸を目差し、ニューヨーク沖で三、四隻の漁船を拿捕したが、たいした獲物ではなかった。六月三日、ニューイングランドからバルバドスへ向かう小型船に遭遇した。この船は海賊の攻撃にしばし抵抗をしたが無駄とわかり投降した。一味はこの船から、ラム酒十四樽、砂糖六樽、イギリスの商品一箱、砂糖数樽、大量の胡椒、黒人六人、現金および食器類を掠奪した後、釈放した。

　続いての冒険は一味にとって運がよいとは言えなかった。サウスカロライナ沿岸に接近した一味は、そこでイギリスへの航路についたばかりの船に遭遇した。ロウザーはこの船に向け威嚇発砲をすると同時に海賊旗を掲げた。しかしこの「アミー」号の船長ワトキンスは勇敢な男で、恐ろしい海賊旗に怖える様子もなかった。海賊は、この船が海賊旗をみて直ちに降伏するだろうとたかをくくっていた。しかし逆に、海賊船に向けて片舷斉射を浴びせてきたのである。ロウザーはこの挨拶にいささかたじろぎ、この場を離脱しようとした。ワトキンス船長は海賊船を陸と「アミー」号の間に挟んで追撃し、海賊船に乗り移ろうとした。これを回避するため、ロウザーは自らスループ船を陸に乗り上げ、乗組員全員に武器を持たせて上陸させた。ワトキンス船長は自分の船が座礁するのを恐れ、岸から離れなければならなかった。しかし同時にこの敵を撃滅するのが社会のためであると思い、ボートで海賊船に向かった。海賊一味のスループ船を焼き払ってしまおうと考えたのである。しかし彼が海賊船に到着する前に、陸にいる一味の発射した銃弾が彼の命を奪い、計画は挫折した。この不幸なできごとの後、ボートの乗組員は船に引き返し、海賊を深追いすることは断念して、航海を続けた。

　ロウザーは「アミー」号が去ってから、乗組員全員を再びスループ船に乗せた。しかしこの交戦で船体はひどく損傷し、死傷者も多数に上った。そこで彼はノースカロライナのどこかの入江に入って、再び航海ができる状態になるまでそこに逗留することにしたのである。

　一味は冬の間ずっとここに滞在した。昼間は小人数のグループに分かれて森の中に入った。そして黒牛、豚、その他の動物を狩猟し、夜になると設営したテントや小屋に戻ってきた。ひどく寒い日には、本船に戻って寒気を避けることもあった。

　一七二三年の春になってから、一味は再び海に乗り出し、ニューファンドランドに針路をとった。ニューファンドランドの州で、ジョン・フッド船長のスクーナー船「スウィフト」号を獲物にした。この船は、一味が欲しがっていた食糧を大量に積んでいた。海賊はこの船の乗組員三人を仲間に加え、必要な品々を掠奪した後、釈放した。ほかにもこの州で数隻の船を拿捕したが、いずれも大した獲物ではなかった。一味はここから温暖な気候を求めて南下し、八月に西インド諸島に到着した。途中、ボストンに向かうリチャード・スタニー船長のブリガンティーン船「ジョン・アンド・エリザベス」号を拿捕掠奪し、さらに乗組員二人を一味に加えてから釈放した。海賊は西インド諸島近海をかなりの期間航海したが、めぼしい獲物には出合わなかった。そして食糧も底をついたころ、運よくマルティニク島の船に遭遇し、これが時を得た救援船となった。その後、ウィックステッド船長のギニア船「プリンセス」号が一味の手に落ちた。

　海賊は次の冒険に備えて、船の清掃と修理をする場所を探さなければならなかった。このため北緯十一度五十分上の、スペイン領アメリカから三十リーグほど沖合にあるマルガリータ島とロカス島の間に位置する、トーツーガ島からほど遠くないブランキラ島を選んだ。この島は低く平坦な地形をしていて、空気は乾燥し爽やかだった。人は住まず、周囲約二リーグ、グアヤックの樹があちこちに育ち、その回りを潅木の茂みがとりまいていた。そして海亀や、ひとの足ほどの体長があるイグアナが多数棲息していた。この肉は大層美味で、島を訪れる海賊はよくこれを食べる。体の色は様々変化に富んだ種類がいるが、ここブランキラ島のものは乾いた土の上に棲み、黄色が普通である。島の北西端には小さな入江があり、そこを除いた周囲は、切り立った崖が深い海に迫っていた。この地に、ロウザー一味は十月初めまで逗留し、船の索具、大砲、帆等をすべて陸揚げして傾船修理を行なった。しかし三十五人が乗り組み、ウォルター・ムーア船長が指揮する南海サウスシー会社・カンパニーのスループ船「イーグル」号が、バルバドス島からスペイン領アメリカにあるクマーナへ向かう途中この島の近くを通りかかり、ちょうど一味のスループ船が傾船しているところを見かけた。交易船なら立ち寄りそうもない島であるところから、船長はこれを海賊船であろうと判断し、敵の不意をついて攻撃をかけることにした。「イーグル」号は一発大砲を発射し、相手に船旗を掲げるよう要求した。海賊はこれを挑戦ととって、トップマストにイギリス国旗を掲げた。しかしムーア船長の乗組員が本気でこちらへ乗り移るつもりであるとわかると、一味は錨綱を切り、船尾を岸に向けた。このため「イーグル」号は一味の船に直角に停船しなければならなかった。この状態で「イーグル」号は砲撃を続けた。結局、海賊は投降し、乗組員は命乞いをしてきた。しかしロウザーと十二人の乗組員は船室の窓を破って逃げ出した。ムーア船長は残った海賊をスループ船から降ろし、船を捕獲した後、さらにロウザー一味を追って、二十五人の乗組員とともに上陸した。しかし五日間捜索して五人の海賊残党を発見しただけだった。船長は捕らえた海賊を連行し、海賊スループ船ともども、クマーナに到着した。

「イーグル」号一行の勇敢な行為を聞いたスペイン総督は、拿捕したスループ船を彼らに褒賞として与え、同時に、まだ島に残っている海賊を捕らえるため、小型スループ船に二十三人を乗り組ませてブランキラ島に派遣した。そして四人の海賊を捕らえ、小火器を戦利品とした。しかし、ロウザーと三人の海賊、そして少年一人はとうとう見つからなかった。捕らえた四人は、スペインの裁判により終身懲役刑の宣告を受けた。三人はギャレー船に乗せられ、残りの一人はアラリアの要塞に送られた。

「イーグル」号に拘留された海賊は全員セントクリストファー島に連行され、一七二二年三月十一日、この地で開廷された海事裁判において裁きを受けた。裁かれたのは、ジョン・チャーチル、エドワード・マクドナルド、ニコラス・ルイス、リチャード・ウェスト、サム・レヴァコット、ロバート・ホワイト、ジョン・ショー、アンドリュー・ハンター、ジョナサン・デルヴ、マシュー・フリーバーン、ヘンリー・ワトソン、ロジャー・グランジ、ラルフ・カンドーおよびロバート・ウィリスであった。最後の三人は無罪、残りは有罪となった。有罪になったもののうち二人は法廷の慈悲により、赦免された。残りは全員、三月二十日この島で処刑された。

　ロウザー船長は後に、彼の海賊行為終結の地であるブランキラ島で自ら命を絶ったということである。たまたま島に立ち寄ったスループ船の乗組員が彼の死体を発見したが、そのわきに炸裂したピストルが落ちていたというのである。





14　エドワード・ロウ船長と乗組員





　エドワード・ロウはウェストミンスターに生まれ、そこで教育を受けた。もっとも、彼は読み書きができなかったから、教育といってもたかが知れていた。彼は生まれつき海賊の資質を備えていたようである。子供のころから盗みを働きはじめ、ウェストミンスターじゅうの少年たちに貢物をさせた。それを拒否しようとするものがいれば、必ず喧嘩になった。しかしロウは勇敢なだけでなく体も頑健だったから、彼にかなうものはいなかった。そこで彼は少年たちの小遣いを遠慮なく奪ってしまうのだった。長ずるに及んで、彼はいかさま賭博に手を染めるようになった。これは下院のロビーにたむろする下僕たちの間に流行っていた賭博で、彼もそこで遊んでいたのである。

　彼の家族の幾人かも、彼に負けず劣らず御立派だった。特に兄弟の一人は悪の天才だった。この男はすでに六歳のとき、荷担ぎ人夫の荷篭に身を潜めて人込みの中へ行き、行き交う人びとの帽子やかつらを引ったくった。ニューゲート監獄の正確な年代記によれば、この巧妙な手口を最初に考案したのは彼であったという。後に彼は掏摸を業とするようになった。こうして力をつけると、さらに強盗などの大きな仕事も手掛けるようになった。しかしスティーヴン・バンスや、名高い煙突掃除の殺人鬼ジャック・ホールらとともに、タイバーン処刑場で短い生涯を終えたのだった。

　さて、話をエドワードに戻そう。成人するとエドワードは兄の希望に従って、ともに船乗りになった。そして三、四年後、二人は別々になった。エドワードはしばらくニューイングランドのボストンにある船具店で働いた。六年後、彼は当時まだ健在だった母親に会いにイギリスへ帰国した。だが故国に長くは滞在しなかった。友人や知人に別れを告げると、彼はボストンへ戻り、もとの船具店で一、二年働いた。しかし店の主人と仲違いをして、ひとりホンジュラス湾へ向かうスループ船の人となったのだった。

　スループ船がホンジュラス湾に到着すると、エドワードはロッグウッドを伐採し船に積み込むため、他の男たちとともにボートで上陸するよう命ぜられた。この木材が航海の目的だったのである。ボートにはロウのほかに十二人が乗り組んだが、全員武器を所持した。スペイン人から盗み同然にロッグウッドを手に入れるための用意であった。ある日、本船の食事時にボートが戻ってきた。ロウは自分たちも本船で食事をして行きたいと思った。しかし船長は荷の積み込みを急いでいたので、彼らにラム酒を一本を与え、再びロッグウッドを取りに行くよう命じた。一刻の猶予もならなかった。ボートの乗組員、特にロウはひどく憤慨した。彼はマスケット銃に弾を込めると、船長に向けて発砲した。弾はそれて別の乗組員の頭を撃ち抜いた。ロウは十二人の仲間を引き連れて本船を去った。翌日、一味は小型船を捕獲するとボートからそれに乗り換え、海賊の黒い旗を作った。そして全世界に戦いを宣言したのである。



嵐に遭うエドワード・ロウ船長





* * *





　一味はこの名誉ある稼業に備え、彼らの小型スループ船にできるだけよい装備をしようと考えてグランドケイマン島へ向かった。しかし、そこで別の海賊ジョージ・ロウザーに遭遇した。彼は、大人物どうしが出合ったとき互いにするように、ロウに対して敬意を表し、同盟を結ぼうと提案した。ロウは彼の条件を受け入れ、盟約は成った。

　ロウザーの指揮のもとで、この同盟が一七二二年五月二十八日まで続いたことはすでに話した。この日、彼らはセントクリストファー島からボストンへ向かうブリガンティーン船を捕らえた。そしてエドワード・ロウは四十四人の仲間を率いてこの船に移り、ロウザーのもとを離れたのだった。船には大砲二門、旋回砲四門、火薬四樽、食糧等を積み込んだ。

　七月三日、日曜日、ロウ一味はジョン・ハンス船長の指揮するアンボイ籍の船を捕獲し、食糧を掠奪した後、釈放した。これがブリガンティーン船による最初の冒険だった。同じ日、ロードアイランド沖で島の港に入ろうとしていたジェームズ・カルクーン船長のスループ船に遭遇した。海賊はこれを掠奪した後、島に情報がもたらされないようにするため、この船のボウスプリットを切り落とし、ヤードから索具や帆をすべて外したうえ、船長を痛めつけた。それから海賊船は総帆を張って南西に向かった。

　ロウがこの沿岸を離れたのは正しい判断だった。滞在が長びいていたら、一味の命とりになっていたはずである。話はこうである。一味に航行不能な状態にされたスループ船は、それでも夜中の十二時になんとかブロック島にたどり着いた。船長は直ちに捕鯨ボートでロードアイランドに使いを送った。翌朝七時、ボートはロードアイランドに到着し、この地の総督にロウ一味のこと、その戦力、そしてスループ船の被害等を伝えた。総督は時を移さず太鼓を打ち鳴して海賊討伐の志願兵を召集した。そして港に碇泊していた二隻の快速スループ船を徴用し、それに必要な装備をしてジョン・ヘッドランド船長とジョン・ブラウン・ジュニアー船長に十日間の期限で海賊討伐の任務を与えた。ヘッドランド船長の船は大砲八門と旋回砲二門、ブラウン船長の船は大砲八門と多数の小火器を備え、両船に百四十人の兵を乗り組ませた。すべてが大至急で行なわれた結果、討伐隊は日没前には出帆した。港を出るとブロック島から海賊船が望めた。二隻のスループ船は翌朝海賊を捕らえることができると勇んだが、期待外れに終った。彼らは海賊船を見失い、数日後帰港した。

　危機を脱したロウ一味は、西インド諸島まで航海するだけの水がなかったので、沿岸の港に入った。ここに数日滞在し、食糧その他乗組員の必要とするものを積み込むと、仕入れ（と彼らは言った）の航海をすべくマーブルヘッドに針路をとった。

　七月十二日ごろ、海賊船はローズマリー港に入港した。港には大小十三隻の船舶が碇泊していたが、武装船は一隻もいなかった。一味は海賊旗を掲げると、これら船団の中に突入した。ロウはブリガンティーン船上から、「抵抗したら命はないものと思え」と叫んだ。一味はボートに武装した仲間を乗り組ませ、これらの船を一隻残らず捕獲してしまった。そして掠奪をほしいままにした後、八十トンのスクーナー船を海賊船として使うことにした。ロウはこの船に砲十門を積み、五十人の仲間を乗り組ませると「ファンシー」号と命名し、自らその船長になった。そして、手下のチャールズ・ハリスをブリガンティーン船の船長にした。（この男は最初ボストン籍の「グレイハウンド」号に二等航海士として乗り組んでいたところを、ロウザーに無理やり海賊の仲間にされたのである。）これらの船の乗組員を数人仲間に加えると、一味は総勢八十人になった。全員海賊の掟に署名すると、二隻の海賊船はマーブルヘッドを後にした。

　それからしばらくして、ボストンへ向かう二隻のスループ船に遭遇した。これらの船は、同地の守備隊へ食糧を運ぶ途中だった。ロウのスクーナー船が最初に彼らに追い付き攻撃をしかけた。しかし、たまたまこの船隊に一人の将校と幾人かの兵士が乗船していて、激しく応戦してきた。ロウはハリスのブリガンティーン船が近づくのを待つことにした。その間に二隻のスループ船は全速で遁走し、海賊も二日間追跡を続けたが、結局、霧の中に獲物を見失ってしまった。

　獲物を逃した一味はリーワード諸島に針路をとった。だがこの航海の途中、かつてなかったほど猛烈なハリケーンに遭遇した。海は山となって盛り上り、いまにも一味の船を打ち砕くかに思われた。いまや獲物を追い求めるどころではなく、自分たちが助かることが先決であった。それも、可能ならばの話である。ブリガンティーン船では全員、頭上から覆いかぶさっている大波と戦いながら、昼夜、一時も休まず、ポンプやバケツで必死の排水作業をした。それでも船が自由にならず、危機が目前に迫っていることがわかると、いくらかでも船を軽くして波を乗り切るため、索具を使って食糧その他の重い積荷、そして大砲六門を海に投げ棄てた。さらにマストも切断しようとさえ思ったが、このような状態で漂流する危険を考えると、それは最後まで延ばすことにした。マストも帆もなく、丸太のように海に漂っている状態で、敵から攻撃でもされたら、それこそ不利な戦いをしなければならなくなる。そのような場合、大砲を片舷に寄せて敵船に砲火を集中しなければならないこともあるから、操船が交戦において最も技倆を必要とされる作業であるが、航行不能になった船では何もできないからである。

　重量物を海に投げ棄てた船は浸水もかなり少なくなり、ポンプだけで排水できるようになった。乗組員の胸には希望が蘇ってきた。そこで彼らは一切のものを投げ棄てるのを止め、マストを副索で補強し、嵐が静まるまで下手廻しにし、あるいは上手廻しにして凌ぐことにした。一方、スクーナー船の方は多少はよい状態で嵐に耐えていたものの、メインスルは破れ、ボウスプリットは折れ、錨はへさきから波にさらわれてしまった。ブリガンティーン船は風下を帆走していたが、左舷に向かったときスクーナー船を見失ってしまった。

　僚船の安否もわからぬまま、一味は風が収まると直ちにメインスルとトプスルを張って、風上に向かった。そして翌日、僚船を発見することができたのである。僚船は仲間の信号を認めて近づいてきた。激しい風と波に痛めつけられた後再会した乗組員同士は、手の舞い足の踏む処を知らずの喜びようであった。

　嵐が止むと、ロウは小アンチル島の風下にある小島に退避し、そこでできる限り船の修理をした。また、自分たちの持っていた品々と交換に島の原住民から食糧を入手した。ブリガンティーン船の修理が終ると、海賊はスクーナー船を港に残して短い航海に出ることにした。出港後間もなく、ブリガンティーン船はマストを全部失った船に出合った。一味はこの船に乗り込むと一千ポンド相当の現金と商品を奪い、そのままの状態で釈放した。この船はバルバドスを出帆したのであったが、先の嵐でマストを失い、アンティガ島へ立ち寄ろうとしていた矢先、海賊に襲われたのだった。後に、船はアンティガへ到着した。

　この嵐はこの海域に甚大な被害をもたらした。とりわけジャマイカ島の被害は陸上でも海上でも激甚を極めた。巨大な高潮が島を襲い、何百トンという岩石がポートロイヤルの街の外壁を越えてなだれ込んだ。街はこの下敷になって壊滅した。翌朝、街は五フィート浸水していた。チャールズ砦の砲は砲座から外れ、一部は波にさらわれた。四百人の命が奪われた。水が引いた後の光景はいっそう悲惨だった。街路という街路は崩れた建物や難波船の残骸で埋まり、多数の死体がころがっていた。港に碇泊していた四十隻の船は高波にさらわれた。

　ブリガンティーン船が港に戻ると、スクーナー船も出帆できる状態になっていた。そこで次の航海をどこにするかを全員の投票で決めることにした。ロウは、風下へ進出するのは近海を遊弋している軍艦に出くわす恐れがあるから得策でないと考えた。皆はこの意見に従い、アゾレス島へ向かうことにした。

　七月下旬、ロウは備砲三十四門のフランス船を捕らえ、アゾレス島へ連行した。八月三日、海賊はセントミカエル泊地に到着すると、そこに碇泊中の、ロッチ船長が指揮する「ノートル・ダム」号と「メール・ド・デュー」号、コックス船長の「ドーヴ」号、トンプソン船長のピンク船「ローズ」号（これは以前軍艦だった）、チャンドラー船長のイギリス船、その他三隻合計七隻の船を掠奪した。ロウが「抵抗したら即刻命はないものと思え」と脅すと彼らは縮み上り、一発の弾丸も発射せずにたちまち船を悪党どもの手に任せてしまったのである。

　海賊は水と食糧がすっかり欠乏していた。そこでロウはセントミカエル島の総督に使いを出し、水と食糧を供給してくれれば捕らえた船は釈放するが、さもなければ全船焼き払ってしまうと伝えた。総督は一味の要求を拒絶するのは賢明でないと考え、水と食糧を送った。ロウは捕らえていた七隻の船のうち六隻から必要物を掠奪した後、それらを直ちに釈放した。残ったピンク船「ローズ」号は海賊船に仕立てて、自ら指揮官になった。

「ローズ」号は一味の目的に最適なことがわかった。そこで彼らは連行していたフランス船から数門の砲を「ローズ」号へ移し、フランス船には火を放った。乗組員は全員海賊船に移したが、ただ一人、船のコックをしていた男はロウと彼の野蛮な手下どもの気晴らしの犠牲になった。連中は「こいつは脂がのっているから旨いフライになるだろうぜ」と言うと、この気の毒な男をメインマストに縛りつけ、焼き殺してしまったのである。

　ロウはスクーナー船に、セントミカエル島とセントメアリー島の間で獲物を待ち伏せするよう命じた。八月二十日、カーター船長のギャレー船「ライト」号が海賊の手に落ちた。最初、乗組員たちは抵抗の構えを見せたばかりに、海賊どもから斬る打つの野蛮な仕打ちを受けた。二人の修道士を含む数人のポルトガル人船客に対する仕打ちはことさら残酷だった。海賊は彼らを前檣帆桁に吊し上げ、息も絶え絶えになると甲板に降ろし、再び吊し上げるようなことを幾度も繰り返してはおもしろがったのである。もう一人のポルトガル人船客は目の前のできごとを見て悲痛な顔をしていたが、それに気付いた海賊の一人は彼を甲板上で殴りつけ、「気に入らねえ面をしてやがる」と言いざま、カトラスで腹を横に切りつけた。彼は一言も発さずに即死した。同じとき、別の海賊も他の捕虜に斬りつけたが狙いが外れ、切っ先が近くにいたロウ船長のあごの下を払った。船長の歯はむき出しになってしまった。すぐ船医が呼ばれ、傷口を縫合した。しかし、ロウが手術にけちをつけると、他の連中同様したたかきこしめしていた船医は、患者のあごに鉄拳を一発見舞い、縫い口を切り裂いてしまった。そして「自分で傷口を縫やいいだろう」と言って、立ち去った。ロウはしばらく後までひどく情け無い顔をしていた。

　カーター船長の船を掠奪したとき、幾人かの海賊は、フランス船を処分したように、これも焼き払ってしまおうと言った。しかし、結局焼き打ちはせず、代りに索具や帆を全部ずたずたに切り裂き、そのまま船を海に放置することにした。

　この掠奪の後、一味はマデイラ島へ向かった。ここで別の獲物を取り逃した後、老人二人と少年一人が乗った漁船を捕らえた。そして老人の一人を海賊船に拘留すると、残った二人には休戦旗を持たせて上陸させた。一味は、島の総督に、ボート一隻分の水を要求し、これが受け入れられない場合は船に残した老人を帆桁に吊して殺すと脅したのである。しかしこの要求が通ったので、海賊は老人を円満退役（と彼らは言った）させ、捕らえたときよりずっと立派な服装をさせて三人を釈放した。

　一味はこの島からカナリア諸島に向かったが、一隻の獲物にも出合わなかった。そこでさらにヴェルデ岬諸島に進出した。ボナヴィスタでグールディング船長の「リヴァプール・マーチャント」号を捕らえ、大量の食糧と干物類、ブランデー三百ガロン、砲二門と砲架、マスト、帆桁と綱等を奪い、乗組員六人を仲間に引き込んだ。そしてグールディング船長に、この地で商売することを禁じ、マヨ島まで行くように命じた。

　この近海で、海賊はリヴァプール籍でスコット船長の指揮する船、ブラジル航海のポルトガルのスループ船二隻、サンタクルツ島へ向かっていたイギリス籍ジェームス・ピース船長の近海交易用小型スループ船、そしてセントトマス島からキュラソー島へ向かっていたスループ船三隻を捕らえた。三隻のスループ船を指揮していたのはリリー船長、ステープル船長およびシンプキンス船長であった。海賊はこれらの船を掠奪した後、一隻のスループ船は引き止め、他は全部釈放した。

　ロウはこれらの船の一隻から、ウェスターン諸島に毎日二隻の小型ギャレー船、すなわちグラス船長の「グレイハウンド」号と、アラム船長の「ジョリフ」号が現われるという情報を得ていた。ことがうまく運べば「グレイハウンド」号をブラジル沿岸の海賊貿易に使うつもりだった。そこでロウはスループ船に仲間を乗り組ませ、これらの船を捕捉すべく、ウェスターン諸島に向かわせた。一方、「ローズ」号はヴェルデ岬諸島のひとつで傾船修理をした。しかし、これまでずっと彼らに微笑んでいた幸運の女神が、ここに至って一味の希望を打ち砕いてしまった。話はこうである。スループ船は獲物を取り逃し、食糧と水が極度に欠乏した。そこで一味は貿易船を装って大胆にもセントミカエル島に上陸し、水を求めようとした。しかし彼らのしぐさがひどくぎごちなかったため、島の総督は一味の正体を疑わしく思った。ちょうどそこへ、ロウに捕らえられたカーター船長の船客だったポルトガル人が数人総督を訪れた。彼らは先客紳士たちの顔をよく覚えていた。たちまち一味は砦に監禁され、死ぬまでそこに幽閉されたのである。

　一方、ロウらもうまくいっていなかった。傾船修理していた船が転覆し壊れてしまったため、ブラジル行きの計画が駄目になってしまったのである。やむなくロウは昔のスクーナー船「ファンシー」号に移った。一味は総勢百名になった。タイバーンの処刑場で生涯を終ったどの海賊にも勝るとも劣らぬ悪党どもであった。

　かくして、一味は西インド諸島に針路をとった。この航海に出て間もなく、荷を満載してサンサルヴアドルから母国へ向かうポルトガル船「ノストラ・シニョーラ・デ・ヴィクトリア」号を襲った。ポルトガル船はしばらく抵抗したが、結局海賊の手に落ちた。ロウは数人の乗組員を拷問して、かねのありかを聞き出そうとした。彼らは船長が一万一千モイドールをつめた袋を綱の先につけて、キャビンの外に吊していたが、海賊に掴ったとき綱を切って、袋を海に投下してしまったと白状した。これを聞いたロウは烈火のごとく怒り、手下に命じて船長の唇を切り取らせ、それを船長の目の前で焼き肉にした。さらに、船長と三十二人の乗組員全員を殺してしまった。

　この虐殺の後、海賊一味は西インド諸島の北に到着した。そしてこの海域をおよそ一か月にわたって荒らし回った。一味の餌食になった船は次のとおりである。すなわち、ニューヨークからキュラソー島へ向かっていたロバート・レナード船長のスノー船、ニューヨークへ向かっていたクレイグ船長のスループ船、ロンドンからジャマイカを経由し、ニューヨークへ向かっていたスループ船、およびジャマイカからボストンへ向かっていたアンドリュー・デルブリッジ船長のピンク船「スタンホール」号である。海賊はデルブリッジ船長の船を焼き払った。ロウが、ニューイングランド人に対して抜き難い憎しみを抱いていたからである。

　この航海が終ると、一味は西インド諸島のある島に入り、船の清掃をした後、ホンジュラス湾に向かった。一七二三年三月中旬、湾に到着すると、ちょうど湾を出てくるスループ船に遭遇した。海賊船はスペイン国旗を掲げてスループ船に近づき距離を十分つめると、突如今まで掲げていたスペイン国旗を降ろして海賊旗を掲げ、片舷斉射を浴びせた。そして獲物の船に接舷し斬り込んだ。この船は砲六門を備え七十人が乗り組んだスペイン船だった。この朝、ホンジュラス湾に入港し、碇泊していた五隻のイギリス籍スループ船と一隻のピンク船を拿捕し掠奪した後、これらの船の船長を捕虜にして身代金としてロッグウッドを要求したのだった。捕虜になった船長の名前は、タットヒル、ノートン、ニューベリー、スプラフォード、クラークそしてパロットであった。スペイン船乗組員は一切抵抗をしなかった。海賊どもは難なく船を占領すると掠奪にかかった。そして船倉に捕われていたイギリス船の船長らとイギリス商品を発見すると、ロウ船長に報告した。一味は、無用な詮議は省略してスペイン船の乗組員を皆殺しにすることに決定した。海賊どもは無造作に剣、カトラス、斧、ピストルを手にして、スペイン人たちに斬りかかり、発砲し、甲板上は修羅場と化した。船倉へ飛び降りたものもいたが、虐殺を逃れることはできなかった。至るところに死が待ち受けていた。一つの死を逃れても、別の場所で間違いなく殺された。唯一の望みは、これら残虐な連中から脱出し、海に運命を委ねることであった。多くのものが船から海に身を投じ、岸を目差して泳いだ。しかしこれを見たロウは、カヌーで逃亡者を追うように命じた。幾人かの男が、岸を目差している途中で頭を殴られて死んだ。それでも十二人が岸へ泳ぎついた。皆重傷を負って惨憺たる有様だった。彼らのうち一人を除いて残り全員が、その後どうなったか知られていない。この男は、海賊一味が気晴らしに上陸してきたとき、ひどい傷を負っていて身体も弱り、どこへ助けを求めてよいかわからぬまま、海賊たちのところへ戻ったのだった。そして、命を助けてくれるように哀願したのである。このとき海賊の一人が彼を掴え、「よし、俺がすぐおまえを許してやろう」と言って、跪かせた。それから自分の火打ち銃を取り、銃口を彼の口に突っ込んで発射した。残った者たちも長く生きてはいなかったと思われる。生き長らえたとしても、苦しみが増すだけだったであろう。



ロウ船長の部下、負傷したスペイン人捕虜を射殺する（１７２５年オランダ語版より）





* * *





　殺戮が終ると一味はスペインの海賊船をくまなく漁って、ありとあらゆるものを自分たちの船に運び込んだ。船倉に捕らわれていた六人の船長はそれぞれの船に返してやった。ピンク船の船大工は仲間に引き入れた。スペインの海賊スループ船には火を放った。ロウは、捕虜だった船長らを自由にしてやった。しかし、軍艦に情報が漏れるのを恐れ、ジャマイカへ向かうことは許さなかった。代りに、ニューヨークへ行くことを強要し、この命令に従わず再び出合うことがあれば命はないぞと脅した。

　次の航海で一味はリーワード諸島と本土の間の海域に進出し、ジャマイカからリヴァプールへ向かうスノー船二隻、ジャマイカからロンドンへ向かうブリッズ船長のスノー船、バイドフォードからジャマイカへ向かうジョン・ピンカム船長の船、そしてジャマイカからヴァージニアへ向かうスループ船二隻を獲物にした。

　五月二十七日、ロウとハリスはサウスカロライナ沖へ出た。そして、ラヴァレイン船長の「クラウン」号、「キング・ウィリアム」号、および「カートレット」号という三隻の豪華船とブリガンティーン船一隻に遭遇した。これらはすべて二日前にカロライナを出帆したものだった。海賊はこれらを追跡するのに手間取った。ラヴァレイン船長は最も頑強に抵抗したが、最初に一味の餌食になった。この日一日、海賊は残りの船の追跡に過ごした。

　数日後、ジャマイカから航海してきたウィラード船長の「アムステルダム・マーチャント」号を捕らえた。船長はニューイングランド出身だった。ロウはこの土地の出身者に対しては、必ず腹いせをせずにはおかなかった。ロウはウィラード船長の耳を切り落とし、鼻を削ぎ、そのほか身体の数カ所に傷をつけたうえ、船を掠奪してから釈放した。

　その後、ロウはアンボイへ向かうウィリアム・フレイザー船長のスループ船を捕らえた。ロウはこの船長が気に入らず、手下に命じて乗組員たちの指に火の付いた火縄を結びつけ、その肉を焼き落としてしまった。さらにナイフやカトラスで彼らの身体を傷つけた。そして食糧をすべて奪ったうえ、幾人かの乗組員を人の住まない土地に置き去りにした。これら以外に一味の餌食になった船は次のとおりである。すなわち、エストウィック船長の「キングストン」号、バーリントン船長の船、カロライナからロンドンへ向かうブリガンティーン船二隻、ヴァージニアからバーミューダへ向かうスループ船、グラスゴーからヴァージニアへ向かっていた船、サウスカロライナからニューヨークへ向かっていたスクーナー船、ヴァージニアからダートマスへ向かっていたピンク船、そしてフィラデルフィアからスリナムへ向かっていたスループ船であった。

　ちょうどこのころ、イギリス軍艦がこの海域を航海していた。そして、海賊に掠奪された一隻の船から一味の非道な行為を聞き及ぶと、教えられた針路に船を進め、七月十日払ふつ暁ぎよう、海賊船を発見した。獲物を求めていた海賊も軍艦の船影を認め、直ちに追跡に移った。軍艦の名前は「グレイハウンド」号と言い、備砲二十門、乗組員百二十人。二隻の海賊船に対して劣勢だった。海賊一味が必死になって追跡してくるのを見た「グレイハウンド」号は、二時間ほど彼らの追跡に任せ、彼らが射程内に入るのを待った。交戦準備が整うと、軍艦は二隻の海賊船、ロウの指揮する「ファンシー」号とハリスの指揮する「レンジャー」号に艦首を向けた。二隻の海賊船は海賊旗を掲げ、停船命令の砲を発射した。一味がマスケット銃の射程距離にまで近づくと、「グレイハウンド」号はメインスルを張って風上に詰め、海賊船を風下にして火蓋を切った。海賊は相手が軍艦とわかると、艦尾の方向にじりじりと離れ、「グレイハウンド」号はそれを追った。二隻の海賊船は退避しながらもしきりに砲撃し、交戦は二時間に及んだ。風はほとんどなかった。一味はオールに頼って軍艦との距離を開けた。「グレイハウンド」号は、いったん砲撃を中止し、乗組員全員がオールに付いて追撃した。午後三時、軍艦は一味に追い付いた。海賊船は軍艦を迎え撃つべく船首を風上に詰めた。たちまち以前にも増して激しい砲撃戦が始まった。そのうち、「レンジャー」号のメインヤードが撃ち落とされた。「グレイハウンド」号は航海不能となった敵船にさらに近づいた。このときロウは、僚船を犠牲にして離脱するのが得策と考えた。ハリスは、海賊船隊の指揮官であるロウのこの卑怯な裏切り行為を目の前にし、また乗組員もすでに十人乃至十二人が死んだり傷ついたりしていることから、もはや脱出の見込みもなく投降した。

　ロウの行為はまことに意外であった。なぜなら、彼は勇気と豪胆さで聞えていたのであり、そのため部下からも恐れられていたからである。しかし、この交戦でのふるまいは、彼が卑劣で臆病な小悪党であることを示した。ロウのスループ船が、ハリスの船の半分ほどでも果敢に戦っていたら（そして彼らはそうすることを厳粛に誓っていた）、軍艦は一味を打ち破ることはできなかったはずだと私は思うのである。

「グレイハウンド」号は捕らえた海賊どもをロードアイランドへ連行した。悪名高いロウも一緒であれば、勝利はなお完璧だったであろうが、それにしても軍艦を迎えたプロヴィデンスの街の人びとの喜びは大変なものだった。捕虜らは、七月十日、ニューポートで裁判が開かれるまで牢に繋がれ、厳重な監視の下におかれた。裁判は三日にわたって行なわれた。法廷を構成したのは次の人びとである。





ウィリアム・ダマー　マサチューセッツ州副総督、裁判長

ナサニエル・ペイン

アディントン・ディヴォンポート

トマス・フィッチ

スペンサー・フィップス

ジョン・レックメアー　（主任検事）

ジョン・ヴァランタイン　（主任弁護士）

サミュエル・クランストン、ロード・アイランド総督

ジョン・メンジーズ　（海事裁判判事）

リチャード・ワード　（書記）

ジャーリール・グリントン　（未決監長）





　法廷は、ロバート・オークミュータ氏を以下の捕虜らの法律顧問に任命した。





氏　名／年齢／出身地

チャールズ・ハリス（船長）／二十五／ロンドン

ウィリアム・ブラッズ／二十八／ロードアイランド

ダニエル・ハイド／二十三／ヴァージニア

トマス・ポウェルジェニア／二十一／コネチカット

スティーヴン・マンドン／二十／ロンドン

トマス・ヒュジット／三十／ロンドン

ウィリアム・リード／三十五／アイルランド、ロンドンデリー

ピーター・ニーヴズ／三十二／デヴォン、エグゼター

ジェームズ・ブリンクリー／二十八／イングランド、サフォーク

ジョセフ・サウンド／二十八／ウェストミンスター

ウィリアム・シャトフィールド／四十／イングランド、ランカスター

エドワード・イートン／三十八／ウェールズ、レクサム

ジョン・ブラウン／二十九／ダーハム

エドワード・ローソン／二十／マン島

オーウェン・ライス／二十七／サウス・ウェールズ

ジョン・トムキンス／二十三／グロウセスターシャー

ジョン・フィッツジェラルド／二十一／アイルランド・リマリック

アブラハム・レイシー／二十一／デヴォンシャー

トマス・リニスター／二十一／ランカシャー

フランシス・レイトン／三十九／ニューヨーク

ジョン・ウォーターズ（操舵手）／三十五／デヴォン

ウィリアム・ジョンズ／二十八／ロンドン

チャールズ・チャーチ／二十一／ウェストミンスター

トマス・ハーゼル／五十／――

ジョン・ブライト／二十五／――





　以上二十五名は有罪と決定し、一七二三年七月十九日、ロードアイランドのニューポート近くで処刑された。





ジョン・ブラウン／十七／リヴァプール

パトリック・カニンガム／二十五／――





　これら二名も有罪となったが、一年間の執行猶予を与えられ、後に国王の赦免を得た。





ジョン・ウィルソン／二十三／ニュー・ロンドン

ヘンリー・バーンズ／二十二／バルバドス

トマス・ジョンズ／十七／ウェールズ、フラー

ジョゼフ・スウィッツァー／二十四／ニューイングランド、ボストン

トマス・マムパー（インディアン）／／ニューイングランド

ジョン・ヒンチャー（船医）／／スコットランド、エディンバラ

ジョン・フレッチャー／十七／――

トマス・チャイルド／十五／――





　以上八名は無罪となった。





　この海賊の壊滅は、一般公衆に対する著しい貢献であり、特にニューヨークの市民に対する寄与は大きかった。そこでピーター・ソルガード艦長に相当の謝礼をするべきであるということになった。こうして議会は彼に、ニューヨークの名誉市民権を贈ることを決定した。以下に議会の決議文と、その前文を掲げておく。





一七二三年七月二十五日ニューヨーク市市役所において開催された市議会決議文



ニューヨーク市長　ロバート・ウォルター



本議会は、国王陛下の軍艦「グレイハウンド」号艦長ピーター・ソルガード氏の、国王陛下の善良な臣民、特に本植民地住民に対する偉大な功績に鑑み、以下のごとく議決した。すなわち、同艦長は、本植民地沿岸を任務に従い航行中に情報を得、名うての非道なる海賊ロウが率いる二隻の海賊スループ船を追跡し、これらと交戦し、激しい抵抗を受けた後、一隻を拿捕した。他の一隻には甚大な損害を与えたが、これは夜陰に乗じて逃走した。捕らえた海賊のうち二十六人は最近ロードアイランドで処刑されたが、これは本市並びに本植民地に大いなる安堵をもたらしたばかりか、財政的にも大きな負担を軽減した。従って、本議会は満場一致をもって、ソルガード艦長に対し、同艦長の偉大な功績並びにその人格に対するわれわれの敬意のしるしとしてニューヨーク市名誉市民の資格を贈ることにし、名誉市民の章を金製の箱に収めて贈呈することに決定した。レコーダー氏とビックレー氏が同艦長の公衆への奉仕と人類への貢献に対する当市の感謝を記した当該名誉市民の資格証書を起草し、オールダーマン・キップおよびオールダーマン・クルーガーが金製の箱を作成する。箱の側面にはニューヨーク市の紋章を、もう一方の側面には戦闘の有様を浮き彫りにして、Questos humani generos hostes debellare superbum（人類の敵を意気高く追撃し掃討せり）, 10 junii, 1723 の標語を入れる。市の書記が当該名誉市民の証を、羊皮紙に美しい書体で記す。かくしてニューヨーク市は謹んで同艦長に名誉市民の資格を贈るものである。



議会の命により



書記　ウィリアム・シャーパス





ピーター・ソルガード艦長の名誉市民証前文



ニューヨーク市長ロバート・ウォルター並びにニューヨーク市議会議員一同

市民各位。現在本植民地を基地としている国王陛下の軍艦「グレイハウンド」号のピーター・ソルガード艦長は、航海任務中、過去二年間にわたり国王陛下の臣民に対し掠奪、殺人その他蛮行の限りを尽した名うての海賊ロウが率いる強力な二隻の海賊船が最近本沿岸に接近したという情報を得、直ちに艦の総力をあげてこれら二隻の海賊船を追跡し、頑強に抵抗する敵を打ち破り、一隻を捕らえ残る一隻を本沿岸から敗走せしめた。この行為は、それ自体輝かしいものであるが、同時にそれが公衆にもたらす恩恵や利益という点から見ても燦たるものである。すなわち海賊の殱滅により、本植民地並びに隣接植民地の交易と商業の安全と自由をもたらしたのである。人類の敵たる海賊に対するかかる偉大な勝利は、善良なる人民すべての称賛を受けるものであるが、特に本植民地市民は、同艦長の功績を称えたく思うものである。そこで、ニューヨーク市議会議員一同は、ニューヨーク市民を代表して市議会議事堂に会し、高貴なる任務をまっとうしたピーター・ソルガード艦長の功労に報いるため、同艦長にニューヨーク市名誉市民の資格を贈ることに決定した。ピーター・ソルガード艦長は、ニューヨーク市の自由なる市民の資格を有し、当市の提供する利益、恩典、特権、市民権その他一切の自由と義務免除を享受できるものとする。これを証し、ニューヨーク市長は以下に署名およびニューヨーク市章の捺印をした。



一七二三年、大英帝国、フランス及びアイルランドの王であらせられるジョージ陛下治世九年七月二十五日

市長　ロバート・ウォルター



書記　ウィリアム・シャーパス





　さて、危ういところを脱出したロウ一味はどうなったであろうか。この猶予期間に彼らは自分たちの犯した邪で身の毛のよだつような数々の罪を反省し、後悔して神の救いを求めたのではないかと考える読者もいることだろう。しかし、そうではなかった。彼らは善なる心をすっかり失っていて、このようなまたとない救いを感謝する気持を起こすような、ひとかけらの良心も持ち合わせなかった。それどころか「グレイハウンド」号の艦長に対するありとあらゆる呪いの言葉を吐き、彼から受けた侮辱の腹癒せに、今後出合った船はことごとく復讐の対象にしてやると誓った。

　軍艦を逃れた一味の最初の餌食になったのは、ナンタケットに所属する小型捕鯨スループ船だった。この船は沖合八十マイルの場所で一味の手に落ちた。船長の名前はネイザン・スキッフと言い、小気味よい若者だった。海賊は彼を裸にして鞭で打ちながら甲板中を引き回した。その後彼の耳を切り落としてから頭に止めの一発を撃ち込んだ。捕鯨船は沈めてしまった。残った乗組員には、コンパスと少量の水とビスケットを持たせ、船のボートに乗せて海に放置した。しかし天候が良かったので彼らは幸運にもナンタケットに着くことができた。

　一味に掴まったスループ船から程遠くないところにもう一隻の捕鯨船がいた。そしてこのできごとを認めると、やはり近くにいた別の捕鯨船へ全速で漕いで行き、仲間の不運を知らせて気を付けるように言った。このため、この船は海賊に襲われる前に現場を離れることができたのである。数日後、ロウはブロック島沖で一隻の漁船を捕らえたが、ひどい残虐行為はせず、船長の首を切り落とすだけで満足した。しかし、ロードアイランド近くで二隻の捕鯨船を捕らえると、一人の船長の腹を切り裂き、内臓を取り出した。また、もう一人の船長の耳を切り取り、胡椒と塩をふりかけると、船長自身にそれを食えと言った。船長は言葉もなくこれに従った。ロウは他の乗組員たちも殺すつもりであったが、それを命ぜられた部下に優しい気持が起こって、命令を拒否したのである。

　ロウはニューイングランド沿岸からまっすぐニューファンドランドへ向かった。ブレトン岬の近くで二十二、三隻のフランス船を捕らえると、そのうちの一隻に二十二門の砲を積み込み、それを軍艦のように装備した。彼はこの船でニューファンドランドの港や州を荒らし回り、大小十六乃至十八隻の船を捕らえて、これらすべてを掠奪したのち打ち壊した。

　こうして、この人間とも思えぬ悪党どもは、その欲望を満足させ、普通の悪の道を行くだけでは収まらず、彼らの後楯である悪魔と同じように悪事を楽しみとし、残虐を喜びとし、魂を地獄に落としめるようなことを日常としたのである。今日まで数多くの海賊がいたが、野蛮さにおいてロウ一味に並ぶものは、イギリスの海賊のうちには他に見当らない。彼らにとって楽しみと怒りは同じようなものだった。どちらも捕虜が泣き叫び、苦しむことで満足させられるのであった。だから彼らは気分が昂じたときにも、ひどく腹を立てたときにも、同じようによく人を殺した。不幸にも一味の捕虜になったものは、身の安全を守る術がなかった。なぜなら、彼らの笑顔の中にこそ、危険が潜んでいたからである。例えば、最近一味の手に落ちたヴァージニアのグレーヴス船長の場合がそうだった。彼が海賊船にやってくると、ロウは酒をなみなみとたたえたボールを手にして彼に乾杯し、「さあ、グレーヴス船長、半分やってくれ」と言った。しかし可哀想にグレーヴスは海賊に掴まったことにすっかり気を落とし、自分は飲めないから勘弁してほしいと言った。これを聞くとロウは、即座にピストルを引き抜いて撃鉄を上げ、弾を喰うのか酒を飲むのかどちらかにしろと脅した。グレーヴスは生まれてこのかた酒を飲もうなどと思ったこともなかったのに、躊躇なく一クオートほどのポンス酒を一気に飲み干したのだった。

　一七二三年七月末、ロウは大型船「メリー・クリスマス」号を捕獲すると、その舷側にいくつかの砲門を開け、三十四門の砲を積んで海賊船に仕立てた。ロウはこの船に移り、自ら提督と称して、黒地に赤い髑髏を染めた海賊旗をメインマストに高々と揚げた。こうして再びウェスターン諸島へ向かい、九月初旬、目的の海域に到着した。この海域で一味が最初に遭遇したのは、以前エリアス・ワイルド船長が指揮していたイギリス籍のスループ船で、後にポルトガルの貴族に買い取られ改装された船だった。乗組員はイギリス人とポルトガル人が混じっていた。ロウはポルトガル人の乗組員を全員縛り首にした。これは前にも話したが、彼がヴェルデ岬諸島の島に滞在していたとき、ウェスターン諸島に派遣したスループ船の仲間がポルトガル人に捕らえられたことに対する仕返しだった。またイギリス人乗組員らはボートに乗せ、船には火を放った。

　セントミカエル島に到着すると、一味はボートに分乗して、泊地にいた備砲十四門のロンドン船を捕らえた。この船はトンプソン船長が指揮していたが、彼は一年前にも「ローズ」号に乗っていて、ロウに捕らえられたことがあった。ボートの手勢は船の乗員より少なかった。だからトンプソン船長は抗戦するつもりだったが、部下が臆病だったかあるいは海賊になるつもりだったかして、戦うのを拒んだ。船長はやむなく降伏した。海賊船へ連行されると、ロウ提督の海賊旗に抵抗しようとしたというだけの理由で、両耳を付け根から切り取られてしまった。海賊は彼にボートを一隻与え、船は焼き払ってしまった。

　次に一味の手に落ちたのはポルトガルのバーク船だった。この船の乗組員に対する処遇は、いつもよりは寛大なものだった。海賊どもは気まぐれにカトラスを振り回して彼らを斬りつけただけだった。そして彼らをボートに乗せると船には火を放った。ボートが船の舷側を離れるとき、一人の海賊が砲門のところで銀製のジョッキを手に酒を飲んでいた。恐らく彼は無理やり仲間に連れ込まれた男だったのだろう。この機に乗じて一味から脱出しようと、砲門から、離れてゆくボートに身を投じ、ポルトガル人乗組員の中に隠れた。彼は発見されるのを恐れ、ボートの底に身を潜めていたが、砲門のところへジョッキを置いてきたことを思い出した。これが後に役立つかも知れないと考え、彼は再び船に戻って、ジョッキを手にすると、無事ボートに帰ったのである。もし彼が失敗していたら、ボートの乗組員全員ではないにせよ、彼自身は、その命を代償にしなければならなかったに違いない。この男の名前はリチャード・ハインズと言った。

　ロウ一味はカナリア諸島、ヴェルデ岬諸島を経由してギニア海岸に到着した。シエラレオネでハント船長の「デライト」号に遭遇した。この船は十二門の大砲を備え、小型の軍艦のようだった。ロウはこれが自分たちの目的に適っていると考え、備砲を十六門にして六十人の仲間を乗り組ませ、操舵手のスプリッグスという男を船長に任じた。彼は自分の船を与えられると、二日後、提督のもとを去り、自らの海賊航海をするため西インド諸島へ向かった。しかし彼とはいったんここで別れよう。

　一月末、ロウはスティーヴンソン船長の「スクイレル」号を捕らえたが、その後の彼の消息はわからない。私が現在これを書いている時点で、彼に関する情報は何も伝わっていないのである。しかし私は、彼がブラジル行きを話していたと聞いたことがある。もしそうなら、いずれ何か伝わってくるだろう。もちろん、ロウと乗組員全員が海の藻屑となったという知らせがあれば、それが一番よいのである。

〔「スクイレル」号を捕らえた直後、ロウはホンジュラス湾のある島に、乗組員によって置き去りにされた。彼は島を脱出し、一隻のボートを手に入れるとそれでいくつかの海賊行為を働いた。しかし彼があまりに残酷なため、部下の反感を買い、ボートに乗せられ、食糧を与えられずに海に放置された。翌日、彼は、マルティニク島からきたフランスの小舟に救出された。そして、結局、縛り首になったのである。〕



（下巻につづく）





A General History of the Robberies and Murders

of the most notorious Pyrates,

and also their Policies, Discipline and Government,

From their first Rise and Settlement

in the island of Providence,

in 1717, to the Present Year 1724.





by Captain Charles Johnson





本書は『イギリス海賊史』上巻として、１９８３年９月にリブロポートから刊行された





『海賊列伝（上）　歴史を駆け抜けた海の冒険者たち』二〇一二年二月　中公文庫





発行　二〇一二年六月一日

海賊列伝（上）　歴史を駆け抜けた海の冒険者たち

著　者　チャールズ・ジョンソン

訳　者　朝比奈　一郎

発行者　小 林　敬 和

発行所　中央公論新社

〒104-8320

東京都中央区京橋２‐８‐７

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